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肉体年齢? 精神年齢? なにをほざかしい。アンチアイジング? なんだいそれ、若作りのシワのばしのことかい? 馬鹿だね、大切なのは心の年齢だろ。清新で若い心が、人生を豊かにするのさ。
20歳のはじける皮膚、紅の唇、しなやかな手足が、そんなにうらやましいのかい。シワだらけの顔だって、白髪だって、老眼でも、強い意志、豊かな想像力があれば、たとえ80歳でも心は青春なんだ。
心は年齢を重ねても、老いもしなければ、成熟もしない。心が老いるのは、理想を失い、情熱を失い、冒険心を失った時なんだ。心を若くするには、信念、自信、希望があればいいのさ。もちろんそれがなくても、・・・よく分からないが、朝のこない夜もなければ、春のこない冬もないんだぜ。・・・理屈じゃないんだ、人生は。
少子高齢化? 老後不安? 笑わしちゃいけない。悩んでいる暇なんかないんだ。心に灯を持ち、歌を口ずさみ、興味と探究心を持てば、心はいつも青春なんだ。こちとら山形生まれの江戸っ子だい、宵越しの金なんか興味ないね。
おい、おい、死ぬ前に死んだ顔してどうするんだい。見た目を飾っても、活きのよさは心意気しだいだぜ。地震でも、オレオレ詐欺でも、何でもかかってこい、屁で飛ばしてやる。さあ、何でもありの人生だ、楽しくやろうぜ。
インターネットのyahooを知らない人はいないだろうが、その社名の由来を知る人は少ないであろう。yahooは「ガリヴァー旅行記」に登場する、人間に似た愚かな野蛮人のことである。Yahooの開発者がならず者と自称してこの名前をつけた。
Googleは社名を10の100乗を意味する「googol(グーゴル)」にするはずだったが、社名登録時にスペルを間違えたのである。Googleは膨大な情報を扱う検索会社の代名詞になっているが、最初の情報が間違っていたのである。
日本の会社はマツモトキヨシが典型例であるように、多くは創始者の名前に由来する。その中でも石橋正三郎を英語読みにしたブリッジ(橋)ストーン(石)は有名である。また旧社名に由来するものとして、エーザイ(日本衛材)、コクヨ(国誉)、キッセイ薬品(橘生薬品)、イトーヨーカドー (伊藤羊華堂)、SEIKO(精工舎)などがある。
日本の社名で面白いのは、飲料水メーカーのサンガリアで、この社名は奥の細道の「国敗れて山河あり」からの引用で、「国破れて サンガリア」「いち に サンガリア」のフレーズが宣伝に使われている。
キヤノンは観音菩薩のKWANON(カンノン)からCANONになったが、CANONは英語では標準、聖書正典、教会法を意味する言葉である。その他、シャチハタは名古屋城のシャチホコと旗から、シャープはシャープペンシルのヒットから、ロッテは「若きウェルテルの悩み」の主人公の名前からである。ヤクルトはエスペラント語でヨーグルトを意味し、花王は顔の石けんから(顔王)、パイロット(水先案内人)万年筆はセーラー万年筆(水夫)に対抗しての命名である。
日本は物作りの国で、100年以上続いている企業が10万社以上ある。もちろん100年以上続いている企業はアメリカや韓国ではゼロ、ヨーロッパでさえ30社にすぎない。理系の大学生が、目先の利益から、外資系の金融会社に就職する風潮があるが、そもそも金融商品が富をもたらすはずはない。富をもたらすのは人間の知性と労働だけで、金融商品はただの強欲ゲーム、博打にすぎない。
日本は技術伝承の国で、多くの画期的製品を作ってきた。伝統ある日本の企業に期待するとともに、歴史の浅い政府にお願いしたいのは、優秀な中小企業の邪魔をしないでほしいこと、伝統ある日本の医療を壊さないでほしいことである。
日本には八百万の神がいて、草木、山、動物などの自然や尊敬する人物が神となり、天照大神、天皇陛下とともに平和共存している。
この日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代で、蘇我稲目が仏教を支持し、物部尾輿と中臣鎌子が反対した。蘇我稲目は寺を建立して仏像を拝んだが、物部尾輿らは寺を焼き、仏像を捨てた。
この神仏闘争は次世代に持ち越され、仏教派の聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして仏教が国教となった。
聖徳太子は摂津に四天王寺を、蘇我馬子は法興寺を、天武天皇は大官大寺(大安寺)を、持統天皇は薬師寺を建立し、このように天皇家が寺を建てるようになった。
京都東山に泉涌寺がある。この泉涌寺には天智天皇から昭和天皇までの歴代天皇の位牌が置いてある。つまり天皇、皇族は約1200年にわたって仏教徒だったのである。かつての天皇は、崩御すると「院」となるが、この院は戒名である。
江戸時代最後の天皇である孝明天皇(明治天皇の父親)の葬儀は僧侶によって行なわれ、泉湧寺に埋葬された。明治4年まで宮中には「仏壇」があり、仏像が安置され、位牌が祭られていた。それを外国に追いつこうとする明治政府が、日本人の精神的統一として天皇を現人神にして、神道国家にしたのである。「神仏分離」と「廃仏毀釈」によって、宮中の「仏壇」は泉湧寺に移され、泉湧寺の天皇陵や皇族の墓所が宮内省に移管された。
ちなみに出雲大社は天皇と対立していた地方豪族の神社で、伊勢神宮は明治政府の都合によって天皇家の祖先を祭った神社と創作されたのである。歴代天皇のなかで初めて伊勢神宮へ参拝したのが明治天皇であったことからも納得できる事実である。
天皇、皇族は天照大神から現在に至るまで神道と思い込んでいる歴史家が多いが、日本人と仏教、天皇と仏教の歴史的経緯を知ることは大切である。私たちがブータン国王に親しみを感じるのも、多分、同じ仏教国だからであろう。
市役所の課長渡辺勘(志村喬)は、毎日書類の山と判子を押すだけの日々であった。市役所では形式主義がはびこり、住民の要望はたらいまわしにされていた。渡辺は30年間無欠勤の53歳の役人だったが、ある日、自分が胃ガンで余命4ヶ月であることを知る。
渡辺勘は生きる望みを見失ない、絶望と孤独に陥り、むぜび泣いた。翌日、市役所を無断欠勤すると夜の街をさまよった。そこで知り合った作家にパチンコ、キャバレー、バー、ストリップを教えてもらい、飲みなれない酒を飲み、生きる意味を求めようとしたが、ただ空しいだけであった。
「自分の人生はいったい何だったのか?」と憔悴しながら歩いていると、かつての部下の「小田切とよ」と偶然にであった。懐かしさから、小田切とよを喫茶店にさそい話してみると、自分のあだ名が「ミイラ」だったことを、あっけらかんに教えてくれた。渡辺勘は小田切の屈託のない無邪気さに魅了され、何度か遊園地で遊んだ後、小田切の新しい職場に押しかけ、「自分が胃癌」であることを告げた。
すると小田切は動揺もせず見せずに、自分がつくった人形を見せ「あなたも何か作ってみたら」といった。
「もう遅すぎる」渡辺勘はぽつりとそう言ったが、しばらくして渡辺の顔色が急に変わった。その足で、すぐに市役所に戻ると、住民が要望していた児童公園をつくるために上司にかけあった。土地の視察、測量、業者との交渉。渡辺は死にものぐるいの奮闘で、児童公園を完成させたのである。
それは小雪の舞う静かな夜であった。完成したばかりの児童公園で、渡辺勘は1人ブランコを揺らしながら、穏やかな微笑みを浮かべ「ゴンドラの唄」を口ずさんだ。翌朝になり、渡辺勘が公園で死んでいるのが発見された。
「ゴンドラの唄」吉井勇作詞、中山晋平作曲
いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ少女
いざ手をとりて 彼(か)の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを
いのち短し 恋せよ少女
波に漂(ただよ)う 舟の様(よ)に
君が柔手(やわて)を 我が肩に
ここには人目も 無いものを
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
志村喬が低い声で口ずさんだ「ゴンドラの唄」は恋愛の歌ではない。歌詞の少女(おとめ)を「自分」に置き換えれば、「明日の月日は ないものを」「今日はふたたび 来ぬものを」、まさに人生のはかなさと悲哀を歌っている。
私も志村喬が演じた渡辺課長の53歳をはるかに越えてしまっている。「どのように生きるべきなのか」、「自分のため、あるいは誰かの為に生きるのか」、「自分は生きて何をなすべきか」、難問中の難問であが、この難問に、「ゴンドラの唄」は「帰らぬ日のために、勇気を出して、元気を出して、満足を得るために前へ進め」と教えているのである。
大学医学部が舞台のベストセラー
山崎豊子が昭和38年からサンデー毎日に連載した「白い巨塔」が40年に新潮社から出版され、翌41年に映画化(大映)されると、大きな反響を呼んだ。そして44年に「続・白い巨塔」が出版され、白い巨塔は息の長いベストセラーとなった。
欲望と野心の渦巻く医学界を描いた異色のベストセラーで、大学医学部の講座制をテーマにした小説としては、白い巨塔を超える小説はないといっても過言ではない。教授争いをテーマに医学界の暗部に鋭いメスを入れた小説で、これまで350万部を売り上げた。映画化のほかテレビドラマにもなった。
◎ 主人公・財前めぐる人間模様
浪速大学第1外科における教授選、その後の医療訴訟をめぐる小説は、医学部という巨塔の裏に隠れた暗部を赤裸々に描いていた。それまで聖域とされていた医学部、ヒエラルキーのトップに立つ教授の権力、医局内の序列化、閉鎖された医局の壁と派閥化、金と名誉に揺れる医師たちの心理…、白い巨塔はこのようなドロドロとした医学部内部を見事に描いている。
主人公・財前五郎や、その友人で医師として誠実に生きようとする里見脩二を中心に、医学部の実情をダイナミックな人間模様として描いている。
財前は早くに父を亡くし、貧しい生活から援助を受け医学部に進んだ。そして資産家である婦人科開業医・財前又一の婿養子になって実力を付けてきた。浪速大学第1外科の助教授となり食道がん、胃がんの手術を得意とし、教授を差しおき財界人の手術を行い、マスコミの脚光を浴びるようになった。
第1外科教授・東貞蔵は退官を間近に控え、後任の教授を誰にするか悩んでいた。財前が後任教授になるものと周囲は評価していたが、東教授は財前のごう慢な性格を嫌い、また部下が有名になることに嫉妬(しっと)があった。東教授は母校の外科学会のボスに相談、金沢大学医学部教授・菊川昇を推薦してもらうことにした。
財前はこのことを知ると、猛烈な巻き返し運動を始める。財産家である義父は教授という名誉を娘婿に与えるため必死になる。財前は義父の財力、地元医師会とOBの後押しを受け、熾烈(しれつ)な教授選を勝ち取ろうとする。財前派は医学部長に高額な絵を送り、学会の理事への推薦や研究費の認可をちらつかせ、財前がわずかな差で教授選に勝つことになる。
財前は、教授に就任すると国際外科学会から招待を受ける。権力と名誉を手に入れ、まさに得意の絶頂にあった。そのようなとき、第1内科の里見助教授からある腹痛患者の診察を依頼される。里見助教授は財前と病理学教室で一緒に学んだ親友であった。
里見は胃カメラで異常がなかった腹痛患者を財前に依頼してきたが、財前は2枚の胃のレントゲン写真だけで噴門がんと診断した。術前検査で肺に異常な陰影があったが、それを里見助教授が指摘したにもかかわらず、財前は自らの実力を過信し、がんの肺転移を古い結核の陰影と診断してしまう。
手術は成功し、患者の治療を医局員に任せると、多忙の中でドイツの国際外科学会に行く。しかし外遊から帰ると、待っていたのは患者の死であり、患者の家族は手術後一度も診察に来なかった財前の不誠実な態度に憤慨し、裁判に訴えることになった。
里見助教授は大学での自分の立場が不利になることを承知で、患者側の証人となる。医療裁判はどちらが勝つのか予断を許さなかったが、誤診を認めない財前は証人に圧力をかけ一審では勝訴する。
財前は教授として前途に野望を持ち学術会議選挙にも当選する。しかし二審の裁判では注意義務違反で敗訴し、最高裁に上告することになる。
財前の身体は過労の中、いつしか病にむしばまれていた。財前は裁判で不利な証言をしたため近畿癌センターに左遷された里見に診断を仰いだ。孤高の学究肌の里見、典型的な権力志向である財前、この対照的な2人は対立しながらも互いの実力と友情を認めていた。
財前の病は胃がんであった、そして自分を追い出そうとした元教授の東に手術の執刀を依頼した。東が財前の手術をすることになったが、開腹すると胃がんは肝臓に転移していて手の下しようがなかった。開腹したが何もできずそのまま縫合した。財前は肝不全で意識がもうろうとなりながら死亡する。
白い巨塔は、医学部における野望、学問、友情、愛情、処世、名誉、それらを交錯させながら、医学界の知られざる事態と人間の生命の尊厳を描いていた。この小説には多くの人物が登場するが、読者はそれぞれの登場人物に感情移入できるほど見事に描かれていた。人間の感情が凝縮した小説であった。
当時の大学付属病院はまさに「白い巨塔」だった。権威主義がはびこり、教授の言うこと、医師の医療行為は絶対であった。そして一般の人々はそのような医学部の権威主義を知ってはいたが、詳しい内情は知らなかった。権威に対する反発よりも、権威に対する尊敬と恐れの方が大きかったのである。
そのため医療訴訟の件数は、戦前は12件であり、昭和20年から40年まででも9件にすぎなかった。この小説は大学病院内の権力闘争と葛藤(かっとう)だけでなく、医療訴訟という問題を取り混ぜていたことも患者の権利意識を先取りした小説といえる。
◎ 映画に加え4回もテレビドラマ化
41年の映画化では、俳優の田宮二郎が主人公を演じ観客をうならせた。テレビドラマは42年(全26回、主役・佐藤慶)、53〜54年(全31回、主役・田宮二郎)、平成2年(4時間スペシャル、主役・村上弘明)に続き、平成15〜16年(全31回、主役・唐沢寿明)には連続ドラマとして25年ぶりとなる新バージョンが放映されたことは記憶に新しい。
これらの中で特に田宮ははまり役で、白い巨塔というと田宮を連想する人が多い。その田宮は昭和53年12月28日、ドラマの最終回の放映を目前にして猟銃自殺、それまで13%だった視聴率が最終回(1月6日)には31.4%に跳ね上がった。
山崎豊子は、大正13年に大阪に生まれ、京都女専国文科を卒業、毎日新聞大阪本社に入社。当時、学芸部副部長であった井上靖の下で記者としての記事の書き方の指導を受け、勤務のかたわら小説を書き始めた。
昭和32年、昆布商人を主人公に大阪商人の哲学を描いた処女作「暖簾」を発表、翌33年には「花のれん」で直木賞を受賞した。同年、毎日新聞を退社し執筆活動に専念。その後、「女の勲章」「女系家族」「花紋」「ぽんち」など次々に作品を書き上げていった。そして白い巨塔、続・白い巨塔を書いた。
また銀行の内部から企業の熾烈(しれつ)な戦いを描いた「華麗なる一族」を書き、国際商戦を生き抜く商社マンをテーマとした「不毛地帯」、太平洋戦争中、日米2つの祖国の間で苦悩する日系二世を描いた「二つの祖国」、中国残留孤児をテーマとした「大地の子」の戦争3部作を書いた。航空業界を描いた大作「沈まぬ太陽」を発表し、平成3年に菊池寛賞を受賞している。
東ヨーロッパから中国までを制覇した元の皇帝「フビライ・ハーン」が、次に日本を侵略しようとしたのが、いわゆる元寇である。1回目が文永の役(1274)で、3万人の兵を乗せた900の船が日本を襲い、対馬、壱岐、博多の住民のほとんどが殺された。鉄砲や手榴弾を持ち、元の弓は日本の2倍の射程距離で、矢には毒がぬってあった。元軍は集団戦術で暴れ回ったが、夕方になって船に引き上げると、深夜に暴風がおき、博多湾から船は消えていた。
その翌年,5人の使者が日本に降伏を求めてきたが、鎌倉の「龍ノ口」で処刑され,この事実を知らない元は、さらに5人の使者を送ってきたが、その使者も太宰府で斬首された。
これに怒った元軍は、14万人の兵を4400艘の船に乗せ再度侵略しようとしたが、1281年7月1日夜,台風が九州をおそい、海は船の残骸と無数の遺体でうめつくされた(文永の役)。
元寇で「神風が常に日本を守ってくれる」とする考えが定着したが、この神風は元寇だけではなかった。
1853年、浦賀沖に来航した四隻のペリー艦隊が、明治維新のきっかけをつくった。アメリカの目的は日本の植民地化であったが、1861年に南北戦争が勃発し、それどころではなくなった。戊辰戦争が始まったのは南北戦争から2年半後のことである。(第2の神風)
日露戦争で、東洋のサルが軍事大国ロシアに勝利し、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。ロシアにはまだ日本と戦える余力があった。余力があったのに日本と講和したのは、民衆の生活苦から血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱などが誘発され、ロシア革命が起きたからである。(第3の神風)
太平洋戦争が終結し、日本経済は再起不能とされたが、朝鮮戦争(昭和25−30年)が日本経済を奇跡的に押し上げ、ベトナム戦争(昭和35−50年)がその景気を持続させた。(第4の神風)
では今後、日本に神風は吹くだろうか。多分、情報戦略、外交戦略を知らない日本には、内部崩壊の風は吹いても、神風は吹かないであろう。
もともと神風は偶然の産物なのだから、神風に期待してはいけないのである。しかし、神風に期待しなくても暗くなることはない。日本には天皇陛下もいらしゃれば、仏さんもいる。楽しそうに騒いでいれば、岩戸に隠れた天照大神が顔をだし、日本をパーと明るくしてくれるだろう。
外を歩けば、八百万の神が、そよ風になって「いつも君たちを守っているよ」ってささやいて下さっているじゃないか。何が起きても、国際的にほされても「ええじゃないか、ええじゃないか」で吹き飛ばせばよい。
過去、現在、未来へと、人間の歴史は大河のごとく悠々と流れているが、名案のない乱世凋落の現在、この大河はどこへ向かい、どこへ行こうとしているのだろうか。人間から非人間へ、進化から退化へ、あるいは滅亡への分岐点を私たちは歩んでいるのかもしれない。情報化時代のなかで、私たちは雑多な情報に流され、騒々しい正論に溺れそうになっている。振り返れば、戦後の科学や医学は加速度的に進歩したが、その速さに振り回され、社会や医療のあり方を考える余裕がなかった。
日本の皆保険制度は世界的に高く評価されているが、日本の医療は不満に溢れている。この矛盾した現象は、医学の進歩に対応すべき医療費増を無視し、助け合いの精神までもが破綻したことによる。少子高齢化という社会構造のなかで、40年間で平均寿命が10歳以上延びているのに、それに相応する負担なしに満足できる医療などとても無理である。医療費は天から降ってくるのでも、地から湧いてくるものでもない。医療の質の向上と安全性を求め、それでいて医療費負担を嫌がっては、無いものねだりの子供と同じである。
かつての医師優遇税制や薬価差益が医師の生活を豊かにしたことは事実である。しかし時代は変わったのに、医師は金持ちとの国民的イメージが化石のように残されたまま、患者の権利意識の高まりが医師のやる気を削いでいる。厚労省は薬価差益を技術料に振り替えると医師を騙し、巧妙に診療報酬点数であやつり、通達という武器を用い、日本の医療を医師主導から厚労省主導にかえた。政治家は誠実そうに政策詐欺を繰り返し、官僚は意味不明の言葉を並べ、それを阻止すべきマスコミは正義ぶった世論を誘導し、医療界の大御所は単なる茶坊主になっている。そしてお人好しの医師は、医療事故という地雷を恐れ、過重労働を強いられ、クレーマーを恐れながら、医を仁術から算術に変えても成り立たない病院経営に悩まされている。
卑弥呼の時代から今日に至るまで、日本を大きく変えた重大事件を誰でも思い起こすことができる。教科書の目次を見れば、大化の改新、源平の戦い、鎌倉幕府、戦国時代、関ヶ原の戦い、江戸時代、明治維新、日露戦争、第二次世界大戦などが列挙されている。しかし民衆の心と生活に視点を置くと、民衆は常に貧しく、常に苦しく、民衆の支配層が変わっただけである。明治時代の富国強兵から終戦まで、生活は大きく変わったが、それでも一部の裕福層や特権階級が新たに生まれただけで、大多数を占める民衆の生活は変わらず、若者は徴兵され、冷害になれば娘は身売りに出されていた。歴史上の人物、偉人の存在は大きいが、民衆生活への影響はほとんどなかった。
民衆の生活が変わったのは戦後のことで、GHQの政策、民主主義、団塊の世代、高度経済成長を経て、大衆の生活が変わった。大衆は国家の主役となり、大衆民主主義が日本の方向性を変えるほどになっている。
終戦から平成までの40数年間、大衆の目は輝き、心には夢があり、日本は目覚ましい発展を遂げた。しかし、高度経済成長に浮かれているうちに、いつしか下降線を辿り、老後の心配、子供への心配、いわゆる将来不安に苛まれるようになった。平成元年に生まれた子供たちは成人になり、団塊の世代も医療や介護の問題に直面している。私たちの責任は、先輩たちが築いた過去を土台に、これまでの遺産を次の世代に継承することなのに、最近では、負の遺産を次世代に負わせようとする流れを感じてしまう。このままでは国民生活はさらに低下し、狭い日本には、貧困難民、医療難民、介護難民があふれることになるであろう。
明治から19年目の昭和6年、「降る雪や 明治は遠く なりにけり」と中村草田男(くさたお)が名句を詠んだ。そして振り返れば、昭和天皇が即位してから終戦までが同じ19年、終戦から19年目に東京オリンピックが開催され、平成の時代はすでに22年が経過している。終戦から20年後の昭和40年は、高度経済成長の最盛期であった。しかし歴史を逆に辿れば、今から20年前にバブルがはじけ、それ以降の経済はジリ貧である。終戦から20年後の昭和40年、テレビで軍歌を歌う者はいなかったが、今から20年前、30年前の流行歌が何度もテレビから聞こえてくる。同じ20年の年月であっても、一方では消失し、一方では昨日のように懐かしがっているが、これが歴史である。
社会構造はグローバル化の荒波に飲み込まれ、政策や制度が立ち後れ、大衆民主主義は機能不全となり、政治は迷走し、融通のきかない法律、耳に心地よい理屈、本音を忘れた建て前論が私たちを縛り、生活のみならず人間性までをも堕落させようとしている。このような日本を誰がどのように建て直すのであろうか。
医師は患者を治すこと、家庭や教師は子供を育てること、技術者は新たな技術を開発すること、そして国を正すのは、それは政治家ではなく、国民全体の知性であろう。国民の知性が真の民主主義国家をつくり、国民の知恵の総和が文化をつくり、国を治そうとする国民全体の気概が日本をよくするのである。「降る雪や 昭和は遠く なりにけり」、この句を笑顔の中で詠めるようになりたい。