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 生物がこの世に生を受けて数億年、人類が地球上に誕生して150万年、生きとし生きる者の原則は弱肉強食である。この神から授かった弱肉強食の本能は、人間を唯一の例外として地球の歴史とともに続いてきた。そして知恵ある人間だけが、この弱肉強食の原則に手を加えたが、その歴史はたかだかこの数十年のことである。

 国王が民衆を搾取する、資本家が労働者を搾取する、地主が小作人を搾取する。この搾取という悪道パターンが歴史の反動を生み、群衆の喝采とともに社会主義国家が誕生した。そして気がつけば、平等主義に毒された民衆の堕落から、知識人が笛吹けど社会主義は踊らず、ついに崩壊した。いっぽう資本主義の日本は、旧ソ連、中国以上の平等社会を達成している。

 日本の政治は政党名が何であれ、強者が弱者を助ける政策になっている。この理由は、富の再分配という国家の仕事が、数の上で優位に立つ弱者の人気取りになっているからである。さらに弱者援助を美徳とする美意識を持っているからである。

 この美徳は弱肉強食の本能に反するが、これもまた神から授かった人間の本性といえる。しかしこの本性は「強者の善意と弱者の感謝」という美意識が根底にある場合にのみ成立する本性であって、この気持ちがなければ、生物の道ばかりではなく、人間の道をも踏みはずすことになる。

 最近、世の中が住み難いと感じるようになった。これは神から与えられた弱肉強食の本能が逆転し、人間の美意識から発生した弱者救済の政策が、醜悪な姿を晒けだすようになったからである。弱者は助けを当然として感謝を忘れ、補填のみを偉そうに主張する。強者は弱者権力に金銭を奪われ、金持ち喧嘩せずの諦めの心境になっている。

 努力した者が努力しない者に搾取され、稼いだ者が稼ぎの悪い者にたかられる。富の分配が、上から下への自然な流れであれば文句は生じない。しかし下から上が無理矢理強奪される世の中になったのである。弱者と強者の立場が仮面を被ったまま逆転している。

 強者の税金で支えられる多数派の弱者が、感謝を忘れ、権利のみを主張するようなり、社会の歯車がおかしくなった。これは弱者の徳が金銭の優遇によって麻痺したためである。

 かつて姥捨て山の露と消えていった老人は、観劇や観光地を元気に独占し、貯金高はどの世代よりも多い。子供は過保護に甘え、学校では恩師の影を踏みながら遊んでいる。

 このような現象は、世間や政治家が弱者をおだて過ぎたせいである。人間はおだてられると堕落するのである。汗をかかない金銭の供与は人間をダメにする。

 人間は人間が作った浅知恵により、弱者の堕落と、強者のやる気喪失を生むことになった。人間を平等とする妄想が、人間の脳をアルコールのごとく心地よくマヒさせ、ついには日本人を廃人にしようとしている。弱者にとって必要なのは自立する精神であり、その障害になるのは相手への依存心である。強者にとって必要なのは差し伸べる暖かい手であって、搾取される富ではない。

 医療においては、医者は強者、患者は弱者のパターンが確立されている。この先入観が医師と患者の信頼関係を時におかしくする。まれなことではあるが、自分を弱者であると威張る患者が目立つようになった。そして弱者を優しくするのが当然であると、度を超した要求をしてくる。

 これほどの情報化時代に、「医師が病気に対し無力」であると宣伝されず、逆に何でも治せるスーパーマンと思われている。そして、スーパーマンが、なぜ可哀想な自分を助けないのかと患者は食い下がる。これは風邪だから我慢しなさいと言えば、非人道的医師のレッテルを貼るのである。病気を責めずに医師を責める風潮が起きている。病気が治らないのを医者のせいと非難するのである。

 医療はサービス業との宣伝に乗せられ、患者は「何々さんから何々様」へと呼び名が変わり、医師がクスリ屋からおだてられて馬鹿になったように、患者も周囲からおだてられ堕落している。自分のことは自分で守るという病気の基本を忘れ、不都合のみを医療に押しつけてくる。

 自分の不都合を他人のせいにするのは、国民全体が人間としての責任と自立を忘れ、つねに他人をあてにするクセがついているからである。

 医師が患者のためにつくすのは当然であるが、この医療奉仕に対し感謝の気持がなければ、医療側のやる気が喪失しても不思議ではない。

 人間が生物の持つ弱肉強食の本能を変えたのは、人間の知恵と美徳によってである。そしてそれを成り立たせている「強者の善意と弱者の感謝」を、今の日本人は忘れているように思える。

 

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2012.02.12 00:36 |  診療  |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 2

情報医原病と健康狂想曲

 日本には仏教、神道、キリスト教など様々な宗教があり、公称信者を合計すれば2億1500万人に達する。このように日本の宗教人口は日本の総人口を優に上回っている。一方、政治集会が開催されると、主催者が発表する参加人数と警察が発表する人数には大きな隔たりがみられる。
 前者は教義に反するウソは絶対にダメとしている宗教団体、後者は国民への背信行為であるウソは打倒すべきと訴えている政治団体である。

 このように正義を唱える人たちであっても、自分の都合の良い方向へ事実を曲げているのである。そしてその結果、誰も宗教や政治を信じなくなった。また観客がパラパラしかないスポーツ競技なのに、国民の多くが興奮して見てるような、テレビの中継のアナウンサーの興奮にもしらけてしまう。

 医学においても同様である。真面目な顔をしてウソを唱える者がいる。ウイルス学者はインフルエンザの大流行で数100万人が死亡すると警告している。脂肪学者はコレステロールの増加により心筋梗塞が急増していると主張する。

 しかし、彼らの話の一部分は正しくても、声を大にして言うほどの正論ではない。インフルエンザの死亡者数は点滴がなかった大昔のデータを現在に当てはめただけである。日本人のコレステロール値はすでに欧米並みとなったが、年齢を補正した死亡統計によると心筋梗塞は横ばいかやや上昇程度にすぎない。彼らの宣伝で急増したのは、週刊誌のインフルエンザの記事と高脂血症治療薬3000億円/年の売り上げだけである。

 医学にも流行りすたりがある。C型肝炎のインターフェロン療法、胃潰瘍のヘリコバクターピロリー、エイズ、狂牛病、慢性疲労症候群、薬剤耐性結核菌、いずれも欧米からの輸入品であるが、輸入品が姿を見せるたびに黒船騒動となる。そして騒動を煽っているのは常にその分野の専門家である。

 物の数にも値しない有意差などの統計値を振り回し、騒ぐだけ騒いでおいて、結果として国民に不安と誤解を撒き散らしている。

 病気を啓蒙すること、また自分の考えを述べることは正しい行為である。しかし1の価値のものを10と過大に表現するから混乱が生じる。我田引水の悲しさであるが、彼らはそれを知ってか知らずか粉飾するから、「自分の存在や利益のために病気を利用している」と陰口を言われるのである。

 そして、目立ちたい気持ちが度を越すと、狼少年のごとくになる。さらに、それは狼少年だけでなく、医師全体がそのような目で見られ信用を失うことになる。

 医師も科学者の端くれならば、1の価値の内容は1の範囲内で主張すべきである。もしマスコミが誇張して彎曲するならば、マスコミに喋らないことである。何も喋らない方が、むしろ国民のためになるであろう。

 秦の始皇帝が不死のクスリを求めたように、国民の誰もが健康を望み、健康のための情報に飢えている。街の図書館へ行けば多くの医学関係の本が棚に並び、テレビの健康相談では愚にもつかない健康話題で花盛りである。このように、病気に対する一般人の知的欲求は非常に強いが、医師が供給する医学情報と一般人が求める医療情報には常に大きな食い違いがあるので、いつも誤解を生むことになる。

 これが学問的な興味だけであれば問題はない。また日本人の平均寿命が延びたのは事実であっても、それが健康情報によるものではない。しかし、一般人は医学情報に過度の期待をもち、それを自分の健康に還元しようとするので混乱が生じることになる。

 健康にとって大切なことは昔から変わっていない。基本は食事制限、適度な運動、禁酒禁煙、摂生、まじめな医師の指導を守り、車に気をつけることである。それ以外は何を真面目にやったとしても、運命の支配から逃れることはできない。この分かりきったことを医師が強く言わないから、一般人は自分に都合の良い楽な健康法を探そうとする。 

 タバコを吸いながらビタミン剤をのんだり、お菓子を食べながらダイエットの本を読んだり、栄養ドリンクを飲みながら徹夜をしたり、酒を飲みながら肝臓の薬をのんだり、このようなちぐはぐな行動をとる。彼らは医学情報の内容と価値を判断できず、あれもダメ、これもダメ、あれはヨイ、これはヨイ、のヨヨイのヨイと健康食品に走り、禁煙も出来ないでいる。まるで健康狂想曲である。1人ひとりが秦の始皇帝のように健康と不死のクスリを求めようとしている。

 健康の指揮者となるべき医師は、本来からの健康法を憎まれるほど繰り返し言うべきである。しかし現実には、それを強く言っても患者に嫌われるだけで収入にならないので、アリバイづくりで「お酒は控えて下さい」などと弱々しく言うだけとなる。

 医師と患者の信頼関係が徐々に崩壊しつつあるが、まだまだ多くの国民は医師を信頼している。信頼があるから医療行為が成り立っている。しかし医師の仲間による羊頭狗肉が繰り返されれば医師への信頼が崩れてゆくことになる。そしてその時に本当の医療危機がやってくるであろう。

 この兆候は妙な形ですでに表れている。現在、病院の多くは赤字であるが、病院の経営が苦しいといくら訴えても国民が相手にしないのは、医師の言葉を半信半疑で聞く癖がついているからである。

 患者との信頼関係を保つためには、また医師の発言力を強めるためには、医師はウソをつかない正直な人種であることを国民の心に刷り込ませる必要がある。もちろん医師一人ひとりの誠実な努力によってである。

 まじめな医師が、素直な患者のために行う医療行為が平均寿命を高めたのに、無知なる者の弱みにつけ入る情報医原病が国民を蝕んでいる。私たちにとって痛手なのは、この情報医原病に荷担している医師が医師全体への信頼性を低下させることである。この情報医原病をつくらないことも、さらに、これを正すことも医師の仕事のひとつである。

 国民の健康は医師ひとり一人の努力、薬剤の進歩、医療の進歩によるものなのに、白衣を着た医師が、愚にもつかない健康法を述べるテレビ番組ほど、腹立つものはない。

 

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 職人という言葉は、気難しい頑固者、寡黙な正直者、実直で昔気質、このような形容詞を連想させる。また古き良き日本の父親を想像させる言葉でもある。

 この職人の職人たるゆえんは、仕事に対する絶対的な自信と誇りであり、そしてシロウトが仕事に口出しすることを極端に嫌う性格である。

 この職人が時代と共に少なくなり、最近では大工や左官の法被姿はまったく見なくなった。そして現在、数ある職業の中から職人らしい職業を探すとしたら、白衣を着た医師が最も職人に近い存在になるのではないだろうか。

 医師は医学部という職業訓練所で学び、卒業後は徒弟制度の下で修業を積み、教授を頂点としたカースト制度に身を置いていた。このように医師の世界は、長期間の勉強と丁稚奉公、まさに職人の世界といえる。

 医師を職人と考えると、さまざまな謎が解けてくる。まず医師が患者の話を聞こうとしない、患者が何かを言おうとすると怒りだす、このような非難すべき現象は、医師を職人と考えると当然となる。

 職人は独善的と非難されても、良心からの独善は許されると思い込んでいる。そしてナンダカンダの注文に頭がキレてしまうのは、この職人気質に起因するのであろう。

 職人には職人なりの理屈がある。職人の言葉を借りれば、「最近は、職人の腕を信じない連中ばかりで、説明したら同意が必要なんて、こんな野郎が相手じゃ、仕事なんかできはしねぇ、ベラボウメ」が本音となる。

 職人のおまかせコースを逆撫でするような素人の注文が職人の機嫌を損ねるのである。親方、棟梁とおだてることも、職人のやる気を出させる意味では必要である。

 次に、仕事はできても金の計算ができない。これもまた職人の特長である。もちろん商人以上にそろばん上手な医師もいるが、多くの勤務医は金銭は念頭にない。だから、お布施をもらっても身は潔白、後指は指されないと勝手に思っている。

 良い仕事を完成させ、品質を高めることを生き甲斐に、手術ひとつにしても、キズの縫い方にしても、義足を作るにしても、医師は自分の職人芸を密かな楽しみとしている。この職人の世界が、急速に変わってしまった。

 これまでは、最高の技術を用いて、患者に取って最高の幸せを与えられることを教えられてきた。そして医師はそれを忠実に守っていればよかった。雑念は無いにひとしかった。過剰診療と非難されても、何と言っても患者サービスのつもりであるから後ろめたさなどないにひとしかった。

 このように手抜きは絶対ダメとされてきた医療に、「予算がないから安物を作れ」と言われるようになった。最高の医療だけを考えていれば幸せだったのに、その医療に制限が生じたのである。

 これまで100本の釘でやってきた仕事を、「幕府に金がないから50本にしろ」との御奉行様の命令が下ったのである。「釘50本では安普請しか造れません、建ったにしても何時壊れて死人がでるとも限りません」と言ってはみたものの、唇淋しい秋の風、お上の命令には逆らえない。「文句があるなら自腹を切れ」と叱られることになる。

 患者を入院させたくても、儲からない高齢患者を入院させるとしかられてしまう。まだ入院が必要と思っても、「平均入院日数」から早く退院させろとしかられる。まさに、「経営健全化」のもと、医は忍術ではなく算術になっている。

 職人はヒトの命にかかわることだから、お上がそう言ったからといって、そのように出来るものではない。しかし「釘50本の仕事をこれまで100本も過剰に使って儲けてきた」、と世間様に言われた日には、馬鹿馬鹿しくてベラボウメとなってしまう。

 そもそも御奉行様と商人が決めた釘の値段が高いことが医療費高騰の原因なのである。それなのにお上の前でそれを言うのは御法度になっている。偉そうな高名な医師ほど、偉そうな御託を述べる医師ほど、お上のご機嫌取りばかりである。

 釘一本の値段の方が職人の腕よりも高いのだから、自負心で支えてきた職人のプライドも限界となる。職人はヤケクソの自暴自棄、技術を学ぶ意欲をなくし、腕を落とすことになる。

 医師は自己表現が下手である。自己表現が下手なので、周囲は医師の本心をわからずにいる。毎日一生懸命に働いていれば、自ずと周囲が評価してくれると医師は思っているが、それは幻想である。

 職人は寡黙ゆえに世間から非難を受け、不当な評価を受けることになる。職人は「世間から意見されるほど落ちぶれていない」、と粋がってみても、周囲が認めないことには仕方がない。ただ耐えるだけである。

 今日において職人の価値は廃れ、昔の職人は釘なしで五重塔を建てたが、今の大工にそれを求めても無理である。芸術より経済性を重んじた結果であるが、医師も同じである。昔の医師は顔色で患者の死期を言い当て家族を呼んだが、今は当日の検査でも死期を予測できず、家族が来るまで遺体に心マッサージとなる。

 医師は均一化し、何でもマニュアル、何でも診断基準となり、職人芸は過去のものになってしまった。そして医師は職人というよりは、部品を直す技術屋、倒産しないために、そろばんをはじく商人に姿を変えようとしている。

 医師の仕事を画一的なマニュアルで規定することは不可能である。患者の顔が違うように、患者の病気もそれぞれが違っているからである。

 しかし世の中は、医療もマクドナルドのマニュアルのごとく、と思い込んでいる。マクドナルドの売り子と職人を区別できない連中が、医療にもマクドナルド同様の接客を求めている。医療の内容より、見かけの快適さを求めている。

 どうも世の中は、職人にとって住み難くなってきたようだ。

 もう何も言うことはない。降る雪や昭和は遠くになりにけりである。

 

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2012.02.09 07:45 |  診療  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 0

即物的医療からの解放

 白髪が増えても給料は増えず、皺が増えてもそれを知性と受け止める者はいない。目はかすみ、耳は遠く、この胸のときめきは不整脈。歯は抜け、四肢は痛み、気持ちはせくも足は前に出ず。気力は衰え、肉体はゆるみ、我が身体は統制を失う。

 還暦を迎え、平均寿命に達すれば、友人の半数が死に、半数が生きている状態になる。そして死が身近になるが、老人は孤独の中で死の現実を知らない。また死を予測しても終末医療の悲劇を想像していない。年とともに知恵がついても、想像力と気力が衰えるからである。

 子供は漫画の世界に浸り、青年は夢を失い、壮年は日々の生活に追われ、誰も老人の心情や肉体を想像しない。老化は老人になるまで実感できず、まして老化の先にある死については誰もが幻想の世界、他人事である。

 元気な時に健康に気をつけ、不老長寿を願うことは悪いことではない。しかし長寿を願うあまり、健康であることにとらわれ、老化と死の現実にフタをしているのが現代人である。

 人間の生理現象である老化と死は、逃れるすべもなくやってくる。それは春から夏、夏から秋、そして冬を迎える自然の原理と同じである。多くの人たちは老化による歩行困難を知りながら、老化による衰弱死を知らない。手足があるのに動かない、口があるのに食べられない、これを理解できても、心臓があるのに動かない、肺があるのに動かない、この衰弱死を知らないのである。

 そしてその時に必要なことは、生命保険や遺言状ではない。重要なことは、そして持つべきものは、自分の死に対する明確な意思表示である。

 生前に墓を買っても、文学や哲学、あるいはテレビから死を想像しても、それは虚構の枠を出ない。生保会社や葬儀屋が教えるのは死後の形式だけで、肝心な死にざまについて教える者はいない。これだけの情報化時代に、教える者がいないので老人はそこまで考えが及ばない。その結果、眠るがごとき大往生を願いながら、ポックリと死にたいと願いながら、多くは病院での壮絶な最後となる。

 人間にとって、死は悲劇との概念が強い。しかし本当に悲劇なのはその死に方である。人々は死を恐れるあまり死を直視せず、死の悲劇から逃れるために、さらなる悲劇をつくっている。

 かつての日本人の意識には「生きざま、死にざま」という言葉が常に存在していた。恥のない生活、穏やかな死を重要視してきた。死にざまは、人生のすべてを死に集約させた有終の美意識であった。それを医学の進歩が破壊したのである。脳死患者でさえ生かし続ける現代医学が生んだ悲劇である。

 もちろん、生命絶対論者の言葉を借りるまでもなく生命の尊さは十分に承知している。しかし生命を偏重するあまり、人間の尊厳が軽視されることになった。患者の心を見ず、心モニターばかりを見つめる即物的医学が魂の尊厳を奪っている。

 患者が医療に期待するのは、病気の治療と痛みの除去である。それ以外は何も望んでいない。しかし老人医療の現実は、声なき患者の意志は無視され、治らない生理現象を治そうとする医師の驕りと優しさ、家族の過度の期待と困惑が常に交錯している。

 その結果、善良な老人に鞭を打つような、枯れ木に水をやるような、家族のてまえ心マッサージをやるような、誰も望まない医療が行われることになった。魂の抜けた身体に呼吸器をつなぎ、何本もの点滴を入れ、どこに人間らしい生と死があるのだろうか。多くはそう思いながら呼吸器のスイッチを切れないでいる。

 脳死を死と認めない生命絶対論者、終末医療を病院の儲けとする邪念、患者の死を敗北とする医学、これらにより日本の医療は心モニターの波形を動かすことばかりに専念し、安らぎを与える医療は疎んじられてきた。

 日本の医療を欧米と比較すると、日本では人口当たりのモルヒネの使用量が欧米のわずか20分の1である。この数値は欧米人に比べ20倍もの苦痛を患者に与えている証拠といえる。苦痛を取り人間らしい死を迎えさせることが医師の使命のはずである。だがこの数値は天国に行く前に地獄の苦しみを与えている日本の医療を示している。老化や死を敵とせず、病気と捕らえず、共存すべき自然現象と考える視点が欠けている。

 大部分の人たちは自らの終末医療への意志を持たない。そのため残された家族が対応することになる。しかし家族は戸惑うばかりで、結局は医師まかせとなる。そして頼られた医師は一様に終末医療となる。

 最近、患者の医療における自己決定権が話題になっているが、本当に決めてほしいのは自らの終末医療のあり方である。元気なうちに死の現実を知り、死を受け入れる準備が必要である。また認知症になった場合の、胃ろう増設術への是非も自分で決めておくべきである。各自が死を見つめ直し、自分が望む終末期医療を、意識を失う前に、認知症になる前に明記しておくことである。

 美田を残すより、「人間としての生きざま、死にざま」を家族に残す方がより重要である。そのためにはドナーカードと同様に尊厳カードを作ることも1案である。あるいは保険証に本人の意思を明記できるようにすべきである。保険証は毎年書き換えられるので、本人の意思の変化にも対応できるはずである。本人の意思にそった医療を、医師の合意のもとで決定するのがよい。

 人知のおよばない死後を思うより、誰もが経験する臨死医療について考える時である。

 もちろん医師の責務は、患者本人の意志を最優先させることである。即物的医療から人間の精神を解放させることも、新たな医師の責務になるであろう。

 

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  江戸時代、佐倉藩(現在の千葉県成田市)は飢饉の続くなか、年貢を厳しく取り立て、年貢滞納者には過酷な拷問まで行っていた。

 一家離散、餓死の惨状から農民が集結、一揆を起こそうとしたが、名主総代・佐倉惣五郎(そうごろう)は、「一揆を起こせば百姓の命はない、一家みな磔になる」、「私が領主に直訴する」と約束した。

 佐倉惣五郎は、佐倉藩に減税を訴えようとするが、この動きを察知した役人は、「訴えごとをなす輩は厳罰に処す」と回状を名主に送り、申し入れすら受け入れようとしなかった。

 305カの村の名主は、国許の佐倉藩では解決困難として、江戸にいる佐倉藩主・堀田正信に嘆願書を提出したが、「国許を差し置いて、強訴するとは不届き」と却下された。

 そのため名主たちは、幕府へ上訴することを決断。将軍家後見職・保科正之を江戸城のお堀端で待ち、嘆願書を出した。しかし保科正之は、他藩の内紛に口を挟むことはできないとした。

 この江戸の行動は、佐倉藩に通知され、「6人の名主総代は、藩にいれるな、召し取れ」となった。

 名主たちに残された手段は、将軍への直訴しかなかった。将軍への直訴は、死罪とされていたが、その大役を佐倉惣五郎が引き受けることになった。惣五郎は家族に別れを告げるため、雪降る夜、印旛沼の渡し場の小屋についた。

 渡し舟の夜間航行は禁じられていて、役人が渡し舟に鎖を掛けていた。船頭・甚兵衛は惣五郎が村民の窮状を救うため、江戸で活動していること知っていた。無断の夜間航行は打ち首であったが、甚兵衛は鎖を切って舟を出した。甚兵衛は、惣五郎を送ったあと、寒中の湖に身を投げた。

 惣五郎は家にもどると、妻に離縁状を渡し、子供を勘当し、罪が及ばぬようにして、涙の別れをして家を出た。

 惣五郎は四代将軍家綱へ直訴のため、上野寛永寺で参詣する将軍を待ち、訴状を将軍家綱へ差し出したが、その場で捕えられた。

 惣五郎の処罰は佐倉藩に一任される。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、佐倉藩は磔(はりつけ)となった。さらにメンツを潰された佐倉藩主は、事前に離縁していた妻も磔とし、勘当していた4人の子供をも死罪とした。

 いっぽう、将軍家綱は訴状の内容を確認、佐倉藩の状況を調査するよう命じ、

佐倉藩の酷政と深刻な不作に喘ぐ農民が確認された。幕府は佐倉藩に3年間年貢の免税を命じ、救済米を送った。

 佐倉惣五郎は命をかけて農民たちを救ったのである。

 この佐倉惣五郎の伝記は、「佐倉義民伝」として読まれ、歌舞伎では「東山桜荘子」として上演され、講談や浪花節でも取りあげられた。

 江戸末期の百姓一揆は、惣五郎の影響が大きく、明治の自由民権家たちは惣五郎を民権の先駆者ととらえ、福澤諭吉は佐倉惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と書いた。

 

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2012.01.27 07:26 |  生活 / くらし  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 3

コーギー

 子供の情操教育をかねて犬を飼うことにした。都内の犬屋を数軒訪ね、ケージに入った犬を見てまわった。かつて捨て犬を飼っていたことがあったので、犬には慣れていたが、数十万円の犬ばかりで、値段の高さに驚いてしまった。店内でどの犬を買おうかと迷っているうるうちに、値段の高い犬が良いだろうと思うようになった。

 「物の価値は値段に比例する」とわが脳ミソは毒されていた。しかし妻はこの犬でなければいやだと一匹の犬を指さした。それは貧相な顔をしたコーギーだった。コーギーはエリザベス女王が飼っていることで有名になった犬種で30万円前後が相場の犬である。

 しかしその上目遣いのコーギーはなぜか2万円だった。「安いものには、どこかに欠陥がある」と小声で文句を言ったが、妻は耳を貸さずレジで2万円を払って、そそくさと店を出てしまった。そして帰りの自動車の中で「この犬はあと数日の命だったのよ」と犬を抱きしめながら妻がいった。

 つまり、売れ残った犬は値段が下げられ、それでも売れなければ安楽死にするのがこの業界の常識だったのである。妻がこの犬を買ったのはこの犬の命を助けたい気持ちからだった。

 この日だけは妻を尊敬してしまった。そして医師としての基本的姿勢を教えられた気持ちになった。2万円のコーギーは、最近、飼い主に似て凛々しい顔つきになってきている。

 

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2012.01.22 07:05 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  恋愛 / 結婚  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 1

手洗い実話

 次の問題に答よ。「インフルエンザの予防策として、マスク、手洗い、うがいの中でエビデンスのあるのはどれか」。

 40年ぐらい前の論文に、次のような実験で、すでに結論が出でている。

 「インフルエンザの患者1人と、9人の健者」の組み合わせを3グループ(計30人)つくり、3つの部屋に閉じこめてトランプをさせる。

 第1のグループは全員マスクをさせ、第2のグループは定期的に手洗いをさせ、第3のグループは定期的にうがいをさせる。

 この実験により、手洗いのみが有効であることが証明されたのである。もちろん実験の手法を変え、手洗いのみが独立した有効因子であることが証明されている。

 手洗いは、手に付着したインフルエンザウイルスを物理的に除去するため有効とされ、マスク、うがいの有効性は、今日に至るまで証明されていない。

 「インフルエンザ予防の基本は手洗い」である。このような、小学入試の共通一次試験より簡単な問題を証明したのだから、昔の医師は偉かった。難しそうな書籍をバックに、物知り顔のアホ面で、テレビでコメントを述べる今の医師より偉かった。

 かつてインフルエンザの予防として、空気清浄機なるものが流行していた。最近、空気清浄機をみないのは、商売に効果があっても、インフルエンザに効果がなかったからである。

 もちろん軽度の発熱で、インフルエンザを心配して病院を受診する者ほど罹患の危険率が高く、ひきこもり症候群ほど危険率は低い。では、次の問題である。「恋人の愛情度とインフルエンザの感染率は、比例するか否か?」、答えは「勝手にしろ!」である。

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2012.01.21 08:29 |  診療  |  生活 / くらし  |  グルメ / お酒  |  その他(一般)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 1

手洗い神話

 手洗いは医療の基本とされている。ある日、トイレから出ようとする医師が手洗いをしないで出ようとしたので注意した。するとその医師は「トイレに入る前には手洗いをしますよ。それは自分の一番大切なモノに触るのですから、でもトイレから出る時には手を洗いません。それは手洗いの蛇口が一番汚いからです。

 でも心配しないでください、患者さんの診療の前後には必ず手洗いをしていますから」、たしかに彼の言うとおりかもしれない。

 後日、その医師と食事をしたとき、彼はまた妙なことを言いだした。「先生、レストランのおしぼりは使ってはいけません、おしぼりが清潔という証拠はありませんからね。このおしぼりが、昨日、風俗店で使われていたかもしれませんよ」、さらに彼の話は続いた。

 「あと、ホテルの洗面所で顔を洗うのもいけません、ホテルの掃除のおばさんがトイレを拭いたタオルで洗面所を拭いていたのを見てしまったのです」。

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 検事は悪を憎み、被害者に代わって加害者に相応の罰と償いを求める。弁護士は弱きを助け、被疑者の立場から不当な冤罪と主張する。そして裁判官は両者の言い分を聞き、白か黒かの判決を下す。

 このように法曹界の人たちは、それぞれの使命感を持ちながら職務についているが、検事は検事の立場でしかものを考えず、弁護士は弁護士の立場でしかものを言わない。法の正義を自負する者たちがこのような職務に縛られた形で議論する法廷は、どこか茶番に思えてならない。

 昨日まで鬼検事と恐れられていた者が弁護士に職を変えた途端、極悪人の味方になる。金持ちが被疑者になれば、金持ちは元検事の弁護士を集め弁護団を結成する。このように立場によって自らの主張を変える議論は到底民主的とは思えない。

 同じ司法試験に合格した者が、同じ司法研修所で養成を受けた者が、なぜ立場によって主張を変えるのか。弁護士、検事、裁判官、この法曹三者による法廷議論は見えすいた劇を見せられている気分である。これを司法制度の欺瞞と呼ぶかどうかは別にして、このような一方通行の議論が、最近巷で多く見られる。

 そもそも議論とはお互いの考えを述べ、相手の考えを尊重しながら、より良い結論を得るための手段である。つまり自分の主張と、相手への理解が同時進行でなければいけない。しかし今日行われている多くの議論は、最初から相手の考えを否定し、自分の結論を押しつけるものばかりである。

 この傾向は議論を論争と称し、劇場化させ視聴率を上げようとするマスコミも同じである。声の大きさ、反論に値しない屁理屈、言葉の用法などにより、相手をいかに負かすかが議論の技術とされ、論理の矛盾やごり押しを恥と思わない。

 そして議論に勝ったとしても、勝った方の意見が優れている訳ではない。そのため議論の敗者が勝者に心服することはなく、逆に恨みを残すことになる。

 このような中身のない議論は、発言する者がそれぞれの立場に縛られているからである。議題に対し肯定側と否定側に分かれて議論する遊びをディべートというが、この欧米のゲームを真面目な議論に持ち込んでいるにすぎない。

 このような論争を前に、国民は無意識に自分と同じ考えの論者の肩を持ち、対立する論者を無意識に軽蔑する。そして見識者の非常識に対し優越感と自己満足を得ながら、一方では声を大にするゴネ得の手法を国民は無意識に身につけることになる。

 このような議論の虚像が、国民の前に醜く露呈したのは、万年野党の日本社会党(村山首相)が政権の座についた時である。それまでの日本社会党の反対は保身のための反対であったことが明確となり、政党の理念を曲げ現実路線を選択したことで、日本社会党は安楽死への道を辿ることになった。

 彼らが残したものは、政策における建て前と本音、言いがかりに近い議論による取引、落としどころ、などの政治理念ではなく政治的技法だけであった。

 議論の弊害として、次に議論のアリバイ化を挙げることができる。これは公的な議論においてみることができる。時間をかけ十分に審議を尽くしたとする証拠が欲しいだけである。広く意見を聞いた上での共同決定というアリバイが欲しいだけである。これは一見民主的な議論と錯覚しやすいが、最初から結果の決まっている議論は民主主義を装った議論といえる。

 この形式を取り入れているものに政府の諮問機関がある。役人が諮問機関の人選を決めるので、議論する前から結論は決まっている。難しい顔をしながら、時に声を荒立てながら、役人に操られた三文役者が茶番を演じ、日本の将来をゆがめている。

 立場に縛られない国民の代表、全体を見渡せる見識者が不在のまま、偏った審議がなされている。国民の生活に関わることは国民の代表が決めるべきで、立場に縛られた者が関わるべきではない。

 本来は政治家がそれを担うべきであるが、政治家が営利団体との利害関係を断ち切るのは困難であり期待はできない。間接民主主義の限界である。

 民主的議論と政策を考えた場合、陪審制度が興味深い。市民から選ばれたシロウトが陪審員として司法に参加しているが、これは司法の民主化さらには国民の良識を司法に反映させるためである。

 立場に縛られず議論ができる、あるいは政策を審議できる方法は、この陪審制度以外に思い浮かばない。専門的知識に難点があるにしても、非常識な専門家の論理より、常識的なシロウトの直感のほうが優れているからである。

 国民の国政に対する不満や不信は、政治には利権が絡み、議員は立場に捕らわれ、官僚は省益にこだわるからである。これを改善させるには、国民のチェック機構を国政に導入することである。永田町や霞ヶ関の論理を国民の良識でチェックすることである。日本の民主主義を蘇らせるには参議院を廃院とし、陪審部会から構成される陪審院を創設するのがよい。衆議院で可決された法案を陪審員が評決し、全員一致で法案の成立、廃案、修正を行う新しい民主主義政治の形態である。

 

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2012.01.14 21:47 |  生活 / くらし  |  趣味  |  恋愛 / 結婚  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 1

心の年齢

 肉体年齢? 精神年齢? なにをほざかしい。アンチアイジング? なんだいそれ、若作りのシワのばしのことかい? 馬鹿だね、大切なのは心の年齢だろ。清新で若い心が、人生を豊かにするのさ。

 20歳のはじける皮膚、紅の唇、しなやかな手足が、そんなにうらやましいのかい。シワだらけの顔だって、白髪だって、老眼でも、強い意志、豊かな想像力があれば、たとえ80歳でも心は青春なんだ。

 心は年齢を重ねても、老いもしなければ、成熟もしない。心が老いるのは、理想を失い、情熱を失い、冒険心を失った時なんだ。心を若くするには、信念、自信、希望があればいいのさ。もちろんそれがなくても、・・・よく分からないが、朝のこない夜もなければ、春のこない冬もないんだぜ。・・・理屈じゃないんだ、人生は。

 少子高齢化? 老後不安? 笑わしちゃいけない。悩んでいる暇なんかないんだ。心に灯を持ち、歌を口ずさみ、興味と探究心を持てば、心はいつも青春なんだ。こちとら山形生まれの江戸っ子だい、宵越しの金なんか興味ないね。

 おい、おい、死ぬ前に死んだ顔してどうするんだい。見た目を飾っても、活きのよさは心意気しだいだぜ。地震でも、オレオレ詐欺でも、何でもかかってこい、屁で飛ばしてやる。さあ、何でもありの人生だ、楽しくやろうぜ。

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