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 昨年1月、各新聞に上記見出しが掲載され、「予防接種の注射器の使い回しによってB型肝炎ウイルスが感染した」として、国が裁判所の和解案を受け入れ、最大3兆2000億円が必要と書かれてあった。

 この記事を読んで、首を傾げた医師が多かったと思う。

 それは、予防接種によるB型肝炎を、どのように証明するかへの疑問であった。

 B型肝炎ウイルスは有史以前から存在しており、その感染は母児感染だけではない。

 にもかかわらず、昭和61年に母児感染ワクチン接種が始まったことから、それ以前の感染を全て予防接種によるものとしているからである。

 予防接種による感染と、自然感染、輸血、ヒロポン、刺青、他の射器の使い回しによる感染をどのように区別するのか。これらは医学的には不可能である。また昔のカルテなど存在しないから、被害は患者の自己申告だけになる。

 たとえ予防接種で感染したとしても、天然痘、ポリオなどの予防接種で救われた人は数えきれず、また当時における、注射器の使い回しの危険性の認識の程度についても考慮されていない。

 特に釈然としないのは、現在ではB型肝炎は性感染症であり、セックスによる感染をどのように否定するかである。性感染症よるB型肝炎は遺伝子のタイプが違うというが、それだけでは性感染症を否定はできない。性感染に、なぜ私たちの税金(和解金)を払わなければならないのか、感情的にも納得できないのである。

 C型肝炎訴訟では「フィブリノゲンを出産時に使用された母親ならびに子」と患者は限定されていたが、C型肝炎についても注射器の使い回しによる可能性があるだろうし、梅毒だって感染の可能性はゼロではない。

 弁護士の報酬は、和解金の15%、つまり4800億超が弁護士の収入になる。 B型肝炎訴訟は弁護士救済のための和解なのだろうか。せめて補償額は治療費だけにすべきである。日本は1000兆円の借金大国である。消費税を10%にしても、年金さえ満足に払えない。東日本震災の被害者を考える場合、3兆2000億円の和解金は納得しがたい。さらに、症状がない感染者にも50万円を支払うことも納得できない。

 もしB型肝炎の患者が、「どのような手続きをとれば、和解金をもらえるのか」と訊かれたら、どのように返答すればよいのだろうか。もちろんワクチンの接種による感染を起こした症例もあるだろうが、患者全てがそうとは思えない。和解金といえども私たちの税金である。どこか釈然としない。

 多分、「B型肝炎訴訟、和解金3兆2000億円」の記事は、日本のB型肝炎患者数に和解金をかけただけの単純計算と思われる。「人気取り優先の政治家の判断による和解」であって、優秀な厚労省役人は「ワクチン接種によるB型肝炎」の定義を厳しくして、和解できなくするであろう。多分、和解総額は1/10、1/100ぐらいになるであろう。

 かつての私たち医師仲間は、針刺し事故、手術時の感染などで、多くが肝炎に罹患していた。医師にとって肝炎は「患者を救うための、職業病」だった。もちろん針刺し事故によるB型肝炎は訴訟には含まれていない。

やはり釈然としない。


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 昭和62年7月26日、三重大医学部付属病院で記者会見が行われ、同病院の小児科医師2人と看護師1人がB型肝炎に感染し、医師2人が死亡していたことが発表された。亡くなったのは、谷本晃医師(28)と徳井亜弥子研修医(28)だった。女性看護師(36)は重症だったが一命を取り止め、回復に向かっていると説明された。

 病院内での感染事故はこれまでにもあったが、3人がほぼ同時期に感染し、しかも極めてまれな劇症肝炎になったのである。なぜこの劇症肝炎事件が連続して起きたのか、謎を含んだ怪事件として憶測が渦巻いた。

 三重大の説明によると、最初に劇症肝炎を発症したのは研修医の徳井亜弥子さんだった。徳井さんは前年春に同大医学部を卒業、国立津病院で1年間の研修を受け、同年4月から大学病院に勤めていた。徳井さんは7月6日ごろから高熱と倦怠感を訴え、小児科のベッドで点滴を受けていた。しかし体調が改善しないため同病院の内科を受診すると、GOT、GPTの数値が1万を超えていて、劇症肝炎と診断されて直ちに入院となった。入院しても症状は改善せず、入院翌日には昏睡状態に陥った。血漿交換の治療が行われたが、意識は戻らず同月17日に息を引き取った。

 医師の谷本晃さんが発熱とだるさを訴え、劇症肝炎と診断されたのは同月12日だった。入院したときには手遅れの状態で、昏睡状態のまま同月25日に死亡した。谷本晃さんは自治医科大出身で4年間の研修医生活を終え、徳井さんと同じように4月から大学病院で患者の治療に当たっていた。看護師もほぼ同時期に発症したが、GPTは5000程度にとどまり、肝機能は回復傾向を示した。彼女は看護学校で教官を務めた後、同じように4月から大学病院で働いていた。

 3人がほぼ同時期にB型肝炎に感染して劇症肝炎を発症させたのである。病院は谷本晃さんの死亡した翌日に記者会見を開いたが、報道陣への病院側の口は重かった。関係者への直接取材は禁止され、病棟への立ち入りも許されなかった。

 劇症肝炎とは肝細胞が急激かつ大量に壊れてしまう病気で、ウイルス感染が9割を占め、そのほか薬剤によっても誘発される。劇症肝炎の約40%はB型肝炎ウイルス(HBV)が原因であるが、B型急性肝炎から劇症肝炎へ移行するのは1%以下とされ非常にまれといえた。

 日本での劇症肝炎患者は年間1000人程度なのに、同じ病棟で働く3人が同時期に劇症肝炎を発病したことは、何らかの共通した感染経路があったと考えられた。しかし記者会見ではこの感染経路についてはあいまいな説明に終始した。

 集団感染が起きた場合、2次感染予防のために感染経路の把握は重要である。3人が同じ小児科に勤務していたので、B型肝炎の小児患者から感染したとされたが、感染源、感染経路は不明であった。

 B型肝炎は血液で感染した場合、潜伏期間は平均3カ月前後とされている。感染した3人は4月から同病院で勤務を始めたばかりで、ちょうど3カ月後に発症していることから、4月以降の小児科に入院した患者から感染したと考えられた。

 三重大付属病院小児科は、未熟児の専用ベッドを含め50床の規模で、研修医を含めた医師約20人と、看護師20数人が小児患者の治療に当たっていた。入院患者は白血病が多く、約1割の患者がB型肝炎ウイルス(HBV)を保有していた。そのため小児科病棟ではB型肝炎と分かっている患者の採血には十分に注意していた。

 HBVの感染力は強く、1ccの1億分の1ほどの血液が入っただけで感染する。入院患者の約1割がHBVの感染者だったので、感染源は入院患者と推測されたが、なぜ3人が同時期に発病したのか、なぜ劇症化したのか謎だった。3人は3人とも感染の心当たりはないと同僚に話していたのである。専門的な知識を持っている医師が、針刺し事故などの感染の自覚もなく発病したことも謎だった。もし針刺し事故で感染した場合には、48時間以内に免疫グロブリンを投与すれば発病は防げたはずであった。三重大付属病院は小児科に勤務する職員全員を検査したが、HBVについては全員が陰性だった。

 医師や看護師は採血や輸血のとき、あるいは手術やお産などの際に、注射針を指に刺すことがある。医療従事者のうち年間約5%が針刺し事故を経験している。しかし劇症肝炎の例はほとんどなく、感染後も通常の生活を送っているのがほとんどであった。

 劇症肝炎の死亡率は極めて高く、救命率は20%とされている。治療としては肝臓の働きを補うため、患者の血液から血球以外の成分(血漿)を取り除き、健康な人の血漿と交換する「血漿交換療法」と、血液透析を応用した「血液濾過透析療法」の併用療法が取られる。この治療で、肝臓機能の低下している期間を乗り切れば、肝臓が再生してくるので救命が可能であった。しかし劇症肝炎の致死率が高いのは、このような治療によっても肝臓の機能が回復しないことが多いからで、その際には肝移植の治療しかないのである。

 三重大肝炎感染事件は、その後の研究で原因が次第に分かってきた。同大医学部教授(臨床検査部)小坂義種らは死亡した2人医師の劇症肝炎は、変異したB型肝炎ウイルス(HBV)に感染したためとした。それまで劇症肝炎の原因は患者側の体質とされてきたが、HBVの変異によって劇症肝炎が生じたとしたのである。

 小坂義種教授らは各病院で発生した典型的な劇症肝炎患者10人の血液を分析、自治医科大グループらは血清からHBVを分離して遺伝子構造を解析した。その結果10人のうち9人から、ウイルスの遺伝子の塩基配列が1つだけ違う変異ウイルスを検出した。この変異を目印に三重大の感染源を調べたところ、2人の医師が出入りしていた小児科病棟から、ウイルス量が30倍多い小児患者が見つかった。この小児患者から何らかの経路で血液を介して感染したと判断され、この研究結果は米消化器学会雑誌に掲載された。

 この事件をきっかけに、東京女子医科大付属病院をはじめとした各地の病院から、医療従事者がB型肝炎に感染し死亡していたことが報告された。それまで散発的に死亡例が報告されていたが、B型肝炎は法定伝染病ではないので正確な患者調査は行われていなかった。労働省は医療従事者の業務上疾病による労災認定を再調査し、約2年間で73人の医療関係者がB型肝炎を発病し、8人が死亡していたことを明らかにした。73人の職種の内訳は、医師12人、看護師47人、臨床検査技師10人であった。そのほとんどは、患者の採血時に自分の指を刺して感染したものだった。

 主だった事故を列挙すると、東京女子医科大=看護師がB型肝炎に感染し死亡(昭和61年12月)▽大宮日赤病院=医師が患者の吐血を浴び、B型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽岸和田市民病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽福岡大病院=医師3人がB型肝炎に感染し、2人が死亡(62年7月)▽清水厚生病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽愛知県町立野村病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年9月)などである。

 B型肝炎ワクチンは約2万円で、自己負担になるため普及していなかった。ワクチンの予防効果は90%以上とされているが、その対策を病院は取っていなかったのである。もし三重大付属病院で感染した3人が予防ワクチンを受けていたら、発病しなかったと考えられるが、当時は接種していない医療従事者の方が圧倒的に多かったのである。

 厚生省は各医療機関に医師や看護師らのワクチン接種を指示していたが、費用を病院の負担としていたため一般化していなかった。三重大付属病院では、3年前にも外科の研修医がB型肝炎に感染し重症となったが、その教訓が生かされていなかった。医療従事者にとって、劇症肝炎はいつ自分の身に降り掛かってきても不思議ではない。厚生省はこの事故で、国立病院の医療従事者約3万人に国費でB型肝炎ワクチン接種を受けさせる方針を決め、民間病院でもB型肝炎ワクチン接種が普及するようになった。

 現在では、原則として30歳以下の医療従事者全員が肝炎ワクチンを接種している。以前のワクチンは、感染者の血液の表面に分布するタンパク質を分離・精製する方式で製造していたが、現在では遺伝子組み換え型のワクチンを使用するようになって、接種者の抗体陽性率はほぼ100%になっている。

 三重大医学部付属病院の3人は、いずれもB型肝炎ワクチンや免疫グロブリンを受けていなかった。ワクチンが約2万円と高価で、「自分だけはうつらない」とする安易な考えが悲劇のもとにあった。肝炎を防ぐ予防策がありながら、対策を講じていなかった医療側の無責任体質を浮き彫りにした。この点に関し、厚生省は「日本の健康保険は治療を目的としているため、予防を目的としたワクチンは適用されない」と、お役人らしいコメントを述べた。医療従事者全員がB型肝炎ワクチンを接種できるようになったのは、若くして世を去った勤務医・研修医・看護師らの犠牲があったからである。彼らへのご冥福を祈りたい。

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 平成11年5月27日、加古川市の福原泌尿器科医院で血液透析を受けていた腎不全患者8人がB型肝炎ウイルスに感染、2人が劇症肝炎で死亡、3人が入院中であると兵庫県が発表した。兵庫県は感染調査委員会を設置して、カルテなどから5人以外に劇症肝炎で死亡したと思われる患者が1人いること、さらにこの発表から2カ月後に2人の患者が劇症肝炎で死亡する事態となった(最終的に6人が死亡)とした。

 感染調査委員会は患者の血液検査から感染源と思われるB型肝炎ウイルス(HBV)キャリアー(保菌者)を特定した。当時、福原泌尿器科医院では123人の患者が透析治療を受けていて、死亡した患者とHBVキャリアーから検出したウイルスのDNAが一致したことから、院内感染と断定した。患者は「生理食塩水や注射器の使い回しがあった」と証言したが、感染調査委員会は感染経路不明とした。

 当医院で透析を受けている98人(80%)がC型肝炎ウイルスに感染していた。C型肝炎は血液によって感染するが、当時、人工透析患者のC型肝炎感染率は15〜20%とされており、当医院のC型肝炎80%の数値は、当医院の衛生管理がいかにずさんだったかを示唆していた。

 HBVは母親から乳児への垂直感染が有名である。しかし昭和61年からHBe抗原陽性の妊婦に対してワクチンを投与することになり、新たなHBV患者は激減した。しかし昭和61年以前に生まれた人たちは、無症候性キャリアーになるので、血液に接する機会の多い医療施設で感染する可能性が高かった。

 この事件の5年前の平成6年、東京・新宿の西新宿診療所で劇症肝炎の集団感染が起き、人工透析を受けていた慢性腎不全患者5人がB型肝炎ウイルスに集団感染し、4人が劇症肝炎で死亡していた。東京都の劇症肝炎調査班は「感染源は同じ時間帯に透析を受けていたB型肝炎のキャリアー患者で、透析時の管注や採血などの行為によって、ウイルスが体内に入った可能性が考えられる」としたが、実際の感染経路は不明だった。患者の透析の順番を分析しても分からず、注射器の使い捨ても守られていたので感染の証拠がつかめなかった。調査班は同診療所に感染予防の徹底を指示するだけであった。

 血液透析によるB型肝炎ウイルス感染については、平成9年2月に、金沢大医学部付属病院で集団院内感染が起き1人が劇症肝炎になっている。平成12年6月頃、宮城県塩竃市内の医院で透析中の5人の患者が感染し劇症肝炎で4人が死亡している。5人の患者のウイルス遺伝子が一致していたが、感染源、感染経路は不明であった。

 さらに平成18年8月には、京都市山科区の音羽病院で人工透析中の患者8人がほぼ同時期にB型肝炎ウイルスに感染し、5人が入院となった。また平成19年2月には、大阪府枚方市の佐藤病院で、人工透析中の入院患者2人がB型肝炎ウイルスに感染し、1人が劇症肝炎で死亡している。

 劇症肝炎の年間発生数は数千人とされ、A型、B型肝炎ウイルス、そのほかのウイルス感染、薬剤の副作用などが引き金になる。劇症肝炎は肝機能が短期間に低下して、意識障害や臓器不全が起きる。急性肝炎の1〜2%が劇症化して、劇症化した患者の約半数が死亡する。血液透析施設でのB型肝炎ウイルスの集団感染、劇症肝炎の発生頻度が高い理由については不明であるが、透析施設で高頻度に起きていること、ウイルスのDNAが一致していることから院内感染によるものとされている。

 日本に人工透析が導入された当時、透析施設でウイルス性肝炎の集団感染が多くみられていた。感染対策がなされている現在でも、C型肝炎の感染が散発している。透析室は大部屋で、多数の患者が、同時に週に数回の血液の体外循環を行っている。さらにHBVは室温において少なくとも7日生き続けることができるので、感染経路が不明であっても血液による院内感染があっても不思議ではない。このことからも、患者を手当てする度に手袋を替え、手を洗うなど細心の感染防止が必要である。なお血液透析スタッフのHBV感染のリスクは高くないことから、透析スタッフに対して定期的に検査を行う必要はない。

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2012.01.30 05:38 |  研究  |  医療事故  |  映画 / 音楽 / 読書  |  肝炎  |  平成10-15年  |  薬害  |  スーさん  | 推薦数 : 1

薬害肝炎 平成14年(2002年)

 平成14年、血液製剤によるC型肝炎ウイルス(HCV)感染が大きな社会問題となった。問題になったのは主としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の血液凝固製剤「フィブリノゲン製剤」で、約6000の医療機関に納入され、約30万人に投与され、約1万人がHCVに感染したと推定されている。HCV感染と肝炎との因果関係は明らかであるが、血液凝固製剤がC型肝炎の原因であるとの証明、薬害肝炎をもたらした責任を含めると極めて複雑になる。

 昭和39年3月にライシャワー駐日米国大使が暴漢に襲われ、輸血を受けたライシャワー大使が輸血後肝炎となった。この事件がきっかけに同年8月、民間の血液銀行が行っていた輸血を日本赤十字社に一本化し、輸血は売血から献血へと大きく変更された。この輸血行政の変換によって、昭和39年までの輸血後肝炎の発症率は50.9%であったが、昭和42年には16.2%になり、輸血の安全性は飛躍的に高まった。しかし献血としたのは輸血用の血液だけで、血液製剤は対象外だった。

 血液銀行の大手だった「日本ブラッド・バンク」は、昭和39年8月に社名を「ミドリ十字」に変え、血液製剤部門の強化をはかった。血液製剤は国内外で数千人から集めた血漿を濃縮して製造していたため、通常の輸血より感染の危険性が高く、このことが後の薬害エイズ、薬害肝炎を引き起こす下地になった。

 昭和39年、ミドリ十字はフィブリノゲン製剤を製造販売、主に出産時の異常出血の止血剤として使用されていた。ちょうどその頃、出産時の大量出血で妊婦が死亡した裁判で、「フィブリノゲン製剤を投与するなど、適切な止血措置をとらなかった」として、産婦人科医に高額な損害賠償を命じた判決(東京地裁、昭和50年2月13日)があった。このことから出産時の出血や、外傷や手術の止血用にフィブリノゲン製剤は安易に使用されていた。当時はフィブリノゲン製剤の投与による肝炎発症の副作用は少なかった。

 いっぽう米国では、昭和52年12月に米食品医薬品局(FDA)がフィブリノゲン製剤の投与により肝炎が多数発生したことから製造承認を取り消していた。昭和54年9月、旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)血液製剤部長の安田純一が著書の中でFDAによる製造承認取り消しの事実を指摘、フィブリノゲン製剤の危険性を知りながら厚生省には報告していなかった。ミドリ十字もFDAの承認取り消しの資料を社内で回覧していたが販売を続けていた。

 ここで混乱しやすいのは、米国のフィブリノゲン製剤は日本とは製造法が違っていたのだった。日本で販売されていたフィブリノゲン製剤は不活化処理(BPL処理法)により、B型肝炎ウイルス(HBV)のみならずHCVも不活化されていた。この不活化処理(BPL処理法)は偶然の選択であった。しかし昭和60年、この不活化の処理を米国と同じ方法に変更したためHCVは不活化されなくなり感染を拡大させた。

 一方のB型肝炎は、昭和43年にHBVが発見され、昭和47年には輸血からB型肝炎が排去されたが、依然として輸血の約10%に輸血後肝炎が発症し、輸血後肝炎は非A非B型肝炎と呼ばれていた。しかし平成元年に米国のカイロン社がHCVを発見、HCVが非A非B型肝炎を引き起こすことが初めて解明された。HCVの発見により輸血後肝炎の全貌がほぼ明らかになり、C型肝炎は輸血以外に、集団予防接種などでの注射器の回し打ち、あるいは自然感染によるものとされていた。フィブリノゲン製剤によるC型肝炎は予想外のことだった。

 さらに混乱しやすいのは、フィブリノゲン製剤は止血剤であることから、同時に輸血を受けていた患者が多かったことである。C型肝炎がフィブリノゲン製剤によるものなのか、輸血によるものなのか、あるいは別のルートによるのか、断言できなかった。また当時のカルテを保存している医療機関は少なく、解明をより困難にした。

 薬害肝炎が社会問題となったきっかけは、昭和62年4月18日の新聞報道だった。それは青森県三沢市の産婦人科医院で、昭和61年9月から翌62年4月にかけて、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン−ミドリ」を投与された産婦8人が非A非B型肝炎に集団感染したことだった。

 この感染は、肝炎ウイルスの不活化処理法であるBPL処理法が別の方法に変更されてから出荷された製剤によるもので、同医院は厚生省に報告するとともに、ミドリ十字にフィブリノゲン製剤によって集団感染が起きたと抗議した。しかしミドリ十字は「フィブリノゲン−ミドリ」の添付文書に「血清肝炎等の肝障害があらわれることがある」と記載してあることから、感染は不可抗力として患者に陳謝しなかった。

 医院側とミドリ十字との話し合いは平行線をたどったが、医院側が患者救済のため、「投与した医師の責任」として患者に陳謝。医院が患者1人に約100万円ずつ計約800万円を支払うことになった。しかし実際には、救済金の半分の400万円はミドリ十字から医院へ研究費名目で支払われていて、ミドリ十字はこのことを公言しないように病院に約束させていた。つまりミドリ十字は薬害肝炎が広がった場合、補償問題の防止策をはかっていたのである。

 この青森県の産婦人科医院をきっかけに、ミドリ十字は厚生省の指示で感染実態を調査し、同年7月までに同製剤で74人が肝炎を発症していると報告。ミドリ十字は非加熱の「フィブリノゲン−ミドリ」を自主回収し、事実上使用しなくなった。しかし同時に、感染の証拠となる「フィブリノゲン−ミドリ」をすべて破棄したため、薬害肝炎は隠蔽されてしまった。

 平成13年頃からC型肝炎の感染ルートが重視されるようになったが、この事態を一転させたのが、平成14年3月のフジテレビ「ニュースJAPAN」の報道であった。日本初の集団感染を報告した三沢市の産婦人科医院が、当時の「フィブリノゲン−ミドリ」を保管していたことを明らかにした。保管されていた「フィブリノゲン−ミドリ」は製造から15年以上も経過していたが、分析の結果、C型肝炎ウイルス(HCV)の活性を持っていたのである。さらにDNA鑑定で「フィブリノゲン−ミドリ」と、かつて製剤によって肝炎を発症した患者のウイルスが一致し、また米国の麻薬患者のウイルスとも一致したのだった。

 このことから血液製剤「フィブリノゲン−ミドリ」は、原料血漿を米国で買い付け、原料血漿にHCVが含まれていたことが明らかになった。薬害エイズと同じように、原料血漿は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦を対象とした極めてハイリスクなものだった。このことからフィブリノゲン製剤によってC型肝炎が引き起こされた可能性が高くなった。

 平成14年8月、厚生労働省が作成したフィブリノゲン製剤によるHCV感染に関する調査報告書には、製薬会社の「三菱ウェルファーマ」(旧ミドリ十字、現田辺三菱製薬)から提出されたHCVに感染した418人分のリストが含まれていた。しかし厚生労働省は製薬会社から患者リストをもらいながら患者に連絡をせず、フィブリノゲン製剤を使用した納入先の医療機関を公表して、C型肝炎の検査を受けるように呼び掛けただけであった。

 平成19年10月、この患者リストが厚労省の倉庫から発見され、厳しい批判を浴びることになった。平成19年11月30日現在、418人のうち265人が特定されたが、そのうちの51人が死亡していた。医療機関を通して感染の事実や感染原因を告知されたのは92人。死亡した9人の遺族に対して感染原因などが伝えられた。

 平成14年10月21日、東京で13人、大阪で3人が東京地裁および大阪地裁に損害賠償を求めて提訴。さらに翌15年には患者原告は福岡地裁、名古屋地裁、仙台地裁において次々と提訴した。大阪と福岡の訴訟判決(平成18年)、名古屋の訴訟判決(平成19年)では、C型肝炎ウイルスを不活化していた期間においても感染の危険性が排除できないとして、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した。しかしそれ以外は国、製薬会社に責任はなしとの判断を示した。

 裁判所はこのように判断を下したが、この司法判断とは別に、政府は議員立法で一律救済の法案を成立させることになり、平成21年11月30日に肝炎対策基本法が成立した。肝炎対策基本法はすべてのB型、C型肝炎患者の救済を目的とし、肝炎患者への治療負担の軽減を盛り込んでいる。さらに過去の薬害肝炎事件に関する国の責任も明記しており、肝炎患者救済の第一歩と期待されている。

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  日本では、昭和56年以降、野生株によるポリオ(自然感染)の発生はなく、平成14年にポリオ根絶を正式に宣言している。また同年、西太平洋各国もポリオ根絶を宣言している。しかし地球上から根絶との証拠がないため、ワクチン接種が続けられている。

 いっぽう、日本の生ワクチン接種後の二次性ポリオ、つまりワクチンによるポリオ発症は、14年間で182件である。この182件は国が認定した患者数で、軽微なものは含まれていない。

 昨年12月、神奈川県の黒岩知事は、より安全とされている不活化ポリオワクチンの輸入を約束し、これに対し、厚労省は不活化ポリオワクチンの安全性が確保できないと反対する声明をだした。

 このことについて、医師もマスコミも沈黙しているが、しかし、そもそも「存在しない疾患へのワクチン接種」そのものが間違っているのではないだろうか。乳幼児1人に6000円の費用をかけ、副作用のあるワクチン接種が本当に必要なのだろうか。 

 種痘を思い出してほしい。種痘は天然痘撲滅に大きな役割を果たし、昭和26年以降,日本での天然痘の発生はない。それが、昭和45年に種痘の副作用による死亡241例,後遺症254例,治療中148例(これは厚生省に届けられた数値で,実際にはその数倍とされている)との発表があり、種痘禍の世論が高まった。

 種痘は強制接種で、法律では罰則規定まで決められていた。まさに「存在しない疾患へのワクチン接種」が漫然と行われていた。

 厚生省は、昭和51年6月、予防接種法を改正し、種痘を強制接種から除外した。種痘の廃止ではなく、強制接種から除外したのは、もちろん「除外は事実上の廃止」であるが、除外としたのは、厚労官僚の「自分たちの行為は正しかった」の意地と、何か起きた場合の責任逃れの表れである。

 もう一度問う、本当にポリオワクチンは必要なのか。

 

 

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 明治政府は欧州に負けない強力な国家をつくるため、富国強兵をはかり、西洋文化を取り入れ、明治6年にキリスト教を解禁とした。キリスト教は封建的な考えを変え、精神的伝統である武士道と融合し、内村鑑三、新渡戸稲造,新島襄などを生み出した。

 いっぽう日本独自の道徳も重んじられ、徳富蘇峰は平民主義で官僚を批判し、三宅雪嶺は雑誌「日本人」を,陸羯南は新聞「日本」を創刊し,国粋主義の傾向も濃くなった。岡倉天心は東洋の美と精神論を重視し、それぞれがそれぞれの人生観、国家観、世界観を持つようになった。

 明治23年、教育勅語が発布され、天皇を中心とする道徳教育が国策となったが、ここで「現人神の天皇とキリストのどちらが偉いのか」の激論となった。この論争は自然に消滅したが、それは正解のない愚問だったからである。

 昭和8年6月、大阪市天神橋筋6丁目の交叉点で、陸軍の小隊が信号を無視したため、巡査が兵隊を天六派出所に連行。連行された一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と言ったため、殴り合いのケンカになった。

 憲兵隊が駆けつけ「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは許せない」と抗議。巡査はこの経緯を警察上層部に報告した。

 陸軍は「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍にかかわる重大な問題である」と声明。大阪府警察部長は「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝する必要はない」と言い切った。

 この事件は天六事件と呼ばれ、「天皇陛下の軍隊」と「天皇陛下の警察官」の意地の対立となったが、昭和天皇の特命により兵庫県知事が調停に乗り出して和解となった。

 このように物事には、法律で決められないもの、法律にそぐわないものがある。そして、その典型例が、昭和23年に制定された医師法である。

 医師法の21条では「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときには、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と異状死体の届け出を義務づけている。

 この医師法21条は西南戦争(明治10年)の3年前(明治7年)に設定されたもので、犯罪捜査に協力することを目的にしていた。明治、大正、昭和の良識ある人たちはこの条文を特に問題にしなかった。しかし医療事故が国民の関心事になりだした、平成6年、警察の友達である日本法医学会の変わり者が「診療中の死亡事故も異状死体とする」と発表して、医師法21条の解釈がおかしくなった。

「医療行為により死亡した場合、24時間以内に警察に報告せよ。報告しなければ罰するぞ」となった。病院で死ねば、警察への報告義務となるが、このような解釈をした学者こそが、学者面した学者馬鹿である。軽くて迷惑条例違反、重くて国家騒乱罪に相当する。

 また医師法の19条に、医師の応召義務という条文がある。応召義務とは「医師は、診察を求められた場合、正当な事由がなければ、拒んではならない」というものである。つまり「眼科医であれ、精神科医であれ、夜間でも休日でも、自分の結婚式や妻の葬式の日でも、盲腸を診なさい、骨折の治療をしなさい」という法律である。

 このような化石同様の医師法は、もはや考古学に分類すべきで、議論の余地もなく、即、廃止すべきである。そして、新たな法律ができたならば、名称は「新医師法」ではなく、「生類哀れみの令」がよい。医療において最も大切で、最も求められ、最も忘れられているのが、他人への「哀れみの情」だからである。

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 無過失補償制度とは、医療事故で障害を負った場合、医師の過失とは関係なしに、患者に補償金を支払う制度である。患者側にとっては「医師の過失を証明するのは難しく、裁判に時間がかかる」難点があった。また医師側にも「患者のための悪意なき医療行為が、結果によって裁判沙汰になることへの不満」があった。この解決策として無過失補償制度が支持された。

 医療事故による患者と医師を救済するために、まず2009年に出産時に起きる脳性麻痺患者にこの制度が導入された。通常の出産で脳性麻痺になった場合、一時金として600万円、20歳になるまで毎月10万円の計3000万円が支払われることになった。

 この産科医療補償制度は警察への通知義務はなく、保険料3万円は出産祝い金に上乗せされるので、妊婦への実質的な負担はなく、まさに画期的制度とされた。日本の分娩件数は年間100万件、出産時の脳性麻痺は年間500から800件とされていたので、保険料は総額300億円、支出は150億円から240億円とされた。

 この無過失補償制度は一見よさそうに思えるが、運営が日本医療機能評価機構で幹事会社が東京海上日動保険であることから、当初から「悪代官と越後屋」の悪知恵悪行を危惧していた。日本医療機能評価機構は厚労省の天下り団体で、民間保険会社は営利企業だからである。

 では制度が開始された2009年から、これまでの2年間を検証してみよう。2年間で補償が支払われたのは192件である。つまりおよそ500億円が余剰金となっているはずである。しかしこの余剰金について、日本医療機能評価機構と民間保険会社は沈黙を守っている。

 この産科医療補償制度は公的制度である。ゆえに余剰金があればそれを公表し、余剰金を還元すべきである。しかし彼らは余剰金を公表せず、さらに、脳性麻痺だけでなく、すべての医療事故に無過失補償制度を導入しようとしている。もちろん無過失補償制度の拡大は、余剰金の拡大を意味している。

 「日本医療機能評価機構と東京海上日動保険」よ! 早く余剰金を白状し、余剰金を返還せよ! 多分、彼らは、余剰金を「今後の基金のため」などと言うであろう。

 しかし、「やかましぃやい! 悪党ども! おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって! 悪党どもよ、この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!」、彼らの言い分は法律では許されても、庶民の味方、遠山の金さんは許さないであろう。

 

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 大学医学部が舞台のベストセラー


 山崎豊子が昭和38年からサンデー毎日に連載した「白い巨塔」が40年に新潮社から出版され、翌41年に映画化(大映)されると、大きな反響を呼んだ。そして44年に「続・白い巨塔」が出版され、白い巨塔は息の長いベストセラーとなった。

 欲望と野心の渦巻く医学界を描いた異色のベストセラーで、大学医学部の講座制をテーマにした小説としては、白い巨塔を超える小説はないといっても過言ではない。教授争いをテーマに医学界の暗部に鋭いメスを入れた小説で、これまで350万部を売り上げた。映画化のほかテレビドラマにもなった。


◎ 主人公・財前めぐる人間模様


 浪速大学第1外科における教授選、その後の医療訴訟をめぐる小説は、医学部という巨塔の裏に隠れた暗部を赤裸々に描いていた。それまで聖域とされていた医学部、ヒエラルキーのトップに立つ教授の権力、医局内の序列化、閉鎖された医局の壁と派閥化、金と名誉に揺れる医師たちの心理…、白い巨塔はこのようなドロドロとした医学部内部を見事に描いている。

 主人公・財前五郎や、その友人で医師として誠実に生きようとする里見脩二を中心に、医学部の実情をダイナミックな人間模様として描いている。

 財前は早くに父を亡くし、貧しい生活から援助を受け医学部に進んだ。そして資産家である婦人科開業医・財前又一の婿養子になって実力を付けてきた。浪速大学第1外科の助教授となり食道がん、胃がんの手術を得意とし、教授を差しおき財界人の手術を行い、マスコミの脚光を浴びるようになった。

 第1外科教授・東貞蔵は退官を間近に控え、後任の教授を誰にするか悩んでいた。財前が後任教授になるものと周囲は評価していたが、東教授は財前のごう慢な性格を嫌い、また部下が有名になることに嫉妬(しっと)があった。東教授は母校の外科学会のボスに相談、金沢大学医学部教授・菊川昇を推薦してもらうことにした。

 財前はこのことを知ると、猛烈な巻き返し運動を始める。財産家である義父は教授という名誉を娘婿に与えるため必死になる。財前は義父の財力、地元医師会とOBの後押しを受け、熾烈(しれつ)な教授選を勝ち取ろうとする。財前派は医学部長に高額な絵を送り、学会の理事への推薦や研究費の認可をちらつかせ、財前がわずかな差で教授選に勝つことになる。

 財前は、教授に就任すると国際外科学会から招待を受ける。権力と名誉を手に入れ、まさに得意の絶頂にあった。そのようなとき、第1内科の里見助教授からある腹痛患者の診察を依頼される。里見助教授は財前と病理学教室で一緒に学んだ親友であった。

 里見は胃カメラで異常がなかった腹痛患者を財前に依頼してきたが、財前は2枚の胃のレントゲン写真だけで噴門がんと診断した。術前検査で肺に異常な陰影があったが、それを里見助教授が指摘したにもかかわらず、財前は自らの実力を過信し、がんの肺転移を古い結核の陰影と診断してしまう。

 手術は成功し、患者の治療を医局員に任せると、多忙の中でドイツの国際外科学会に行く。しかし外遊から帰ると、待っていたのは患者の死であり、患者の家族は手術後一度も診察に来なかった財前の不誠実な態度に憤慨し、裁判に訴えることになった。

 里見助教授は大学での自分の立場が不利になることを承知で、患者側の証人となる。医療裁判はどちらが勝つのか予断を許さなかったが、誤診を認めない財前は証人に圧力をかけ一審では勝訴する。

 財前は教授として前途に野望を持ち学術会議選挙にも当選する。しかし二審の裁判では注意義務違反で敗訴し、最高裁に上告することになる。

 財前の身体は過労の中、いつしか病にむしばまれていた。財前は裁判で不利な証言をしたため近畿癌センターに左遷された里見に診断を仰いだ。孤高の学究肌の里見、典型的な権力志向である財前、この対照的な2人は対立しながらも互いの実力と友情を認めていた。

 財前の病は胃がんであった、そして自分を追い出そうとした元教授の東に手術の執刀を依頼した。東が財前の手術をすることになったが、開腹すると胃がんは肝臓に転移していて手の下しようがなかった。開腹したが何もできずそのまま縫合した。財前は肝不全で意識がもうろうとなりながら死亡する。

 白い巨塔は、医学部における野望、学問、友情、愛情、処世、名誉、それらを交錯させながら、医学界の知られざる事態と人間の生命の尊厳を描いていた。この小説には多くの人物が登場するが、読者はそれぞれの登場人物に感情移入できるほど見事に描かれていた。人間の感情が凝縮した小説であった。

 当時の大学付属病院はまさに「白い巨塔」だった。権威主義がはびこり、教授の言うこと、医師の医療行為は絶対であった。そして一般の人々はそのような医学部の権威主義を知ってはいたが、詳しい内情は知らなかった。権威に対する反発よりも、権威に対する尊敬と恐れの方が大きかったのである。

 そのため医療訴訟の件数は、戦前は12件であり、昭和20年から40年まででも9件にすぎなかった。この小説は大学病院内の権力闘争と葛藤(かっとう)だけでなく、医療訴訟という問題を取り混ぜていたことも患者の権利意識を先取りした小説といえる。


◎ 映画に加え4回もテレビドラマ化


 41年の映画化では、俳優の田宮二郎が主人公を演じ観客をうならせた。テレビドラマは42年(全26回、主役・佐藤慶)、53〜54年(全31回、主役・田宮二郎)、平成2年(4時間スペシャル、主役・村上弘明)に続き、平成15〜16年(全31回、主役・唐沢寿明)には連続ドラマとして25年ぶりとなる新バージョンが放映されたことは記憶に新しい。

 これらの中で特に田宮ははまり役で、白い巨塔というと田宮を連想する人が多い。その田宮は昭和53年12月28日、ドラマの最終回の放映を目前にして猟銃自殺、それまで13%だった視聴率が最終回(1月6日)には31.4%に跳ね上がった。

 山崎豊子は、大正13年に大阪に生まれ、京都女専国文科を卒業、毎日新聞大阪本社に入社。当時、学芸部副部長であった井上靖の下で記者としての記事の書き方の指導を受け、勤務のかたわら小説を書き始めた。

 昭和32年、昆布商人を主人公に大阪商人の哲学を描いた処女作「暖簾」を発表、翌33年には「花のれん」で直木賞を受賞した。同年、毎日新聞を退社し執筆活動に専念。その後、「女の勲章」「女系家族」「花紋」「ぽんち」など次々に作品を書き上げていった。そして白い巨塔、続・白い巨塔を書いた。

 また銀行の内部から企業の熾烈(しれつ)な戦いを描いた「華麗なる一族」を書き、国際商戦を生き抜く商社マンをテーマとした「不毛地帯」、太平洋戦争中、日米2つの祖国の間で苦悩する日系二世を描いた「二つの祖国」、中国残留孤児をテーマとした「大地の子」の戦争3部作を書いた。航空業界を描いた大作「沈まぬ太陽」を発表し、平成3年に菊池寛賞を受賞している。

 


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東北大医学部腎症候性出血熱事件(昭和50年)

 昭和50年の3月から5月にかけ,東北大学医学部の医師3人が原因不明の高熱,倦怠感,下痢をきたして入院した.検査では一過性の腎障害,血小板減少症,単球増加症,非定型リンパ球の出現,肝機能障害を示していた.症状はインフルエンザと似ていたが,3人のうちのひとりは出血傾向が強く重症となった.

 この事件から2年後の昭和52年,同じ東北大医学部で11人の医師と動物飼育係が同じ症状を引き起こした.この11人はいずれも動物実験施設に出入りしていたため,動物実験施設での感染が考えられた.

 医学部で発生した病気である.あらゆる感染症を想定して検査がおこなわれた.調べが進むにつれ,動物実験室のなかでも特にラットの部屋に出入りしている者が多く発症していることが分かった.このことからラットを介して感染する疾患である腎症候性出血熱が疑われることになる.しかし腎症候性出血熱は日本では珍しい病気で,それまで日本での発症はほとんどなかった.そのため診断をつけることはできず,診断のための検査材料もなかった.そのため韓国ソウルの李博士のもとに患者の検体を運び検査をしてもらった.そして検査の結果,疾患は腎症候性出血熱であることが確認された.それまでラットの感染によって腎症候性出血熱が発症した報告はあったが,動物実験用のラットから感染したのは初めてのことであった.実験室内のラットの血清も調べられ高力価のハンタウイルスの抗体が検出された.

 この腎症候性出血熱は10世紀の中国の文献に記載されている旧満州の風土病で,旧満州に移住した日本人の多くの生命を奪っていた.昭和初期の満州アムール川流域に滞在していた日本軍兵士の間で,この腎症候性出血熱が大流行し,陸軍軍医団により「流行性出血熱」と命名されていた.日本軍兵士100万人の兵士の1%1万人が流行性出血熱に罹患し,その30%が戦わないうちに病死したとされている.このウイルスの威力を目のあたりにして,日本の細菌部隊である731部隊(石井部隊)が流行性出血熱の研究をおこなっていたことは有名であった.そして細菌兵器としてハンタウイルスの人体実験をおこなったとされている.

 この疾患が一躍有名になったのは,昭和26年から昭和28年にかけての朝鮮戦争の最中,まず北朝鮮軍の間で流行,次いで国連軍兵士約 3,000 人以上が発症する流行があった.死亡率は3.3%で当時は「韓国型出血熱」と名付けられていたが,臨床症状や解剖所見から日本陸軍を悩ましていた流行性出血熱と同じ疾患であることが分かった.北朝鮮は「この韓国型出血熱は731部隊 が分離したハンタウイルスをアメリカ軍が使用した」と主張し,アメリカ帝国主義の犯罪的な細菌兵器と非難した.朝鮮戦争が終わっても韓国の農村部で韓国型出血熱は流行し,9000人が発症,1000人近くが死亡したとされている.

 昭和51年に韓国・高麗大学の李博士が流行地で捕まえたアカネズミの肺組織から原因ウイルスを初めて分離し同定した.ハンタウイルスとはアカネズミが捕獲された38度線近くを流れる漢灘江の名前(Hantaan river)から命名された.ハンタウイルスの発見によりこの疾患の本体が解明できた.つまり流行性出血熱,韓国型出血熱,腎症候性出血熱は同じ疾患だったのである.

 日本では昭和35年から10年にわたり大阪梅田駅周辺の繁華街でドブネズミを感染源とする流行があり119人が罹患し2人が死亡している.当時,梅田熱の原因はまったく分からなかったが,昭和51年になって韓国で同ウイルスの存在が発見され,保存されていた血液の検査から梅田熱がハンタウイルスによるものだったことが判明した。それまで「梅田熱」「梅田の奇病」「ビルの谷間の風土病」と呼ばれていたが,それらは梅田の闇市のドブネズミが持っていたハンタウイルスによって感染した腎症候性出血熱であった.その後,梅田の衛生状態が改善され街中での流行はみられていない.

 医学部の実験室で発生した腎症候性出血熱は実験用のラットがハンタウイルスに感染していたのだった.ラットから便や尿に排泄されたウイルスが乾燥し,ホコリとともに空気中に飛散し,そのウイルスを吸い込むことにより感染したのである。腎症候性出血熱は人から人への感染はないとされ,感染には必ずラットが介在した.実験施設で流行があった場合には,実験施設の閉鎖,数千匹の全ラットの安楽死がなされた.

 腎症候性出血熱は東北大医学部ばかりではなかった.昭和5912月,東京経団連ホールで開かれた「動物実験シンポジウム」で,大阪大学・山之内孝尚教授は日本各地の研究施設で腎症候性出血熱が頻発していることを発表した.日本では昭和44年から医科系大学の動物実験施設22ケ所で計126名が感染,札幌医科大学の動物飼育員1人が死亡しており大きな問題になった。

 腎症候性出血熱の治療はウイルス性疾患であるため特効薬はなく対症療法だけである.軽症例は自然治癒するが,重症例では DIC やショック予防のため輸液・補液を行う。致死率は5%とされている.

 不活化ワクチンが中国と韓国で市販されているが,日本では市販されていない。なお平成145月,北海道市立根室病院でハンタウイルス感染を示す急性腎不全患者3人が見いだされたことが報道されたが,血清検査の結果陰性であることが分かった.北海道の野ネズミであるエゾヤチネズミの1割がハンタウイルス抗体陽性であることから,報道が先走ってしまった.

 しかし近畿・中国地方の8病院を対象に平成12年から2年間に人工透析を受けた患者532人を無作為に選び,近畿地方の3病院で男性4人、女性3人の計7人、中国地方の1病院で女性1人の計8人(47歳—81歳)からハンタウイルスの抗体が検出された。この8人の居住地や勤務地を調べたところ、中国地方に住む1人を除く近畿地方の7人全員の生活圏で、厚労省の検疫所が同ウイルスを持つドブネズミを多数確認していたことが判明した。

 ハンタウイルスは飛散したネズミの排せつ物を吸い込んだり、ネズミにかまれたりして感染する。発症すると、発熱や頭痛が起き、悪化すると「腎症候性出血熱」となって、体内に毒素がたまる急性腎障害を引き起こす。 このため慢性腎不全患者の中に同ウイルスに起因する患者が隠れている可能性があるとして注目された。感染ネズミが住む地域を生活圏とする人工透析患者が見つかったことから、ウイルスが慢性的な腎不全の引き金になるかどうかを調べる必要がある.

 日本では昭和59年以降,腎症候性出血熱の発症はみられていないが,中国では現在でも年間約10万人の患者が発症,韓国では数百人、欧州全域では数千人程度の患者発生があると推測されている.ハンタウイルスは韓国で最初に発見されたが,韓国だけにあるウイルスではない.ネズミのいるところにハンタウイルスは存在するのである.つまり世界中どこでも発症する可能性がある.

 ハンタウイルスによる感染症は,腎症候性出血熱の他に,「スカンジナビア型」と「ハンタウイルス肺症候群」の二種類のタイプがあることがわかっている.いずれも齧歯類の糞尿に潜むハンタウイルスが引き起こす.スカンジナビア型は軽症で流行性腎症状と呼ばれていたものである.

 「ハンタウイルス肺症候群」は日本での発症例はないが,腎症候性出血熱と同様に4類感染症に分類されている.ハンタウイルス肺症候群は米国においてはハタネズミのあいだでウイルスが保有されているものの,ヒトに対する病原性が不明であったため問題視されていなかった。ところが1993 年、アメリカ南西部で肺水腫を伴う急性の呼吸困難による死亡が複数報告され注目を集めた。腎症候を伴わず急性の呼吸器症状,急激な呼吸困難により死亡率が高いというのが特徴であった.アメリカでは平成5年以降,162人が感染し,76人が死亡,致死率45%という恐ろしい感染症である.カナダでは西部で多く発生しており,1994 年から1999 年に32 例があり、うち12 例(38%)死亡している。平均年齢は39 歳、男性が19 例(60%)である。平成99月にはアルゼンチンで20人が感染,11が死亡する感染が起きている.アルゼンチンの感染の特徴は最初の感染はネズミであったが,最初の感染者に続いて,母親,主治医,主治医の妻,というように人間から人間に感染したことである.ハンタウイルス肺症候群は南北アメリカ大陸に限局して発生している.

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2010.03.21 06:34 |  研究  |  医療事故  |  映画 / 音楽 / 読書  |  スーさん  | 推薦数 : 1

荻野久作博士死去

荻野久作博士死去(昭和50年)

 日本の医学を飾る偉人の名前を挙げるとしたら,小学生でも野口英夫,北里柴三郎などの名前を挙げることができる.しかし視点を海外に向け,日本の医師の中で,世界で最も知られている医師は誰かと言えば,それは新潟に住む一介の勤務医・荻野久作先生がダントツの第1位になるであろう.その荻野久作博士が昭和5011日新潟市で逝去なされた.荻野博士が92歳で亡くなられた時,地元紙は佐藤総理よりノーベル賞にふさわしかった人と書いた.

 荻野博士は新潟市にある竹山病院の勤務医として生涯に20万人の患者を診察した.新潟市の人口は40万人であるから,新潟市の半数に相当する患者を診察したことになる.荻野博士は月経と排卵の関係を応用したオギノ式避妊法で世界的に有名となったが,世界の荻野である前に新潟市民の健康を守った臨床医荻野であった.

 世界的な学者・荻野久作博士は明治15325日,愛知県八名郡下条村で農家・中村彦作の次男として誕生した.明治33年に同県荻野家の養子となって上京.旧制1高を経て,明治42年に東京帝国大学医科大学を卒業した.養母の妹である高橋瑞が助産婦から日本で3番目の女医になった影響もあり,荻野久作は産婦人科学教室に入り木下正中教授について研究生活に入ることになる.明治45年,たまたま新潟市の竹山病院から求人が舞い込んだことから,博士は婦人科医長として竹山病院に赴任することになった.以後亡くなるまで竹山病院の勤務医として過ごすことになる.大正4年,長岡市の大塚益郎の三女とめと結婚,久作34歳,とめ29歳の晩婚であった.

 その当時は妊娠の仕組みについてまだ解明されておらず,産婦人科医である荻野博士は一貫して月経と排卵との関係について研究した.妊娠の仕組みは女性の卵子が卵巣から飛び出して卵管に入りそこに精子がきて受精することは解明されていた.しかし女性の排卵がいつ起きるのかが分からなかった.女性の排卵時期に関する論争は,17世紀に卵巣に卵子が発見されて以来,未解決の問題となっていた.荻野博士は診療に追われる生活を送りながら,新潟医科大学病理学教室・川村麟也教授のもとで卵巣の脂質についての研究をおこなった.

 排卵日と月経の関係について多くの学説が混在していた.「月経は発情期のようなもので,排卵と月経は同時に起こる」,「ウサギと同様に,性交の刺激によって排卵する」,「排卵は月経初日の14日から16日目に起こる」,「月経と排卵日に関係はない」.このような学説があったが,証明はなされてはいなかった.それまでの学説の主流は最終月経から次の排卵日を求めようとするものであった.

 しかし荻野博士はこの学説とは逆の発想をもっていた.荻野博士は患者の聞き取り調査から「排卵は次の月経がくる16日から12日前の5日間に起きる」とする新説を唱えたのである.多くの学者が排卵日を月経から何日目かで争っている時に,排卵日を次回月経から逆にさかのぼった点が天才的発想であった.荻野博士は65例の開腹手術で子宮内膜,黄体,月経の関連を調べ,月経が排卵によって生じることを証明したのである.

 大正13年,荻野博士は「人類黄体の研究」により東京帝国大学から医学博士号を取得。そして同年,「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化の周期及び受胎日に就て」の演題名で日本産婦人科学会誌に論文を発表した.この論文は産婦人科学会の懸賞当選論文となり英訳もなされることになった。

 昭和2年,「主婦の友12月号」に「誰にでもわかる・妊娠する日と妊娠せぬ日の判別法」という記事が載った.この記事は医師・赤谷幸蔵が書いたもので,荻野学説にもとづいた妊娠暦の紹介であった.この時期にはまだ受胎調節法である荻野式は一般的ではなく,荻野式という言葉はまだ浸透してはいなかった.新潟の民間病院の勤務医だった博士の学説が海外で注目されるのはもう少し時間が必要であった。

 荻野式という言葉が一般化するのは,荻野博士が欧米へ1年間留学しベルリンでドイツ婦人科中央雑誌に論文を発表してからである。月経から排卵日を予測する学者たちから批判を受けたが荻野学説は世界的に大きな反響を生んだ.帰国後,論文がオランダの雑誌に転載され,そこには「周期的禁欲法として応用できる」という宣伝文句がついていた.このことが脚光に加速度を付けた。そして博士の受胎法の目的が,いつのいまにか避妊法として一人歩きしたのだった.この避妊法は避妊を禁ずるカトリック信者の間であっという間に流行した。

 荻野博士が発見した月経と排卵の関係は世界的な大発見であった.荻野博士によるオギノ式避妊法が世界的に有名になったが,荻野式は受胎法であって避妊法でないとするのが博士の持論であった.荻野博士は避妊法を研究したわけではなかった.しかし博士の考えとは別に,オギノ式避妊法が世界的に普及していった.多くの避妊法があるが,オギノ式避妊法はキリスト教が認めた唯一の避妊法となった.

 キリスト教はそれまでの避妊法をいずれも認めていなかった.生殖を目的としない性行為を罪と考えていたからである.膣外射精でさえも罪とされた.しかし時代の流れの中で,避妊を認めるべきとの議論が盛り上がってきた.

 1968年,カトリックの歴史のなかで避妊を認めかどうかの会議が行われた.避妊を容認するかどうかの諮問委員会が世界中の神学者や医師が集まり開かれていた.そして諮問委員会の意見は避妊容認に傾いていた。カトリックの歴史で初めてピルやコンドームを認めるかどうかの最後の決断がパウロ六世に求められていた。

 ローマ法王パウロ六世は苦悩していた。世界中が法王の決断に注目するなかで,法王は直接に受胎を妨げる避妊法は常に許されないと発言,ピルやコンドームなどの使用を退けた。そして唯一認めたのがオギノ式避妊法だった.そのためオギノ式はバチカン公認の避妊法として世界中の脚光を浴びることになった.

 荻野博士が発見したのは月経と排卵の関係であり,それを応用したオギノ式避妊法は博士にとって関心のないことだった。子供がほしい人にとっての受胎法であり,避妊を目的とするものではなかった.荻野式避妊法は月経から次の排卵日を想定して禁欲する方法であるが,避妊法としては失敗例が多かった.月経を基準に不妊期をはじき出すため,周期が狂えば失敗につながった。月経周期が安定している女性は意外に少なかった.博士自身,オギノ式に従う限り一日といえども安全な日はないと警告している.

 しかしオギノ式避妊法は世界中に広まることになった.特に世界中の厳格なカトリック信者たちにとっては,今でも、「法王が認める避妊法」として荻野式避妊法だけがもちいられている。

 現在,排卵期と月経との関連性についての荻野学説はすでに定説化している。そして彼の学説は欧米の教科書にも記載されており,またそれを応用した荻野式避妊法は世界的に広く知られている。

 荻野式避妊法は世界的に用いられていたが,現在では,欧米ではピル,日本ではコンドームに取って代わられている.オギノ式や基礎体温法などの周期法は以前ほどではないが,現在でも日本では避妊法の第二位を守っている。

 世界的な荻野博士は大学からの誘いは断り,八十歳を過ぎても手術にあたり、九十歳近くまで新潟で診察を続けた。荻野博士の家が面していた道路は「オギノ通り」と名付けられ,博士は「オギノ通り」を自宅から病院まで通う毎日であった.新潟の地元の人々にとって荻野博士は偉大な臨床医師であった.

 

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