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昨年1月、各新聞に上記見出しが掲載され、「予防接種の注射器の使い回しによってB型肝炎ウイルスが感染した」として、国が裁判所の和解案を受け入れ、最大3兆2000億円が必要と書かれてあった。
この記事を読んで、首を傾げた医師が多かったと思う。
それは、予防接種によるB型肝炎を、どのように証明するかへの疑問であった。
B型肝炎ウイルスは有史以前から存在しており、その感染は母児感染だけではない。
にもかかわらず、昭和61年に母児感染ワクチン接種が始まったことから、それ以前の感染を全て予防接種によるものとしているからである。
予防接種による感染と、自然感染、輸血、ヒロポン、刺青、他の射器の使い回しによる感染をどのように区別するのか。これらは医学的には不可能である。また昔のカルテなど存在しないから、被害は患者の自己申告だけになる。
たとえ予防接種で感染したとしても、天然痘、ポリオなどの予防接種で救われた人は数えきれず、また当時における、注射器の使い回しの危険性の認識の程度についても考慮されていない。
特に釈然としないのは、現在ではB型肝炎は性感染症であり、セックスによる感染をどのように否定するかである。性感染症よるB型肝炎は遺伝子のタイプが違うというが、それだけでは性感染症を否定はできない。性感染に、なぜ私たちの税金(和解金)を払わなければならないのか、感情的にも納得できないのである。
C型肝炎訴訟では「フィブリノゲンを出産時に使用された母親ならびに子」と患者は限定されていたが、C型肝炎についても注射器の使い回しによる可能性があるだろうし、梅毒だって感染の可能性はゼロではない。
弁護士の報酬は、和解金の15%、つまり4800億超が弁護士の収入になる。 B型肝炎訴訟は弁護士救済のための和解なのだろうか。せめて補償額は治療費だけにすべきである。日本は1000兆円の借金大国である。消費税を10%にしても、年金さえ満足に払えない。東日本震災の被害者を考える場合、3兆2000億円の和解金は納得しがたい。さらに、症状がない感染者にも50万円を支払うことも納得できない。
もしB型肝炎の患者が、「どのような手続きをとれば、和解金をもらえるのか」と訊かれたら、どのように返答すればよいのだろうか。もちろんワクチンの接種による感染を起こした症例もあるだろうが、患者全てがそうとは思えない。和解金といえども私たちの税金である。どこか釈然としない。
多分、「B型肝炎訴訟、和解金3兆2000億円」の記事は、日本のB型肝炎患者数に和解金をかけただけの単純計算と思われる。「人気取り優先の政治家の判断による和解」であって、優秀な厚労省役人は「ワクチン接種によるB型肝炎」の定義を厳しくして、和解できなくするであろう。多分、和解総額は1/10、1/100ぐらいになるであろう。
かつての私たち医師仲間は、針刺し事故、手術時の感染などで、多くが肝炎に罹患していた。医師にとって肝炎は「患者を救うための、職業病」だった。もちろん針刺し事故によるB型肝炎は訴訟には含まれていない。
やはり釈然としない。
昭和29年4月15日、京大病院第一内科で2人の若い医師、三上治助手(29)と山本俊夫無給副手(28)がある人体実験を行った。それは輸血後肝炎の患者から採血した血液1ccを自分たちの腕に注射する実験であった。
その当時は、血清肝炎の概念は確立しておらず「肝炎が血液から感染するとしても軽い黄疸程度」との軽い気持ちだった。ところが注射から42日目の5月26日、三上助手は悪寒、戦慄、倦怠を覚え、3日後には意識障害から昏睡状態となり、翌30日に死亡した。三上助手は病理解剖によって劇症肝炎と診断された。山本無給副手も肝炎を発症したが、軽い倦怠感だけであった。
当時は、肝炎ウイルスの正体は全く不明で、A型肝炎、B型肝炎、C型肝炎の区別さえなかった。肝臓の病理所見からも区別はできず、肝炎の感染経路、潜伏期などから、肝炎には2種類あるらしいことが推測されていた。
三上助手の研究テーマは肝炎ウイルスで、ウイルスを分離するためマウスに患者血清を注射する実験を繰り返していた。血清肝炎は現在ではB型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスなどが原因と分かっているが、肝炎ウイルスは人間とサル以外の動物には感染しないことが特徴であった。そのためマウスの実験では感染は成功しなかった。三上助手は患者の血液から肝炎がうつるかどうか疑問を持っていた。もし感染するとしたら、どのような症状がどのような経過で出現するかを自分の目で確かめたかった。
この詳細については、山本無給副手が内科宝函(第四巻第五号)に論文として記録を残している。山本無給副手はその後、近畿大学医学部教授になっている。
昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。
書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。
このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。
刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。
駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。
犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。
少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。
ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。
輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。
この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。
ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。
日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。
ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。
最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。
精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。
親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。
ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。
ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。
当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。
ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。
ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。
昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。
ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。
昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。
ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。
大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。
日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。
ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。
その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった
肝炎の多くはウイルスの感染によるもので、ウイルス性肝炎は主にA型、B型、C型に分類される。B型肝炎ウイルス(Hepatitis B virus:HBV)の感染によるものがB型肝炎である。
昭和61年1月、 HBVの母子感染を防止するため、ワクチンの接種が公費負担で開始された。国と地方自治体が責任を持ち、HBVを持った母親から子供へのHBV感染を、ブロックするためであった。
このワクチン接種で当時300万人、人口の2.7%とされていたHBVキャリアは激減することになった。現在、HBVキャリアは約110万人、人口の0.9%であるが、昭和61年以降に生まれた子供では0.04%と著しく低下している。
HBVの感染は、感染から数カ月後に身体からウイルスが排除され、免疫ができる「一過性感染」と、長期にわたってウイルスが肝臓に住みついてしまう「持続性感染(HBVキャリア)」がある。B型肝炎が恐ろしいのは、成人になって感染する一過性の急性肝炎ではなく、乳児期に感染を受けた持続性感染である。
成人がHBVに感染した場合、免疫機構が働きHBVを体内から排除する。多くは無症状のまま、数カ月の経過でHBVは体内から排除されて治癒する。倦怠(けんたい)感や食欲低下などの急性肝炎の症状が一過性に出現することがあるが、慢性化するのは少数で、成人はHBVに対し終生免疫を得るため問題を残さないことが多い。
一方、免疫能が十分でない乳児がHBVに感染した場合、持続性感染となり問題を残すことになる。B型肝炎の母親から生まれた乳児が、産道内でウイルスに感染すると、HBVは免疫の未熟な乳児から排除されず、長期間にわたって肝細胞内に住み続けることになる。これがHBVの持続感染で、このような乳児がHBVのキャリアとなる。大部分のHBVキャリアは、自覚症状を示さないため、「無症候性キャリア」と呼ばれ、約10〜15%が慢性肝炎に移行し、その20%が肝硬変になる。さらに肝臓がんに移行する。
肝臓は、「沈黙の臓器」といわれ、予備能力が高く、日常生活では全体の20%の能力を使っているだけである。そのため、重症化するまで自覚症状を示さないのが特徴である。
かつてB型慢性肝炎が慢性肝炎の約3割を占めていた。そしてその多くがキャリアからの発症で、キャリアの大部分は4歳以下の乳幼児期に感染したものであった。
母親がB型肝炎であっても、子供が必ずしも感染するわけではない。HBVの特殊な成分であるHBe抗原が陽性で、母親がこのHBe抗原への抗体を持っていない場合のみ感染する。HBe抗体を持っていれば、乳児への感染はないと考えてよい。
胎児感染防止には、妊婦全員にHBVの検査を行うことである。HBe抗原が陽性であれば母親は肝炎キャリアである。さらにHBe抗体が陰性であれば、赤ちゃんへ感染する可能性が高い。
この予防としてワクチンの接種が開始されたのである。赤ちゃんにB型肝炎ワクチンを打つことによって感染を予防できるからであった。このことにより、日本人のB型肝炎キャリアは急速に減少、結核に代わる第2の国民病といわれていたB型肝炎は、ワクチン接種により激減したのである。
B型肝炎ウイルス(HBV)は、輸血によっても感染するが、輸血が行われる以前から日本に存在していた。その主な感染ルートが母子感染で、それは出産後のワクチン投与によって予防可能となった。
当初のワクチンは、HBV患者の血液からウイルス抗原を分離してつくられていた。その後、遺伝子組み換え技術を用いて、HBVの表面抗原を酵母に入れて培養する方法が開発された。これは遺伝子工学の手法により、初めて製品化されたワクチンで、この方法によりワクチンの大量生産が可能になり、価格も比較的安く、効果が安定したワクチンの供給が可能となった。
全国25の大学や国立病院で、約2300人を対象に行われた臨床試験では、新ワクチン接種により96%の高い抗体獲得率を得た。遺伝子組み換え技術によるB型肝炎ワクチンは、臨床試験でも従来のワクチンを上回る有効性が確認された。
HBVキャリアは、全世界で約3億人と推定され、欧米に少なくアジアやアフリカに多い。HBVキャリアから肝硬変、肝がんとなって死亡する患者は、全世界で毎年100万人とされている。
現在、HBVの母子感染、輸血による感染は、ほぼ100%防止されている。問題となっているのは性行為による感染である。B型肝炎は、母子感染(垂直感染)あるいは輸血によるイメージが強いが、性行為による感染(水平感染)が意外に多い。
HBVは、C型肝炎ウイルス(HCV)やエイズウイルス(HIV)より感染力が強く、精液や体液、分泌物などに混入した微量の血液が感染源となるが、しかし、性行為によるHBV感染の予防策、その啓発はなされていない。エイズが、性行為による感染であることは知られているが、HBVが性行為によるとする認識は薄い。このため、若い年齢層を中心に、性行為に伴うHBV感染が拡大傾向にある。
HBVに感染する可能性のある性行為を行った場合は、3カ月間は献血しないことである。感染から3カ月間は抗体がつくられないため、献血での検査をすり抜けてしまうからである。
通常の生活では、B型肝炎患者から感染する可能性はほとんどない。しかし、医療現場では針刺し事故による感染の可能性があるので、B型肝炎への抗体を持たない医療従事者は、ワクチンの接種を受けるべきである。
母子感染の件数は、昭和61年の年間約4000人から10年後には約400人に減少した。胎内での感染を除けば、ほぼ予防できるようになった。しかし最近、B型肝炎の恐怖が薄れたことから、母子感染を起こす例が意外にあることが分かった。
厚生労働省の「ウイルス母子感染防止に関する研究班」が全国の272病院で行った調査によると、平成12年に判明したB型肝炎の母子感染は41例。この約3割が、ヒト免疫グロブリン製剤やB型肝炎ワクチンを投与されていなかった。本来行われるべき処置が行われず、あるいは投与時期を間違い、子供へ感染させたのである。これらは医療機関の怠慢といわれても仕方がない。
昭和62年7月26日、三重大医学部付属病院で記者会見が行われ、同病院の小児科医師2人と看護師1人がB型肝炎に感染し、医師2人が死亡していたことが発表された。亡くなったのは、谷本晃医師(28)と徳井亜弥子研修医(28)だった。女性看護師(36)は重症だったが一命を取り止め、回復に向かっていると説明された。
病院内での感染事故はこれまでにもあったが、3人がほぼ同時期に感染し、しかも極めてまれな劇症肝炎になったのである。なぜこの劇症肝炎事件が連続して起きたのか、謎を含んだ怪事件として憶測が渦巻いた。
三重大の説明によると、最初に劇症肝炎を発症したのは研修医の徳井亜弥子さんだった。徳井さんは前年春に同大医学部を卒業、国立津病院で1年間の研修を受け、同年4月から大学病院に勤めていた。徳井さんは7月6日ごろから高熱と倦怠感を訴え、小児科のベッドで点滴を受けていた。しかし体調が改善しないため同病院の内科を受診すると、GOT、GPTの数値が1万を超えていて、劇症肝炎と診断されて直ちに入院となった。入院しても症状は改善せず、入院翌日には昏睡状態に陥った。血漿交換の治療が行われたが、意識は戻らず同月17日に息を引き取った。
医師の谷本晃さんが発熱とだるさを訴え、劇症肝炎と診断されたのは同月12日だった。入院したときには手遅れの状態で、昏睡状態のまま同月25日に死亡した。谷本晃さんは自治医科大出身で4年間の研修医生活を終え、徳井さんと同じように4月から大学病院で患者の治療に当たっていた。看護師もほぼ同時期に発症したが、GPTは5000程度にとどまり、肝機能は回復傾向を示した。彼女は看護学校で教官を務めた後、同じように4月から大学病院で働いていた。
3人がほぼ同時期にB型肝炎に感染して劇症肝炎を発症させたのである。病院は谷本晃さんの死亡した翌日に記者会見を開いたが、報道陣への病院側の口は重かった。関係者への直接取材は禁止され、病棟への立ち入りも許されなかった。
劇症肝炎とは肝細胞が急激かつ大量に壊れてしまう病気で、ウイルス感染が9割を占め、そのほか薬剤によっても誘発される。劇症肝炎の約40%はB型肝炎ウイルス(HBV)が原因であるが、B型急性肝炎から劇症肝炎へ移行するのは1%以下とされ非常にまれといえた。
日本での劇症肝炎患者は年間1000人程度なのに、同じ病棟で働く3人が同時期に劇症肝炎を発病したことは、何らかの共通した感染経路があったと考えられた。しかし記者会見ではこの感染経路についてはあいまいな説明に終始した。
集団感染が起きた場合、2次感染予防のために感染経路の把握は重要である。3人が同じ小児科に勤務していたので、B型肝炎の小児患者から感染したとされたが、感染源、感染経路は不明であった。
B型肝炎は血液で感染した場合、潜伏期間は平均3カ月前後とされている。感染した3人は4月から同病院で勤務を始めたばかりで、ちょうど3カ月後に発症していることから、4月以降の小児科に入院した患者から感染したと考えられた。
三重大付属病院小児科は、未熟児の専用ベッドを含め50床の規模で、研修医を含めた医師約20人と、看護師20数人が小児患者の治療に当たっていた。入院患者は白血病が多く、約1割の患者がB型肝炎ウイルス(HBV)を保有していた。そのため小児科病棟ではB型肝炎と分かっている患者の採血には十分に注意していた。
HBVの感染力は強く、1ccの1億分の1ほどの血液が入っただけで感染する。入院患者の約1割がHBVの感染者だったので、感染源は入院患者と推測されたが、なぜ3人が同時期に発病したのか、なぜ劇症化したのか謎だった。3人は3人とも感染の心当たりはないと同僚に話していたのである。専門的な知識を持っている医師が、針刺し事故などの感染の自覚もなく発病したことも謎だった。もし針刺し事故で感染した場合には、48時間以内に免疫グロブリンを投与すれば発病は防げたはずであった。三重大付属病院は小児科に勤務する職員全員を検査したが、HBVについては全員が陰性だった。
医師や看護師は採血や輸血のとき、あるいは手術やお産などの際に、注射針を指に刺すことがある。医療従事者のうち年間約5%が針刺し事故を経験している。しかし劇症肝炎の例はほとんどなく、感染後も通常の生活を送っているのがほとんどであった。
劇症肝炎の死亡率は極めて高く、救命率は20%とされている。治療としては肝臓の働きを補うため、患者の血液から血球以外の成分(血漿)を取り除き、健康な人の血漿と交換する「血漿交換療法」と、血液透析を応用した「血液濾過透析療法」の併用療法が取られる。この治療で、肝臓機能の低下している期間を乗り切れば、肝臓が再生してくるので救命が可能であった。しかし劇症肝炎の致死率が高いのは、このような治療によっても肝臓の機能が回復しないことが多いからで、その際には肝移植の治療しかないのである。
三重大肝炎感染事件は、その後の研究で原因が次第に分かってきた。同大医学部教授(臨床検査部)小坂義種らは死亡した2人医師の劇症肝炎は、変異したB型肝炎ウイルス(HBV)に感染したためとした。それまで劇症肝炎の原因は患者側の体質とされてきたが、HBVの変異によって劇症肝炎が生じたとしたのである。
小坂義種教授らは各病院で発生した典型的な劇症肝炎患者10人の血液を分析、自治医科大グループらは血清からHBVを分離して遺伝子構造を解析した。その結果10人のうち9人から、ウイルスの遺伝子の塩基配列が1つだけ違う変異ウイルスを検出した。この変異を目印に三重大の感染源を調べたところ、2人の医師が出入りしていた小児科病棟から、ウイルス量が30倍多い小児患者が見つかった。この小児患者から何らかの経路で血液を介して感染したと判断され、この研究結果は米消化器学会雑誌に掲載された。
この事件をきっかけに、東京女子医科大付属病院をはじめとした各地の病院から、医療従事者がB型肝炎に感染し死亡していたことが報告された。それまで散発的に死亡例が報告されていたが、B型肝炎は法定伝染病ではないので正確な患者調査は行われていなかった。労働省は医療従事者の業務上疾病による労災認定を再調査し、約2年間で73人の医療関係者がB型肝炎を発病し、8人が死亡していたことを明らかにした。73人の職種の内訳は、医師12人、看護師47人、臨床検査技師10人であった。そのほとんどは、患者の採血時に自分の指を刺して感染したものだった。
主だった事故を列挙すると、東京女子医科大=看護師がB型肝炎に感染し死亡(昭和61年12月)▽大宮日赤病院=医師が患者の吐血を浴び、B型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽岸和田市民病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽福岡大病院=医師3人がB型肝炎に感染し、2人が死亡(62年7月)▽清水厚生病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽愛知県町立野村病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年9月)などである。
B型肝炎ワクチンは約2万円で、自己負担になるため普及していなかった。ワクチンの予防効果は90%以上とされているが、その対策を病院は取っていなかったのである。もし三重大付属病院で感染した3人が予防ワクチンを受けていたら、発病しなかったと考えられるが、当時は接種していない医療従事者の方が圧倒的に多かったのである。
厚生省は各医療機関に医師や看護師らのワクチン接種を指示していたが、費用を病院の負担としていたため一般化していなかった。三重大付属病院では、3年前にも外科の研修医がB型肝炎に感染し重症となったが、その教訓が生かされていなかった。医療従事者にとって、劇症肝炎はいつ自分の身に降り掛かってきても不思議ではない。厚生省はこの事故で、国立病院の医療従事者約3万人に国費でB型肝炎ワクチン接種を受けさせる方針を決め、民間病院でもB型肝炎ワクチン接種が普及するようになった。
現在では、原則として30歳以下の医療従事者全員が肝炎ワクチンを接種している。以前のワクチンは、感染者の血液の表面に分布するタンパク質を分離・精製する方式で製造していたが、現在では遺伝子組み換え型のワクチンを使用するようになって、接種者の抗体陽性率はほぼ100%になっている。
三重大医学部付属病院の3人は、いずれもB型肝炎ワクチンや免疫グロブリンを受けていなかった。ワクチンが約2万円と高価で、「自分だけはうつらない」とする安易な考えが悲劇のもとにあった。肝炎を防ぐ予防策がありながら、対策を講じていなかった医療側の無責任体質を浮き彫りにした。この点に関し、厚生省は「日本の健康保険は治療を目的としているため、予防を目的としたワクチンは適用されない」と、お役人らしいコメントを述べた。医療従事者全員がB型肝炎ワクチンを接種できるようになったのは、若くして世を去った勤務医・研修医・看護師らの犠牲があったからである。彼らへのご冥福を祈りたい。
昭和63年8月1日、C型肝炎ウイルス(HCV)が発見されたと新聞が大きく報じた。米国のバイオテクノロジーの企業カイロンが、HCVの抗原タンパクの遺伝子クローニングに成功したのである。
昭和40年にB型肝炎ウイルスが、昭和49年にA型肝炎ウイルスが米国で発見されていたが、それら以外にも肝炎を引き起こすウイルスの存在が予想されていた。それは「非A非B型肝炎、輸血後肝炎」と呼ばれ、世界中のウイルスハンターの努力にもかかわらず、その正体はまったく分からずにいた。
HCVは培養細胞で増殖しないこと、チンパンジー以外の動物では実験できなかったことが発見を遅らせていた。カイロンは、非A非B型肝炎を感染させたチンパンジーの血液から、HCVの遺伝子を取り出すことに成功。さらにHCVの抗体検査キットの開発にめどがついていることを明らかにした。
このカイロンの突然の発表は世界中を驚かせた。しかもこれだけの発見でありながら、HCVの発見は肝臓の専門医の間でもうわさになっておらず、学会にも報告されていなかった。さらに発見した学者名も分からず、カイロンの特許申請によって初めて明らかにされたのだった。
HCVが発見されるまでは、肝臓病の原因は酒の飲み過ぎとされていた。肝硬変患者は「酒飲みだから」、あるいは「酒も飲まないのに」などと言われてきた。肝臓病患者は、酒飲みのレッテルを張られていたが、酒のせいとされていた肝臓病の多くがC型肝炎だった。日本では、アルコールによる肝障害はまれで、HCVによる肝臓病が圧倒的に多かったのである。
C型肝炎が検査で診断できるようになり、輸血後肝炎の95%以上、散発性肝炎の約40%が、HCVよるものであった。HCVは肝炎を引き起こすウイルスの中で、もっとも頻度の高いウイルスだった。
C型肝炎は慢性肝炎から肝硬変になりやすく、慢性肝炎、肝硬変、肝がん患者の80%がC型肝炎によるものだった。そして残り約10%がB型肝炎、10%がアルコール性、薬剤性、自己免疫性などによるものであった。肝炎の大部分を占めるHCVの発見がいかに偉大であったかが分かる。平成元年1月、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)は世界で初めて電子顕微鏡でHCVの粒子の撮影に成功、動物実験でその病原性を確認した。
日本ではC型肝炎ウイルス(HCV)の感染者が、全人口の約2%とされている。HCVは、B型のように母子感染や性行為によって感染することは少なく、通常の生活での感染はまれである。HCVに感染すると約3割は慢性化するが、約7割は自然に治癒する。感染のほとんどが血液を介してであるが、ではなぜ日本人にC型肝炎が多いのだろうか。
日本にHCVが入ってきたのは、遺伝子解析から江戸時代末期とされている。C型肝炎は輸血によるものが30〜40%、入れ墨や覚せい剤の注射によるものが10%、そしておよそ50%が原因不明である。
このように感染経路の約半数は不明だが、終戦直後に流行したヒロポンの回し打ち、売血による輸血の関与が高いとされている。また予防接種の注射針を替えずに使用したことも、有力な感染源とみられている。
昭和36年に献血制度が導入されたが、それ以前の売血によって輸血を受けた患者の約半数に輸血後肝炎が発症していた。当時の輸血後肝炎は、黄疸のみで診断していたので約半数とされているが、実際には輸血を受けた8割程度の患者が、C型あるいはB型肝炎ウイルスに感染した。このように輸血を受けた多くの患者が輸血後肝炎となったが、輸血が売血から献血に変わり、B型肝炎が検査で排除され、さらにやC型肝炎抗体陽性者が排除され、現在では輸血後肝炎は極めてまれになっている。
C型肝炎患者は60歳以上の人に多く、60歳以下には少ない。また注射針と注射筒の連続使用はすでに禁止され、輸血による感染の可能性がないことから、さらに治療の進歩を考えると、C型肝炎は今後激減して地球上から消滅することが期待されている。
HCVの検査法は、EIA法(酵素抗体法)と呼ばれるもので、当初はC型肝炎患者の50〜80%が陽性と判定された。ただしこの陽性率はHCV抗体検査の第1世代による成績で、第2世代、第3世代とともに検査法が改良され、現在では100%近い陽性率になっている。
HCV抗体検査は過去にHCVに感染したかどうかの既往をみる検査であって、抗体陽性者は過去に感染を受けたものの、現在、ウイルスを保有して持続感染しているか、排除されているのかは分からない。これを区別するのがHCV−RNA検査である。この検査はHCVの有無、ウイルス量、インターフェロンによる治療の適応を決めることができる。
HCVは塩基配列の違いから1から6の遺伝子型に、さらに数十種類の亜型に分類される。米国で最初に発見された遺伝子型は1aで、1aは米国に多い。日本では1bが7割、2aが2割、2bが1割である。HCVの遺伝子型は、各国で大きく異なっており、日本の1aのほとんどは米国からの血液製剤による感染である。
C型肝炎の治療薬はインターフェロン(IFN)であるが、遺伝子型によりIFNの効果は大きく違っている。日本で最も多い1b型はIFN抵抗性であるため、6カ月のIFN投与での排除率は18%。HCV−RNAの量が多い場合は6%にすぎなかった。IFNの効果はこの程度であり、しかも発熱などの副作用が高いにもかかわらず、その治療に期待し過ぎるきらいがあった。
しかし最近の治療の進歩により、IFNを用いた抗ウイルス療法で感染者の3分の1はウイルスを排除でき、3分の1は肝炎の進行を遅らせることができるようになった。平成16年、ペグ・IFNとリバビリン併用療法が認可された。薬が効きにくい難治性肝炎にも治療の選択が広がり、その効果に大きな期待されている。
C型肝炎から肝硬変、肝硬変から肝臓がんになるが、現在では肝臓がんの治療成績が良くなっているので、定期的な検査で肝臓がんを早期に発見して治療すべきである。
医療関係者では針刺し事故が問題になるのが、C型肝炎患者に使用した針を間違って刺した場合、事故直後はB型肝炎のような有効な対策はない。また感染からC型肝炎ウイルス(HCV)抗体が陽性になるまでには約3カ月なので、受傷直後にHCV抗体を測っても、感染の有無は分からないのである。針刺し事故で感染する確率は、0.3〜2%であるが、不幸にも感染した場合はIFNの投与となる。なお、針刺し事故には労災保険が適用されている。
薬害フィブリノゲンによるC型肝炎感染の根は深い。フィブリノゲンはヒトの血液成分を原料とした医薬品で、昭和39年に医薬品として承認され、昭和50年ごろから出産時の止血を目的に多くの医療機関で用いられていた。このフィブリノゲンを投与された患者の中で、肝炎を発症する患者が多くいることが分かり、その原因としてフィブリノゲンにHCVが混入していたことが判明したのである。これは薬害エイズと同じパターンであった。フィブリノゲンは、出産時の出血などに多用されたが、その有効性が低かったこと、国が認可していた薬剤であること、などが絡み問題を複雑にしている。昭和60年8月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、製薬会社の責任(大阪裁判)、昭和62年4月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、国と製薬会社の責任(福岡裁判)とされている。
フィブリノゲンは、多くの患者に投与されていたが、C型肝炎は感染から発症するまで長時間がかかる。その上、カルテの保存期間が5年なので、裁判に持ち込めた患者は、フィブリノゲン薬害のほんの一部の人たちと考えられる。
平成元年10月26日、島根県出雲市にある島根医科大(現・島根大医学部)第2外科に、国立岩国病院(現・国立病院機構岩国医療センター)から杉本裕弥ちゃん(満1歳)が搬送されてきた。裕弥ちゃんは、先天性胆道閉鎖症という重病を患っており、肝移植以外に助かる方法がなかった。
先天性胆道閉鎖症とは、肝臓から十二指腸に排泄される胆汁の通り道である胆管が、生後間もなく閉塞し、そのため胆汁が肝臓内に停留して肝硬変を引き起こす疾患である。
先天性胆道閉鎖症は、1万の出生に1人の頻度で、日本では年間約100人の患者が生まれている。この疾患は手術によって胆汁を小腸に排泄させなければ、肝硬変から死に至ることになる。裕弥ちゃんは、胆管を小腸につなぐバイパス術を国立岩国病院で2回行っていた。しかしうまくいかず、肝硬変の状態になり腹水がたまっていた。
その当時、脳死による臓器移植は、まだ認められていなかった。そのため裕弥ちゃんの生命を救うには、健康な人の肝臓の一部を切り取って移植する、生体肝移植しかなかった。欧米では、脳死患者からの肝移植は数千例を超えていたが、生体肝移植は脳死肝移植よりも歴史は浅かった。世界で脳死肝移植が初めて行われたのは、米国ピッツバーグ大のスターツル教授によるもので昭和38年のことであった。それに対し、生体肝移植は昭和63年にブラジルのサンパウロ大において、4歳8カ月の胆道閉鎖症の小児への移植が世界初例であった。その当時、生体肝移植は世界でまだ3例しか行われていなかった。もちろん、日本では誰も経験したことのない手術だった。
島根医科大助教授・永末直文を中心とした医療チームは難しい選択を迫られていた。たとえ手術に成功しても失敗しても、健康人の身体にメスを入れて肝臓の一部を取ることに、倫理上の非難が予想されたからである。
しかし裕弥ちゃんには移植以外に助かる道はなかった。裕弥ちゃんは、島根医科大に入院後、心不全を起こし何度か危篤状態に陥り、やっと回復したばかりである。そのような状況の中で、父親の昭弘さんが自分の肝臓を提供したいと申しでた。あとは永末医師が手術をやるかどうかの決断だけであった。
平成元年11月13日午前9時40分、世界で第4例目、日本で初めての生体肝移植が、永末医師の執刀で始まった。裕弥ちゃんは以前受けた手術のため、肝臓と周辺の臓器との癒着が強かった。その癒着を丁寧に剥離し、肝硬変に陥った肝臓を摘出。そして父親の肝臓の一部を裕弥ちゃんに移植した。小さな命を救うための手術は深夜に及び、15時間45分の難手術だった。
手術当日、NHKが正午のニュースで日本初の生体肝移植が現在手術中であることを報じ、これをきっかけにマスコミの過熱した報道が始まった。島根医科大は毎日記者会見を行い、裕弥ちゃんの病状を公表した。この記者会見は、それまで医学界が持っていた密室性と閉鎖性を打破するための情報公開であった。
永末医師はテレビで病状を報告し、裕弥ちゃんの家族も手術を受けた気持ちを述べた。マスコミは「父親が子供に自分の肝臓を提供する美談」として、さらに「医師が、手術に応じた美談」として報道した。
平成元年11月13日、杉本裕弥ちゃんの手術は成功したが、裕弥ちゃんには次々に難関が待ち構えていた。胆管の再閉塞、心不全、腹腔内膿瘍、消化管出血、サイトメガロ肺炎、移植の拒否反応…。いくつもの合併症が発生し、術後の裕弥ちゃんは一進一退を繰り返した。
そして平成2年8月24日、残念なことに手術から285日目に多臓器不全を起こし、幼い生命のともしびが消えた。直接の死因は、輸血された血液に含まれるリンパ球が、裕弥ちゃん本人の組織を破壊するGVHD(移植片対宿主疾患)によるものであった。
裕弥ちゃんの手術をきっかけに、生体肝移植が広く行われるようになった。移植技術の進歩と経験の蓄積により、小児だけでなく成人への生体肝移植も可能になった。
平成2年6月、杉本裕弥ちゃんが生死をさまよっているころ、京都大医学部第2外科で国内第2例目の生体肝移植が行われた。その後は、信州大、東京女子医大、広島大など全国の施設で、生体肝移植が行われるようになった。平成15年までの手術件数は3800件を超え、生体肝移植患者の1年生存率は8割以上の成績となった。
肝臓はほかの臓器と異なり再生能力が強いため、肝臓の半分を切り取っても、自然に再生して元の大きさに戻る。さらに親が肝臓を提供した場合、血液型が同じならば拒絶反応が少ない利点があった。移植以外にわが子を救う方法がないため、親心から自分の肝臓を子供に提供するケースが多かった。健康人の身体にメスを入れることに倫理的批判があったが、親からの申し出があれば問題はなかった。
生体肝移植手術とは、文字通り生きている健康人の肝臓の一部を移植することで、脳死肝移植とは異なり「脳死、心臓死」の問題は生じない。その当時は脳死移植法案がまだ成立していなかったため、脳死からの臓器移植は困難で、そのため生体肝移植が普及した。ただし、脳死移植が認められている現在でも脳死肝移植は少なく、そのため生体肝移植が肝移植の大部分を占めており、「脳死なき移植」と呼ばれている。
当初は、小児の先天性胆道閉塞症や肝硬変などが移植の対象疾患となっていた。その後、平成10年から15歳以下の肝疾患、16歳以上では胆汁うっ滞性ならびに代謝性疾患が保険適用となった。保険適応になったことから、手術の自己負担額も20万円前後と安くなり、1カ月当たり6万3000円を超えた医療費は、高額医療費として約3カ月後に払い戻された。
海外では成人の肝硬変、劇症肝炎にも生体肝移植が行われ良い成績を残している。このように生体肝移植は有望な治療法であるが、誰でも移植を受けられるわけではない。肝臓提供のほとんどは、家族からの提供であった。
成人の肝移植は健康保険の対象外になっていて、健康保険が使えなことから、自己負担は1000万円以上になることが多かった。しかし平成16年1月から、成人の生体肝移植も肝臓がんの一部で保険適応となった。肝臓がんで生体肝移植の保険適応となるは、がんの転移がなく、門脈や肝静脈へ浸潤がなく、大きさが5cm以下で1個、あるいは3cm以下で3個以内の場合である。生体肝移植の成人例は年々増え、現在では小児例を大きく上回っている。
成人例が増えたのは、輸血などでC型肝炎ウイルスに感染している慢性肝炎患者が多くいるためである。肝硬変から肝臓がんへ移行した場合には、移植以外に根本療法はなかった。当初は、肝炎ウイルスによる肝硬変や肝がんは、肝臓を移植してもすぐにウイルス性肝炎を起こすとされ、肝移植の適応になっていなかった。しかしウイルスに感染しても、肝硬変になるまでには20年程度の期間があったため、現在では肝移植をためらう理由はない。
生体肝移植を応用した特別な例として、生体ドミノ移植がある。ドミノ移植とは、いわば玉突き移植で、肝臓が分泌するたんぱく質の沈着で起きる難病「家族性アミロイド・ポリニューロパチー(FAP)」の患者に応用された。まず、FAPの患者に健康人の肝臓を移植し、その後、FAP患者から取り出した病気の肝臓を、第3の患者に移植するのである。FAPの肝臓を第3の患者に移植しても、たんぱく質がほかの臓器や神経に沈着してFAPを発病するには30年以上の時間がかかった。そのため肝臓を必要とする第3の患者にとっては当座をしのぐことができたのである。平成11年、肝臓ドミノ移植が京都大病院で初めて行われ、次第に症例が増えている。
平成14年3月26日、自民党の河野洋平元外相(65)が、生体肝移植の手術を受けると表明。河野元外相は、村山、小渕、森政権で外相を務め、その激務から解放されたことを区切りに手術を受けることにしたのである。肝臓を提供したのは、長男である総務大臣政務官の河野太郎衆議院議員(39)であった。河野元外相はC型肝炎による肝硬変で、全身倦怠感を強く訴えていた。このまま放置すれば肝臓がんに進行する可能性があったため、移植を受けることになった。4月上旬に信州大医学部付属病院に入院して移植手術を受けた。
生体肝移植手術の欠点は、肝臓提供者(ドナー)が健康人であり、その健康人にメスを入れる際に危険性を伴うことである。平成15年、京都大病院で肝臓の7割を娘に提供した女性が死亡する国内初の事例が発生している。
肝臓提供の美談の裏には、隠された危険性があることを知る必要がある。生体肝移植には、臓器提供者の自発的な意思が絶対条件になる。親から子供へ、子供から親への生体肝移植は美談とされがちである。しかし、「肉親だから提供するのが当たり前」とする考えが、家族に精神的プレッシャーを与えることを忘れてはいけない。
平成14年、血液製剤によるC型肝炎ウイルス(HCV)感染が大きな社会問題となった。問題になったのは主としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の血液凝固製剤「フィブリノゲン製剤」で、約6000の医療機関に納入され、約30万人に投与され、約1万人がHCVに感染したと推定されている。HCV感染と肝炎との因果関係は明らかであるが、血液凝固製剤がC型肝炎の原因であるとの証明、薬害肝炎をもたらした責任を含めると極めて複雑になる。
昭和39年3月にライシャワー駐日米国大使が暴漢に襲われ、輸血を受けたライシャワー大使が輸血後肝炎となった。この事件がきっかけに同年8月、民間の血液銀行が行っていた輸血を日本赤十字社に一本化し、輸血は売血から献血へと大きく変更された。この輸血行政の変換によって、昭和39年までの輸血後肝炎の発症率は50.9%であったが、昭和42年には16.2%になり、輸血の安全性は飛躍的に高まった。しかし献血としたのは輸血用の血液だけで、血液製剤は対象外だった。
血液銀行の大手だった「日本ブラッド・バンク」は、昭和39年8月に社名を「ミドリ十字」に変え、血液製剤部門の強化をはかった。血液製剤は国内外で数千人から集めた血漿を濃縮して製造していたため、通常の輸血より感染の危険性が高く、このことが後の薬害エイズ、薬害肝炎を引き起こす下地になった。
昭和39年、ミドリ十字はフィブリノゲン製剤を製造販売、主に出産時の異常出血の止血剤として使用されていた。ちょうどその頃、出産時の大量出血で妊婦が死亡した裁判で、「フィブリノゲン製剤を投与するなど、適切な止血措置をとらなかった」として、産婦人科医に高額な損害賠償を命じた判決(東京地裁、昭和50年2月13日)があった。このことから出産時の出血や、外傷や手術の止血用にフィブリノゲン製剤は安易に使用されていた。当時はフィブリノゲン製剤の投与による肝炎発症の副作用は少なかった。
いっぽう米国では、昭和52年12月に米食品医薬品局(FDA)がフィブリノゲン製剤の投与により肝炎が多数発生したことから製造承認を取り消していた。昭和54年9月、旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)血液製剤部長の安田純一が著書の中でFDAによる製造承認取り消しの事実を指摘、フィブリノゲン製剤の危険性を知りながら厚生省には報告していなかった。ミドリ十字もFDAの承認取り消しの資料を社内で回覧していたが販売を続けていた。
ここで混乱しやすいのは、米国のフィブリノゲン製剤は日本とは製造法が違っていたのだった。日本で販売されていたフィブリノゲン製剤は不活化処理(BPL処理法)により、B型肝炎ウイルス(HBV)のみならずHCVも不活化されていた。この不活化処理(BPL処理法)は偶然の選択であった。しかし昭和60年、この不活化の処理を米国と同じ方法に変更したためHCVは不活化されなくなり感染を拡大させた。
一方のB型肝炎は、昭和43年にHBVが発見され、昭和47年には輸血からB型肝炎が排去されたが、依然として輸血の約10%に輸血後肝炎が発症し、輸血後肝炎は非A非B型肝炎と呼ばれていた。しかし平成元年に米国のカイロン社がHCVを発見、HCVが非A非B型肝炎を引き起こすことが初めて解明された。HCVの発見により輸血後肝炎の全貌がほぼ明らかになり、C型肝炎は輸血以外に、集団予防接種などでの注射器の回し打ち、あるいは自然感染によるものとされていた。フィブリノゲン製剤によるC型肝炎は予想外のことだった。
さらに混乱しやすいのは、フィブリノゲン製剤は止血剤であることから、同時に輸血を受けていた患者が多かったことである。C型肝炎がフィブリノゲン製剤によるものなのか、輸血によるものなのか、あるいは別のルートによるのか、断言できなかった。また当時のカルテを保存している医療機関は少なく、解明をより困難にした。
薬害肝炎が社会問題となったきっかけは、昭和62年4月18日の新聞報道だった。それは青森県三沢市の産婦人科医院で、昭和61年9月から翌62年4月にかけて、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン−ミドリ」を投与された産婦8人が非A非B型肝炎に集団感染したことだった。
この感染は、肝炎ウイルスの不活化処理法であるBPL処理法が別の方法に変更されてから出荷された製剤によるもので、同医院は厚生省に報告するとともに、ミドリ十字にフィブリノゲン製剤によって集団感染が起きたと抗議した。しかしミドリ十字は「フィブリノゲン−ミドリ」の添付文書に「血清肝炎等の肝障害があらわれることがある」と記載してあることから、感染は不可抗力として患者に陳謝しなかった。
医院側とミドリ十字との話し合いは平行線をたどったが、医院側が患者救済のため、「投与した医師の責任」として患者に陳謝。医院が患者1人に約100万円ずつ計約800万円を支払うことになった。しかし実際には、救済金の半分の400万円はミドリ十字から医院へ研究費名目で支払われていて、ミドリ十字はこのことを公言しないように病院に約束させていた。つまりミドリ十字は薬害肝炎が広がった場合、補償問題の防止策をはかっていたのである。
この青森県の産婦人科医院をきっかけに、ミドリ十字は厚生省の指示で感染実態を調査し、同年7月までに同製剤で74人が肝炎を発症していると報告。ミドリ十字は非加熱の「フィブリノゲン−ミドリ」を自主回収し、事実上使用しなくなった。しかし同時に、感染の証拠となる「フィブリノゲン−ミドリ」をすべて破棄したため、薬害肝炎は隠蔽されてしまった。
平成13年頃からC型肝炎の感染ルートが重視されるようになったが、この事態を一転させたのが、平成14年3月のフジテレビ「ニュースJAPAN」の報道であった。日本初の集団感染を報告した三沢市の産婦人科医院が、当時の「フィブリノゲン−ミドリ」を保管していたことを明らかにした。保管されていた「フィブリノゲン−ミドリ」は製造から15年以上も経過していたが、分析の結果、C型肝炎ウイルス(HCV)の活性を持っていたのである。さらにDNA鑑定で「フィブリノゲン−ミドリ」と、かつて製剤によって肝炎を発症した患者のウイルスが一致し、また米国の麻薬患者のウイルスとも一致したのだった。
このことから血液製剤「フィブリノゲン−ミドリ」は、原料血漿を米国で買い付け、原料血漿にHCVが含まれていたことが明らかになった。薬害エイズと同じように、原料血漿は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦を対象とした極めてハイリスクなものだった。このことからフィブリノゲン製剤によってC型肝炎が引き起こされた可能性が高くなった。
平成14年8月、厚生労働省が作成したフィブリノゲン製剤によるHCV感染に関する調査報告書には、製薬会社の「三菱ウェルファーマ」(旧ミドリ十字、現田辺三菱製薬)から提出されたHCVに感染した418人分のリストが含まれていた。しかし厚生労働省は製薬会社から患者リストをもらいながら患者に連絡をせず、フィブリノゲン製剤を使用した納入先の医療機関を公表して、C型肝炎の検査を受けるように呼び掛けただけであった。
平成19年10月、この患者リストが厚労省の倉庫から発見され、厳しい批判を浴びることになった。平成19年11月30日現在、418人のうち265人が特定されたが、そのうちの51人が死亡していた。医療機関を通して感染の事実や感染原因を告知されたのは92人。死亡した9人の遺族に対して感染原因などが伝えられた。
平成14年10月21日、東京で13人、大阪で3人が東京地裁および大阪地裁に損害賠償を求めて提訴。さらに翌15年には患者原告は福岡地裁、名古屋地裁、仙台地裁において次々と提訴した。大阪と福岡の訴訟判決(平成18年)、名古屋の訴訟判決(平成19年)では、C型肝炎ウイルスを不活化していた期間においても感染の危険性が排除できないとして、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した。しかしそれ以外は国、製薬会社に責任はなしとの判断を示した。
裁判所はこのように判断を下したが、この司法判断とは別に、政府は議員立法で一律救済の法案を成立させることになり、平成21年11月30日に肝炎対策基本法が成立した。肝炎対策基本法はすべてのB型、C型肝炎患者の救済を目的とし、肝炎患者への治療負担の軽減を盛り込んでいる。さらに過去の薬害肝炎事件に関する国の責任も明記しており、肝炎患者救済の第一歩と期待されている。
小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。
日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。
小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。
アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。
小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.1〜0.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。
小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。
昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。
ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。
日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。
このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。
しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。
子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。
昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。
ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。
ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。
昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。
昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。
昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。
しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。
このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。
同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。
このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。
小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。
世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。
小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。
狂犬病が恐ろしいのは、発症すれば犬も人間も100%死亡することである。パスツールによってワクチンが開発され、感染してから発症するまでの予防法は確立しているが、発症すれば100%死亡する最も恐ろしい疾患である。
江戸時代の徳川吉宗の時代に大流行があったが、これは将軍綱吉の出した「生類憐(あわ)れみの令」によって犬とのかかわりを人々に強制した結果、煩わしさから捨て犬が増加したことによる。明治5年に、犬の首輪に飼い主の住所氏名を記した木札をつけさせ、狂犬を見つけたら打殺することが定められ、明治14年には犬の登録制度が始まり、明治29年には犬の狂犬病を法定伝染病にした。しかし狂犬病は撲滅できず、大正時代は毎年500件から3000件の発症があった。昭和19年には狂犬788頭と患者46人が発生している。また昭和25年にも狂犬病が流行し、犬320頭が発症して21人が死亡した。
昭和25年、狂犬病撲滅のために狂犬病予防法が設定され、それまで放し飼いの野犬が多かったが、飼い主は登録が義務づけられ、飼い犬には強制的にワクチンの接種が行われた。保健所は野犬狩りを繰り返し、輸入犬の検疫が施行され、これらの予防体制によって日本から狂犬病が駆逐されていった。
昭和45年7月19日、ネパールを旅行していた日本大学の学生が首都のカトマンズで犬にふくらはぎをかまれた。青年は犬にかまれたこを忘れていたが、8月5日に帰国、同月16日になって急に呼吸困難をきたし、東京大学医科学研究所付属病院に入院となったが翌日死亡した。
青年の話を聞いた主治医は、狂犬病特有の上行性脊髄炎の症状から、都立衛生研究所に狂犬病ウイルスの検査を依頼、その結果、狂犬病による死亡であることが確認された。日本では昭和32年に狂犬病の最後の患者が報告されて以降、今日に至るまで狂犬病患者はこの学生を含む3例だけで、いずれも海外で犬に噛まれての感染である。日本国内ではかつて恐れられていた狂犬病はすでに過去の疾患になっている。
世界保健機関(WHO)によると、現在でも全世界で毎年6万人から7万人が狂犬病で死亡している。日本の狂犬病は撲滅しているが、世界的には狂犬病はまだ蔓延しており、特にインドや北朝鮮などのアジア、ロシア、アフリカでは狂犬病が多く、インドでは年間4万人近くが狂犬病で死亡している。
狂犬病が存在しない国は日本の他、オーストラリア、台湾、ハワイなどの海に囲まれた10カ国程度しかない。日本で撲滅されたのは、犬へのワクチン接種や検疫制度によるが、わが国が島国という地域的要因が大きい。
世界から狂犬病が撲滅できないのは、狂犬病ウイルスを媒介するのは犬だけでなく、猫、コウモリ、リスなど多くの哺乳類が関与しているからである。狂犬病ウイルスが犬だけに限られていれば、全部の犬にワクチン投与すれば撲滅は可能であるが、媒介する動物が多すぎるために撲滅できないのである。イギリスではコウモリが、フランスではキツネが感染源となっている。フランスでは国土の3分の1が汚染地区とされ、ワクチンを注入した鶏肉を森に置き、キツネの感染を予防しようとしている。
メキシコでは、洞窟に入って霧状になったコウモリの唾液を吸入して、狂犬病を発症した例が報告されている。ラブドウイルスに属する狂犬病ウイルスは唾液腺で増殖するので、狂犬病に罹患した動物にかまれると、唾液中の狂犬病ウイルスが傷口から浸入して発症する。ウイルスが体内に潜伏すると、潜伏期間は通常1カ月から2カ月だが、早い場合は10日間で、1年以上の例も6%ほどある。
潜伏期間に個人差があるが、潜伏期間は咬傷の程度、かまれた時の洗浄の有無、かまれた場所が関係している。発病率は頭頚部や顔面の咬傷では50%、手足等の露出部の咬傷では30%、衣服の上からの咬傷では10%とされている。
全体では、かまれても発症するのは2割程度であるが、いったん発症すると100%死亡する。発症時にはウイルスはすでに脳を侵しており、脳におけるウイルスの増殖を阻止する方法はない。
ヒトからヒトへの狂犬病の感染例は、患者が狂犬病に罹患していることを知らずに角膜を提供し、提供を受けた患者が発病した角膜移植の1例だけである。しかし患者に直接接触する医師、看護婦等の医療従事者は感染予防に十分注意すべきである。
狂犬病の前駆症状として発熱、頭痛、不快感、かゆみ、手足のしびれ、全身倦怠感などの風邪に似た症状がみられる。次に異常行動、見当識障害、幻覚、痙攣発作、麻痺などで、狂犬病に特有の症状として「恐水発作」が有名である。
恐水発作は水を飲もうとすると、あるいは水を見ただけで、のどに有痛性の痙攣が起きることである。これは咽頭麻痺によって水が飲めず、むせによって水に恐怖心を持つためとされている。また顔面や声帯が麻痺することから犬が叫ぶような声を出し、恐怖心から狂乱状態となるが、意識は最後まで残されている。精神錯乱、麻痺、呼吸障害、昏睡状態から突然死する。検査所見としては白血球が3万から4万に増加するが、死亡するまで診断がつかないことがある。発症から死亡までの期間は1週間以内である。
狂犬病の予防としては、流行地に行く場合にはワクチンの接種が有効だが、ワクチンの効果のない狂犬病ウイルスが知られているので万全ではない。ワクチンが効かないことがあるのは、狂犬病ウイルスは1種類だけでなく数種類あるからである。
日本では狂犬病の発生がみられないので、海外に出かけてもその危険性を認識していない人が多い。そのため海外で不用意に犬に近づき、かまれる例が後を絶たない。むやみに犬や野生動物に接触しないことである。
ワクチンの接種が勧められているが、狂犬病が疑われた犬などの野生動物にかまれた場合には、傷口を石鹸と水でよく洗うことである。このことでウイルスを不活性化することができる。また早期に狂犬病ワクチンと抗狂犬病ガンマグロブリンを投与することであるが、それでも死亡例が報告されている。かまれてから7日を経過した場合は予防効果はないとされ、もちろん発症した場合には治療法はない。死を待つだけである。
1992年、フランスを旅行していた日本人男性が、野犬に靴下の上から足をかまれた。男性はそのまま旅行を続けたが、かんだ犬が狂犬病と分かって現地でワクチンと狂犬病免疫グロブリンを注射し、さらに帰国後、都内の病院で5回ワクチンを接種して発病を免れた例がある。
狂犬病の犬にかまれればその対応は早いが、リスなどにかまれた場合はやっかいになる。リスが狂犬病に感染していないと確認されない限り、現地の医療機関を受診し、狂犬病ウイルスを含めた感染症予防策をとるべきである。
なお日本では狂犬病ワクチンは製造されているが、常備している医療機関は少ない。また抗狂犬病ガンマグロブリンは製造も輸入もしていない。このように日本の狂犬病への医療体制は不十分で、WHOの勧告通りの治療が受けられないのが実情である。
平成15年の犬の輸入頭数は約1万7000頭になっている。日本では狂犬病予防法に基づき輸入動物を検疫所で調べ、狂犬病の上陸を水際で防いでいる。また狂犬病予防法では飼い主が市町村に犬を登録し、年に1回予防注射を受けることを義務づけている。
日本国内では狂犬病の発症はみられないが、ペットブームにより世界中から動物が輸入されていることから、狂犬病が日本に上陸する可能性は残されている。また狂犬病の恐怖が薄れたことで、義務化されている予防接種を受けていない犬が5割以上に達している。厚生労働省は狂犬病の予防には7割以上の犬への接種が必要としている。
さらに犬以外の哺乳類は検疫を通らずに輸入されていて、いつ狂犬病が侵入してきても不思議ではない。例えばアライグマ、プレリードック、シマリスなどは、犬よりも狂犬病を感染しやすいとされている。事実、1992年アメリカでは8545頭のアライグマが狂犬病によって死亡している。ペットショップで売られている動物は人工繁殖された動物が多いが、狂犬病に感染していないという証拠はない。
WHOの調査では、人への感染源は犬82%、猫10%、牛1%、キツネ2%、その他5%となっている。なおアメリカでは3年間有効のワクチンが当たり前で、日本でも3年間有効のワクチンが可能であるが、狂犬病予防法が毎年の接種を義務づけているため、年1回の予防注射は獣医師たちへのボーナスとなっている。
中国などアジア各国で狂犬病が多発していることから、平成16年、農林水産省は狂犬病発生国から生後10カ月未満の子犬の輸入を禁止している。また輸入犬の皮下にマイクロチップを埋め込み、個体識別をすることを決めている。このような対策を立てているが、輸入動物の検疫は農水省で、予防注射や発病時の対策は厚労省の担当となっていて、この縦割り行政が狂犬病の予防と対策の問題となっている。
ところで疫病神と恐れられていた狂犬病のワクチンは、1880年、パスツールによって開発されたことは有名である。狂犬病のワクチンは、パスツールの偉大な業績のひとつで、当時はウイルスの概念はなかったが、犬の唾液によって狂犬病が伝染することが分かっていた。パスツールは狂犬病に感染させたウサギの脊髄液を処理してワクチンの研究を重ねていた。ある日、狂犬病のオオカミにかまれた少年がアルザスからパリのパスツールのところに連れてこられ、母親がパスツールに息子を治してくれるように懇願した。
パスツールの狂犬病ワクチンは弱毒化した生ワクチンで、有効性と安全性がまだ未確認だった。パスツールはもしワクチンで少年が死んだら殺人罪になると躊躇したが、ワクチンでこの少年を助けることになる。人類史上初めての狂犬病ワクチンの接種だった。
メイステル少年はパスツールの恩に報いるため、パスツール研究所の門衛として働くことになる。第二次世界大戦でドイツ軍がパリに侵攻し、パスツールのひつぎが納められている「パスツール廟」を開くよう命じるが、扉の前に立った門衛メイステルは、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたければ私を殺してからにしろ」といって自殺した。今もパスツール研究所の地下に「パスツール廟」があり、かつての少年、門衛メイステルの話はいまも語り継がれている。