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生物がこの世に生を受けて数億年、人類が地球上に誕生して150万年、生きとし生きる者の原則は弱肉強食である。この神から授かった弱肉強食の本能は、人間を唯一の例外として地球の歴史とともに続いてきた。そして知恵ある人間だけが、この弱肉強食の原則に手を加えたが、その歴史はたかだかこの数十年のことである。
国王が民衆を搾取する、資本家が労働者を搾取する、地主が小作人を搾取する。この搾取という悪道パターンが歴史の反動を生み、群衆の喝采とともに社会主義国家が誕生した。そして気がつけば、平等主義に毒された民衆の堕落から、知識人が笛吹けど社会主義は踊らず、ついに崩壊した。いっぽう資本主義の日本は、旧ソ連、中国以上の平等社会を達成している。
日本の政治は政党名が何であれ、強者が弱者を助ける政策になっている。この理由は、富の再分配という国家の仕事が、数の上で優位に立つ弱者の人気取りになっているからである。さらに弱者援助を美徳とする美意識を持っているからである。
この美徳は弱肉強食の本能に反するが、これもまた神から授かった人間の本性といえる。しかしこの本性は「強者の善意と弱者の感謝」という美意識が根底にある場合にのみ成立する本性であって、この気持ちがなければ、生物の道ばかりではなく、人間の道をも踏みはずすことになる。
最近、世の中が住み難いと感じるようになった。これは神から与えられた弱肉強食の本能が逆転し、人間の美意識から発生した弱者救済の政策が、醜悪な姿を晒けだすようになったからである。弱者は助けを当然として感謝を忘れ、補填のみを偉そうに主張する。強者は弱者権力に金銭を奪われ、金持ち喧嘩せずの諦めの心境になっている。
努力した者が努力しない者に搾取され、稼いだ者が稼ぎの悪い者にたかられる。富の分配が、上から下への自然な流れであれば文句は生じない。しかし下から上が無理矢理強奪される世の中になったのである。弱者と強者の立場が仮面を被ったまま逆転している。
強者の税金で支えられる多数派の弱者が、感謝を忘れ、権利のみを主張するようなり、社会の歯車がおかしくなった。これは弱者の徳が金銭の優遇によって麻痺したためである。
かつて姥捨て山の露と消えていった老人は、観劇や観光地を元気に独占し、貯金高はどの世代よりも多い。子供は過保護に甘え、学校では恩師の影を踏みながら遊んでいる。
このような現象は、世間や政治家が弱者をおだて過ぎたせいである。人間はおだてられると堕落するのである。汗をかかない金銭の供与は人間をダメにする。
人間は人間が作った浅知恵により、弱者の堕落と、強者のやる気喪失を生むことになった。人間を平等とする妄想が、人間の脳をアルコールのごとく心地よくマヒさせ、ついには日本人を廃人にしようとしている。弱者にとって必要なのは自立する精神であり、その障害になるのは相手への依存心である。強者にとって必要なのは差し伸べる暖かい手であって、搾取される富ではない。
医療においては、医者は強者、患者は弱者のパターンが確立されている。この先入観が医師と患者の信頼関係を時におかしくする。まれなことではあるが、自分を弱者であると威張る患者が目立つようになった。そして弱者を優しくするのが当然であると、度を超した要求をしてくる。
これほどの情報化時代に、「医師が病気に対し無力」であると宣伝されず、逆に何でも治せるスーパーマンと思われている。そして、スーパーマンが、なぜ可哀想な自分を助けないのかと患者は食い下がる。これは風邪だから我慢しなさいと言えば、非人道的医師のレッテルを貼るのである。病気を責めずに医師を責める風潮が起きている。病気が治らないのを医者のせいと非難するのである。
医療はサービス業との宣伝に乗せられ、患者は「何々さんから何々様」へと呼び名が変わり、医師がクスリ屋からおだてられて馬鹿になったように、患者も周囲からおだてられ堕落している。自分のことは自分で守るという病気の基本を忘れ、不都合のみを医療に押しつけてくる。
自分の不都合を他人のせいにするのは、国民全体が人間としての責任と自立を忘れ、つねに他人をあてにするクセがついているからである。
医師が患者のためにつくすのは当然であるが、この医療奉仕に対し感謝の気持がなければ、医療側のやる気が喪失しても不思議ではない。
人間が生物の持つ弱肉強食の本能を変えたのは、人間の知恵と美徳によってである。そしてそれを成り立たせている「強者の善意と弱者の感謝」を、今の日本人は忘れているように思える。
「近くに起こしの節はお寄り下さい」、知人からの引っ越しの葉書である。彼の新居は通勤の途中にあるが、まだ寄らずにいる。この言葉を真に受けたら相手が困惑するからである。このように日本語は難しい。それは相手の気持ちを推測しなければいけないからで、もし文面どおりに立ち寄れば常識なしとされるであろう。
「つまらない物ですが」、この言葉を添えた贈り物は、へりくだりの気持ちが含まれている。「善処します」は何もしないことを意味する行政用語である。「結構です」は、話の前後を推測しなければ正反対の意味に解釈可能である。このように日本語が難しいのは、言葉の裏に隠れた相手の真意を読まなければいけないからで、言葉と意味とがストレートである小学生や外国人には理解できない日本の文化である。
曖昧な日本語、和を尊ぶ日本、あうんの呼吸の日本の社会は、契約で成り立つ欧米社会とは根本的に違っている。欧米人が日本人の言葉尻を捕らえ嘘つきと非難しても、日本人には嘘をついている意識はない。外国人が日本の文化を理解していないだけである。
日本語の特長は相手を気づかう気持ちが言葉の根底にあることで、これが日本人の美的な心情を表している。日本人の奥深い心づかいなのである。しかし最近、欧米流のストレートな言い方が大手を振るうようになってきた。相手の気持ちを考えない自分勝手な言い方である。
医療現場において問題になるのは「癌の告知」である。欧米人がストレートに癌を告知するのは、欧米が契約で成り立つ社会だからで、生命に関しては神との契約、医療に対しては医師との契約が基本にあるからである。一方、日本において癌の告知が難しいのは、日本の医師が患者を気づかう優しい心を持つからで、世間が邪推するような医師の傲慢さによるものではない。最近では、患者の心情を理解せずに、癌の告知をつっけんどんに言う医師が多いが、癌の告知を無神経にやられたら、不幸な患者を増やすことになる。
癌の告知には医師と患者との心のコミニュケーションが必要で、コミニュケーションの中で、医師は患者にどのように告知するかを判断するのである。初対面の医師に癌ですと言われたら、患者の心はどれほど傷つくか分からない。医師は正直でなければいけないが、正直以上に大切なのは相手を気づかう心である。何でも欧米の真似ではいけない。
聖徳太子が仏教を日本に取り入れて以来、日本の文化は外国の良い点のみを選択し、日本古来からの文化に融合させる方法をとってきた。日本独自の文化を守りながら外国文化を吸収してきたのである。この外国の利点を利用してきた日本人の体質が、時として大きな失敗を生むことがある。それは欧米の欠点を利点と思い導入した場合である。
医療においては調剤薬局がこれに相当する。調剤薬局の是非善悪など、議論の価値など何もない。それは院内薬局が良いに決まっているからである。院外薬局を良しとするのは、「欧米先進国のほとんどが院外薬局だから日本もそうあるべき」との欧米コンプレックスを利用した理屈である。しかし、これまで何十人もの外国人に聞いてみたが、外国人の全員が全員とも、病院でクスリをもらえる日本の医療システムを絶賛していたのである。
このように日本の優れた医療システムである院内薬局を病院が放棄したのは大きな失策であった。院外薬局は患者にとって不便なだけで、しかも国民医療費を1割押し上げる医薬分業に利点などあるはずがない。クスリの二重チェックなどは、顔見知りの院内薬剤師の方が良いに決まっている。
病院が院内薬局を手放したのは、薬価差益が消失し院内薬局が不採算部門になったからである。また薬価差益で病院が儲けるのはけしからんとする誹謗に嫌気がさしたからである。院外薬局が流行っているのは、院外薬局が様々な金銭的恩恵を受け儲かる仕組みになっているからで、クスリを数える院外薬局の技術料が医師の診察料よりも高く設定されているからである。
金銭をぶら下げられた政策誘導による院外薬局をいくら宣伝しても、根底にあるのは金儲けの卑しい屁理屈だから患者にとっての利点など何もない。患者のことを何も考えない損得勘定が院外処方の動機なのに、それをもっともらしく患者の利便性でものを言うから、言えば言うほど針を千本飲ましたくなる。
厚生官僚の気まぐれな妄想に乗り、欧米先進国という言葉に惑わされ、日本の医療文化を捨てた罪は大きい。院外処方はすでに日本の6割を占め、もう後戻りはできない。院外薬局は患者のことなど何も考えなかった負の遺産である。
敬語が廃れ、女性が男言葉で喋り、礼儀を知らず、打算的な婚活が闊歩する日本。詐欺師同然の政治家、意味不明の文章を書く官僚、門前薬局の看板が目立つ街の風景。日本の文化は「恥の文化」とされ、正義、道徳が重用視されてきたが、悲しいかな、日本は恥知らずの文化に成り下がっている。
職人という言葉は、気難しい頑固者、寡黙な正直者、実直で昔気質、このような形容詞を連想させる。また古き良き日本の父親を想像させる言葉でもある。
この職人の職人たるゆえんは、仕事に対する絶対的な自信と誇りであり、そしてシロウトが仕事に口出しすることを極端に嫌う性格である。
この職人が時代と共に少なくなり、最近では大工や左官の法被姿はまったく見なくなった。そして現在、数ある職業の中から職人らしい職業を探すとしたら、白衣を着た医師が最も職人に近い存在になるのではないだろうか。
医師は医学部という職業訓練所で学び、卒業後は徒弟制度の下で修業を積み、教授を頂点としたカースト制度に身を置いていた。このように医師の世界は、長期間の勉強と丁稚奉公、まさに職人の世界といえる。
医師を職人と考えると、さまざまな謎が解けてくる。まず医師が患者の話を聞こうとしない、患者が何かを言おうとすると怒りだす、このような非難すべき現象は、医師を職人と考えると当然となる。
職人は独善的と非難されても、良心からの独善は許されると思い込んでいる。そしてナンダカンダの注文に頭がキレてしまうのは、この職人気質に起因するのであろう。
職人には職人なりの理屈がある。職人の言葉を借りれば、「最近は、職人の腕を信じない連中ばかりで、説明したら同意が必要なんて、こんな野郎が相手じゃ、仕事なんかできはしねぇ、ベラボウメ」が本音となる。
職人のおまかせコースを逆撫でするような素人の注文が職人の機嫌を損ねるのである。親方、棟梁とおだてることも、職人のやる気を出させる意味では必要である。
次に、仕事はできても金の計算ができない。これもまた職人の特長である。もちろん商人以上にそろばん上手な医師もいるが、多くの勤務医は金銭は念頭にない。だから、お布施をもらっても身は潔白、後指は指されないと勝手に思っている。
良い仕事を完成させ、品質を高めることを生き甲斐に、手術ひとつにしても、キズの縫い方にしても、義足を作るにしても、医師は自分の職人芸を密かな楽しみとしている。この職人の世界が、急速に変わってしまった。
これまでは、最高の技術を用いて、患者に取って最高の幸せを与えられることを教えられてきた。そして医師はそれを忠実に守っていればよかった。雑念は無いにひとしかった。過剰診療と非難されても、何と言っても患者サービスのつもりであるから後ろめたさなどないにひとしかった。
このように手抜きは絶対ダメとされてきた医療に、「予算がないから安物を作れ」と言われるようになった。最高の医療だけを考えていれば幸せだったのに、その医療に制限が生じたのである。
これまで100本の釘でやってきた仕事を、「幕府に金がないから50本にしろ」との御奉行様の命令が下ったのである。「釘50本では安普請しか造れません、建ったにしても何時壊れて死人がでるとも限りません」と言ってはみたものの、唇淋しい秋の風、お上の命令には逆らえない。「文句があるなら自腹を切れ」と叱られることになる。
患者を入院させたくても、儲からない高齢患者を入院させるとしかられてしまう。まだ入院が必要と思っても、「平均入院日数」から早く退院させろとしかられる。まさに、「経営健全化」のもと、医は忍術ではなく算術になっている。
職人はヒトの命にかかわることだから、お上がそう言ったからといって、そのように出来るものではない。しかし「釘50本の仕事をこれまで100本も過剰に使って儲けてきた」、と世間様に言われた日には、馬鹿馬鹿しくてベラボウメとなってしまう。
そもそも御奉行様と商人が決めた釘の値段が高いことが医療費高騰の原因なのである。それなのにお上の前でそれを言うのは御法度になっている。偉そうな高名な医師ほど、偉そうな御託を述べる医師ほど、お上のご機嫌取りばかりである。
釘一本の値段の方が職人の腕よりも高いのだから、自負心で支えてきた職人のプライドも限界となる。職人はヤケクソの自暴自棄、技術を学ぶ意欲をなくし、腕を落とすことになる。
医師は自己表現が下手である。自己表現が下手なので、周囲は医師の本心をわからずにいる。毎日一生懸命に働いていれば、自ずと周囲が評価してくれると医師は思っているが、それは幻想である。
職人は寡黙ゆえに世間から非難を受け、不当な評価を受けることになる。職人は「世間から意見されるほど落ちぶれていない」、と粋がってみても、周囲が認めないことには仕方がない。ただ耐えるだけである。
今日において職人の価値は廃れ、昔の職人は釘なしで五重塔を建てたが、今の大工にそれを求めても無理である。芸術より経済性を重んじた結果であるが、医師も同じである。昔の医師は顔色で患者の死期を言い当て家族を呼んだが、今は当日の検査でも死期を予測できず、家族が来るまで遺体に心マッサージとなる。
医師は均一化し、何でもマニュアル、何でも診断基準となり、職人芸は過去のものになってしまった。そして医師は職人というよりは、部品を直す技術屋、倒産しないために、そろばんをはじく商人に姿を変えようとしている。
医師の仕事を画一的なマニュアルで規定することは不可能である。患者の顔が違うように、患者の病気もそれぞれが違っているからである。
しかし世の中は、医療もマクドナルドのマニュアルのごとく、と思い込んでいる。マクドナルドの売り子と職人を区別できない連中が、医療にもマクドナルド同様の接客を求めている。医療の内容より、見かけの快適さを求めている。
どうも世の中は、職人にとって住み難くなってきたようだ。
もう何も言うことはない。降る雪や昭和は遠くになりにけりである。
現在、日本の輸血システムは、個人の善意による献血制度で支えられている。献血は輸血を必要とする患者のために報酬を期待せず、自分の自由な意思で血液を供給することである。しかし昭和42年までの輸血システムは現在の献血制度ではなく、「売血制度」であった。「売血制度」とは自分の血液をお金に換えることで、当時は生活のために血液を売る者が大勢いたのであった。
昭和26年2月26日、日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」が大阪で営業を開始した。血液銀行とは健康な人から血液を集め、その血液を病院などの医療機関に卸す民間会社のことである。血液銀行の名前から公的機関との印象を受けるが、それは間違いで血液銀行は利益を目的とした民間会社である。
日本ブラッドバンクは中国で人体実験を行った731部隊の幹部が創立した会社で、日本ブラッドバンクは後にミドリ十字と社名を変え、戦後最大の薬害事件である「薬害エイズ」を引き起こすことになる。日本ブラッドバンクと同じように、厚生省が認可した血液の売買業者は都内だけで70団体に達し、血液売買は立派な商売になっていた。医学の進歩に伴って手術件数が増え、手術の需要増が売血の供給増をつくった。
昭和28年の学徒援護会よると、都内の学生22万人うち、供血業者に登録している学生は約2万人であった。つまり大学生の約1割が売血によって生活費を得ていたことになる。また登録学生のうちの1割が高校生だった。このように多くの学生が血液を売って生計を立てていたのである。
採血量は1回200cc、3カ月以上の間隔を置くことが決められていた。しかしそうであっても1カ月に10回、15回と血液を売る者が多かった。もちろんそれを承知で採血を繰り返す業者がほとんどであった。血液の値段は200ccが1100円で、3割が業者にピンハネされ、7割が学生に渡されていた。失業者や学生たちにとって、売血が手っ取り早い収入になっていた。お金が必要な人たちにとって売血ほど安易な方法はなかった。大学病院前の血液銀行は登録者が多く、順番がまわらないほどの人気だった。新宿区淀橋の東京医大病院の血液銀行では1日20人の需要に100人が押しかけていた。輸血と売血は、需要と供給のバランスがあり、登録しても順番のこない地区もあった。
昭和28年当時は、インフレと企業の人員整理が重なり、職を求める労働者が街にあふれていた。経済はどん底の状態で、学生のほとんどがアルバイトで学費や生活費を稼いでいた。東大生の8割が生活のためにアルバイトを希望し、希望した学生のうち職を得たのはその4割であった。アルバイトの内容もピーナツ売り、代筆屋、ホステス、サーカスの会場係などで、その中には病原菌の人体実験のために体を売る危険なものもあった。伝染病研究所が募集したアルバイトは3食付きで、赤痢菌を食べうまく発症すれば1000円の手当金が与えられるもので、この人間モルモットの日給は150円だった。
不況と就職難が重なったこの時代に、アルバイトを見つけるのは困難であった。事務系アルバイトが日給80円であったが、自分の血液を売ればその10倍の収入になった。血液を取り過ぎて貧血で倒れる者、顔に頬紅を塗って貧血を誤魔化して採血を受る者もいた。このように学生たちは自分の血液を売って卒業証書を手にしていた。まさに苦学の時代であった。
昭和28年12月11日、東京葛飾区の供血斡旋業・日本製薬工業で従業員のストが行われた。その際、日本製薬工業に血液を売って生活していた500人の学生たちが血液を買えと工場前に座り込む事件が起きている。このように売血は貧しい人たちの生活を支えていた。しかも血液を売る人たちは常連がほとんどで、そのため血液の濃度が薄く、さらに血清肝炎の発症率が高かった。
売血制度は多くの怪事件を引き起こしている。昭和27年12月、仙台市北署は窃盗容疑で中高生9人を逮捕。貧血症状が強く顔色が悪いため中高生を追及すると、中高生たちは週に3回自分たちの血液を売り、交遊や飲食に当てていた。少年たちは窃盗罪で送検されたが、青少年の健康状態を無視したまま採血する業者の存在が明るみになった。売血が犯罪に結び付く事件も起きている。金を持たない学生が恐喝され、血液銀行に連れて行かれ、血液を採られる事件が福岡を始めとして各地で起きている。
昭和39年3月24日、米国大使ライシャワーが精神障害の少年に右大腿を刺され、その際の輸血から血清肝炎になり、売血制度は一気に社会問題になった。いわゆる売血による「黄色い血(輸血後肝炎)問題」である。ライシャワー事件から2カ月後の5月18日に、輸血に用いられる血液の97%が売血によることが新聞社の調査で判明、売血制度そのものが問われることになった。
昭和39年6月、読売新聞・本田記者が労務者になりすまし、どや街に侵入して売血の実態を「黄色い血の恐怖」という題名で新聞に連載した。その中で血液銀行が暴力団がらみであること、特定のアパートや置き屋に売血者を住ませている業者がいることを指摘した。
「黄色い血」とは売血常習者が何度も血液を売るため、血球成分が少なく血漿部分が多くなり、血液が黄色く見えることから名づけられた。また「黄色い血」という言葉は輸血後肝炎による黄疸のイメージと結びつくことから多用された。
大学生を中心とした売血追放運動が各地で起こり、昭和39年8月、政府はそれまでの「売血」から「献血」へと転換することを閣議決定。全国的な献血組織が整備され、赤十字血液センターが各地に開設され、移動採血車の普及などの推進がなされた。
それまで採血車は全国に3台しかなかったが、一気に27台に増やし全国に配置された。日本赤十字社の各病院も全面協力し、昭和39年の献血者は約1万5000人であったが、翌40年には20万人を超えるまでになった。
各都道府県に赤十字血液センターが設置され、昭和44年に献血率は80%となり、昭和48年にはすべてが献血となった。これでようやく先進国並みの状態となり、以後現在に至るまで、輸血のすべては日本赤十字社が扱うことになっている。
輸血の歴史を簡単に説明すると、オーストリアの医師ランドシュタイナーが人間どうしの血液を混ぜ合わせると血球が凝集することを見出し、1900年(明治33)にこの現象は人間の血液型ABOによることを発見した。この血液型の発見が輸血の歴史の始まりである。1914年、血液は採血するとすぐに凝固するが、抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)を混入すると凝血しないことが分かり、血液保存が可能になった。
日本で初めて輸血が行われたのは大正8年であった。昭和5年に、浜口雄幸首相が東京駅で暴漢にピストルで撃たれる事件が起き、この時、東大の塩田広重教授らが東京駅に駆けつけ、駅長室で輸血を行って浜口首相を助けたことが大きな話題となった。このころから医療の進歩に伴い輸血が一般的に行われるようになった。
当時の輸血は病院で血液を採取し、そのまま輸血する方法がとられていた。患者の寝ているベッドの隣に血液の提供者を寝かせ、注射器で採血してすぐに輸血する方法である。このことから「まくら元輸血」といわれていた。いわゆる新鮮血輸血であった。
輸血が行われて以来、わが国における輸血の歴史はまさに輸血後肝炎との戦いの歴史であった。昭和36年に献血制度が導入されるまでは、輸血を受けた者の半数以上が肝炎に感染したとされている。
昭和44年に完全献血が実施されると、輸血後肝炎は16.2%に低下し、昭和61年には8.7%に低下した。平成元年にC型肝炎ウイルスの検査が行われるようになり、平成4年には輸血後肝炎は0.48%にまで低下した。それでもまだ輸血後肝炎が完全に撲滅できないのは、感染を受けてから抗体ができるまでのウインドウ期(感染しているが検査は陰性の時期)があるためである。現在では、ウイルスを核酸増幅させる検査によってさらに安全性が高められている。
現在、献血対象者は年齢が16歳から64歳で、体重は男性が45キロ以上、女性は40キロ以上の者で、そのほか血圧、血液比重、既往症、服薬などの条件が設けられている。また献血者の安全と血液の品質が配慮され、献血者には血液型、肝機能、コレステロール、総タンパクなど7種類の生化学的検査の結果が知らされ、健康管理の役割を合わせ持つようになっている。
輸血による感染防止対策として、従来からの梅毒検査、B型肝炎(HBs抗原)検査に加え、昭和61年からエイズ検査、成人T細胞白血病、平成元年からC型肝炎のスクリーニングが行われている。平成6年からは、輸血による重篤な合併症である移植片対宿主病(GVHD)を予防するため、輸血される血液には放射線照射が行われるようになった。また最近では、他人の血液を輸血せずに、自分の血液を輸血する自己血輸血という方法も行われるようになった。自己血輸血は手術が予定されている場合に、あらかじめ自分の血液を採血し、備蓄しておく方法である。
昭和60年、献血者は年間約870万人に達し、献血率は7.3%で、スイス、フィンランドに次いで世界第3位になった。しかし血液のなかの血漿成分からつくる血漿分画製剤(アルブミン製剤、免疫グロブリン製剤、血液凝固因子製剤)の自給率は低く、WHO(世界保健機関)から「自国で必要とする血液は自国で確保すべし」と勧告を受けることになった。
そのため昭和61年から献血量を1回200ccと400ccの2本立てにしたが、皮肉なことに61年以降、献血者は減り続け、平成12年の献血者は588万人となっている。献血については日本赤十字社の血液センターに電話をすれば詳しい説明を受けることができる。
昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。
書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。
このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。
刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。
駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。
犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。
少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。
ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。
輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。
この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。
ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。
日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。
ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。
最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。
精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。
親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。
ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。
ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。
当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。
ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。
ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。
昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。
ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。
昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。
ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。
大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。
日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。
ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。
その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった
昭和63年8月1日、C型肝炎ウイルス(HCV)が発見されたと新聞が大きく報じた。米国のバイオテクノロジーの企業カイロンが、HCVの抗原タンパクの遺伝子クローニングに成功したのである。
昭和40年にB型肝炎ウイルスが、昭和49年にA型肝炎ウイルスが米国で発見されていたが、それら以外にも肝炎を引き起こすウイルスの存在が予想されていた。それは「非A非B型肝炎、輸血後肝炎」と呼ばれ、世界中のウイルスハンターの努力にもかかわらず、その正体はまったく分からずにいた。
HCVは培養細胞で増殖しないこと、チンパンジー以外の動物では実験できなかったことが発見を遅らせていた。カイロンは、非A非B型肝炎を感染させたチンパンジーの血液から、HCVの遺伝子を取り出すことに成功。さらにHCVの抗体検査キットの開発にめどがついていることを明らかにした。
このカイロンの突然の発表は世界中を驚かせた。しかもこれだけの発見でありながら、HCVの発見は肝臓の専門医の間でもうわさになっておらず、学会にも報告されていなかった。さらに発見した学者名も分からず、カイロンの特許申請によって初めて明らかにされたのだった。
HCVが発見されるまでは、肝臓病の原因は酒の飲み過ぎとされていた。肝硬変患者は「酒飲みだから」、あるいは「酒も飲まないのに」などと言われてきた。肝臓病患者は、酒飲みのレッテルを張られていたが、酒のせいとされていた肝臓病の多くがC型肝炎だった。日本では、アルコールによる肝障害はまれで、HCVによる肝臓病が圧倒的に多かったのである。
C型肝炎が検査で診断できるようになり、輸血後肝炎の95%以上、散発性肝炎の約40%が、HCVよるものであった。HCVは肝炎を引き起こすウイルスの中で、もっとも頻度の高いウイルスだった。
C型肝炎は慢性肝炎から肝硬変になりやすく、慢性肝炎、肝硬変、肝がん患者の80%がC型肝炎によるものだった。そして残り約10%がB型肝炎、10%がアルコール性、薬剤性、自己免疫性などによるものであった。肝炎の大部分を占めるHCVの発見がいかに偉大であったかが分かる。平成元年1月、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)は世界で初めて電子顕微鏡でHCVの粒子の撮影に成功、動物実験でその病原性を確認した。
日本ではC型肝炎ウイルス(HCV)の感染者が、全人口の約2%とされている。HCVは、B型のように母子感染や性行為によって感染することは少なく、通常の生活での感染はまれである。HCVに感染すると約3割は慢性化するが、約7割は自然に治癒する。感染のほとんどが血液を介してであるが、ではなぜ日本人にC型肝炎が多いのだろうか。
日本にHCVが入ってきたのは、遺伝子解析から江戸時代末期とされている。C型肝炎は輸血によるものが30〜40%、入れ墨や覚せい剤の注射によるものが10%、そしておよそ50%が原因不明である。
このように感染経路の約半数は不明だが、終戦直後に流行したヒロポンの回し打ち、売血による輸血の関与が高いとされている。また予防接種の注射針を替えずに使用したことも、有力な感染源とみられている。
昭和36年に献血制度が導入されたが、それ以前の売血によって輸血を受けた患者の約半数に輸血後肝炎が発症していた。当時の輸血後肝炎は、黄疸のみで診断していたので約半数とされているが、実際には輸血を受けた8割程度の患者が、C型あるいはB型肝炎ウイルスに感染した。このように輸血を受けた多くの患者が輸血後肝炎となったが、輸血が売血から献血に変わり、B型肝炎が検査で排除され、さらにやC型肝炎抗体陽性者が排除され、現在では輸血後肝炎は極めてまれになっている。
C型肝炎患者は60歳以上の人に多く、60歳以下には少ない。また注射針と注射筒の連続使用はすでに禁止され、輸血による感染の可能性がないことから、さらに治療の進歩を考えると、C型肝炎は今後激減して地球上から消滅することが期待されている。
HCVの検査法は、EIA法(酵素抗体法)と呼ばれるもので、当初はC型肝炎患者の50〜80%が陽性と判定された。ただしこの陽性率はHCV抗体検査の第1世代による成績で、第2世代、第3世代とともに検査法が改良され、現在では100%近い陽性率になっている。
HCV抗体検査は過去にHCVに感染したかどうかの既往をみる検査であって、抗体陽性者は過去に感染を受けたものの、現在、ウイルスを保有して持続感染しているか、排除されているのかは分からない。これを区別するのがHCV−RNA検査である。この検査はHCVの有無、ウイルス量、インターフェロンによる治療の適応を決めることができる。
HCVは塩基配列の違いから1から6の遺伝子型に、さらに数十種類の亜型に分類される。米国で最初に発見された遺伝子型は1aで、1aは米国に多い。日本では1bが7割、2aが2割、2bが1割である。HCVの遺伝子型は、各国で大きく異なっており、日本の1aのほとんどは米国からの血液製剤による感染である。
C型肝炎の治療薬はインターフェロン(IFN)であるが、遺伝子型によりIFNの効果は大きく違っている。日本で最も多い1b型はIFN抵抗性であるため、6カ月のIFN投与での排除率は18%。HCV−RNAの量が多い場合は6%にすぎなかった。IFNの効果はこの程度であり、しかも発熱などの副作用が高いにもかかわらず、その治療に期待し過ぎるきらいがあった。
しかし最近の治療の進歩により、IFNを用いた抗ウイルス療法で感染者の3分の1はウイルスを排除でき、3分の1は肝炎の進行を遅らせることができるようになった。平成16年、ペグ・IFNとリバビリン併用療法が認可された。薬が効きにくい難治性肝炎にも治療の選択が広がり、その効果に大きな期待されている。
C型肝炎から肝硬変、肝硬変から肝臓がんになるが、現在では肝臓がんの治療成績が良くなっているので、定期的な検査で肝臓がんを早期に発見して治療すべきである。
医療関係者では針刺し事故が問題になるのが、C型肝炎患者に使用した針を間違って刺した場合、事故直後はB型肝炎のような有効な対策はない。また感染からC型肝炎ウイルス(HCV)抗体が陽性になるまでには約3カ月なので、受傷直後にHCV抗体を測っても、感染の有無は分からないのである。針刺し事故で感染する確率は、0.3〜2%であるが、不幸にも感染した場合はIFNの投与となる。なお、針刺し事故には労災保険が適用されている。
薬害フィブリノゲンによるC型肝炎感染の根は深い。フィブリノゲンはヒトの血液成分を原料とした医薬品で、昭和39年に医薬品として承認され、昭和50年ごろから出産時の止血を目的に多くの医療機関で用いられていた。このフィブリノゲンを投与された患者の中で、肝炎を発症する患者が多くいることが分かり、その原因としてフィブリノゲンにHCVが混入していたことが判明したのである。これは薬害エイズと同じパターンであった。フィブリノゲンは、出産時の出血などに多用されたが、その有効性が低かったこと、国が認可していた薬剤であること、などが絡み問題を複雑にしている。昭和60年8月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、製薬会社の責任(大阪裁判)、昭和62年4月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、国と製薬会社の責任(福岡裁判)とされている。
フィブリノゲンは、多くの患者に投与されていたが、C型肝炎は感染から発症するまで長時間がかかる。その上、カルテの保存期間が5年なので、裁判に持ち込めた患者は、フィブリノゲン薬害のほんの一部の人たちと考えられる。
平成14年、血液製剤によるC型肝炎ウイルス(HCV)感染が大きな社会問題となった。問題になったのは主としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の血液凝固製剤「フィブリノゲン製剤」で、約6000の医療機関に納入され、約30万人に投与され、約1万人がHCVに感染したと推定されている。HCV感染と肝炎との因果関係は明らかであるが、血液凝固製剤がC型肝炎の原因であるとの証明、薬害肝炎をもたらした責任を含めると極めて複雑になる。
昭和39年3月にライシャワー駐日米国大使が暴漢に襲われ、輸血を受けたライシャワー大使が輸血後肝炎となった。この事件がきっかけに同年8月、民間の血液銀行が行っていた輸血を日本赤十字社に一本化し、輸血は売血から献血へと大きく変更された。この輸血行政の変換によって、昭和39年までの輸血後肝炎の発症率は50.9%であったが、昭和42年には16.2%になり、輸血の安全性は飛躍的に高まった。しかし献血としたのは輸血用の血液だけで、血液製剤は対象外だった。
血液銀行の大手だった「日本ブラッド・バンク」は、昭和39年8月に社名を「ミドリ十字」に変え、血液製剤部門の強化をはかった。血液製剤は国内外で数千人から集めた血漿を濃縮して製造していたため、通常の輸血より感染の危険性が高く、このことが後の薬害エイズ、薬害肝炎を引き起こす下地になった。
昭和39年、ミドリ十字はフィブリノゲン製剤を製造販売、主に出産時の異常出血の止血剤として使用されていた。ちょうどその頃、出産時の大量出血で妊婦が死亡した裁判で、「フィブリノゲン製剤を投与するなど、適切な止血措置をとらなかった」として、産婦人科医に高額な損害賠償を命じた判決(東京地裁、昭和50年2月13日)があった。このことから出産時の出血や、外傷や手術の止血用にフィブリノゲン製剤は安易に使用されていた。当時はフィブリノゲン製剤の投与による肝炎発症の副作用は少なかった。
いっぽう米国では、昭和52年12月に米食品医薬品局(FDA)がフィブリノゲン製剤の投与により肝炎が多数発生したことから製造承認を取り消していた。昭和54年9月、旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)血液製剤部長の安田純一が著書の中でFDAによる製造承認取り消しの事実を指摘、フィブリノゲン製剤の危険性を知りながら厚生省には報告していなかった。ミドリ十字もFDAの承認取り消しの資料を社内で回覧していたが販売を続けていた。
ここで混乱しやすいのは、米国のフィブリノゲン製剤は日本とは製造法が違っていたのだった。日本で販売されていたフィブリノゲン製剤は不活化処理(BPL処理法)により、B型肝炎ウイルス(HBV)のみならずHCVも不活化されていた。この不活化処理(BPL処理法)は偶然の選択であった。しかし昭和60年、この不活化の処理を米国と同じ方法に変更したためHCVは不活化されなくなり感染を拡大させた。
一方のB型肝炎は、昭和43年にHBVが発見され、昭和47年には輸血からB型肝炎が排去されたが、依然として輸血の約10%に輸血後肝炎が発症し、輸血後肝炎は非A非B型肝炎と呼ばれていた。しかし平成元年に米国のカイロン社がHCVを発見、HCVが非A非B型肝炎を引き起こすことが初めて解明された。HCVの発見により輸血後肝炎の全貌がほぼ明らかになり、C型肝炎は輸血以外に、集団予防接種などでの注射器の回し打ち、あるいは自然感染によるものとされていた。フィブリノゲン製剤によるC型肝炎は予想外のことだった。
さらに混乱しやすいのは、フィブリノゲン製剤は止血剤であることから、同時に輸血を受けていた患者が多かったことである。C型肝炎がフィブリノゲン製剤によるものなのか、輸血によるものなのか、あるいは別のルートによるのか、断言できなかった。また当時のカルテを保存している医療機関は少なく、解明をより困難にした。
薬害肝炎が社会問題となったきっかけは、昭和62年4月18日の新聞報道だった。それは青森県三沢市の産婦人科医院で、昭和61年9月から翌62年4月にかけて、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン−ミドリ」を投与された産婦8人が非A非B型肝炎に集団感染したことだった。
この感染は、肝炎ウイルスの不活化処理法であるBPL処理法が別の方法に変更されてから出荷された製剤によるもので、同医院は厚生省に報告するとともに、ミドリ十字にフィブリノゲン製剤によって集団感染が起きたと抗議した。しかしミドリ十字は「フィブリノゲン−ミドリ」の添付文書に「血清肝炎等の肝障害があらわれることがある」と記載してあることから、感染は不可抗力として患者に陳謝しなかった。
医院側とミドリ十字との話し合いは平行線をたどったが、医院側が患者救済のため、「投与した医師の責任」として患者に陳謝。医院が患者1人に約100万円ずつ計約800万円を支払うことになった。しかし実際には、救済金の半分の400万円はミドリ十字から医院へ研究費名目で支払われていて、ミドリ十字はこのことを公言しないように病院に約束させていた。つまりミドリ十字は薬害肝炎が広がった場合、補償問題の防止策をはかっていたのである。
この青森県の産婦人科医院をきっかけに、ミドリ十字は厚生省の指示で感染実態を調査し、同年7月までに同製剤で74人が肝炎を発症していると報告。ミドリ十字は非加熱の「フィブリノゲン−ミドリ」を自主回収し、事実上使用しなくなった。しかし同時に、感染の証拠となる「フィブリノゲン−ミドリ」をすべて破棄したため、薬害肝炎は隠蔽されてしまった。
平成13年頃からC型肝炎の感染ルートが重視されるようになったが、この事態を一転させたのが、平成14年3月のフジテレビ「ニュースJAPAN」の報道であった。日本初の集団感染を報告した三沢市の産婦人科医院が、当時の「フィブリノゲン−ミドリ」を保管していたことを明らかにした。保管されていた「フィブリノゲン−ミドリ」は製造から15年以上も経過していたが、分析の結果、C型肝炎ウイルス(HCV)の活性を持っていたのである。さらにDNA鑑定で「フィブリノゲン−ミドリ」と、かつて製剤によって肝炎を発症した患者のウイルスが一致し、また米国の麻薬患者のウイルスとも一致したのだった。
このことから血液製剤「フィブリノゲン−ミドリ」は、原料血漿を米国で買い付け、原料血漿にHCVが含まれていたことが明らかになった。薬害エイズと同じように、原料血漿は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦を対象とした極めてハイリスクなものだった。このことからフィブリノゲン製剤によってC型肝炎が引き起こされた可能性が高くなった。
平成14年8月、厚生労働省が作成したフィブリノゲン製剤によるHCV感染に関する調査報告書には、製薬会社の「三菱ウェルファーマ」(旧ミドリ十字、現田辺三菱製薬)から提出されたHCVに感染した418人分のリストが含まれていた。しかし厚生労働省は製薬会社から患者リストをもらいながら患者に連絡をせず、フィブリノゲン製剤を使用した納入先の医療機関を公表して、C型肝炎の検査を受けるように呼び掛けただけであった。
平成19年10月、この患者リストが厚労省の倉庫から発見され、厳しい批判を浴びることになった。平成19年11月30日現在、418人のうち265人が特定されたが、そのうちの51人が死亡していた。医療機関を通して感染の事実や感染原因を告知されたのは92人。死亡した9人の遺族に対して感染原因などが伝えられた。
平成14年10月21日、東京で13人、大阪で3人が東京地裁および大阪地裁に損害賠償を求めて提訴。さらに翌15年には患者原告は福岡地裁、名古屋地裁、仙台地裁において次々と提訴した。大阪と福岡の訴訟判決(平成18年)、名古屋の訴訟判決(平成19年)では、C型肝炎ウイルスを不活化していた期間においても感染の危険性が排除できないとして、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した。しかしそれ以外は国、製薬会社に責任はなしとの判断を示した。
裁判所はこのように判断を下したが、この司法判断とは別に、政府は議員立法で一律救済の法案を成立させることになり、平成21年11月30日に肝炎対策基本法が成立した。肝炎対策基本法はすべてのB型、C型肝炎患者の救済を目的とし、肝炎患者への治療負担の軽減を盛り込んでいる。さらに過去の薬害肝炎事件に関する国の責任も明記しており、肝炎患者救済の第一歩と期待されている。
江戸時代、佐倉藩(現在の千葉県成田市)は飢饉の続くなか、年貢を厳しく取り立て、年貢滞納者には過酷な拷問まで行っていた。
一家離散、餓死の惨状から農民が集結、一揆を起こそうとしたが、名主総代・佐倉惣五郎(そうごろう)は、「一揆を起こせば百姓の命はない、一家みな磔になる」、「私が領主に直訴する」と約束した。
佐倉惣五郎は、佐倉藩に減税を訴えようとするが、この動きを察知した役人は、「訴えごとをなす輩は厳罰に処す」と回状を名主に送り、申し入れすら受け入れようとしなかった。
305カの村の名主は、国許の佐倉藩では解決困難として、江戸にいる佐倉藩主・堀田正信に嘆願書を提出したが、「国許を差し置いて、強訴するとは不届き」と却下された。
そのため名主たちは、幕府へ上訴することを決断。将軍家後見職・保科正之を江戸城のお堀端で待ち、嘆願書を出した。しかし保科正之は、他藩の内紛に口を挟むことはできないとした。
この江戸の行動は、佐倉藩に通知され、「6人の名主総代は、藩にいれるな、召し取れ」となった。
名主たちに残された手段は、将軍への直訴しかなかった。将軍への直訴は、死罪とされていたが、その大役を佐倉惣五郎が引き受けることになった。惣五郎は家族に別れを告げるため、雪降る夜、印旛沼の渡し場の小屋についた。
渡し舟の夜間航行は禁じられていて、役人が渡し舟に鎖を掛けていた。船頭・甚兵衛は惣五郎が村民の窮状を救うため、江戸で活動していること知っていた。無断の夜間航行は打ち首であったが、甚兵衛は鎖を切って舟を出した。甚兵衛は、惣五郎を送ったあと、寒中の湖に身を投げた。
惣五郎は家にもどると、妻に離縁状を渡し、子供を勘当し、罪が及ばぬようにして、涙の別れをして家を出た。
惣五郎は四代将軍家綱へ直訴のため、上野寛永寺で参詣する将軍を待ち、訴状を将軍家綱へ差し出したが、その場で捕えられた。
惣五郎の処罰は佐倉藩に一任される。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、佐倉藩は磔(はりつけ)となった。さらにメンツを潰された佐倉藩主は、事前に離縁していた妻も磔とし、勘当していた4人の子供をも死罪とした。
いっぽう、将軍家綱は訴状の内容を確認、佐倉藩の状況を調査するよう命じ、
佐倉藩の酷政と深刻な不作に喘ぐ農民が確認された。幕府は佐倉藩に3年間年貢の免税を命じ、救済米を送った。
佐倉惣五郎は命をかけて農民たちを救ったのである。
この佐倉惣五郎の伝記は、「佐倉義民伝」として読まれ、歌舞伎では「東山桜荘子」として上演され、講談や浪花節でも取りあげられた。
江戸末期の百姓一揆は、惣五郎の影響が大きく、明治の自由民権家たちは惣五郎を民権の先駆者ととらえ、福澤諭吉は佐倉惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と書いた。
小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。
日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。
小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。
アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。
小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.1〜0.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。
小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。
昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。
ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。
日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。
このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。
しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。
子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。
昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。
ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。
ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。
昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。
昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。
昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。
しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。
このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。
同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。
このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。
小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。
世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。
小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。
子供の情操教育をかねて犬を飼うことにした。都内の犬屋を数軒訪ね、ケージに入った犬を見てまわった。かつて捨て犬を飼っていたことがあったので、犬には慣れていたが、数十万円の犬ばかりで、値段の高さに驚いてしまった。店内でどの犬を買おうかと迷っているうるうちに、値段の高い犬が良いだろうと思うようになった。
「物の価値は値段に比例する」とわが脳ミソは毒されていた。しかし妻はこの犬でなければいやだと一匹の犬を指さした。それは貧相な顔をしたコーギーだった。コーギーはエリザベス女王が飼っていることで有名になった犬種で30万円前後が相場の犬である。
しかしその上目遣いのコーギーはなぜか2万円だった。「安いものには、どこかに欠陥がある」と小声で文句を言ったが、妻は耳を貸さずレジで2万円を払って、そそくさと店を出てしまった。そして帰りの自動車の中で「この犬はあと数日の命だったのよ」と犬を抱きしめながら妻がいった。
つまり、売れ残った犬は値段が下げられ、それでも売れなければ安楽死にするのがこの業界の常識だったのである。妻がこの犬を買ったのはこの犬の命を助けたい気持ちからだった。
この日だけは妻を尊敬してしまった。そして医師としての基本的姿勢を教えられた気持ちになった。2万円のコーギーは、最近、飼い主に似て凛々しい顔つきになってきている。