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2012.01.26 07:43 |  恋愛 / 結婚  |  その他(一般)  |  歴史私観  |  スーさん  | 推薦数 : 1

壮絶な死

 20世紀を代表する画家モディリアーニを知らない人は少ないであろう。生涯に1回だけ個展を開いたが、その時、裸婦画を出展し、警察が乗り出す騒ぎになった。その裸婦モデルが、恋人ジャンヌである。

 モディリアーニは貧困と肺結核に苦しみ、35歳で死去したが、死の2日後、妊娠9ヶ月のジャンヌもモディリアーニの後を追うように、飛び降り自殺している。昔の人は、生き方が壮絶だったように、死に方も壮絶であった。

 織田信長の取りなしで、細川忠興は明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。しかし明智光秀の本能寺の変で、忠興は妻ガラシャを丹後の山中に幽閉する。

 その後、秀吉の許しで、夫婦は一緒に生活するが、関ヶ原合戦の直前、西軍の石田三成が敵方細川忠興のガラシャを人質に取ろうと大阪の屋敷を取り囲んだ。ガラシャは人質を拒否。キリスト教では自殺は大罪であるが、屋敷に火を放ち自害した。ガラシャは次の辞世の句を詠んでいる。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 次に、尊敬する科学者にほれた男の壮絶な死を紹介する。

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2012.01.22 07:05 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  恋愛 / 結婚  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 1

手洗い実話

 次の問題に答よ。「インフルエンザの予防策として、マスク、手洗い、うがいの中でエビデンスのあるのはどれか」。

 40年ぐらい前の論文に、次のような実験で、すでに結論が出でている。

 「インフルエンザの患者1人と、9人の健者」の組み合わせを3グループ(計30人)つくり、3つの部屋に閉じこめてトランプをさせる。

 第1のグループは全員マスクをさせ、第2のグループは定期的に手洗いをさせ、第3のグループは定期的にうがいをさせる。

 この実験により、手洗いのみが有効であることが証明されたのである。もちろん実験の手法を変え、手洗いのみが独立した有効因子であることが証明されている。

 手洗いは、手に付着したインフルエンザウイルスを物理的に除去するため有効とされ、マスク、うがいの有効性は、今日に至るまで証明されていない。

 「インフルエンザ予防の基本は手洗い」である。このような、小学入試の共通一次試験より簡単な問題を証明したのだから、昔の医師は偉かった。難しそうな書籍をバックに、物知り顔のアホ面で、テレビでコメントを述べる今の医師より偉かった。

 かつてインフルエンザの予防として、空気清浄機なるものが流行していた。最近、空気清浄機をみないのは、商売に効果があっても、インフルエンザに効果がなかったからである。

 もちろん軽度の発熱で、インフルエンザを心配して病院を受診する者ほど罹患の危険率が高く、ひきこもり症候群ほど危険率は低い。では、次の問題である。「恋人の愛情度とインフルエンザの感染率は、比例するか否か?」、答えは「勝手にしろ!」である。

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2012.01.14 21:47 |  生活 / くらし  |  趣味  |  恋愛 / 結婚  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 1

心の年齢

 肉体年齢? 精神年齢? なにをほざかしい。アンチアイジング? なんだいそれ、若作りのシワのばしのことかい? 馬鹿だね、大切なのは心の年齢だろ。清新で若い心が、人生を豊かにするのさ。

 20歳のはじける皮膚、紅の唇、しなやかな手足が、そんなにうらやましいのかい。シワだらけの顔だって、白髪だって、老眼でも、強い意志、豊かな想像力があれば、たとえ80歳でも心は青春なんだ。

 心は年齢を重ねても、老いもしなければ、成熟もしない。心が老いるのは、理想を失い、情熱を失い、冒険心を失った時なんだ。心を若くするには、信念、自信、希望があればいいのさ。もちろんそれがなくても、・・・よく分からないが、朝のこない夜もなければ、春のこない冬もないんだぜ。・・・理屈じゃないんだ、人生は。

 少子高齢化? 老後不安? 笑わしちゃいけない。悩んでいる暇なんかないんだ。心に灯を持ち、歌を口ずさみ、興味と探究心を持てば、心はいつも青春なんだ。こちとら山形生まれの江戸っ子だい、宵越しの金なんか興味ないね。

 おい、おい、死ぬ前に死んだ顔してどうするんだい。見た目を飾っても、活きのよさは心意気しだいだぜ。地震でも、オレオレ詐欺でも、何でもかかってこい、屁で飛ばしてやる。さあ、何でもありの人生だ、楽しくやろうぜ。

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 口で「愛してる」と言うのは簡単で、挨拶言葉と勘違いしている馬鹿者もいる。お金があれば高価なプレゼントも買えるが、プレゼントが愛の証にはならない。プレゼントを会社の経費で買うアホもいる。日本の離婚率30%、浮気率28%と暇な厚労省は発表している。

 離婚や浮気は相手への裏切り行為であるが、それ以上に、結婚式で「聖なる神に愛を誓った」のだから、離婚は神への裏切り、冒涜であるが、彼らに罪悪感はない。   

 では、どうすれば、相手の「愛の証」を知り得るのか。それは意外に簡単である。恋人に、あるいは結婚相手に、「もし肝炎を患って、肝臓移植が必要になったら、あなたの肝臓をもらえますか」と訊けばよい。もし顔色も変えずに「ああ、いいよ」と答えてくれれば、相手として間違いはない。天国だろうが、地獄だろうが、いつまでも伴侶のままである。もし相手が返事に躊躇していたら「冗談よ」と軽く微笑んで、相手が「医学知識のない真面目人間」なのか「死ぬほど愛していない」のかのどちらかと判断すればよい。

 生体肝移植は腎移植と違い、組織適合性はあまり問題にならない。また肝臓の1/3をあげても、肝臓には再生能力があり元の大きさに戻るので、肝臓提供に何ら問題はない。ウイルス性肝疾患の患者であっても、移植された肝臓がダメージを受けるのは20年後である。

 このように肝臓移植は有力な治療法であるが、日本ではそれほど行われていない。それは「家族愛」などの綺麗な言葉が流行しているが、実際には「家族愛」などは本当は薄っぺらい言葉だからである。

 肝臓移植が必要な患者を診察した場合、まず患者に内緒で、家族に肝移植の治療法を説明する。それはほとんどの家族が肝臓移植を拒否するからである。しかし、もし唯一の治療法である肝移植を「家族が拒否」したことを患者本人が知ったら、患者は相続拒否どころか、大騒動になる。

 このように肝臓移植という治療法がある以上、肝疾患で死ぬ患者はゼロになるはずであるが、日本では、年間5万人が肝疾患で死亡し、肝移植は年間500例ぐらいである。1/100、これが日本の家族愛の数値である。

 ちなみに「お前の肝臓が悪くなったら、私の肝臓をあげるよ」が、私のプロポーズの言葉であった。それに対し、「あなたの肝臓は汚れているからいらないわ、でも、ハートなら綺麗そうだから、心臓ならちょうだいね」と答えたのが、今の、ババ妻の返事であった。

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 昭和27年、黒澤明監督、志村喬主演の映画「生きる」が公開された。

 市役所の課長渡辺勘(志村喬)は、毎日書類の山と判子を押すだけの日々であった。市役所では形式主義がはびこり、住民の要望はたらいまわしにされていた。渡辺は30年間無欠勤の53歳の役人だったが、ある日、自分が胃ガンで余命4ヶ月であることを知る。

 渡辺勘は生きる望みを見失ない、絶望と孤独に陥り、むぜび泣いた。翌日、市役所を無断欠勤すると夜の街をさまよった。そこで知り合った作家にパチンコ、キャバレー、バー、ストリップを教えてもらい、飲みなれない酒を飲み、生きる意味を求めようとしたが、ただ空しいだけであった。

 「自分の人生はいったい何だったのか?」と憔悴しながら歩いていると、かつての部下の「小田切とよ」と偶然にであった。懐かしさから、小田切とよを喫茶店にさそい話してみると、自分のあだ名が「ミイラ」だったことを、あっけらかんに教えてくれた。渡辺勘は小田切の屈託のない無邪気さに魅了され、何度か遊園地で遊んだ後、小田切の新しい職場に押しかけ、「自分が胃癌」であることを告げた。

 すると小田切は動揺もせず見せずに、自分がつくった人形を見せ「あなたも何か作ってみたら」といった。

「もう遅すぎる」渡辺勘はぽつりとそう言ったが、しばらくして渡辺の顔色が急に変わった。その足で、すぐに市役所に戻ると、住民が要望していた児童公園をつくるために上司にかけあった。土地の視察、測量、業者との交渉。渡辺は死にものぐるいの奮闘で、児童公園を完成させたのである。

 それは小雪の舞う静かな夜であった。完成したばかりの児童公園で、渡辺勘は1人ブランコを揺らしながら、穏やかな微笑みを浮かべ「ゴンドラの唄」を口ずさんだ。翌朝になり、渡辺勘が公園で死んでいるのが発見された。


「ゴンドラの唄」吉井勇作詞、中山晋平作曲


いのち短し 恋せよ少女(おとめ)

朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に

熱き血潮の 冷えぬ間に

明日の月日は ないものを


いのち短し 恋せよ少女

いざ手をとりて 彼(か)の舟に

いざ燃ゆる頬を 君が頬に

ここには誰れも 来ぬものを


いのち短し 恋せよ少女

波に漂(ただよ)う 舟の様(よ)に

君が柔手(やわて)を 我が肩に

ここには人目も 無いものを


いのち短し 恋せよ少女

黒髪の色 褪せぬ間に

心のほのお 消えぬ間に

今日はふたたび 来ぬものを


 志村喬が低い声で口ずさんだ「ゴンドラの唄」は恋愛の歌ではない。歌詞の少女(おとめ)を「自分」に置き換えれば、「明日の月日は ないものを」「今日はふたたび 来ぬものを」、まさに人生のはかなさと悲哀を歌っている。

 私も志村喬が演じた渡辺課長の53歳をはるかに越えてしまっている。「どのように生きるべきなのか」、「自分のため、あるいは誰かの為に生きるのか」、「自分は生きて何をなすべきか」、難問中の難問であが、この難問に、「ゴンドラの唄」は「帰らぬ日のために、勇気を出して、元気を出して、満足を得るために前へ進め」と教えているのである。

 

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2012.01.01 12:01 |  研究  |  恋愛 / 結婚  |  映画 / 音楽 / 読書  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 1

幼妻(比較文化論)

  童謡「あかとんぼ」の3番に、「15でねえやは、嫁に行き」 とあるように、昔は15歳で結婚しても不思議ではなかった。しかも15は数え歳なので、現在では14歳に相当する。

 30年前の女性の結婚適齢期は24歳までで、25歳になった女性は出遅れとされ、男性にとって買い手市場を意味していた。当時、25歳の女性は売れのこったクリスマスケーキと呼ばれていた。それが現在では、女性は30歳を過ぎて結婚するのが当たり前になっている。

 時代と共に晩婚化して、37歳で出産した黒木瞳、38歳で出産した江角マキコなどが、女性の生き方として輝いて見えるかもしれないが、彼女らの影には多くの悲劇が生じていることを忘れてはいけない。高齢出産では奇形児の可能性が高くなるからである。たとえばかつて蒙古痴呆症とよばれていたダウン症は、20 から24歳の母親による出産では1/1500なのに、35 から39歳で1/20045歳以上では1/20と高率になる。

 奇形児であれ、極小未熟児であれ、人工授精であれ、医学の進歩により出産可能になっている。新たな生命の誕生はめでたいことであるが、出産後の家庭や子供がどのように暮らしているかの追跡調査はなされていない。

 話は変わるが、昭和45年に映画「おさな妻(関恵子主演)」が放映され、当時の学生は初夜という言葉に胸を熱くしたものである。現在の「おさな妻」はヤンキー嬢の出来ちゃった婚で、何の魅力もない。これも時代の流れであろう。

 重要なことは、人生にタイムリミットがあるように、子供のことを考えれば「結婚にもタイムリミットがある」ということである。みなさん頑張ってください。

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2012.01.01 09:34 |  恋愛 / 結婚  |  映画 / 音楽 / 読書  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 2

緑なす黒髪(比較文化論)

 緑なす黒髪とは、日本女性の黒髪の美しさを表現した言葉である。緑という言葉はもともと色を表す言葉ではなく、「若々しいみずみずしさ」を表現する清楚な形容詞である。

 緑なす黒髪が日本文化のひとつであることは、和服を着た女性の多くが黒髪であることからも想像がつく。成人式の茶髪に和服姿は、まさに日本の美を知らないキャバ嬢のごときである。

 明智光秀が若かりし頃、愛する妻が緑なす黒髪を売って夫を助けたとされている。信長を殺し、土民の竹槍で悲しい死を遂げた光成ではあるが、青年のころの夫婦愛を彷彿させる美談である。

 男性は清らかな美に魅了されるものだが、電車に乗れば、女性のほとんどが茶髪で、みずみずしい女性は少ない。赤鬼のような女性が金棒の代わりにヴィトンと携帯を持ち、鏡を覗きながら化粧する姿ほど愚かしいものはない。

 また恋愛のなかで「恥じらい」ほど純なものはない。「恥じらい」は言葉を越えた心の動きで、作り笑い、泣き真似、などの言葉はあるが、「作り恥じらい」という言葉はない。「恥じらい」を無理に演じても、不純な演技はすぐにばれてしまう。

 プレゼントを貰ったとき、嬉しそうに「ありがとう」と言うよりも、下を向いたまま、ほんのりと顔を赤らめる女性のほうが、男心を動かすである。たとえその「恥じらい」が一瞬であっても、男性はそのことを一生忘れないものである。

 恋愛は「相手を揺さぶり、ゲットするゲーム」ではない。この情報化時代、ハウツーものが、むしろ愛する心を不純にしている。恋に駆け引きなど必要ない。相手の出方を探り、自分に有利になるような駆け引きは不純であり、そこにあるのは打算である。

 その意味では、高学歴、高収入、高身長、などを前提条件とする風潮は最初から間違っている。恋愛の結果としてそのような相手にめぐりあえば、多少は幸福感を得るだけである。恋愛は自然に生じる感情で、あくまで純粋で、その純な気持ちが相手の心を引きつけるのである。

 たとえ恋愛が愚かな幻想であっても、幻想をみれるだけでもマシであろう。

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2011.12.31 22:07 |  趣味  |  恋愛 / 結婚  |  映画 / 音楽 / 読書  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 1

心中(比較文化論)

 心中という言葉は「この世で結ばれない相愛の男女が、あの世で一緒になるために死ぬ」ことで、近松門左衛門の曽根崎心中、浮世草子の心中大鑑、落語の品川心中などが知られている。

 事件としては、昭和32年の天城山心中が有名である。学習院大学国文科2年生の大久保武道(20歳)と、同級生の愛新覚羅慧生(19歳)が身分の違いを超えて天城山中の百日紅(さるすべり)の木の下で心中を遂げた。慧生は清最後の皇帝(満州国皇帝)愛新覚羅溥儀の弟の長女であった。

 慧生が大久保の腕を枕にして、2人並んで横たわって死んでいたのだった。大久保は右手に拳銃を握り、慧生と自分の頭を撃ち抜いたのである。身分の違いを超えた恋、まさに「死んでも寄り添うふたり」と報道された。

 いっぽう、何度か心中事件を起こした太宰治は「人間は恋と革命のために生まれてきた」と書いているが、太宰治に限ってその動機はウソであろう。芥川龍之介と同じ、「将来に対するぼんやりとした不安」が動機であり、心中は単なる演出だったと思える。自分勝手な太宰治が、女性に「死んで一緒になろう」などとは想像できないからである。

 いづれにしても、心中は「天国に結ぶ恋」を意味しているが、現代用語としては無理心中、一家心中など、醜く身勝手な用語として使われている。たとえ事件に恋愛が絡んでいても、ふられた恨みによる怨恨殺人、ストーカーによる妄想殺人、金銭目的の保険金殺人などで、「死んでも一緒」という純愛心中は、恋愛観の消失とともに死語になった。

 ついでに言うならば、あのアンルイスの「六本木心中」の歌詞、「ちょっと場末のシネマしてるね」、「あなた売れないジゴロみたいね」と歌詞そのものが分裂していて、まさに統合失調症。この「六本木心中」以降、日本そのものが統合失調症に冒されていて、快復の見込みなし。

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与謝野晶子
「柔肌の 熱き血汐に 触れも見で 寂しからずや 道を説く君」

 白いやわらかな肌の下に疼く、あなたを慕う熱い血潮、そんな肌に触れないで、帯を解かずに寂しくないの。たとえ難しい道理を論じても、意味のないことなのに。

 この短歌で、与謝野晶子の燃えるような激しく恋心を謳い上げている。
 このが刊行され、与謝野晶子と鉄幹は駆け落ちして、結婚している。与謝野晶子は怖しいほどの情念で鉄幹に恋し、この「みだれ髪」でそれをストレートに表現している。
 封建的な明治時代に、女性の自我、性、愛を与謝野晶子は情熱的に表現している。「みだれ髪」は歌壇から批判されたが、民衆から熱狂的支持を受けた。

なお「みだれ髪」には次の短歌が含まれている。

「みだれ髪を 京の島田にかへし朝 ふしていませの君ゆりおこす」
 朝起きたばかりの、みだれた髪を、綺麗に結いなおして、寝ているあなたを揺り起こす。

「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を手にさぐらせぬ」
 春は短く、世に滅びぬ命はないように、若い女性にも限りがある。弾ける若い乳房にあなたの手を導く。

「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」
 世の罪多き男たちを懲らしめる為に、私の肌も髪も美しく作られた。

(若者の恋愛論に疑問があったので、比較文化論として、与謝野晶子を調べてみた。その結果、現在の恋愛論は死語、あるいは変質していることが分かる)



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2011.12.24 18:34 |  生活 / くらし  |  恋愛 / 結婚  |  その他(一般)  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 1

妻へのプレゼント

  世の中、嫌なことばかり続いているので、まずは世のsatan退治の手始めにサンタになって、妻のsatanさんにクリスマスプレゼントを買うことにした。

 送るプレゼントのイメージは、映画ゴッドファザーの、「朝、起きたらベッドの中に馬の首が置いてある」、あの衝撃的シーンの再現であった。

 しかし無骨な私には、どのような物を買えばよいのか、皆目見当がつかず、クリスマスキャロルの連想からキャロル(下着)も考えたが、私のトレーナを常に愛用している妻に、高級下着は似合わない。さんざん迷ったあげく、マフラーを買うことにした。

 そしてデパートの店員さんに、「この封書を同封してください」とお願いした。封書には「メリークリスマス、このジャンボ宝くじは、100万円の当選券です。ご自由にお使い下さい」と書いておいた。ウキウキした気分で、真っ赤なリボンで結ばれた袋を、こっそり家に持ち帰った。

 クリスマスの朝、妻の様子にこれといった変化は見られなかった。夕方、買い物から帰ってきた妻は、「あなたの欲しがっていた、銀のフルートを買ってきたわ」と言った。「えぇ? あの当選券は妻を驚かせるためのウソだったのに」、でも何も言えず、気がつくと、妻の前でアベマリアを吹いていた。

 しばらくして、娘が「男の人って浮気をすると、急にやさしくなってプレゼントするんだって、パパもそうなの」と訊いてきた。不意を突かれ、黙っていると、「でも、良かったじゃない。いつも仕事ばっかりで、この前ママったら、「クリスマプレゼントは新しいパパがいいな」って言ってたのよ。でも、それも、当分なしか、つまんない」。         

 くそ、父親をからかいやがって、しかし、最近までクリスマスを「キリストの結婚記念日」と思い込んでいた、あのアホ娘も大人になったものである。

 ああ、santaとsatan、混乱してきたが、とりあえず乾杯、ではなくメリークリスマス。

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