幼児大腿四頭筋短縮症(昭和48年)
昭和48年10月5日,朝日新聞は「幼児集団奇病.山梨で23人が歩行困難,原因はカゼの注射?」との見出しをつけ全国版の第1面でこの事件を報じた.朝日新聞は山梨県南巨摩郡鰍沢(かじかざわ)町と隣の増穂町を中心に,膝関節が曲がらず,足がつっぱったまま歩行や正座ができない幼児が20数人いることを伝えたのだった.
この幼児の奇病を最初に気づいたのは,その地域の保健婦だった.保健婦は幼児の家庭訪問によって歩行に障害を持つ幼児が多発しているのに気づいていた.保健婦は保健所所長に原因究明を進言したが実現せず,親を説得して病院での診察を勧めたが,幼児たちはどの病院でも異常なしと言われるのであった.奇形の幼児を持つ親たちは周囲からカタワ者の家系といわれるのを恐れ,ひっそりと暮らしていた.
この奇形が公になったのは,増穂町に住む大工が奇形の孫をつれて山梨県立中央病院の副院長宅へ仕事に行ったことがきっかけをつくった.副院長夫人は奇形の孫を見て,県立中央病院の整形外科で診てもらうことを大工に勧めたのである.県立中央病院の整形外科を受診した結果,大腿四頭筋短縮症と診断され手術を受けることになった.そして大腿四頭筋短縮症の手術が成功し歩行障害が治ったことが増穂町で評判になり,同じ症状の幼児たちが県立中央病院に押し掛ける事態となった.
この事態に病院関係者は驚き,町役場,保健所もこのことを重く見て大騒動になった.保健所が行った集団検診によると,乳児33人中25人が幼児大腿四頭筋短縮症であることが判明した.この奇形の原因について,当初は先天性疾患,風土病,筋ジストロフィー,農薬中毒,新しい公害などが噂された.しかし母親からの聞き取り調査の結果,先天異常ではなく後天性の原因による可能性が大きくなったのである.
障害児を持つ母親の話から安井産婦人科医院(安井清,慶応医学部卒業)に疑いの目がむけられていった.障害児たちは例外なく安井産婦人科医院を受診しており,生後数ヶ月から2歳ごろまで風邪や下痢などで大腿部に頻回に筋肉注射をされていたのだった.安井産婦人科医院はよく効く注射を打ってくれる名医として評判の良い医院だった.
他の医院では子供に注射をする場合には尻に打つことが多かったが,安井産婦人科医院は大腿部の前面に注射をしていた.大腿部に注射を打つことは子供をうつぶせにする必要がなかったので子供の恐怖心は少なかった.子供はうつぶせにさせられただけで泣いてしまうが,仰向けの場合は子供が泣く前に注射は終わっていた.安井産婦人科医院では子供の風邪にも頻回に注射を打っていた.生後1年間に数回から最高150回の注射を受けた幼児がいた.つまり歩行障害は頻回な筋肉注射による大腿四頭筋短縮症が原因だったのである.注射液はほとんどが抗生剤(クロラムフェニコール),解熱剤(スルピリン)で,病名の多くは風邪であった.
大腿四頭筋短縮症とは,先天的あるいは後天的な原因によって大腿四頭筋の伸展性が失われ,膝関節が曲がらずに歩行障害をきたす疾患である.つまり大腿部前面の4本の筋肉の一部の弾力性,進展性が失われ,足が突っ張ったまま膝が曲がらない状態となった.尻を突き出したまま歩く姿が「アヒル」や「ゴリラ」と似ており周囲からの奇異な目で見られた.また膝関節の屈曲障害が強くなると,歩行だけでなく正座も出来なくなった.
地元医師会が中心になり筋肉注射とこの奇形との関連性が調べられた.しかし地元医師会は筋肉注射と大腿四頭筋短縮症との間に明確な関連性を指摘しなかった.ちょうどそのころ,東大医学部講師・高橋晄正が増穂町の農協ホールで薬害問題の講演にやってきた.その当時,スモン,コラルジル中毒,クロロキン網膜症などの薬害公害が全国的に問題となっており,高橋晄正は「薬を監視する国民運動の会」を創設し,医療告発運動の中心となっていた.高橋晄正が増穂町に講演に来たときには,大腿四頭筋短縮症の実状を知らず,講演を終えたあとの聴衆者との質疑によって大腿四頭筋短縮症を初めて知ったのである.その時,大腿四頭筋短縮症の原因解明に乗り出すと発言した高橋晄正の行動は速かった.高橋晄正は東京で自主検診医師団を結成し,昭和49年3月9日と17日に,子供たちの検診を開始した.この検診によって171人の子供のうち130人が大腿四頭筋短縮症と診断したのである.そして大腿四頭筋短縮症の子供は例外なく大腿部に注射を受けていたこと,障害の重症度は注射の回数に比例することを指摘し,大腿四頭筋短縮症は大腿部四頭筋への注射が原因であると報告した.さらに患者総数は290人に達していると報告した.12月18日,「奈良和モーニングショー」でこのヒザの曲がらない奇病と自主検診医師団が特集として放映されると,全国の母親たちは騒然となった.多くの母親は風邪などで大量の注射を子供に打たれていることを知っていたからである.そして大腿四頭筋短縮症は全国から注目を集めるようになった.
注射による大腿四頭筋短縮症は,昭和21年に東京女子医大・森崎直木が症例報告をおこなっており,筋肉注射が原因であろうと推定していた.しかし散発的な発症であったため筋肉注射の危険性は軽視されていた.昭和30年代後半になると消炎鎮痛剤や抗生物質などの開発が進み,筋肉注射が急増するようになる.昭和35年に南江堂から出版された日本外科全集には,大腿四頭筋短縮症の原因は大腿部への注射による炎症と記載されている.しかしこれらの警告は整形外科の分野から外には出ず,小児科医の大腿四頭筋短縮症に対する認識は乏しかった.そして昭和36年に国民皆保険制度が開始されると,患者の医療費負担が少なくなったため医療機関を受診する患者が急増し,また大腿四頭筋短縮症の被害者も増えていった.大腿四頭筋短縮症の発症は筋肉が未熟な幼児期に発生する危険が高いとされている.幼児期は尻の筋肉が未発達のため,あるいはうつぶせの必要がないため大腿部に注射をされる例が多かったのである.この大腿四頭筋短縮症は山梨県だけでなく,国民皆保険の導入とともに日本各地で急増していた.
国民皆保険制度は患者の負担が少なく,また医師の技術料を低く設定したため,医療機関は注射やくすりを乱発するようになった.そのため風邪や下痢で受診した患者は,症状とは関係なく,必要もないのに筋肉注射の乱用となった.風邪はウイルス性疾患であるから抗生剤の効果は期待できない.しかし大腿四頭筋短縮症をきたした患者の8割が風邪の診断で,1割が下痢の診断で筋肉注射を受けていた.使用された抗生剤はクロラムフェニコールが最も多く,解熱剤はスルピリンが最も多かった.このような乱診が大腿四頭筋短縮症の原因であるが,その根底には製薬企業と医師の人権を無視した姿勢が底流にあったといえる.
山梨県での幼児大腿四頭筋短縮症の原因が筋肉注射によることが全国に報道されるにつれ,同じような症状に悩んでいた子供たちが集団発生していることがわかった.昭和37年,静岡県伊東市宇佐見地区で約30人が集団発生し「泉田病」とよばれていたが,特定の医院から発生していたため患者と医院の間で示談が成立し社会問題とはならなかった.東大整形外科・三木威勇治教授は泉田病の原因を頻回の注射と知りながらも筋短縮症の防止策を立てず,警告も発せずに沈黙を守り続けた.昭和44年の福井県今立町で多発した今立病では,大腿四頭筋短縮症の40人の子供を持つ親24人が現地の小児科医を追及したが,医師会会長の斡旋により示談が成立していた.同年,名古屋市や福島市でも各10数人の大腿四頭筋短縮症が集団発生していた.このように大腿四頭筋短縮症は全国で発生していたが,なぜか社会的問題として表面化しなかった.
東北大学小児科は昭和26年から48年までに120例の大腿四頭筋短縮症を報告している.また東大でも19例の報告を行っており,決してまれな疾患でないことが分かる.なお筋短縮症は筋肉注射による筋肉障害の総称で,注射を打たれた場所により大腿四頭筋短縮症(太もも),三角筋短縮症(肩),上腕三頭筋短縮症(腕),殿筋短縮症(尻)などの種類があった.ウサギの実験では生食を筋注しても筋短縮症は発症せず,筋短縮症は注射薬剤の種類によって発症頻度が違うことが分かっている.最も発症頻度の高いのは抗生物質であった.昭和48年,昭和大学の坂本柱造は「大腿四頭筋短縮症に関する研究(昭和医学雑誌,46,8,26)」でウサギに抗生剤を投与し,筋肉注射部で筋線維の萎縮を認め,注射の量と比例することを報告している.このように坂本柱造は重要な実験結果を示しながら,掲載雑誌が一流紙でなかったことから注目を集めなかった.筋短縮症は学問的に筋肉注射が原因とされながら,同業者のかばい合い精神からか,社会問題になるには時間を要したのだった,
今回の山梨県の大腿四頭筋短縮症が注目されるようになったのは,東大講師・高橋晄正を中心とした自主診察団であった.自主診察団は高橋以外に,宮田雄祐(大阪市大・小児科講師),今井重信(整形外科),飯田鴎二(富山労災病院・整形外科)を代表に全国で150人のメンバーによって構成されていた.昭和50年5月18日, 日本小児科学会は大腿四頭筋短縮症の原因は頻回な注射が原因であると発表,注射の物理的刺激と薬剤による筋肉組織の破壊が運動障害を引き起こしたと結論づけた。そして「風邪の症状には筋肉注射をしないこと.抗生剤と他の薬剤を混合して注射しないこと」が取り決められた.この大腿四頭筋短縮症は裁判で争われることになる.山梨県では患者158家族が,医師,厚生省,製薬会社を相手に66億7000万円の損害賠償請求を東京地裁に訴えた.
医師は診察に際しての注意義務,国は医薬品の製造認可に関する注意義務,製薬会社は注射液の安全性の責任,これらに対して被害者は損害を支払うように訴えたのである.これに対し医師は子供の病気を治すためには注射はやもうえなかったこと,注射によって筋短縮症が発症することは予測できなかったこと.さらに注射液には皮下注射用,筋肉注射用と記載されており,筋肉用を筋肉に使用して筋短縮症が発症してもそれを製造許可した国と製薬会社に責任があるとした.国と製薬会社は,注射行為は医師の自由裁量であり,医師の乱注射が原因であり責任はないと主張した.このように医師,製薬会社,厚生省の責任転嫁を繰り返した.
昭和50年,厚生省は日本の大腿四頭筋短縮症は重傷が1,552人、軽症が1,177人、合計では3,669人であることを公表した.しかし東大医学部講師・高橋晄正は自主検診から全国では1万人を越える患者がいると推定していた.医原病の犠牲になった障害児たちは,あひるのような歩き方から仲間はずれとなり,歩行障害と共につらい日々を送ったと思われる.
当時,高橋晄正は製薬会社の儲け主義,医師の権威主義を打破する旗頭であった.昭和40年代の医療を知る者にとって,高橋晄正の名前は忘れることのできない存在であった.
平成16年11月3日,高橋晄正は心不全のため死去,86年間の人生を閉じた.
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一酸化炭素中毒殺人事件(昭和48年)
昭和48年3月20日の早朝,山形市・釈迦堂の農家の主婦(43歳)が一酸化炭素中毒で死亡するという事件がおきた.練炭による一酸化炭素中毒が原因と思われたが,この事件は夫の横川真一(Y)によって巧妙に仕組まれた殺人事件だった.
夫から要請を受けた救急車が農家に駆けつけると,母屋の裏にある椎茸栽培用のビニールハウスの中でYの妻が倒れており,すでに死亡した状態であった.ビニールハウスは四畳半ほどの大きさで椎茸が栽培されていて,ビニールハウスの中央に練炭火鉢が二つ置いてあった.外傷もないことから,死因は一酸化炭素中毒で間違いないとされた.警察と医師によって検死がおこなわれたが,とくに疑わしいところはなく妻は事故死とされ,司法解剖はなされずに火葬された.
一酸化炭素中毒はそれほど珍しい事故ではない.狭い部屋で練炭を使用したり,ガス湯沸かし器をつけっぱなしにしたり,エンジンをつけたまま車内で寝てしまったり,数多くの事故が毎年繰り返されていた.またかつての都市ガスには数%の一酸化炭素中毒が含まれていて,都市ガスによる事故や自殺も多かった.一酸化炭素は無臭のため,本人が気づかないうちに死に至ることが多かった.
しかしこの主婦の死は一酸化炭素中毒による単なる事故ではなく,Yによる殺人であると噂されるようになった.それは主婦が死亡してから1年後のことであった.Yは死亡した妻に多額の保険金を掛けていたのである.生命保険は山形市だけでなく,茨城,東京,大阪,岐阜など全国各地で加入しており,しかも妻の代わりに女性の替え玉を使い郵便簡易保険や民間保険に加入していたのだった.そして妻の死後10日目に6000万円の簡易保険金を受け取ったのを初めとして,合計8000万円の保険金を受け取っていた.Yは年収とほぼ同じ金額の保険金を払っていたのである.
当時の郵便貯金や保険会社はコンピュータによる全国のネットはまだ整備されていなかった.他県の窓口で保険に加入すれば何口でも入ることが可能だった.しかしYはここで大きな失敗を犯すことになる.なぜか保険金の請求をすべて地元の郵便局でおこなったのである.そのため不審に思った職員が全国の郵便局を丹念に調べ,巨額の金額が支払らわれている事実をつかんだのである.このちょっとしたミスにより完全犯罪が発覚することになった.
巨額の保険金,短期間の加入,突然の死亡,このことから保険金目当ての殺人の疑惑がでてきた.捜査は極秘のうちにおこなわれ,警察はYを保険金詐欺罪で逮捕し取り調べることになった.
Yは事件当時,商品相場に手を出し,また株にも失敗し多額の負債を抱えていた.殺人の動機ははっきりしたが,事故死とされた妻の遺体はすでになく,殺人の証拠はどこにもなかった.Yは保険金詐欺を認めたが殺人については否定した.
捜査陣は当時と同じビニールハウスを建て実験を繰り返した.妻の死因は一酸化炭素中毒であった.しかし何度実験しても練炭だけではビニールハウス内の一酸化炭素濃度は上昇せず,殺人ばかりか死因さえも証明できないという不合理をみせた.
警察の調査の結果,Yは偽名を使い数カ所の薬局から硫酸などの薬品や試験管などの実験器具を購入していることが分かった.そして薬局に残された明細書からYの指紋が検出されたのである.この事件が決定的結末を迎えたのは,山形大学理学部から山形県警への一本の電話であった.以前,Yが理学部の研究室を訪ね,合成した一酸化炭素ガスから臭いを消す方法をしつこく尋ねたという教授の証言だった.一酸化炭素は無臭であるが,しかし化学的に合成した一酸化炭素には強い臭気が残るのが特徴であった.Yは自分で合成した一酸化炭素の臭気を消す方法を山形大学の研究所に聞きにきたのであった.
山形大学理学部の情報を突きつけられたYは全面的な自供をおこなった.Yは生命保険の契約を結ぶと同時に化学の本を買いあさり偽装殺人の準備を始めた.疑われずに妻を殺すことが出来るかどうかを研究したのである.試験管やフラスコを買い求め,密かに実験を繰り返した.硫酸とギ酸で100%の一酸化炭素を合成できることを知ったが,ギ酸は一般の薬屋では入手できなかった.そこでさらに研究し,Yはシュウ酸と硫酸を加熱して50%の一酸化炭素と50%の二酸化炭素を精製し,50%の二酸化炭素を苛性ソーダで取り除く方法を見いだしたのである.高濃度の一酸化炭素を精製したが,次に強い臭気が問題になった.この臭いを消すためにYは山大理学部に助言をもとめたのだった.理学部ではその脱臭方法は分からないまま,結局よい解答は得られなかった.しかし研究熱心なYは冷蔵庫の脱臭剤を利用することを思いついたのである.高濃度の一酸化炭素をビニール袋にいれ冷蔵庫の脱臭剤を用い無臭化に成功したのだった.そしてネズミを用いた実験では即死に近い結果をえた.
Yは一酸化炭素中毒の舞台となるビニールハウスを建設,実際に椎茸の栽培を始める,保険金殺人の計画を着々と進めていった.Yは偽装殺人のために防塵用マスクを2つ準備した.
Yは事件当日の3月20日の深夜,「ビニールハウスの様子がおかしい」と寝ている妻を起こし,一緒にビニールハウスに行った.そして「一酸化炭素中毒の可能性がある」と言って,防塵用のマスクをつけ,妻にも同じ防塵用のマスクをつけさせた.そして妻が防塵用マスクをつけると同時に,防塵用マスクにつけてあったエチレンの袋のひもをはずし高濃度の一酸化炭素を吸わせたのである.妻は数秒で気を失い,その場に倒れた.Yは妻の防塵用のマスクをはずすと,ビニールハウスの戸を閉めたまま一時間放置し,死を確認した後に救急車を要請したのだった.
東北大学法医学教室,山形県警ではYの自供とおりの方法で一酸化炭素が精製できること,さらにその一酸化炭素濃度では数秒で卒倒することを証明した.そしてYは第一審で無期懲役の刑を受け,控訴せずに服役することになった.自家製の一酸化炭素による殺人事件はこれが世界で初めての例であった.
一酸化炭素を吸うと,一酸化炭素が血液中で酸素を運ぶヘモグロビンとすぐに結合する.一酸化炭素のヘモグロビンとの結合力は酸素の約250倍とされ,このため必要な酸素を体内に供給できなくなる.体内の細胞が酸欠状態になり数秒で窒息死状態になる.一酸化炭素は無色,無味,無臭の気体で,皮膚への刺激性もないため,中毒症状が現れるまで予知することはできない.そのため室内での石油ファンヒーター,ガスストーブ、ガス湯沸器などの燃焼器具を使うときは注意が必要がある。軽度の場合の症状は頭重,頭痛,疲労,倦怠感,めまい,悪心などであるが,一酸化炭素の濃度が50%以上になると瞬間的に意識を失い死亡する.治療は高圧酸素療法と高濃度酸素の投与,呼吸管理と全身管理である.最近では車庫の中でエンジンをかけたままの状態で,排気ガスによる一酸化炭素中毒が多い.
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コインロッカーベビー(昭和48年)
アメリカで生まれたコインロッカーは,昭和39年の東海道新幹線の開通に合わせるかのように日本にも登場し.以後,大阪万博開催などの旅行ブームとともに全国の駅にコインロッカーは増えていった.それまでは手荷物預かり所で住所や氏名を書かなければいけなかったが,匿名性と便利性がうけ,昭和48年には全国のコインロッカーの数は18万個に増えていった.
コインロッカーの使用期間は4日間で,それを超えると鍵が開けられ,中身は2ヶ月のあいだ駅で保管されて開放される仕組みであった.この匿名性と密閉された空間が犯罪に用いられるようになった.
昭和45年2月3日,渋谷の百貨店のコインロッカーで新聞紙に包まれビニール袋に入れられた新生児の遺体が発見された.渋谷署はかつて売春容疑で検挙した女性の指紋が一致したことから,佐世保生まれの女性(21)を全国に指名手配した.これがコインロッカーに新生児が捨てられた最初の事件だった.以後,コインロッカーベビーは急増し,昭和48年にはコインロッカーに捨てられた新生児は43件に達した.そのためコインロッカーベービーという言葉が流行語になった.
赤ちゃん殺しや赤ちゃんの死体遺棄事件が当時は多発し,コインロッカーベービー以外にも発覚したものだけで年間約200件に達していた.生まれたばかりの赤ちゃんは人目をさけて川や林に捨てられ,また駅やデパートのトイレやゴミ箱に捨てられた.人目に付く場所に捨てた母親は誰かに育ててもらえることを期待していたと解釈できるが,いずれにしても許せない行為であった.
医師は妊娠がわかると「おめでとう」と母親に言うが,しかし妊娠を喜ぶ女性がいれば,妊娠を悲しむ女性もいた.出産を希望しない女性には様々な理由があった.当時の性教育は皆無に等しく,避妊に対する知識は乏しかった.マスコミは女性の性の解放を叫びながら,避妊に対する情報が少なく,そのため不幸な妊娠を背負ってしまう女性が多くいた.性道徳は荒れ,それでいて性行為の結果である妊娠という現実は隠されていた.マスコミは婚前交渉をあたかも時代の最先端のようにもてはやしながら,性交渉に伴う妊娠というリスクを隠しながら,未婚の母をふしだらな女性と決めつけていた.
昭和48年当時は,同棲時代,内縁時代,フリーセックス,ウーマンリブなどの言葉がもてはやされていた.性行為が愛の証のように雑誌は書き立て,性行為を推奨するかのように美的に映画は描いていた.このように国全体が経済の高度成長にうかれ,セックスを煽りながら,セックスの結果に対する社会全体の受け入れはあまりに無責任であった.
また妻子ある男性に離婚を条件に身体を許し,妊娠末期に約束を守らずに逃げてしまう男性が多かった.「相手が妊娠したことを知ったとたん,男性はその女性を嫌になる」という身勝手なパターンが多かった.女性は望まない妊娠をしたまま取り残され,大きくなる赤ちゃんを腹に宿しながら途方に暮れるばかりだった.困り果てた妊婦は,腹の中の子供をどうすることもできなかった.
当時は日本が高度成長期に入ったばかりである.外国の恋愛ものが大量に輸入され,若者はその影響を受けていた.それでいて恋愛そのものを受け入れる社会ではなかった.日本の結婚はほとんどが家柄を重んじる見合い結婚であり,恋愛結婚という欧米の形態はまだなじみが薄かった.まして日本の女性はひとりで私生児を育てる経済力はなかった.また私生児,父なし子の存在を社会が受け入れる時代ではなかった.日本の社会も家族も私生児を恥とし,その存在さえも闇に葬ろうとしていた.現在でも一部の自立した有名人を除けば,日本の社会は私生児に対して日本独自の伝統的嫌悪感に包まれている.
戦前は「生めよ増やせよ」の国策により,性行為は子供を産むための行為とされた.そして時代が進むにつれ,「性行為は性の享楽を求めること,男女の愛の表現方法」に変わっていった.しかし避妊に対する知識は乏しく,望まない妊娠という現実が日本中に溢れていた.自分だけは妊娠しないという自己中心的な思い込みによる失敗,そして高度成長時代の消費文化を象徴するかのように,不用品を捨てるような感覚で赤ちゃんが捨てられていった.
昭和47年の警視庁の統計によると,母親の赤ちゃん殺しの動機は,未婚者の8割が世間体を恥じ,既婚者の4割が貧困によるものであった.赤ちゃん殺しの背景にはこのような理由があった.わが子であれば自分の意のままに処分してしまう,このような自由の意味をはき違えた未熟な母親が多かったといえる.
この現象を母性本能の喪失と単純に決めつけることはできない.赤ちゃん殺しは,本来,出産させた男性の無責任が背景にあるからである.赤ちゃん殺しは母親だけが犠牲になって追い詰められるが,女性を妊娠させた男性は,妊娠を知らされると女性を突き放し,責任をとろうとしなかった.男性が女性と同じように性行為の結果に対して責任を持つならば,このような悲劇は生じないはずであった.男性の責任は追求されず,女性ばかりが責任を追及された.婚前性交渉については,男性に甘く,女性に厳しい社会であり,男性は妊娠から逃れられても,女性は決して逃れることはできなかった.赤ちゃんの生命は無視され,胎児,赤ちゃんにとっては受難の時代といえた.
また出産を希望しない女性が1番恐れていたのは,紙切れ一枚にすぎない戸籍の問題だった.未婚の女性の戸籍に子供を産んだ事実が書かれてしまえば,その後に結婚などできるはずはなかった.戸籍を汚してしまった女性の人生は終わったに等しかった.当時の性道徳は荒れていたが,性道徳の荒れによる妊娠を世間が受け入れるような時代ではなかった.未婚の母親は世間から白眼視され,戸籍を汚すという言葉は,未婚の母親に対する社会の根強い偏見を意味していた.未婚の母親はふしだらな女と非難された.彼女らはそれを避けるために赤ちゃん殺してコインロッカーに入れたのである.コインロッカーの使用期間の短縮により,コインロッカーべービーは次第に減少していった.
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ゴキブリホイホイ(昭和48年)
人間の歴史は数十万年であるが,コキブリの歴史は人間の歴史とは比較にならないほど古く約4億年前から地球上で生きていたとされている.いわゆる「生きた化石」であるが,ゴキブリほど人間に嫌われている昆虫はいない.ゴキブリは病気を媒介せず,また人間に危害を加えるわけではない.その意味では害虫とはいえないが,とにかくその見ためのせいか人間から嫌われている.全体に油を塗ったようなツヤがあることから,かつてはアブラムシとも呼ばれていた.
昭和48年,営業不振から大塚グループに吸収されていたアース製薬が「ゴキブリホイホイ」を発売した.それまでの捕獲器はプラスチック製であったが,紙製の使いかってのよさからで,発売と同時にそのそのネーミングのようにホイホイと売れまくった.1セット5枚で500円だったが,発売から3ヶ月で売り上げ27億円を記録し,殺到する受注に昼夜三交代で生産しても間に合わないほどであった.テレビ広告に由美かおるが起用され,一般消費者から爆発的な人気を得た.
ゴキブリホイホイを開発したのはアース製薬開発部長・木村碩志(44)である.木村碩志は立命館大学の応用化学部を卒業すると,京都大学薬学部で学位をとり,国立衛生試験場から10年前にアース製薬に研究員として入社した.入社したアース製薬は殺虫剤では老舗であったが,40年代に入り業績が悪化し,44年に会社更生法を申請,翌年大塚グループに吸収された.この傾きかけた会社の片隅で木村碩志はゴキブリの研究ばかりを行っていた.アース製薬はエアーゾールタイプのゴキブリ殺虫剤「アース・ローチ」を製造販売していたが,昭和45年に塩素系殺虫剤が全面禁止されたため,これをきっかけに各社がいっせいに新たなゴキブリ殺虫剤の開発の競争となった.
アース製薬では社長(大塚正富)を中心に全社規模で開発プロジェクトチームが編成された.プロジェクトチームは開発のために4つの目標をあげた.それはまず,1)使い捨てであること.2)家庭に置いても楽しい容器であること.3)使用方法が簡単であること.4)殺虫剤は使わず,粘着剤によってゴキブリを捕獲することであった.そして飼育室に30万匹のゴキブリを飼ってその生態を研究していた.
ゴキブリホイホイの開発において最も重要な課題はゴキブリを引き寄せる誘導物質であった.猫におけるマタタビのようなものである.ゴキブリの誘導物質として性ホルモンなどが検討されたが,量的問題が解決できなかった.また誘導効果が弱すぎるとゴキブリは誘導されず,強すぎると家の外からゴキブリが入ってくる可能性があった.苦労の末にゴキブリの好きな臭いを発生する誘導物質が開発された.もちろんこの誘導物質が何であるかは企業秘密となっている.
また大塚社長はゴキブリ捕獲にトリモチを用いるアイデアを思いき,紙箱に粘着剤を塗ってそのまま使い捨てとする発想が生まれた.有毒物質でゴキブリを殺すのではなく,餌を食べられない状態にしてゴキブリの餓死を待つという方法であった.そのためゴキブリホイホイの中を覗くと1週間経っても触角を動かしているゴキブリを見ることができる.もちろん餓死にくわえ身動きが出来ないというストレスも大きいと考えられる.
発売されたゴキブリホイホイは次々に改良され,ゴキブリがもがけばもがくほどゴキブリの足がのめり込むデコボコ粘着シートが開発された.さらにはゴキブリの足に付いた油分・水分を取り除きくっつきやすくする足ふきマットの開発.これらの効果によって捕獲力が一段とアップした.
家の形をしたゴキブリホイホイはゴキブリが入ってみたいというようなイメージを,ゴキブリにではなく使用者に持たせた.またゴキブリホイホイというネーミングがすばらしい.商品のネーミングには豪華さを感じさせるもの,効果をイメージさせるもなど様々あるが,ゴキブリホイホイのネーミングは,殺虫を感じさせない親しみがあった.本来ならば「ゴキブリ版アウシュビッツ」と名付けてもよい残酷な新兵器であるが,それを感じさせないところにゴキブリホイホイのすばらしさがあった.
傾きかけていたアース製薬はゴキブリホイホイでよみがえり,アースレッド(昭和55年),ねずみホイホイ(昭和57年),ダニアース(昭和58年)など多くの薬品を開発し,不景気といわれる平成の時代においても、アース製薬は成長を続け高い売り上げを確保している.
アース製薬は殺虫剤・虫よけ剤の分野においてトップシェアを占めることになるが,そのほか洗口液の「モンダミン」、水洗トイレ用芳香洗浄剤の「セボン」、除菌消臭剤の「車内のニオイとり」、「アースエアコン洗浄スプレー」など、他社に類を見ないオリジナリティあふれる商品を次々と生み出している.アース製薬の製品は、アジア・アメリカ・ヨーロッパを中心に80以上の国々に輸出されている.殺虫剤をはじめ20品目にわたる製品が海外でも利用されており、アース製薬の活躍するフィールドは国際的に広がっている.
これもすべて「ゴキブリホイホイ」があったからである.数万匹のゴキブリと昼夜ともにして研究に専念した木村碩志の功績は大きく評価したい.しかし地球上の先輩であるゴキブリにとっては木村碩志の評価は最悪であろう.
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あさま山荘事件(昭和47年)
昭和47年2月19日,群馬,長野の両県警は1000人を超す警察官を動員して連合赤軍の捜索を行っていた.そして長野県北佐久郡軽井沢町のレークタウ ン近くで5人の警察官が数人の足跡を発見した.このあたりの別荘は冬の間は無人のはずである.警察官は足跡を追いながら別荘に近づき,町田勝利隊長 (28)が空き別荘の雨戸を開けた瞬間,中から拳銃を乱射しながら犯人が飛び出してきた.警察官は2人の負傷者を出しながらもピストルで応戦,そして5人 の連合赤軍は約500メートル離れた河合楽器の保養所「あさま山荘」に押し入り,管理人の妻・牟田泰子(31)さんを人質にとって立てこもった.
この連合赤軍5人の犯人は坂口弘(25,東京水産大中退)、坂東国男(25,京都大卒)、吉野雅邦(23,横浜国大中退)、加藤倫教(19,東海高校 卒),その弟のM(16,東山工業高校)であった.犯人が「あさま山荘」を選んだのは,山荘の前に車が止めてあったことから,人質となる者がいると考えた からである.牟田泰子の夫・郁男(65)さんは街に買い出しに行っていた.午後5時20分には機動隊200人が浅間山荘前に到着した.
3階建のあさま山荘の出入り口は道路に面した3階部分の玄関だけで,山の急傾斜に建てられた山荘の裏側は絶壁となっていた.山荘からの見通しはよく,警 察の行動が手にとるようにわかった.山荘には食料が豊富にあり,まさに難攻不落の要塞になっていた.このとき連合赤軍は1年前に栃木県の猟銃店から奪った ライフル1丁、拳銃1丁、2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実弾約700発を持っていた.
警察庁長官・後藤田正晴はこの事件解決について6項目の指示を出した.(1)人質の牟田泰子さんを必ず救出すること.(2)犯人を射殺すると殉教者にな るので犯人は生け捕りにすること.(3)身代わり人質は殺害の恐れがあるので要求には応じないこと.(4)銃器の使用は警察庁の許可事項とすること。 (5)報道関係と良好な関係を保つこと.(6)警察官の犠牲者を出さないよう慎重に行動すること,この6項目であった.
浅間山荘への突入は物理的に困難と判断,人質の人命尊重を第1に持久戦に入った.この浅間山荘事件の指揮をとったのは長野県警本部長・野中庸であった. また警備局参事官・丸山昂,警備局付警務局監察官・佐々淳行,公安第1課の亀井静香警視も現地入りした.防弾チョッキ,鉄かぶとで武装した長野県警,群馬 県警,機動隊 750人が山荘を包囲した.あさま山荘は標高1169.2メートルに位置し,零下15℃で食事はすぐに凍ってしまった.警察にとっては流血とともに寒さと の闘いでもあった.このとき緊急用に納品されていた日清食品の「カップ・ヌードル」が活躍することになる.犯人は屋内から銃を発砲してきたが,中の様子は 分からなかった.
2月20日(2日目),警察と機動隊は何度もマイクで連合赤軍に呼びかけた。「君たちは完全に包囲されている.これ以上罪を重ねることはやめ なさい」,「人質を取るのは卑劣な行為である.管理人の奥さんを早く返しなさい。君たちの仲間はすでに逮捕されている.君たちも抵抗をやめて出てきなさ い」.このように何度も呼びかけたが連合赤軍は発砲で応じるのみであった.連合赤軍はバリケードを強化し,壁には警察部隊を狙撃するための銃眼がつくられ た.警視庁は狙撃班員を送り込み,装甲車3台が山荘を取り囲んだ.しかし人質がいるのでうかつに手を出すことはできなかった.
2月21日(3日目),軽井沢署に「連合赤軍警備取り締まり本部」が設置された.また警備心理学研究会の3人が現場に到着,心理学的には連合赤軍側が有 利で,警察側が逆に追い詰められていると分析した.警察は疲労を避けるため交代で休息し,明かりや音で犯人たちを眠らせない作戦をとった.夕方,吉野雅邦 の両親と坂口弘の母親(58)がヘリで現場にかけつけた.吹雪の中でマイクを握りしめた2人の母親は切々と呼びかけたが何の反応もなかった.
2月22日(4日目),吉野雅邦の両親と坂口弘の母親を乗せた特型警備車が山荘玄関前に接近し説得を再開した.「きのう、ニクソンが中国に行ったのよ。 社会は変わったの,銃を捨てて出てきなさい」.事実,2月21日には,ニクソン米大統領が北京で毛沢東と会談し,米中間の国交正常化が実現していた.吉野 の母親が「お母さんを撃てますか」と子供を叱るような涙声で叫んだ.しかし吉野はためらわずに銃を発砲,弾は母親を乗せた特型警備車に命中した。
午前11時40分ころ,新潟でスナックを経営している田中保彦(29)さんが北側斜面をよじ登り南側玄関に近づいていった.田中は事件のテレビ放送を見 ていて「今の学生はけしからん。俺が説得してくる」と新潟から現場へとやって来たのだった。警察官もマスコミもあっけにとらわれている中で,玄関のドアか ら内部に向かって呼びかけた。「赤軍さん、赤軍さん。私も左翼です。人質の奥さんは元気ですか,あなた方の気持ちは解かります。中へ入れてください。私も 警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。俺が身代わりになる」,そう言いながら警察隊に向かって手を振った瞬間,田中さんは拳銃で打たれその場に倒れた.田 中さんはフラフラと立ち上がり道路への階段を這い上ってきた.警備車が前進して機動隊がすばやく救助した.「ああ痛え、俺か?俺は大丈夫だ」と呟くが意識 は朦朧としていた。田中さんは救急車で軽井沢病院へ搬送されたが銃弾が脳内に留まっていることがわかり,佐久病院に移送され弾の摘出手術を受けたが3月1 日に死亡した.この事件で初めての犠牲者となった.
事態は進展しないまま時間だけが過ぎていき、報道は過熱するばかりであった.あさま山荘の攻防戦を見ようと,野次馬の数が次第にふくれあがり別荘付近の 違法駐車は3000台,野次馬の数は23000人になった。そして屋台までが立ち並んだ。テレビは連日実況中継を続け,作られたドラマにはない迫力があっ た.そのいっぽう,地元農民は土のうを作り、主婦は食事を作り,別荘所有者が放水用の水道水を提供しるなど警察に協力した。午後2時39分,装甲車の後ろ にいた警官に犯人が発砲し、巡査部長(30)と巡査(22)が負傷した。
捜査本部は警備車には拡声器を取り付け,催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などの録音テープを流し,屋根に投石を 行い犯人たちを眠らせないようにした.さらに発砲を挑発して弾薬を消耗させようとした.午後8時,連合赤軍がニクソン大統領の中国訪問をテレビで見ていた とき,警察はあさま山荘への送電をストップした。テレビが見られなくなったため,連合赤軍は携帯ラジオで警察の動きを探ることになった。
2月23日(5日目),坂東国男の母親(47)も呼びかけに協力したが効果はなかった.山荘では銃眼の数を増やしバリケードも補強されていた.警察側は 山荘南の道路に土塁を築いたが,連合赤軍は作業中の警察に対して発砲を繰り返した.警察側は発煙筒10発、催涙ガス弾21発を使用して山荘に近づき人質の 安否確認のため強行偵察をおこなうが成果は得られなかった.
2月24日(6日目),泰子の夫の郁男,父親,弟による呼びかけが行われた。人質となった泰子はいたたまれず,連合赤軍に「夫を安心させたいので顔を出 させてください」と哀願したが坂口はこれを拒否した.午後4時10分、警察は「君たちが抵抗をやめないので,我々は武器を使用する」と呼びかけ,銃眼に向 け高圧放水が開始された.放水した水は屋根や軒から流れ、すぐに凍って氷柱になって垂れ下がった.やがて玄関のドアのガラスが破られ、そこを狙ってガス弾 が撃ち込まれた。坂東と加藤が銃眼から放水車めがけて猟銃を発射した.
2月25日(7日目)警察は土嚢を積み上げ,連合赤軍はバリケードを補強し猟銃を乱射した.軽井沢署では毎日,記者会見が開かれ取材記者数は600人を超え,カメラマンも約600人になった。
2月26日(8日目),軽井沢町の「ますや旅館」の大広間で、長野県警本部とマスコミとの間で「Xデー取材報道協定」締結のための会議が開かれた。日刊 紙、週刊誌、月刊誌、ラジオ、テレビ合計56社が集まった。いっぽう同日の夜、坂口、坂東、吉野の3人は警察の攻撃があっても泰子を解放せず中立を守らせ ることにした。泰子を呼び「警察がもし、攻めてきても顔を出したり、逃げたりしないでもらいたい。警察がきても我々が守る」と彼らは言った。泰子が「こん なことで、ここで死にたくない」と答えると、「我々はここで死んでも本望だ」と言った。さらに泰子が「私を楯にして脱出しないでください。それからあとで 裁判になったときに、私を証人に呼ばないでください」と言うと,「分かった。我々は言ったことは守る」と答えた。
2月27日(9日目)この日のラジオでは警察の動きに関するニュースがなくなり,坂口らは警察が何か仕掛けてくるのではないかと察していた。マスコミは 「報道協定」により、警察の動きが判るようなニュースは流さないようになった.この日も土嚢の積み作業が行われ,屋根裏の銃眼から合計10発の発砲を受け た.警察は犯人の逃走を警戒し、現場周辺に警察犬5頭を野放しにした。
そしてついにそのときが来た.連合赤軍が立てこもって10日目を迎えた2月28日がXデーとなった.警備部隊1635人,特型警備車輛9輌、高圧放水車 4輌、10トン・クレーン車1輌が集結した。「君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もうこれ以上待つことはでき ない。泰子さんを解放して銃を捨てて出てきなさい」.
午前9時50分、警察からの最後の通告がスピーカーから発せられた。
「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとしたが、君たちは何ら反省を示さない。最後の決断の機を失って一生後悔することのないよう考えなさい。今こそ君らの将来を決するときだ。まもなく泰子さんを救出するため突入する」.
最後の通告後,バルコニーや風呂場に向かって一斉にガス弾を撃ち込んだ。そして銃眼めがけて高圧放水が開始された。連合赤軍は特型警備車、放水車に向 かって狂ったように銃を撃ち始めた。午前10時25分、クレーン車が接近,アームに吊りさげられた2トンの鉄球を山荘の壁にぶつけた.大鉄球2撃、3撃と 壁を壊していった.そしてそこを狙ってガス弾が撃ち込まれ放水した。連合赤軍は猟銃、拳銃、手製爆弾などで抵抗した.
午前11時17分,130人の決死隊が3階南西側管理人室から山荘内に突入。11時24分、長田幹夫中隊が1階に突入し占拠した.犯人らは狂ったように 銃を乱射し,午前11時27分,吉野が放水車を指揮していた警視庁特科車輛隊の高見繁光警部(42)を散弾銃で狙撃し弾丸が前額部に命中,高見警部は病院 に運ばれたが殉職した。警視庁第2機動隊の大津高幸巡査(26)は土のうを飛び越え山荘内に突入しようとしたが、山荘正面の銃眼から散弾銃で撃たれ,大津 隊員は土塁の反対側に転落した。同僚2人が大楯をかざして大津隊員を助け出したが,大津隊員は左眼に無数の鉛の粒弾があたり左眼を失明する重傷を負った。 午前11時54分ころ、坂東が警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視(47)をライフル銃で狙撃し、内田警視は病院に運ばれたが殉職した。
午後12時38分、警察庁から拳銃使用の許可が出た。午後1時、警官2人を殺された機動隊員は興奮していた.「弔い合戦」を希望したが,「冷却期間」を 置くため機動隊は攻撃を一時中断した。午後2時50分、3階調理室を確保していた部隊に対し鉄パイプ爆弾1発が投げ込まれ牧嘉之巡査部長(28)の右耳鼓 膜が破れるなど警官5人が負傷した。
犯人たちを3階のベッドルームまで追いつめた機動隊は、狭い室内に突入するための決死隊4人を編成した。決死隊は警視庁9機動隊から2人、長野県機動隊から2人が選出された.決死隊の4人は人質奪還だけではなく、殉職した隊員の名誉を背負っていた.
午後3時30分,決死隊4人が突入した.高圧放水,ガス弾の一斉射撃により「いちょうの間」の連合赤軍は耐えきれずに北側の窓ガラスを割って交代で外の 空気を吸った。警察はさらに「いちょうの間」と隣の談話室(食堂)の境の壁を壊し始めた。「いちょうの間」は30センチ浸水し,連合赤軍はライフルや拳銃 で抵抗するが壁の穴はさらに広がっていった。
午後6時20分,決死隊は一斉に「いちょうの間」に飛び込んで5人を逮捕した。人質の泰子さんはベッドに横になっていた。連合赤軍が篭城してから約219時間ぶりに無事、人質を救い出した。泰子はふとんにうずくまり、体をぐったりとさせていた。
報道陣は協定を守り,山側のロープの内側でカメラの放列を布いて待機していた。午後6時21分,犯人たちは身体から湯気を発しながら、舌を噛み切らぬよ う「さるぐつわ」をされて報道陣の前に姿を現した.「人殺し」,「お前たち、それでも人間か」,「殴れ、殴れ」,記者たちから罵声が飛び交い,本気で殴り かかろうとする者もいた。
この「あさま山荘銃撃戦」で警察側は3人が死亡(うち1人は民間人)、27人が重軽傷を負った。連合赤軍の5人はカスリ傷を負った程度であった。警察側 はこの「あさま山荘銃撃戦」で、催涙ガス弾31296発、発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球83発、放水量15万8500リットル(2時間30分)使 用したが、拳銃で発砲した弾はわずか16発で,それは威嚇射撃であった。連合赤軍側が発砲した弾は104発であった。
「あさま山荘」事件で費やした予算は国費2765万6000円、県費6983万7000円、総額9659万3000円であった。なお現場には現金(M作 戦で強奪したお金など)75万1615円が残されていた.同日、坂東の父親の基信(51)は滋賀県大津市の自宅で「死んでおわび申し上げます」との遺書を 残し首吊り自殺した。
この日、各テレビ局は大幅に番組を変更し現場中継を流し続けた。NHKは午前9時40分から午後8時20分まで連続放映し視聴率89.7%を記録した. 民放もCMを削減して現場の生々しい光景を放映し,累積到達視聴率は98.2%に達した。国民のほとんどがテレビの前で釘付けになっていたのである。まさ に全国を震撼させた事件だった。逮捕された5人のうち、坂口弘幹部は死刑判決が確定、超法規的措置で出国し逃亡中の坂東国男容疑者を除く3人は服役した り、刑期を終えるなどしている。
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千日デパート火災(昭和47年)
沖縄返還を直前に控えた昭和47年5月13日の午後10時半ごろ,大阪南区の繁華街にある難波新地四番町の雑居ビル・千日デパート(鉄筋コンクリート7 階,地下1階)3階の婦人服売り場から出火した.火は瞬く間に燃え広がり,火と煙は最上階の7階まで達した.7階のキャバレー「プレイタウン」では,客, ホステス,従業員ら179人が煙に巻かれ逃げ場を失った.猛煙と猛毒ガスに襲われ7階から地上へ飛び降り,あるいは酸欠状態で死亡した.この千日デパート 火災は死者118人,重軽傷37人の犠牲者をだし,火災としては戦後最大の惨事となった.
出火の原因は3階のスーパーで配電工事をしていた現場監督が投げ捨てたタバコの火であった.タバコの火が化繊の衣服に燃え広がり,吹き抜けのらせん階段 が煙突のような役割を果たし7階まで一気に燃え広がった.千日デパートの火災は多くの犠牲者を出したが,犠牲者が多く出たのは無銭飲食を防止するため4つ の非常口が塞がれていたこと,電気が切れ真っ暗で窓が小さく救助が困難だったこと,多くの客が酩酊状態であったこと,そして従業員の誘導が不備だったこと などが重なっていたからである.また救助袋には鍵がかかっており,鍵を開け救助袋が下ろされたが使用法が分からず,救助袋の中に入って降りるところを,滑 り台のように降りようとして墜落死した者も多かった.タバコの火を投げ捨てた現場監督はすぐに逮捕された.
デパートの幹部ら6人が防火管理を怠ったとして業務上過失致死傷容疑で書類送検となった.1審では責任の所在が不明確として無罪となったが,高裁,最高裁では種々の措置を講ずべき注意義務があったとして執行猶予付きの禁固刑となった.
なお出火が発生した当日は「母の日」の前日の土曜日であった.犠牲となったホステスのほとんどは家計を助けるために働いていて,翌日の母の日を前に子供 らと外出する約束をしていた女性が多かった.死者118人のうち女性が70人と圧倒的に多かった.デパート1階の映画館では「恐怖の地下室」という映画が 上映されており,また現場の千日前はミナミを代表する繁華街であるが,明治初期までは刑場と墓場であったが,明治45年の大火で周辺一帯が焼失してから繁 華街として生まれ変わっていた。
その翌年の昭和48年11月29日午後1時20分ごろ,熊本市の中心街にある熊本大洋デパートで火災が発生した.歳末商戦でにぎわう9階建ての熊本大洋 デパートには店員500人,買物客4000人が店内にいた.多くは建物の外側の非常階段から脱出し,屋上からは70人がロープで消防隊員に救助された.し かし逃げ遅れた買物客48人,店員53人,工事関係者3人の合計104人が死亡,重軽傷者123人をだす大惨事となった.
出火場所は2階から3階に上がる階段の踊り場に積み上げていたダンボールであるが出火の原因は不明であった.従業員がすぐに消火しようとしたが,火は猛 烈な勢いで燃え広がった.商品の寝具などに火が燃え広がり3階から8階まで全焼した.昼間の火災であったが,火災と同時に停電となり,非常階段は商品の山 で塞がれていた.同じ熊本にある鶴屋デパートには救命袋は13本あったが,昭和28年に建設された大洋デパートには救命袋は1本もなかった.大洋デパート は報知機、救命具、スプリンクラーなどの防火設備に不備があった.しかしこれは大洋デパートに限ったことではなかった.当時は都内のデパートやスーパーで もそれらを完備している店はわずか18%だったされている。
猛煙にまかれ,酸欠状態となり,あるいは救助を待ちきれず屋上から飛び降りる姿は地獄絵をみるようであった.大洋デパートの火災は鎮火までに8時間を要 し20億円の損害を受けた.デパートの火元責任者と防火管理者が業務上過失致死傷罪に問われ,最高裁まで争われたが無罪が確定した.
ビル火災が恐ろしいのは,火傷よりも一酸化炭素などの有毒ガスである.日本のビル火災史として有名なのは,昭和7年12月に起きた東京日本橋白木屋の火 災である.この火災で14人が死亡したが,この火災の特徴は火傷による死者が1人に対し,墜落による死者が13人だったことである.270人が窓から救助 されたが,犠牲となった13人は和服だったため下着をつけておらず,ロープで脱出する際に裾がめくれるのを押さえようとしてロープから手を離し墜落死した のだった.この白木屋の火災を教訓にズロースが普及することになる.
戦後のデパート火災では,昭和38年8月に池袋の西武百貨店で7、8階が燃えエレベーターなどで7人が犠牲となった.また昭和48年9月に大阪の高槻の西武タカツキショッピングセンターが全焼し6人が犠牲になった火災などがある。
大規模な火災としては,昭和55年11月20日の午後3時半ごろに発生した栃木県藤原町・川治温泉にある川治プリンスホテルの火災があげられる.出火当 時、ホテルには112人の宿泊客がいたが,この火災で死者45人,負傷者22人の犠牲者をだした.死亡した45人のうちの40人は東京杉並区から紅葉見物 に来た老人クラブの人たちであった.ホテルの1階の風呂で浴槽工事に使われていたカスバーナーの火の引火が原因とされている.川治プリンスホテルは増改築 により迷路のようになっており,出火時に火災報知機が鳴ったが,ホテル側がテストと勘違いして避難誘導をしなかった.偶然その日は火災報知器の点検の日で あった.従業員は「試験だから心配しないように」と館内放送を流したのである.このような不手際が重なり,白昼の火災にもかかわらず火は瞬く間に燃え広が り最悪の事態となった.昭和62年,東京高裁は川治プリンスホテル元社長に禁固2年6ヶ月、執行猶予3年、元専務には執行猶予なしの禁固2年6ヶ月、出火 の直接の原因となった建設作業員に禁固1年、執行猶予3年の判決が下った。
川治プリンスホテルの火災をきっかけに,旅館,ホテル,劇場などでは「マル適マーク」が掲示することが義務づけた.
また記憶に新しい火災として,東京赤坂にあるホテルニュージャパンの火災をあげることができる.火災は昭和57年2月8日深夜3時25分ごろに発生し た.東京都心の永田町に立地する鉄骨鉄筋コンクリート造10階建,地下2階、客室数513室、収容人員2,946人の大規模ホテル、ホテル・ニュージャパ ンで火災が発生したのである。この日の宿泊客は442人で,9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾や韓国からの「札幌雪祭りツアー 61人の宿泊者だった.9階に宿泊していた英国人の寝タバコが火災の原因とされているが,ホテルにはスプリンクラーは設置されておらず,防火扉は作動せ ず,自動火災報知器のスイッチは切られており動作せず,非常放送設備は故障のため使用できなかった.このような杜撰な防火体制が多数の犠牲者を出す結果と なった.これらは当局からも再三の指導を受けていたが全く改善がされていなかった.消火設備の不備のため火はまたたく間に燃え広がり,従業員による避難誘 導もなく,宿泊客315人中,死者33人,重軽傷者34人(内消防隊員7名)をだす大惨事となった。ホテルニュージャパンの火災は深夜であったが,熱さに 耐えきれず窓枠の外側から助けを求め,逃げ場を失い高層階の窓から飛び降りる犠牲者の姿などが映され日本中に衝撃を与えた.死者33名のうち飛び降りまた は転落して死亡した人が合計13人で66人もの人命が奇跡的に救出された.窓からシーツや毛布、配水管等を伝って必死の脱出を遂げた人も多く通常の避難 ルートでの避難がいかに困難な状況であったかが推測された.ホテルニュージャパンの防災体制は消防当局からも何度も改善命令が出されていたが無視されてい た.経営者の横井英樹は会社乗っ取りの異名をもつ有名人で,目先の損得を優先した経営方針が犠牲者を多くだしたといえる.当日の早朝、詰め掛けた記者に対 して、トレードマークの蝶ネクタイで現れた横井社長が拡声器を持って,「みなさんご苦労さんです.不幸中の幸で,火災は10階と9階だけで終わりました」 と開き直った言動が放映され多くの国民は唖然となった.ホテル側のあまりにもずさんな防災対策に起因することが明らかとなり、怒りの声が経営者の横井英樹 社長に向けられたのである。 11月18日、横井英樹社長ら4人が業務上過失致死容疑で逮捕された。このホテルのその後ですが、1996年、千代田生命が38階建ての高層ビルを建築し ようとして取り壊しを行いますが、2000年に千代田生命が破綻。その後、アメリカの生命保険大手のプルデンシャルと森ビルに買い取られ、2002年12 月に「プルデンシャルタワー」という高層ビルが完成しています。
また最近のビル火災としては,平成13年9月1日午前1時ごろに発生した東京都新宿区歌舞伎町の明星ビル火災がある.明星ビルは地下2階地上4階建ての 雑居ビルで,3階はマージャンゲーム店,4階はキャバクラとなっていた.出火場所は救助された従業員の供述から3 階3階エレベーターホール付近とされ,3階に延焼しさらに屋内階段を経由して4階のキャバクラに拡大した。3階には客と従業員が19人いたが3人が脱出し 16人が死亡,4階のキャバクラ・スーパールーズには若い従業員と客28人がいたが全員死亡した.この火災でビル内にいた57人中44が死亡(男性32 人、女性12人)したが,死亡した人たちに火傷のあとは軽度であり死因は一酸化炭素中毒だった.一酸化炭素は無色無臭の気体でわずか三呼吸程度で意識不明 になることもあるほどであった.ビルは窓がふさがれており、消防法で義務付けられた避難器具は設置されておらず非常階段はなかった。
消防車35台が出動し消火,救助活動を行い20人を救出し,けが人は東京女子医大、慶応大学病院、国立国際医療センターなど15カ所の病院へ搬送され た.警視庁は放火と失火の両面で調べたが、火災があまりに早かったことから,たばこの火や漏電などが出火原因となった可能性は極めて低く,何者かが3階踊 り場付近の可燃物に放火した疑いが極めて強いとしている.何者かが3階エレベーターホールにあったゴミに放火したか,ガス管を外して放火した疑いがもたれ ている.この火災の原因はまだ不明であるが,事故ではなく放火であれば大量殺人事件といえるが犯人はまだ捕まっていない.
明星ビル火災の特徴としては建物が細長く屋内階段が1ヶ所しかないペンシルビルと呼ばれる危険な構造だったこと.火元が階段のそばで逃げ場がなかったこ と,3階から4階の階段はロッカーが多数置いてあり消防隊の活動の障害になっていたことがあげられる.また明星ビルは新宿消防署の立ち入り検査で,防火管 理者の未選任、消防計画の未作成、避難場所の障害物、消火訓練の未実施、消防設備の未点検、火災報知器の不備、避難器具の未設置、誘導灯の不点灯を違法状 態として指摘されていたにもかかわらずほとんど改善していなあかった.
死者平均年齢は男性32.7 歳、女性23.7 歳と若かったことがより事故を痛ましく感じさせた.死亡した若い女性たちはキャバクラで働いていたことが報道され,死傷者の名前が実名報道されたことが悲しみを誘った.
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恍惚の人(昭和47年)
恍惚の人とは有吉佐和子の小説「恍惚の人」から生まれた言葉で,恍惚の人はすなわちボケ老人を意味していた.小説「恍惚の人」が昭和47年6月に出版さ れると大きな社会的反響をよび140万部を売り上げるベストセラーとなった.小説の題材としては暗く深刻になりがちなボケ老人を恍惚の人というネーミング を用い,全体的に明るくユーモアを含んだタッチで書かれていた.
この小説は確実にやってくる高齢化社会の流れを先取りし,老人問題を初めて正面から扱っていた.「恍惚の人」は昭和47年の流行語となり,翌48年には映画化がなされた.
ボケ老人の問題はそれまでは家族の恥とされ,世間から隔離され,そのことを話題にするのはタブーとされていた.その当時の日本の平均寿命は男性が69 歳,女性が74歳で,今後予想される高齢化社会をわずかに意識するようになったばかりであった.65歳以上の高齢者は現在人口の20%であるが当時は7% にすぎなかった.
それまでの日本人は高齢化社会を問題にしていなかった.それは定年を過ぎたころになれば,何らかの病気で死んでいったからである.そして老人は長寿を全 うして死を迎えるものと思いこんでいた.そのため老人性痴呆は現実的な問題とはされていなかったが,医学が進歩し,平均寿命が延びるにつれ,脳味噌の老化 ともいえる老人性痴呆の患者が増えたのだった.その意味では「恍惚の人」は,誰もが抱く高齢化という現実的不安を直視し,高齢化に向かう社会の変化に初め て光を当てた小説であった.
小説「恍惚の人」は84歳の舅・茂造がもうろくしてしまい,それを献身的に介護する息子の嫁・昭子の苦労話である.会社員である昭子の夫・立花信利は東 京の郊外に住み,離れに信利の父・茂造夫婦が住んでいた。それまで一家の大黒柱だった舅・茂造が定年になり,定年後に勤めた保険集金をやめたころから舅の 様子がおかしくなってきた.茂造の痴呆が明らかになったのは老妻の死がきっかけであった.茂造は老妻の死を理解できず,数日後にはボケが進行して徘徊する ようになる.茂造は突然家をでてしまい,家族が探し回るようになった.
舅のボケは立花家にとって降って沸いたような問題であった.平均的サラリーマンの平穏な家庭を突然おそった恍惚という悲劇だった.茂造は何もかもを忘れ 幼児化していった.雪の日にコートを着ないで外出したり,食べ物を際限なく食べたり,空腹を訴えながら突然徘徊したり,それは想像もつかない奇行の連続で あった.嫁いびりをするほど元気だった茂造は,自分の息子や娘の顔を忘れ,息子の立花信利を暴漢呼ばわりした.それでいながらいじめ抜いていた昭子と孫の ことは覚えていた.茂造は子供のような無邪気な笑顔を見せながら便をそこら中に塗りつけるようになった.昭子は懸命に介護を行うが,夫の信利は何の役にも 立たなかった.
昭子はそれまで勤めていた法律事務所を休み,茂造の介護を一身に引き受けた.しかし何も手伝わない夫や親類があれこれと口を出し,昭子の悩みは深まって いった.福祉事務所に相談しても何の役にも立たなかった.虚栄だけの夫、口先だけの親戚、預ける福祉施設もない馬鹿げた社会,精神病院に入れるしかないと いう福祉事務所,その結果、昭子ひとりで茂造の面倒を見なければならなかった.いつ終わるとも分からない介護の日々が待っていた.何が起きるか分からない 介護,それは家庭崩壊を予感させるような戦場であった.
昭子は「生かせるだけ生かしてやろう」と必死に茂造の世話をするが,茂造はしだいに衰弱してゆき,排泄の始末もできなくなり寝たきりとなった.そして間もなく茂造は安らかに死んでいった.茂造が死ぬまでの日々は,昭子の毎日は心身をすり減らすような戦いの連続であった。
当時はボケの原因は分かっていなかった.昭子は茂造が痴呆となったのは無趣味だったからではないか,潜在性の病気を持っていたからではないか,精神的ス トレスがあったからではないか,このようなさまざまな考えを巡らしていた.女性の社会進出が進み,核家族のなかで,読者は,親,あるいは自分を襲ってくる 老後と重ね合わせていた.
高齢化社会を前にして,介護は妻の役割とする社会通念,立ち後れた老人福祉、人間の生死の意味,高齢者の孤独,寝たきり老人と老人性痴呆,恍惚の人は多 くの問題を読者に投げかけてきた.痴呆症になった老人を抱えた家族の苦悩,老人を励ましながら,それでいて老人の死を期待する隠れた心情などが理解でき た.身につまされるテーマが読者の関心を呼んだ。
誰もが抱える問題でありながら,日本の老人福祉は遅れていた.老人ホームは数年の入所待ちであり,痴呆老人は老人ホームには入所できなかった.痴呆老人を預けることができるのは精神病院だけで,途方にくれる主人公の心情が伝わってき.
現在,痴呆性老人は65歳以上では8%,85歳以上では33%とされている.痴呆老人は老年性痴呆、脳血管性痴呆、アルツハイマー病の3種類に大別する ことができる.老年性痴呆とは脳動脈硬化が進むことから大脳の前頭葉の働きが徐々に低下してボケの状態になる.内臓は普通に働き,運動障害も軽度でありな がら脳の機能機能が低下するのである.脳血管性痴呆は高血圧症や脳卒中発作の既往歴を持つ人が多く,発症の時期が明確で経過は階段状に進行する。脳血管性 痴呆は軽度で自覚症状があるが,老年性痴呆の痴呆は進行性で自覚症状に乏しい.アルツハイマー型痴呆の原因は不明であるが女性に多く,人格が変わることが ある.アルツハイマー型痴呆は痴呆老人の1から2%である.
昭和47年当時の平均寿命は現在より短かったが,近い将来,高齢化社会を迎える日本において老人問題は他人事ではなかった。人口の高齢化、老人問題への 不安はすでに20年前に始まっていた。そして昭和47年,時代の流れに鋭敏な有吉佐和子はいち早く痴呆症の老人を取り上げ「恍惚の人」を書きあげたのであ る。
当時は老人を大切にすべきとする考えが,核家族化が進む中でまだ残されていた.嫁が老人の世話をするのが当然とする考えで,このことが老人問題,痴呆症 問題という現実に直面した場合に悲劇を大きくした.福祉は遅れており,ようやく老人病院が建てられようとしていたが少なかった.運のよい老人は老人病院や 施設に預けられるようになった.現在ではこのような病院や施設は多くなり,家族の負担は軽減されたが,軽減されるとともに面接にもこない,親の年金を当て にしているような家族が増えていった.当時はこのようなことは考えられないことであり,その意味ではかつては苦しくても親子の,あるいは人間関係の暖かさ に包まれていたといえる.当時の社会における家族の人間らしい心情を描いた小説といえる.
有吉佐和子は避けて通れない老いのさみしさを,老人になる入り口で考えてみようとしたのである.人間として老化は避けて通れない問題であった.有吉佐和 子は時代を見抜く才女であった.また有吉佐和子は印税1億円を老人施設に寄付したが,地方税を含め8000万円の税金がかかることが判明し,この税制のゆ がみに対し有吉佐和子は新聞に意見広告を書き大きな社会問題となった.そしてこの意見広告をきっかけに,厚生省は社会福祉施設への寄付を免税とする制度を 作ることになった.免税という言葉は美的であるが,それまで福祉施設に対する免税を所得の15%までとしていたのを20%まで引き上げたにすぎなかった.
有吉佐和子は恍惚の人ばかりでなく,環境汚染に警鐘を鳴らした複合汚染を昭和49年から半年間朝日新聞連載し,大きな反響を呼びベストセラーになった. 複合汚染とは2種類以上の物質により汚染が増幅されることで,その当時は公害,農薬,排気ガス,合成洗剤など環境汚染が問題になっていたが,それらひとつ ひとつが汚染の原因だけでなく,それらが組み合わさって予想を超える汚染を引き起こすことを忠告している.
有吉佐和子は高度成長にともなう公害が自然を破壊し,農薬中心の農作物が健康を損なわせ、これらが人間そのものを汚染し,人間を破壊から滅亡に追いやる という現状に対し強い危機感と憤りを持っていた.「複合汚染」は農薬や化学物質に依存する農業のあり方を問う衝撃的な内容であった.恍惚の人,複合汚染は 社会問題を先取りしたという意味では社会派小説といえる.
昭和6年,有吉佐和子は和歌山県で生まれた.幼少期は銀行員の父親の関係からジャワで生活,豪邸の中で召使にかしずかれて育った。少女時代は病弱で読書 が趣味であった.戦時中に帰国し,軍国主義の日本に失意の日々を送った.昭和27年,東京女子短大英語科を卒業.大学在学中から歌舞伎や芝居に凝り劇評を 書き、同人雑誌・白痴群に参加していた。
昭和31年,25歳のときに書いた「地唄」が芥川賞候補となり文壇に登場した.紀州を舞台にした年代記「紀ノ川」を書き本格的作家活動にはいる.小説 「華岡青洲の妻」では約200年前に世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した和歌山出身の医師・華岡青洲の生涯が書かれている.そのほか「出 雲の阿国」「有田川」など50以上の作品を残している.有吉佐和子は「恍惚の人」を書いたが、そのきっかけは彼女が35歳の時,英語の辞書で同じ言葉を何 度も引くようになったことに老いを感じてのことであった。
有吉佐和子は女性でありながら怒りの作家,社会派作家とされている.昭和50年の四畳半襖の下張り裁判では言論の自由をめぐり、裁判に負けたら自分もポ ルノを描くと公言した.そして裁判が負けるとポルノ小説「油屋おこん」を新聞に連載した.しかし主人公と自分の娘の年齢が同じだったことから,筆が進まず 途中で連載を止めてしまった。女性ながら根性の入った作家だった.昭和59年8月30日,睡眠中に突発的心不全をきたし急死,享年53であった.時代と闘 いながら,生き急ぎ,死に急いだ作家であった.
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未熟児網膜症(昭和47年)
日本の未熟児網膜症の訴訟件数はこれまで100件以上存在している.このように未熟児網膜症に関する裁判が多かったのは,未熟児を保育器に入れて酸素を 投与するという新生児医療の進歩が,それまで未経験だった未熟児網膜症をつくったからである.未熟児網膜症の治療は光凝固療法であるが,この光凝固療法が いつから一般的治療法として確立したかどうかが裁判の争点となった.つまり光凝固を用いて未熟児網膜症の進行を未然に防止しえたかどうか,この医療水準の 確立時期が常に裁判で争われることになった.判決の勝敗が微妙だったのは,医療水準は全国一律ではなく,病院の専門性,医療の地域格差などがあったからで ある.未熟児網膜症は医学界や法曹界ばかりでなく世の中に大きな波紋を生んだ.
まず未熟児網膜症の病態について説明する.眼の奥にはカメラのフイルムに相当する網膜という部分がある.この網膜に栄養や酸素を運ぶ網膜血管は妊娠9ヶ 月に完成する.そのため9ヶ月以前に生まれた未熟児の網膜血管は未完成のままとなる.網膜血管の成熟度は胎児の成熟度と相関するため,出生児体重1500 グラム以下,あるいは32週未満の出生では未熟児網膜症の発症頻度は高く,酸素の投与を行わなくても空気中の20%の酸素が未熟児網膜症を引き起こす可能 性すらあるとされている.
未熟児網膜症の医学的機序は,まず未熟な網膜血管が高濃度酸素環境におかれると強く収縮することから始まる.網膜血管の収縮によって減少した酸素を補う ため脆弱な新生血管が出現する.この新生血管は破れやすく,破れた血管が修復する際に瘢痕収縮して網膜を剥離する.このことが未熟児網膜症の発症メカニズ ムとされている.昭和30年以後,新生児救命のための高濃度酸素が投与されるようになり,未熟児網膜症が多くみられるようになった.1942年,アメリカ のテリーがこの未熟児網膜症を世界で初めて報告し,その後1950年にアメリカのヒースがこの疾患を未熟児網膜症と名づけた.
未熟児に対する保育方法が進歩し,保育器内で酸素を大量に用いられ,この未熟児の救命処置が新たな未熟児網膜症という合併症を生んだのである.そのため 酸素濃度を40%以下に制限することになり患者数は減ることになる.しかし逆に酸素量を制限しすぎたため,脳性小児麻痺や肺機能障害で死亡する未熟児が多 く出るようになった.このように救命のための酸素投与量の適量が問題になった.未熟児網膜症はよく知られた疾患であるが,未熟児網膜症は現在でも完全にな くなっているわけではない.未熟児で生まれる子供が増えているため,網膜症による失明児や弱視児を絶滅できないでいる。また未熟児網膜症は酸素の使用とは 無関係に発症することもある.
未熟児網膜症の治療として有効な薬物療法はないとされていた.しかし昭和42年,日本臨床眼科学会で天理よろず相談所病院の眼科部長・永田誠が光凝固療 法によって未熟児網膜症の進行を停止することができることを発表した.この光凝固療法は西ドイツで開発されたものであるが,永田誠は画期的な成功例を示 し,翌年の学会誌・臨床眼科に掲載され治療の可能性が注目された.昭和44年には4例の成功例が発表され,光凝固療による成功例がしだいに増え,昭和47 年には100例以上の症例に光凝固療法がおこなわれるようになった.
光凝固療法とは患部にレーザー光線を当て,網膜のタンパク質を凝固させ,網膜症の進展を止める方法である.昭和49年には厚生省の研究班が結成され,翌 50年には光凝固療法による治療の適応性や方法についてのガイドラインが発表された.この報告書によると,未熟児には定期的に眼底検査をおこない,網膜症 を早期に発見し光凝固をおこなうべきと書かれている.また誤解されやすい点であるが,光凝固療法は網膜症の進行を止める治療であり,凝固療法によって網膜 がもとに戻るわけではない.
この未熟児網膜症裁判で常に問題になったのは,医療過誤として医療側の責任がどの程度あるかであった.裁判では訴えられた医療側が,その当時の医療水準 に照らし合わせ,診察や治療に関する注意義務をはたしていたかどうかが常に争点となった。裁判所が病院の医療行為について当時の医療水準を満たしていない と判断すれば,病院は注意義務違反による過失を問われることになる。そして医療側に責任があるとされれば賠償責任が生じることになる。未熟児網膜症の治療 として昭和49年ころから光凝固療法が普及したが,昭和49年当時は,未熟児網膜症を的確に診断できる医師は少なく,光凝固療法の効果を疑問視する見解も あった.さらに長期的効果についての経過観察のデータに欠けていた.
凝固療法が昭和何年の時点で当時の医療水準とされていたかが裁判所で争われることになった.原告側は「病院がきちんと眼底検査をしていれば光凝固法の治 療を早く受けさせることができた」と訴えた.そして病院側は「光凝固法の有効性は当時はまだ確立されていなかった」と主張するのが裁判の争点になった.そ して患者の誕生日が昭和50年8月を境にして,患者の請求が容認できるかどうかが分かれることになった.もちろん医療機関に適応される医療水準は,医師や 医療機関の地域性や専門性に左右されるためその判断基準は全国一律ではないが,大体において昭和50年8月を境に医師側の注意義務が問われるようになっ た.
患者,家族,医師にとって未熟児網膜症や医事紛争は不幸なできごととであるが,その予防は未熟児出生の防止である.このことが根本的対策であることを忘れてはいけない.
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男性用カツラ(昭和47年)
昭和47年4月6日,「私も使っています」という男性用のカツラの広告が読売新聞に初めて掲載された.モデルとなったのは,当時,第一生命保険会社に勤 務していた金沢秀行氏でカツラをかぶる前後の写真が紙面に掲載された.カツラをかぶることを隠しておきたいというのが男性心理であるが,金沢秀行氏は快く 写真広告を引き受け,また新聞広告も予想外に好評であった.新聞の次に週刊誌,そしてテレビへと広告は広がっていった.テレビではカツラをかぶったタレン トの南たかしが,娘に「パパ行ってらっしゃい」と送り出されるほのぼのとしたコマーシャルで,電話番号「9696(くろぐろ)」とともに世の中に自然にと けこんだ.この広告はアートネイチャーのものであったが,ほぼ時期を同じくしてアデランスもテレビ広告を放映した.アートネイチャーはロッテ・オリオンズ の倉持明選手をモデルに起用し,明るく活動的なイメージと,激しい運動に耐えられることをアピールした.これらのテレビ広告により男性用カツラは市民権を 得たといえる.
男性カツラ業界はアートネイチャーとアデランスが約8割のシェアーを占めているが,その創立はアートネイチャーがわずかに先であった.
明治学院大学を卒業した阿久津三朗は大正製薬に就職したが,不動産会社に転職し,阿久津はそこでトップセールスマンとなり,昭和38年,成績優秀者とし てにヨーロッパ旅行をプレゼントされた.ヨーロッパで阿久津を驚かしたのは,薄毛の男性がヘアサロンに入り,フサフサの髪になって出てくる光景だった. ヨーロッパでは男性カツラは当たり前だったのである.阿久津は大正製薬の営業部で育毛剤を希望する男性の切実な悩みを思い出した.
そして帰国した阿久津は女性用かつらメーカー「ボア・シャポー」に再就職,カツラの知識を得ると,昭和40年に日本初のオーダーメード男性カツラの会社 を創業したのである.会社の名前はアートネイチャー,つまり「自然な芸術」を意味していた.毎日会社の窓から下をながめながら、薄毛の男性がいると階段を 駆け下り、家まで追いかけて営業活動をした。当時カツラは女性の専用品であったので,営業のたびに「ばかにするな」と客に怒鳴られていた.
阿久津が勤めていた「ボア・シャポー」には根元信夫(27),平川邦彦(31)大北春男(26)も勤務していた.そして彼らも男性カツラの必要性を感じ ており,昭和43年にアデランスを創立させた.アデランスとはフランス語で「くっついている」を意味していた.これまでのように「かつらはかぶるのではな く,つける」という意味をこめた社名だった.以後,この2つの男性カツラメーカーは競うように新技術を開発させ,業績を伸ばした.
当時のかつらはすっぽりかぶる既製品であったが,しだいに頭部の形状を型取りして製作するオーダーメイドが主流となった.使用目的に応じ10秒で着脱で きるタイプと,粘着剤を使用し薄膜を頭皮に貼り付け約1ヶ月間着脱なしで使えるタイプがある.個人によって毛の太さや長さなどが違うためすべてオーダーメ イドである.
またカツラとは別に増毛法がある.増毛法とは自分の髪の一本一本の根元に一本から数十本の人工毛髪を接着する方法である.一回千本増毛するのに通常5万 円,毛髪は毎月成長するので、人工毛を代えるため1カ月ごとに5万円かかることになる。増毛で間に合わない人はかつらになるが,かつらの平均価格帯は50 万円台で、3年から5年でかつらを替える必要があり,また修理などにも費用がかかる。かつらに使われる人工毛は形状記憶素材のため自然な毛流みであり,自 分でセットできるし,またシャンプーを使うことも出来る.
さらに自分の後頭部の健康な毛髪と皮膚を一緒に採取し、薄くなった部分に移植する方法がある。髪がよみがえるが皮膚移植手術なので、高度な技術を必要と し費用は200万円から500万円である。また人工的につくられた毛を頭皮に植毛する方法もある.さらに最新の技術では,頭部の無毛の部分に通気性に優れ た極薄の特殊素材を使用し,自然な発毛と思わせる方法がある.
現在,日本の男性薄毛人口は成人男性の2割で1000万人を超えている.特に 20歳代からの薄毛が増えているとされている.若者の多くは、洗髪、頭皮マッサージなどの育毛コースを利用するが,このコースが好評なのは人気タレントを 起用した明るいテレビCMで、ファッション感覚で来る若者が増えたせいである。育毛コースは髪が生えるわけでなく、髪の脱毛時期を遅らせるのが目的であ る.また紫外線、ヘアカラー、パーマなどで傷んだ髪や、もともと毛髪が細い髪質の改善を目的とした髪のエステもはやっている。髪が薄くなると育毛剤や養毛 剤を買い求めるが,最終的にカツラに行きつく人が多い。
カツラはオーダーメイドで,長期間使用するため値段が高いことが難点である.カツラ使用男性は100万人以上とされ,たしかに街中では老人は増えたが,薄毛の男性を見ることは少なくなった.かつては大学でも頭髪の薄い学生がいたものだった.
かつらは生活必需品なので不況とは関係なく、最近は若年の客が増加して業績をあげている。男性カツラは1000億円市場とされているが,かつら業界は口 コミで顧客が広がることは期待できず,広告宣伝が売り上げにつながっている.アートネイチャーがイメージキャラクターにさとう珠緒さんを起用したように, 宣伝がもっとも重要な企業戦略となっている.
なおアデランスは、やけど、けが、放射線治療などによる脱毛で頭髪に障害がある200人の子供たちにオーダーメードのかつらをプレゼントする「愛のチャ リティキャンペーン」を毎年行っている.昭和40年に全国で初めて男性用かつらの事業を始めた阿久津三郎氏は肝不全のため平成7年7月19日,慶応大病院 で死去58歳であった.
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連合赤軍の誕生と闘争(昭和46年)
安保闘争,そして東大,日大紛争を頂点とした大学紛争は,学生たちの敗北により終わりをつげようとしていた.中核派,革マル派などが凄惨な内ゲバ闘争を繰り広げる中,一部の過激派学生は武装闘争による革命を目指すことになる.
それまでの学生運動は大衆を味方にすることを最大の武器としていたが,過激派学生は革命のためには国家権力と闘い大衆を目覚めさせる必要があるという運 動方針を持つようになった.そのためには反対する大衆を敵にまわすことも辞さなかった.そのような過激派学生たちの中で共産主義同盟の武闘路線派から生ま れたのが共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)である.赤軍派は共産主義を信じ,世界同時革命を最終目標としていた.
昭和44年9月4日,日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会で赤軍派400人が公然と姿を現した.赤軍派は少ない人数で革命を成功させようとしたため,その闘争は手段を選ばず,革命の手段としてそれまでのゲバ棒を捨て,銃や爆弾を得ようとしていた.
赤軍派は阿倍野派出所など3カ所の交番に火炎ビンで攻撃し(大阪戦争),東京・本郷では同時多発ゲリラ闘争を展開した(東京戦争).さらに10月の国際 反戦デーでは鉄パイプ爆弾でパトカーを襲撃した.血気盛んな若者はゲバ棒を振り回す従来の闘争よりも,本格的なテロ組織である赤軍派に魅了された.そのた め赤軍派の逮捕者の中には多くの高校生が含まれていた.
しかし11月5日,赤軍派は総理大臣官邸襲撃の予行訓練のため山梨県の大菩薩峠に集結したところを,内偵していた警察に踏み込まれ53人が逮捕された (大菩薩峠事件).そして翌年には議長・塩見孝也が逮捕され組織は一気に弱体化した.そして追いつめられた赤軍派は革命拠点を海外に求め,昭和45年3月 に「よど号ハイジャック事件」を起こすことになる.
昭和45年1月16日,赤軍派は東京で約800人,2月7日には大阪で約1500人を集め蜂起集会を開いた.そして森恒夫(27,大阪市立大)を中心と したM作戦を展開することになる.M作戦とはマフィアの頭文字から取ったもので革命資金を得るための強盗である.2月から7月にかけ郵便局,銀行など8カ 所を襲い資金奪取をおこなった.6月17日,沖縄返還調印阻止闘争で837人が逮捕されたが,赤軍派は明治公園オリンピック道路で全共闘デモをおこない, 鉄パイプ爆弾を機動隊に投げつけ2人の機動隊員に重症を負わせている.これらは理論的指導者を欠いた赤軍派の暴走であった.
いっぽう日本共産党は中国共産党と対立を深め,日本共産党は党内の親中国派を除名することになった.この親中国派・毛沢東主義と結びついた武装集団が京 浜安保共闘である.昭和44年,京浜安保共闘は赤軍派とほぼ同時期に誕生し,理論的指導者である川島豪(28)は「革命は銃から生まれる」という過激な路 線を宣言していた.京浜安保共闘は京浜工業地帯の労働者や学生を中心とした組織で,3カ所の米軍基地や米国大使館を爆破するなど過激な闘争を展開した.し かいこの闘争で川島豪をはじめ25人が逮捕され,残された幹部は永田洋子(24,共立薬科大卒),坂口弘(23,東京水産大中退),吉野雅邦(21,横浜 国大中退),寺岡恒一(21,横浜国大)となった.
昭和45年9月、永田洋子が委員長になると,彼女の独裁政権になった.そして政治ゲリラから軍事ゲリラ闘争へと戦術を転換し,攻撃目標を交番襲撃に移し ていった.交番襲撃は武装蜂起のために銃を奪うことが目的であった.12月18日,東京都練馬区上赤塚交番を襲撃するが,仲間の柴野春彦(24,横浜国 大)が巡査に射殺された.京浜安保共闘は,柴野春彦の復讐として昭和46年4月から12月にかけて10カ所以上の交番を爆破した.そして12月18日,警 視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包が爆発,夫人の民子(47)さんが死亡,四男も重傷を負った.12月24日には、新宿伊勢丹デパート前の四谷署 追分交番でクリスマスツリーに見せかけた爆弾が爆破,巡査2人が重傷を負い通行人10人が負傷した.
警察は相次ぐ爆弾事件で,威信を賭けて東京のアパートをしらみつぶしに捜査するローラー作戦を行い,都市部のアジトから京浜安保共闘を追い出す作戦にでた.追いつめられた過激派は山岳アジトに移動することになる.
昭和46年2月17日,京浜安保共闘は栃木県真岡市の塚田銃砲店に侵入,出刃包丁で家人を脅迫して猟銃10丁,空気銃1丁,散弾実砲2800発を奪い,群 馬県館林市のアジトに運んだ.4月には山梨県北都留郡丹波山村に17人が集結し,猟銃による実践訓練をおこなった.この集結で向山茂徳(21,諏訪清陵高 校卒),早岐やす子(21,大看護学院中退)が逃走,警察への通報をおそれた京浜安保共闘は逃走した2人をアジトに誘い殺害した.
京浜安保共闘はアジトを群馬県北群馬郡伊香保町の榛名山に移動した。このときのメンバーは20人であったが,森恒夫が率いる赤軍派9人が合流して,計 29人からなる「連合赤軍」が誕生することになる.赤軍派は世界同時革命を目指し資金力があった,京浜安保共闘は反米革命論で武器調達をしていた.この革 命理論上の違いはあったが,武力革命を目指す点において2つの集団の目標は一致しており,ここに連合赤軍が創設された.
山中アジトでは風呂に入れず,彼らは異臭を漂わせたまま街に出た.髪がボサボサで顔はすすけ,手は泥と埃まみれ,ひどい悪臭を放っていた.このような悪 臭と風貌を不審に思った商店主が警察へ通報,また2人の男女を乗せたタクシー運転手は群馬県警に通報した.このときの2人とは森と永田だった.
2月16日,山中のぬかるみにはまっているライトバンを松井田署員が発見,車内にいた奥沢修一(22,慶応大)と杉崎ミサ子(24,横浜国大)を逮捕し た。2月17日には機動隊350人と警察犬13頭を動員して妙義山の山狩りを開始.午前9時35分,籠沢上流の洞窟付近に隠れていた森と永田が警察犬に追 い立てられ逮捕された.このとき森と永田はナイフを持ち機動隊にケガを負わせている.
森と永田の逮捕をラジオで知った9人は軽井沢の山中に逃げ込んだ.植垣康博、伊藤和子(23,日大看護学院)、青砥幹夫(22,弘前大)、寺林真喜江 (22,市邨学園短期大卒)の4人は山を降り軽井沢駅に姿を現した.しかし駅の売店のおばさんが不審に思い、駅員にそのことを伝え,駅員は電車を遅らせ警 察に通報して4人が逮捕された.残された5人は軽井沢町レイクニュータウンの無人の「さつき山荘」に侵入した.
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