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大学医学部が舞台のベストセラー
山崎豊子が昭和38年からサンデー毎日に連載した「白い巨塔」が40年に新潮社から出版され、翌41年に映画化(大映)されると、大きな反響を呼んだ。そして44年に「続・白い巨塔」が出版され、白い巨塔は息の長いベストセラーとなった。
欲望と野心の渦巻く医学界を描いた異色のベストセラーで、大学医学部の講座制をテーマにした小説としては、白い巨塔を超える小説はないといっても過言ではない。教授争いをテーマに医学界の暗部に鋭いメスを入れた小説で、これまで350万部を売り上げた。映画化のほかテレビドラマにもなった。
◎ 主人公・財前めぐる人間模様
浪速大学第1外科における教授選、その後の医療訴訟をめぐる小説は、医学部という巨塔の裏に隠れた暗部を赤裸々に描いていた。それまで聖域とされていた医学部、ヒエラルキーのトップに立つ教授の権力、医局内の序列化、閉鎖された医局の壁と派閥化、金と名誉に揺れる医師たちの心理…、白い巨塔はこのようなドロドロとした医学部内部を見事に描いている。
主人公・財前五郎や、その友人で医師として誠実に生きようとする里見脩二を中心に、医学部の実情をダイナミックな人間模様として描いている。
財前は早くに父を亡くし、貧しい生活から援助を受け医学部に進んだ。そして資産家である婦人科開業医・財前又一の婿養子になって実力を付けてきた。浪速大学第1外科の助教授となり食道がん、胃がんの手術を得意とし、教授を差しおき財界人の手術を行い、マスコミの脚光を浴びるようになった。
第1外科教授・東貞蔵は退官を間近に控え、後任の教授を誰にするか悩んでいた。財前が後任教授になるものと周囲は評価していたが、東教授は財前のごう慢な性格を嫌い、また部下が有名になることに嫉妬(しっと)があった。東教授は母校の外科学会のボスに相談、金沢大学医学部教授・菊川昇を推薦してもらうことにした。
財前はこのことを知ると、猛烈な巻き返し運動を始める。財産家である義父は教授という名誉を娘婿に与えるため必死になる。財前は義父の財力、地元医師会とOBの後押しを受け、熾烈(しれつ)な教授選を勝ち取ろうとする。財前派は医学部長に高額な絵を送り、学会の理事への推薦や研究費の認可をちらつかせ、財前がわずかな差で教授選に勝つことになる。
財前は、教授に就任すると国際外科学会から招待を受ける。権力と名誉を手に入れ、まさに得意の絶頂にあった。そのようなとき、第1内科の里見助教授からある腹痛患者の診察を依頼される。里見助教授は財前と病理学教室で一緒に学んだ親友であった。
里見は胃カメラで異常がなかった腹痛患者を財前に依頼してきたが、財前は2枚の胃のレントゲン写真だけで噴門がんと診断した。術前検査で肺に異常な陰影があったが、それを里見助教授が指摘したにもかかわらず、財前は自らの実力を過信し、がんの肺転移を古い結核の陰影と診断してしまう。
手術は成功し、患者の治療を医局員に任せると、多忙の中でドイツの国際外科学会に行く。しかし外遊から帰ると、待っていたのは患者の死であり、患者の家族は手術後一度も診察に来なかった財前の不誠実な態度に憤慨し、裁判に訴えることになった。
里見助教授は大学での自分の立場が不利になることを承知で、患者側の証人となる。医療裁判はどちらが勝つのか予断を許さなかったが、誤診を認めない財前は証人に圧力をかけ一審では勝訴する。
財前は教授として前途に野望を持ち学術会議選挙にも当選する。しかし二審の裁判では注意義務違反で敗訴し、最高裁に上告することになる。
財前の身体は過労の中、いつしか病にむしばまれていた。財前は裁判で不利な証言をしたため近畿癌センターに左遷された里見に診断を仰いだ。孤高の学究肌の里見、典型的な権力志向である財前、この対照的な2人は対立しながらも互いの実力と友情を認めていた。
財前の病は胃がんであった、そして自分を追い出そうとした元教授の東に手術の執刀を依頼した。東が財前の手術をすることになったが、開腹すると胃がんは肝臓に転移していて手の下しようがなかった。開腹したが何もできずそのまま縫合した。財前は肝不全で意識がもうろうとなりながら死亡する。
白い巨塔は、医学部における野望、学問、友情、愛情、処世、名誉、それらを交錯させながら、医学界の知られざる事態と人間の生命の尊厳を描いていた。この小説には多くの人物が登場するが、読者はそれぞれの登場人物に感情移入できるほど見事に描かれていた。人間の感情が凝縮した小説であった。
当時の大学付属病院はまさに「白い巨塔」だった。権威主義がはびこり、教授の言うこと、医師の医療行為は絶対であった。そして一般の人々はそのような医学部の権威主義を知ってはいたが、詳しい内情は知らなかった。権威に対する反発よりも、権威に対する尊敬と恐れの方が大きかったのである。
そのため医療訴訟の件数は、戦前は12件であり、昭和20年から40年まででも9件にすぎなかった。この小説は大学病院内の権力闘争と葛藤(かっとう)だけでなく、医療訴訟という問題を取り混ぜていたことも患者の権利意識を先取りした小説といえる。
◎ 映画に加え4回もテレビドラマ化
41年の映画化では、俳優の田宮二郎が主人公を演じ観客をうならせた。テレビドラマは42年(全26回、主役・佐藤慶)、53〜54年(全31回、主役・田宮二郎)、平成2年(4時間スペシャル、主役・村上弘明)に続き、平成15〜16年(全31回、主役・唐沢寿明)には連続ドラマとして25年ぶりとなる新バージョンが放映されたことは記憶に新しい。
これらの中で特に田宮ははまり役で、白い巨塔というと田宮を連想する人が多い。その田宮は昭和53年12月28日、ドラマの最終回の放映を目前にして猟銃自殺、それまで13%だった視聴率が最終回(1月6日)には31.4%に跳ね上がった。
山崎豊子は、大正13年に大阪に生まれ、京都女専国文科を卒業、毎日新聞大阪本社に入社。当時、学芸部副部長であった井上靖の下で記者としての記事の書き方の指導を受け、勤務のかたわら小説を書き始めた。
昭和32年、昆布商人を主人公に大阪商人の哲学を描いた処女作「暖簾」を発表、翌33年には「花のれん」で直木賞を受賞した。同年、毎日新聞を退社し執筆活動に専念。その後、「女の勲章」「女系家族」「花紋」「ぽんち」など次々に作品を書き上げていった。そして白い巨塔、続・白い巨塔を書いた。
また銀行の内部から企業の熾烈(しれつ)な戦いを描いた「華麗なる一族」を書き、国際商戦を生き抜く商社マンをテーマとした「不毛地帯」、太平洋戦争中、日米2つの祖国の間で苦悩する日系二世を描いた「二つの祖国」、中国残留孤児をテーマとした「大地の子」の戦争3部作を書いた。航空業界を描いた大作「沈まぬ太陽」を発表し、平成3年に菊池寛賞を受賞している。
うそつき食品(昭和42年)
現在では原料や材料を偽って食品を売ることは固く禁じられている.しかし昭和41年ごろは「うそつき食品」が堂々と店頭に並んでいた.豚肉と称してウサギの肉が売られ,鯨肉なのに牛肉のラベルを張った缶詰,さらには馬肉入りのコンビーフなどが堂々と高い値段で売られていた.また人工甘味料の入ったジュースを天然ジュースと偽り,乳分が少ないのにコーヒー牛乳と表示し,サッカリンで味付けしているのに全糖と表示した缶詰などが販売されていた.その当時販売されていた100種類のジュースを検査した結果,表示通り100%天然ジュースだったのはたった3種類だったと記録されている.
その他,クリの入っていないクリようかん,バターの入っていないバタービスケット,わさびの入っていない粉わさび,このように数え切れないほどのまがい物が作られていた.さらに花かつおと称してイワシやサバを用いたり,片栗粉の原料にトウモロコシの粉を用いたり,天然醸造酢と称して化学薬品を薄めた食品などが店頭に並んでいた.また植物油や大豆タンパクをまぜたチーズまでも売られていた.さらにカジキマグロを買って食べた者が下痢をおこし,調べてみたら油の質の悪いバラムツだったという悪質なものもあった.
うそつき食品に対する消費者の怒りや苦情が相次ぎ,消費者を惑わすうそつき食品はマスコミに大きく取り上げられることになった.うそつき食品は社会問題となり,当時の佐藤首相はうそつき食品を取り締まるために経済企画庁を中心に対策を講じさせた.多くのまがい物が出回ったため,商品の品質についての消費者の目が厳しくなった.さらに食肉の変色防止のため、挽き肉などにニコチン酸を不正に添加し新鮮肉と見せかける事件が発覚し,消費者からの批判が集中した。
このようにうそつき食品が横行するなか,ポッカレモン事件が起きた.
昭和30年代は生活が豊かになり,欧米の生活を思わせるレモンがブームになった.しかしレモンの値段は輸入が制限されていたため庶民の手に届かないほど高価であった.大卒初任給が1万円以下の時代にレモン1個の値段が200円で,カクテルにレモンを入れて飲むことが高級な生活を想像させた.このような時代にビン詰めのポッカレモンが発売され,爆発的に売れた.「ポッカといえばレモン」というほどで,どの家庭にもポッカレモンが置いてあった.ポッカレモンはこのように身近な存在であったが,このポッカレモンが取り締まりを受けたのである.
昭和42年5月11日,不当表示を出していたとしてポッカレモンに排除命令がだされた.ポッカレモンは合成ジュースを天然ジュースと偽って販売していたのである.この事件は公正取引委員会が無果汁飲料の表示基準を決めるきっかけをつくった. ポッカレモンはこの事件で売り上げを急減させたが,昭和46年に100%レモン果汁による「ポッカ100レモン」を発売し復活をとげた.なおレモンに関し公正取引委員会が摘発したのはポッカレモンだけでなく,消費者への影響の大きい森永製菓,東食,明治屋,ヤンズ通商,サントリーの6社だった.
うそつき食費品と似たものにコピー食品がある.コピー食品とは本物に似せて作られた模造食品を意味する言葉である.コピー食品の元祖は江戸時代からある「がんもどき」である.「がんもどき」は漢字で「雁擬き」と書くように,がん(雁)の肉に似た味として作られた油揚げが「がんもどき」である.コピー食品はこのように古くから日本にあり,それらは寺院での精進料理の中に見出すことができる.昭和40年ころから工場で作られたコピー食品が次々と出回るようになった.また最初はコピー食品であっても.バターに対するマーガリンのように代用食品として一定の地位を築きあげるものもあった.
コピー食品で注意が必要なのは本物と偽物の区別がつかないことで,その代表例を次に示す.
天然のイクラはサケ・マスの卵であるが,コピー食品のイクラは天然色素で着色したサラダ油と海藻エキスから出来ている.このサラダオイルを乳酸カルシウム液に落とすと,化学反応によりイクラそっくりの形になる.これに食品添加物で味をつけたのがイクラのコピー食品である.コピー食品は本物に比べ皮がやや堅いという特徴があるが外観から見分けることは難しい.見分けるためにはお湯を注いでみればよい.本物のイクラはたんぱく質が多いため白濁するが,コピー食品はサラダオイルが主成分のため白濁はしない.本物のイクラは高コレステロール食品であるがコピー食品はヘルシーな健康食品といえる.かつてはイクラのコピー食品が店頭に数多く出回っていたが,最近は本物のイクラの値段が安くなったためイクラのコピー食品は姿を消している.イクラのコピー食品は芸術品,あるいはハイテク工業製品といえる.
次に世界三大珍味のひとつであるキャビアを挙げることができる.本物のキャビアはチョウザメの卵であるが,キャビアのコピー食品はランプフィッシュの卵を着色剤で黒く着色したもので,世界的な規模で流通している.缶の裏には「キャビア(ランプフィッシュ卵)」と書かれている.本物のキャビアは高価な食品であるが,安い値段のキャビアはほとんどがこのコピー食品である.ちなみに本物のキャビアは「純正キャビア」と書かれている.ニセモノは黒く着色されているので,パンなどに塗るとうっすらと黒い色がパンにつくことで判別することができる.
チューブ入りわさびの原材料名をみると「西洋わさび」と書かれているが,西洋わさびとは「わさび大根」のことである.もちろん西洋人はわさびを食さないから,西洋ではわさびを栽培していない.西洋わさびはホース・ラディッシュという大根のことで,この大根に合成からし粉,でんぷん,着色料,ガムが混ぜられ作られている.本わさび使用などと書かれているが,これは本物のわさびを数%混ぜたもので,本わさびだけを使用されているわけではない.
シメジの名前で「ヒラタケ」という全くの別種のキノコが売られている.また「フナシメジ」が「本しめじ」の名前で売られている.本しめじはシメジではないのでややこしい.
その他,スケソウダラを加工したイカ,シシャモを加工したカズノコ,蟹の足に似せたかまぼこ,牛の横隔膜を固めて加工したステーキなどがある.
コピー食品を日本人が見分けられることがどうかであるが,困難とする実験が示されている.コピー食品が作られた背景には,本物は量が少なく値段が高いからである.そのため値段によって,コピー食品を本物を区別するのが最も確かな方法である.日本人の味覚がいかに危ういものであるかが分かる.
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医師国家試験ボイコット(昭和42年)
昭和42年3月12日,青年医師連合(36大学,2400人が参加)はインターン制度の完全廃止,医局の改善を要求して第42回医師国家試験をボイコットした.ボイコットした受験者は全体の87%に達し,医師国家試験を受験したのは全体のわずか13%,404人であった.各地の試験場では学生やインターン生によるピケやデモがおこなわれ8人が逮捕された.
全国46の医科系大学のうち全員が受験の方針をとったのは,千葉大学,東京女子医大,昭和医大の3校だけで,千葉大学はいったん試験場に入りながら56人が一斉に会場から退場した.青年医師連合が試験会場前に集結し,受験を阻止する行動をとったため,試験会場には機動隊が動員され,装甲車が並ぶものものしい雰囲気につつまれた.国家試験・東京会場では学生400人が試験会場周辺でデモ行進をおこない機動隊と衝突,医学連委員長・木下信一郎ら7人が公安条例違反で逮捕された.大阪会場でも学生ら400人が会場の入り口にバリケードをつくり府警機動隊と衝突した.さらに札幌会場では50人がピケをはり機動隊と衝突,1人が公務執行妨害で逮捕された.
このように全国の医学部の卒業生が医師国家試験をボイコットしたのはインターン制度の改善が目的であった.インターン制度は昭和20年の敗戦によってGHQの指令により導入された研修医制度であった.戦後,日本の社会は進駐軍のもとであらゆる方面で民主化がおこなわれ,医学教育においても進駐軍の指導によりインターン制度が導入されたのである.インターン制度とは医学部を卒業した者は1年間病院で働き,その後に医師国家試験を受けるという制度である.戦勝国であるアメリカの医療制度を一部分取り入れた研修医制度であった.
この研修医制度の名前はアメリカと同じインターン制度であるが,その内容はすべての面でアメリカのインターン制度とは異なっていた.教育のカリキュラムは無いに等しく,また研修を裏付ける予算もなかった.
インターンの1年間は身分の保証はなく,医学士ではあるが医師でも学生でもないという中間的存在であった.また医師としての給与は支払われず経済的保証がなかった.いわゆるタダ働きの状態で,研修という名による強制医療労働であった.1年間各科を回りながら臨床を学び,その研修を参考にして自分にあった科を選択できるという利点はあったが,インターン生として配属された教育指定病院では,教育体制や指導者が整っていないところが大部分で,職員のいやがる便や尿の検査ばかりを押しつけられていた.
不安定な身分や処遇に対するインターン生の不満は大きく,昭和41年ごろからインターン制度に反対する医学生の運動が全国的に拡がっていった.インターン制度を変えるためには,インターンが終了しても医師国家試験を受けない.この実力行使は非常に明確な戦術であり,また大部分の受験者が医師国家試験をボイコットしたことは成功といえる.
当時は医師不足が深刻な社会問題になっていた.医師国家試験のボイコットは医師不足をさらに深刻化させるとして厚生省をあわてさせた.厚生省はなんとか国家試験を受けるように方策をねるが通用せず,うろたえるばかりであった.
無給で医師を使えるインターン制度は政府にとって都合の良いものであった.しかしインターン制度はあまりに医師の使命感に頼りすぎた現実離れした制度だった.アメリカのインターン制度は,給料も支給され教育体制もきちんと整っていたので,横須賀などの米軍病院でインターンを希望する者が多かった.なおインターンとは内にいる者,つまり住み込み医制度を意味する言葉である.
インターン制度に代わる臨床研修医制度をどのようにするかについて混乱の時期が続いたが,このインターン制度の混乱が昭和42年の東大医学部における卒業試験ボイコットを引き起こし,さらに東大紛争の導火線となり,結局,昭和43年に廃止されることになる.以後,2年間の卒後臨床研修が努力規定として医師法に明記され,新たな臨床研修医制度ができることになった.この新たな臨床研修医制度は大学卒業と同時に国家試験を受け,医師免許を得たのちに指定研修病院で2年間研修する制度である.しかしこの研修医制度は2年間研修することが望ましいという規定になっており強制的な制度ではなかった.そしてこの制度も平成16年から卒後臨床研修が義務化され,新しい研修制度に移行している.
インターン制度の発症の地であるアメリカでは,医学校を卒業した学生は国家試験を受け,その後に1年から2年の研修を終え,次に専門的な研修を行うレジデント(病棟医)コースを数年送ることになっている.そして専門医試験を受けて専門医になるのが一般的である。日本の研修医制度は形の上ではアメリカの研修医制度と似ているが,給料面,教育面においてははるかにおとっていた.
フランスではインターンはアンテルヌと呼ばれている.平成12年4月にこのアンテルヌ(研修医)による一斉ストがフランスで行われた.週60時間以上という過酷な労働条件,さらに約12万円の安月給の改善を求めてストを行ったのである.このストは労働条件の改善と月給の上乗せをフランス政府が約束したことで解決した.医療制度を安くしようとする政府の考えと,それに反発する研修医の闘争は日本だけの古い話ではないのである.
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高カロリー輸液(昭和42年)
医療において輸液という手段がなかったら,経口摂取のできない患者は脱水から腎不全を引き起こし,死を待つだけとなる.この輸液が最初に行われたのは,1832年,アイルランドの医師ラッタが瀕死のコレラ患者15人に生理食塩水を静脈に注射して5人の命を助けたことであった.しかしこの方法は学会で疑問視されたため普及せず,それから80年後に英国の病理学者ロジャースがインドのカルカッタでコレラ患者に輸液療法を行い,患者の死亡率を下げることに成功し,やっと輸液は一般的治療法となった.
点滴は下痢による脱水の治療に著効を示した.特に小児の下痢には効果が大きかった.20世紀になると電解質に関する代謝学が進歩し,細胞内液,細胞外液という電解質の概念が確立し,輸液は普及するようになった.
輸液の種類は輸液に含まれる電解質により細胞内の脱水を補充するもの,出血などによる血管内の脱水を補充するもの,さらには特殊な薬剤を注入するものなどと用途は広がっていった.
点滴による輸液は一般的治療となったが,電解質と水分の補給が主であり栄養状態を改善させるまでには至らなかった.点滴は肉眼で見ることのできる四肢の皮下静脈に刺すことになるが,この抹消血管の点滴では水分と電解質の補給のみであった.点滴のカロリー(糖分)を高くすると,末梢血管は炎症をおこして壊死をきたすのであった.そのため栄養分の少ない低カロリーの輸液しか注入できなかった.
人間が生きてゆくには栄養が必要であり,通常の場合,毎日2000カロリーが必要とされている.しかし,末梢静脈から5%のブドウ糖を含んだ点滴を1500リットル注入しても300カロリーにしかならない.注入できる点滴量には限界があるため,栄養補給の問題は解決できなかった.重症患者にとって低栄養状態が続けば創傷の治癒は遅く,また感染を受けやすく,最終的には栄養不良から衰弱死をきたすことになる.末梢静脈からの輸液では栄養補給という壁を乗る超えることができなかった.
この栄養の問題を解決したのが高カロリー輸液である.昭和42年,アメリカのダドリック博士が中心となり,身体の深部にある太い静脈に直接チューブを入れ点滴をするという画期的な方法が考案されたのである.ダドリック博士は高濃度のブドウ糖とアミノ酸の混合液を子犬の太い血管に入れ,点滴だけで子犬の成長を可能にしたのである.
人間では心臓の近くにある鎖骨下静脈,あるいは足の付け根の太い静脈などに直接カテーテルを挿入をする方法によってこの栄養の問題を解決したのである.太い静脈は,血管が丈夫なこと,血液の流量が速いことから,高濃度ブドウ糖液を滴下しても静脈は損傷をきたさないのであった.つまり経口摂取が不可能であっても,食事と同じカロリーを得ることができた.理論的には,食事ができなくても衰弱せずに点滴だけで生きてゆけるようになった.
この中心静脈点滴法は,チューブの先端が心臓の近くに位置するため,心臓の内圧を測定できるという利点があった.重症患者の治療にあたる場合,その患者が脱水状態なのか,あるいは水分が心臓に負担をかけている心不全状態なのかで,輸液量はまったく逆となる.この判断に迷う場合,中心静脈の圧を測定すればどちらの病態であるのかが分かるという大きな利点があった.
病院に行くと胸や首から点滴をしている患者さんを多くみることができる.これらが高カロリーの点滴である.消化管の手術で食事の取れない患者,重症で食事の取れない患者,彼らはこの高カロリーの点滴の恩恵を受けている.まさに高カロリー点滴は医療そのものを大きく変えたといえる.
日本で高カロリーの点滴が一般的に普及したのは,昭和55年頃からで,この点滴法は医師であれば基本的手技として誰もが習得している.このように高カロリーの点滴の利点は非常に大きいが,その手技には常に危険性も伴っている.
まず肉眼では見えない皮膚の深部の太い血管に解剖学的知識のみで注射針を挿入する.そのため失敗することが多い.末梢の血管であればたとえ点滴に失敗しても合併症は少ないが,高カロリーの点滴は太い血管に刺すので,平行して走る動脈を刺したり,肺を傷つけたりする場合がある.このような合併症は生命に結びつくことがあるので,患者から点滴の承諾書を得てから行う傾向にある.動脈や静脈の走行は個人差があるので,たとえ熟練した医師でも100%成功するわけではない.高カロリーの点滴が普及すれにつれ,さらなる問題が生じている.点滴部は長期間固定されるため,その部位からの感染が問題になっている.
かつての点滴にはビタミン剤が混注されていた.しかしこれがビタミン剤の乱用と非難され,平成4年の診療報酬改定で,食事ができる患者さんの点滴ではビタミン剤の混注が禁じられた.そのため食事の取れない高カロリー輸液を受けている患者の場合もビタミン混注は病院の儲けにならないと誤解され,全国の病院からビタミンが一斉に引き上げられた.その結果,高カロリー輸液を受けている患者さんにビタミンB1が不足しウェルニッケ脳症をおこす例が出るようになった.
ビタミンB1が欠乏して末梢神経が冒されれば脚気であるが,点滴では中枢神経が冒されウェルニッケ脳症を引き起こした.一般的に3週間ビタミンB1をとらないと,体内のビタミンB1が欠乏してウェルニッケ脳症となる可能性が高くなるとされている.脳の脚気と呼ばれるウェルニッケ脳症の死亡率は1から2割であり,助かっても,意識障害,健忘,歩行障害,人格障害を残す.特に問題となるのは前向健忘症で,前向健忘症とは病気になる前の記憶は残るものの,発症後の記憶が定着しないという障害である.つまり朝に食事を取ったのかどうか,風呂に入ったのかどうか,ついさっきの記憶が抜けてしまうのであった.
このことは平成7年4月に警告が出されたが,その後も続出し,京大病院(平成7年),東大医科研病院(平成8年)でもウェルニッケ脳症が訴訟問題となっている.高カロリーの点滴は食事の取れない患者に行われるため,特に老人の場合はウェルニッケ脳症と診断されず,老人ボケ,老衰などと診断され死亡した患者が多いものと予想される.このように一流病院でも死亡例が報告されていることから,高カロリー輸液施行中には必ずビタミンB1を投与することが必要である.
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さつま揚げによるサルモネラ食中毒(昭和43年)
昭和43年6月5日の夕方に会食した13人が食中毒様症状を起こしているという通報が宮城県若柳保健所(現在,栗原保健所)に入った.さらに6月8日には岩手県北上保健所から食中毒患者30人が発生したとの連絡があった.
この食中毒事件は宮城県の2市10町1村で231人が発症し,岩手県では2市6町3村で377人が発症,4人の死亡者を出すという大規模な食中毒事件となった.中毒者608人の半数以上は女性であったが,これは岩手県内の女子寮の給食で59人が発生したこと,さらに田植慰労会などの会食に女性が多かったためである.
発症までの潜伏期間は18から24時間で,症状としては水溶性の下痢症状が95%,発熱と腹痛が90%に認められ,その他に嘔気、頭痛などの症状を示した。会食者の発病率は宮城県で55%,岩手県では92%であった。岩手県で発症率が高かったのは,原因となったさつま揚げの製造から摂食までの時間が長かったために,菌の増殖が大きかったと考えられた。
宮城県内の患者から採取した59人の便中45人より サルモネラ・エンテリティディスが検出された。さらに食べ残しや小売店より回収した「さつま揚げ」からも同じサルモネラが検出された.
6月8日,対策本部が設置され関係機関への連絡や報道機関へ公表がなされた。原因食品とされたのは塩釜市の製造業者した「さつま揚げ」で,行政指導により製造中止,残品回収の通知が出された.
原因となったさつま揚げを検査したところ,さつま揚げの表面よりも中心部でサルモネラ菌が多く検出された.このことは油揚の前段階で菌に汚染され,油で揚げても中心部にサルモネラ菌が生残ることを示していた.工場内の容器からもサルモネ菌が検出され,工場内で捕獲したネズミからもサルモネラ菌が分離された.
当時はネズミによるサルモネラによる食中毒が流行していた.製品工場がネズミ防御を怠ったため,大規模な食中毒の発生となったのである.製造課程でサルモネラが混入し,加熱によっても殺菌できず,生き残ったサルモネラが増殖し,広範囲に食中毒が発生したのだった.この食中毒事件はネズミ駆除の重要性,製造過程における加熱条件の不備,流通における保存温度などが問題となった.今回の食中毒事件は食品流通の拡大により複数の県にわたって広範囲に発生したことが特徴であった.この食中毒事件以降,魚肉ねり製品工場の行政指導が強化され大規模な食中毒は発生していない。
日本における最大のサルモネラ食中毒事件は,昭和11年におきた静岡県浜松市の浜松第1中学校の大福餅食中毒事件である.運動会で出された大福餅のあんこがサルモネラ菌に汚染され,それを食べた生徒,職員,家族が犠牲となり,患者数2201人,死亡者44人という大規模な食中毒事件となった.原因となったのは9000個の大福餅のあんこだった.運動会にだされた9000個の大福餅用のあんこは運動会の4日前から製造されており,保管場所がないため床に置かれていた.このあんこがネズミの尿により汚染されサルモネラ菌が増殖したものと考えられた.
これらの例が示すように,かつてのサルモネラ菌による食中毒はネズミの尿が原因であった.しかし昭和40年後半からサルモネラ菌による食中毒の原因は,サルモネラ菌に汚染された鶏卵による中毒が多くなってきた.
サルモネラ菌はヒトや動物の腸管内に生息し、食物や水を介して、またヒトからヒトに感染する。サルモネラ菌は,かつては腸チフスの原因菌として有名だったが,平成元年ころからサルモネラ・エンテリティディスによる食中毒が急増している.サルモネラには約2000種の仲間があり,サルモネラ・エンテリティディスはその一種で,サルモネラによる食中毒の90%以上を示している.平成4年には腸炎ビブリオと黄色ブドウ球菌を抜いてサルモネラ食中毒が発生件数および患者数ともに1位になった。サルモネラ食中毒は全食中毒件数の33.5%を占め、患者数では食中毒の患者数の42.2%を占めている.
サルモネラ食中毒は学校,旅館,飲食店などで集団発生する場合と,家庭などで散発的に発生する場合がある。サルモネラ菌が食中毒をおこす菌数は,個人差が大きいが1グラム中10,000個とされている.特にチーズやチョコレートなどによる事例では発症菌数が少ないことも認められている.このことは食品中の脂質が胃酸から菌を保護する作用を示している.
昭和62年頃から世界各国で鶏卵によるサルモネラ食中毒が多発し,特にアメリカでは平成6年に汚染されたアイスクリームで22万人の集団食中毒が起きている.日本では平成元年にサルモネラ食中毒が多発し,例年の2倍近くにまで増加した。原因食品の多くはタマコとタマゴ料理で,原因食品としては,洋菓子,卵入り丼,焼き物,揚げ物,アイスクリーム,マヨネーズの順であった.
鶏卵がサルモネラ菌に汚染されるのは,産卵時にすでに汚染されている場合と,ニワトリの糞便に付着したサルモネラ菌が卵殻を通過して卵内に侵入する場合がある.サルモネラ菌に感染しているタマゴは1万個につき2から3個で,サルモネラ菌に感染しているニワトリが生むタマゴの約2%から菌が検出される.
サルモネラ菌に感染しているタマゴには平均で2個のサルモレラ菌が存在する.このように最初は数個のサルモネラ菌であるが,保存状態によってサルモネラ菌は20分で倍の増殖を示すことから食中毒を起こす.つまり常温で保存することは危険性が高いことを示している.サルモネラ食中毒の予防は,サルモネラ菌は乾燥と低温に弱いことから,卵は冷蔵庫に保存し1週間以内に使い切ること.購入時にはきれいなタマゴを選び,ヒビ割れのない,新鮮なものを選ぶことである.卵を割って平らな皿の上に置いた時、古い卵ほど黄身は平らになり白身は薄くなることを知っていると便利である.またサルモネラは十分に加熱すれば死滅するので,ゆで卵なら沸騰後7分以上おくとよい.また酸にも弱いのでマヨネーズを作る時は酢を多くすることである.さらに他の食品に菌が移るのを防ぐため,肉や卵に触れた手やまな板などを必ず洗うことである.
サルモネラに限らず下痢などを引き起こす食中毒で怖いのは脱水症状である.輸液などの治療を適切に行えば生命にかかわることはほとんどない.
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和田寿郎教授心臓移植事件(昭和43年)
昭和43年8月8日,札幌医大付属病院で日本初の心臓移植手術が行われたことを各新聞の夕刊は大々的に報道した.手術を行ったのは和田寿郎胸部外科教授(46)を中心とした20人の医師団であった.日本中の視線が北海道・札幌医大に集まり,新聞,テレビ,ラジオ,日本の全メディアは総力をあげて心臓移植の取材をおこなった.そして日本初の心臓移植を札幌医大の快挙と賞賛し,新たな医学の進歩の到来に日本中が沸き上がった.多くの人々は移植を受けた宮崎信夫青年の回復を願い,連日報道される青年の容体に声援を送った.
しかし手術を受けた宮崎信夫青年が手術から83日目に亡くなると,その日を境に和田寿郎教授に対する国民的称賛がしだいに冷めてゆき,賞賛の嵐は静まり,疑惑,さらには非難へと変わっていった.
心臓移植を受けたのは,昭和43年4月から心不全で札幌医大付属病院に入院していた石狩支庁恵庭町の青年・宮崎信夫君(18)だった.和田教授の説明によると,宮崎信夫君の病名は僧帽弁閉鎖不全症,三尖弁閉鎖不全症,大動脈弁狭窄症の三つが重なった重症の心臓弁膜症で,そのため心臓が異常に肥大していた.宮崎信夫君は小学5年生の時,リウマチ熱を患い,心臓弁膜症のため小学生の時から学校では体操もできず,最近の5年間はほぼ寝たきりの状態であった.宮崎信夫君が生き残る道は心臓移植しかないと和田教授は判断し,そしてそのように本人と家族に説得したとされている.
いっぽう心臓を提供したのは札幌に住む駒沢大学4年生・山口義政君(21)であった.山口義政君は移植前日の8月7日正午すぎ,小樽市の蘭島海水浴場でおぼれ,海底に沈んでいる状態で発見された.引き上げられた山口義政君は救急車のなかで奇跡的に息を吹き返し,意識は不明のままであったが小樽市内にある野口病院に収容された.治療に当たった上野冬生医師は自発呼吸と瞳孔反射があることを認めた.山口君は蘇生し上野冬生医師は命に別状はないと判断し帰宅した.再度容体が悪化したことから,野口暁院長は高圧酸素による高度医療ができる札幌医大へすぐに転院させた.
8月7日午後8時,山口君は救急車で札幌医大に運び込まれた.しかし午後10時10分,山口君の瞳孔が散大し,脳波が停止したため脳死と認定された.医師団は山口君の両親に心臓の提供を申しでて承諾を得た.そして8月8日午前2時5分,和田寿郎教授の執刀で心臓移植手術が開始された.宮崎信夫君の肥大した心臓を取り出すのに13分,山口君の新しい心臓を宮崎信夫君に移植するのに45分かかり,手術は午前5時に終了した.
南アフリカ共和国のC・バーナード博士が世界で初めて心臓移植の手術を行ってから9ヵ月目の快挙であった.C・バーナード博士の世界初例の患者は18日目に死亡したが,以後生存例がふえ,和田教授による心臓移植は世界で30番目であった。
8月8日午後2時20分,札幌医大付属病院で緊急記者会見が行われ,日本初の心臓移植が行われたことが発表された.テレビ,新聞のほとんどがこの心臓移植一色となり報道は過熱していった.心臓移植に関してはまだ社会的な合意はなされておらず,脳死の取り扱いについてもまだ曖昧な時代であった.しかし和田教授は「二人の死より一人の生を」,「移植の是非よりも目前の患者を救うこと」を主張した.マスコミは当時46歳の和田教授を医学界の風雲児ともてはやし,新聞は「日本医学の黎明を告げた一瞬」,「涙ぐむ両親、提供者にただ感謝」などの見出しで報道した.
手術を受けた宮崎信夫君の容体に多くの国民が声援を送った.拒絶反応を乗り越えて早く回復してほしいと多くの人々が祈った.宮崎信夫君は順調に快復してゆき,病院の屋上を車いすで散歩する様子や笑顔で手を振る姿が日本中に放映された.ところが手術時の大量輸血の影響による体力の消耗をきたしていた.そして宮崎君の症状は日を追うごとに悪化し,手術から83日目の10月29日に宮崎信夫君は死亡した.
和田教授は宮崎信夫君の死因について気管支炎によって痰がのどに詰まり,急性呼吸不全を起こしたためと説明した.そして心臓移植にともなう拒否反応の関与を否定した.和田教授の説明は,心臓移植そのものは成功したが偶発した事故により運悪く死亡したことを暗に述べていた.
宮崎信夫君が死亡すると,日本初の心臓移植は急速にほころびを見せていった.近代医学の進歩を絶賛していた国民的な雰囲気が徐々に疑惑へと変わっていった.宮崎信夫君が死亡するまでは誰もが想像しなかった多くの疑惑が次第に浮かび上がってきたのである.
その疑惑は2つであった.宮崎信夫君は本当に心臓移植が必要なほど重症だったのかという疑惑と,心臓を提供した山口義政君は生きていたのではないかという疑惑だった.事態は礼賛から糾弾へと徐々に展開していった.心臓移植は人体実験だったのではないかという疑惑が噴出してきた.もし山口さんが生きている段階で心臓を取られ、移植手術が必要ない宮崎さんに移植したとすれば、これほど恐ろしい医療事件は他にないであろう.
まず疑問を持ったのは宮崎信夫君の主治医であった札幌医大内科教授・宮原光夫である.宮原光夫教授は心臓移植がおこなわれたとき,移植を受けたのが自分の患者とは知らなかった.宮崎信夫君は僧帽弁だけが悪く人工弁置換の手術のために内科から胸部外科に転科させただけで,トイレにも歩いて行けたし,心臓移植を受けるほどの重症ではなかった.少なくても術前診療では心臓移植が必要であったとは考えられなかった.和田教授は他の弁も移植が必要なほど障害を受けていたとコメントしていたが,その真意が分からなかった.宮原光夫教授は内科専門誌(内科,昭和44年5月号)に宮崎信夫君の病状を記載し,和田教授の診断を正面から否定した.
また宮崎信夫君の遺体を解剖した札幌医大病理学教授・藤本輝夫も心臓に関して宮原光夫教授と同様の見解を発表した.その内容は「剖検所見からみた心臓移植」の題名で論文(医学雑誌・最新医学3月号)として詳細に書かれている.解剖の結果,腹部は緑膿菌感染による膿瘍がたまっていて,それが免疫抑制剤の副作用によるものと思われたこと.宮崎君の心臓は1080gと通常人の4倍に膨れあがり,心膜に癒着が認められ,これを移植の拒絶反応の所見とした.藤本輝夫教授は免役学的な基礎研究もしていないのに,いきなり宮崎君に心臓移植を実施したことは結果的に人体実験だったと和田教授を批判した。
札幌医大内部から和田教授を非難する声が挙がった.札幌医大学長はこのため「心臓移植の検討会を持ちたい」と定例教授会で提案した。移植手術に関する臨床データは学内ですら公表されていなかったのである。これを検討しようという学長の提案であったが,反対意見が続出した。今やれば内容がマスコミに漏れ十大ニュースに入るはずの心臓移植が名声を失ってしまうこと.さらに大学に汚点を残すなどの意見が大勢を占めた。居並ぶ教授陣のほとんどが和田移植への疑惑を持ちながら,大学の大勢は疑惑隠しに傾いていった.
宮崎信夫君は本当に移植手術が必要だったのか,この疑惑が渦巻く中,宮崎信夫君の切除された元の心臓が行方不明になる事件が起きた.病理学教授・藤本輝夫は次のように説明している.宮崎信夫君の元の心臓が行方不明となり,捜したがどこにあるか分からなかった。心臓の所在は和田教授しか知らないと噂されていた。翌年2月になって宮崎信夫君の心臓が見つかったが,心臓の三つの弁が根元からくりぬかれていた。ばらばらになった弁と心臓の復元を試みたが明らかに大動脈弁だけは宮崎君の心臓と合わなかった.他人の大動脈弁とすり替えられた可能性が高かった.
宮崎の心臓は致命的な弁膜症を抱えていたのだろうか。この弁のすり替え事件は,後に札幌地検の依頼で東大医学部病理学・太田郁夫教授が鑑定している.その結果,宮崎君の血液型はAB型であるが大動脈弁だけはA型であった.しかし鑑定書は断定を避ける曖昧な表現に終始していた.あまりに恐ろしい結果に逃げてしまったのである.
いっぽう海水浴中に溺れ心臓を提供した山口義政君は本当に死んでいたのだろうか.山口義政君は小樽の野口病院から札幌医大付属病院に転院したが,野口病院の上野冬生医師の証言によると山口義政君が入院したときには自発呼吸があり,対光反射,心音もはっきりしていたと述べている.山口義政君が札幌医大付属病院に転院したのは担当医が帰宅したあと,午後7時に野口病院の院長の単独判断で札幌医大への搬送がなされた.野口院長は以前から和田教授と親しく,かつて結核病院で和田教授と一緒に結核の手術を100例以上おこなっていた.その関係で院長と和田教授は以前から心臓提供者を頼まれていたとされている.
札幌医大付属病院における山口義政君の容体について証言は大きく別れている.和田教授は限りなく脳死に近い状態だったとしている.しかし救急隊員,山口義政君の父親,また手術に駆けつけた麻酔科医は,体動や自発呼吸がありバイタルは落ち着いていたことを証言している.はたして山口君を生かす努力がなされたのだろうか.蘇生は麻酔科の担当であるが,駆けつけた麻酔科医・内藤裕史(後の筑波大学教授)は追い返され,脳死の判定は移植グループの医師だけによって行われた.しかし脳死を示す山口義政君の脳波の記録は残されていない.脳死判定はブラウン管に映った波形をみて判断したと説明したが,それでは第三者を納得させることはできない.さらに心電図の記録も重要なところが抜けていた.胸部外科教室員だけで行われたこの移植手術は密室の医療行為との疑惑を持たざろうえない.
また両親から心臓移植の同意を得る前の段階で,正確には山口義政君が札幌医大付属病院に搬送される前の時点で,宮崎君用の輸血が大量に注文されていたことが日赤の記録から分かっている.さらに山口君の両親が移植に同意したのは,山口義政君の胸部が切開された後であることが明らかになった.
そして宮崎さんの死後から1ヵ月後の12月3日、大阪の東洋哲学医学漢方研究会(代表,増田公孝)の6人が大阪地裁に和田教授を「未必の故意による殺人罪」と「業務上過失致死」で告発した.刑事告発は大阪地裁から札幌地裁へ申送りされ,札幌地裁が調査をすることになった.この告発によって今度は心臓移植の疑惑についての報道が過熱していった.
札幌地方検察庁は刑法上の殺人罪は構成しないとしながら,業務上過失致死が当てはまるかどうかの検討に入った.札幌地方検察庁は和田教授から事情を聴取,捜査に乗り出すことになった.さらに参考人として154人が聴取され,山口君の心臓やカルテなど物的証拠は553点に達した。担当したのは札幌地検刑事部長秋山真三だった。捜査は長期化し,当初2カ月とみていた事情聴取に7カ月を費やした.誤算だったのは検事が証拠隠滅の可能性はないと考え強制捜査を行わなかったことだった.
札幌地検が捜査上最大のネックとなったのは,山口君の遺体が解剖されないまま札幌中央署の刑事が検視しただけで火葬されていたことだった.解剖されていれば心臓を摘出した時に生きていたかどうか客観的なデータが得られたはずであった.また宮崎君の心臓の4つの弁は心臓からえぐり取られており,すり替えられていた可能性が高かった.そして心臓移植疑惑の重要なポイントは,脳波と心電図の記録,さらには誰が宮崎君の心臓を隠し,弁をくり抜き取りかえたかであった.この点について,和田教授は手術スタッフの門脇医師がおこなった証言している.門脇医師は責任を負わされることになるが,門脇医師は移植手術から5ヵ月後に胃ガンのため死去していたのである.死人に口なしであった.
昭和45年1月,札幌地検は医学鑑定に踏み切り,東京女子医大・榊原仟教授,東大医学部・太田邦夫教授,京大医学部・時実利彦教授という心臓の権威者に鑑定を依頼した.しかしいずれの鑑定書も決定的な結論には至らなかった.医学界特有のかばいあいがおこなわれたとされている.真実が明らかになれば,今後日本では心臓移植が出来なくなる.このことを権威者は心配したのだろうが,結果的に日本の移植は長い間にわたり道を閉ざされることになった.そして密室医療の恐怖が国民の医療不信を増すこととなった.
昭和45年7月27日,「和田心臓移植を告発する会」が発足した.13人のメンバーには2人の元厚生大臣(坊秀男,吉井喜実),3人の評論家(石垣純二,松田道夫,川上武),若月俊一(佐久病院長),中川米造(阪大助教授)などそうそうたる名前が含まれていた.この会は,「患者の基本的人権尊重に欠け,医師倫理にも反する」とし,法務委員会,医道審議会,人権擁護委員会に和田教授の事件を調査するように働きかけた.しかし昭和45年9月,札幌地方検察庁は札幌高検、最高検と協議し,「和田教授を殺人と断定する決め手が無い」ことを理由に証拠不十分で不起訴処分とした.この間,死の判定について議論がおきたが,検察側は通説である,心臓停止,呼吸停止,瞳孔散大の3徴候説を採用した.
不起訴処分から1年後の昭和46年10月,日弁連などの働きかけにより札幌検察審査会は地検に対して再捜査を要求した.札幌地検は再捜査をおこなうが,翌年の8月,新しい証拠が出てこないとして再び嫌疑不十分として不起訴を決定した.嫌疑不十分というのは,犯罪を認める証拠がないということでシロではなく灰色という意味である.いずれにしても和田寿郎教授に対する刑事責任追及は事実上決着したことになった。
和田寿郎教授は昭和25年に米国ミネソタ大学に留学,心臓弁膜症の手術など2300例を行っていた.心臓外科の進歩に伴い,心臓の部分的な修復を目ざす手術に限界を感じていた.重症な心臓疾患に対しては心臓移植の考え方が生まれてきた.
心臓移植から20年後の昭和63年に,和田教授はこの事件について次のようなコメントを述べている.「第三者の告発を受けたが,宮崎君や提供者の家族から何の批判を受けなかったこと,さらに手術スタッフの中で誰も傷つく者が出なかったことは幸せであった」.
和田寿郎教授心臓移植事件は日本の医学界を萎縮させただけに終わった.日本医師会長・武見太郎は,臓器移植は医療としては邪道とする意見を述べ,臓器移植だけが医学の進歩の中で取り残されてしまった.心臓移植は拒絶反応を抑える画期的薬物が開発され,世界レベルでは年間3000例以上がなされ,心臓移植はごく普通の手術になっている.医療現場の密室性,医療専門家同士のかばい合い,医師に対する警察や検察官の低姿勢がこの事件の問題であった.
日本では和田教授の事件から30年後,平成9年10月に臓器移植法が施行され脳死による臓器移植にやっと道が開かれた.和田寿郎教授は心臓移植のパイオニアを自負していたのだろうが,結果的に心臓移植に30年以上の空洞を作ってしまった.和田寿郎教授の疑惑により,これに続く病院・医師はいなく「移植手術」に関しては世界の医療レベルに40年遅れをとったとされている.この事件の代償はあまりに大きいものであった.
安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)
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カネミ油症事件(昭和43年)
カネミ油症事件はPCB(ポリ塩化ビフェニール)による日本最大の食品中毒事件である.昭和43年の3月から10月にかけて,北九州市のカネミ倉庫が製造したカネミ・ライスオイルの製造過程で加熱用のパイプからPCBが混入,このPCBの混入によって大規模な中毒事件が引き起こされた.
カネミ・ライスオイルとはカネミ倉庫が製造した米ぬか油の商品名で,天ぷらやトンカツなどの揚げ物などに用いられていた.またライスオイルはコレステロールを減少させる効果があり,口当たりが軽く風味が良いと宣伝されたため,身体によいだろうとライスオイルを直接飲む者がいた.カネミ・ライスオイルは台所で静かなブームをつくっていた.
このPCBに汚染されたライスオイルが,目をそむけたくなるような皮膚病変を引き起こした.黒い吹き出物,かゆみ,全身倦怠感,腰痛などの難治性の症状を示し,さらには多数の死者をだす結果になった.被害者は1都2府8県で1万4320人,死亡者50人に達する大惨事となった.
このカネミ油症事件に言及する前に,この事件の直前に起きた「ダーク油事件」について解説が必要である.もしダーク油事件の原因をきちんと究明していれば,カネミ油症事件の悲劇は防止できたからである.ダーク油事件とはニワトリに発生したカネミ油症事件であった.
ダーク油事件は,昭和43年2月ごろから西日本一帯で発生した.ブロイラーで飼育されていたニワトリが肺水腫などの呼吸困難で次々に死んでいった事件で,罹病したニワトリは70万羽,死んだニワトリの数は少なくても20万羽以上とされている.このニワトリの大量の死について,当初は新種の伝染病が疑われていた.しかし死亡したニワトリの解剖から家畜保健衛生所はその死因を中毒死と報告したのである.そしてニワトリの餌である配合飼料が中毒の原因と推測した.
ニワトリに与えられていた配合飼料は2種類で,2種類とも北九州市のカネミ倉庫が製造したダーク油を使用したものであった.この疑惑から,残されていた配合飼料とダーク油をニワトリに与える実験をおこなわれ,その結果,大量に死亡したニワトリとまったく同じ症状を示しニワトリが死亡したのである.この実験によりニワトリの大量死亡事件はダーク油が原因であることが明確となった.
ダーク油とは米ぬか油を精製する過程で生じる脂肪酸が混じった不純物で,色が黒いことからダーク油と名づけられていた.この「ダーク油事件」によってカネミ倉庫の本社工場は農林省の立ち入り調査を受けることになった.農林省は提出されたカネミ倉庫のダーク油を分析したが,ニワトリを大量に死亡させた原因を突き止めることができなかった.そのため,カネミ倉庫は自社製品が原因と明確に認めずに,製造の過程で何らかの理由でダーク油が変質したことが原因であろうということで落着することになった.農林省は被害を受けたのがニワトリであって,人間とは無関係の事件ととしてそれ以上の調査をしなかった.
カネミ倉庫はダーク油だけでなく,同じ製造過程で食用のカネミ・ライスオイルも作っていた.ダーク油事件が米ぬか油の変質が原因だったとしても,同じ製造過程で作られているカネミ・ライスオイルの品質を調べるのが当然のことであろう.しかしその点検を見過ごしてしまったことが悲劇を作ってしまった.農林省はカネミ倉庫に対し品質の管理を十分におこなうことを命じただけであった.
このダーク油事件の原因解明がおこなわれていた同じ時期に,福岡や長崎を中心とした北九州で顔や臀部分などに黒いニキビのような吹き出物(後に塩素座瘡と診断)を示す患者が病院を受診するようになった.それは目をそむけたくなるような症状で,まるで四谷怪談のお岩さんのようであった.患者は皮膚症状だけでなく,身体のしびれや倦怠感を強く訴えたが,皮膚症状が目立ったため皮膚科を受診する患者がほとんどであった.しかしこの奇病に対する病院の反応は鈍かった.病院側はこの奇妙な病気の原因が分からないまま,またこの奇病が家族内発症を特徴としているにもかかわらず集団中毒事件とは考えなかったのである.九州大学病院皮膚科には4家族が受診していたが,半年近くも漫然と診察するばかりであった.
この患者たちに共通していたのはカネミ倉庫が製造販売している米ぬか油を使用していたことである.そのことを最初に気づいたのは病院での患者どうしの会話からであった.福岡県大牟田市に住む九州電力社員の患者(42)が家庭で使用していたカネミ・ライスオイルを九大付属病院に持ち込み,ライスオイルの毒物分析を依頼した.しかしライスオイルの分析はなされずに時間だけが経過していった.九大付属病院をはじめとした多くの医療機関は漫然と患者を診察するばかりで対策を立てようとしなかった.
ニワトリの「ダーク油事件」は,昭和43年4月にダーク油の出荷が停止されたことから発症はくい止められた.しかし人間が被害者となったカネミ・ライスオイル中毒は原因不明のまま半年も販売され被害者はひろがっていった.
九州電力社員の患者は九州大学の対応にしびれをきらし,昭和43年10月4日,奇病が集団発生していることを保健所に訴えた.そしてライスオイルの分析を保健所に依頼した.九州電力社員の訴えから1週間後にこの奇病が世間の注目を浴びるようになった.それは朝日新聞の記事がきっかけであった.
昭和43年10月10日の夕刊の記事で,福岡市に住む朝日新聞の記者がこの奇病を報道したのである.この報道のきっかけを作ったのは保健所でも大学でもなかった.記者の妻の友人がこの奇病に罹患して苦しんでいることを知ったからである.そして取材によって同じような患者が九州大学病院皮膚科に大勢受診していることを知ったのだった.この朝日新聞の報道によって被害者たちは自分だけが被害を受けたのではなく,他に多くの被害者がいることを知った.そして翌日の朝刊では,この事件に先だって発生したダーク油事件との関連性について報道した.この朝日新聞の記事がきっかけとなり,連日のように新聞やテレビでこの奇病が報道されるようになった.
新聞で奇病が報道された翌日の10月10日,福岡県衛生部の職員4人が九州大学医学部皮膚科を訪れ,患者の状況について聞き取り調査を開始した.そしてカネミ・ライスオイルの使用を中止すると症状が消退することを知った.もし九州大学医学部皮膚科がこの事実を保健所に報告し,広く注意を喚起していればこの事件の被害者は最小限に止まっていたはずである.このため九州大学は世間から非難を受けることになった.九州大学医学部皮膚科は学会発表のためにデータ収集と原因分析を優先させ,ライスオイルが原因と知りながら公表しなかったとされている.
福岡県衛生部は聞き取り調査を行い,カネミ倉庫に対し原因がはっきりするまで自主的に販売を中止するように勧告した.しかしカネミ倉庫は県衛生部の勧告にも関わらず,自社の製品が奇病の原因ではないと主張し,問題の油は偽物であり販売を停止する予定はないと発表した.カネミ倉庫は県衛生部の勧告を受け入れようとしなかったため,福岡県は食品衛生法にもとづき10月10日から1ヶ月の営業停止を通告した.カネミ倉庫は従業員約400人,西日本最大の食用油のメーカーであった.
事件が表面化した段階で,九州大学医学部皮膚科はそのずさんな対応について患者やマスコミから多くの非難を受けた.しかし集団発生が明確になると,九州大学は大学を挙げて原因究明に取り組むことになる.事件が表面化した4日後の昭和43年10月14日には,九州大学病は勝木司馬之助・九州大学病院長を班長とする「油症研究班」が結成された.この油症研究班には九州大学だけでなく久留米大学からも臨床,化学分析,疫学の専門家が集まり原因解明に全力をあげることになった.原因物質としては「皮膚と末梢神経系をおかす毒物」が推定され,有機塩素,リン,ヒ素などがリストにのぼった.当初は米ぬかの原料に農薬が混入したのではないかと予測されていた.
カネミ倉庫は今回の事件に関し自社製品の関与を認めず,非協力的な姿勢をつらぬいた.カネミ倉庫の加藤三之輔社長は「わが社の社員,家族,2000人の中から病人は出ていない,問題の油は偽物ではないか」とのコメントを出し,販売を止めるつもりのないことを強調した.
久留米大公衆衛生学教授は問題の米ぬか油から大量のヒ素が検出されたと発表した.大量のヒ素事件となれば,山口県下で起きたヒ素入りしょうゆ事件,森永粉ミルク事件の記憶がまだ人々の記憶に残されていた.しかし九大の油症研究班の分析ではヒ素が見つからず,このヒ素原因説はしだいに後退していった.
また疫学調査では患者に性差はなく,どの年齢層にも患者が分布しており、顕著な家族性をもっており,何らかの要因がその家族に作用したと考えられた。福岡県内の患者すべてがライスオイルを摂取しており,しかも昭和43年2月5日と 6日に出荷されたライスオイルに限定していた.この両日に出荷されたライスオイルを摂取して発症した者は81%で,違う日に出荷されたライスオイルを使用した者には患者の発生はなかった.
10月22日,高知県衛生研究所がカネミ倉庫の米ぬか油をガスクロマトグラフィーで分析し,米ぬか油から有機塩素物質を検出したと発表した.この有機塩素物質の報告は重要視されたが,どのような種類の有機塩素物質であるかは不明であった.そして10月29日になってカネミ倉庫製油工場の立ち入り検査が行われ,油症研究班はその時に持ち帰ったサンプルから塩化ビフェニール(PCB)を検出したのである.
カネミ倉庫製油工場では鐘淵化学工業のPCB(カネクロール)を脱臭目的で使用していたのだった.そして11月4日,勝木司馬之助・油症研究班班長はカネミ油症の原因は米ぬか油に含まれていたPCBであると正式に発表した. 当初はその主成分であるPCBが油症原因物質であると考えられていた。
PCBがなぜ米ぬか油に混入したのかが問題になった.PCBは米ぬか油の脱臭のために熱媒体として使用されていたが,PCBはパイプを挟んで米ぬか油に接しているだけであった.PCBはパイプの中を通るだけで,タンクの米ぬか油とは本来混入するはずはなかった.そのため九州大学調査団によって工場の立ち入り検査がおこなわれた.そしてPCBを通していたパイプに圧をかけ調べた結果,ステンレスのパイプに小さな穴(ピンホール)が3カ所あいていることが判明したのである.つまりこのピンホールからPCBが米ぬか油に混入したことが判明したのだった.
PCBがステンレス製のパイプのなかで塩化水素を発生,これが水と反応してパイプに穴が開いたと推測された.しかしこのピンホールが原因だったとして,なぜ2月上旬に製造されたものに限ってPCBが混入したのかが分からなかった.この疑問についてはパイプの錆や焦げついたライスオイルが穴をふさいだのだろうと説明された.
しかしこのピンホールからの流出説が間違いであったことが,事故から10年以上経った裁判の過程において明らかになった. PCBはピンホールから漏れたのではなく,タンク内にあるパイプ接合部から漏れていたのだった.このパイプ接合部がタンク内にあったことが設計上の大きなミスであった.パイプ接合部がタンクの外にあればPCBが米ぬか油と混入することはなかった.しかも工場側はパイプの接合部からPCBが漏れたのに気づいていたのだった.それは一定の量のPCBが閉鎖されたパイプの中で循環しているはずなのに,PCBの量が極端に減少したことを工場側が気づき,パイプ接合部のボルトを締めなおしていたのだった.
PCBがどのような被害をもたらすかは,先に発生したニワトリの「ダーク油事件」で容易に想像できた.しかしカネミ倉庫製油はPCBに汚染されたライスオイルをそのまま出荷していたのだった.このことから2月上旬に製造されたライスオイルのPCB濃度が高く,それを摂取した人たちに被害がでたのである.カネミ倉庫側はこの人為的なミスを隠していたのだった.
先に発生したニワトリの「ダーク油事件」,それに多くの犠牲者を出した今回の「カネミ油症事件」,この二つは同じ工場の製造過程で米ぬか油にPCBが混入しでおきた中毒事件だった.ダーク油事件が起きたとき,農林省の関心はニワトリに止まり,人間にまで関心が及ばなかったことが残念というしかない.
またPCBに汚染されたニワトリがその後どのように処分されたのか明らかにされていない.もちろん生き残ったニワトリの卵はそのまま人間の体内に移行したものと思われる.体内に一度はいったPCBは排泄されにくく,排泄の可能性としては出産によってPCBが妊婦の体外から新生児に移行することぐらいであった.
カネミ油症事件の真相がはっきりした頃,カネミ油症を飲んだ母親から皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたことが報道された.このことに人々は大きなショックを受けた.PCBは油に溶けやすい特質があり,体内に入ると脂肪組織に蓄積される.とくに胎盤に蓄積されやすく,そのため新生児に移行しやすかったのである.そして皮肉なことに,出産のたびに母親の症状は軽くなった.油症事件の年に被害者から生まれた13人の子どものうち2人は死産,10人は全身が黒色で,その他の異常所見も多かった。 黒い赤ん坊は成長とともに肌の色が白くなっていったが,これは成長により体内のPCBが希釈されたせいで,身体のPCBが減少したからではなかった.長崎県の五島列島にある玉之浦は人口4400人の集落であるが,そのうちの113世帯,309人がカネミ油症患者となった.そして玉之浦113世帯で21人の黒い赤ちゃんが誕生した.この玉之浦に犠牲者が多くでたのは,この地区の店でカネミオイルを盛んに宣伝し,安い値段でセールをしていたからである.
カネミ油症患者の症状は醜く黒ずんだ皮膚症状が主であった.PCBは身体に蓄積され慢性の症状が主で急性の症状に乏しかった.当時はPCBがどれほど危険なものであるかの認識はなかった.しかしPCBは身体全体をむしばみ死亡例が続出することになる.
PCBの汚染によって症状を出した患者は1万4千人に達していた.しかしカネミ油症の認定患者は症状が著明であった1857人だけとされ大半は50歳未満の患者だった.そして事件から5年以内に27人が死亡したが,認定されても犠牲者には救済の手は差し伸べられなかった.そのため患者自らが法廷闘争に立ち上がることになった.
この中毒事件をおこしたPCBは最近では地球汚染物質としてよく知られている.しかし当時はそれほど危険な物質との認識は少なかった.PCBは電気の絶縁性が高く不燃性で安定性にすぐれているためトランスやコンデンサの絶縁体・熱媒体・塗料・印刷用インキ・複写紙・可塑剤などに広く利用されていた。
カネミ油症事件を引き起こしたPCBは鐘淵化学工業が製造したものである.カネミ油症の被害者はカネミ倉庫ばかりでなく鐘淵化学工業を相手として裁判を行うことになった.鐘淵化学工業が訴えられたのはPCBの毒性や金属腐食性を知りながら食品工業に売り込んだ責任を問われたからである.
PCBのメーカーであった鐘淵化学は,「自動車や青酸ガスなども危険だが,使用者はそれを周知の上で使っている.使用者が責任を負うべき」として,食用油を製造したカネミ倉庫に責任を転嫁する主張を展開した。当初,鐘淵化学はPCBの使用上の注意事項として簡単な説明を記載しただけであったが,もし「毒性が強いため,加熱用パイプのピンホールのような小さな傷にも注意して使うように」とカネミ倉庫側に警告しておれば,恐らく食用油製造にPCBは使わなかったとカネミ倉庫側は裁判で証言している。通産省はPCBの使用を全面的に禁止することを関係業界に通達した。鐘淵化学工業はPCBの生産を全面中止し,PCBの国内生産は完全に中止となった.
昭和53年の1審裁判では原告の主張がほぼ認められ,カネミ・鐘化両社に60億円の損害賠償の支払を命じる判決がくだされた。しかし昭和61年,福岡高裁は国の責任と鐘淵化学の製造物責任を否定し,カネミ倉庫だけに18億3000万円の支払を命じる判決をだした.そして事件発生から20年後の昭和61年3月20日,最高裁で和解が成立し,被告側のカネミ倉庫と鐘淵化学は総額107億円の損害賠償の支払いすることで合意したのであった.
鍾淵化学の和解条件は事故の免責と引き換えに,被害者に見舞金を支払うという内容であった.鍾淵化学工業に製造物責任はないが1人あたり鍾淵化学が300万円,計21億円の見舞金と弁護士費用などを支払うという内容で和解したのであった.健康を奪われた患者たちの見舞金は,1人あたりわずか300万円にすぎなかったのである.業務上過失傷害罪で起訴されていたカネミ倉庫の社長は無罪,工場長は禁固1年6ヵ月の判決が下った.
福岡高裁は「食品の安全性に疑問が生じた場合,行政庁は規制する権限を予防的に行使すべき法律上の義務を負う,また農林省担当官がその措置をとっていれば油症拡大は防止できた」として1審判決を覆して初めて国側の責任を認める判決を下し,総額47億円の賠償総額と30%の国側負担を示した.
PCBと接触した場合,多くは時間と共に症状が改善してゆくのが通常である.しかしカネミ油症患者の症状は変化がないばかりでなく,死亡者が続出した.なぜ症状が改善しないのか,そのことが判明したのは事件から20年後のことであった.
それは発病の原因物質はPCBだけではなく,さらにポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)含まれていることが昭和50年に,さらにとコプラナーPCBも含まれていることが昭和61年になってあきらかになったのである.これらの物質はダイオキシンの一種で,これらの相乗的な作用によって重篤な症状を示したことが明らかとなった.特にPCDFはライスオイル中に2〜7ppm含まれており,早期に死亡した患者臓器からも検出された.PCDFの毒性はPCBよりはるかに強いので,現在では油症発症の主要な役割を演じたとされている.この発見がなされたのは化学分析の進歩によるが,しかしそれが判明したときには油症事件はすでに過去の事件となっていた。
ダイオキシン被害の特徴はその発生の遅延性である。事件直後には被害が少なかったと見られていた成人男性も,事件から長期間が経過するとともにダイオキシンの発ガン性によりガンで死亡する例がふえたのだった.
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東大紛争(昭和43年)
昭和43年から45年にかけ,大学改革をめぐり大学紛争の嵐が日本中で吹き荒れていた.ヘルメットをかぶった学生が大学を占拠し,日本中が騒然となっていた.この大学紛争は日本だけに起きた現象ではなかった.むしろ世界各国の若者が立ち上がり「スチューデント・パワー」と呼ばれる学生の反乱が海外から日本に伝染したといえる.パリのソルボンヌ大学では赤旗とアナーキズムの黒旗がひるがえり,パリ市街では「パリ5月革命」に象徴されるように,労働者と学生40万人がデモをおこなった。アメリカではベトナム戦争と古い大学の管理体制に反発し,学生たちは警官隊と衝突を繰り返した.このように欧米では既成体制を打破するため学生たちが既存の権力に挑戦していた.そしてそれに相呼応するように日本の学生たちも権力に向かい立ち上がったのである.
高度経済成長により大学の大衆化が進んだが,大学は戦前の体質を脱皮できずにいた.学生たちは大学の古い体質や権威主義への反発を強めていた.大学における教授,助教授,助手,学生という古いタテ社会の権威が下部からゆらぎ始めていった.これら大学紛争の頂点をなしたのが,22億円のヤミ給与事件に端を発した日大紛争であり,医学部の登録医制度が発端となった東大紛争である。日大紛争は金儲け主義の大学に対する学生の抗議であり,東大闘争は学問の自由と独立に対する抗議であった.この東大・日大闘争が全国の学園闘争に波及していった.
東大紛争の直接の発端は,東大医学部学生がインターン制度へ反発したことである.このインターン制度は昭和21年にGHQから義務づけられたもので,医学部の学生は大学を卒業するとインターン(無給研修医)として病院の医局に入り1年間の実地研修を受けることになっていた.このインターンが終了して,初めて医師国家試験受験の資格を得ることができる制度であった.このインターン制度はアメリカの研修医制度の物まねであったが,日本では名前ばかりで,在日米軍病院を除けばカリキュラムはないに等しいものであった.インターン制度は病院の労働力不足を補うためのタダ働きであり,タダ働きを正当化するための名称といえた.そこで東大ではインターン生(青年医師連合)たちが自主研修カリキュラムを作り,自主カリキュラムに基づく研修協約を病院に認めさせようとしていたのである.
豊川行平医学部長や上田英雄医学部付属病院長は研修医たちが作製した「研修協約締結のための要望書」を受けとったものの,医学部当局はこれを徹底的に無視した.ちょうど国会ではインターン制度に代わる登録医制度が審議されており,大学側は学生の要請に応じる必要がないとして,学生の提案を無視する強い姿勢で臨んだのである.
昭和43年1月29日,東大医学部学生たちは大学当局が自分たちの提案を無視する態度に憤慨し,医学部学生自治会は無期限スト突入を決定した.学生たちは新しい登録医制度は実質的にインターン制と変わらないと考え,卒業試験のボイコット,インターン研修拒否などを掲げストに入った.この東大医学部の動きは他の大学にも波及し,春の医師国家試験ボイコットという非常事態へと進展していった.
大学当局と膠着状態に入った学生たちは,2月19日,病院内で上田英雄病院長と長春美健一・医局長を偶然見つけ話し合いを要求した.そして話し合いを拒否する上田英雄病院長と病室の前でもみ合いになった.患者のいる病室の前という場所であったため,上田英雄病院長は学生たちに内科医局で話し合うことを約束し場所を移すように提案した.この提案を学生たちは承諾して内科医局へ移り上田病院長を待った.しかしいつまで待っても上田病院長は現れなかった.上田病院長はすでに学外に逃亡していたのだった.怒った学生たちは院長の代わりに春美健一・医局長を朝まで軟禁し,研修協約締結の要望を無視したことに対する謝罪文に署名させた.この偶発的「春美事件」に対し医学部教授会は首謀者と学生17人に対し4人の退学を含む懲戒処分をおこなった.
ところが処分を受けた粒良邦彦君が九州の久留米大学医学部にいて事件現場にいなかったことが確認され,「春美事件」は大学当局の「事実誤認冤罪問題」へと発展していった.医学部講師である高橋晄正と原田憲一は九州まで行き,粒良邦彦のアリバイを調査し医学部教授会に報告した.しかし医学部教授会は誤認を認めず,高橋晄正講師らの行動を教授会に対する反逆行為とした.学生たちはこの「春美事件」の処分撤回と謝罪を求めたが,医学部教授会はそれを無視する態度をとった.そのため怒った学生たちは医学部の一部を占領し,安田講堂に座り込み,卒業式を阻止する構えをみせた.しかし大学側は卒業式を中止したため混乱は避けられた.
医学部のストライキには研修生,学生900人が参加した.学生たちは「春美事件」の処分撤回と医学部教授会との直接団交を迫ったが,大学は回答を示さず無視する態度を続けた.医学部ストライキからすでに5ヶ月が経過した.この医学部のストライキは医学部の各学年の代表者からなる医学部全学闘争委員会が闘争方針を立てていた.医学部全学闘争委員会は要求を無視する大学当局に対し安田講堂占拠という起死回生の手段を決定した.安田講堂は安田善治郎によって建てられた東大のシンボル的存在であった.1738人が入れる講堂があり,東大総長室があり,安田講堂は東大の本部をかねていた.6月15日,東京医科歯科大生らの応援も加わり80人の学生たちが安田講堂を占拠し立てこもった(第一次安田講堂占拠).
この時点では東大紛争は医学部だけに限局した闘争であった.しかしこの安田講堂占拠に対する大学当局の対応のまずさが東大全学部紛争へと進展していった.安田講堂が占拠された2日後の6月17日,東大総長・大河内一男は突然1200人の機動隊を大学構内に入れ,安田講堂から医学部学生の排除をはかった.学生たちは排除されたが,この機動隊導入が大きな失敗であった.学生にとって機動隊は,安保闘争,羽田闘争で自分たちの仲間を殺した宿敵に等しい存在だったからである.この機動隊を大学に入れたことに対し,学生たちの怒りは頂点に達した.また学生ばかりでなく,大学院生や若手教官からも大学構内に機動隊を入れた大学当局に対し批判の声が上がった.「大学は学問の自由と独立を守るために国家権力から独立していなければいけない」という考えから,機動隊の導入は学問の自由を奪うものと批判したのだった.
この機動隊の導入に反発して,医学部の問題は東大文学部など各学部にも次々に広がり,法・理・薬学部を除く7学部が無期限ストに突入することになった.6月28日,東大紛争を打開するため大河内総長と学生代表との会見が行われた.大河内総長は「機動隊導入はやむおえない処置であった」と述べ,学生側との話し合いはつかなかった.そして大河内総長がドクターストップにより退場し会見は決裂した.大学の助手たちは「真の大学自治を確立するため現在の自治理念.管理機構を根本から批判してゆく」と闘いの決意を示した.
7月2日,無党派の学生・大学院生たちが安田講堂を再び占拠することになる(第二次安田講堂占拠)。そして7月5日には東大全学共闘会議(東大全共闘,代表・山本義隆)が結成され,決起集会には3000人が結集した。全共闘は学生が全員参加する学生自治体とは異なり,闘う意思のある学生ならば誰でも参加できる組織だった.そして安田講堂は全共闘系学生の闘争拠点となった.集会では機動隊導入自己批判などを要求した7項目を大学側に突きつけ,また7月23日には東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成された。
東大総長・大河内一男は事態収拾のため「8・10告示」と題する文章をまとめ,夏休み中の全学生に郵送した.この医学部ストの解決を図ろうとした総長の8・10告示が逆に紛糾を大きくした.大学当局の非を認める言葉が8・10告示の文中になかったからである.8・10告示は学生だけでなく,大学教官からも非難されることになった.
8月28日,医学部の学生が医学部本館を封鎖,そのため研究や実験が停止した。さらに9月27日には東大医学部赤レンガ館を研究者たちが自主封鎖した。10月12日,それまで秩序を保っていた法学部が17時間の学生大会を経て無期限ストを決定,この法学部のストにより東大の全学部がストに突入することになった.
東大紛争が長引くにつれ,もうひとつの紛争も激しさを増していった.それは学生運動の主導権をめぐる東大全共闘と民青同の対立であった.学生運動は学生内部で東大全共闘(反代々木系),民青同(代々木系)の二つに大きくわかれていた.民青同(代々木系)とは代々木にある日本共産党の考えに基づく学生たちである.東大全共闘(反代々木系)は日本共産党の考えに反発し過激な行動で革命を目指そうとする新左翼グループであった.そして学生運動のグループは分裂をくりかえし,「革マル」「中核」「社学同(ブンド)」「反帝字評」などのセクトに分かれていった。各セクトは各セクトを示すヘルメットをかぶり対立していった.
9月に入ると東大構内は立看板が乱立し、へルメットをかぶった学生の姿が目立つようになった。そして東大全共闘(反代々木系),民青同(代々木系)は抜き差しならない激しい対立となって進んでいった。民青同系全学連は東大全共闘を政府・自民党に泳がされたニセ左翼暴力集団と呼び敵対していくことになる。そして各セクトは東大を征するセクトは全国を制覇するという考えから,全国から応援部隊を招きセクトの力をアピールした.
大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系が対立、また過激派各派の衝突や内ゲバが繰り返されていった.この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)を政府が法制化した.この法律は戦後民主主義が獲得していた大学の自治と学問の自由を大きく制限するものであった。この大学運営措置法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大などの大学封鎖は徐々に解除されていった。当時の全国大学総数は379校であるが,そのうち紛争校は165校,さらに封鎖・占拠された大学は140校であった。
11月1日,ついに大河内総長が責任をとり辞任することになった.東大総長が任期を全うせずに辞任したのは東大90年の歴史のなかで初めてのことであった.しかし総長辞任を惜しむ声はどこにもなかった.そして11月4日,加藤一郎が総長代行となり収拾にのりだすことになる。加藤教授が総長代行に就任した日,林健太郎文学部長らが文学部学生との団交でそのまま拘束され1週間にわたり監禁状態におかれる事件が発生した。
11月になると全共闘側の行動はエスカレートし民青同学生と激しく対立することになった。11月12日,東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突し,両派双方には他大学学生の支援も加わり,東大構内は騒然となった。さらに11月14日には,駒場第三・第六本館封鎖をめぐって再び全共闘と民青同学生が衝突した。
加藤一郎総長代行は全学集会での紛争収拾をめざし,予備折衝で民青同学生と合意しを得た.しかし反代々木系全共闘は「全学バリケード封鎖」の方針を打ち出し,安田講堂前で「全国総決起集会」を開くことになった。民青同(代々木系)は反代々木系全共闘の全学バリケード封鎖に反対する立場をとり対決を強めていった.
反代々木系全共闘は角材、青竹、鉄棒などを準備し,全国から学生2000人が東大構内に集結したが,民青同(代々木系)もその日に1万人近い学生を動員して封鎖阻止の構えをみせた。この集会は日本の戦後学生運動の「天王山」とされ,両派ともに主導権争いのため動員力を誇示しあった.11月22日,東大校内に新左翼系約2万人が集結,デモをおこない民青同系と小競り合いがはじまった.深夜まで集会や激しいデモがくりかえされ,6階建ての東大図書館は反代々木系学生に占拠封鎖された。しかし多数の一般学生が間に割り込み,非暴力を掲げ無抵抗の座り込みをおこなったため両派の対立による流血の事態は防ぐことができた。
12月29日,坂田文相は長期化した東大紛争を解決し,授業再開すべきであると発言した.そして翌年の入試はできないことを宣言し,東大の廃校すら暗示する発言をした.この動きを前に12月25日には法学部が,12月26日には経済学部がストの解除決議をおこなった.紛争を解決させようとする勢力が勢いを増していった.
いっぽう入試中止が決まると,全共闘では決戦気運が盛り上がってきた。卒業と就職期を控え,大学当局,全共闘側は何らかの解決が必要となった.全共闘はたんに大学改革を叫ぶだけでなく,東大の存在を根本的に否定して解体する運動の方向に進んでいった.そして帝国主義大学という言葉を使うようになり,大学解体をスローガンに大学当局との交渉も拒否するようになった.
昭和44年1月,加藤総長代行は7学部による話し合いの場を設定,討論への参加を拒否している全共闘を批判した.1月9日,全共闘は3000人の部隊を集結させ,教育学部,経済学部を襲撃,このゲバルトにより100人が負傷することになる.この激しい衝突に対し機動隊の導入が要請された.
昭和44年1月10日、事実上の大衆団交といえる「7学部集会」が東京・青山の秩父宮ラグビー場で開かれた.5000人の機動隊に守られ,紛争を集結させようとする秩序派学生と大学当局との集会であった.この集会には学生7500人,教職員 1500人が参加し,加藤一郎総長代行ら大学側代表団と7学部学生代表団の間で学生側の7項目要求などを中心に討論がなされた.そして大学側は学生側の要求に一部修正を加えた10項目の確認書に署名し,両者はスト解除についての合意に達した.
残された問題は全共闘が立てこもる安田講堂だけとなった.大学当局と学生代表団が確認書を取り交わした以上,紛争解決のため機動隊導入が図られることは必須であった.追いつめられた全共闘は安田講堂で決断を迫られていた.そして大学解体を叫ぶ全共闘は決戦の時を迎え全国から支援部隊を安田講堂に集結させた.学生たちは機動隊の実力排除を間近とみて安田講堂に入り,石や鉄パイプを安田講堂に運び,行動の要所は生コンで固めた.
安田講堂は大正12年に,安田財閥の安田善次郎が巨費115万円を投じて寄付したもので,東大のシンボル的存在であった。鉄筋四階建ての西欧風の重厚な建物は大正期の代表する建築物のひとつとされていた.安田講堂は東大の入学式,卒業式などに使われ,半世紀にわたり日本各界をリードする人材が巣立っていった.それが反権力を唱えるヘルメットの若者たちの要塞「安田砦」となったのである.
昭和44年1月18日早朝,東京大学は安田講堂の封鎖解除をめざし警視庁に機動隊の出動を要請した.そしてこの要請を受けた警視庁は,全学共闘会議派の学生を排除するため同日朝7時に機動隊8500人を出動させた.東大紛争の決戦の時であった.
警視庁は学生との対決を前に,多重無線指揮車,放水車,トレイ車など346台の車を東大前に集結させ,催涙ガス銃500挺、装薬包5914発、催涙ガス弾10528発(パウダー弾8732発、スモーク弾1796発)を用意した。気温は零度,晴れてはいたが凍てつくような寒い朝であった.マスコミのヘリコプターが上空を何台も飛びまわった。
警視総監・秦野章が動員した機動隊は安田講堂の決戦を前に,安田講堂を孤立させるために,バリケードの手薄な建物に立てこもる学生の排除を始めた.まず東大紛争の発火点である医学部中央館に機動隊が入り,投石で抵抗する学生を次々と逮捕した.次に工学部,法学部,工学部列品館での攻防がはじまった.学生たちは構内ベランダから警備車にはガソリンをかけ,火のついた紙屑やボロ布が頭上から降ってきた.中核派が主力だった法学部研究室では170人近くが逮捕された。屋上への出口に近かったマイクロフィルム室には国際的に貴重な記録資料が多数あったがすべて破壊され,3階326号室の加藤総長代行の研究室は破壊され,他の教授の研究室は破壊とともに落書だらけであった.
工学部列品館での攻防が最も激しく,機動隊は法文1号館屋上から水平撃ちでガス弾を撃ちこみ,ヘリコプターからはガス弾が次々に投下された.学生は投石と火炎瓶で抵抗したが,激しいガス催涙弾で列品館は炎と煙に包まれた。列品館は1時間の攻防で学生は棒の先に白いハンカチをつけ陥落した.
本格的な安田講堂攻撃は午後1時すぎから開始された.機動隊は放水を続け,おびただしい催涙ガスが次々に撃ち込まれた.ヘリコプターからの催涙液が籠城者の頭上から放水された.籠城している学生の抵抗はすざましかった.機動隊の頭上からスチールの机や椅子,コンクリートの塊,火炎びんが降ってきた。投石が雨のように降ってきて,正面玄関の攻防は機動隊にとって命がけの闘いとなった.火炎びんが投下され,それを放水で消し,火責め水責めのくりかえしとなった.テレビはこの攻防を中継し,各局の視聴率を合わせると95%という驚異的視聴率となった.
機動隊は安田講堂1階北側の用務員室の窓を叩き割って突破口を確保したが,ロッカーが三重にかさなり,両脇をコンクリートで固めたバリケードは強固だった.2階から上へ行くには機動隊の生命を脅かす危険性が高かった.1日目の攻防はここで終了をむかえることになる.
2日目の攻防は,翌19日朝6時半に再開となった。学生たちは火炎ビンと投石で抵抗したが,機動隊は頑丈な木枠の上に丸い屋根をつけた投石防止トンネルを造り,機動隊が次々と安田講堂へ突入した.機動隊が少しずつバリケードを剥がしながら,12時半に2階の講堂が制圧された.講堂のピアノはバリケードに使われて無残にたたき壊されていた。ヘルメット姿の学生たちは大講堂の椅子席の奥の方へ逃げたが,抵抗せずに素直に並んだ.
午後3時には3階大講堂が制圧され,あとは時計台と屋上にたてこもる連中だけとなった.大時計の針が午後5時45分を指した時,機動隊は安田講堂の屋上に達し,安田講堂は完全に落城した.攻防が開始されて34時間45分,安田講堂の時計台で振られていた赤旗がとまった.
この紛争で逮捕された学生は18日の列品館、法研などで256人、19日の安田講堂で377人,いずれも公務執行妨害、凶器準備集合、放火、不退去などの罪名であった。しかし安田講堂で逮捕された377人のうち東大生はわずか20人だけで,あとは各地から支援にかけつけた外人部隊だった。東大全共闘のほとんどは「七○年闘争への勢力温存」を理由に攻防直前に安田講堂から脱出していたのである.このことから東大生はいざとなると逃げ出すと後々まで批判されることになった.両日の衝突で占拠学生のうち重傷者が76人であったが,その多くはガス弾の至近距離からの水平射撃によるものであった.
安田講堂が陥落する直前に次のような放送が流れた.「われわれの戦いは勝利だった.全国の学生・市民・労働者のみなさん,われわれの戦いは,決して終わったのではなく,われわれに代わって戦う同志諸君が,再び解放講堂から時計台放送を行う日まで,この放送を中止します」これは東大医学部全共闘リーダーであった今井澄の声であった.
今井澄は安田籠城組で逮捕された数少ない東大生であった.今井澄はのちに長野県諏訪中央病院に勤務,勤務中に刑が確定したため刑務所に入ることになった.今井澄は大勢の病院職員,市長,市議員に見送られながら刑務所に入った.今井澄は外科医であるが獄中で内科学も学んだ.そして出所後,諏訪中央病院の院長になり農村・老人医療問題と取り組んだ.平成4年の長野地方区から参院選に立候補して当選,民主党国会議員として活躍した.しかし平成14年に胃癌のため亡くなっている.今井澄ほど信念を通し,信念に殉じ,周囲から愛された医師はいないであろう.ご冥福を祈りたい.
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無給医局員診療拒否闘争(昭和41年)
戦後の日本の医師育成制度は,医学生は医学部を卒業すると大学病院などで1年間の実地研修が義務づけられ,その研修後に初めて医師国家試験の受験資格が得られるというインターン制度をとっていた.この仮免許研修医制度である1年間のインターンを終え医師国家試験に合格すれば大学の医局に入局することになるが,医局に入局しても給料はもらえずに研究と診療にあたることになっていた.このインターン制度,無給医制度は医学教育という名を借りた医療労働の搾取であった.無給医たちは生活の保障はなく,この矛盾に満ちた医療制度に無給医たちが立ち上がったのである.
昭和38年9月,名古屋大学医学部の無給医が全国の無給医に呼びかけ,大学医局の無給医の全国的組織ができあがった.そして昭和39年4月,名古屋で全国無給医代表者会議が開催され15の大学の代表50人が参加することになった.
無給医局員の待遇改善を求めて,昭和40年12月,東京大学,名古屋大学,群馬大学の各付属病院で無給医局員による「1日診療拒否」がおこなわれた.この闘争には3大学340人が参加し,経済的裏付けのない無給医局員の実状を訴えた.この診療拒否闘争は国民に理解を求めるため「診療専念日闘争」と名づけられ,無給医の実情を社会にアピールするための行動であった.しかし1日だけの診療拒否では何ら問題の解決には至らず,翌年には全国レベルでの闘争に展開することになった.
昭和41年6月24日,全国医学部無給医局員対策委員会の呼びかけにより,無給医による全国規模の「1日診療拒否」がおこなわれた.この日の統一行動に参加した大学は16の国公立大学で,無給医局員は診察をせず,待合室や玄関でビラを配り,無給医局員のただ働きの実情を訴えた.彼らの行動により無給医局員の問題は世間の注目を集めることになった.
名古屋大学では540人の医師が「適正医療」を名目でストに入った.適正医療とは,病院の診療には責任のない無給医にさせるのではなく,有給医のみが診療に当たるべきであることを意味していた.名古屋大学の無給医は名古屋駅前で3万枚のビラをくばった.
このように16の国公立大学で診療拒否が行われたが,各大学病院の足並みがそろっていたわけではない.東京大学では精神神経科,耳鼻科の無給医だけがストに加わった.医学部の医局は無給医の生殺与奪を持つ教授をトップとしたピラミット構造であり,医局において教授は絶対的権力を持っていた.そのため診療拒否闘争はボスである教授に逆らうことを意味しており,自分たちの現状を変えようとする闘争は,自分たちの医師としての将来をかけた闘いといえた.
大学医学部は教授をトップとした医局により各診療科が構成されている.医学部を卒業した若い医師は各医局に入り,教授の指導のもとで患者の診察や研究をおこなった.医局員の数が100人を越える医局もあり,このような大所帯の医局では,大学から給料を払える有給医師には限りがあった.
医学部は文部省の管轄である.文部省が決めた定員は各講座に所属教員が5人(教授1,助教授1,助手3),附属病院所属教員は4人(講師1,助手3)と規定されていた.大学の医師は教育や研究に専念し,病院の医師は診療に専念することが建前となっていた.このように文部省が大学の職員として給料を出している有給の医師以外が無給医局員である.この医局のピラミット構造の底辺を支え,病院の診療を支えるのが無給医局員であった.そしてこの無給医局員が今回の闘争の主役であった.
無給医局員は給料をもらえず,逆に研究費を徴収する医局も少なくなかった.無給医局員の多くはアルバイトをしながら博士論文のために研究に打ち込んでいた.しかも試薬,実験動物,試験管などの研究費用はすべて自前であることが多かった.無給医局員は大学の職員名簿に名前は記載されず,保険にも入れずアルバイトで生活費を稼ぎながら研究を行っていた.
医学博士の学位をもらうまでの数年間はこの状態が続くことになるが,もし大学に残って教授の地位を狙おうとするならば,この状態は更に長く続くことになる。よほどの金持ちの息子でもないかぎり,過酷なアルバイトをしなければ生活は出来なかった。
無給医局員は労災や病気の保障はなく,もしものことがおきれば,無収入となって妻子を路頭に迷わせてしまう不安定な立場にあった.文部省の調査によると,昭和41年の国立大学病院の無給医局員は8238人,教授から助手までの有給医局員は4147人であった.全ての医科大学を合計すると有給医局員は1万3000人に達していた.つまり大学病院で働いている約7割の医師が無給医で構成されていたのである.さらに大学病院には2400人の無給の大学院生が診療していたので,大学院生を加えると無給医局員はゆうに8割をこえていた.医局の構造はまさに異常な状態であったといえる.このように無給医局員が異常に多かったのは文部省が予算を出さなかったことであったことが原因であるが,これでは腰を落ち着かせて診療,研究などできるはずはなかった.
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千葉大腸チフス菌事件(昭和41年)
昭和41年3月1日,静岡県三島市にある社会保険三島病院で職員や患者のあいだで腸チフスが流行していることが地元の静岡新聞によって報道された.社会保険三島病院ではすでに腸チフスにより副院長が死亡し,腸チフスと診断された患者総数は2ヵ月で25人に達していた.3月1日,厚生省は三島病院の一時閉鎖を命じ,病院内を消毒した.3月9日,朝日新聞と読売新聞がこの事件を全国版で報道すると,すぐに世間の注目を浴びるようになった.また3月10日には,社会保険病院の管轄である厚生省が腸チフス集団発生について管理責任を国会で追求されることになった.
この腸チフスの集団発生は,静岡県の社会保険三島病院だけではなかった.昭和39年から昭和41年にかけて千葉大医学部第一内科,川崎製鉄千葉工場,静岡県御殿場付近でも腸チフスが集団発生しており,患者総数は東京都をはさみ100人以上に達していた.この腸チフス事件が報道されると怪奇事件として国民の関心をよんだ.謎が謎を生み,マスコミが先頭に立ち国民的な謎解き競争が始まった.「腸チフス,三島から千葉を往復」,このような見出しでマスコミは連日のように腸チフス事件を大々的に取り上げ,マスコミの報道は加熱していった.
この集団腸チフス事件は通常の腸チフスの集団感染とは異なる怪奇性を帯びていた.腸チフス感染が発生した場合には,その感染源や伝染経路を解明し,感染の広がりを防止することが重要である.腸チフスは腸チフス菌に汚染された食品が感染源になって経口感染する.しかし三島病院については,その感染経路に不可解な点が多くみられていた.腸チフス患者は医師を含めた病院関係者に多かったが,感染者と感染者の間に感染の接点が見られなかったる.また三島病院に通院している患者にも腸チフスは発生したが,どのように感染したのかその感染経路が判明しなかった.
三島病院では内科を中心に職員25人が入院したが,風邪という偽りの病名で入院させており,腸チフスの集団感染を三島保健所に届けていないことが判明した.腸チフスは法定伝染病であり保健所に届けることが法律で決まっている.この内部隠蔽を図った病院の姿勢も次なる問題となり追求されることになった.さらに三島病院では腸チフスだけでなく,赤痢患者が何人もいることが分かった.
腸チフスは腸という接頭語から赤痢やコレラのように下痢を起こす病気のイメージがあるが,腸チフスは胃腸症状はむしろ少なく,約1週間の潜伏期間の後に,全身倦怠感,食欲不振,頭痛などが初発症状であり,次に発熱をともなう.発熱から1週間後に皮膚にバラ色の小さな斑点ができる.このバラ色斑点(バラ疹)によって腸チフスの診断が下されることが多い.
厚生省公衆衛生局防疫課による調査が始まった.そして綿密な疫学調査の結果,腸チフス患者が発症した4カ所のすべてに関係している人物が浮かび上がったのである.それは千葉大第一内科に所属する医師で,もしこの医師が故意に腸チフス菌をバラまいたとすれとば,千葉と静岡にまたがる集団発生の謎がきれいに説明できた.しかしこの医師が感染に関わっていたとしても,その医師が保菌者だった可能性,着衣からの感染の可能性もあったが,それらの可能性はすべて切り捨てられた.疑惑を持たれた医師は自宅待機を命じられ,次に保菌者という名目で教授の命令により千葉市立病院に強制隔離入院となった.
厚生省はその医師と面談,同時に千葉県警も刑事事件として捜査に乗りだした.そして昭和41年4月2日には朝日新聞が「殺人の疑いにて鈴木逮捕へ」と実名,顔写真入りで報道した.4月7日,千葉県警は腸チフス菌をばらまいたとして,千葉大学付属病院第一内科無給医局員の鈴木充(35)を傷害罪容疑で逮捕した.静岡県御殿場の腸チフスが集団発生は鈴木充の実家の本家で6人,実家の隣家で5人,親戚の家で8人,小田原でも1人発症しているが,それは鈴木充の弟の家であった.医師が細菌をばらまくという犯罪史上類のない事件に国民は大きな衝撃を受けた.マスコミは鈴木医師のいくところに腸チフス菌ありと報道し,鈴木充の犯行説を国民に印象づけた.
逮捕された鈴木充は千葉県警の取り調べに対し,最初は犯行を否定していた.しかし逮捕7日目に一連の容疑について「自分が菌をばらまいた」と自白した.試験管で腸チフス菌を増やし,カステラにかけ,注射器でバナナに病原菌を注入し,さらにジュースなどの飲食物に腸チフス菌を故意に混入させ,同僚や患者たちに腸チフス菌をばらまいたと自白したのである.犯行動機は明らかではないが,鈴木充は,「研究に熱中し,人体実験を無意識にやってしまった」,「医学上の新学説を発見するため」などと自白したとされている.無給医局員の不安定な立場に対する不満,愉快犯としての要素,日本医科大出身である鈴木充は千葉大医局の中では疎外された存在であった.鈴木充が医局で抱いていたこのような多くの不満がこの事件の動機とされている.
また鈴木充は千葉大カステラ事件でも起訴されている.千葉大カステラ事件とは東京オリンピックのあった昭和39年11月,千葉大第一内科の研究室に置いてあったカステラを食べた室長,技術吏員,看護婦ら4人が激しい下痢と発熱をきたし,急性大腸炎の診断で大学病院に入院した事件であった.原因としてカステラを疑った加藤直幸研究員が床に落ちていたカステラ片を培養し赤痢菌を見いだしたのである.この赤痢菌による千葉大カステラ事件も鈴木充によるものとされた.
鈴木充はいったん犯行を自供したが,その後,自供を翻し無罪を主張するようになる.この事件の裁判では,腸チフスの集団発生が鈴木充による人為的な犯行なのか,あるいは自然発症による流行なのかが争点となり,16年という長期間にわたり裁判で争われることになる.容疑は13回にわたって腸チフス菌や赤痢菌を使用して合計64人に感染させたことであった.
昭和47年7月8日,千葉地方裁判所における第一審の判決では,鈴木充は証拠不十分で無罪となった.無罪になった理由は,犯行の動機が曖昧なこと,腸チフスの摂取と発症までの時間にズレがあることであった.鑑定の結果,赤痢菌や腸チフス菌はカステラなどの飲食物に注入しても増殖しにくいことが判明したのである.つまり鈴木充の自供した方法ではチフスを発症させることは不可能としたのである.
鈴木充の犯行を否定する弁護側の主張が認められることになった.この無罪判決は米国の刑務所でおこなった人体実験という科学鑑定をよりどころにしており,検察側の主張する菌の注入方法では腸チフスは発症しないとして全面無罪となった.しかし裁判官は「一抹の疑惑は残る」と異例の発言を付け加えた.
この第1審の無罪判決に対し検察はすぐに控訴し,その結果,昭和51年4月30日の東京高等裁判所では懲役6年の逆転有罪判決が下された.逆転有罪の決め手になったのは,千葉大病院と三島病院から検出された腸腸チフス菌がいずれもD2型菌で,同じ性質を持った腸チフス菌だったことである.千葉県と静岡県の集団発生がもし別個に発生したものであれば,菌の型や性質が同一である可能性はないと考えられた.この菌の分析により,鈴木充の犯行の可能性が高いと判断されたのである.また鈴木充の自白には一貫性があり,十分に信用性できるとされた.犯行動機は性格異常に加え,医局に対する潜在的不満があったとした.
鈴木充は最高裁判所に異議を申し立てたが,上告は棄却され事件から16年後に懲役6年の有罪が確定した.朝日新聞は「異常性格の犯行」という見出しでこれを報じた.鈴木充は無実を主張ながら6年の刑期を刑務所で過ごすことになった.有罪が確定したために,昭和58年9月28日,医道審議会は鈴木充の医師免許を取り消した.
鈴木充がはたしてこの集団腸チフス事件の犯人なのか,この事件を取材し冤罪であると主張する畑山博氏がノンフィクション「罠」を書き,冤罪の根拠を次のように述べている.当時,腸チフスの自然発生はかなりの頻度で発生しており,病院での腸チフス集団発生はその管理体制としての病院の責任問題に結びつくものであった.また病院を管理する厚生省の責任も重大であった.そのため病院側,厚生省はこの管理体制の不手際を隠すためにこの事件の犯人を鈴木充にでっち上げたとしている.この事件で鈴木充は有罪の判決を受けたが,真相は闇に包まれたままである.一見科学的とみられるこの裁判がはたして真実を裁いているかどうかは永久に不明のままである.
この千葉大腸チフス菌事件は,読売新聞がおこなった昭和41年の10大ニュースの第3位であった.いかに国民の関心をよんだスキャンダラスな事件であったかが想像できる.
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