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 昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。

 書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。

 このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。

 刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。

 駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。

 犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。

 少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。

 ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。

 輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。

 この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。

 ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。

 日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。

 ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。

 最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。

 精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。

 親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。

 ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。

 ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。

 当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。

 ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。

 ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。

 昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。

 ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。

 昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。

 ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。

 大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。

 日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。

 ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。

 その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった

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 小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。

 日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。

 小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。

 アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。

 小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.1〜0.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。

 小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。

 昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。

 ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。

 日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。

 このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。

 しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。

 子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。

 昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。

 ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。

 ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。

 昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。

 昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。

 昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。

 しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。

 このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。

 同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。

 このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。

 小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。

 世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。

 小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。

 

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2010.02.13 17:09 |  研究  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

前癌状態

前癌状態(昭和39年)

 昭和39年9月25日,東京・築地の国立がんセンターに「慢性咽頭炎」で入院していた池田勇人首相の病名が国立がんセンター院長・久留勝によって発表された.池田首相の本当の病名は下咽頭癌であったが,院長がおこなった記者会見では「乳頭腫という腫瘍で,癌ではない」と発表された.記者団の追及に,「病理学的には癌ではないが,前癌症状で,放っておくと癌に発展する可能性が高い」との追加説明がなされた.この前癌状態という言葉は,それまで誰も聞き慣れない言葉であった.それもそのはずである.前癌状態という言葉は,当時池田首相の側近だった鈴木善幸の造語だった.鈴木善幸は,癌というわけにはいかないし,何も発表しないわけにもいかない,それで医師団と相談し,自分から「前癌状態」ではどうかと頼んだことを後に語っている.

 その当時は癌の告知は行わないのが普通であった.しかしテレビでこの記者会見が報道され,病室のテレビで院長の会見を見ていた池田首相にとっては告知以上の結果となった.池田勇人首相はがんセンターで放射線療法を受け,東京オリンピックの閉幕を見届け昭和391025日に辞意を表明.翌昭和40年7月29日,東大病院に再入院となった.首相のガンは食道,肺に転移しており,8月4日,切替教授らによって喉頭がんの手術が行われたが,突然,胃から大出血をおこし,8月13日午前零時25分死去,65歳であった.

 池田勇人首相は広島県の造り酒屋の生まれで,豪放にて率直な性格であった.吉田学校の優等生であり,所得倍増政策を唱え日本に高度成長をもたらした功労者である.昭和253月の通産大臣のときに「中小企業の1つや2つの倒産もやむを得ない」と発言して問題となった.昭和24216日,1年生代議士でありながら,第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢され,第4次吉田内閣では通産大臣をつとめた.その間,「貧乏人は麦を食え」,「正常ならざることで倒産し、自殺があっても気の毒だがやむを得ない」と発言し,問題を引き起こした.この発言はきわめて当たり前のことであったが,この発言で辞意に追い込まれた.昭和357月に首相になると「社会保障の充実,1000億円以上の減税,経済繁栄政策,この3つを必ず実行します.わたくしはウソを申しません」とテレビCMで演説.「わたくしはウソを申しません」の言葉が流行語となった.さらに「経済のことは,この池田にお任せ下さい」などの名言がある.池田首相特有のダミ声は,国民に親しみを与えていた.

 池田首相が誕生する前年までは安保闘争で,国民は疲れ切っていた.そのような時,「日本の国民所得はアメリカの8分の1,ドイツの5分の1,この国民所得を10年で倍にします」.この所得倍増計画は分かりやすく,ウソかも知れないと思いながらも国民に夢を与えてくれた.そして実際には5年間で国民所得を倍増させたのである.池田首相は官僚出身であったが国民に親しまれた庶民的政治家として人気があった.そして日本が欧米先進国と並ぶ経済大国となる基盤をつくったといえる.

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2010.02.13 17:09 |  その他(一般)  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

宝組勝島倉庫で火災

宝組勝島倉庫で火災(昭和39年)

 昭和39年7月14日午後9時55分ごろ,東京品川区勝島にある宝組勝島倉庫で塗料の原料となる硝化綿が爆発し火災が発生した.宝組勝島倉庫にはドラム缶入りの硝化綿が置いてあったが,空地にもドラム缶入りの硝化綿が野積みされていた.最初に爆発したのが倉庫内の硝化綿だったのか,空地に野積みにされていた硝化綿なのかは不明であるが,1回目の爆発からわずかな時間をおいて2回,3回と爆発が連続し,巨大な火柱が100メートル上空をこがした.出火の原因は自然発火かタバコの火によるものと考えられたが,最終的には不明であった.

 宝組勝島倉庫は火災のおきる5日前,大井消防署が査察をおこない,野積みにされている無許可の硝化綿(2万リットル)を発見,安全な倉庫に移すように指導していた.しかし宝組勝島倉庫は硝化綿を安全な場所に移さず,さらに警告を無視して大量の硝化綿を無許可で入手し,爆発時には20万リットルの硝化綿が野積みされていた.さらに隣接する倉庫にはアセトン,アルコール,シンナーなどが貯蔵されており,それらが次々と引火していった.

 東京消防庁はもっとも規模の大きい第4出場を指令,化学消防車20台,ポンプ車713台,救急車18台,消防艇7隻を出動させ,戦後最大の消防体制をとった.

 現場は火の海となったが,ホースを握りしめた消防隊の必死の消火活動で,灼熱地獄の現場はいったん下火にむかった.しかし第1次爆発から1時間後の午後1055分ころ,最初の爆発現場から30メートル離れた倉庫に貯蔵されていたメチル・エチル・ケトンパーオキサイド(商品名パーメックN)が2回目の大爆発をおこした.鉄筋モルタルの屋根から火柱が噴き上がり,原子爆弾を思わせるような不気味なキノコ雲が東京の空をおおった.爆風で建物が崩れ,火のついた木片,鉄片,コンクリートが消防隊員の頭上から降り注いだ.

 この2回目の爆発火災によって,消防活動に従事していた消防職員18人,消防団員1人が一瞬にして生命を奪われた.また消防職員,団員など158人が重軽傷を負うというわが国の消防史上最大の大惨事となった.負傷者は京浜中央病院,安田病院,外山外科に運ばれ,病院は負傷者で戦場のようになった.このように多数の消防隊員が犠牲になったのは,関東大震災で22人,昭和20310日の東京空襲の119人を除けば,前例のない惨事であった.

 本火災の直接の原因は、危険物の貯蔵違反によるものであった.東京消防庁は爆発火災後すぐに関係者を東京地方検察庁に告発した.結審に至るまで12年の歳月を経て,昭和511017日、最高裁判所の上告棄却の決定により会社には5万円の罰金が、また関係者に対しては執行猶予付の刑が科せられた.消防職員18人が犠牲になった事故にしては軽度の罪であった.「危険物安全の日」はそれまで6月20日であったが,宝組勝島倉庫爆発火災の発生から7月14日に改められた.

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2010.02.13 17:08 |  研究  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

吉田富三

吉田富三(昭和39年)

 昭和394月,国際的な癌の権威者である吉田富三(東大名誉教授)が日本医師会長に立候補した.吉田富三といえば医師ならば誰でも知っている世界的な病理学者である.昭和11年,世界で初めて化学物質で人工的にネズミの内臓癌を作ることに成功,その後も移植可能な吉田肉腫を発見するという業績を残している.さらに吉田富三は癌の本質を明らかにして日本初の制癌剤を開発している.さらに文化勲章,日本癌学会会長という輝かしい業績の持ち主である.

 日本医師会長の立候補は武見太郎と吉田富三の2人で一騎打ちの会長選挙となった.しかし選挙の結果は武見太郎157票,吉田富三21票という圧倒的大差で武見太郎が日本医師会長に再選されることになった.

 選挙戦では武見太郎が勝つだろうと予想されていたが,吉田富三がこれほどの大差で負けるとは誰も予想していなかった.吉田富三は落選を覚悟しながら,なぜ会長選に立候補したのだろうか.それは昭和369月に日本医師会の一斉スト宣言,日赤を中心とした病院ストなどがあり,医療界そのものが大きく揺れ動いていたからである.吉田富三は実利主義の医学界に医師の本来のあるべき姿や理想を示したかったからである.

 吉田富三は出馬前の厚生大臣の医療懇談会で次のような発言をしている.

 棚を吊ることを命じられた大工が旦那の前に出て「旦那のお指図書きには,釘は5本まで許すと書いているが,7本使うことを許してください」といった。旦那は「何故7本必要か。その理由を申してみよ」という。大工はその理由を説明するが,旦那は,「いや釘は5本に決まっている」といい切ってしまう。吉田富三はこの大工の姿が今の医師の姿でではないかとのべている.つまり現在の医師は行政の奴隷になり下がっていると言いたかったのである.

 また全体主義の国ならともかく,自由主義の国で医療費がタダというのは間違っている.さらに医療問題の枝葉ばかりを議論していれば,心や血の通らない医療になってしまうとも発言している.吉田富三は医療の本質に迫る議論を公の場で行い,医療そのものを抜本的に改めたかったのである.この発言をきっかけにガン学者から医療界に足を踏み入れたといえる.

 この吉田富三のこの考えは自分たちの考えを代弁してくれたとして,全国の医師会員たちに熱狂的に受け入れられた.病理学者で臨床の場を知らない吉田富三に開業医の実質的賛同は得られなかったのである.武見太郎と吉田富三の医療に対する考えは本質的には似たものである.吉田富三は医師の立場を官僚による統制医療から,古き時代の自由な医療に戻したかったが,武見太郎は官僚を利用しながら,医療をよい方向に向けることを考えていた.そしてこの医師会長の選挙以降,武見太郎は長期会長の座を確実にした.

 明治36年に生まれた吉田富三は北里柴三郎,野口英夫に匹敵するほどの国際的医学者であった.昭和48年に70歳で死去,故郷の福島県石川郡浅川町に吉田富三記念館が建てられている.

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2010.02.13 17:07 |  医療事故  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

水虫レントゲン訴訟

水虫レントゲン訴訟(昭和39年)

 当時京大法学部の学生であった茨城県土浦市の会社員・長谷川一郎さん(36)は,昭和24年春ごろから難治性の水虫に悩まされていた.そのため昭和254月,東京第1病院の皮膚科を受診,レントゲン照射による水虫の治療を受けることになった.レントゲン照射は1週間から10日おきで,1100から120γのレントゲンの照射を受けた.そして中止するまで23ヶ月にわたり,総量5040γのレントゲン照射を受けていた.昭和274月,レントゲン照射部位に黒色の斑点が出現してきた.しかし東京第1病院の医師は治療を続行したため,不安になった長谷川さんは東大附属病院を受診,教授の診察により黒色の斑点がレントゲンによる放射線障害と診断された.その後,レントゲン照射は中止され,温泉療法などの治療が試みられた.しかし昭和31年ごろから照射した皮膚の部位に潰瘍が生じ,昭和335月,東大付属病院で潰瘍部位が皮膚ガンと診断された.そのため右大腿部切断の手術を受けることになった.さらに同年11月には左の皮膚にも癌が見つかり,大腿部からの切断を余儀なくされた.

 長谷川さんはレントゲン照射を続けた東京第1病院の医師の過失であると裁判で訴えた.東京第1病院は国立病院なので,国を相手に損害賠償提訴をおこしたのである.この裁判ではレントゲンと皮膚癌との因果関係が争点となった.当時の教科書的な知見としては癌の発生を伴わない線量は600から1000γとされていた.長谷川さんに照射された量はこの安全値をはるかにこえる線量であった.昭和39529日,東京地裁は長谷川さんの言い分を認める判決を下し,第二審でも同様の判決が下された.東京第1病院はミスを認め460万円の慰謝料を支払うことで合意した.

 水虫の治療としてのレントゲン照射は,現在では想像もつかない治療法であるが,当時は水虫の治療として一般に行われていた.現在では水虫のクスリはありふれているが,当時は水虫のクスリを発見したらノーベル賞といわれていた.今回の裁判では,治療としてのレントゲン療法の是非は争点とはならず,必要以上のレントゲン量を照射したことが医師の注意義務違反として訴えられたのである.

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2010.02.13 17:06 |  医療事故  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 4

千葉大ニセ死亡診断書事件

千葉大ニセ死亡診断書事件(昭和39年)

 千葉大医学部付属病院の死亡診断書の虚偽作成事件を捜査していた警視庁捜査二課は,昭和39224日,千葉大医学部第二外科・中山恒明教授を虚偽私文書作成違反容疑で警視庁に任意出頭を求め事情聴取をおこなった.中山恒明教授は付属病院で死亡した中国人の死亡診断書の死亡時間を18時間遅らせて記入した罪に問われたのだった.

 この事件は,千葉大医学部付属病院に入院していた東京都杉並区の中国人・林葆郷(45)さんが同病院で食道ガンのため死亡.林さんと内縁関係にあった米子さんが千葉市役所に火葬許可書の申請書を提出したが,火葬許可書と死亡診断書に記載された死亡時間が食い違っていたのだった.米子さんが申請した時にはまだ林さんが生きているという奇妙なことになっていた.

 米子さんは林さんが死亡した日の午後に,林さんとの婚姻届と子供の認知届けを杉並区役所に提出していた.つまり米子さんは林さんが死亡してから,死亡診断書に記載された18時間の間に正式な妻となったのだった.警視庁は林さんの5億円の遺産争いに関係するものとして捜査を始めた.

 死亡診断書を書いた柳沢医師は虚偽の経過をまったく知らず,中山恒明教授が家族から頼まれて当直の医師に書かせたものと判明した.中山恒明教授は取り調べに対し「死亡診断書を虚偽作成したのはすべて自分の責任である」と事実を認めた.また「家族の事情を考慮した善意によるもの」と説明した.米子さんが後日,中山恒明教授に50万円を渡していたことが明らかになったが,これについては教授個人にではなくガン研究のための寄付金と解釈され,贈収賄は成立しないことで一件落着となった.

 中山恒明教授は食道ガン,胃ガンの名医として世界的に知られており,また日本で初めて肝臓移植をおこなったことでも知られている.食道外科の世界的権威者で,国際外科学会会長でもあった.昭和40年,中山恒明は東京女子医大に赴任し消化器病センターを設立している.なお中山恒明先生は入院生活を送っているが健在である.

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2010.02.13 17:06 |  映画 / 音楽 / 読書  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

愛と死を見つめて

愛と死を見つめて(昭和39年)

 昭和39年は東京オリンピックの年である.この昭和39年に出版界を席巻したのは東京オリンピックものではなく,1冊の純愛本「愛と死を見つめて」であった.この純愛本は中学生以上の若者の心をとらえ年末までに132万部を売り上げる記録的ベストセラーになった.オリンピック同様の感動を人々にもたらしたこの本は実話に基づいて書かれたもので,難病と闘う同志社大の女学生と同じ病院で知り合った青年との書簡集をもとにしていた.

 軟骨肉腫という難病におかされ入院を余儀なくされた大島みち子(ミコ)と,恋人の河野実(マコ)と交わした往復書簡は3年の間に400通をこえていた.手紙には死を意識しながらも精一杯生きようとするミコの気持ち,マコとの一体感の中での苦しみと優しさが伝わってきた.死を前にしながらもひたむきに生きようとする純粋な姿に読者は涙を流した.そして度重なる手術によって顔が変形しながら,死を意識しながらも精一杯の思いが込められた手紙は真摯で心温まるものであった.

 河野実が大島みち子との400通余りの手紙を大和書房に持ち込んで出版されたのである.難病の彼女を励まし,難病に対する医学の無力さ,両親の傍観への不満などから,河野実が手紙を出版社に持ち込んだのであった.この本は当時全盛を誇った週刊誌「女性自身」が取り上げ話題に火がついた.テレビの東芝劇場では山本学,大空真弓が主演し1年に4回の再放送となった.

 このベストセラーをうけ,当時の青春スター,吉永小百合と浜田光夫の主演で日活から映画化,映画は大ヒットとなった.さらに映画の主題歌を青山和子が歌い,第6回レコード大賞を受賞している.「マコ甘えてばかりでごめんね,ミコはとっても幸せなの・・・」ではじまる愛と哀しみの歌であった.

 愛と死を見つめては,いわゆる「難病の若い女性をめぐる恋物語」という設定のはしりであった.

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2010.02.13 17:05 |  研究  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

やせたソクラテス

やせたソクラテス(昭和39年)

 昭和39328日,東京大学の卒業式で2000人の卒業生を前に大河内一男総長が式辞で述べた一節,「ふとった豚よりも,やせたソクラテスになれ」がその日の各夕刊紙で大きく取り上げられ話題になった.豚は私利私欲に走る者を意味し,ソクラテスは,幸福,正義,人間の生き方を問い続け,その信念ゆえに処刑されたギリシャの哲学者であった。昭和39年は60年安保闘争が終わり,高度経済成長の時期であった.総長の言葉は経済優先の考えを警告した一節といえる.

 やせたソクラテスは有名な言葉となったが,実際には,大河内一男総長は式辞で原稿を読み飛ばし,この言葉を述べていない.この報道は誤報であったが,あらかじめ用意された予定原稿が報道各社に渡されていたため記事になったのである.またこの「ふとった豚よりも,やせたソクラテスになれ」は大河内一男総長の創作した言葉ではなく,「ふとった豚になるより、やせたソクラテスになりたい」というJSミルの言葉の引用である.ちなみにソクラテスは実際には太っていたらしい.また「やせた豚よりも,ふとったソクラテスになれ」でどこが悪いのか,などの議論があった.大河内一男総長は今の学生はよく勉強をするが,必要な本しか読まない.勉強に遊びがないと指摘していた.

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2010.02.13 17:04 |  旅行 / 宿  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

帝国ホテルで集団赤痢

帝国ホテルで集団赤痢(昭和38年)

 昭和38525日,東京・帝国ホテルの従業員2人が真性赤痢に罹患していることが判明した.ホテルの従業員の検査が行われ,27日には赤痢患者は27人となり,赤痢の集団発生であることがわかった.患者は従業員だけで宿泊者には感染者はいなかった.そのため従業員食堂に納入されている食材が原因とされ,給食材料を納入している業者を調べた結果,納入業者2人から赤痢菌が検出された.しかし納入業者の2人は納入時にホテルで食事をしていることから,赤痢菌を持ち込んだのか,赤痢菌に感染したのかは不明であった.帝国ホテルは日本を代表するホテルである.ホテルにおける集団赤痢は,帝国ホテルが初めてのことであった.宿泊者の1割は外国人で,その中にはインドネシアのスカルノ大統領も宿泊していたが,大統領は「わしはここを動かない」といって,ホテル関係者を感動させた.外人宿泊者600人は他のホテルに移動した.

 帝国ホテルは,国鉄の食堂も担当していたが,列車で食事を取った2人が疑似赤痢で入院となった.また帝国ホテルの従業員の家族も二次感染で入院となった.そのため国鉄の食堂は日本食堂と新大阪ホテルにふりかえられた.63日の時点で集団赤痢患者は保菌者を含め214人に達した.最後まで宿泊していたスカルノ大統領も帝国ホテルが営業停止になったので,他のホテルに移ることになった.その当時,日本は世界で最も清潔な国として知られていた.最高級のホテルである帝国ホテルの集団赤痢事件は,東京オリンピックを翌年に控え関係者をあわてさせた.

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