| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 |
人工肝臓の手術に成功(昭和33年)
昭和33年11月15日,日本医師会館で開催された日本外科学会で,東京大学医学部外科・木本誠二教授が人工肝臓の手術に成功したことを報告した.肝硬変で肝性昏睡に陥った患者の血液中の有毒物質をなくすために,患者の血液と4頭の犬の血液をセロファン膜で接触させ,患者の肝機能の快復をはかったのである.患者の血液中のアンモニア値は半分になり,意識が回復,人工肝臓は成功した.患者は1週間後に死亡するが,現在においても肝臓機能を代用できる人工肝臓は完成していないことから,一時的な補助肝臓としての機能を期待しての手術と考えられる.昭和39年,同じ東大の木本誠二教授は慢性腎不全患者に対して生体腎移植を行った。永久生着をめざした本格的な腎臓移植の幕開けである。
昭和39年,千葉大学の中山恒明教授らによって肝臓移植が行われたが,患者は5日目に死亡した。スターツルによって世界初の肝臓移植が行われた翌年のことである。肝臓移植の第2例目は昭和44年に行われ,以後,平成5年まで遺体からの肝臓移植は行われていない。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
スズメ退治(昭和33年)
農家にとって稲穂に群がるスズメは,カ,ハエ,ネズミと同じ害鳥であった.群れを成して穀物を食い荒らす被害が問題になっていた.昭和33年3月5日の早朝,鳥取市周辺の農家で,アルコールにひたした穀物をスズメに食べさせ,酔ったところを捕獲する方法が試されていた.スズメたちはコロコロと倒れ,倒れたスズメはほうきで集められた.この捕獲作戦は大成功であった,アルコールにひたした穀物は前日のうちに農家に配給され,朝になってスズメの来そうな所にばらまかれていた.このニュースが伝わると,日本の多くの場所で利用されることになった.
スズメは穀物を食べることから害虫と受け止められてきたが,穀物以外の雑草の実を食べ,害虫をも食べることから益鳥としての役割も大きい.中国では国をあげての大規模なスズメ退治が行われ,成鳥はもちろんヒナ、卵、そして巣までもことごとく潰してしまった。しかし翌年,天敵のスズメがいなくなったため害虫が増え穀物収益が減ったと報告されている.国は大飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出す事になった。スズメは稲を食べる悪い鳥ではなく、虫を食べてくれるいい鳥だから殺しちゃいけないのである.
かつてはどこにでもいたスズメが,最近,姿を消している.農薬などによる昆虫の減少,環境の悪化,環境破壊のせいであろうが,あのさえずりが聞こえないのは寂しい思いがする.日本人にとって身近な鳥であるスズメはどこに行ってしまったのだろうか.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
志賀潔(昭和32年)
昭和32年1月25日,世界的細菌学者である志賀潔が郷里の宮城県で死去,享年86であった.志賀潔は,明治3年12月18日,仙台藩藩士・佐藤信の4男として生まれ幼名を直吉といった.明治19年に大学予備門(第1高等学校)に入学,翌20年に母の生家である藩医・志賀家を継ぎ名前を志賀潔とかえた.
明治29年,志賀潔は東京大学医学部を卒業すると北里柴三郎の伝染病研究所に勤務し細菌学の研究に従事した.そして翌30年,日清戦争の直後に下痢を主症状とする赤痢が日本全国で大流行し,患者数9万人,死亡者2万人以上を出した.赤痢は伝染病であったがその原因となる細菌はまだ同定されていなかった.新入りの助手である志賀潔は,患者の便を集め,便中の無数の細菌の中から赤痢を起こす細菌を探しだそうとした.そして大腸菌と区別ができ,赤痢患者の血清を加えると特異的に凝集する菌を発見したのである.動物実験を重ね,この細菌を赤痢の病原菌として明治30年12月に発表した.
当時,日本人の医学研究はすでにいくつかの業績をあげていた.しかしそのほとんどは海外の研究所で行われたもので,国内でなされた世界的業績はこの赤痢菌の発見が最初といえる。志賀潔はドイツの雑誌に赤痢菌の発見を発表し,一躍世界にその名前が知られるようになった.赤痢菌は志賀潔の名をとってシゲラ:Shigellaと学名が付けられ,赤痢菌が出す毒素は「志賀毒素」と名づけられた.志賀潔が赤痢菌を発見できたのは,北里柴三郎の指導によるものであったが,赤痢菌の論文には北里柴三郎の名前は記載されていない.北里柴三郎は陰に隠れた指導者として志賀潔の名前を高めたのである.
赤痢は赤痢菌の感染により,高熱,激しい下痢や血便を出し,死に至る恐ろしい病気であった.赤痢菌を発見した志賀潔の名前は世界的に広まり,明治34年,志賀潔はドイツへ留学して,免疫学の創始者エールリヒに細菌学と化学療法を学ぶことになる。明治37年,志賀潔はエールリヒとともにアフリカの睡眠病(トリパノソーマ)の治療法を発見する。大正3年に志賀潔は伝染病研究所を辞職すると,新設された北里研究所に入った。大正9年,志賀潔は慶応義塾大学の医学部教授,大正14年には京城帝国大学の初代医学部長となり,後に学長になる。昭和19年に文化勲章,昭和26年に文化功労賞,昭和32年には勲一等瑞宝章を受章している.戦災により郷里の宮城県で老後を送っていた.仙台市名誉市民である.
北里柴三郎,野口英世,志賀潔はこの時代の世界的医学者として名前を残している.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
広島原爆病院開院(昭和31年)
昭和31年9月11日,広島市千田町の広島赤十字病院の構内に建設されていた日本赤十字広島原爆病院の開院式がおこなわれた.広島原爆病院は被爆者の健康管理,診断と治療のために設立され,被爆者のための医療機関の拠点となった.当時は原爆被爆者に対応できる専門の診療機関がなかった.広島原爆病院は鉄筋コンクリート3階建て120床の病院で,内科,外科,皮膚科,レントゲン科が設置された.10日間で301人が受診し,37人の患者が白血球減少を指摘され要注意経過観察となった.
この広島原爆病院は,昭和29,30年度の「お年玉付き年賀ハガキの分配金」で建設されたのである.日本赤十字広島原爆病院はその後広島赤十字病院と合併し,広島赤十字・原爆病院と名称を変えたが.現在でも広島市南部の中核病院として多様化する被爆者の需要に応えている.お年玉付き年賀ハガキの寄付金がどのように使用されているかを知る人は少ない.しかしこのように原爆病院設立の役に立っていたのである.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
トラコーマ(昭和31年)
昭和31年6月3日,虫歯,寄生虫,トラコーマの三大病・撲滅運動5カ年計画が学校を中心に開始された.トラコーマは伝染性の慢性角結膜炎で,撲滅運動が必要なほど感染力が強く当時の人たちを悩ましていた.汚れた手やタオルなどによって感染者から接触感染した.大半は1歳から2歳の幼児期に感染し,長い潜伏期間をへて6歳から7歳ごろに発症した.その症状は目やにや充血といった通常の結膜炎の症状で,多くは自然回復するが一眼から他眼に伝染して失明する危険性もあった.
眼瞼結膜にブツブツが出来るトラコーマは当時「はやり目」の代表とされていた.トラコーマは最近ではほとんどみられないが,感染が減ったのは抗生剤の点眼という特効薬が出来たこと,国民の衛生状態が良くなったことが最大の要因と考えられる.
トラコーマはクラミジアが原因で生じる疾患である.現在,トラコーマは日本ではほとんど影をひそめているが,クラミジアは住む場所を変え大きな問題を起こしている.それは性器クラミジア症で「性器のトラコーマ」となってひそかに大流行しているのである.
何らかの理由で産婦人科を受診した10代女性の4人に1人がクラミジアに感染しているとされ,性器クラミジア症は性感染症全体の半数近くを占めている.症状はきわめて軽度のため女性で8割,男性で5割が症状を示さない.しかし放置すると,女性の場合はクラミジアが子宮の奥に侵入して子宮内膜炎や卵管炎を起こすことがある.さらに下腹部痛や不正出血,卵管内の癒着による不妊症,子宮外妊娠,腹痛の原因になる.また女性の場合は自覚症状がなくても,出産時に赤ちゃんがクラミジアに感染し,新生児結膜炎やクラミジア肺炎になる可能性がある.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
遺体丸焼き販売事件(昭和31年)
昭和31年9月12日,秋田県十和田町で死産児を焼いて粉末状にしたものを強壮剤として販売していた男性(69)が花巻署員に逮捕された.この男性は,最初は犬の肉を販売していたが,売れ残った犬を丸焼きにして,その粉末を強壮剤として売っていた.犯行の動機は,犬よりは人間の方が強壮剤として効果が大きいだろうと考えたからである.当時はまだ土葬の習慣が残っていた.男性は死産した赤ん坊の埋葬を頼まれると,赤ん坊の内臓を取り除き,炭火で丸焼きにして粉末状にして売っていた.この強壮剤は1袋10円で売られ1300円の売り上げだった.強壮剤が赤ん坊の粉末であると宣伝していたかどうかは不明であるが,精力剤として粉末は好評だったことを自供している.
この男性は元々裕福な家庭生活を送っていた.しかし愛人を囲うようになって田畑を手放し,しだいに生活費に困るようになり犯行に及んだ.人骨を強壮剤として売っていたこの事件は,まだ医学が進歩していない時代のものであった.当時はまだ人骨を特効薬と信じていた人たちがいた.しかし医学,薬学が進歩した昭和55年にも同様の事件が起きている.
昭和55年6月4日,岡山県金光町で72歳の男性が逮捕された.この男性は深夜,自転車で近くの火葬場に行き,無断で人骨を持ち帰り,粉末状に砕き,それをオブラートに包み,あるいはカプセルに入れ販売していたのである.人骨を肝臓病や万病の特効薬と宣伝し,密かに売買していたのである.この男性は過去にも同様の人骨販売で3回逮捕され,刑務所を出所したばかりの再犯であった.男性は薬事法違反で逮捕された.人骨を売る方も売る方であるが,それを買う方も買う方である.
現在ではこのようなことは起こりえないと思うが,昭和39年の厚生省の国民健康調査では,病気になった場合,医師にかかるのは48%,売薬ですますのが40%,はり,きゅうが3.3%,祈祷師が0.8%であった.まだ当時は呪術療法が根強く生きていたのである.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
弥彦神社事件(昭和31年)
昭和31年1月1日,午前零時半ごろ,新年の参拝客でひしめき合う新潟県の弥彦神社でこの大惨事が起きた.弥彦神社は豊作の神として農民の信仰があつく,その日の初詣には臨時列車や貸し切りバスで3万人が集まっていた.このひしめき合う拝殿前広場で,午前零時の花火を合図にモチまきが始まった.そしてモチをもらい,その幸運にあやかろうとする参拝客の人並みが大きな渦を巻いた.モチまきに群集が殺到し,モチの奪い合いが惨事となった.押し寄せる人並みは石段上の玉カギを崩し,参拝客が将棋倒しとなり2メートル下に雪崩落ちたのである.下敷きになった124人(男86人、女38人)が圧死により死亡,94人が重傷となった.そして多数の犠牲者たちは弥彦神社の拝観所に並べられた.
事故のきかっけとなったモチまきは初めての試みであった.この無謀なモチまきを行った弥彦神社の神官は全員入換えとなった.また警察官の過失責任が追求されたが,3万人の参拝客に対し整備に当たった警察官は2人だけで,予測できなかった事件として不起訴処分となった。124人が死亡した弥彦神社の事件は,正月のおめでたい日に,最もおめでたい場所で起きた惨事であった.参拝客の中には多くの飲酒者が混じっており,自制心を失った群集心理がこの惨事の原因のひとつであった.この大惨事があったにもかかわらず,弥彦神社の参詣者は翌年以降もふえ続け,この数年の正月の参詣者総数は約30万人となっている.
新潟県西蒲原郡弥彦村にある弥彦神社の祭神は,天照大神のひ孫にあたる天香山命とされており,1300年以上の歴史を持つ日本でも有数の神社である.新潟県では最も格式が高く,最も参拝客が多い神社である.源義経、親鸞、芭蕉,良寛なども参拝しており,上杉謙信は川中島出陣に際して願文を奉納している。このように由緒ある神社でこのような大惨事が起きた.
神社での圧死事件は,この昭和31年に起きた弥彦神社事件だけであるが,正月というおめでたい日の圧死事件は他にもある.昭和29年1月2日,新年の皇居の一般参賀に戦後最大の35万人がつめかけ,狭い二重橋の上で身動きがとれないほどの大混乱となり16人が死亡,65人が重軽傷を負う惨事となっている.
また昭和36年の元日,岩手県の松尾鉱山小学校で1800人の学童が集まり,新年祝賀式が行われた.そして学校の裏にある校舎で映画会が行われることになり,学童が入り口に殺到,ひとりの学童が転んだことから将棋倒しとなり10人の学童が死亡,10人が負傷する惨事がおきている.これらはおめでたい正月の日の悲しい事故であった.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
病院火災(昭和30年)
昭和30年6月18日午前1時20分頃,千葉県市川市国府台の式場精神病院で火災が発生した.男子第1監禁病舎のトイレから出火した火事は瞬く間に燃え広がり,式場精神病院の監禁病舎など5棟を全焼して鎮火した.第1監禁病舎には重度の精神病患者が多数入院しており,鍵のかった鉄格子の監禁部屋の患者はカギを開けることができず焼死した.この火災により入院患者158人のうち19人が焼死した.遺体の多くは監禁室に閉じこめられたまま鉄格子にすがるように倒れており,この様子が精神病院の痛ましい現実を物語っていた.狭い監禁部屋には便座のないトイレがあるだけで,机もなければ洗面台もなかった.まるで牢獄以下の部屋であった.
式場精神病院は幹線道路から3キロ離れており,病院への道は狭く消防車は身動きがとれない状態であった.また水の便も悪く,そのため約1時間40分で建物は原形を残さないほどに焼き尽くされてしまった.火事の原因は漏電とされている.
同年の6月26日には,東京都練馬区にある慈雲堂病院(精神病院)から出火,医局,診察室,薬局などを焼いた.入院患者800人は避難訓練が功を奏して全員無事であった.
病気を治すための病院における火災は悲惨であるが,これまでに10人以上の犠牲者を出した病院火災を列挙すると,昭和35年1月6日午後9時5分頃、神奈川県横須賀市小矢部町の社会福祉法人・日本医療伝道会・衣笠病院から出火.火元は木造2階建ての本館1階の産婦人科室付近で,本館,病舎など3棟を全焼,さらに裏山にも延焼した.この火災により入院していた新生児や看護婦など16人が死亡,負傷者10人がでた.原因は助産婦が石油ストーブの芯を上げたまま部屋を出てしまい,ストーブの火が周囲に燃え移ったことである.衣笠病院は昭和18年に海軍病院として建てられ,昭和22年に払い下げられ衣笠病院と名前を変えていた.内科,外科,小児科,などの科を有するベッド数131の総合病院である.被害を大きくしたのは建物が老朽化していたこと,廊下に油を塗り込んでいたため燃えやすかったこと,防火壁がなかったことなどが重なったためであった。
その他,昭和35年3月19日には福岡県久留米市の国立療養所精神科から出火,3棟が焼失11人が死亡する火災が発生している.原因は不明である.また昭和45年6月29日,栃木県佐野市の秋山会両毛病院で放火により17人が死亡.昭和48年3月8日,午前3時頃,福岡県北九州市の福岡県済生会八幡病院で鉄筋5階建ての1階から出火,13人が死亡,60人が負傷している.原因は蚊取線香の不始末とされている.昭和52年5月13日,岩国市の岩国病院で7人が焼死する火災がおきている.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
お化粧の時代(昭和30年)
戦後10年間,日本人は生きること,食べることに必死であり,日本の女性は化粧をする余裕すらなかった.また戦争時代に耐乏生活を余儀なくされた若い女性たちは化粧の方法を知らなかった.
昭和28年,マイアミで行われたミス・ユニバース世界大会で伊東絹子(21)さんが3位に入賞,この伊東絹子さんの突然の快挙に日本中が沸きあがった.そして8頭身という言葉が流行し,男性ばかりではなく日本全体が明るいムードに包まれた.この伊東絹子さんのシンデレラ・ストーリーによって,日本の若い女性はファッションへ目を向けるようになった.また映画で知る外人女優の化粧や服装を意識するようになった.しかし化粧品はまだ店頭には並んでいなかった.
昭和30年ごろから化粧品がしだいに市場に出まわるようになった.また日本の女性にとって化粧をするゆとりが生じてきた.そのため日本の女性は次第にきれいになっていった.昭和32年には渋谷東急会館に資生堂美容室がオープンし,美容室に行くことが山の手女性のステータスとなった.
また洋装ブームにより,女性のファッションは和服から洋装へと変わり始めた.特に夏の猛暑によってノースリーブが流行したことが,日本の女性ファッションを変えたといえる.ノースリーブは実用的でかつ健康的であった.昭和30年の11月にマンボダンスが流行すると,それと同時に細身のズボンにリーゼントのマンボスタイルが流行した.さらに昭和31年に放映された石原慎太郎の映画「太陽の季節」の影響により,アロハシャツに慎太郎刈りのヘアスタイルが流行し,若い男性もファッションを意識するようになった.化粧とファション,やっと生活にそれらを受け入れる余裕が出てきたのである。また昭和34年には児島明子さんがミス・ユニバース世界大会で優勝した.児島明子さんはアジアで初めてのミス・ユニバースの優勝者となった.ちなみに児島明子さんは後に俳優・宝田明と結婚した.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
赤痢ワクチン禍(昭和30年)
昭和30年5月24日,東京都・北多摩郡の砂川町にある砂川小学校,村山町にある村山小学校第1分校で赤痢ワクチンの注射が行われた.そして赤痢ワクチンの注射を受けた学童500人が発熱,嘔吐,ひきつけなどの症状をおこした.この被害をおよぼした赤痢ワクチンは東京都が初めて採用した新方式のワクチンによるものであった.
5月24日の午後1時,立川保健所が砂川小学校(生徒数823人)と村山小学校第1分校(生徒数361人)に新しく開発したクローム・ワクチンの接種を行った.そして接種から数時間後の夕方ごろから,生徒たちが一斉に発熱などの副作用を訴えたのである.翌5月25日,砂川小学校では欠席者102人,早退者109人をだした.村山小学校第1分校では欠席者76人,早退者213人に及んだ.学童たちは発熱などの症状を示したが,症状は軽度で全員が軽快に向かった.
赤痢ワクチンはかつて日本陸軍で使用されたことがあったが,副作用が強いため中止されていた.しかし昭和27年,国立予防研究所の安東博士によって赤痢ワクチンの改良がなされ,クローム・ワクチンとして再登場することになった.クローム・ワクチンとは赤痢菌をクローム塩類で処理し酸性の状態にしたワクチンのことで,これまでのワクチンの製法とは異なった方法で製造されたものである.このクローム・ワクチンはそれまで約10万人に投与されており,副作用のないワクチンとして知られていた.もちろん今回のワクチンは国家検定をパスしたものであった.
今回,問題を引き起こしたワクチンは,ワクチンの製造は同じであったが投与法が従来の方法とは違っていた.厚生省の指導により,それまでの皮内注射から皮下注射に変更されたのである.東京都衛生局はこの投与法の変更にともない,安全性を考慮して従来の半分の量で接種した.それでもこの被害を引き起こしたのである.このワクチンによる被害の原因については,ワクチンの投与法の変更が原因であったのか,あるいは今回投与されたワクチンの品質が悪かったのか明らかではない.このワクチン禍の本当の原因は不明であるが,赤痢ワクチンは中止され,製造されていた30万人のクローム・ワクチンは破棄されることになった.この事件以降,赤痢ワクチンの接種は中止され行われていない.
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)