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 検事は悪を憎み、被害者に代わって加害者に相応の罰と償いを求める。弁護士は弱きを助け、被疑者の立場から不当な冤罪と主張する。そして裁判官は両者の言い分を聞き、白か黒かの判決を下す。

 このように法曹界の人たちは、それぞれの使命感を持ちながら職務についているが、検事は検事の立場でしかものを考えず、弁護士は弁護士の立場でしかものを言わない。法の正義を自負する者たちがこのような職務に縛られた形で議論する法廷は、どこか茶番に思えてならない。

 昨日まで鬼検事と恐れられていた者が弁護士に職を変えた途端、極悪人の味方になる。金持ちが被疑者になれば、金持ちは元検事の弁護士を集め弁護団を結成する。このように立場によって自らの主張を変える議論は到底民主的とは思えない。

 同じ司法試験に合格した者が、同じ司法研修所で養成を受けた者が、なぜ立場によって主張を変えるのか。弁護士、検事、裁判官、この法曹三者による法廷議論は見えすいた劇を見せられている気分である。これを司法制度の欺瞞と呼ぶかどうかは別にして、このような一方通行の議論が、最近巷で多く見られる。

 そもそも議論とはお互いの考えを述べ、相手の考えを尊重しながら、より良い結論を得るための手段である。つまり自分の主張と、相手への理解が同時進行でなければいけない。しかし今日行われている多くの議論は、最初から相手の考えを否定し、自分の結論を押しつけるものばかりである。

 この傾向は議論を論争と称し、劇場化させ視聴率を上げようとするマスコミも同じである。声の大きさ、反論に値しない屁理屈、言葉の用法などにより、相手をいかに負かすかが議論の技術とされ、論理の矛盾やごり押しを恥と思わない。

 そして議論に勝ったとしても、勝った方の意見が優れている訳ではない。そのため議論の敗者が勝者に心服することはなく、逆に恨みを残すことになる。

 このような中身のない議論は、発言する者がそれぞれの立場に縛られているからである。議題に対し肯定側と否定側に分かれて議論する遊びをディべートというが、この欧米のゲームを真面目な議論に持ち込んでいるにすぎない。

 このような論争を前に、国民は無意識に自分と同じ考えの論者の肩を持ち、対立する論者を無意識に軽蔑する。そして見識者の非常識に対し優越感と自己満足を得ながら、一方では声を大にするゴネ得の手法を国民は無意識に身につけることになる。

 このような議論の虚像が、国民の前に醜く露呈したのは、万年野党の日本社会党(村山首相)が政権の座についた時である。それまでの日本社会党の反対は保身のための反対であったことが明確となり、政党の理念を曲げ現実路線を選択したことで、日本社会党は安楽死への道を辿ることになった。

 彼らが残したものは、政策における建て前と本音、言いがかりに近い議論による取引、落としどころ、などの政治理念ではなく政治的技法だけであった。

 議論の弊害として、次に議論のアリバイ化を挙げることができる。これは公的な議論においてみることができる。時間をかけ十分に審議を尽くしたとする証拠が欲しいだけである。広く意見を聞いた上での共同決定というアリバイが欲しいだけである。これは一見民主的な議論と錯覚しやすいが、最初から結果の決まっている議論は民主主義を装った議論といえる。

 この形式を取り入れているものに政府の諮問機関がある。役人が諮問機関の人選を決めるので、議論する前から結論は決まっている。難しい顔をしながら、時に声を荒立てながら、役人に操られた三文役者が茶番を演じ、日本の将来をゆがめている。

 立場に縛られない国民の代表、全体を見渡せる見識者が不在のまま、偏った審議がなされている。国民の生活に関わることは国民の代表が決めるべきで、立場に縛られた者が関わるべきではない。

 本来は政治家がそれを担うべきであるが、政治家が営利団体との利害関係を断ち切るのは困難であり期待はできない。間接民主主義の限界である。

 民主的議論と政策を考えた場合、陪審制度が興味深い。市民から選ばれたシロウトが陪審員として司法に参加しているが、これは司法の民主化さらには国民の良識を司法に反映させるためである。

 立場に縛られず議論ができる、あるいは政策を審議できる方法は、この陪審制度以外に思い浮かばない。専門的知識に難点があるにしても、非常識な専門家の論理より、常識的なシロウトの直感のほうが優れているからである。

 国民の国政に対する不満や不信は、政治には利権が絡み、議員は立場に捕らわれ、官僚は省益にこだわるからである。これを改善させるには、国民のチェック機構を国政に導入することである。永田町や霞ヶ関の論理を国民の良識でチェックすることである。日本の民主主義を蘇らせるには参議院を廃院とし、陪審部会から構成される陪審院を創設するのがよい。衆議院で可決された法案を陪審員が評決し、全員一致で法案の成立、廃案、修正を行う新しい民主主義政治の形態である。

 

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 昨年10月、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)という単語が突然登場し、その内容も分からないまま、賛成、反対が展開された。

 TPPはアメリカとの関税撤廃で、景気低迷に悩む経団連(輸出産業)は賛成、安い農産物の輸入を恐れる農家(農協)は反対という構図になった。

 TPPは「アメリカの利益のために日本を搾取する協定」であるが、国内の議論を待たず、11月13日、野田首相はアジア太平洋経済協力会議(APEC)でTPP交渉参加を表明した。

 野田首相は「すべての品目やサービスを貿易自由化の交渉テーブルに乗せる」と表明したが、国会で追求されると、「表明は事実ではない、このことは米国当局も認めている」と発言、次にこの発言をアメリカが否定する展開となった。つまり野田首相の二枚舌が明らかになった。

 TPPは関税の撤廃だけではなく、重要なのは規制の自由化で、金融、労働、サービス、医療などでの規制の自由化が含まれていることである。つまり日本の医療が大きく変わることが予想される。

 TPPが導入されれば、混合診療が解禁され、医療に株式会社が参入し、国民皆保険制度が崩壊するであろう。医療や介護の規制緩和は、「国民からいかに金を奪うか、弱者から医療と介護をいかに奪うか」が根底にある。

 平成17年、総合規制改革会議がアメリカの医療(混合診療)の導入を叫んだが、TPPも同じである。

 医療では差額ベッド、給食、おむつ代、入れ歯など病気に直接関係のない部分は自己負担になっているが、政府が意図しているのは、患者の生命に関わる部分にも、自己負担を導入することである。つまり特定の診察料、薬剤、検査などを患者の自己負担とすることで、もちろん必要な医療は制限される。

 混合診療の目的は、「混合診療によって誰が儲かり、誰が損をするのか」を考えれば分かる。財政難の国は医療費支出を減らせるので導入を願い、医療で金儲けをしたい保険会社は確実に得をする。そして国民だけが損をする。

 混合診療は自動車の保険に例えればよく分かる。自動車の保険は「強制保険と任意保険」の2本立てであるが、混合診療は医療を自動車と同じように強制保険と任意保険の2本立てにする。強制保険では高度の医療を制限し、それを受けたければ自費にする。自費では払いきれないので民間保険に入る。つまり「国民の苦しみ、保険会社の喜び」が混合診療の本質である。誰でもいずれ病気になるのだから、国民全体が困ることになる。日本人の生命はみな同じであるが、貧富の差により医療の平等性が破壊されることになる。弱者を崖から突き落とす政策である。

 巨大な資本を持つアメリカの保険会社は、医療保険は得意分野のお家芸で、任意の医療保険を独占する可能性が高い。さらには国民皆保険すべてをアメリカの保険会社が民営化する可能性がある。

 国民は国民皆保険制度の恩恵を忘れ、医療に対し不満ばかりだが、TPPが導入されれば、患者の自己負担が増え、低所得者は病院を受診できず、入院患者は病院から追い出されることになる。

 アメリカの保険会社がオバマに巨額の献金をして、オバマが日本政府に圧力をかけ、TPPを日本が導入すれば、アメリカの保険会社が儲かる構図である。日本政府の特徴は外圧に弱いことであるが、TPPはアメリカの外圧にだまされたふりをして、国家予算から国民医療費を削減することを狙っている可能性が高い。

 TPPは国民の負担を増し、国民皆保険を壊しかねない。日本医師会はTPPに反対しているが、なぜ反対しているのか。それは医師のためではなく、国民のためであるが、そのことを国民は分かっていないようである。 

 

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 私たちはたとえ元気でも、年齢を重ねれば、いずれ病気になり介護を受けます。若者は老人になり、震災や事故で障害者になる可能性があります。このような運命を背負った私たちにとって、生命の必要経費ともいうべき医療介護の惨状をこのまま放置していてよいのでしょうか。
 救急患者のたらい回し事件、医療事故や医療訴訟の多発、勤務医不足と過重労働、相次ぐ産科や小児科の撤退、と病院の閉鎖と入院患者の強制退院による医療 難民の出現。このような悲惨な現実が次々に報道され、多くの人たちは日本の医療の深刻さをある程度理解していると思います。また医療にたずさわる者は、崩 壊しつつある医療を直接肌で感じているはずです。
 この危機的状況から脱却するには、原因分析のみならず、分析に基づいた改善を急ぐことです。口先だけの評論家ではなく、実態調査などの時間稼ぎはやめ、改善に向けて目を覚まし、行動しなければなりません。
 両親や祖父母のため、先輩や後輩のため、次世代の若者や子供のため、「医療崩壊から医療新生へ、介護危機から安心できる老後へ」、この道しるべをつく り、「不安のない老後、夢のある社会」をつくらなければ、私たちの生活は下からさらに下へ転がり、そして奈落へと沈んでしまいます。
 医療に関する論評のなかには、世間や政府に媚びた見当違いの論文、医療崩壊を認めず医療の効率化を唱える論文、医療や介護の古いイメージから脱しない論 文などが混在しています。しかしこのような論文は紙資源の無駄のみならず、改善への道を迷わせることになります。またマスコミは表面的な事例を列挙し、感 情に訴えてきますが、何ら解決策を示していません。行政に任せても、小手先だけの対策では傷を広げるだけです。今、必要なことは医療介護の現場の悲鳴を聞 き、福祉行政の欠陥を指摘し、危機的現状に歯止めをかけ、新たな仕組みをつくり、平等であるべき医療、尊厳ある介護を守ることです。
 現在の医療は10年前、5年前、1年前とはまったく別物です。それは「平均寿命がこの40年間で10歳以上延びた」という世界に類をみない急速な高齢 化、それを可能にした医療の進歩、それに対応できない医師不足、必要な財源を出そうとしない国や地方の財政事情。そして世界的な経済危機、さらには自民党 から民主党への政権交代。このように医療や介護を取り巻く環境が刻々と変化しているからです。
 この数年間、年金問題は迷走を深め、1億総中流から格差社会へと国民の意識が変わり、医療や介護は壊滅的な状態になりました。そして私たちはそれらを導 いた自民党政権に大きな失望を抱き、平成21年の夏の総選挙で民主党に歴史的勝利を与えました。この総選挙で各政党はバラ色のマニフェストを掲げ、マスコ ミはこの総選挙をマニフェスト選挙と位置づけました。しかし私たちが民主党を選んだのは、マニフェストの行間に書かれた「政官の利権まみれの政治から市民 中心の政治」という理念に賛同したからです。民主党の具体的政策の輪郭はまだ見えませんが、マニフェストは単なる優先課題として、国民にへつらうことな く、誤摩化すことなく、国民のための政治を断行してほしいのです。
 さいわいなことに、民主党政府には真面目に政策に取り組む姿勢がみられます。医療や介護についての具体的な内容はまだですが、肝心なことは医療や介護を 従来の「社会保障」という生ぬるい言葉で捉えるのではなく、「国民の生命を守る安全保障」と認識を改め、医長や介護を含む福祉政策を大きく転換し、国民の 切望に答えてほしいのです。本格的な超高齢化社会を目前にひかえ、医療介護をこのまま放置すれば、私たち全員が不幸になるだけでなく、私たちの命さえ危ぶ まれることになるからです。民主党は「医療介護のあるべき姿」を明確にして、泥をかぶってでも日本の将来を明るくしてほしいのです。
 子供が夢をもち、若者の瞳が輝き、長生きを喜びとする社会にするには、安心して暮らせる将来保障が前提になります。もはや過去の政治責任を追及している 余裕はありません。むしろこれまでの政治の過ちを検証し、過ちを教訓として改善の道を急ぐべきです。そして患者が求めている医療、高齢者が必要とする介 護、私たちが求める福祉、これらを何としても実現しなければなりません。
 私たちは、私たちの1票で、民主党に日本の未来を託しました。任せた以上、民主党の政策を見守ると同時に、私たちも古い考えを捨て、日本再生に参加する 気概が必要です。日本の社会を崩壊させ、自殺大国を導いたのは天災ではなく回復可能な人災といえます。病魔におかされた医療政策からの脱却、心ない介護政 策からの解放、弱者いじめの社会構造の打破。これら人災にメスを入れ、黄昏のなかで沈没寸前の日本を、私たち1人ひとりの力で立て直すことが必要です。

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2010.01.29 04:29 |  私たちの責任  |  スーさん  | 推薦数 : 0

幸福と豊かさを考える責任

幸福と豊かさを考える責任

 平成18年九月、英国の社会心理学者エードリアン・ホワイトが、世界各国の国民の幸福度の順位を示す「世界幸福地図」を作成しまた。178か国を調査対象として、各国の基礎データや国際機関の報告書を調べ、8万人から聞き取り調査を行い、幸福度を調べたのです。その結果、1位はデンマーク、2位はスイス、3位はオーストリア、米国は23位、英国は41位、中国は82位、日本は90位、韓国は102位、インド125位、ロシア167位でした。アジアではブータンが8位、マレーシアが17位、台湾は68位、香港は63位、シンガポールは53位で幸福度は日本より高かったのです。つまり日本は幸福度後進国と言えるのです。

  日本は戦後、高度経済成長を遂げ、欧米と肩を並べるまでになりました。科学技術にも優れ、教育水準も高く、国民は豊かな生活を享受してきました。貧困や戦 争のない平和で豊かな日本なのに、なぜ幸福度は低いのだろうか。日本は豊かさが当たり前すぎて、それゆえに幸福感がないのでしょうか。

 いっぽう「国民の豊かさ指数」というのもあります。国民の豊かさ指数とは健康、環境、労働経済、教育、文明、マクロ経済の6つに分類し、56の項目の平均値順位づけたものです。この国民の豊かさ指数の国際比較(OECD30カ国)では日本は第7位で、1位はルクセンブルグ、2位ノルウェー、3位スウェーデン、4位スイス、5位フィンランドで、6位オーストリア、米国は12位、英国16位、フランス18位、ドイツ19位、韓国20位でした。

 日本は環境指標が4位、健康指標が5位、逆に教育指数17位、経済指標が23位、日本の1人当たり政府累積債務、経済成長率、国際観光収入は最下位でした。また日本の労働コストの低下率は世界1位でした。前年度に比較し順位が上がったのはパソコン台数で昨年の14位から9位、順位が下がったのは家計支出が10位から17位、失業率が5位から9位、交通事故死が7位から10位でした。

  豊であっても幸福ではない。この国民の豊かさと幸福度のギャップはどこからくるのでしょうか。豊であってもストレスがある、心が満たされず不満や不安が多 い、将来に希望も夢もない。よく分からない閉塞感、何のために生まれて来たのか分からない。このようなことが理由なのだろうか。確かに年間3万人以上が自殺する日本は豊であっても不幸な国かもしれません。

 昭和の30年代から40年 代は貧乏でしたが、夢がありました。力道山、長島茂雄が国民を夢中にさせ、道行く人は流行歌を口ずさんでいた。幸福とは「ただ生きているだけ」 の人生ではなく、目的のある、喜びのある、夢のある生き方なのです。それが立身出世であれ、学問であれ、金儲けであれ、ボランテアであれ、それらが生き甲 斐につながればよいのです。生き甲斐が、学問から金儲けに変わっても、金儲けからボランテアに変わってもよいのです。生き甲斐という喜びを持てる国は幸せ であり、持てない国は不幸です。まして喜びという生き甲斐を奪うような国は最低です。これまでの日本人のテーマは生活の向上でした。しかし生活は人生の一 部にすぎず、人々が求めているのは「人生の充実、喜び、夢」なのです。そして相手を信頼し、連帯感を持つことなのです。

 「いかに生きて、いかに死ぬか、何をもって自分の喜びとするか」なのです。そして政治のやるべきことは、個人の生き甲斐や夢、自由や権利を奪わないことです。

  国民の幸福とは何か、日本の幸福度は調査ごとに低下しています。この幸福度を高めるにはどうすれば良いのでしょうか。多分、有識者が議論をすればするほ ど、悪くなるだけです。ご隠居さんならば「あまりうるさいことは言わず、好きなことを仲良く気楽にやることだね」、「お上が何かやれば、悪くなるだけだか ら、お上に期待するなんて、最初からダメだよ」、「不景気というけど、昔に比べれば全然ましさ、だいたい「野垂れ死に」という話しは聞いたことがないも の」、「幸福になりたい? 幸福なんて考えるから、ダメになんだ。考えれば考えるほど不幸になるよ」、「人の役に立つ喜びを共有することが一番。他人の不幸は甘い蜜だって?馬鹿を言 うんじゃないよ、他人の不幸はみんなの涙、他人の幸福ははみんなの喜びでなければ」、「日本は犯罪率が世界一低く、世界一の長寿国だろ。それだけでも幸せ というものじゃないかい。幸せと思えば幸せ、不幸と思えば不幸、それだけのことさ」と言うだろう。

 このご隠居さんの考えが案外正しいのかもしれない。日 本人のひとり1人が他人を思いやる気持ちを持ち、それが当たり前になれば、日本人の身も心も豊かになるのです。「困った時はお互い様」という日本人の美徳 を取り戻すことです。日本人の良識とやさしさの底上げによって、医療や介護だけでなく、日本そのものが良くなるものと確信しています。

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2010.01.28 07:47 |  私たちの責任  |  スーさん  | 推薦数 : 0

国民の声を聞く責任

世論調査の専門機関である中央調査社が、20歳以上の男女約1300人の面接を行い国民の信頼度調査を行っています。大変信頼できるが評価「5」、信頼で きないが評価「1」と5段階にわけ、その平均値で信頼度を評価しています。その結果は自衛隊、医療機関への信頼性が最も高いのです。逆にマスコミ、国会議 員、官僚の信頼性は最低でした。医師を悪者にするマスコミ、医療を悪くした国会議員、ウソしか言わない官僚は猛反省してもらいたい。また自衛隊、医療機関 は国民の信頼を得ているのだから自信を持つべきです。
 また全国の男女1万人を対象に内閣府がおこなった世論調査(平成20年9月)では、国民が政府に望むベスト5は、医療年金などの社会保障の改善が 72.8%、高齢社会対策57.2%、物価対策56.7%、景気対策56.7%、雇用労働問題56.1%でした。このように国民の多くが、医療、介護、福 祉、年金などの改善を強く望んでいるのです。国会議員が訴える公共事業、道路整備などはベスト10にも入っていないのです。今後の生活は「悪くなってい く」と考える人の割合が36.9%と、昭和33年の調査開始以降、過去最高となっています。
 また国民にとって「最も重要な課題について」の全国約3000人のアンケート調査では、平成18年は「夜間・休日の診療や救急医療体制の整備」でした が、平成20年は「高齢者などが長期入院するための入院施設や介護老人保健施設の整備」でした。さらに麻生内閣が総額2兆円の定額給付金について、「支給 を取りやめて、雇用や社会保障などに使うべきだ」との意見に78%が賛成と答えているのです。政府は国民から集めた税金で、国民が望む政策を委託されてい るのですから、この国民の声をきちんと受けとめるべきです。

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2010.01.27 04:34 |  私たちの責任  |  スーさん  | 推薦数 : 1

教育の責任

教育の責任

  日本の将来を決めるのは教育と言っても過言ではありません。しかしその教育が大きな間違いをおかしているのです。教育の基本は「相手を思いやる気持ち」で す。弱者を思いやり、優しい手を差し伸べる子供を育てるのが教育なのです。しかし現在の教育は、弱者の気持ちを理解し、思いやるという基本が完全に欠如し ています。弱者の悲しみを理解せず、むしろ弱者をあざ笑うような子供を育てています。

  教育の権威者、文部科学省の官僚、日教組が何を述べたとしても、日本の教育が悪くなっているのは事実であり、学力が低下しているのも事実です。つまり彼ら の正論よりも、日本の教育を悪くした彼らの屁理屈をまず否定することです。ではどのような教育がよいのでしょうか、それは簡単です。クマさん、ハッさんに も理解できるような、ご隠居さんの教えで十分なのです。

 ご隠居さんなら次のように言うでしょう。1)勉強のよって教養を高めることが人格形成につながるんだ、それが世のため、人のためなんだ。教養がなくてもクマさん、ハッさんのように常識があればよいが、常識がなければその辺のゴロつきになってしまう。そうなれば恥ずかしくてお天道様の下を歩けなくなってしまう。2)勉強したければ寺子屋へ行けばいい。寺子屋で読み書きを学べば、あとは自分で勉強すればいい。勉強はやる気が大切なのさ3)世の中には善悪の区別のつかない悪党がいるが、それをなくすのが教育だよ。強い者が弱い者を助けるのが当たり前と身につけるのが教育だよ。4)勉強したいのなら勉強する機会を平等に与えることだ。勉強したいのにお金がかかる? 教育費が家計を圧迫している? 大学の授業料ってタダじゃない? そりゃ本当かい? 本当に勉強したい学生の授業料はタダにしなければいけない。5)遊んでいる大学生が就職して、大学院に行けば就職できないって? そりゃ本当かい? 教育は国を救う先行投資じゃないのかい。だったら遊んでいる大学生を卒業させる方が間違っている。6) 政府が全国で同じような教育をしろって? そりゃ本気かい? 学問は自由だろう、自由に勉強させればいいじゃないか。第一、徳のない政府にどうして徳を教えることが出来るんだい? 人間の徳は大昔 から変わっていない。懐かしいことだが、昔の小学校には二宮尊徳の銅像があったが、いつのまにかなくなってしまったね。子供は親の後ろ姿を見て育つと言う じゃないか、二宮尊徳の銅像があれば、それだけで違っているのにね。7)躾は身を美しくすると書くだろう。心を美しくするのが 教育なのさ・・・・・。今の親の後ろ姿など子供に見せるから子供が悪くなるのさ。このようにご隠居さんは言うであろう。さらに「親がいるからまともな子供 が育たない。学校があるからまともな人間になれない」とご隠居さんが言ったら、親や教師はどのように反論するのだろうか。どのように反論しても、ご隠居さ んは「分かってないね、アハハ」と小さく笑うだけでしょう。

  では現状はどうでしょうか。幼い子供が被害に遭う痛ましい事件が頻発し、全校集会で「ヒトの命は地球より重い」と校長は言う。そして澄んだ瞳の生徒はその 話に聞きいっている。「ヒトの命は地球より重い」という校長の言葉に誰も異論はないでしょう。しかし澄んだ瞳の生徒が本当にこの言葉を理解しているので しょうか。澄んだ瞳の奥には、「他人の命などどうでもよい」という悪魔が潜んでいるのかもしれない。

 学校の裏サイトを見れば、生徒たちの本音がわかります。「死ね、うざい、きもい」などの野獣語の羅列、さらにはいじめや中傷文が氾濫している。この裏の現実を直視すべきです。友人の命など、ましてや他人の命など、屁より軽いと思っているのでしょう。

  このように小学生でさえ「建て前の天使と悪魔の本音」を使い分けているのです。相手を思いやる気持ちを教えても、「真面目な顔の表情と心の中身」が違って いれば、まったく意味がありません。むしろ狡猾なずるさを増長させているのです。小学生でさえこうならば、その親たちも大差はないでしょう。

  綺麗事を並べるのが教育ではなく、綺麗な心を養うのが教育なのです。いっぽう子供は計り知れない能力を持っています。その能力を伸ばすことも重要です。画 一的な学習は優秀な事務員をつくっても、有能な子供の芽を摘み取ってしまう可能性が高いのです。また教育の画一性が、いじめの温床にもなっている。つまり 自分たちと違う能力を持つ仲間を、異質者として排除しようとする心理が「いじめ」の要因のひとつになっているからです。

  教育に必要なのは人間としての常識力であり、知識ではなく想像力と知恵なのです。小学校の教育は「人間として悪いことは、悪いことと」と理屈なしに教える だけで十分です。そして子供の持つ無限の能力を伸ばすことです。それを大人は「能力を伸ばす」と言いながら、実際には子供へのお節介ばかりです。

 江戸時代の子供は寺子屋に通っていました。寺子屋は全国で15000校、強制でも義務でもないのに8割の子供が通っていたのです。そして今の小学生より寺子屋の子供の方が勉強していたのです。そのため明治初期における日本の識字率は世界最高水準でした。昭 和時代の子供たちは教科書を何度も読み、暗記することで学習能力を高めていました。そして勉学から人生や常識を学び、まともな人間になったのです。かつて 学校の先生は、また社会全体がおおらかでした。休日には子供は学校のグランドで遊び、遊びの中から連帯感などを学んだのです。嫌な先生も多くいたが、悪口 を言いながら反面教師として彼らからも人生を学んだのです。嫌な先生から何を言われても、頭を叩かれても「ハイハイ」と言いながら、相手にもしなかった。 軽蔑しながら、「人間なんて所詮そんなもの」と親にも言わなかったのです。それは波風を立てない処世術ではなく、教師といえども人間であることを知ってい たからです。

  かつては塾もなければ、学校に文句を言う親もいなかった。それでも昔の子供の方が教育レベルは高かった。現在の教育は管理教育で、管理教育が先生たちの精 神的消耗を招いている。管理教育から生まれるのは自由のない管理社会です。このような管理教育では、創造性のある豊かな子供は生まれないのです。

 学校が教育を放棄し、子供を塾に通わせているという現実、塾にはイジメがないという現実、これらをどのように考えればよいのだろうか。15歳を対象にした世界各国との学力比較では、日本は読解力15位、数学の応用力10位、科学の応用力6位という事実をどう評価すればよいのだろうか。

  資源のない日本は、学力、想像力、技術力が勝負です。教育となると多くの議論が出てきますが、多くの議論が学力を低下させたのです。文部科学省よりも常識 的なご隠居さんに教育方針を任せたほうがまだましです。教育委員会は解散して、教育については教育委員会の指導よりも、常識的なご隠居さんの出番で十分で す。

  学級崩壊などの流行語は、正論による砂上の楼閣が引き起こしたものであり、正論を述べる親や教師の後ろ姿が悪すぎるからです。「ゆとり教育」を間違いだっ たと認めながら、今度は「英語教育」などと同じ間違いをおかそうとしている。日本語を知らない子供に、なぜ英語教育なのだろうか。英語教育などは文部科学 省が世論に媚びているだけです。国際社会において必要なことは、言葉の通訳ではなく、意思や思考の伝達なのです。文部科学省は単なる通訳を増やすだけで す。アメリカ映画に頻繁に出てくる「ファク、ユー」をどのように説明するのでしょうか。またサッカーの賭けごと「toto」がなぜ文部科学省管理なのでしょうか。賭けごとを管理する文部科学省に教育を任せることが間違っているのです。

 学習能力と想像力は別なのです。また記憶力と常識も別なのです。しかし今の日本では、学習能力と記憶力の高いものが良い大学に入り、社会のトップにるのです。そして想像力と判断能力と常識が欠けていれば、日本全体が上から崩れてしまうのです。

  人間は言葉で考え、言葉で思考力をつけるのです。日本語を知らなければ思考は低下し、理性まで失ってしまいます。空気を読めず、漢字も読めなければ麻生総 理ではないが、その思考力までも疑われてしまうのです。日本人に必要なのは考える力であり、その道具である日本語が軽視されれば、よき発想、よき社会は生 まれないのです。

 読売新聞の調査では、学校教育に64%が不満を持ち、家庭で子供のしつけができているは9%、できていないが87%でした。つまり教育の責任は子供に対する家族を含んだ大人全体の責任なのです。子供が悪いのは、大人が悪いからで、「今の若者は努力が足りない、こらえ性がない、向上心がない」と大人が言っても、それは言っている大人が悪いからです。大学を卒業しても就職できない、就職して働いても20から24歳の43%が非正社員、25から29歳の28%非正社員というのは、労働者派遣の自由化を決めた大人の責任です。大人は子供から夢を奪い、若者から生活を奪っているのです。

  勉強したい者には勉強する機会を与えることです。これだけインターネットが普及しているのですから、大学の講義をインターネットで公開すべきです。そうす れば日本人の知性の底上げになります。放送大学はインターネットでタダで受講べきで、また必要のない大学は廃校とすべきです。遊び人ばかりの大学などは大 学の名に値しません。本当に勉強したい者は授業料免除で大学に行けるようにすべきです。少なくても勉強しない者は卒業させないことです。

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