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 失敗は成功のもとであるが、この格言がいつも正しいとは限らない。特に公的システムにおいては、失敗が失敗のもとになることが多い。

 公的システムは正義のクレーマーに弱いのである。また正義のクレーマーを利用して、官僚は改革と称して天下り先を作るのである。

 不祥事が起きるたび、事前に対策のなかったことが追及される。規制緩和を訴える者までが「なぜ事前に規制をしていなかったのか」と目をつり上げて追及する。失敗から学ぶべきは再発を防ぐ心掛けであるが、心掛けでは形にならないので、手間隙かけて予防策を作ろうとする。その結果、失敗のたびに、役に立たない窮屈な、形式だけの対策が増える。

 株の取引に不正が生じると株取引監視委員会が発足する。給食で食中毒が発生すると生ものは禁止され、水害が起きればダムの建設が検討される。交通事故が起きると交差点に信号がつけられ、街中が信号だらけとなる。

 文句を言われる省庁は、職務怠慢との批判を避けるため、完璧な対策を作ろうとする。再発防止策の名目があれば公的規制、公的機関の設置に反対する者はいない。そのため省庁はクレームに便乗し規制の強化をはかることになる。省庁はクレームに頭を下げながら、省益拡大に内心ホクホクである。国民のための規制が省庁のための省益となり、政府と行政は肥大し、動脈硬化をきたす。

 文句を言うのは簡単である。しかし文句を言えば言うほど、その対策が日常の自由を制限し、自らの首を絞めることになる。

 人が電車に飛び込めば、鉄道会社は遺族に賠償金を請求する。しかし患者が病院の屋上から飛び降りれば、遺族は病院の管理責任を追及する。追求された病院は、再発予防のため屋上に鍵を掛け、そのため患者の憩いの場所がなくなってしまう。

 老人が家で転倒すれば、家族は病院へ連れてくる。しかし入院患者が転倒すれば、家族は病院の過失を追及する。その結果、老人は転倒防止のためベッドに縛られ、誤飲防止のため点滴管理となる。

 このような不自由は、世間が文句を言いすぎ、管理者の責任を追及するるからである。そして不可抗力を追及しすぎると、失敗は教訓とはならず、当事者の責任回避のための対策となる。表面的な対策はできても、多くの人たちは不自由を強いられることになる。

 クスリの説明書には「本剤に過敏症のある者には投与してはいけない」と書いてある。このように当たり前のことを記載するのは製薬会社の責任回避である。そのために説明書の分量が増え、森の中に重要な副作用のポイントが隠れてしまう。

 医療費抑制を唱える厚生省が、事あるごとに「心配な方は医療機関を受診してください」と言うのも保身的責任回避である。

 誤診の報道が重なると、医師は失敗を恐れ過剰診療となる。結核を恐れカゼの患者に胸部X線をとり、胃癌を恐れ腹痛患者全員に内視鏡を施行する。

 手抜き医療や過剰診療は非難すべきであるが、誤診の恐怖から検査漬けクスリ漬けとなる。やらないで批判されるより、やって収入を得る方がよいに決まっている。誤診を批判しすぎると防衛医療となり、国民医療費は高騰することになる。

 病院において院内感染が問題になると、院内感染対策委員会が作られ、次いで医療事故防止委員会、機種選定委員会など、責任を問われる管理者は責任を回避するためのマニュアルを作り管理を強化する。あるいは事前に対策を立てていたとするアリバイをつくる。しかし分厚いマニュアル本など誰も読まないから、心がけを変えずにマニュアルをつくっても、仏作って魂入れずとなる。

 医師の不祥事が起きるたび、その予防策がつくられる。治験の不正が発覚するとマスコミは医師へのバッシングを繰り返し、そのため治験の条件は建て前重視の現実離れとなる。医師は営利企業のボランティアではないので、無報酬の治験などやる気が起きるはずはない。不正を防止する正論はもっともであるが、これでは治験は成立しない。

 カルテ開示が流行したのは、薬害エイズの影響である。「事前にカルテ開示があったならば、あの悲劇は起こらなかった」とする正論に押されたのである。当然と言えば当然であるが、カルテ開示の煩雑さへの対策はない。

 正義のクレーマーは正論を言うから反論はできない。反論できない正論ほど厄介なものはない。世の中が正論で良くなるならば問題はない。しかし正論は往々にして世の中を混乱させ、それに便乗した官僚の天下り先を増やすだけである。

 

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  日本では、昭和56年以降、野生株によるポリオ(自然感染)の発生はなく、平成14年にポリオ根絶を正式に宣言している。また同年、西太平洋各国もポリオ根絶を宣言している。しかし地球上から根絶との証拠がないため、ワクチン接種が続けられている。

 いっぽう、日本の生ワクチン接種後の二次性ポリオ、つまりワクチンによるポリオ発症は、14年間で182件である。この182件は国が認定した患者数で、軽微なものは含まれていない。

 昨年12月、神奈川県の黒岩知事は、より安全とされている不活化ポリオワクチンの輸入を約束し、これに対し、厚労省は不活化ポリオワクチンの安全性が確保できないと反対する声明をだした。

 このことについて、医師もマスコミも沈黙しているが、しかし、そもそも「存在しない疾患へのワクチン接種」そのものが間違っているのではないだろうか。乳幼児1人に6000円の費用をかけ、副作用のあるワクチン接種が本当に必要なのだろうか。 

 種痘を思い出してほしい。種痘は天然痘撲滅に大きな役割を果たし、昭和26年以降,日本での天然痘の発生はない。それが、昭和45年に種痘の副作用による死亡241例,後遺症254例,治療中148例(これは厚生省に届けられた数値で,実際にはその数倍とされている)との発表があり、種痘禍の世論が高まった。

 種痘は強制接種で、法律では罰則規定まで決められていた。まさに「存在しない疾患へのワクチン接種」が漫然と行われていた。

 厚生省は、昭和51年6月、予防接種法を改正し、種痘を強制接種から除外した。種痘の廃止ではなく、強制接種から除外したのは、もちろん「除外は事実上の廃止」であるが、除外としたのは、厚労官僚の「自分たちの行為は正しかった」の意地と、何か起きた場合の責任逃れの表れである。

 もう一度問う、本当にポリオワクチンは必要なのか。

 

 

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 日本の医療は、病院が赤字で、製薬会社と医療機械会社が儲かると思っていたが、この儲けの構造に調剤薬局が加わっていた。このことは昨年の長者番付けで、日本調剤社長の報酬が4億7700万円であったことから明確である。

 病院が経営に苦しみ、医療崩壊が日常語になっているのに、なぜ調剤薬局が儲かるのか、それは、調剤薬局は儲かる仕組みになっているからである。

 薬価は国が決めているので、値引きの必要はない。売れば売るほど儲かる仕組みになっている。病院の前には門前薬局が並んでいるが、調剤薬局の名前は違っていても、それらは個人経営ではなく、セブンイレブンのように大型チェーン店化している。チェーン系列であれば、仕入れ価格、薬剤師確保、在庫調整などのメリットがあるからである。

 調剤基本料が420円、基準調剤加算があればプラス100円、調剤料は1日50円で、2種類の飲み方の薬を7日貰ったら700円となる。さらに目薬と塗り薬が加われば200円プラス。薬歴作成費で220円、指導料で220円、お薬手帳で150円。合計2100円に薬剤費を足して、その3割が患者負担となる。

 毎回、同じ薬なのに、疾患名も知らないのに、「その後、いかがですか?」で指導料220円、薬の写真と説明のプリントは170円である(平成18年から多少改善)。逆に、大勢の前で、大きな声で病状や、住所、電話番号まで聞かれ、プライバシーなどはないに等しい。

 ジェネリック医薬品が話題になっているが、薬局が勧めるのは、薬価と仕入れ価格差の大きな薬品で、必ずしもジェネリッを勧めている訳ではない。調剤薬局の薬剤師が親切なのは、親切にすれば、儲かるからである。

 内科や眼科など複数の科が入居している医療モールが流行しているが、ベンツに乗った調剤薬局が大家で、店子が医師である。調剤薬局は各医院から出される処方箋で儲け、処方箋の少ない店子医師はイヤミを言われるのが現状である。

 医師から薬の説明を受けているのに、薬剤師からの説明は時間の無駄である。インフルエンザで意識朦朧患者も2カ所を回るのだから、患者にとっての利便性はない。

 医薬分業は、厚労省の日本医師会弱体化を目的とした利益誘導政策のひとつであるが、しかし厚労省さんよ、医療崩壊を防ぐには、病院や診療所の診療報酬0.004%の攻防よりも、受診時定額負担100円の議論よりも、まずは調剤薬局の報酬を減らすことではないだろうか。

 

 

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 オリンパスの内視鏡は世界シェアの7割を占め、それだけに今回の損失隠しは、オリンパス製品を世界1と思っていた医師たちを怒こらせた。

 もちろん、経営陣の不祥事と社内研究者は別であるが、経営陣はさらにひどいことを行っていた。つまり実質的に経営(出資)している病院に、内視鏡の押し売りをしていたのである。赤字病院が経営に困ると、オリンパスが出資を申し出て、見返りに、必要のない内視鏡をなどの自社機器を購入させていた。その額は1病院毎月数百万円である。

 この方法は、暴力団が飲食店に高額な鉢植えを毎月買わせていたのと同罪である。

 もちろん、子会社、孫会社を使っての悪行なので、オリンパス本社に訊いても「知らぬ存ぜぬ」の返答であろう。それが、今回の損失隠しの穴埋め、あるいはさらなる悪事の発覚をおそれ、子会社、孫会社はすべて調剤薬局最大手に売却ずみである。優良会社といえども倫理観など微塵もなく、オリンパスはハイエナのごとく 「良心的な病院を金もうけの道具」にしていたのである。

 オリンパスの胃カメラは、東大医学部外科医の宇治達郎、オリンパスの技師者杉浦睦夫と深海正治によって開発された。彼らは腹の中を覗くことで、人類に最大級の貢献をもたらしたが、バブルに浮かれた腹黒い経営陣がそれをぶち壊したのである。

 明日は、胃カメラ開発に至るまでの実話を示そう。乞う、ご期待。

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 刑務所から出所した患者に「刑務所はくさい飯でつらかっただろう」と訊いてみた。すると患者は「病院の食事時より刑務所の方がおいしいですよ、麦飯は仕方ないにしても、麦飯は健康には1番ですから、糖尿病などは一発で治りますよ」と妙なことを自慢げに言い出した。

 そこで調べてみると、刑務所の1食の材料費は393円から423円で、料理の得意な服役者が作り、配膳も服役者が行うので人件費、光熱費はゼロ円である。いっぽう病院の食事は1食640円だが、人件費、光熱費が含まれているので材料費は250円になる。また学校給食の材料費は292円で人件費は別会計なので、たしかに食事のおいしさでは、刑務所、学校給食、病院の順になる。もし患者満足度調査など行うならば、このことを知らしめるべきである。

 また、一般の市中病院に入院すると、入院費(入院医学管理料・入院環境料・看護料・食事療養費)は2週間まで1日13530円、6ヶ月を超えると9180円(老人8870円)である。老人は1割負担なので、3食ケア付き、訴訟の権利付きで、1日1000円でおつりがくる。老人ホームより安い値段で、年金で貯金が出来るので、退院を希望する患者、家族などいるはずがない。

 これで健全な病院経営など、所詮無理である。

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 検事は悪を憎み、被害者に代わって加害者に相応の罰と償いを求める。弁護士は弱きを助け、被疑者の立場から不当な冤罪と主張する。そして裁判官は両者の言い分を聞き、白か黒かの判決を下す。

 このように法曹界の人たちは、それぞれの使命感を持ちながら職務についているが、検事は検事の立場でしかものを考えず、弁護士は弁護士の立場でしかものを言わない。法の正義を自負する者たちがこのような職務に縛られた形で議論する法廷は、どこか茶番に思えてならない。

 昨日まで鬼検事と恐れられていた者が弁護士に職を変えた途端、極悪人の味方になる。金持ちが被疑者になれば、金持ちは元検事の弁護士を集め弁護団を結成する。このように立場によって自らの主張を変える議論は到底民主的とは思えない。

 同じ司法試験に合格した者が、同じ司法研修所で養成を受けた者が、なぜ立場によって主張を変えるのか。弁護士、検事、裁判官、この法曹三者による法廷議論は見えすいた劇を見せられている気分である。これを司法制度の欺瞞と呼ぶかどうかは別にして、このような一方通行の議論が、最近巷で多く見られる。

 そもそも議論とはお互いの考えを述べ、相手の考えを尊重しながら、より良い結論を得るための手段である。つまり自分の主張と、相手への理解が同時進行でなければいけない。しかし今日行われている多くの議論は、最初から相手の考えを否定し、自分の結論を押しつけるものばかりである。

 この傾向は議論を論争と称し、劇場化させ視聴率を上げようとするマスコミも同じである。声の大きさ、反論に値しない屁理屈、言葉の用法などにより、相手をいかに負かすかが議論の技術とされ、論理の矛盾やごり押しを恥と思わない。

 そして議論に勝ったとしても、勝った方の意見が優れている訳ではない。そのため議論の敗者が勝者に心服することはなく、逆に恨みを残すことになる。

 このような中身のない議論は、発言する者がそれぞれの立場に縛られているからである。議題に対し肯定側と否定側に分かれて議論する遊びをディべートというが、この欧米のゲームを真面目な議論に持ち込んでいるにすぎない。

 このような論争を前に、国民は無意識に自分と同じ考えの論者の肩を持ち、対立する論者を無意識に軽蔑する。そして見識者の非常識に対し優越感と自己満足を得ながら、一方では声を大にするゴネ得の手法を国民は無意識に身につけることになる。

 このような議論の虚像が、国民の前に醜く露呈したのは、万年野党の日本社会党(村山首相)が政権の座についた時である。それまでの日本社会党の反対は保身のための反対であったことが明確となり、政党の理念を曲げ現実路線を選択したことで、日本社会党は安楽死への道を辿ることになった。

 彼らが残したものは、政策における建て前と本音、言いがかりに近い議論による取引、落としどころ、などの政治理念ではなく政治的技法だけであった。

 議論の弊害として、次に議論のアリバイ化を挙げることができる。これは公的な議論においてみることができる。時間をかけ十分に審議を尽くしたとする証拠が欲しいだけである。広く意見を聞いた上での共同決定というアリバイが欲しいだけである。これは一見民主的な議論と錯覚しやすいが、最初から結果の決まっている議論は民主主義を装った議論といえる。

 この形式を取り入れているものに政府の諮問機関がある。役人が諮問機関の人選を決めるので、議論する前から結論は決まっている。難しい顔をしながら、時に声を荒立てながら、役人に操られた三文役者が茶番を演じ、日本の将来をゆがめている。

 立場に縛られない国民の代表、全体を見渡せる見識者が不在のまま、偏った審議がなされている。国民の生活に関わることは国民の代表が決めるべきで、立場に縛られた者が関わるべきではない。

 本来は政治家がそれを担うべきであるが、政治家が営利団体との利害関係を断ち切るのは困難であり期待はできない。間接民主主義の限界である。

 民主的議論と政策を考えた場合、陪審制度が興味深い。市民から選ばれたシロウトが陪審員として司法に参加しているが、これは司法の民主化さらには国民の良識を司法に反映させるためである。

 立場に縛られず議論ができる、あるいは政策を審議できる方法は、この陪審制度以外に思い浮かばない。専門的知識に難点があるにしても、非常識な専門家の論理より、常識的なシロウトの直感のほうが優れているからである。

 国民の国政に対する不満や不信は、政治には利権が絡み、議員は立場に捕らわれ、官僚は省益にこだわるからである。これを改善させるには、国民のチェック機構を国政に導入することである。永田町や霞ヶ関の論理を国民の良識でチェックすることである。日本の民主主義を蘇らせるには参議院を廃院とし、陪審部会から構成される陪審院を創設するのがよい。衆議院で可決された法案を陪審員が評決し、全員一致で法案の成立、廃案、修正を行う新しい民主主義政治の形態である。

 

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 明治政府は欧州に負けない強力な国家をつくるため、富国強兵をはかり、西洋文化を取り入れ、明治6年にキリスト教を解禁とした。キリスト教は封建的な考えを変え、精神的伝統である武士道と融合し、内村鑑三、新渡戸稲造,新島襄などを生み出した。

 いっぽう日本独自の道徳も重んじられ、徳富蘇峰は平民主義で官僚を批判し、三宅雪嶺は雑誌「日本人」を,陸羯南は新聞「日本」を創刊し,国粋主義の傾向も濃くなった。岡倉天心は東洋の美と精神論を重視し、それぞれがそれぞれの人生観、国家観、世界観を持つようになった。

 明治23年、教育勅語が発布され、天皇を中心とする道徳教育が国策となったが、ここで「現人神の天皇とキリストのどちらが偉いのか」の激論となった。この論争は自然に消滅したが、それは正解のない愚問だったからである。

 昭和8年6月、大阪市天神橋筋6丁目の交叉点で、陸軍の小隊が信号を無視したため、巡査が兵隊を天六派出所に連行。連行された一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と言ったため、殴り合いのケンカになった。

 憲兵隊が駆けつけ「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは許せない」と抗議。巡査はこの経緯を警察上層部に報告した。

 陸軍は「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍にかかわる重大な問題である」と声明。大阪府警察部長は「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝する必要はない」と言い切った。

 この事件は天六事件と呼ばれ、「天皇陛下の軍隊」と「天皇陛下の警察官」の意地の対立となったが、昭和天皇の特命により兵庫県知事が調停に乗り出して和解となった。

 このように物事には、法律で決められないもの、法律にそぐわないものがある。そして、その典型例が、昭和23年に制定された医師法である。

 医師法の21条では「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときには、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と異状死体の届け出を義務づけている。

 この医師法21条は西南戦争(明治10年)の3年前(明治7年)に設定されたもので、犯罪捜査に協力することを目的にしていた。明治、大正、昭和の良識ある人たちはこの条文を特に問題にしなかった。しかし医療事故が国民の関心事になりだした、平成6年、警察の友達である日本法医学会の変わり者が「診療中の死亡事故も異状死体とする」と発表して、医師法21条の解釈がおかしくなった。

「医療行為により死亡した場合、24時間以内に警察に報告せよ。報告しなければ罰するぞ」となった。病院で死ねば、警察への報告義務となるが、このような解釈をした学者こそが、学者面した学者馬鹿である。軽くて迷惑条例違反、重くて国家騒乱罪に相当する。

 また医師法の19条に、医師の応召義務という条文がある。応召義務とは「医師は、診察を求められた場合、正当な事由がなければ、拒んではならない」というものである。つまり「眼科医であれ、精神科医であれ、夜間でも休日でも、自分の結婚式や妻の葬式の日でも、盲腸を診なさい、骨折の治療をしなさい」という法律である。

 このような化石同様の医師法は、もはや考古学に分類すべきで、議論の余地もなく、即、廃止すべきである。そして、新たな法律ができたならば、名称は「新医師法」ではなく、「生類哀れみの令」がよい。医療において最も大切で、最も求められ、最も忘れられているのが、他人への「哀れみの情」だからである。

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 昨年10月、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)という単語が突然登場し、その内容も分からないまま、賛成、反対が展開された。

 TPPはアメリカとの関税撤廃で、景気低迷に悩む経団連(輸出産業)は賛成、安い農産物の輸入を恐れる農家(農協)は反対という構図になった。

 TPPは「アメリカの利益のために日本を搾取する協定」であるが、国内の議論を待たず、11月13日、野田首相はアジア太平洋経済協力会議(APEC)でTPP交渉参加を表明した。

 野田首相は「すべての品目やサービスを貿易自由化の交渉テーブルに乗せる」と表明したが、国会で追求されると、「表明は事実ではない、このことは米国当局も認めている」と発言、次にこの発言をアメリカが否定する展開となった。つまり野田首相の二枚舌が明らかになった。

 TPPは関税の撤廃だけではなく、重要なのは規制の自由化で、金融、労働、サービス、医療などでの規制の自由化が含まれていることである。つまり日本の医療が大きく変わることが予想される。

 TPPが導入されれば、混合診療が解禁され、医療に株式会社が参入し、国民皆保険制度が崩壊するであろう。医療や介護の規制緩和は、「国民からいかに金を奪うか、弱者から医療と介護をいかに奪うか」が根底にある。

 平成17年、総合規制改革会議がアメリカの医療(混合診療)の導入を叫んだが、TPPも同じである。

 医療では差額ベッド、給食、おむつ代、入れ歯など病気に直接関係のない部分は自己負担になっているが、政府が意図しているのは、患者の生命に関わる部分にも、自己負担を導入することである。つまり特定の診察料、薬剤、検査などを患者の自己負担とすることで、もちろん必要な医療は制限される。

 混合診療の目的は、「混合診療によって誰が儲かり、誰が損をするのか」を考えれば分かる。財政難の国は医療費支出を減らせるので導入を願い、医療で金儲けをしたい保険会社は確実に得をする。そして国民だけが損をする。

 混合診療は自動車の保険に例えればよく分かる。自動車の保険は「強制保険と任意保険」の2本立てであるが、混合診療は医療を自動車と同じように強制保険と任意保険の2本立てにする。強制保険では高度の医療を制限し、それを受けたければ自費にする。自費では払いきれないので民間保険に入る。つまり「国民の苦しみ、保険会社の喜び」が混合診療の本質である。誰でもいずれ病気になるのだから、国民全体が困ることになる。日本人の生命はみな同じであるが、貧富の差により医療の平等性が破壊されることになる。弱者を崖から突き落とす政策である。

 巨大な資本を持つアメリカの保険会社は、医療保険は得意分野のお家芸で、任意の医療保険を独占する可能性が高い。さらには国民皆保険すべてをアメリカの保険会社が民営化する可能性がある。

 国民は国民皆保険制度の恩恵を忘れ、医療に対し不満ばかりだが、TPPが導入されれば、患者の自己負担が増え、低所得者は病院を受診できず、入院患者は病院から追い出されることになる。

 アメリカの保険会社がオバマに巨額の献金をして、オバマが日本政府に圧力をかけ、TPPを日本が導入すれば、アメリカの保険会社が儲かる構図である。日本政府の特徴は外圧に弱いことであるが、TPPはアメリカの外圧にだまされたふりをして、国家予算から国民医療費を削減することを狙っている可能性が高い。

 TPPは国民の負担を増し、国民皆保険を壊しかねない。日本医師会はTPPに反対しているが、なぜ反対しているのか。それは医師のためではなく、国民のためであるが、そのことを国民は分かっていないようである。 

 

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 無過失補償制度とは、医療事故で障害を負った場合、医師の過失とは関係なしに、患者に補償金を支払う制度である。患者側にとっては「医師の過失を証明するのは難しく、裁判に時間がかかる」難点があった。また医師側にも「患者のための悪意なき医療行為が、結果によって裁判沙汰になることへの不満」があった。この解決策として無過失補償制度が支持された。

 医療事故による患者と医師を救済するために、まず2009年に出産時に起きる脳性麻痺患者にこの制度が導入された。通常の出産で脳性麻痺になった場合、一時金として600万円、20歳になるまで毎月10万円の計3000万円が支払われることになった。

 この産科医療補償制度は警察への通知義務はなく、保険料3万円は出産祝い金に上乗せされるので、妊婦への実質的な負担はなく、まさに画期的制度とされた。日本の分娩件数は年間100万件、出産時の脳性麻痺は年間500から800件とされていたので、保険料は総額300億円、支出は150億円から240億円とされた。

 この無過失補償制度は一見よさそうに思えるが、運営が日本医療機能評価機構で幹事会社が東京海上日動保険であることから、当初から「悪代官と越後屋」の悪知恵悪行を危惧していた。日本医療機能評価機構は厚労省の天下り団体で、民間保険会社は営利企業だからである。

 では制度が開始された2009年から、これまでの2年間を検証してみよう。2年間で補償が支払われたのは192件である。つまりおよそ500億円が余剰金となっているはずである。しかしこの余剰金について、日本医療機能評価機構と民間保険会社は沈黙を守っている。

 この産科医療補償制度は公的制度である。ゆえに余剰金があればそれを公表し、余剰金を還元すべきである。しかし彼らは余剰金を公表せず、さらに、脳性麻痺だけでなく、すべての医療事故に無過失補償制度を導入しようとしている。もちろん無過失補償制度の拡大は、余剰金の拡大を意味している。

 「日本医療機能評価機構と東京海上日動保険」よ! 早く余剰金を白状し、余剰金を返還せよ! 多分、彼らは、余剰金を「今後の基金のため」などと言うであろう。

 しかし、「やかましぃやい! 悪党ども! おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって! 悪党どもよ、この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!」、彼らの言い分は法律では許されても、庶民の味方、遠山の金さんは許さないであろう。

 

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 病院の職員以外で「日本医療機能評価機構」を知るひとはいないであろう。表面的には「病院の機能を中立的な立場で評価し、問題点の改善を支援する第三者機関」であるが、もっと的確に表現すれば、診療報酬というみかじめ料をえさに、日本の医療をぶち壊した「行政やくざ集団」といえる。

 つまり厚労省が「病院支配と国民医療費抑制」を目的につくった、厚労省よる、厚生官僚のための、厚生官僚の「天下り団体」である。 

 かつての日本の医療費は出来高払い制度で、行った検査や治療はそのまま病院に支払われていた。これを疾病に応じて支払う方法(包括医療)に変えようとしたのである。つまり肺炎で入院したら、検査や治療とは関係なく、病院が得る診療報酬を一定にした。

 この包括医療は、安い治療で検査を少なくし、早く退院させれば、病院の経営がよくなる仕組みであった。経営難に苦しむ病院は、1円でも高い診療報酬を得るため、包括医療の導入に踏み切った。しかしそこには、第三者機関から「病院の質が全国レベルとの認定」が必要とする罠があった。この病院の評価を行うのが「日本医療機能評価機構」で、病院はおよそ250万円の審査料を払い、しかも5年毎に更新審査を受けなければいけない仕組みがあった。

 つまり「日本医療機能評価機構」は高い診療報酬を餌に評価を受けさせ。審査の合否によって、病院の生死を選別できる仕組みを作り、厚労省による「病院支配」を成功させたのである。包括医療費の導入時に、診療報酬を高く設定して「バスに乗り遅れては生き残れない」と病院を誘導し、「病院の多くがバスに乗ると」今度は報酬を安く改訂して「病院支配」をさらに強めた。もちろん目的の一つである「国民医療費抑制」にも成功した。

 このように厚労省のもくろみは成功したが、高齢化社会において大きな問題を生じさせた。治療成績(短期入院)のよい病院の医療費を高く設定したため、病院は寝たきり老人の肺炎など、長期入院が予想される患者を入院させないようにしたのである。「身寄りのない老人の門前払い現象」が起きたのである。まさに悪代官の悪知恵の結果である。

 

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