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昭和29年4月15日、京大病院第一内科で2人の若い医師、三上治助手(29)と山本俊夫無給副手(28)がある人体実験を行った。それは輸血後肝炎の患者から採血した血液1ccを自分たちの腕に注射する実験であった。
その当時は、血清肝炎の概念は確立しておらず「肝炎が血液から感染するとしても軽い黄疸程度」との軽い気持ちだった。ところが注射から42日目の5月26日、三上助手は悪寒、戦慄、倦怠を覚え、3日後には意識障害から昏睡状態となり、翌30日に死亡した。三上助手は病理解剖によって劇症肝炎と診断された。山本無給副手も肝炎を発症したが、軽い倦怠感だけであった。
当時は、肝炎ウイルスの正体は全く不明で、A型肝炎、B型肝炎、C型肝炎の区別さえなかった。肝臓の病理所見からも区別はできず、肝炎の感染経路、潜伏期などから、肝炎には2種類あるらしいことが推測されていた。
三上助手の研究テーマは肝炎ウイルスで、ウイルスを分離するためマウスに患者血清を注射する実験を繰り返していた。血清肝炎は現在ではB型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスなどが原因と分かっているが、肝炎ウイルスは人間とサル以外の動物には感染しないことが特徴であった。そのためマウスの実験では感染は成功しなかった。三上助手は患者の血液から肝炎がうつるかどうか疑問を持っていた。もし感染するとしたら、どのような症状がどのような経過で出現するかを自分の目で確かめたかった。
この詳細については、山本無給副手が内科宝函(第四巻第五号)に論文として記録を残している。山本無給副手はその後、近畿大学医学部教授になっている。
現在、日本の輸血システムは、個人の善意による献血制度で支えられている。献血は輸血を必要とする患者のために報酬を期待せず、自分の自由な意思で血液を供給することである。しかし昭和42年までの輸血システムは現在の献血制度ではなく、「売血制度」であった。「売血制度」とは自分の血液をお金に換えることで、当時は生活のために血液を売る者が大勢いたのであった。
昭和26年2月26日、日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」が大阪で営業を開始した。血液銀行とは健康な人から血液を集め、その血液を病院などの医療機関に卸す民間会社のことである。血液銀行の名前から公的機関との印象を受けるが、それは間違いで血液銀行は利益を目的とした民間会社である。
日本ブラッドバンクは中国で人体実験を行った731部隊の幹部が創立した会社で、日本ブラッドバンクは後にミドリ十字と社名を変え、戦後最大の薬害事件である「薬害エイズ」を引き起こすことになる。日本ブラッドバンクと同じように、厚生省が認可した血液の売買業者は都内だけで70団体に達し、血液売買は立派な商売になっていた。医学の進歩に伴って手術件数が増え、手術の需要増が売血の供給増をつくった。
昭和28年の学徒援護会よると、都内の学生22万人うち、供血業者に登録している学生は約2万人であった。つまり大学生の約1割が売血によって生活費を得ていたことになる。また登録学生のうちの1割が高校生だった。このように多くの学生が血液を売って生計を立てていたのである。
採血量は1回200cc、3カ月以上の間隔を置くことが決められていた。しかしそうであっても1カ月に10回、15回と血液を売る者が多かった。もちろんそれを承知で採血を繰り返す業者がほとんどであった。血液の値段は200ccが1100円で、3割が業者にピンハネされ、7割が学生に渡されていた。失業者や学生たちにとって、売血が手っ取り早い収入になっていた。お金が必要な人たちにとって売血ほど安易な方法はなかった。大学病院前の血液銀行は登録者が多く、順番がまわらないほどの人気だった。新宿区淀橋の東京医大病院の血液銀行では1日20人の需要に100人が押しかけていた。輸血と売血は、需要と供給のバランスがあり、登録しても順番のこない地区もあった。
昭和28年当時は、インフレと企業の人員整理が重なり、職を求める労働者が街にあふれていた。経済はどん底の状態で、学生のほとんどがアルバイトで学費や生活費を稼いでいた。東大生の8割が生活のためにアルバイトを希望し、希望した学生のうち職を得たのはその4割であった。アルバイトの内容もピーナツ売り、代筆屋、ホステス、サーカスの会場係などで、その中には病原菌の人体実験のために体を売る危険なものもあった。伝染病研究所が募集したアルバイトは3食付きで、赤痢菌を食べうまく発症すれば1000円の手当金が与えられるもので、この人間モルモットの日給は150円だった。
不況と就職難が重なったこの時代に、アルバイトを見つけるのは困難であった。事務系アルバイトが日給80円であったが、自分の血液を売ればその10倍の収入になった。血液を取り過ぎて貧血で倒れる者、顔に頬紅を塗って貧血を誤魔化して採血を受る者もいた。このように学生たちは自分の血液を売って卒業証書を手にしていた。まさに苦学の時代であった。
昭和28年12月11日、東京葛飾区の供血斡旋業・日本製薬工業で従業員のストが行われた。その際、日本製薬工業に血液を売って生活していた500人の学生たちが血液を買えと工場前に座り込む事件が起きている。このように売血は貧しい人たちの生活を支えていた。しかも血液を売る人たちは常連がほとんどで、そのため血液の濃度が薄く、さらに血清肝炎の発症率が高かった。
売血制度は多くの怪事件を引き起こしている。昭和27年12月、仙台市北署は窃盗容疑で中高生9人を逮捕。貧血症状が強く顔色が悪いため中高生を追及すると、中高生たちは週に3回自分たちの血液を売り、交遊や飲食に当てていた。少年たちは窃盗罪で送検されたが、青少年の健康状態を無視したまま採血する業者の存在が明るみになった。売血が犯罪に結び付く事件も起きている。金を持たない学生が恐喝され、血液銀行に連れて行かれ、血液を採られる事件が福岡を始めとして各地で起きている。
昭和39年3月24日、米国大使ライシャワーが精神障害の少年に右大腿を刺され、その際の輸血から血清肝炎になり、売血制度は一気に社会問題になった。いわゆる売血による「黄色い血(輸血後肝炎)問題」である。ライシャワー事件から2カ月後の5月18日に、輸血に用いられる血液の97%が売血によることが新聞社の調査で判明、売血制度そのものが問われることになった。
昭和39年6月、読売新聞・本田記者が労務者になりすまし、どや街に侵入して売血の実態を「黄色い血の恐怖」という題名で新聞に連載した。その中で血液銀行が暴力団がらみであること、特定のアパートや置き屋に売血者を住ませている業者がいることを指摘した。
「黄色い血」とは売血常習者が何度も血液を売るため、血球成分が少なく血漿部分が多くなり、血液が黄色く見えることから名づけられた。また「黄色い血」という言葉は輸血後肝炎による黄疸のイメージと結びつくことから多用された。
大学生を中心とした売血追放運動が各地で起こり、昭和39年8月、政府はそれまでの「売血」から「献血」へと転換することを閣議決定。全国的な献血組織が整備され、赤十字血液センターが各地に開設され、移動採血車の普及などの推進がなされた。
それまで採血車は全国に3台しかなかったが、一気に27台に増やし全国に配置された。日本赤十字社の各病院も全面協力し、昭和39年の献血者は約1万5000人であったが、翌40年には20万人を超えるまでになった。
各都道府県に赤十字血液センターが設置され、昭和44年に献血率は80%となり、昭和48年にはすべてが献血となった。これでようやく先進国並みの状態となり、以後現在に至るまで、輸血のすべては日本赤十字社が扱うことになっている。
輸血の歴史を簡単に説明すると、オーストリアの医師ランドシュタイナーが人間どうしの血液を混ぜ合わせると血球が凝集することを見出し、1900年(明治33)にこの現象は人間の血液型ABOによることを発見した。この血液型の発見が輸血の歴史の始まりである。1914年、血液は採血するとすぐに凝固するが、抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)を混入すると凝血しないことが分かり、血液保存が可能になった。
日本で初めて輸血が行われたのは大正8年であった。昭和5年に、浜口雄幸首相が東京駅で暴漢にピストルで撃たれる事件が起き、この時、東大の塩田広重教授らが東京駅に駆けつけ、駅長室で輸血を行って浜口首相を助けたことが大きな話題となった。このころから医療の進歩に伴い輸血が一般的に行われるようになった。
当時の輸血は病院で血液を採取し、そのまま輸血する方法がとられていた。患者の寝ているベッドの隣に血液の提供者を寝かせ、注射器で採血してすぐに輸血する方法である。このことから「まくら元輸血」といわれていた。いわゆる新鮮血輸血であった。
輸血が行われて以来、わが国における輸血の歴史はまさに輸血後肝炎との戦いの歴史であった。昭和36年に献血制度が導入されるまでは、輸血を受けた者の半数以上が肝炎に感染したとされている。
昭和44年に完全献血が実施されると、輸血後肝炎は16.2%に低下し、昭和61年には8.7%に低下した。平成元年にC型肝炎ウイルスの検査が行われるようになり、平成4年には輸血後肝炎は0.48%にまで低下した。それでもまだ輸血後肝炎が完全に撲滅できないのは、感染を受けてから抗体ができるまでのウインドウ期(感染しているが検査は陰性の時期)があるためである。現在では、ウイルスを核酸増幅させる検査によってさらに安全性が高められている。
現在、献血対象者は年齢が16歳から64歳で、体重は男性が45キロ以上、女性は40キロ以上の者で、そのほか血圧、血液比重、既往症、服薬などの条件が設けられている。また献血者の安全と血液の品質が配慮され、献血者には血液型、肝機能、コレステロール、総タンパクなど7種類の生化学的検査の結果が知らされ、健康管理の役割を合わせ持つようになっている。
輸血による感染防止対策として、従来からの梅毒検査、B型肝炎(HBs抗原)検査に加え、昭和61年からエイズ検査、成人T細胞白血病、平成元年からC型肝炎のスクリーニングが行われている。平成6年からは、輸血による重篤な合併症である移植片対宿主病(GVHD)を予防するため、輸血される血液には放射線照射が行われるようになった。また最近では、他人の血液を輸血せずに、自分の血液を輸血する自己血輸血という方法も行われるようになった。自己血輸血は手術が予定されている場合に、あらかじめ自分の血液を採血し、備蓄しておく方法である。
昭和60年、献血者は年間約870万人に達し、献血率は7.3%で、スイス、フィンランドに次いで世界第3位になった。しかし血液のなかの血漿成分からつくる血漿分画製剤(アルブミン製剤、免疫グロブリン製剤、血液凝固因子製剤)の自給率は低く、WHO(世界保健機関)から「自国で必要とする血液は自国で確保すべし」と勧告を受けることになった。
そのため昭和61年から献血量を1回200ccと400ccの2本立てにしたが、皮肉なことに61年以降、献血者は減り続け、平成12年の献血者は588万人となっている。献血については日本赤十字社の血液センターに電話をすれば詳しい説明を受けることができる。
狂犬病が恐ろしいのは、発症すれば犬も人間も100%死亡することである。パスツールによってワクチンが開発され、感染してから発症するまでの予防法は確立しているが、発症すれば100%死亡する最も恐ろしい疾患である。
江戸時代の徳川吉宗の時代に大流行があったが、これは将軍綱吉の出した「生類憐(あわ)れみの令」によって犬とのかかわりを人々に強制した結果、煩わしさから捨て犬が増加したことによる。明治5年に、犬の首輪に飼い主の住所氏名を記した木札をつけさせ、狂犬を見つけたら打殺することが定められ、明治14年には犬の登録制度が始まり、明治29年には犬の狂犬病を法定伝染病にした。しかし狂犬病は撲滅できず、大正時代は毎年500件から3000件の発症があった。昭和19年には狂犬788頭と患者46人が発生している。また昭和25年にも狂犬病が流行し、犬320頭が発症して21人が死亡した。
昭和25年、狂犬病撲滅のために狂犬病予防法が設定され、それまで放し飼いの野犬が多かったが、飼い主は登録が義務づけられ、飼い犬には強制的にワクチンの接種が行われた。保健所は野犬狩りを繰り返し、輸入犬の検疫が施行され、これらの予防体制によって日本から狂犬病が駆逐されていった。
昭和45年7月19日、ネパールを旅行していた日本大学の学生が首都のカトマンズで犬にふくらはぎをかまれた。青年は犬にかまれたこを忘れていたが、8月5日に帰国、同月16日になって急に呼吸困難をきたし、東京大学医科学研究所付属病院に入院となったが翌日死亡した。
青年の話を聞いた主治医は、狂犬病特有の上行性脊髄炎の症状から、都立衛生研究所に狂犬病ウイルスの検査を依頼、その結果、狂犬病による死亡であることが確認された。日本では昭和32年に狂犬病の最後の患者が報告されて以降、今日に至るまで狂犬病患者はこの学生を含む3例だけで、いずれも海外で犬に噛まれての感染である。日本国内ではかつて恐れられていた狂犬病はすでに過去の疾患になっている。
世界保健機関(WHO)によると、現在でも全世界で毎年6万人から7万人が狂犬病で死亡している。日本の狂犬病は撲滅しているが、世界的には狂犬病はまだ蔓延しており、特にインドや北朝鮮などのアジア、ロシア、アフリカでは狂犬病が多く、インドでは年間4万人近くが狂犬病で死亡している。
狂犬病が存在しない国は日本の他、オーストラリア、台湾、ハワイなどの海に囲まれた10カ国程度しかない。日本で撲滅されたのは、犬へのワクチン接種や検疫制度によるが、わが国が島国という地域的要因が大きい。
世界から狂犬病が撲滅できないのは、狂犬病ウイルスを媒介するのは犬だけでなく、猫、コウモリ、リスなど多くの哺乳類が関与しているからである。狂犬病ウイルスが犬だけに限られていれば、全部の犬にワクチン投与すれば撲滅は可能であるが、媒介する動物が多すぎるために撲滅できないのである。イギリスではコウモリが、フランスではキツネが感染源となっている。フランスでは国土の3分の1が汚染地区とされ、ワクチンを注入した鶏肉を森に置き、キツネの感染を予防しようとしている。
メキシコでは、洞窟に入って霧状になったコウモリの唾液を吸入して、狂犬病を発症した例が報告されている。ラブドウイルスに属する狂犬病ウイルスは唾液腺で増殖するので、狂犬病に罹患した動物にかまれると、唾液中の狂犬病ウイルスが傷口から浸入して発症する。ウイルスが体内に潜伏すると、潜伏期間は通常1カ月から2カ月だが、早い場合は10日間で、1年以上の例も6%ほどある。
潜伏期間に個人差があるが、潜伏期間は咬傷の程度、かまれた時の洗浄の有無、かまれた場所が関係している。発病率は頭頚部や顔面の咬傷では50%、手足等の露出部の咬傷では30%、衣服の上からの咬傷では10%とされている。
全体では、かまれても発症するのは2割程度であるが、いったん発症すると100%死亡する。発症時にはウイルスはすでに脳を侵しており、脳におけるウイルスの増殖を阻止する方法はない。
ヒトからヒトへの狂犬病の感染例は、患者が狂犬病に罹患していることを知らずに角膜を提供し、提供を受けた患者が発病した角膜移植の1例だけである。しかし患者に直接接触する医師、看護婦等の医療従事者は感染予防に十分注意すべきである。
狂犬病の前駆症状として発熱、頭痛、不快感、かゆみ、手足のしびれ、全身倦怠感などの風邪に似た症状がみられる。次に異常行動、見当識障害、幻覚、痙攣発作、麻痺などで、狂犬病に特有の症状として「恐水発作」が有名である。
恐水発作は水を飲もうとすると、あるいは水を見ただけで、のどに有痛性の痙攣が起きることである。これは咽頭麻痺によって水が飲めず、むせによって水に恐怖心を持つためとされている。また顔面や声帯が麻痺することから犬が叫ぶような声を出し、恐怖心から狂乱状態となるが、意識は最後まで残されている。精神錯乱、麻痺、呼吸障害、昏睡状態から突然死する。検査所見としては白血球が3万から4万に増加するが、死亡するまで診断がつかないことがある。発症から死亡までの期間は1週間以内である。
狂犬病の予防としては、流行地に行く場合にはワクチンの接種が有効だが、ワクチンの効果のない狂犬病ウイルスが知られているので万全ではない。ワクチンが効かないことがあるのは、狂犬病ウイルスは1種類だけでなく数種類あるからである。
日本では狂犬病の発生がみられないので、海外に出かけてもその危険性を認識していない人が多い。そのため海外で不用意に犬に近づき、かまれる例が後を絶たない。むやみに犬や野生動物に接触しないことである。
ワクチンの接種が勧められているが、狂犬病が疑われた犬などの野生動物にかまれた場合には、傷口を石鹸と水でよく洗うことである。このことでウイルスを不活性化することができる。また早期に狂犬病ワクチンと抗狂犬病ガンマグロブリンを投与することであるが、それでも死亡例が報告されている。かまれてから7日を経過した場合は予防効果はないとされ、もちろん発症した場合には治療法はない。死を待つだけである。
1992年、フランスを旅行していた日本人男性が、野犬に靴下の上から足をかまれた。男性はそのまま旅行を続けたが、かんだ犬が狂犬病と分かって現地でワクチンと狂犬病免疫グロブリンを注射し、さらに帰国後、都内の病院で5回ワクチンを接種して発病を免れた例がある。
狂犬病の犬にかまれればその対応は早いが、リスなどにかまれた場合はやっかいになる。リスが狂犬病に感染していないと確認されない限り、現地の医療機関を受診し、狂犬病ウイルスを含めた感染症予防策をとるべきである。
なお日本では狂犬病ワクチンは製造されているが、常備している医療機関は少ない。また抗狂犬病ガンマグロブリンは製造も輸入もしていない。このように日本の狂犬病への医療体制は不十分で、WHOの勧告通りの治療が受けられないのが実情である。
平成15年の犬の輸入頭数は約1万7000頭になっている。日本では狂犬病予防法に基づき輸入動物を検疫所で調べ、狂犬病の上陸を水際で防いでいる。また狂犬病予防法では飼い主が市町村に犬を登録し、年に1回予防注射を受けることを義務づけている。
日本国内では狂犬病の発症はみられないが、ペットブームにより世界中から動物が輸入されていることから、狂犬病が日本に上陸する可能性は残されている。また狂犬病の恐怖が薄れたことで、義務化されている予防接種を受けていない犬が5割以上に達している。厚生労働省は狂犬病の予防には7割以上の犬への接種が必要としている。
さらに犬以外の哺乳類は検疫を通らずに輸入されていて、いつ狂犬病が侵入してきても不思議ではない。例えばアライグマ、プレリードック、シマリスなどは、犬よりも狂犬病を感染しやすいとされている。事実、1992年アメリカでは8545頭のアライグマが狂犬病によって死亡している。ペットショップで売られている動物は人工繁殖された動物が多いが、狂犬病に感染していないという証拠はない。
WHOの調査では、人への感染源は犬82%、猫10%、牛1%、キツネ2%、その他5%となっている。なおアメリカでは3年間有効のワクチンが当たり前で、日本でも3年間有効のワクチンが可能であるが、狂犬病予防法が毎年の接種を義務づけているため、年1回の予防注射は獣医師たちへのボーナスとなっている。
中国などアジア各国で狂犬病が多発していることから、平成16年、農林水産省は狂犬病発生国から生後10カ月未満の子犬の輸入を禁止している。また輸入犬の皮下にマイクロチップを埋め込み、個体識別をすることを決めている。このような対策を立てているが、輸入動物の検疫は農水省で、予防注射や発病時の対策は厚労省の担当となっていて、この縦割り行政が狂犬病の予防と対策の問題となっている。
ところで疫病神と恐れられていた狂犬病のワクチンは、1880年、パスツールによって開発されたことは有名である。狂犬病のワクチンは、パスツールの偉大な業績のひとつで、当時はウイルスの概念はなかったが、犬の唾液によって狂犬病が伝染することが分かっていた。パスツールは狂犬病に感染させたウサギの脊髄液を処理してワクチンの研究を重ねていた。ある日、狂犬病のオオカミにかまれた少年がアルザスからパリのパスツールのところに連れてこられ、母親がパスツールに息子を治してくれるように懇願した。
パスツールの狂犬病ワクチンは弱毒化した生ワクチンで、有効性と安全性がまだ未確認だった。パスツールはもしワクチンで少年が死んだら殺人罪になると躊躇したが、ワクチンでこの少年を助けることになる。人類史上初めての狂犬病ワクチンの接種だった。
メイステル少年はパスツールの恩に報いるため、パスツール研究所の門衛として働くことになる。第二次世界大戦でドイツ軍がパリに侵攻し、パスツールのひつぎが納められている「パスツール廟」を開くよう命じるが、扉の前に立った門衛メイステルは、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたければ私を殺してからにしろ」といって自殺した。今もパスツール研究所の地下に「パスツール廟」があり、かつての少年、門衛メイステルの話はいまも語り継がれている。
胃カメラは胃潰瘍や胃がんなどの診断に欠くことのできない医療機器であるが、胃カメラを発明したのが日本人であることは意外に知られていない。
胃カメラの実用化は、東大医学部外科医の宇治達郎(30)、オリンパス光学工業の杉浦睦夫(32)、深海正治(29)によってなされた。彼らによる胃カメラの発明は、胃がんの早期発見に大きな貢献をもたらし、日本が内視鏡先進国となったのも、彼らの先進的な発想と努力による。
宇治達郎は軍医として戦場で多くの人を救うことができなかったことを悔やんでいた。生き残って帰ってきた自分に対し、ひとりでも多くの命を救うことが使命としていた。病院では数多くの胃がん患者が命を落としており、宇治達郎は何とか胃がんを早期発見できないかと考えていた。このことが胃カメラ開発への情熱と執念となった。
日本人は欧米人に比べ、胃がんの頻度が高いことが知られており、胃がんは日本人の人種的特徴とされていた。昭和25年頃まで、がん死の約半数が胃がんによるもので、胃がんの死亡率は90%以上であった。この胃がんの死亡率が、昭和25年以降ゆるやかに減少し、平成10年にはがん死の第1位を肺がんに譲るまでになった。
誤解のないように説明を補足するが、胃がんによる死亡が減少したのは、胃がんの発生頻度が減少したからではない。胃がんの早期発見が可能になり、早期治療が行われるようになったからである。胃カメラの発明以来、胃がんの死亡率は低下するが、これは胃カメラによる早期発見、早期治療の功績といえる。
かつて胃を直接のぞく「胃鏡」という胃カメラの原型があった。胃鏡は長さ70センチの金属製の固い管を口から胃に入れ、直接肉眼で胃をのぞく方法である。この胃鏡は大道芸人が長い刀を飲み込むのをヒントに作られたもので、患者に与える苦痛が大きく、食道や胃を破る危険があった。また胃管を扱う技術習得が困難で、視野が狭いため盲点が多いことから普及しなかった。
当時から、バリウムを飲んで胃を撮影する方法はあったが、レントゲン写真では胃潰瘍と胃がんの鑑別には精度が不十分だった。ときには切らなくても済む胃潰瘍まで手術をすることがあった。胃の内部を超小型カメラで撮影しようとする発想は以前からあったが、真っ暗な胃の中をどのように撮影するのか、また径14ミリの食道の中をどのようにカメラを通すのか、胃カメラの開発には多くの難問があった。
宇治達郎は胃カメラ開発の話を高千穂光学工業(現、オリンパス光学工業)に持ち込んだ。東京にあった高千穂光学工業は東京大空襲で焼け、拠点を長野県岡谷市に移していた。当時の高千穂光学工業は、戦後復興の社運を位相差顕微鏡の製品化にかけ開発を急いでいた。
昭和24年8月31日、宇治達郎は高千穂光学工業の常務から主任技師長の杉浦睦夫を紹介され諏訪の工場を訪ねた。杉浦睦夫は宇治達郎の話を聞き、「人間の体内をのぞくことで、胃がんの早期発見をしたい」という宇治の話しに熱意を感じた。
杉浦睦夫は研究所長に胃カメラ開発の話を持ち込んだが、厳しい口調で反対された。所長は光のない胃の中を写すことは不可能と判断、「胃カメラを考える時間があるなら、社運をかけた位相差顕微鏡を早く完成させろ」と命じた。
宇治達郎が諏訪から東京へ帰る日、偶然にも、杉浦睦夫も東京に行く日であった。杉浦と宇治は、下諏訪発の準急列車に乗って一緒に東京へ行くことになった。ちょうどその日、死者132人を出したキティー台風が関東地方を直撃。そのため2人が乗った東京行きの列車は暴風雨の中で停止してしまった。胃カメラの開発は不可能と告げられていた2人は気まずい思いをしていた。ところが列車が動かないことを知ると、どちらからともなく胃カメラの話になり、2人の議論は次第に熱を帯びていった。キティー台風が車内での徹夜の議論を生み、杉浦は超小型カメラの開発を決意した。
高千穂光学工業は宇治達郎が持ちかけた胃カメラの開発は不可能と判断し、杉浦睦夫に研究の時間を与えなかった。だが胃カメラ開発の魅力に取りつかれた杉浦は会社に内緒で胃カメラの研究に乗り出した。昼の勤務時間は位相差顕微鏡の研究を行い、会社に誰もいなくなる夜を待ち胃カメラの研究に没頭した。
宇治達郎に会った日から2カ月が過ぎた10月12日、その日は会社創立30周年の記念日で、社名が高千穂光学工業からオリンパス光学工業に変わった日であった。杉浦睦夫が開発した位相差顕微鏡が、オリンパス製品第1号として華々しく発表された。杉浦睦夫の人生において最も輝かしい日になるはずだった。
ところが発表会の会場で、「位相差顕微鏡も所詮はアメリカの模倣」という社員のヒソヒソ声が杉浦の耳に入った。杉浦はこの言葉にがくぜんとした。オリンパス幹部は杉浦に「より高性能で使い勝手のよい位相差顕微鏡の改良」を命じたが、「アメリカの模倣」という言葉に、杉浦の頭の中は世界初の胃カメラの開発だけになった。
欧米の物真似でない独創的な研究、多くの人たちに貢献できる研究、杉浦睦夫は寝食を惜しんで開発に専念した。会社は胃カメラの開発には反対であったが、会社の反対が皮肉にも杉浦の研究者魂に火をともした。杉浦睦夫は会社の承諾のないまま公然と胃カメラの研究を行うようになった。取りつかれたように、不可能を可能にしようと研究を進めた。終戦間もないころである。不可能であっても挑戦する技術者魂があった。
胃カメラ開発で最も困難だったのは、胃の中にどのように光を持ち込むかであった。光源の小型化には限度があった。たとえ小型化に成功しても照度が不足した。杉浦は部下の深海正治に「フラッシュの研究」を名目に胃カメラの研究に専念させた。杉浦はフラッシュの光で胃壁を写せると信じていた。
胃カメラは先端部分(カメラ、ランプ、フィルム)、連結部分(操作のひもや導線)、操作部分(シャッター、フィルムの巻き上げ)、電源と送気部分(胃に空気を送る)から成り立っている。このうち先端のカメラ部分と連結部分が口から体内に入ることになる。
宇治達郎は東大病院の診療を終えると、毎日のように杉浦の研究室を訪ね、論議を交わした。議論の結果、人間の食道の口径が14ミリなので、胃カメラの管の直径は12ミリ、内径は8ミリに決まった。管の先端に小型レンズ、ランプ、フィルムを内蔵させ、それを手元で遠隔操作をすることにした。
接写レンズは顕微鏡磨きの名人に依頼し1カ月後に完成した。直径5ミリのランプは職人が改良を繰り返し完成させた。フィルムはASA20の市販の35ミリのフィルムを6ミリ幅に切って利用した。フィルムのコマ送りはフィルムの先端に三味線の弦をつけ、手元で引っ張る方法を生み出した。手元のボタンを押すとランプが点灯し、胃の中を撮影できる仕組みだった。
最も苦労したのは、胃の中を照らす直径5ミリの豆電球の開発であった。豆電球は電球職人の丸山政人(23)が担当し、丸山はフィラメントを2重にした電球を作った。だが電球は4回の発光で切れてしまった。胃カメラの電球は20回以上発光しないと使い物にならない。丸山はさらに改良を重ね、20回以上発光する電球を完成させた。水を入れたフラスコに方眼紙を張り、それを胃袋に見立てて暗室で写真を撮る実験が進められた。
昭和24年12月、東大病院で犬を用いて胃カメラの実験が宇治達郎と新人医師・今井光之助(23)によって始められた。胃の写真を撮るには胃を膨らませる必要があった。そのため胃の中に水を入れての実験が繰り返された。実験には10匹以上の犬を用いたが、水中写真は失敗の連続であった。注入した水と胃の分泌物が混濁し、視野を遮ったのである。次に胃に空気を送り、胃を膨らませる実験が行われた。この空気の送入によって、犬の胃の内部写真の撮影に成功した。
胃の内部を撮る実験は、病院勤務を終えた夕方以降に行われていた。ある日、実験に没頭して部屋の電気を付け忘れていた。その時、薄暗い研究室の中で胃カメラのシャッターを切るたびに犬の腹が電球の光で内部から透けて見えるのに気がついた。その当時の胃カメラは直接肉眼で胃をのぞけないので、胃のどの部分を撮影しているのか分からなかった。ところが腹壁の光の位置で、胃のどこを撮影しているのか分かったのである。
腹壁を通して見えるフラッシュの光の位置を参考に、胃の中を想定しながら手元でシャッターを切った。また胃壁にレンズが近づき過ぎると像の焦点がぼやけてしまったが、管の先に透明なコンドームをつけて膨らませ、胃壁とレンズの間に5センチの距離を取る工夫がなされた。
腹壁から見えるランプの光を参考にフラッシュの方向、操作部の目盛りを見ながらの撮影で、フィルムを現像して初めて胃の内部を読影できるものであった。昭和25年9月、人を使っての実験が行われた。薄暗い手術室で患者の腹が21回光った。祈る気持ちで写真を現像すると胃潰瘍が写っていた。世界で初めて人間の胃の内部写真が撮影されたのである。手術が行われ取り出された病変は、写真に写っていたのと同じだった。
試行錯誤を繰り返した末、宇治達郎と杉浦睦夫は、出会いからわずか1年で胃カメラを世界で初めて完成させた。英語で胃のことをガストロ(Gastro)と呼ぶため、語呂もよくわかりやすいことから「ガストロ・カメラ(Gastro-camera)」、通称「胃カメラ」と命名した。この胃カメラの完成は若い医師の熱意と、若い職人たちの努力の結晶であった。
昭和25年11月3日の日本臨床外科学会で、宇治達郎は胃カメラを用いた臨床例を世界で初めて発表した。胃の内部を撮影した30枚の写真が提示された。この胃カメラは全国発明協会から発明賞を受け、その後、オリンパスは宇治達郎、杉浦睦夫、深海正治の連名で胃カメラの特許を申請し、日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで特許を得た。オリンパスはこの特許により、内視鏡の世界シェア8割を占めるまでに成長することになった。
現在、胃内視鏡検査には胃カメラは用いられていないが、胃カメラは光ファイバーを利用した胃ファイバースコープ、モニターテレビとして映し出す電子内視鏡に受け継がれ、今日の内視鏡診断に大きな役割を果たした。胃カメラという言葉は親しみやすいため、現在でも胃内視鏡検査の通称として用いられている。このことからも胃カメラの存在がいかに偉大であったかが分かる。
日本の医学はあらゆる分野において欧米追従で、独創的な研究はほとんどなされていない。しかし胃や食道などの消化管疾患については、現在でも日本は世界最先端の研究がなされている。日本で作られた早期胃がんの分類は世界の標準として用いられているが、これも彼らが発明した胃カメラの功績といえる。
宇治達郎は学位論文「腹腔内臓撮影用写真機を用いた診断法」により博士号を得ている。宇治達郎は胃カメラを開発した後、東大医学部の肩書きを捨て開業医になった。自分が胃カメラを開発したことを患者に話さず、町医者として地域医療に貢献していたが、昭和55年11月27日に死去。大宮市より市民栄誉賞が贈られ、現在さいたま市大宮区大成町の普門院にある宇治家の墓所に顕彰碑が建っている。
杉浦睦夫は胃カメラを発明して間もなくオリンパスを退社。昭和33年に杉浦研究所を設立し、医療機器の発明に挑戦し続けたが、昭和61年8月、心筋梗塞で死去。
深海正治は世界初の心臓ファイバースコープや大腸ファイバースコープを開発。現役時代は「仕事の鬼」と呼ばれ、取締役時代に内視鏡医学振興財団を設立した。退職時「技術は日進月歩。進歩についていけない技術屋は一切口を出すべきでない」と膨大な資料や蔵書をすべて破棄して引退した。
平成2年、「胃がん・胃潰瘍の早期発見に著しい成果を上げ、世界の医学発展に大きく貢献した功績」により故宇治達郎、故杉浦睦夫、深海正治の3人は吉川英治文化賞を受賞している。
この胃カメラ開発の経過は、吉村昭の小説「光る壁画」として新潮文庫に納められている。
被爆周辺事件(昭和29年)
ゴジラ
水爆実験に対する国民的な怒りと恐怖が日本をおおう中,東宝映画「ゴジラ(東宝:本多猪四郎監督)」が昭和29年11月3日の「文化の日」に封切られた.この異色の映画は,水爆実験とは直接の関係はないが,第五福竜丸事件にヒントを得てつくられた.ゴジラは単なる怪物映画ではなく,水爆実験反対する強い抗議のメッセージを含んでいた。ゴジラの名前は,ゴリラとクジラを組み合わせたものであった.
ゴジラの映画は,アメリカの水爆実験によってジェラ紀の原始恐竜が太古以来の眠りから目をさまし,東京を襲うというストーリーであった.口から放射能を噴出させ,国会議事堂などを破壊し暴れまわるという設定で,放射能を含んだ火炎で東京が破壊されるシーンやケロイドを思わせるゴジラの皮膚は水爆実験にたいする恐怖と抗議の気持ちが含まれていた.ゴジラが去った東京の風景はまさに原爆で破壊された広島,長崎のようであった.この映画が反原爆映画であるのかどうかは,ラストシーンで,「もし水爆実験が続いて行われたら,ゴジラの同類が世界のどこかに現れるかもしれません」と述べていることからも分かるはずである.
映画ゴジラの観客動員数は961万人であり,動員数は邦画での大記録を達成した.この当時は日本の映画会が最も繁栄していた時期であった.そして巨匠といわれる人たちの作品が次々に作られ,黒沢明監督の「七人の侍」,木下恵介監督の「二十四の瞳」が同じ昭和29年に封切られている.そして前年には,衣笠貞之助監督の「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリ、ベネチアでは溝口健二監督の「山椒大夫」が銀賞を受賞している。東宝映画「ゴジラ」はその中でも最も観客を動員した映画となった.ゴジラは特殊プラスチックのぬいぐるみで,中に人がはいって操作していた.この特撮撮影を担当していた円谷英二はゴジラによって名声を高め,ゴジラはシリーズものとなった.そしてモスラやラドンなどの対戦相手が続々あらわれ観客を楽しませた.またゴジラの息子も登場するなど最終的に20作以上の「ゴジラもの」が生み出され多くの怪獣映画ファンを生んだ。円谷英二は独立してウルトラマンなどのヒット作品を生みだした.
ロンゲラップ島の悲劇
原水爆禁止運動のきっかけとなった「第五福竜丸事件」は世界的によく知られている事件であるが,水爆実験場に近いミクロネシアの島々の住民にも水爆は甚大な被害をもたらした.この事実は長い間秘密にされていたが,決して忘れてはいけない事実である.
昭和29年3月1日,ビキニ環礁で水爆実験がおこなわれた.使われた水爆「ブラボー」は第五福竜丸を襲ったのと同じで,広島型原爆の750〜1150倍という爆発力があった.この予想をはるかに越えた水爆の威力がミクロネシアの住民を襲ったのである.ビキニ環礁から190キロ離れたにロンゲラップ島とウトリック島の二つの島にも第五福竜丸と同じ様に,6時間にわたり死の灰が降り注いだ.子供たちは初めてみる雪のような白い粉を身体にかけあって遊んでいた.しかしやがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った.島の住民243人,さらにはロンゲリック島にいた米兵観測隊員28人も放射能の犠牲になった.そして放射能を体内に取り込んだ島民は甲状腺疾患などの放射能障害で苦しむことになる。甲状腺ガンにより島民18人が死亡したことが後に公表された.ロンゲラップ島の住民たちは被爆の事実を一切知らされず,されに彼らは治療よりもアメリカによる健康被害の研究対象とされた.40年間にわたり続けられた米国による医学的追跡調査は人体実験まがいの行為と言える.文明から閉ざされていたロンゲラップ島の住民たちに対するアメリカの行為は,太平洋の少数民族に対する重大な人権抑圧として厳しく批判された。昭和60年年5月、ロンゲラップの全島民は汚染した故郷を捨て,200km南のクエゼリン環礁メジャト島に移住することになった。しかし新しい島に移住しても,奇形のある子供の誕生が続くなど島民の不安はつきることはなかった.島の住民全員が原水爆のモルモットにされたのである.
C型肝炎
第5福竜丸の無線長久保山愛吉さんは被曝から半年後に死亡,残りの乗組員は放射能障害から回復し約1年後に退院する。だが大量の輸血受けた乗務員は放射能障害に加え輸血による肝障害に苦しめられることになる.輸血の際に混入していたC型肝炎ウイルスは乗組員の肝臓に潜伏しつづけ,30年を経過したころから肝硬変、肝ガンという致命的なダメージを与えはじたのだった。死亡した元乗組員は久保山を除いて10人.例外なく肝硬変、肝ガンを発症し,そのための死亡であった.残る12人のうち半数以上が肝機能障害を抱え肝ガンの恐怖と対峙しながら生きている.乗組員のなかで肝機能が正常だったのは1人だけであった.
ビキニの水着
ビキニの水爆の衝撃が世界中を駆けめぐるなか,フランス人の発明家ルイ・ルアールがビキニの水爆のように衝撃的な姿であるというビキニの水着を考案して特許を取った。日本には昭和42年にお目見えし,男性の目を楽しませてくれた.当時はワンピース型よりセパレーツ型の人気が高く,ミニスカートの流行などもあり,女性の肌の露出度が異常なほどに高まっていた時期である。多くの女性がこのビキニに飛びつきビキニは日本でも流行することになる。このビキニは 1970年代にかなり普及したが、1980年代に入ると体型を気にせずに着られるワンピース型が再び主流になり,ビキニはほとんど着られることがなくなった。しかし最近,若い女性を中心にまた復活をみせている.
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第五福竜丸事件(昭和29年)
静岡県焼津港を母港とするマグロ延縄漁船・第五福竜丸(156トン)が,マーシャル諸島のビキニ環礁北西168キロの海上でアメリカの水爆実験に遭遇し,筒井久吉船長以下23人の船員が放射能を含む「死の灰」を浴びた.
それは昭和29年3月1日,午前4時12分のことであった.夜明け前の南太平洋の星空の下で延縄作業をしていた第五福竜丸の船員たちは不思議な光景を目にした.突然,南西の水平線から巨大な閃光が上空に向かって一斉に昇ったのである.そして火の玉のように暗闇の海を真昼のように明るく照らし出したのであった.「太陽が西から上がった」第五福竜丸の船員はあっけにとられていた.
そしてその閃光から6〜7分が経ち,ドーンという爆発音が周囲に轟きわたり,爆風によって船体は激しく揺れた.やがて空全体が暗黒のキノコ雲のかさに暗く覆われ,閃光から約3時間後には放射能を含んだ白い灰が第五福竜丸の甲板一面に降りそそいだ.
「死の灰」は,水爆実験により破壊されたビキニ環礁の珊瑚が上空に舞い上がったもので,粉々になった珊瑚には大量の放射性物質が含まれていた.第五福竜丸はビキニ環礁から168キロも遠く離れていたが,甲板には足跡がはっきり残るほど死の灰が降り積もった.船員たちはこれが水爆による「死の灰」とは知らなかった.頭上から灰を浴び,船員の中には降り積もった灰をなめてみる者もいた.そしてこの得体の知れない白い灰に不安を抱いた.この海域から逃げ出そうと,海中に投げ入れてあった延縄を早く引き上げようとしたが,数キロにもおよぶ延縄を船員たちが引き上げ終えたのは午前10時半すぎであった.
引き上げ作業のあいだ,船員たちはこの奇妙な現象が原爆実験によるものではないかと疑い始めていた.以前からアメリカが設定した立入禁止区域で原爆実験が行われているとの噂があったからである.第五福竜丸はその危険区域のはるか遠くで操業していたが,核実験の可能性は否定できなかった.通信長の久保山愛吉はこの奇怪な事件を沼津母港にはいっさい報告せず,また帰港の無電も打たずにいた.もし無線がアメリカに傍受されたら,米軍によって第五福竜丸が沈められることを危惧したのである.放射線の恐ろしさよりもアメリカの軍事秘密を知ってしまったという恐怖が大きかった.第五福竜丸はひたすら焼津を目指し,全速力で帰路を急いだ.
被爆から時間が経つにつれ,船員の中には頭痛,嘔吐,めまい,食欲不振を訴える者が出始めた.そして翌日には激しい下痢と倦怠感が全員を襲った.3日目になると灰に触れた皮膚が日焼けしたように赤くただれ,10日ぐらい経ってから水泡を形成した.そして頭髪に触れると頭髪がごっそり抜けるようになった.これらは急性放射線障害の症状であった.
第五福竜丸はもちろんアメリカが設定していた立入禁止区域のはるか遠くで操業していた.しかし水爆の威力がアメリカ軍の予想をはるかに上回っていたのである.ビキニ環礁の地上46メートルで炸裂したアメリカの水素爆弾「ブラボー」は,広島型原爆の750から1150倍という威力を持っていた.
第五福竜丸は被爆から2週間後の3月14日早朝,焼津に帰港した.彼らを出迎えにきた家族たちが見たのは,異様に日に焼けした船員たちの顔であった.船員たちは黒く汚れた顔を隠すようにマグロの水揚げをすませると,焼津協立病院(現焼津市立総合病院)で診察を受けることになった.その日はちょうど日曜であったが,診察にあたった大井俊亮外科部長は,船員たちの鼻や耳,手などの露出部の水泡を見て,また脱毛,結膜炎などの症状から原爆症を疑った.もちろん大井外科部長にとって原爆症は専門外なので,体調の悪い2人を翌日東大病院へ移すことにした.さらに保健所に連絡し,放射線測定器で第五福竜丸を調べてほしいと願い出た.
大井外科部長の要請により,静岡県から依頼された塩川孝信・静岡大学教授は調査のために焼津に向かうことになった.ガイガー・カウンター(放射線測定器)を手にした塩川教授は福竜丸に近づくにつれカウンターの音が次第にカン高く鳴りだし,その音に塩川教授は緊張の度を増していった.福竜丸船内に入るとカウンターの針は毎時110ミリレントゲンの数値を示していた.放射線の人体への許容量は24時間で2ミリレントゲンである.船内の放射能は殺人的な数値を示していた。そして船員全員をガイガー・カウンターで計測したところカウンターは激しく反応し,船員たちは「急性放射能症」と診断された。
第五福竜丸が焼津に帰航した翌日の3月15日,読売新聞・静岡支局の安部光恭(みつやす)記者は殺人事件の取材で島田警察署に詰めていた.安部記者は下宿からの電話で,第五福竜丸の事件を知った.「第五福竜丸がピカドンにやられたらしい.みんなヤケドをおっている」この下宿からの知らせに安部光恭は驚き,他の記者たちに気づかれないように警察署を飛び出し,急きょ船員の自宅へと向かった.しかし船員の家族はスパイと誤解されることを恐れ,安部記者の取材に非協力的であった.安部記者は被爆の事実を確かめるため乗務員を診察した焼津協立病院を取材し,被爆の事実を確信した.そして翌3月16日,読売新聞全国版・社会面のトップ記事として第五福竜丸事件が報道されることになった.
「邦人漁夫,ビキニ原爆実験に遭遇,23人が原子病,1名は東大で重症と診断」,この読売新聞の記事は国民の目を奪い,この大スクープは日本中に衝撃を与えた.書かれた記事の中にある水爆の文字に日本中がパニック状態におちいった.そして国内はもちろんのこと,第五福竜丸事件は国際問題へと発展していった.
翌17日には,第五福竜丸の被爆がアメリカの水爆実験による可能性が高いことが報じられた.アメリカは戦後,ビキニ環礁で原爆実験を繰り返していたが,今回の実験は原爆ではなくその数百倍の威力をもつ水爆実験であったことが明らかになった.日本にとって広島・長崎の被爆から9年の後に,再び核兵器による被爆をうけたのである.ビキニ環礁の水爆実験は科学者の予想をはるかに超えた爆発力を示したのである.放射雲は32キロの高さまで噴き上げ,粉々となった珊瑚礁は空気の希薄な成層圏まで広がり,立ち入り禁止区域のはるか外にまで死の灰を降らせたのである.
この被爆事件に対するアメリカの対応は威圧的であった.アメリカは「第五福竜丸がスパイ行為を働いていた」と主張し,また「日本側の被害は誇張によるもの」と非難を繰り返した.さらに第五福竜丸がアメリカの設定した危険水域で操業していたと主張し,被爆の責任を転嫁しようとした.核軍備拡張を目指すアメリカにとって自国の間違いを認めるわけにはいかなかった.アイゼンハワー大統領は「侵犯されれば,即時大規模な報復措置をとる」と力でねじ伏せる威圧的な会見を行い,3月26日には再度の水爆実験を行い,日本政府の補償請求を相手にしなかった.
中泉正徳・東大医学部教授は第五福竜丸の乗員の治療方針を立てるため,核分裂の種類と半減期を公表するように米軍関係者にせまった.しかし米軍は公表するといったんは約束したが,結局その約束は守られなかった.元気だった乗員はしだいに肝障害を起こし,3月28日,第五福竜丸の重症者7人が東大病院へ,残り16人が東京第1病院に入院することになった.
東大病院医師・三好和夫が乗員23人の治療方針を決めることになり,被爆による骨髄抑制に対しては抗生剤と輸血で対応することになった.船員のほとんどが白血球の低下と骨髄障害を起こしていた.アメリカの医療調査団が被爆者治療のため来日したが,日本医療団はアメリカの協力を拒否することにした.アメリカの医療調査団は,患者のデータに興味を示すだけで治療には非協力的であったからである.また放射能医学については日本の方がアメリカよりも上であるとの自信があった.さらに日本医療団がアメリカの協力を拒否したのは,患者をスパイ扱いにしたアメリカに対する日本側の悪感情が最も大きな理由であった.外務省はアメリカの医療調査団に協力するように要請したが,日本の医師団はかたくなに拒否したのだった.
昭和29年9月23日,午後6時56分,それまで重症だった無線長・久保山愛吉さんが肝不全から意識混濁となり,東京第1病院の1部屋で亡くなった.40歳の若さであった.久保山愛吉さんは「おれのような苦しみは,おれひとりでたくさんだ」の言葉を残し他界したのである.ビキニ海域で灰をあびて半年,その灰が「死の灰」となったのである.世界最初の原爆の洗礼を受けた日本が,また水爆によって世界で初めての犠牲者をだした.そして世界的な注目を集めながら遺体の解剖が行われた.7時間におよぶ解剖の結果,皮下には無数の火傷跡が認められ,黄疸症状を裏付けるように肝臓から放射能が検出された.病名は栗山副院長により「放射能症」と発表された.
国民的な悲しみと抗議の中で,久保山さんの死は遺族のみならず全国民に大きな衝撃と怒りをもたらした.久保山さんの死について湯川秀樹博士は「この一人の犠牲が,原爆・水爆を製造しつつある大きな国々の人々に,人間らしい気持ちを蘇らせるだろう」と語った.それまで静観していた米大使館も「遺族に深い同情をよせている」との声明を出し,久保山愛吉さんの未亡人に香典として百万円を送った.
昭和30年5月20日,第五福竜丸船員22人が1年2ヶ月ぶりに退院,帰郷することになった.このような恐ろしい事態になるとは船員の誰もが想像しなかったことであった.
死の灰の影響は第五福竜丸の乗務員のみならず,全国の漁業関係者にも大きな打撃を与えた.第五福竜丸が積んでいたマグロはすでに東京・築地に出荷されていたが,焼津港からの連絡でマグロは隔離された.東京都衛生局の職員がマグロにガイガー・カウンターを近づけると激しい反応を示した.マグロから強い放射能が検出されたのである.これら原爆マグロはすべて市場の隅に深さ3メートルの穴をほり,地中深く埋められることになった.
この死の灰による水爆の被害は,第五福竜丸ばかりではなかった.三崎港のマグロ船第13栄光丸,石巻港第五明神丸も同様に被爆していることがわかり,放射線汚染を受けた大量のマグロは赤ペンキを塗り房総半島沖に破棄された。
その後の調査により,原爆マグロを持ち込んだ漁船は855隻に達し,破棄されたマグロは500トンにおよんだ.そのため全国各地でマグロの値段が暴落し,マグロの値段は半値以下になった.それでもマグロは売れ残り,さらに魚全体の売り上げも極度に低下し,漁業関係者は大きな打撃を受けることになった.マグロ漁業協同組合はマグロを国会議員に試食させ,マグロの安全性を宣伝したが,効果はまるでなかった.国民が受けた放射能への不安は大きく,魚を食べて具合が悪くなったと病院を受診する者が相次いだ.
第五福竜丸の被爆をきっかけに,雨,水道水,農作物などの放射能含有が調べられ,それらが放射能に汚染されていることが報道された.米ソによる核爆発実験によって大気汚染,海洋汚染は地球全体に広がっていったのである.伊豆大島の天然飲料水から95カントの放射能が検出,静岡の緑茶から10グラムあたり75カントが検出,東京都のキュウリから,10グラムあたり84カントが検出され,農作物の放射能汚染が問題となった.厚生省は「野菜はよく洗って食べるように」と指示を出したほどである.
このため国民の「死の灰」への恐怖はますます大きくなり,国民は目に見えぬ放射能に怯えながら,それでいてなすすべがなかった.雨には放射能が含まれ,外出はひかえられ,放射能不安が日本を覆っていた.子供たちの間では,放射能の雨に当たるとハゲルと噂されたが,放射能不安はハゲルどころではなかった.深刻な衝撃を全国民に与えた.
ビキニの水爆実験に引き続いて, 昭和30年1月にはソ連の水爆実験も始まり,放射能に汚染された放射能雪が裏日本一帯にふり注いだ.雪片は水滴より大きいため放射能が付着しやすく放射能雨に比べ汚染度が数倍高かった.
久保山愛吉さんの死,被爆マグロ,放射能雨,放射能雪などにより国民の核実験への恐怖は増大していった.このような時代の流れの中で,全国的な核実験禁止運動が高まることになる。さまざまな団体が超党派的に結集し,全国規模で原水爆禁止運動が始まった.この原水爆禁止運動で注目されたのが原水爆禁止の署名運動である.
●原水爆禁止運動
米国がビキニ環礁で行った水爆実験で第五福竜丸乗組員を被爆させたことは、原爆の唯一 の被爆国である日本国民にショックをあたえた。国民はまぐろ・飲料水・野 菜等の放射能汚染におびえ、雨季に入ると放射能雨は学齢児童をもつ母親を不安におとしいれた。これを機に原水爆禁止要求ははげしく盛り上り全国民運動となった.特に婦人の活動は目ざましかった。すでに4月には東京梅ガ丘主婦会の署名運動や埼玉婦人大会の禁止決議がなされた.杉並区の主婦らは読書サークル「杉の子会」など40 余団体による区婦人団体協議会を結成,公民館長・安井郁を中心に5月9日杉並協議会を結成,原水爆禁止署名運動をおこなった.主婦たちが呼びかけた「杉並アピール」が全国規模に広がり,原水爆禁止の署名運動が日本全国でおこなわれた.
「杉並アピール」は,①原水爆禁止のために全国民が署名しましょう.②世界各国の政府と国民に訴えましょう.③人類の生命と幸福を守りましょう.この3つのスローガンを揚げ,「このような全日本国民の署名運動で原水爆禁止を真剣に訴えるとき,私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし,人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます」とのアピールの言葉で結ばれていた.
この杉並アピールは人々の心を深く捉え,署名数は50日間で27万人に達した.そして署名数は12月には2000万人,最終的には3300万人に及んだ.署名運動は日本から世界へと広がり,世界各国での禁止署名も1億6千万人を超えたことが報告された。世界的に水爆反対の声が高まり,赤十字社連盟理事会、ユネスコ執行委員会など数々の団体が核実験反対の決議を行った。世界の世論も原水爆禁止へと向かい,原爆が投下されてから10年目の昭和30年8月に平和記念式典とともに第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されることになった.「原爆を許すまじ」の歌が作られ広まった.
原水禁世界大会は,それ以降,被爆地の広島・長崎と東京で毎年開催されたが,第9回大会からは運営の基本方針をめぐり社会党・総評系と共産党が対立したため大会は分裂した。社会党・総評系が昭和40年に結成した「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)と共産党系の「原水爆禁止日本協議会」(日本原水協),これに民社党・同盟系がつくった「核兵器禁止平和国民会議」(核禁会議)が加わり、原水禁運動はこの3団体によって統一と分離を繰り返しながら進められた。このように原水爆禁止運動は次第に政治の垢に染まってゆくことになる.
● その後の第五福竜丸
被爆から2年後の昭和31年,「第五福竜丸」は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として生まれ変わることになった.そして昭和40年までの10年間,学生の練習船として大海を走った。しかし第五福竜丸は老朽化により故障が頻繁になり,利用できる部品は全て抜き取られ,ディーゼルエンジンは木造貨物船「第三千代川丸」に搭載された.そして「第五福竜丸」は東京・夢の島に廃船として遺棄され,ゴミにまみれながら朽ち果てるところであった.
しかし捨てられていた第五福竜丸を救ったのは,1人の青年が朝日新聞「声」欄へ投書したことがきっかけとなった.「沈めてよいか、第五福竜丸」「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」,この言葉が新聞の投書欄に載ると大きな反響を呼び保存運動が始まることになる.
いっぽう第五福竜丸のエンジンを積んだ「第三千代川丸」は,昭和43年7月21日に横浜港から神戸へ潤滑油のドラム缶717本を満載して 向かう途中、濃霧のため三重県御浜町沖で坐礁沈没してしまった.第五福竜丸と離ればなれになってしまったエンジンを引き上げたいという市民の熱意がもりあがり,御浜町沖に沈んだままになっていたエンジンも引上げられ、第五福竜丸はエンジンと再会することになった。昭和51年、市民の粘り強い保存運動によってビキニ水爆実験被害の「証人」として、第五福竜丸は夢の島の展示館で余生を過ごすことになった。
第五福竜丸は現在,東京・夢の島公園「都立・第五福竜丸展示館」に展示され,ビキニ環礁の悲劇を無言のまま語り続けている.
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人間ドック(昭和29年)
医療の目的は病気を治すことであるが,人間ドックの目的は病気を早期に見いだし,軽症のうちに対策を講じ,重症化する前に病気を治療することである。そのため人間ドックの対象者は自覚症状のない者がほとんどである。人間ドックの名称は,航海中の安全のために定期的にエンジンや船体をチェックする「船舶ドック」から転用されたもので,人間も船舶と同じ様に「自覚症状をきたす前に病気をチェックする必要がある」という考えに基づいている.
昭和29年7月12日に,国立東京第一病院(現,国立国際医療センター)院長・坂口康蔵の発案により人間ドックが始められた.この人間ドックの名称も坂口康蔵によって命名されたものである.この人間ドック利用の第1号は代議士の首藤新八夫妻で,身長,体重,血圧測定,尿,血液が調べられ,医師の総合的判定と生活指導などがおこなわれた.期間は5泊6日で料金は1万2000円,当時としては高額な金額であった.
このように社会的な地位にある者が,安心して社会活動を行えるように体調を整える目的から人間ドックが始まった.戦後の混乱が落ちつき,生活に多少のゆとりが生じ,国民の関心が自分たちの健康に向いていったのである.
また人間ドックが普及したのは,ペニシリンを初めとした抗生剤の発見により,それまで人類を脅かしてきた感染症の脅威が急速に薄らいでゆき,心筋梗塞,脳卒中,糖尿病,高脂血症,癌などの成人病が注目され始めたことが大きく関与している.これらの成人病は予防医学の重要性を連想させる疾患であり,早期発見による早期治療が疾患の治療に最も重要とするイメージがつくられたのである.医学の進歩とともに注目すべき疾患も変化したのだった.
さらに臨床検査法が進歩し,検査が簡便になったことも人間ドックの普及に貢献した.それまでの検査は医師が顕微鏡を見たり,試験管を振ったりで時間を要していたが,検査のオートメーション化が進み検査が簡便化したのだった.人間ドックは期間が短くなり,値段も安くなり,その名前とともにしだいに全国の病院に普及していった。
この人間ドックの普及は,人々の健康と生命を守るという意識の高まりに加え,病院経営上の動機も人間ドックの普及に大いに関係したのである.病院にとっては,人間ドックは自由診療であり,請求金額を自由に設定することができた.また病気を発見すれば,自分の病院で患者を囲い込むことができた.さらに高額な医療機器をフル回転させることにより,レントゲンなどの器機を効率的に利用できる利点があった.このような経営上の理由により,人間ドックの普及が促進されることになった.人間ドックは,もちろん病気の治療ではないので健康保険の適用とはならない.すべての費用は自己負担であるが,人間ドックで病気を早期にみつけ,手遅れにならないうちに治療をおこなう.このような分かりやすい説明により人間ドックは普及することになる.
人間ドックに,多くの人たちが期待を持つのは当然のことであった.しかし実際にはそう単純ではないことが昭和60年ころから言われはじめてきた.早期発見,早期治療を唱えていた人間ドックがそのメリットを本当に発揮しているかどうかが問題になったのである.それは人間ドックを受け健康に留意した人たちが,健康に無頓着な人たちよりも,健康でしかも長生きをしているという科学的証拠ないためであった.特に多くの人々が期待している癌に対する検診の効果が疑問視されたのである.また人間ドックを受診した3人に1人は異常ありと診断され,人間ドックが健康な患者を増やしているという疑問が生じたのである.
人間ドックの有効性については,医療効果を費用に見合う効果があるかどうかをシビアに評価する必要があった.まずアメリカでこのことが問題になり,肺癌検診の有効性について大規模な追跡調査がおこなわれた.そして肺ガン検診を受けた人と受けなかった人たちを比べた結果,肺ガンによる死亡率が両者で何ら差がないことが報告されたのである.肺ガン検診の有効性が示されなかったのは,検診では肺ガンの3割が見落とされていること.さらに見つけられた患者も手遅れで助けられないという事情によるものであった.肺ガンの治療成績が悪いため,早期に肺ガンを診断しても治療に結びつかなかったのである.肺ガン検診は患者にとって何らメリットがないという結論であった.また乳ガン検診においても,乳ガン検診で見つかった患者と,病院の外来で見つかった患者の10年生存率を比較した場合,両者ともに生存率は約80%で,検診の有効性はないとされたのである.
早期発見が長生きにつらがらない場合,患者は病気で悩み苦しむ期間が延びるだけで何らメリットがないと考えられた.人間ドックや検診が患者にメリットをもたらさなければ,人間ドック自体に意味がないことになる.疾患を早期に見つければ,患者にとってメリットが大きいとする思いこみが真剣に見直されてきた.
このように検診を否定するアメリカの報告をもとに,日本国内でもガン検診の有効性が検討されることになった.厚生省は平成6年4月21日,「がん検診の有効性等に関する情報提供のための手引」を発表した。個別に見ると胃癌、子宮頚癌、大腸癌については、「有効性を証明する十分な根拠がある」または「奨励する証拠が十分にある」としている。また子宮体癌、肺癌、乳癌については、「有効性を示す根拠は必ずしも十分でない」としている.
平成10年,厚生省は老人保健法で市町村に義務づけてきた癌検診の補助金を打ち切る決定を下した.厚生省が推進してきた癌検診は,それまで年間延べ2200万人が受診し,約600億の公費が投入されていた.
このように人間ドックが疾患の予防や早期治療に上手く機能していないことが次第に明らかになった.では人間ドックの有効性はどの程度なのだろうか.この問いに答えるのは非常に難しいことである.現在,人間ドックの検査項目は膨大になっているが,各検査がどれだけ受診者に有効なのか不明の部分が大きいからである.お金と時間をかけ,さらに検査の危険性を考えれば,検診のメリットが科学的に示されない限り,その存在自体の意味を問われることになる.
最近では,新しい医療機器であるMRIによる脳ドックが流行しているが,脳ドックについてもその有効性に疑問が投げかけられている.MRIを脳梗塞の予防に役立てようとしても,どのような予防法があるのか.さらにくも膜下出血の予防として脳の動脈瘤の有無を検査しても,手術を受けずに余命を全うする者も多くいれば,予防的に手術を受け死亡する患者もいるわけで,その有効性については大きな問題を残している.また人間ドックをおこなっている病院間の技術の差が問題になっている.人間ドックを受けても病気を見逃してしまうことが問題になっている.
現在,厚生省が指導している検診の中で確実にメリットがあるとされているのは,癌については大腸癌と子宮癌,糖尿病を知るための血糖値の測定ぐらいとされている.人間ドックは検診とは違い検査項目を選択することが可能である.肺癌に対するヘリカルCT,内視鏡による胃癌の検査は有効とされているが,しかし現実的にそれだけの施設を備えている人間ドックはほとんどないのが現状である.
病院経営の面から人間ドックを考えれば,人間ドックは投資した医療機械をフル回転させ,投資した資金を回収する上で利点が大きい.このような病院側の事情があるため,人間ドックの利点が過剰に宣伝されがちであるが,受診する者の期待と人間ドックがもたらすメリットの間に大きな隔たりがあるのが実状といえる.人間ドックも今後その有効性を検討し,受診する者にメリットをもたらすものにしないと,医師の良心に恥じることになる.「肺ガン検診は結核検診の減少で仕事の減った医師を救済するため」などの悪口が陰で言われている.検診の科学的有効性を証明することが今後の大きな課題となる.いずれにしても年間300万人近い健康人が検査を受けているのが現状である.
ところで人間ドックや検診によって病気が減り,寿命が延びたという報告はないが,その逆の報告はある.これはフィンランド症候群,あるいはフィンランド・パラドックスといわれる研究報告である.この実験はフィンランドの保険局が行ったもので,40歳から45歳の管理職1200人を2つのグループに分け,健康の推移を調査したものである.ひとつのグループ600人には定期検診,栄養学的チェック,運動,禁煙,禁酒,塩分制限などの健康管理を厳格におこない.もうひとつの600人グループは目的を説明せずに健康調査のみを行い放置した.この調査開始から15年後,予想とはまったく逆の結果となったのである.健康管理をしなかった放置群のほうが心臓血管系の病気,高血圧,がんの発症,死亡率,自殺率,これらすべてが管理群より少なかったのであった.
このことは何を意味しているのだろうか.健康を求めることがストレスとなり,健康を考えない無頓着な人間のほうが長生きすることを示している.人間の健康を管理しようとするとその逆の現象が起きる.これが健康管理のパラドックスである.健康管理がストレスを生み,そのストレスが健康に悪影響を及ぼすと考えられた.
健康のためには厳格な健康管理をした方が良いという思い込みが強い.しかしフランス人はヨーロッパ人のなかで飲酒もタバコの本数も多いが,ヨーロッパ人の中では長生きの方である.またモルモン教徒はキリスト教徒の中で最も厳格な生活を行っており,禁酒,禁煙は当たり前で,それに加えて浮気厳禁の宗教であるが,モルモン教徒の平均寿命が一般人より有意に長いというデータはない.
国民が健康を願うのは当たり前のことである.しかし健康ばかりを気にする不健康な人間が増えているようである.健康については真面目に考えず,ある程度いい加減な部分がないと,健康不安病が増えることになる.テレビの「健康番組」が健康狂騒曲を奏でるように,健康を求めることが悪い結果をもたらす可能性がある.かつて短命国だった日本は,健康を気にしないうちに世界一の長寿国となった.真に健康的な生活を目指すならば,酒,タバコにさらに課税を加え,ついでに体重にも重加算税をしたほうがより効果的と思われる.
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売血制度(昭和28年)
現在,日本の輸血システムは,日本赤十字社によって個人の善意による献血制度で支えられている.献血制度は輸血を必要とする患者のために報酬を期待せず,しかも本人の自由な意志で血液を供給することである.しかし昭和42年までの輸血システムは現在の献血制度ではなく,「売血制度」によるものであった.「売血制度」とは血液をお金に換えるという行為で,生活のために血液を売る貧しい人々が大勢いたのだった.
昭和26年2月26日,日本初の血液銀行「日本ブッラトバンク」が大阪で営業を始めた.血液銀行とは健康な人から血液を集め,その血液を病院などの医療機関に卸すための民間会社である.血液銀行の名前から公的機関との印象を受けるが,それは間違いで血液銀行は民間会社であった.日本ブッラトバンクは中国で人体実験を行った731部隊の幹部が創立した民間会社である.後に日本ブッラトバンクはミドリ十字と社名を変え,戦後最大の薬害事件である「薬害エイズ」を引き起こすことになる.日本ブッラトバンクと同じ様に,厚生省が認可した血液の売買業者は都内だけで70団体にも達していた.当時は売血,供血がりっぱな商売になっていた.医学の進歩にともない手術の件数が増え,手術の需要が売血の供給をつくっていた.手術の増加はすなわち多くの血液を必要とした.
昭和28年,学徒援護会がおこなった「供血」に関する調査によると,民間の供血業者に登録している学生の数は約2万人で,大学生の約1割が売血によって生活費を得ていたとされている.また登録学生のうちの1割が高校生であった.このように多くの学生が血液を売って生計をたてていた.
採血量は1回200ccと決められ,さらに採血には3ヶ月以上の間隔を置くことが法律で決められていた.しかし法律はそうであっても,1ヶ月に月10回,15回と血液を売るひとたちが多かった.もちろんそれを承知の上で採血を繰り返す業者も多く含まれていた.血液の値段は200ccが1100円であった.この金額の3割が業者に,残り7割が学生に渡されていた.失業者や学生たちにとって,血液を売ることが手っ取り早い収入となっていた.お金が必要な人たちにとって売血ほど安易な方法はない.いくらでも買ってくれるので,いくらでも売ることができた.
昭和28年当時は,戦後のインフレと企業の人員整理が重なり,職を求める労働者が街に溢れていた.経済はどん底の状態で,学生のほとんどがアルバイトで学費や生活費を稼いでいた.調査によると,東大生の8割が生活のためにアルバイトを希望し,希望した学生のうち職を得ることができたのはその4割とされていた.アルバイトの内容もピーナッツ売り,代筆屋,ホステス,サーカスの会場係などであった.アルバイトの中には病原菌の人体実験のために自分の身体を売る危険なものもあった.伝染病研究所が募集したアルバイトは3食付きで赤痢菌を食べさせ,うまく発症すれば千円の手当金がもらえるというものであった.この人間モルモットの日給は150円だった.
不況と就職難が重なったこの時代は,アルバイトを見つけるのさえ困難な時期であった.事務系アルバイトが日給80円の時代に,自分の血液を売ればその10倍の収入になったのである.血液を取り過ぎて貧血で倒れる者,顔に頬紅を塗って貧血を誤魔化しながら採血を受けた学生もいた.このように学生たちは自分の血液を売って卒業証書を手にしていた.まさに苦学の時代であった.
昭和28年12月11日,東京葛飾区の供血斡旋業・日本製薬工業で従業員のストが行われたが,その際,日本製薬工業に血液を売って生活していた500人の学生たちが血液を買えと工場前に座り込む事件がおきている.このように売血は貧しい人たちの生活を支えていた.しかも血液を売る人たちは常連がほとんどで,そのため血液の濃度が薄く,さらに血清肝炎の発症率が高いことが次第に社会的問題となっていった.
その他にも売血制度は多くの奇怪な事件を引き起こしている.昭和27年12月,仙台市北署は窃盗容疑で中高生9人を取り調べたが,貧血症状が強く顔色が悪いため中高生を追求した結果,中高生たちは週に3回自分たちの血液を売り,交遊や飲食に当てていたことが判明した.少年たちは窃盗罪で送検となったが,このように青少年の健康状態を考えずに採血する業者の存在が明るみになり非難されることになった.また血液が金になったので,売血が犯罪に結びつく事件も起きている.金を持たない学生が恐喝され,血液銀行に連れて行かれ血液を採られるという事件が福岡を始めとして各地で起きている.
昭和39年3月24日に米国大使ライシャワーが精神障害の少年に右大腿を刺され,その際の輸血から血清肝炎になったことから売血制度は一気に社会問題になった.いわゆる売血による「黄色い血(輸血後の肝炎)」問題である.そしてライシャワー事件から2ヶ月後の,5月18日に,輸血に用いられる血液の97%が売血によることが新聞社の調査で判明し,売血制度そのものが問題になった.
昭和39年6月,読売新聞・本田記者が労務者になりすまし,どや街に侵入して売血の実態を「黄色い血の恐怖」という題名で新聞に連載した.その中で血液銀行が暴力団がらみであることを明らかにし,特定のアパートや置き屋に売血者を住ませている業者があることを指摘し注目を集めた.「黄色い血」とは売血常習者が何度も血液を売るため,血球成分が少なく血漿部分が多くなり血液が黄色くみえたからである.また「黄色い血」という言葉は輸血後肝炎による黄疸のイメージに結びつき使用された.
大学生を中心とした売血追放運動が各地で起こり,昭和39年8月,政府はそれまでの「売血」から「献血」へと転換する政策を閣議決定した.全国的な献血の組織を整備し,赤十字血液センターが各地に開設され,移動採血車の普及などの推進がなされた.それまで採血車は3台しかなかったが一気に27台に増やし全国に配置された。日本赤十字社の各病院も全面協力した結果、昭和39年の献血者は約1万5000人たらずであったが,翌昭和40年は20万人をこえるまでになった。各都道府県に赤十字血液センターが設置され,これにより献血者が急増し,昭和44年には献血率は80%となり,そして昭和48年ついに輸血用血液のすべてが献血となった。これでようやく先進国なみの正常な状態となった.以後現在に至るまで輸血のすべては日本赤十字社だけが扱うことになっている.
なお輸血の歴史を簡単に説明すると,1900年,オーストリアの医師ランドシュタイナーがABO血液型を発見したことから始まる.ランドシュタイナーは人間どおしの血液を混ぜ合わせると血球が凝集する場合があることを発見した.このABO血液型の発見で輸血が可能になったのである.さらに血液を体外に採り出したときに固まってしまう問題があったが,1914年に抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)を血液に混入すると凝血しないことが分かり,血液を保存することが可能になった.
輸血が日本で初めて使用されたのは大正8年であった.そして昭和5年に,浜口首相が東京駅で暴漢にピストルで撃たれるという事件が起き,この時,東大の塩田教授らが駆けつけ,駅長室で輸血を行い浜口首相を助けたことが大きな話題となった.そしてこの頃から医療の発展にともない輸血が一般的に行われるようになった.血液の需要は,以後日増しに高くなったのである.
当時の輸血は病院で血液を採取し,そのまま輸血する方法がとられていた.患者の寝ているベッドのとなりに血液の提供者を寝かせ,提供者から注射器で採取した血液をただちに輸血する方法であった.このことから「まくら元輸血」といわれていた.しかし昭和23年に東大病院で輸血による梅毒感染事件がおき,この事故が裁判ざたとなり,マスコミも大々的に報道し大きな社会問題となった.そこで厚生省は米国赤十字社の指導を受け,昭和27年4月10日に現在の日本赤十字社中央血液センターの前身である日本赤十字社東京血液銀行業務所が開業した.しかし日本赤十字社東京血液銀行業務所が開業したものの売血による輸血の方が圧倒的に多かったのである.
輸血が行われて以来,我が国における輸血の歴史はまさに輸血後肝炎との戦いの歴史であった.昭和36年に献血制度が導入されるまでは,輸血を受けた者の半数が肝炎に感染したとされている.昭和44年に完全献血が実施され,輸血後肝炎は16.2%に低下し,昭和61年にはさらに8.7%に低下した.平成元年にC型肝炎ウイルスの検査がおこなわれるようになり,平成4年には輸血後肝炎は0.48%まで低下した.それでもまだ輸血後肝炎が完全に撲滅できないのは,感染を受けてから抗体が出現するまでのウインドウ期(感染しているが検査は陰性の時期)に献血された血液があるためである.現在ではウイルスの本体を核酸増幅させる検査によってさらに安全性が高められている.
現在の献血は対象となるのは年齢が16から64歳で,体重は男性が45キロ以上,女性は40キロ以上である.そのほか血圧、血液比重、既往症、服薬などの条件が設けられている.また献血者の安全と血液の品質が配慮されるようになり,献血者には血液型、肝機能、コレステロール、総タンパクなど7種類の生化学的検査の結果が知らされ,健康管理の役割を合わせ持つようになっている。
輸血による感染防止対策として,従来からの梅毒検査,B型肝炎(HBs抗原)検査に加え,昭和61年からエイズ検査,成人T細胞白血病,平成元年からC型肝炎のスクリーニングが行われた.さらに平成6年からは輸血の重篤な合併症である移植片対宿主病(GVHD)を予防するため輸血される血液には放射線照射がおこなわれるようになった.また最近では,他人の血液を輸血せずに,自分の血液を輸血する自己血輸血という方法も行われるようになった.自己血輸血は手術が予定される場合,あらかじめ自分の血液を採血し備蓄しておく方法である.
昭和60年,献血者は年間約870万人に達し,献血率は7.3%で,スイス,フィンランドに次いで世界第3位になった.しかし血液のなかの血漿成分からつくる血漿分画製剤(アルブミン製剤や免疫グロブリン製剤,血液凝固因子製剤)の自給率は低く,WHO(世界保健機関)から「自国で必要とする血液は自国で確保すべし」との勧告を受けた.そのため昭和61年から献血量を1回200ccと400ccの2本立てにしたが,皮肉なことに昭和61年以降,献血者は減り続け,平成12年の献血者は588万人となっている.
献血については日本赤十字社の血液センターに電話をすれば詳しい説明が受けられる。
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結核死亡率半減記念式典(昭和27年)
新石器時代のヒトの骨格から結核の病巣が発見されているように,太古の時代から結核は人類を苦しめてきた.世界各地の古代文献にも結核の記載が残されており,ヒポクラテスは結核を「消耗病」と名づけていた.この結核が急増したのは,18世紀にイギリスで始まった産業革命がきっかけであった.産業革命により産業構造が農業から工業へと変わり,人々の生活の主体が農村から都市へと移った.このような環境の変化が,結核の蔓延する環境を作り出していった.産業革命の時代,イギリスの人口の1%が結核を発症したとされている.日本では明治初期から結核が増加することになる.
昭和10年,それまで死因別死亡率の第1位であった肺炎・気管支炎にかわって結核が第1位となった.そして昭和25年まで,結核は日本人の死亡原因の第1位であった.毎年10万人以上の日本人が結核で亡くなり,結核はその当時,若者の命を奪う不治の病として人々に恐れられていた.欧米に追いつくことが日本全体の目標であった時代に,国の宝である若い労働者や兵隊の命を奪う結核は,国家的損失をもたらす「亡国の病」と考えられていた.国を挙げて富国強兵が叫ばれていた時代,日本最大の敵が結核だった.
横山源之助の「日本之下層社会」,細井和喜蔵の「女工哀史」,石原修「女工と結核」に当時の底辺の人々の生活が詳しく記載されている.それらの本を読めば富国強兵政策を担う若者がその政策に圧迫され,若い娘たちが最悪の環境のなかで結核の犠牲になっていったことが分かる.
農村から都会に出てきた労働者は,長時間労働,低賃金,低栄養という過酷な条件下で,次々に結核に罹患していった.特に紡績工場で働く女子労働者は,「女工哀史」から想像できるように劣悪な労働条件で働いていた.当時の日本の主たる産業は繊維工業で女子労働者40万人が繊維工場で働いていた.女子労働者の年齢層は15から19歳であった.女工の繊維工場における過酷な労働条件は結核という形で若き命を奪っていった.彼女たちはタコ部屋のような寮に入れられ,この全寮制が結核を蔓延させる温床となった.
結核がヒトからヒトへ感染するのは,患者の咳やくしゃみなどによる飛泡感染が原因であった.そのため不衛生の環境で集団生活を強いられた労働者の間では,結核は容易に感染していった.しかも健康管理の概念の乏しかった当時は,結核の症状が進行し喀血の症状を呈するまで労働者は働かされていた.そしていったん結核が進行して働けなくなると,青白い顔をした労働者は職場から農村に追い帰された.このため結核は農村にも持ち込まれ,日本中で流行することになった.患者の多くが青年期の若者であることが,結核という疾患をより悲劇的なものにした.さらにヒトからヒトへ感染する伝染病であることが周囲の偏見と差別をよび,青白い顔をした青年たちは洗面器に鮮血を吐き孤独の中で死んでいった.
明治以降の急速な近代社会が,結核を蔓延させたのだった.結核に対する本格的な対策がとられようになったのは,農村も含め多くの若い男子が結核に冒され,徴兵不合格者が増えてきたからだった.
当時の人たちが結核を特に恐れていたのは適切な治療法がなかったからである.新鮮な空気を吸うことと,日光浴が良いとされ,サナトリウムが各地に建設された.患者はサナトリウムのベッドのうえで長い時間を過ごしたが,治療の効果はほとんどなかった.
戦争が長引くにつれ,国民の栄養状態の悪化がさらに結核を蔓延させた.また結核の罹患率の増加に加え死亡率も高まっていった.終戦後の昭和22年の統計によると,結核による死亡者数は年間14万6000人に達していた.この数は,日露戦争による戦死者が12万人であったことを考えると,いかに多くの人たちが結核で亡くなったかが想像できる.まさに結核は「亡国病,国民病」であった.
終戦時,日本を襲った食糧難の時代に,体力のない結核患者が食糧を確保することは困難であった.結核療養所の患者たちは配給が少ない上に,療養所の職員による配給食糧の横流しが横行し,満足な栄養を確保することはできなかった.このような状況の中で,療養所の患者たちが「日本患者同盟」を組織して抗議する事態にまで至っている.全国規模の結核患者が結束して行政に抗議するという世界でもまれな組織ができたのである.結核の治療として栄養の補給が一番であったが,その食糧が不足していた.このような時代に,結核療養所の患者が結束して抗議行動をおこなった.しかし結核療養所に入所していた患者はまだ恵まれていた.結核療養所に入所できた結核患者は全体のわずか5%で,残り95%の患者は自宅で療養していたのである.自宅で療養を強いられた結核患者は何らの保護も受けられず,栄養失調により症状を悪化させていった.
ちょうど現在の人たちがガンを恐れているように,当時の人たちは結核を恐れていた.結核に取りつかれることは死を意味していた.当時の医師は,結核患者に対し肺浸潤,肋膜炎,肺尖カタル,カリエスなどの病名を告げることがあった.これらの病名はすべて結核と同じ意味の言葉であるが,結核そのものが伝染性疾患,不治の病という暗いイメージを持っていたことから,医師は結核という直接的な病名を避けていたのである.ちょうど今の医師たちがガンと言わず腫瘍と告げるのと似ている.
この国民病,亡国病と呼ばれていた結核の厚い壁を破ったのは,昭和18年に米国の細菌学者ワクスマンが発見したストレプトマイシンであった.ストレプトマイシンは土壌中の放線菌から発見された抗生物質で,ワクスマンの発見以降は製薬会社メルクが後を引き継ぎ,ストレプトマイシンの大量生産に成功,商品化にのりだした.当時,青かびから精製されたペニシリンが開発されていたが,ペニシリンはブドウ球菌などの化膿菌には劇的な効果があったが,結核菌には無効だった.ストレプトマイシンは,ペニシリンでは効果のなかった野兎病,ブルセラ菌などのグラム陰性菌に効果を示し,特に結核菌に対しては驚異的な治療効果を示した.このストレプトマイシンの発見はイギリスの医学雑誌ランセットに論文が掲載され,その内容は戦後に海外医学情報誌として発行された「医学のあゆみ」誌の昭和20年11月10日号に紹介されている.
昭和24年4月,ストレプトマイシンが日本に登場することになる.しかしアメリカから輸入されたストレプトマイシンは,研究用としてわずか5000人分の量だけであった.そのため厚生省はストレプトマイシン研究協議会を組織し,わずかな量のストレプトマイシンを厳重に配分することになった.厚生省は各地の病院に配分すると同時に,ストレプトマイシンの結核に対する効果を報告することを病院に義務づけた.
結核に対するストレプトマイシンの効果は驚異的なものであった.しかし米国より輸入されたストレプトマイシンの量では,200万人をこえる日本の結核患者には焼け石に水であった.そのため結核患者はストレプトマイシンを手に入れるためヤミ市へ殺到した.そして1本3000円の公定価格が,米軍から流れたヤミ市では3倍以上の10000円の値段で売られていた.このような状態であったので,ヤミのストレプトマイシンを買えたのは裕福な家庭だけであった.一般庶民にとっては給料のほとんどを出しても高価なストレプトマイシンは買えなかった.多くの人々にとってストレプトマイシンは高嶺の花であった.
しかし昭和25年にストレプトマイシンの国内生産が開始され,さらに健康保険でも使用できるようになり,多くの人たちがストレプトマイシンの恩恵を受けることになった.ストレプトマイシンの登場により結核は徐々に減少することになる.そしてまもなくして,パス,ヒドラジドとの3剤併用も始まり,結核患者は目に見えて減っていった.昭和25年を境にして,それまで不治の病とされていた結核の予後が大きく変わったのである.このわずか数年の違いによって,結核患者の生死が大きく分かれることになった.
結核の予防については,昭和21年9月から結核予防運動が始まり,レントゲン自動車による街頭検診が行われるようになった.翌22年には予防接種法が公布され,30歳未満の国民は年1回のツベルクリン反応の検査を受け,陰性者はBCG接種を受けることになった.昭和26年4月には新結核予防法が施行され,「結核患者の登録」,「医療費の公費負担」,「BCG強制接種」が設定された.このようにして,どのような患者であっても結核の治療を受けられる体制が整ったのである.これまでの結核対策に比べ,新結核予防法は画期的な前進といえた.
昭和26年,結核は日本人の死亡原因第1位から2位に転落した.昭和22年のピーク時に比べ,5年後の昭和27年には結核死亡率が半減することになった.
昭和27年5月27日,厚生省の主催により「結核死亡半減記念」の式典が日比谷公会堂でおこなわれた.このように結核による死亡数は半減し,結核の脅威は減ったものの,昭和28年の結核実態調査では結核患者数は553万人,全人口の6.4%がまだ結核に罹患していた.このように昭和20年代の後半には結核の脅威は薄れたものの,また多くの患者が結核の治療を受けていた.
昭和32月1年20日,結核予防のための健康診断が全額公費負担になり,患者の負担がなくなった.そして昭和22年当時に比べ,昭和37年には死亡率が4分の1,昭和42年には10分の1に低下した.
現在において結核は過去の病気とされがちである.しかしアメリカではホームレスの増加,エイズの出現により薬剤耐性の結核が昭和60年ごろから増加している.日本ではそれまで減少し続けていた結核患者は頭打ちの状態からわずかに増加する気配をみせている.かつて青年の病気であった結核は,現在では老人の発症率が高くなっている.高齢化に伴う老人の増加と,以前結核に罹患した者が老人になって再発することが増加の原因とされている.また生活困窮者,零細企業,出稼ぎ労働者,外国人労働者など健康管理がとどかない階層での結核の増加が注目されている.その例として,あいりん地区を含む大阪市西成区では罹患率(人口10万対)が570(日本の平均34)を超えるなど際だった発病状況となっている.
現在,日本の結核患者は約4万人,結核死亡者数は年間約2千人である.結核は以前ほどの脅威はなくなったが,感染症の中では現在においても最も患者数の多い疾患である. 結核患者が減少したため,結核患者の診察経験を持たない医師が増えている.そのため結核の診断が遅れるという新たな問題がおきている.また患者の発見が遅れ,集団感染を引き起こし報道されることが多い.特に医師,看護婦,学校の教師が集団感染の感染源になることがあり,注意が必要である.
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ツベルクリン反応とBCG(昭和27年)
1882年,結核の原因である結核菌をドイツの偉大な細菌学者ロベルト・コッホが発見した.当時のヨーロッパの人々は結核を「白いペスト」と呼び恐れていた.結核菌を発見した細菌学の父・コッホは,結核菌発見の次の目標として,結核の治療薬としてワクチンの開発に乗り出したのである.
コッホは結核菌を大量に培養し,その上液を何回か濾過し,加熱濃縮を繰り返えし,結核菌の毒素を抽出精製した.そしてこの結核菌から精製した毒素の一部をツベルクリン液と命名したのである.コッホは第10回国際医学会議において,結核の治療薬としてツベルクリン液を発表,このニュースは世界中に広がった.このようにツベルクリン液は結核治療ワクチンとして開発されたのだった.ツベルクリン反応は現在では結核の診断に欠かせない検査法となっているが,ツベルクリン反応に用いるツベルクリン液は,最初は結核の治療のためのワクチンとして開発されたのである.
結核の治療薬がなかった時代,ツベルクリンは結核の特効薬として宣伝された.そのため世界中の結核患者が期待を抱きながらベルリンのコッホのもとへ集まった.しかし患者の期待とは裏腹に,実際には結核に対するツベルクリンの効果はまったく認められなかった.そして副作用ばかりが出現した.ツベルクリン液の注射によって,発熱や悪心などの全身反応,注射部位の発赤や水胞などの局所反応,喀血などの病巣反応ばかりが出現した.そして肝腎な結核に対する治療効果はまったく認められなかった.
結核感染者にツベルクリンを皮内注射した場合,皮膚の発赤をきたす「ツベルクリン反応」は現在アレルギー反応によるものとして知られているが,これらの副作用はこのアレルギー反応によるものであった.コッホ先生のツベルクリンは結核の治療薬として大失敗に終わった.ツベルクリンはコッホ先生の業績に大きな汚点を残すことになった.しかし偉大なコッホ先生は「結核に関する研究業績」によって1905年ノーベル賞を受賞した.
ツベルクリンによる結核の治療は惨憺たるスタートをきった.しかし1907年にオーストリアの小児科医ピルケがツベルクリンの皮内反応により結核感染を知りえることを発見した.さらにフランスの医師マントーによって皮内反応が一般化された.
日本では小林義雄がツベルクリン陽転者から胸膜炎が発生することを報告,千葉保之らが国鉄職員のツベルクリン陽転者の結核発病状況を追究し,結核の初感染発病学説を成立させた。昭和15年にはツベルクリン反応の判定基準が国立公衆衛生院の野辺地慶三らによって提案され,昭和26年の結核予防法によりこの基準が採用されることになった。
ツベルクリン液は結核菌から抽出した成分であり,結核菌を構成する多成分が含まれている.アメリカの生化学者サイバートはツベルクリン液から結核患者に特異的な皮膚反応をおこす物質を抽出し,精製ツベルクリンpurified protein derivative(PPD)と名づけた。日本でもPPDの研究が進められ,昭和43年から旧ツベルクリン液の代わりにPPDがツベルクリン反応に用いられている。
ツベルクリン反応をおこなうのは生後6ヶ月から4歳未満の者で,ツベルクリン反応が陰性の者はBCG接種をおこなう.また小学1年生と中学1年生時にもツベルクリン反応をおこない陰性の場合BCG接種をおこなう.ツベルクリン反応はツベルクリン液0.1ミリリットルを皮内に注入し、48時間後に発赤の長径を計測することである.また皮膚の硬結、二重発赤、水疱の有無も観察することになっている。発赤の径が4ミリ以下を陰性、5〜9ミリを疑陽性、発赤10ミリ以上を陽性としている。
ツベルクリンを皮内に注射すると,結核に感染している場合は2から3日で発赤を示し陽性となる.感染していない場合は発赤を示さず陰性となる.この反応はBCGを接種していない乳幼児では有効であり,その陽性は結核の感染を示している.しかし結核に感染していない者でもBCGを接種した者は,結核菌の免疫が成立した証拠として長期にわたりツベルクリン反応が陽性を示すことになる.そのためBCG接種を受けた者がツベルクリン陽性の場合には,結核感染との区別は困難となる.しかしツベルクリン陽性でも,皮膚の壊死や水胞をともなう強い反応の場合は結核に感染している可能性が高い.
ツベルクリン反応は,例外が多く含まれており結核の絶対的な診断法ではない.麻疹、流行性耳下腺炎、水痘などのウイルス感染時、栄養状態の悪い時、ステロイド剤および免疫抑制剤を使用している時、結核感染の初期などでは,たとえ結核に罹患していてもツベルクリン反応が陰性となることがある。また結核菌と似た非定型抗酸菌に感染している患者は、交叉反応のために弱い反応がおこり診断が困難なことがある。このような例外はあるが,覚えておきたいのは「ツベルクリン陽性者は必ずしも結核感染とは言えないが,その反応が強ければそれだけ結核の可能性が高くなること.さらにツベルクリン陰性者は結核をほぼ否定できること」である.またツベルクリン反応は代表的な遅延型アレルギー反応の一つであり,結核菌感染の有無ばかりではなく細胞性免疫機能を調べる目的で用いられることがある。
BCG
BCGは結核の予防のために開発されたワクチンである.BCGはパスツール研究所のカルメットとゲランによって開発されたもので,BCGの名前は彼らの功績をたたえ2人の頭文字をとって命名された(Bacille de Calmette et Guerinの略語).カルメットとゲランは,1908年から13年間の長期にわたりウシ型結核菌の連続培養をおこない,230世代もの連続培養をくりかえした末に,人間に対して無毒化された結核菌種を作ることに成功した。ウシ型結核菌を何代も培養をくりかえし,人間に結核を発病させる感染力をなくし,それでいて自然界の結核に対して免疫を獲得させる変種菌の開発に成功したのである。
BCGの接種が人間に初めて試みられたのは,1921年,結核の妊婦患者から生まればかりの新生児であった.それ以降,BCGの安全性と有効性が調べられ,結核の予防接種としてBCGは急速に普及することになった.日本では,大正14年にパスツール研究所からBCGの分与菌株を譲り受け,国立予防衛生研究所で継代保管がなされた.昭和13年から5年間,BCGの安全性と有効性が検討され,BCGを接種した場合は,接種しなかった場合に比べ結核発症率が半分以下,死亡率が8分の1になることが示された.さらにBCGの大量製造にも成功し,集団接種の体制が整った.
このようにBCGは結核の予防に絶大な効果を示し,昭和24年以来,法律によってBCG接種は強制実施されることになった。しかしBCGの副作用として,接種による皮膚の難治性潰瘍と瘢痕が問題になった。この欠点を補うため,昭和42年からは管針を用いた多刺法による接種が行われている。BCGを皮膚に塗り,その上から9本の針のついた管針を2度押しつけて接種する方法である.この方法により接種後2から4週間で赤い小斑点ができるが,その後はかさぶたを生じる程度になり,以前ほどの瘢痕は残さないようになった。
BCG接種は結核予防法によって接種が義務づけられていた.4歳未満、小学校1年生、中学校1年生の時点でツベルクリン陰性者が接種することになっている。その他の年齢の者でも,希望者には保健所でツベルクリン反応とBCG接種をおこなっていた。
BCGはいちど接種すれば,結核への予防効果は10年間持続するとされている.BCGの効果は有限で,中学生の時点でBCGを接種しても,実際には20歳を過ぎるとBCGの効果は低下し,結核にかかりやすい状況になると考えられる.BCGはきわめて副作用の少ないワクチンである。
BCGの効果に水を差すようであるが,最近になりBCGの評価が変わってきている.日本人は BCGが結核に有効とする思い込みが強いが,BCGの有効性についてまだ確実とはいえない部分が大きい.BCGが本当に結核に有効とする確実な証拠がないのである.BCGが確実に有効とされているのは乳幼児の結核性髄膜炎の場合であり,幼児以外の結核の予防に,はたしてBCGが有効かどうか疑問視されている.このためアメリカではBCG接種はおこなわれていない.またヨーロッパの国々もBCGをやめている.BCG接種は有効性の根拠がなく,世界保健機関(WHO)なども廃止を勧告している.
日本ではBCGを接種するのが原則で,ツベルクリン反応陽性者が正常者である.そしてツベルクリン反応が陰性の場合はBCGを接種する方法がとられている.しかしBCG接種をしないアメリカではツベルクリン反応陰性が正常で,ツベルクリン反応陽性の場合「結核の疑い」となる.このようにBCGに対する日米の考え方は違っている.BCGが結核に効果があるかどうか興味があるが,むしろそれよりも,日本の誰もがBCGの効果を信じ,世界の中で日本だけがBCGを接種しているという事実の方が,日本人の国民性を考える上で興味深い.医学が一筋縄ではないことのよい例である.
平成14年になって,厚生労働省は結核に対する予防方針を大きく変えることになった.それまでは結核予防法に基づいて小中学校でBCGの再接種が実施されてきたが,それを廃止する方針を固めたのである.それまでの結核予防法では0歳から4歳までに保健所などで最初のBCG接種を実施し,その後小学校1年,中学校1年でツベルクリン反応を調べ陰性となった人に2度目の接種(再接種)をしていた.再接種された児童は年間130万人であり,1人あたり数千円の費用を自治体が負担していた.しかし厚生労働省は平成15年4月から乳幼児期のツ反検査とBCGの初回接種だけに限定することにしたのである.これまで小中学生のBCG接種者は約125万人と半数以上を占めていたが,不要となった.
学校からツベルクリン反応とBCG接種が消えることになった理由は,ひとつは結核の患者が減ったことである.平成12年の小児結核の患者数は220人,学校健診を受診した小学1年生と中学1年生は全国で約230万人であるが,健診で結核が発見されたのは17人であった。BCGは赤ちゃんや幼児の重症結核を予防する効果が高いとされているが,再接種に予防効果があるかどうかは不明であった.再接種の有効性が不明であり,また再接種によりツベルクリン反応の偽陽性者が増え,本物の結核による陽性との区別がつけにくくなることから,さらに再接種を中止したヨーロッパの国々では結核患者の増加がないことから,学校からツベルクリン反応とBCG接種が消えることになった.
小中学校のBCGの廃止によって国民の結核への関心が薄くなると思われるが,これも国際的な流れである.また16歳以上のほぼ全国民に義務づけているエックス線撮影による年1回の結核検診を40歳までは就職や転勤などの際だけに実施する節目検診に変更する方針が発表された。年1回の検診による患者発見の効率が悪過ぎることがその理由であった.年1回の結核検診で,年間約2500万人が受診し,見つかった患者は約2000人である.つまり受診者1万人に1人以下の患者しかみつからず,結核の早期発見による利益よりエックス線被爆の害が心配されたのであった.昭和21年に制定された結核予防法は半世紀ぶりに政策を転換することになった。
これまで「BCG接種によって結核の脅威がなくなった」とされてきたが,結核患者の激減がBCGの効果でないとしたら何が結核を良くしたのだろうか.それは環境衛生の改善,体力の向上であると考えられている.
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