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帝銀事件(昭和23年)
昭和23年1月26日の午後3時半すぎのことであった.東京都豊島区長崎町にある帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店が閉店した直後に,厚生省技官兼都防疫課員と名乗る45歳ぐらいの中年男が通用門から入ってきた。グレーのコートを着た中年男性は東京都の「防疫消毒班,消毒班長」の腕章をつけ,名刺を行員に差し出し支店長に面会を求めた.当日は支店長が腹痛で早退していたため,吉田武次郎支店長代理(44)が男を事務室に招き対応することになった.
目鼻立ちの整ったやせ型の中年男性が差し出した名刺には「厚生省厚生部員 医学博士某」と記載されていた.そして吉田支店長代理に行員全員を集めるようにと威圧的な口調で言いだした.そして全員を集めると,男性は「実は長崎2丁目の共同井戸で4人の集団赤痢が発生し,その井戸水を使った1人がこの銀行に来て預金したことが分かった.これからGHQが消毒にくるが,GHQのホーネット中尉の指示により赤痢の予防薬を飲んでもらうことになった」と落ち着いた口調で言った.
長崎2丁 目の赤痢発生の話はもちろんウソである.またその当時,赤痢の予防薬など存在していなかった.しかし戦後間もない日本人は,上からの命令には従順であり, 威圧的な言葉,名刺の肩書き,それらしい腕章をつけた中年男性に行員たちは不信感を抱かなかった.さらにGHQの命令は有無を言わせぬ絶対的なものだっ た.また当時の日本は赤痢をはじめとした伝染病が猛威を振るっており,銀行員は中年男性を東京都の防疫員あるいは消毒員と思いこんでいたのである.
男性は16人の行員とその家族を前にすると,予防薬を飲むため,自分の分も含め17人分の湯飲み茶碗を用意させた.その中には用務員の8歳の子供も含まれていた.そして男性はカバンから医者が持っているような金属製のケースを取り出すと,手慣れた手つきで金属製のケースから赤痢の予防剤を取りだした.ビンに入った薬剤は2種類で,第1の薬は無色透明の予防薬本体,第2の薬は濁った液体で,第1の薬の中和剤と説明された.「この予防薬はGHQのくすりなので,非常に効果があるが,飲む時に歯にふれると歯のホーロー質をいためることになる.そのため舌を出してくすりを丸めるように飲んでほしい」と言い,さらに「第1の予防薬本体を飲んだ後,1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と説明を加えた.そしてピペットで予防薬を茶碗に入れると,男性はみずからその予防薬を飲んで見せた.この男性の実演に,行員とその家族16人は何の疑いをもたなかった.
行員たちは男性に言われたようにいっせいに第1薬の予防薬を飲みほした.第1薬 を飲み終えると,ウイスキーを飲んだ時のような,胸が焼けつくような強い刺激を覚えた.そして1分後,第2の中和薬が分配されると行員たちは急いでそれを 飲んだ.その直後である.行員たちは嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていった.床をかきむしりながら,まさに疑獄絵のような状態で死んでいった.
5人の男性行員と5人の女子行員がその場で死亡.若い女子行員1人が,なんとかはうように外に出て通行人に助けを求めた.交番の巡査がかけつけたときには銀行の中は地獄のような有様であった.そして苦しんでいる6人が救急車で下落合の聖母病院に搬送された.病院に運ばれた6人のうち2人が死亡,4 人だけが命をとりとめた。
このように帝銀事件は12人が毒殺されるという日本最大の毒物犯罪事件となった.生き残った4人の行員の証言によると,犯人は年齢45歳ぐらい,目鼻立ちの整った物腰の柔らかな好男子であった。毒薬については遅効性のものが考えられたが,後に青酸カリであることが判明した。犯人は差し出した名刺を回収しており,茶碗の指紋も消されており何の証拠も残していなかった.
犯人は混乱に乗じて店内にあった現金16万3410円と額面1万745円の小切手を強奪して逃走した。その年の大卒の初任給が約5000円であったから,奪われた現金はそれほどの大金ではない.行員の机の上には48万 円が手づかずのまま残されていた.用意周到に準備された殺人の割には金については犯人の執着心が薄い印象がもたれた.事件翌日になり,犯人は大胆にも盗ん だ小切手を安田銀行板橋支店で換金していたことが判明した.換金に訪れた男性は小切手に不慣れだったようで,小切手の裏に住所を書かずに行員から注意を受 けた.そのため男性は偽りの住所をその場で書いて換金したのだった。小切手の裏書に犯人のニセの名前と住所(後藤豊治,板橋3の3661)と犯人の直筆を残していた.
警察の聞き込み調査によって,帝銀事件が発生する1週間前に,帝銀事件に類似した未遂事件が他の銀行で2件 発生していることがわかった。それは安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で,その手口は帝国銀行とまったく同じであった.男性は行員に赤痢が付近に発生し たことを告げ,行員を集め予防薬を飲ませている.しかしその時に用いられた予防薬には毒物は入っておらず,帝銀事件の予行練習のためにおこなった犯罪と考 えられた.犯人は厚生省技官松井蔚(しげる)という名刺を銀行に残していた。松井氏は宮城県仙台市に実在の人物であった.そのため松井氏と名刺を交換した 人物が捜査の対象になった.松井博士に確認すると100枚作った名刺の1枚であることを証言。名刺は博士の手元に6枚,他から62枚が回収された.
警察は大規模な捜査網をしいた.延べ2万5000人が捜査にあたり5000人あまりの容疑者が調べられた。この事件の特徴は16人の行員を前にして冷静に毒物を飲ませていること,さらに飲めば即死に近い青酸カリを用いながら,数分後に死亡させるという特殊な使い方をしていることであった.このような犯罪は薬物のプロにしかできないと思われた.
捜査本部は,犯人は毒薬に相当詳しい知識を持つ者と考えていた.そのため中国で細菌兵器や毒物の研究を行っていた関東軍731部隊(旧日本軍細菌部隊)の関係者に的が絞られ捜査が行われた.731部 隊とは石井軍医中将が指揮をとっていたことから石井部隊とも呼ばれていたが,その存在を知る者はごくわずかだった.石井部隊は中国人を使って青酸毒物の人 体実験を秘密裏におこなっており,敗戦後,隊員たちはこの事実を墓場まで持って行くように命令されていた.そして捕虜になったら自殺するようにと青酸カリ を渡されていた。また犯人が持っていた薬剤のケースやピペットは軍医が野戦携帯用に使うもので,一般人は入所しにくいものであった.そのため731部隊の捜査を進められ,元中佐である医師Sが全国に指名手配された.
犠牲者の胃や血液から高濃度の青酸化合物が検出されたことから,犯行に青酸カリが用いられたことは間違いなかった.しかし不思議なことに,被害者が飲んだ茶碗からは青酸化合物が検出されなかったのである.青酸カリは10数 秒で死亡するほどの猛毒である.第1の予防薬が青酸化合物だとすれば1分間我慢できるはずはない.もし第2の中和薬が青酸化合物だとするとなぜ茶碗から青 酸化合物が検出されなかったかが謎であった.青酸カリよりも遅効性の青酸ニトリルを用いたことが推測されたが,それでは胃や血液中に残された高濃度の青酸 化合物の説明がつかなかった。
用いられた毒薬が青酸化合物として謎を残したのは,この事件の初期捜査の間違いに起因していた.近くの交番の警察官が帝国銀行に駆けつけたとき,この事件 を集団食中毒とみなしていた.そのため警官は湯呑み茶碗に残っていた毒物を醤油の空き瓶に入れて保存したのだった.醤油の中にはカリウムやナトリウムが含 まれているため,この毒物が青酸系であるとはわかったものの青酸カリウムなのか青酸ナトリウムなのかの区別がつかなかった。この初動捜査のミスにより,毒 物をはっきり特定できないままになった.いずれにしてもこの事件は相当毒物に詳しい者の犯行であることだけは間違いなかった.
これまでに起きた青酸カリを用いた毒殺事件は,すべてが飲んだ直後に死亡している。帝銀の犯人は何らかの方法を用いて1分間は誰も倒れないようにした.こ こに犯人の毒物に対する知識の深さがあった。また青酸カリにしては被害者たちの中に青酸中毒特有のアーモンド臭がなかったこと.被害者たちが青酸中毒では あまりみられない嘔吐とい症状を示していること.これらが青酸化合物としては妙であった。死亡の状況と解剖の結果,この矛盾点を説明することが困難であっ た.青酸化合物は第1薬にも第2薬にも含まれず,第1薬と第2薬 が胃の中で反応して青酸化合物が作られるという説がある.さらに犯行に使われたのは青酸化合物でなかったという説,青酸化合物の古くなったものが使われた という説などがある.毒物の鑑定を行ったのが,多くの冤罪事件を作った古畑種基教授がトップである東大法医学教室であったことから,鑑定そのものに疑問を 持つ者もいた.
また犯人はみずからその予防薬を飲んで見せたのである.そして犯人が生き延びたのは,薬品に油を入れ,犯人は油の部分だけを飲み下したのではないかと推定されている.
ところが事件発生から7ヶ月後の8月21日になって,捜査は予想もしなかった展開を迎えることになった.犯人として毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通(さだみち,56)が小樽市の親戚の家で逮捕されたのである。小樽市にいた平沢貞通は刑事の質問に,1月26日の行動を「終日,三越の画展にいた」と7か月前の行動を準備していたかのように即座に答えたのだった.あとの調査でそのアリバイは嘘であることが分かった.
明治25年に東京に生まれた平沢貞通は,10代後半頃から横山大観に師事し,22歳でニ科展に入選,25歳 のときに上京して東京美術学院の講師になっていた。ペンテラというのは西洋画の一種で,油絵と水彩画の中間の画法であった.犯人が残した名刺に書かれた松 井蔚は,几帳面な性格で名刺を渡した相手をすべてメモしていた.平沢貞通と名刺を交換したのは青函連絡船の中であった.平沢貞通は松井蔚の名刺を三河島駅 で財布ごとスラレ紛失したと説明した。
帝銀事件の生き残りと模擬犯人を混じえた11人による面通しが行われた.面通しの結果は平沢貞通が犯人と言った者はひとりもなく,似ていると言った者が5人,違うと言った者が6人であった。平沢貞通が不利だったのは,事件発生直後に平沢の銀行預金に入金されていた出所不明の12万円の存在であった.当時の平沢貞通は友人に借金をして断られるほど金に困っていた.平沢は事件2日後に妻に6万円渡しており,銀行預金に入金されていた12万円を加えると,ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当した.平沢貞通はこの金の出所をはっきり言えず,また犯行当日のアリバイもはっきりしなかった。さらにこれまで銀行を舞台に過去に4件の詐欺事件を起こしていたことも印象を悪くした.
平沢貞通を無罪と推定する者は次のような見方をしている.平沢貞通は狂犬病の予防注射の後遺症でコルサコフ病という病気にかかっていた.コルサコフ病という精神病は平気でウソをつき,自分でさえもそのウソが嘘か本当かの区別がつかないのが特徴であった.平沢の4件の詐欺事件は病気のせいで,平沢の自白も誘導されたものと推定した.また出所不明の18 万円もの大金存在については,生活費を稼ぐために春画を描いて売った金としている.日本画の大家として春画で生活費を稼いでいたと白状できなかったとして いる.この春画説は松本清張が唱えたものであるが,死刑がせまっている者にとって,春画のプライドより殺人犯の汚名の方が重いととらえるのが常識であろ う.18万円の存在が春画を売ったものかどうかは判明しないが,平成12年6月9日号の週刊「フライデー」に平沢が描いた春画が発見されたと書かれている.また小切手に残された筆跡鑑定では平沢貞道は犯人とは別人物という結果が出ている.
平沢貞道は留置所で身の潔白を証明するため,隠し持ったガラスペンを左手の静脈に突き刺し自殺をはかった.看守に発見され一命をとりとめたが,その後,壁に頭をぶつけ,痔のクスリを大量に飲み,自殺を繰り返したがいずれも未遂に終わっている.
平沢貞道は警察,検察の激しい取り調べを受け犯行を自白した.しかし起訴された後は一貫して無罪を主張した.平沢にとって不運だったのは,この帝銀事件の裁判が旧刑事訴訟法による最後の事件で,逮捕された時点では自白は重要な証拠となっていたことである.旧刑事訴訟法は昭和24年に改正されたが,それまでは「自白は証拠の女王」とされ,警察による取り調べでは拷問に近い自白の強要が行なわれていた. 平沢貞通は1審の第1回公判から捜査段階の自白をひるがえし帝銀事件について無実を訴えた.しかし地裁、高裁、最高裁の3審ともに有罪とされ,昭和30年5月7日の最高裁で死刑判決が下ってしまった。平沢貞通は死刑が確定したが,それでも無実を訴え続けた。
平沢貞通の冤罪を信じる人々は意外に多く,「平沢貞通を救う会」が発足し,17度の再審請求をおこなったが退けられた.また5度の恩赦願が出されたが,それも受け入れられなかった.作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った.昭和36年熊井啓監督により「帝銀事件・死刑囚」が映画化され,この映画によってこの事件は注目度をさらに高めた.
平沢貞通は死刑になったが,歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかった,そのため約32年間にわたり死刑は執行されなかった.32年間死刑が執行されなかったのはもちろん世界最長記録である。30数人におよぶ歴代の法務大臣が死刑執行を見送ったのはそれなりの理由があったからとされている。20人以上の死刑執行にサインを押した法務大臣が平沢の書類になると「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名である。法務省は最後まで死刑執行にこだわったが,歴代の法務大臣は平沢を犯人と断定できなかったのだろう。死刑確定から30年が経ち釈放の気運が高まったが,法務省はガンとして釈放を認めなかった。昭和62年5月10日,39年間を獄中ですごした平沢は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。
帝銀事件の真犯人は,事件発生当時から元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者ではないかと推測されていた.GHQ(連合軍総司令部)は731部隊に対し極東国際軍事裁判での戦犯免責を条件に731部隊の生体実験データを入手していた。GHQは731部隊の研究資料を押収した事実が暴露されないように警視庁が圧力をかけとされている。そして平沢貞通の自白によって捜査はすべて打ち切られた.また同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞がGHQから圧力を受け,追及を断念したことが後で明らかにされた。
この事件の捜査主任をしていた元警視庁捜査2課の成智英雄が平沢の無実を証言した.成智英雄は公務員の服務規程により捜査中の秘密を漏らすことはできなかったが,平沢の無実を証言したのである.証言内容は当時731部隊では青酸カリを用いた生体実験が行われており,隊員たちは致死量すれすれの青酸カリを投与した場合に,中毒症状が現れるまで1分を要することを知っていたこと.また用いられていたピペットが軍の特殊部隊でのみ使用されたものであることを証言した.731部隊のS中佐を最有力容疑者として全国手配していたが,平沢の逮捕によって捜査が打ち切られていた.医師であるS中佐は昭和29年に死亡していることが分かった.S中佐犯人説が公表されたのはS中佐が死亡して10年後のことであった.成智英雄は「救う全」に入会し,帝銀事件の犯人は平沢貞通ではないと主張しつづけた。
昭和20年8月15日から昭和27年4月28日まで,日本の国家権力はGHQというアメリカの支配下にあった.GHQの下に日本政府があり,警察や検察も同じであった。GHQが日本を支配していた時代背景を考えなければいけない.軍関係者に向けられていた捜査はGHQの壁にぶつかって頓挫してしまった。もしアメリカが731部隊を利用して細菌研究をしているということがばれたら大問題になっていただろう。そのため平沢は国際的な犯罪を隠すためにスケープ ゴートにされたと考えられる.帝銀事件はGHQ支配下の時代に起こった謎と疑惑に包まれた奇怪な事件といえる.
青酸カリ(シアン化カリウム)は白色の粉末で,きわめて有毒が強いため毒物及び劇物取締法に指定されている。青酸カリは毒物の王者と呼ばれているが,それ は毒物事件の中で青酸カリを用いた犯罪が最も多いからである.青酸カリが比較的入手しやすいためであった.メッキ工場などでは30kgの缶に入れられた青酸カリが無造作に置かれていた.青酸カリは年間3万トンぐらい生産されており,メッキ工場の従業員であれば簡単に持ち出すことができた.また頼まれてゆずることもできた.このように入手が簡単であったため,多くの事故や事件を引き起こした.
青酸カリ自体は強いアルカリ性で,飲んで胃に達すると胃酸と反応しシアン化水素(青酸ガス)を発生する.そのため青酸カリを飲んで死んだ人はアーモンド臭がする。ガスが発生し呼吸困難、呼吸停止、意識喪失などをおこし数分以内に死亡する。 成人の場合,0.15〜0.2gが致死量になる。小さじ1杯の砂糖が3gであるから,その20分の1の少ない量が致死量となる.
ヒロポン中毒(昭和24年)
今日では想像できないことであるが,敗戦後の数年間,覚醒剤であるヒロポンは街の薬局で自由に買うことができた.今日ではヒロポンの名前を知る人は少ない であろうが,ヒロポンは覚醒剤の代名詞として日本中で合法的に乱用されていた.厚生省がヒロポンの有害性を認め劇薬に指定したのは,昭和24年になってからのことである.
覚醒剤はアンフェタミンとメタアンフェタミンの2種類に分類される.そして両者とも喘息や風邪薬に含まれるエフェドリンに類似した構造をもち,さらに両者 はエフェドリンの合成過程で生成することができる.日本近代薬学の開祖である長井長義(ながよし)が,喘息に効果のある漢方薬・麻黄(マオウ)からエフェ ドリンを世界で初めて抽出したのは明治11年のことであった.このように覚醒剤のもとになるエフェドリンは,世界に先駆け日本で研究がなされていたのである.しかし長井長義の長年の研究においても,長井自身はアンフェタミンやメタアンフェタミンの覚醒作用には気づいていない.覚醒作用については,昭和10年になってアメリカで初めて認識されるようになった.
昭和10年, 喘息のクスリとしてメタアンフェタミンがアメリカで発売された.この喘息のクスリが覚醒剤としての覚醒作用を知るきっかけになった.メタアンフェタミンが 「ベンセドリン」の商品名で発売されると,ベンセドリンに中枢神経の興奮作用があることが口コミで広まり,「スーパーマンのクスリ」としてアメリカの学生 や長距離トッラクの運転手の間で流行した.また女性の間でもやせグスリとして密かにベンセドリンが使用されることになった.
メタアンフェタミンより覚醒作用の強いアンフェタミンは,主にドイツで研究がなされていた.ロンドン空襲に出撃するドイツ軍パイロットの眠気覚ましとし て,アンフェタミンは積極的に用いられた.アンフェタミンの覚醒効果はドイツ軍と友好関係にあった日本にもすぐに伝えられ,アンフェタミンは昭和16年に長井長義が創立した大日本製薬から「ヒロポン」の商品名で発売されることになる.アンフェタミンは長井長義が世界で初めて合成したことから,覚醒剤が日本で独自に開発されたと誤解されているが,ヒロポンはドイツの製造方法をまねて販売されたのである.
ヒロポンの名前は「疲労をポンととる」というイメージとともに国内で広まっていった.しかしその当時は,覚醒剤としての副作用や覚醒剤中毒に関する認識は まったくなかった.ヒロポンは主に軍部を中心とした軍用薬品として用いられ,内服剤ばかりでなく即効性のある注射用ヒロポンも開発され使用された.特に特 攻隊の飛行士の間では,眠気や恐怖心を取るクスリとして盛んに用いられた.また徹夜作業を続ける軍需産業の工員のあいだでも士気を鼓舞する目的で半強制的 に服用されていた.ヒロポンは「突撃錠」「はっきり薬」と呼ばれ広く使用されていた.
このように軍部を中心に使用されていたヒロポンが,敗戦と同時に大量に民間に流れこむことになる.また在庫を抱えた製薬会社が,街の薬局で大々的な宣伝と ともに販売することになった.ヒロポンの爆発的な流行は,敗戦によって退廃に堕ちいった人々の気持ちを捕らえた.さらに虚無と刹那主義に溢れる世相を反映 するものとなった.神国日本を信じていた人たちがすべての価値を崩壊させ,虚脱の中でヒロポンに救いを求めたのである.まさにヒロポンは戦後の落とし子と いえた.
ヒロポンは大日本製薬が製造していたが,市場に出回っていたのはほとんどが密造によるものだった.ヒロポンの値段は1本12円と酒よりも安い値段だった.そのため何の恐れももたない人たちの乱用をまねくことになった.またヒロポンを密造する者にとっても,原価が販売価格の10分の1であったことから,何度検挙されてもボロ儲けが忘れられず,密造を止めることはできなかった.当時の映画館の入場料が100円だったことから,ヒロポンの値段がいかに安かったがわかる.昭和28年,大日本製薬は14万アンプルを販売していたが,大阪府警に押収されたアンプルは2170万本であったことから,いかに膨大な量の覚醒剤がヤミルートで出まわっていたかがわかる.この反社会的ヒロポンの製造に抗議した大日本製薬の労働者に対し,会社は「生産阻害者」として首切りでこたえた.昭和28年の全医薬品生産高は約740億円であったが,覚醒剤の売り上げは年間220億円に達していたとされている.
ヒロポンは中枢神経の興奮作用が強く,ヒロポンを打つと頭がさえ疲労をとれ,多幸感と活動性を得ることができた.自信と性欲の増進をもたらし,長時間にわ たる性交を可能にした.一度ヒロポンの快楽を味わうと多くがその虜になった.しかしクスリが切れればその反動として虚脱感が全身をおそった.不眠,興奮, 不整脈などの副作用が常用者を苦しめた.さらに幻覚,妄想,混迷,人格障害などといった精神分裂病に似た症状を引き起こした.これがいわゆるヒロポン中毒 である.そしてクスリが切れると,さらにヒロポンを求めようとする飢餓感におそわれた.中毒者たちは一日何本も注射を射たなければ我慢ができなくなり,ヒ ロポンを手に入れるため犯罪に走る者が続出した.中毒による幻覚,妄想による殺人,暴行,自殺などの反社会的犯罪が引き起こされた.
ヒロポンは夜遅くまで働く人たち,特に流行作家や芸能人の間で乱用が広まった.坂口安吾,織田作之助,田中英夫など当時の無頼派と呼ばれた作家たちが,ヒ ロポンを打ちながら原稿を書き,中毒におちいっていった.高見順の「高見順日記」にはヒロポンについての記載が詳しく書かれている.さらに芸能界では文壇 界以上にヒロポンは広まり,楽屋ではヒロポンを腕に注射する光景が日常的となっていた.徹夜で勉強する学生,内職の主婦たちの間にもヒロポンは浸透し,昭 和24年ごろからは,世相の変化に希望を失った青少年の間でもヒロポンは広がりをみせた.そしてヒロポンの被害は黙視できないほどの猛威となり,「亡国の魔手」とまで表現されるに至った.当時の浮浪者や愚連隊の6割がヒロポンを常用していたとされている.また銭湯の客の1割に注射痕があったとされている.ヒロポンはこのように多くの青少年の心身を蝕んでいた.使用3ヵ月から1年半でヒロポン依存症が形成された.
文頭に述べたように,昭和24年 までは誰もが薬局でヒロポンを買うことができた.また新聞にもヒロポンの広告が堂々と掲載されていた時期があった.このようにヒロポンは,かぜ薬と同じ感 覚で一般人が容易に買えるクスリであった.薬局で販売されていたという事実は,政府がヒロポンを公認していたと言い換えることができる.
ヒロポンの害がしだいに社会問題となり,そのため昭和24年3月にヒロポンは劇薬に指定されることになる.しかしその制限は緩やかで14歳以上であれば住所,氏名を明記すればヒロポンを薬局で買うことができた.昭和26年に覚醒剤取締法が公布され,製造や使用に制限が設けられたが沈静化には至っていない.最盛期の昭和29年には全国で約5万6千人が覚醒剤取締法違反で摘発されている.昭和29年,全国で常用者が285万人(うち28%が中毒者)となり,多くの人たちがヒロポンを使用していた.
ヒロポン中毒は多くの凶悪犯罪を引き起こした.昭和29年4月,東京文京区の小学生が学校のトイレで暴行殺害され,また大阪ではヒロポン中毒者に3人の幼児が運河に突き落とされ死亡する事件が起きている.精神病院ではヒロポン中毒者が多すぎて収容しきれないほどであった.ヒロポン中毒者により定員超過となった東京都立松沢病院では,入院患者どうしの殺人事件が起きている.政府はこれら凶悪犯罪にショックを受け,昭和30年に覚醒剤の取締を強化することになった.それまでの取り締まりは中毒者を保護することが中心であったが,製造した者や販売した者を検挙し摘発するように方針を変えたのである.その結果,ようやくヒロポンは沈静化することになった.
このように昭和29年をピークとする「ヒロポン蔓延期」が覚醒剤の第一次乱用期であった.以後,取り締まりの強化や経済の復興によりヒロポンは下火になるが,20年後に新たな覚醒剤乱用の流行をむかえることになる.昭和59年頃から,暴力団が資金源確保のため密造密売を行い覚醒剤の第二次乱用期をむかえることになる.そして,第3次乱用期は中国・福建省などから覚醒剤が大量に流入し,外国人が街頭販売をおこなった平成10年頃である.第3次 乱用期の特徴は,末端価格の低下によって乱用者の層が高校生にも広がり,一種のファッション感覚で流行したことである.また覚醒剤ではないが,覚醒剤に構 造が似ているエフェドリンを大量に常用し幻聴や幻覚にひたることも流行した,市販のかぜ薬にエフェドリンが含まれており,そのためかぜ薬を大量に内服する 依存症が青少年の間で問題になった.
覚醒剤が恐ろしいのは,覚醒剤中毒による死亡,あるいは幻覚による殺人である.昭和56年6月には東京深川の路上で覚醒剤常連者が乳児2人,主婦2人をナイフで刺す事件が起きている.この深川通り魔殺人事件は,逮捕された犯人がテレビ中継されたことから世間の注目を集めた.また平成5年には新幹線の乗客が覚醒剤常習者からナイフで刺され死亡している.
さらに問題となるのは,覚醒剤を止めても神経障害などの後遺症が長期間にわたり持続し廃人に近い状態になることであった.覚醒剤を中止して,治療で治った ように見えてもアルコールや精神安定剤の投与をきっかけに,あるいは再び少量の覚醒剤を使用した場合に,激しい幻聴・幻覚を引き起こすフラッシュバック現 象(flashback phenomenon;再燃現象)が治療上の問題になっている.フラッシュバック現象は精神分裂病の症状に似ており,覚醒剤をやめて5年,10年経っても後遺症として残り,しかも日常生活のなかでいつ襲ってくるか分からないという恐ろしさがあった.
現在,覚醒剤使用者の特徴は年齢が低下していることである,覚醒剤に手を出す青少年が増えてきている.その動機の多くは興味本位からであり,みんながやっ ているからという理由で罪悪感にとぼしい.また女子学生も肥満解消を理由に安易に使用する傾向がある.若者の間では,「スピード」とか「S」 といった軽い呼び名で覚醒剤は広く深く浸透している.しかし当然のことであるが,覚醒剤は将来性のある青少年の身も心をもボロボロにするのである.覚醒剤 は若気の至りとして簡単に片づけられない問題を含んでいる.覚醒剤の使用を後悔しても,その後遺症から一生逃れられずに苦しみ続ける患者が多い.また覚醒 剤の服用をやめても,半数近くがまた覚醒剤を使用するようになった.
麻薬よりも覚醒剤が大きな問題となっているのはわが国の特徴である.「覚醒剤やめますか,それとも人間やめますか」まさに,その言葉とおりである.
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メチルアルコール中毒(昭和21年)
戦時中,あるいは戦後の数年間は,嗜好品であるアルコールの配給はほとんどなかった。日本酒の原料である米が何よりも貴重品だったので,醸造にまわす米が 絶対的に不足していたのである.またたとえ酒の配給があっても,アルコール濃度は極端に低く,金魚を入れても泳げるほど薄かった.そのため配給酒のことを 「金魚酒」と揶揄して呼んでいた.
飲酒が可能なアルコールはエチルアルコールであるが,エチルアルコールの代わりに値段の安い工業用メチルアルコールが闇市に出まわっていた.そして多くの酒飲みがメチルアルコール中毒の犠牲になった。
戦時中の事件としては,昭和18年4月,川崎市で工業用メチルアルコールに香料を入れて作られたウイスキーが出まわり死者6人が出ている.昭和20年7月1日には横須賀市浦郷町の住民たちが輸送中のブタノールアルコールを盗んで飲み17人が死亡,8人が重体となる事件がおきている.
終戦後の数年間は,メチルアルコール中毒が多発した時期であった.昭和20年11月には東京都八王子市でヤミ市のアルコールを飲んだ4人が死亡,売人が検挙されている.占領軍の米軍将兵からも犠牲者がでたため,GHQはメチルアルコールによる害が広がることを恐れ,米軍将兵にメチルアルコールを販売した者は死刑にすると発表した.
メチルアルコール中毒による死亡者は,昭和20年には403人,昭和21年には1841人とその犠牲者は多数に至っていた.また一命を取りとめても失明をきたした者が多数みられた.失明に関する統計は明らかではないが,その犠牲者は相当数にのぼったと想像される.このようにメチルアルコールは量が多ければ死に至るが,少量でも失明するのが特徴である.メチルアルコール中毒による失明者を多数診察したことが当時の眼科医の記録として残されている.また当時の眼科医でメチルアルコールによる失明者を診たことのない医師はいないとまで言われていた。眼が散る意味から「眼散るアルコール」という言葉が流行した.
メチルアルコール中毒が日本で蔓延したのは,飲食店がメチルアルコールと知りながら酒を客に飲ませたからである.そのため多くの売人や飲食店主が逮捕され た.盛り場にはメチルアルコール鑑定所が設置されたほどである.東京都内ではメチルアルコールを大量に含んだウイスキーが「ダイヤモンド」の名前で売られ ていた.
メチルアルコールの他にも,ベンゾールやナフタリンなどの変成アルコールを用いた酒が売られていた.アルコール不足の時代に,酒は危険と分かっていても, 飲む者があとをたたなかった.そのためメチルアルコールは「命散酒」とも呼ばれていた.歌手の鬼俊英や女優の山田五十鈴の夫である映画俳優の月田一郎もメ チルアルコールで命を落としている.
絶対的なアルコール不足がメチルアルコールによる犠牲者を多くだした原因である.いっぽう,身体に害をもたらさない薬品用エチルアルコールは堂々と飲み屋 でだされ,当時の人々は日常的に薬品用エチルアルコールを飲んでいた.薬品用エチルアルコールにカルメラなどの添加物で味をつけた酒,あるいは水で薄めた だけの酒が闇市に広く出まわっていた.この薬用エチルアルコールは米から醸造した酒に比べアルコール度数が高いため,飲むと一気に酔いが回ってしまった. そのため別名「バクダン」と呼ばれていた.また大衆酒場では,酒をつくったあとのカス(粕取)をさらに発酵させ,それを蒸留した「カストリ」や,密造され た「どぶろく」が庶民のアルコールとなっていた.
戦後の混乱期からしだいに世の中が落ち着きを取り戻すと,それまでのカストリやどぶろくに代わり焼酎の全盛期を迎えることになる.そして日本の酒飲みが清酒を飲めるようになったのは,昭和25年以降のことである.いっぽうメチルアルコール中毒は昭和23年がピークで,生活が戦前の状態に復興する昭和27年頃まで,日本各地でメチルアルコールによる中毒は散発的に発生していた.
メチルアルコールはエチルアルコールと同様に酩酊をもたらすが,酒の味や酩酊状態からメチルとエチルを区別することはできない.飲んだ後に副作用がでて初 めて分かることになる.犠牲者の多くは,飲酒して半日ぐらい経った後に,頭痛,嘔吐などの症状が出現し,眼がかすみ激しい腹痛に襲われ,「ヤミ酒にやられ た」と自覚し,死んでいった.
視力障害や死亡の原因となったのは,メチルアルコールの直接の毒性ではない.メチルアルコールが体内で分解され,その生成物であるホルムアルデヒドやギ酸 の毒性が原因とされている.これらが体内の血液を酸性に傾け代謝性アシドーシスを引き起こすことが死亡原因とされている.また眼のかすみ,物が二重に見え る,失明などの視力障害はギ酸による視神経障害とされ,他覚的には両側性視神経萎縮,視野狭窄などの所見がみられる.この視力障害は治療によって回復しな いのが特徴で失明にまで進行するのだった。
メチルアルコール中毒は現在ではほとんど見ることはできない.しかし特異的な事件はまれに散発する.昭和57年4月15日,アルコールが禁止されている精神病院で入院患者2人が燃料用アルコールを用いて宴会をおこない死亡している.
時代が豊かになっても,旧ソ連の貧しい人々の間でメチルアルコール中毒が多発した.飲酒追放運動によりワッカが入手できない労働者が,昭和62年の1年間で1万人以上が死亡したと報道されている.アルコール規制の強いスウェーデンでは,非飲用アルコール(エチルアルコール)にも飲酒ができないようにメチルアルコールが混入されている.しかしそれが逆効果となり,メチルアルコール中毒者が激増することになった。さらに寒冷地用のウインドウウォシャー液にはメチルアルコールが含まれているため,ウインドウウォシャー液を誤飲した子供の事故が報告されている.
メチルアルコール中毒の治療は,メチルアルコールの分解を抑制させるためにエチルアルコールを飲ませることである.エチルアルコールを摂取させ,メチルアルコールと競合させることによってメチルアルコールの分解を防ぐことが治療とされている.しかしその治療効果は事例が少ないため明らかではない.
アルコールを飲む者も,アルコールを売って儲ける者も,すべてが敗戦後の貧しい生活の犠牲者であった.当時の貧しい生活,荒廃した社会状況,そのような環境の中で庶民のアルコールへの渇望がいかに強かったかが想像される.
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国営売春施設(昭和20年)
敗戦からわずか3日後の昭和20年8月18日,日本政府は占領軍を受け入れるに際し,「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決定した.国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった.そして米軍の日本上陸の前日である8月27日には,東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場するという対応の早さであった。この占領軍用性的慰安施設についての政府決定は,内務省警保局長の橋本政美により全国の各警察署に秘密裏に無電で指令がだされた.その内容は「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記載が残されている.
国営売春施設の設立は警視総監・坂信弥が中心になり,都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業の協力をえて進められた.そしてこれを認めたのは後の総理大臣であり,当時の大蔵省主税局長であった池田勇人であった.池田勇人は1億円の政府出資金を用意し「特殊慰安婦協会,RAA:Recreation and Amusement Association」を設立された.1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いものとの認識があった.このように理由はどうであれ,戦後国立の売春施設をつくったのは日本国政府だったのである.
政府の肝煎りで作られた国営売春施設の慰安婦募集が始まった.8月31日の朝日新聞には慰安婦募集の広告が登場することになる.そしてその日以後,各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった.
「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む.事務員募集.年齢18歳以上25歳 まで.宿舎,被服,食糧など完全支給」このような宣伝文句であった.また街頭でもチラシがまかれ慰安婦募集がなされた.その募集内容は若い女性に国土防衛 を意識させる真面目な文章であった.慰安婦はいずれ押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされたのである.敗戦により占領軍兵が日本 の婦女子を強姦するという流言飛語が飛びかい,慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された.このように国営売春施設は政策としてきわめて真面目なものであった.
特殊慰安婦協会には,モンペ姿からセーラー服の少女まで,東京だけで1000人の募集に4000人もの女性が応募してきた.そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった.そして1360人 の女性が慰安婦として働くことになった.彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが,応募者の半数近くは処女だったとされている.焼け野原の東京 で餓死しないため,生きるためには恥も外聞もなかった.「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」,この条件に彼女たちは誘われたのである.応募し た女性のほとんどが素足のままだったとされ,それは生きるための手段であった.
内務省はこの国営売春施設の設置を決定すると同時に,進駐軍を迎えるための国民の心得について注意事項を通達し,その内容は新聞にも掲載された.「日本女 性の心構えとして,日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない,ふしだらな服装は禁物である」,「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろん のこと,昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」と記載されている.政府は国営売春施設を作る一方で,一般女性にはこのような警告を発してい た.国営売春施設,国民の心構えはいずれも日本の婦女子を守ることが目的であったが,それがどれだけ効果があったかは明確ではない.それは進駐軍の報道規 制によって進駐軍の犯罪が報道されなかったからである.アメリカ兵の婦女暴行などの犯罪は報道されなかったので,その実体を知ることはできない.しかしア メリカ兵による婦女暴行の噂は少なかったことから,結果的には国営売春施設はアメリカ兵に好意的に迎え入れられ,また日本の女性を守ることになったと考え られる.
日本政府が「性の防波堤,純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げるという合理的な考え,また衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち,敗戦という当時の日本の状況を考慮すれば,国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない.
しかし3日 前まで連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽っていた政府が,また民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた政府が,アメリカ兵に対し国営売春施設を設け るという,この手のひらを返したような無節操な政策が抵抗なく進められたことに疑問を持つ者が多いと思われる.それは民族としての潔癖性をこれほど簡単に 変えたことに対する疑問であった.この敗戦前後の日本人の豹変ぶりは何だったのだろうか.一億玉砕を唱えながら,ゲリラ戦で戦う者はなく.天皇陛下万歳が マッカーサー万歳となり,貞操観念の強いはずだった日本女性が米兵の腕にぶら下がる.このような変化が何の抵抗もなく行われたことをどのように分析すれば よいのだろうか.
これを日本民族が持つ変化に対する合理的な適応性というのだろうか.この日本人の変わり身の早さをうまく説明はできないが,本土決戦を唱えていた国民が,これほど変化し順応していることが,説明しがたい日本民族の不思議さを感じさせる.
このことを日本人が適応性に優れた国民だったと考えれば納得することができる.日本人が信念を堅持しながらも,古い信念をすぐに捨て得る民族であることは 確かであろう.また国民にとって鬼畜米英は戦争遂行のためのスローガンにすぎず,欧米の文化や外国人の容貌に対する日本女性の潜在的なあこがれが心の中に 潜在していたとも考えられる.しかしながら,沖縄におけるひめゆり部隊の最後,満州における民間人の自決,サイパンにおける女性の自決,このような数週前 に起きた女性の悲劇と対比させると,慰安婦に応募した彼女らの心情をどのように分析すればよいのか躊躇を覚える.敗戦というショックがあったにせよ,国営 売春施設が何の抵抗もなく当たり前のように設立された事実を直視しなければいけない.
日本人の性に対する貞操観念について説明を加えなければならない.日本女性の貞操観念は,江戸・明治時代の儒教的考えから堅固なものと想像されやすいが, 日本女性は性に対し本来は大らかな民族だったのである.戦国時代の日本女性についてヨーロッパの宣教師は,日本女性の貞操観念があまりに欠如していること に驚いたことを本国への手紙に書いている.
国営売春施設は,日本政府の予想とおりアメリカ兵が列をつくるほどの大繁盛となった.最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上,全国では7万人の慰安婦が働いていた.しかし女性は消耗品とみなされ,90%の女性が次々に性病におかされていった.このように施設内に性病が蔓延したことが,アメリカ兵の衛生を管理するGHQにとって大きな問題となった.国営売春施設の一角には必ずかまぼこ型の消毒所が設けられ,事前の予防と事後の消毒が奨励された.さらに隠匿されていたコンドームが性病予防のため108万個放出され,大量のペニシリンが日本に提供された.売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制的検診が義務づけられたが,性病予防の効果は低かった.
米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到した.さらに売春行為そのものを反民主主義,反人道主義的行為とするアメリカの世論がひろがり,わずか半年後の昭和21年3月27日,GHQは「公娼廃止に関する覚え学」を出し,すべての国営売春施設を廃止することになった.
敗戦から1ヶ月後の昭和20年9月15日,ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され,この本は3ヵ月で400万部を売る大ベストセラーとなった.彼女たちはこの本を頼りにアメリカ兵と親交をはかったのである.それまで敵性語とされていた英語が急にもてはやされた.
国営売春施設の廃止により,建前上日本の社会から売春は消失した.しかし占領軍に対する売春は消失するどころか,潜伏したかたちで勢いを増すことになる. 国家管理の売春が自由意志の売春に変わっただけであった.街頭に放り出された慰安婦たちは,手に職もなく,もぐりの売春婦となった.制度が変わっても売春 自体が消失したわけではなく,国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち街娼の全盛期がやってきた.雇い主から自由になった娼婦が街に溢れる ことになった.
日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは,「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」などと,軽蔑と羨望の混じった俗称でよばれるように なった.彼女らは有楽町を筆頭に,上野,池袋を主な仕事場としていた.そして彼女たちの相手は,占領軍から日本人へとしだいに移行してゆくことになる.
国営売春施設の中止により性風俗の悪化を恐れた政府は,昭和21年11月4日, 「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した.特殊飲食店などの地域を限定してもうけ,社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策をとった のである.特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し,売春をある集団地区で認めるようになった.娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え,娼婦は女給 と形式上名前が変えられ,売春が行われるようになった.この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった.「赤 線」は公認の売春地区であった.昭和20年9月の時点で,東京では吉原,州崎,新宿,立川,小岩,向島など16カ所が赤線の指定を受け,全国では662カ所が指定され,娼婦は4万9000人いたとされていた.この公認の「赤線」に対して,非公式に売春行為をおこなう場所がいわゆる「青線」と呼ばれた.
昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている.それによると全国の売春地区は1921カ所,売春婦の数は約50万人に達していた.それだけ急速に売春婦の数が増えたことが分かる.そして,ひとりの売春婦が一晩にとる客数は平均2から4人とされている.この売春白書は組織売春に限られた統計あり,フリーの売春を含めれば,売春婦の数は相当数に達したものと想像される.女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが,組織売春で働く彼女たちは,収入の7割が搾取され,手元には3割しか残らなかったとされている.
生きるために身を売る女性の悲しみ,このような終戦直後の風俗を象徴するかのように,菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした.スカーフ姿でタバコを ふかしながらガード下に立つ女性たち.「星の流れに身を占って.・・・・こんな女に誰がした」という歌詞は,当時の彼女たちの退廃的雰囲気を的確に表現し ている.
この赤線による売春は売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた.
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終戦と自決(昭和20年)
昭和20年8月15日の終戦とともに,500人 以上の軍人が自らの命を絶った.阿南惟幾陸軍大臣から無名の二等兵にいたるまで,自決した軍人の階級は様々であった.軍の上層部の自決は天皇の軍隊を敗北 に導いた責任を感じてのことであり,さらに多くの部下を死なせた責任,そして降伏という屈辱に駆られてのことであった.敗戦によってこのように多數の殉国 の士を出した例は,有史以来記録されたことはない.
終戦のあの暑い日からすでに58年が経っている.今日では,国に殉じた尊い人たちについて語られることは少なくなった.日本は終戦により新しく生まれ変わったが,日本の平和を念願しながら,敗戦という国の運命とともに自らの命を絶った人たちがいた.戦争責任は別問題として,日本を思い死んでいった多くの英霊たちがいたことを忘れてはならない。至高至純の精神を永遠に伝えるべき残された私たちは,多くの英霊たちをあまりに粗末に扱っているのではないだろうか.現状を詫びたい気持ちになる。
8月15日,玉音放送が始まる日の早朝,5時30分,最後まで本土決戦を主張していた阿南惟幾陸相(享年58)は 「一死以て大罪を謝し奉る.神州不滅を確信しつつ,大君の深き恵に浴みし身は,言い遺すべき片言もなし」の遺書を残し,三宅坂の陸相官邸で割腹をとげた. 阿南惟幾陸相は陸軍将校の間で進められていた敗戦阻止のクーデター計画を前日に阻止し,昼に予定されていた玉音放送を聞かずに自決したのである.阿南惟幾 陸相は陛下の玉音放送を拝聴するに忍びないと自決したのだった.帝国陸軍の最後の大臣となった阿南惟幾陸相はポツダム宣言が発せられて以降,徹底抗戦,本 土決戦を主張していたが,日本の敗戦に強い自責の念をもっていた.陸軍大臣に就任して4ヵ月であったが,敗戦という難局に際して,阿南惟幾陸相の自決は陸軍の強硬派を沈静化させた.
玉音放送と同時に,日本の軍部は米軍に対する攻撃中止命令を出した.しかし8月15日午後5時,宇垣纒中将ら17名は大分の海軍飛行場から11機の爆撃機「彗星」に分乗し,沖縄の米艦隊にむけ特攻攻撃を決行した.宇垣纒中将(享年58)は「部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻」との打電をうち太平洋に散華した.
8月16日,海軍特攻隊の生みの親である大西滝治郎・海軍中将(享年50)は「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し,官邸で自決している.
終戦時の陸海軍の自決者については「終戦時自決烈士芳名録」という書籍に記録が残されている.将官以上の自決者37名の内訳をみると,陸軍が31名,海軍が4名となっている.海軍にくらべ陸軍将官に自決者が多いのは,本土決戦,一億総玉砕を陸軍が号令し,それを真剣に考えていた証拠といえる.「終戦時自決烈士芳名録」には526人の名前が書かれているが,名を残さず自決した軍人はそれ以上の桁数に達していたと思われる.
軍人のみならず,右翼を初めとした民間団体でも集団自決が相次いだ.8月22日には日本の降伏に不満を持つ尊攘同志会員12名が愛宕山で割腹自決している.翌23日には,同じ右翼団体である明朗会(日比和一会長)13名が宮城広場に集合し青酸カリをあおり自決。翌24日には大東塾生14名 が降伏に反対して代々木練兵場で一斉に切腹している。彼らの自決は軍指導部が導いた敗戦に対する抗議,天皇の臣としての責任,神国の復活を唱えてのみそぎ の意味が含まれていた.彼らの壮絶な死は,神国日本の崩壊に虚無を感じ,虚脱感の中で日本の国に殉じたものと思われる.
人知れず自決した者は数多くいるが,その中に橋田邦彦がいる.橋田邦彦は近衛,東条内閣の文部大臣であり,昭和20年9月14日,戦争犯罪人に指名され出頭を求められ荻窪の自宅で自決している.橋田邦彦は東京帝国大医学部を卒業,医学部生理学教室からドイツへ留学,帰国後に東京帝大医学部教授となり,第一高等学校校長をへて文部大臣になった.戦時中に流行した「科学する心」という言葉は彼の造語である.橋 田邦彦の遺書には「今回戦争責任者として指名されしこと光栄の到なり,さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは,臣子の分として堪得 ざる所なり.皇国国体の本義に則り茲に自決す」と書かれている.彼は自分の生き方に道筋をたて,自らを処する方法として自決を選んだのである.
敗戦を信じず,一億総玉砕を信じていた時代である.辱めを受けるよりは,潔い死を選ぶのが当然とする人たちが多かった.自らの命を国にささげた4000人以上の特攻隊員,降伏を潔しとせず玉砕攻撃で死んでいった軍人,聖戦の勝利を疑わなかった人たち,彼らの愛国心あるいは武士道の精神にもとづく死が自決である.
その潔癖性,決然性において自決と自殺とは大きな違いがある.昔から日本人が桜を好むのは,それはその散り際が潔いからだとされている。武士道でいう死を美徳ととらえる考え方が当時の日本人の根底にあった.自決と自殺とは,ともに自らの生命を絶つ行為であるが,動機の純粋性において両者は明らかに異なる行為である.
自決に至ったのは軍人や右翼ばかりでない.むしろ沖縄や満州では非戦闘員すなわち民間人の自決の方が圧倒的に多かった.さらに民 間人の自決は軍人たちの自決とはその意味合いが異なっていた.逃げ場を失った民間人は捕虜になるしかない.しかし捕虜になれば生きて恥をかくことになる. このような絶望感が自決の動機であった.鬼畜の如き敵兵が男性を殺し,女性を辱しめるという絶望感が自決の根底にあった.自決という言葉を「みずから決断した責任ある自殺」と定義するならば,民間人の自決は軍国主義に強要された自決であり,その意味では最も悲惨な戦争犠牲者といえる.
昭和19年7月8日, 真珠湾奇襲を成功させた南雲忠一中将はサイパンの洞窟で自決,日本兵は「バンザイ」突撃で玉砕した.米軍は投降勧告をおこなったが,残された民間人にさら なる悲劇がもたらされた.老人,婦人,子供たちは島の北端までたどりつき,逃げ場を失った彼らは投身,手榴弾,毒薬で死んでいった.マッピ岬の断崖から海 へ飛び込む婦人が多数いたのだった.
日本の敗戦を目前にした昭和20年4月1日,沖縄の中部にある読谷村(よみたんそん)の海から米軍が初めて日本に上陸した.村民140人は村から500メートルはなれたチビチリガマに隠れ,140人のうち83人が集団自決をするに至っている.犠牲者の6割が18歳未満の子供であった.さらに沖縄では多くの集団自決が数多く相次いだ.また沖縄師範学校,県立第1女子高校などの女子生徒と教師で結成された「ひめゆり部隊」は看護要員として動員され443人が戦争に直接参加し249人が戦死した。そのなかの数10人は,敗戦が近づくと青酸カリを配られ自決を言い渡された.そして逃げ場を失った女学徒たちは,青酸カリを飲み,あるいは崖から身をなげ命を絶った.
8月9日,満州では,ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し,突然宣戦布告をしてきた.そして逃げ遅れた1万人以上の民間人が,生きて捕虜の辱めを受けまいと各地で自決するに至っている.満州の開拓団では,成人男性のほとんどが動員によって招集され,開拓団に残された者は病弱者,女性,子供ばかりであった.
8月15日に日本は無条件降伏を表明したが,ソ連軍は無抵抗な民間人を殺戮していった.ソ 連軍の攻撃に蹂躙され,原住民の攻撃を受け,日本へ帰る道を絶たれた女性たちは自決の道を選んだ.ソ連軍の圧倒的な戦力により,軍人には民間人を助ける余 裕さえ残されていなかった.自決の方法は縊死,溺死のほか,塩酸モルヒネ,亜砒酸,青酸カリなどの薬物による中毒死が多かった.8月12日,421人の哈達河開拓団が集団自決,8月17日には272人の来民開拓団が集団自決,このように開拓団の集団自決が相次いだ.石川県鳥越村の出身者を中心に組織された白山郷開拓団が,8月27日に「集団焼身自決」という悲惨な末路をたどり100人以上が亡くなっている.満州長安の病院では,最後まで現地に残った22人の看護婦がソ連軍の辱めを受け,あるいは受けまいとして集団自決している.「満州開拓史」によると全滅あるいは自決した者1万1500人。帰国までの病没と行方不明者を合わせると、開拓団の人々の死亡は7万8500人で,全開拓団の3人に1人が死んでいる。また国から捨て去られた満州開拓団の悲劇は残留孤児,残留婦人の問題を残すことになった.
サハリンでも病院に残った看護婦23人が集団自決をはかり6人が死亡.同じサハリンの真岡郵便局で電話交換業務を行っていた若き電話交換手9人が集団自決をはかり死亡している.戦火に包まれたサハリンで最後まで仕事を全うし,ソ連軍が迫ってきたことを知ると、まだ通じる電話で「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し青酸カリで集団自決したのだった。サハリンを望む北海道・稚内公園の丘の一角には,彼女たちの死を悼んで「9人の乙女の碑」が建っている.
このように民間人の絶望による自決が相次ぐなかで,昭和12年以降3度の総理大臣を勤めた近衛文麻呂は,公家にありがちな優柔不断の態度であった.そして戦犯容疑で出頭を命じられた近衛文麻呂公爵は,出頭当日の12月16日の朝,杉並・荻窪の自宅で青酸カリを飲み自殺をとげた.近衛文麻呂は日本最後の華族であり,罪人になり縄をかけられる屈辱を受けたくなかったのである.
いっぽう東条英機元首相はGHQに逮捕される直前の,9月11日午後3時半すぎに自宅でピストル自殺を図った.しかし自殺は失敗に終わり,米軍の手で病院に運ばれ一命をとりとめた.東条英機は極東軍事裁判で昭和23年 に巣鴨刑務所で絞首刑となるが,この自殺の失敗を国民は単なる醜態と受け止めた.東条英機は軍人や民間人に「捕虜となるなら,潔く自決せよ」と命じなが ら,逮捕の日まで未練げに生きていたこと.外人のようにピストルを用い,取り乱して自殺に失敗したことに対する国民の反応は冷ややかであった.彼は戦勝国 に裁かれることを拒み,自殺したのであるが,それは自決とはいえない.恥の上塗りであった.
敗戦と終戦,退却と転進,占領軍と進駐軍,このように言葉の言い換えがあるが,自決は自決であり,自殺とは明らかに違う行為である.
敗 戦により日本は新しい国に生まれ変わった.しかしその陰には平和国家の実現を念願しながら,国の運命とともに自らの命を絶った人たちがいたことを忘れては ならない.このような至高至純の精神を持った日本人の殉国の事実を歴史に留めるべきであるが,忘却の彼方に埋めてしまっているのが現実である.
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国営売春施設(昭和20年)
敗戦からわずか3日後の昭和20年8月18日,日本政府は占領軍を受け入れるに際し,「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決定した.国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった.そして米軍の日本上陸の前日である8月27日には,東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場するという対応の早さであった。この占領軍用性的慰安施設についての政府決定は,内務省警保局長の橋本政美により全国の各警察署に秘密裏に無電で指令がだされた.その内容は「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記載が残されている.
国営売春施設の設立は警視総監・坂信弥が中心になり,都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業の協力をえて進められた.そしてこれを認めたのは後の総理大臣であり,当時の大蔵省主税局長であった池田勇人であった.池田勇人は1億円の政府出資金を用意し「特殊慰安婦協会,RAA:Recreation and Amusement Association」を設立された.1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いものとの認識があった.このように理由はどうであれ,戦後国立の売春施設をつくったのは日本国政府だったのである.
政府の肝煎りで作られた国営売春施設の慰安婦募集が始まった.8月31日の朝日新聞には慰安婦募集の広告が登場することになる.そしてその日以後,各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった.
「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む.事務員募集.年齢18歳以上25歳まで.宿舎,被服,食糧など完全支給」このような宣伝文句であった.また街頭でもチラシがまかれ慰安婦募集がなされた.その募集内容は若い女性に国土防衛を意識させる真面目な文章であった.慰安婦はいずれ押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされたのである.敗戦により占領軍兵が日本の婦女子を強姦するという流言飛語が飛びかい,慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された.このように国営売春施設は政策としてきわめて真面目なものであった.
特殊慰安婦協会には,モンペ姿からセーラー服の少女まで,東京だけで1000人の募集に4000人もの女性が応募してきた.そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった.そして1360人の女性が慰安婦として働くことになった.彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが,応募者の半数近くは処女だったとされている.焼け野原の東京で餓死しないため,生きるためには恥も外聞もなかった.「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」,この条件に彼女たちは誘われたのである.応募した女性のほとんどが素足のままだったとされ,それは生きるための手段であった.
内務省はこの国営売春施設の設置を決定すると同時に,進駐軍を迎えるための国民の心得について注意事項を通達し,その内容は新聞にも掲載された.「日本女 性の心構えとして,日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない,ふしだらな服装は禁物である」,「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろん のこと,昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」と記載されている.政府は国営売春施設を作る一方で,一般女性にはこのような警告を発してい た.国営売春施設,国民の心構えはいずれも日本の婦女子を守ることが目的であったが,それがどれだけ効果があったかは明確ではない.それは進駐軍の報道規 制によって進駐軍の犯罪が報道されなかったからである.アメリカ兵の婦女暴行などの犯罪は報道されなかったので,その実体を知ることはできない.しかしア メリカ兵による婦女暴行の噂は少なかったことから,結果的には国営売春施設はアメリカ兵に好意的に迎え入れられ,また日本の女性を守ることになったと考え られる.
日本政府が「性の防波堤,純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げるという合理的な考え,また衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち,敗戦という当時の日本の状況を考慮すれば,国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない.
しかし3日 前まで連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽っていた政府が,また民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた政府が,アメリカ兵に対し国営売春施設を設け るという,この手のひらを返したような無節操な政策が抵抗なく進められたことに疑問を持つ者が多いと思われる.それは民族としての潔癖性をこれほど簡単に 変えたことに対する疑問であった.この敗戦前後の日本人の豹変ぶりは何だったのだろうか.一億玉砕を唱えながら,ゲリラ戦で戦う者はなく.天皇陛下万歳が マッカーサー万歳となり,貞操観念の強いはずだった日本女性が米兵の腕にぶら下がる.このような変化が何の抵抗もなく行われたことをどのように分析すれば よいのだろうか.
これを日本民族が持つ変化に対する合理的な適応性というのだろうか.この日本人の変わり身の早さをうまく説明はできないが,本土決戦を唱えていた国民が,これほど変化し順応していることが,説明しがたい日本民族の不思議さを感じさせる.
このことを日本人が適応性に優れた国民だったと考えれば納得することができる.日本人が信念を堅持しながらも,古い信念をすぐに捨て得る民族であることは 確かであろう.また国民にとって鬼畜米英は戦争遂行のためのスローガンにすぎず,欧米の文化や外国人の容貌に対する日本女性の潜在的なあこがれが心の中に 潜在していたとも考えられる.しかしながら,沖縄におけるひめゆり部隊の最後,満州における民間人の自決,サイパンにおける女性の自決,このような数週前 に起きた女性の悲劇と対比させると,慰安婦に応募した彼女らの心情をどのように分析すればよいのか躊躇を覚える.敗戦というショックがあったにせよ,国営 売春施設が何の抵抗もなく当たり前のように設立された事実を直視しなければいけない.
日本人の性に対する貞操観念について説明を加えなければならない.日本女性の貞操観念は,江戸・明治時代の儒教的考えから堅固なものと想像されやすいが, 日本女性は性に対し本来は大らかな民族だったのである.戦国時代の日本女性についてヨーロッパの宣教師は,日本女性の貞操観念があまりに欠如していること に驚いたことを本国への手紙に書いている.
国営売春施設は,日本政府の予想とおりアメリカ兵が列をつくるほどの大繁盛となった.最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上,全国では7万人の慰安婦が働いていた.しかし女性は消耗品とみなされ,90%の女性が次々に性病におかされていった.このように施設内に性病が蔓延したことが,アメリカ兵の衛生を管理するGHQにとって大きな問題となった.国営売春施設の一角には必ずかまぼこ型の消毒所が設けられ,事前の予防と事後の消毒が奨励された.さらに隠匿されていたコンドームが性病予防のため108万個放出され,大量のペニシリンが日本に提供された.売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制的検診が義務づけられたが,性病予防の効果は低かった.
米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到した.さらに売春行為そのものを反民主主義,反人道主義的行為とするアメリカの世論がひろがり,わずか半年後の昭和21年3月27日,GHQは「公娼廃止に関する覚え学」を出し,すべての国営売春施設を廃止することになった.
敗戦から1ヶ月後の昭和20年9月15日,ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され,この本は3ヵ月で400万部を売る大ベストセラーとなった.彼女たちはこの本を頼りにアメリカ兵と親交をはかったのである.それまで敵性語とされていた英語が急にもてはやされた.
国営売春施設の廃止により,建前上日本の社会から売春は消失した.しかし占領軍に対する売春は消失するどころか,潜伏したかたちで勢いを増すことになる. 国家管理の売春が自由意志の売春に変わっただけであった.街頭に放り出された慰安婦たちは,手に職もなく,もぐりの売春婦となった.制度が変わっても売春 自体が消失したわけではなく,国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち街娼の全盛期がやってきた.雇い主から自由になった娼婦が街に溢れる ことになった.
日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは,「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」などと,軽蔑と羨望の混じった俗称でよばれるように なった.彼女らは有楽町を筆頭に,上野,池袋を主な仕事場としていた.そして彼女たちの相手は,占領軍から日本人へとしだいに移行してゆくことになる.
国営売春施設の中止により性風俗の悪化を恐れた政府は,昭和21年11月4日, 「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した.特殊飲食店などの地域を限定してもうけ,社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策をとった のである.特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し,売春をある集団地区で認めるようになった.娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え,娼婦は女給 と形式上名前が変えられ,売春が行われるようになった.この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった.「赤 線」は公認の売春地区であった.昭和20年9月の時点で,東京では吉原,州崎,新宿,立川,小岩,向島など16カ所が赤線の指定を受け,全国では662カ所が指定され,娼婦は4万9000人いたとされていた.この公認の「赤線」に対して,非公式に売春行為をおこなう場所がいわゆる「青線」と呼ばれた.
昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている.それによると全国の売春地区は1921カ所,売春婦の数は約50万人に達していた.それだけ急速に売春婦の数が増えたことが分かる.そして,ひとりの売春婦が一晩にとる客数は平均2から4人とされている.この売春白書は組織売春に限られた統計あり,フリーの売春を含めれば,売春婦の数は相当数に達したものと想像される.女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが,組織売春で働く彼女たちは,収入の7割が搾取され,手元には3割しか残らなかったとされている.
生きるために身を売る女性の悲しみ,このような終戦直後の風俗を象徴するかのように,菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした.スカーフ姿でタバコを ふかしながらガード下に立つ女性たち.「星の流れに身を占って.・・・・こんな女に誰がした」という歌詞は,当時の彼女たちの退廃的雰囲気を的確に表現し ている.
この赤線による売春は売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた.
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