スーさん
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2012/02 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着コメント

新着トラックバック

  江戸時代、佐倉藩(現在の千葉県成田市)は飢饉の続くなか、年貢を厳しく取り立て、年貢滞納者には過酷な拷問まで行っていた。

 一家離散、餓死の惨状から農民が集結、一揆を起こそうとしたが、名主総代・佐倉惣五郎(そうごろう)は、「一揆を起こせば百姓の命はない、一家みな磔になる」、「私が領主に直訴する」と約束した。

 佐倉惣五郎は、佐倉藩に減税を訴えようとするが、この動きを察知した役人は、「訴えごとをなす輩は厳罰に処す」と回状を名主に送り、申し入れすら受け入れようとしなかった。

 305カの村の名主は、国許の佐倉藩では解決困難として、江戸にいる佐倉藩主・堀田正信に嘆願書を提出したが、「国許を差し置いて、強訴するとは不届き」と却下された。

 そのため名主たちは、幕府へ上訴することを決断。将軍家後見職・保科正之を江戸城のお堀端で待ち、嘆願書を出した。しかし保科正之は、他藩の内紛に口を挟むことはできないとした。

 この江戸の行動は、佐倉藩に通知され、「6人の名主総代は、藩にいれるな、召し取れ」となった。

 名主たちに残された手段は、将軍への直訴しかなかった。将軍への直訴は、死罪とされていたが、その大役を佐倉惣五郎が引き受けることになった。惣五郎は家族に別れを告げるため、雪降る夜、印旛沼の渡し場の小屋についた。

 渡し舟の夜間航行は禁じられていて、役人が渡し舟に鎖を掛けていた。船頭・甚兵衛は惣五郎が村民の窮状を救うため、江戸で活動していること知っていた。無断の夜間航行は打ち首であったが、甚兵衛は鎖を切って舟を出した。甚兵衛は、惣五郎を送ったあと、寒中の湖に身を投げた。

 惣五郎は家にもどると、妻に離縁状を渡し、子供を勘当し、罪が及ばぬようにして、涙の別れをして家を出た。

 惣五郎は四代将軍家綱へ直訴のため、上野寛永寺で参詣する将軍を待ち、訴状を将軍家綱へ差し出したが、その場で捕えられた。

 惣五郎の処罰は佐倉藩に一任される。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、佐倉藩は磔(はりつけ)となった。さらにメンツを潰された佐倉藩主は、事前に離縁していた妻も磔とし、勘当していた4人の子供をも死罪とした。

 いっぽう、将軍家綱は訴状の内容を確認、佐倉藩の状況を調査するよう命じ、

佐倉藩の酷政と深刻な不作に喘ぐ農民が確認された。幕府は佐倉藩に3年間年貢の免税を命じ、救済米を送った。

 佐倉惣五郎は命をかけて農民たちを救ったのである。

 この佐倉惣五郎の伝記は、「佐倉義民伝」として読まれ、歌舞伎では「東山桜荘子」として上演され、講談や浪花節でも取りあげられた。

 江戸末期の百姓一揆は、惣五郎の影響が大きく、明治の自由民権家たちは惣五郎を民権の先駆者ととらえ、福澤諭吉は佐倉惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と書いた。

 

固定リンク

東京女子医大山岳部(昭和42年)

 昭和42719日,東京女子医大山岳部の今井通子(25)さんと若山美子(26)さんの2人がヨーロッパ・アルプス三大北壁のひとつであるマッターホルン北壁からの登頂に成功した.マッターホルンの標高は44778メートルで,4000m級の山々が連なるスイスイスアルプスのなかで山麓の住民からは「魔の山」として恐れられていた.マッターホルンの山頂は夏でも白銀の雪を冠し,古くから世界中のアルピニストたちを魅了し続けていた.

 今井通子さんらは一晩のピバーク(野営)の後,夜の8時に頂上に立った.吸い込まれそうな巨大な氷壁に苦戦しながら,4人の女性だけのパーティーで北壁の登頂に成功したのである.マッターホルンの北壁は女人禁制といわれたほどの難所であったが,今井さんたちは世界で初めて女性だけで登頂したのである.翌20日の朝に下山をはじめ昼過ぎにベースキャンプに着いたが,各国のクライマーたちはこの快挙に驚き,女性だけで北壁を登るとは信じられないとコメントをのべた.マッターホルンの北壁は雪と氷に覆われ,岩は崩れやすく,男性でも恐れをなす難コースであった.

 その2年後の昭和44年,今井通子さんはアルプス・アイガー北壁(3970メートル)の登頂に成功した.アイガー北壁は「赤い絶壁・魔の絶壁」と呼ばれ,赤黒く湿った岩肌が直角を越えあらゆる者を拒絶していた.今井通子さんは加藤滝男を中心とする男性パーティーに混じり登頂に成功したのである.さらに昭和46年には,婚約者である高橋和之とアルプス・グランドジョラス北壁(4208メートル)の登頂に成功した.雪や落石と戦い,登頂に成功すると頂上に雪洞を掘り,仲間と一緒に山頂でシャンペンを飲み,赤飯を食べ2人の結婚を祝った.それまで三大北壁のすべてを登頂したのは数人しかいなかった.今井通子さんは女性として世界で初めて三大北壁のすべてを完登し,世界の登山史に大きな足跡を残した.さらに三大北壁ばかりでなくチョモランマ(中国側のエベレスト),アフリカの最高峰キリマンジェロにも登頂し,山頂からのパラグライダー飛行にも成功している.

今井通子はスイスでは有名なクライマーとして知られている.山に関心のあるスイス人ならだれもが知っている日本人女性である.それまでの岩登りはほとんどが男性だけで,女性の岩登りはほとんどいなかった.今井通子は男にできることは女性にもできることを示し,女性の地位向上に貢献した.

この今井通子さんの三大北壁制覇から4年後の昭和50年,エベレスト日本女子登山隊が女性として初めてエベレスト登頂に成功した.登頂者は田部井淳子だった.

 当時,登山は大変なブームであり男のスポーツとされていた.当時の親たちは「お願いだから、山と全学連だけには行かないでくれ」と言っていたほどであった.そのため山男という言葉はあったが,山女という言葉はなかった.

 今井通子は昭和17年東京・世田谷生まれで,中学生のころから父親に連れられて山に親しみ,東京女子医科大学に入学と同時に山岳部に入った.そして東京女子医科大学山岳部時代女性パーティとして初めて谷川岳烏帽子奥壁登攀に成功して,女性登山家として名を知られるようになった.

 今井通子さんは「北壁登頂によって女性が登山をするという世間の偏見を称賛に変えた¥のだった.今井通子さんは後に,「私の北壁」「続私の北壁(朝日文庫)」,「山は私の学校だった(山と渓谷社)」,「男は仕事女は冒険(主婦と生活社)」を出版,自分がいかにして山に親しみ,いかにしてトレーニングを積んで三大北壁を制覇したか,遭難を心配する家族との葛藤などが書かれている.今井通子さんは東京女子医大を卒業後,医師として泌尿器科医として勤務,環境保護問題など幅広く活躍している.

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.02.13 17:04 |  旅行 / 宿  |  昭和 30年代 後  |  スーさん  | 推薦数 : 0

帝国ホテルで集団赤痢

帝国ホテルで集団赤痢(昭和38年)

 昭和38525日,東京・帝国ホテルの従業員2人が真性赤痢に罹患していることが判明した.ホテルの従業員の検査が行われ,27日には赤痢患者は27人となり,赤痢の集団発生であることがわかった.患者は従業員だけで宿泊者には感染者はいなかった.そのため従業員食堂に納入されている食材が原因とされ,給食材料を納入している業者を調べた結果,納入業者2人から赤痢菌が検出された.しかし納入業者の2人は納入時にホテルで食事をしていることから,赤痢菌を持ち込んだのか,赤痢菌に感染したのかは不明であった.帝国ホテルは日本を代表するホテルである.ホテルにおける集団赤痢は,帝国ホテルが初めてのことであった.宿泊者の1割は外国人で,その中にはインドネシアのスカルノ大統領も宿泊していたが,大統領は「わしはここを動かない」といって,ホテル関係者を感動させた.外人宿泊者600人は他のホテルに移動した.

 帝国ホテルは,国鉄の食堂も担当していたが,列車で食事を取った2人が疑似赤痢で入院となった.また帝国ホテルの従業員の家族も二次感染で入院となった.そのため国鉄の食堂は日本食堂と新大阪ホテルにふりかえられた.63日の時点で集団赤痢患者は保菌者を含め214人に達した.最後まで宿泊していたスカルノ大統領も帝国ホテルが営業停止になったので,他のホテルに移ることになった.その当時,日本は世界で最も清潔な国として知られていた.最高級のホテルである帝国ホテルの集団赤痢事件は,東京オリンピックを翌年に控え関係者をあわてさせた.

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.02.13 16:53 |  旅行 / 宿  |  昭和 30年代 中  |  スーさん  | 推薦数 : 0

国民休暇村

国民休暇村(昭和35年)

 国民休暇村は宿泊施設を中心としたレクリェーション総合施設を持つ保養地である.昭和358月,厚生省は国民休暇村の建設計画を発表し,「民間より安い料金で休暇村の施設を利用でき,健康で明るい国民生活の増進に寄与すること」を目的に,国立公園・国定公園の自然環境の優れた景勝地に開村する計画が示された.

 国民休暇村の特徴は日本の風景を代表する海岸や高原などの自然に恵まれた地域に位置し,宿舎を中心に広大な面積をもつことである.敷地にはプール、海水浴場、スキー場、児童遊園地、ゴルフ練習場、テニスコート、自然遊歩道、サイクリング施設などが完備されており,家族ぐるみの健全な休暇を楽しむことができる。国民休暇村のうち園地、歩道、野営場等の公共施設については国や地方公共団体が整備し、宿舎、ロッジ、スキ−リフト等の有料施設については国民休暇村協会が運営している.値段は民間の半分程度で,値段が安いため民間の旅館経営を圧迫していることが問題となっている.また公営企業のため経営がずさんとなり,補助金などの交付は受けていないが,税制面で優遇されており民間企業を圧迫している.現在,全国に35か所の国民休暇村があり,所轄は環境庁である.

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)