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 平成11年5月27日、加古川市の福原泌尿器科医院で血液透析を受けていた腎不全患者8人がB型肝炎ウイルスに感染、2人が劇症肝炎で死亡、3人が入院中であると兵庫県が発表した。兵庫県は感染調査委員会を設置して、カルテなどから5人以外に劇症肝炎で死亡したと思われる患者が1人いること、さらにこの発表から2カ月後に2人の患者が劇症肝炎で死亡する事態となった(最終的に6人が死亡)とした。

 感染調査委員会は患者の血液検査から感染源と思われるB型肝炎ウイルス(HBV)キャリアー(保菌者)を特定した。当時、福原泌尿器科医院では123人の患者が透析治療を受けていて、死亡した患者とHBVキャリアーから検出したウイルスのDNAが一致したことから、院内感染と断定した。患者は「生理食塩水や注射器の使い回しがあった」と証言したが、感染調査委員会は感染経路不明とした。

 当医院で透析を受けている98人(80%)がC型肝炎ウイルスに感染していた。C型肝炎は血液によって感染するが、当時、人工透析患者のC型肝炎感染率は15〜20%とされており、当医院のC型肝炎80%の数値は、当医院の衛生管理がいかにずさんだったかを示唆していた。

 HBVは母親から乳児への垂直感染が有名である。しかし昭和61年からHBe抗原陽性の妊婦に対してワクチンを投与することになり、新たなHBV患者は激減した。しかし昭和61年以前に生まれた人たちは、無症候性キャリアーになるので、血液に接する機会の多い医療施設で感染する可能性が高かった。

 この事件の5年前の平成6年、東京・新宿の西新宿診療所で劇症肝炎の集団感染が起き、人工透析を受けていた慢性腎不全患者5人がB型肝炎ウイルスに集団感染し、4人が劇症肝炎で死亡していた。東京都の劇症肝炎調査班は「感染源は同じ時間帯に透析を受けていたB型肝炎のキャリアー患者で、透析時の管注や採血などの行為によって、ウイルスが体内に入った可能性が考えられる」としたが、実際の感染経路は不明だった。患者の透析の順番を分析しても分からず、注射器の使い捨ても守られていたので感染の証拠がつかめなかった。調査班は同診療所に感染予防の徹底を指示するだけであった。

 血液透析によるB型肝炎ウイルス感染については、平成9年2月に、金沢大医学部付属病院で集団院内感染が起き1人が劇症肝炎になっている。平成12年6月頃、宮城県塩竃市内の医院で透析中の5人の患者が感染し劇症肝炎で4人が死亡している。5人の患者のウイルス遺伝子が一致していたが、感染源、感染経路は不明であった。

 さらに平成18年8月には、京都市山科区の音羽病院で人工透析中の患者8人がほぼ同時期にB型肝炎ウイルスに感染し、5人が入院となった。また平成19年2月には、大阪府枚方市の佐藤病院で、人工透析中の入院患者2人がB型肝炎ウイルスに感染し、1人が劇症肝炎で死亡している。

 劇症肝炎の年間発生数は数千人とされ、A型、B型肝炎ウイルス、そのほかのウイルス感染、薬剤の副作用などが引き金になる。劇症肝炎は肝機能が短期間に低下して、意識障害や臓器不全が起きる。急性肝炎の1〜2%が劇症化して、劇症化した患者の約半数が死亡する。血液透析施設でのB型肝炎ウイルスの集団感染、劇症肝炎の発生頻度が高い理由については不明であるが、透析施設で高頻度に起きていること、ウイルスのDNAが一致していることから院内感染によるものとされている。

 日本に人工透析が導入された当時、透析施設でウイルス性肝炎の集団感染が多くみられていた。感染対策がなされている現在でも、C型肝炎の感染が散発している。透析室は大部屋で、多数の患者が、同時に週に数回の血液の体外循環を行っている。さらにHBVは室温において少なくとも7日生き続けることができるので、感染経路が不明であっても血液による院内感染があっても不思議ではない。このことからも、患者を手当てする度に手袋を替え、手を洗うなど細心の感染防止が必要である。なお血液透析スタッフのHBV感染のリスクは高くないことから、透析スタッフに対して定期的に検査を行う必要はない。

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2012.01.30 05:38 |  研究  |  医療事故  |  映画 / 音楽 / 読書  |  肝炎  |  平成10-15年  |  薬害  |  スーさん  | 推薦数 : 1

薬害肝炎 平成14年(2002年)

 平成14年、血液製剤によるC型肝炎ウイルス(HCV)感染が大きな社会問題となった。問題になったのは主としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の血液凝固製剤「フィブリノゲン製剤」で、約6000の医療機関に納入され、約30万人に投与され、約1万人がHCVに感染したと推定されている。HCV感染と肝炎との因果関係は明らかであるが、血液凝固製剤がC型肝炎の原因であるとの証明、薬害肝炎をもたらした責任を含めると極めて複雑になる。

 昭和39年3月にライシャワー駐日米国大使が暴漢に襲われ、輸血を受けたライシャワー大使が輸血後肝炎となった。この事件がきっかけに同年8月、民間の血液銀行が行っていた輸血を日本赤十字社に一本化し、輸血は売血から献血へと大きく変更された。この輸血行政の変換によって、昭和39年までの輸血後肝炎の発症率は50.9%であったが、昭和42年には16.2%になり、輸血の安全性は飛躍的に高まった。しかし献血としたのは輸血用の血液だけで、血液製剤は対象外だった。

 血液銀行の大手だった「日本ブラッド・バンク」は、昭和39年8月に社名を「ミドリ十字」に変え、血液製剤部門の強化をはかった。血液製剤は国内外で数千人から集めた血漿を濃縮して製造していたため、通常の輸血より感染の危険性が高く、このことが後の薬害エイズ、薬害肝炎を引き起こす下地になった。

 昭和39年、ミドリ十字はフィブリノゲン製剤を製造販売、主に出産時の異常出血の止血剤として使用されていた。ちょうどその頃、出産時の大量出血で妊婦が死亡した裁判で、「フィブリノゲン製剤を投与するなど、適切な止血措置をとらなかった」として、産婦人科医に高額な損害賠償を命じた判決(東京地裁、昭和50年2月13日)があった。このことから出産時の出血や、外傷や手術の止血用にフィブリノゲン製剤は安易に使用されていた。当時はフィブリノゲン製剤の投与による肝炎発症の副作用は少なかった。

 いっぽう米国では、昭和52年12月に米食品医薬品局(FDA)がフィブリノゲン製剤の投与により肝炎が多数発生したことから製造承認を取り消していた。昭和54年9月、旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)血液製剤部長の安田純一が著書の中でFDAによる製造承認取り消しの事実を指摘、フィブリノゲン製剤の危険性を知りながら厚生省には報告していなかった。ミドリ十字もFDAの承認取り消しの資料を社内で回覧していたが販売を続けていた。

 ここで混乱しやすいのは、米国のフィブリノゲン製剤は日本とは製造法が違っていたのだった。日本で販売されていたフィブリノゲン製剤は不活化処理(BPL処理法)により、B型肝炎ウイルス(HBV)のみならずHCVも不活化されていた。この不活化処理(BPL処理法)は偶然の選択であった。しかし昭和60年、この不活化の処理を米国と同じ方法に変更したためHCVは不活化されなくなり感染を拡大させた。

 一方のB型肝炎は、昭和43年にHBVが発見され、昭和47年には輸血からB型肝炎が排去されたが、依然として輸血の約10%に輸血後肝炎が発症し、輸血後肝炎は非A非B型肝炎と呼ばれていた。しかし平成元年に米国のカイロン社がHCVを発見、HCVが非A非B型肝炎を引き起こすことが初めて解明された。HCVの発見により輸血後肝炎の全貌がほぼ明らかになり、C型肝炎は輸血以外に、集団予防接種などでの注射器の回し打ち、あるいは自然感染によるものとされていた。フィブリノゲン製剤によるC型肝炎は予想外のことだった。

 さらに混乱しやすいのは、フィブリノゲン製剤は止血剤であることから、同時に輸血を受けていた患者が多かったことである。C型肝炎がフィブリノゲン製剤によるものなのか、輸血によるものなのか、あるいは別のルートによるのか、断言できなかった。また当時のカルテを保存している医療機関は少なく、解明をより困難にした。

 薬害肝炎が社会問題となったきっかけは、昭和62年4月18日の新聞報道だった。それは青森県三沢市の産婦人科医院で、昭和61年9月から翌62年4月にかけて、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン−ミドリ」を投与された産婦8人が非A非B型肝炎に集団感染したことだった。

 この感染は、肝炎ウイルスの不活化処理法であるBPL処理法が別の方法に変更されてから出荷された製剤によるもので、同医院は厚生省に報告するとともに、ミドリ十字にフィブリノゲン製剤によって集団感染が起きたと抗議した。しかしミドリ十字は「フィブリノゲン−ミドリ」の添付文書に「血清肝炎等の肝障害があらわれることがある」と記載してあることから、感染は不可抗力として患者に陳謝しなかった。

 医院側とミドリ十字との話し合いは平行線をたどったが、医院側が患者救済のため、「投与した医師の責任」として患者に陳謝。医院が患者1人に約100万円ずつ計約800万円を支払うことになった。しかし実際には、救済金の半分の400万円はミドリ十字から医院へ研究費名目で支払われていて、ミドリ十字はこのことを公言しないように病院に約束させていた。つまりミドリ十字は薬害肝炎が広がった場合、補償問題の防止策をはかっていたのである。

 この青森県の産婦人科医院をきっかけに、ミドリ十字は厚生省の指示で感染実態を調査し、同年7月までに同製剤で74人が肝炎を発症していると報告。ミドリ十字は非加熱の「フィブリノゲン−ミドリ」を自主回収し、事実上使用しなくなった。しかし同時に、感染の証拠となる「フィブリノゲン−ミドリ」をすべて破棄したため、薬害肝炎は隠蔽されてしまった。

 平成13年頃からC型肝炎の感染ルートが重視されるようになったが、この事態を一転させたのが、平成14年3月のフジテレビ「ニュースJAPAN」の報道であった。日本初の集団感染を報告した三沢市の産婦人科医院が、当時の「フィブリノゲン−ミドリ」を保管していたことを明らかにした。保管されていた「フィブリノゲン−ミドリ」は製造から15年以上も経過していたが、分析の結果、C型肝炎ウイルス(HCV)の活性を持っていたのである。さらにDNA鑑定で「フィブリノゲン−ミドリ」と、かつて製剤によって肝炎を発症した患者のウイルスが一致し、また米国の麻薬患者のウイルスとも一致したのだった。

 このことから血液製剤「フィブリノゲン−ミドリ」は、原料血漿を米国で買い付け、原料血漿にHCVが含まれていたことが明らかになった。薬害エイズと同じように、原料血漿は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦を対象とした極めてハイリスクなものだった。このことからフィブリノゲン製剤によってC型肝炎が引き起こされた可能性が高くなった。

 平成14年8月、厚生労働省が作成したフィブリノゲン製剤によるHCV感染に関する調査報告書には、製薬会社の「三菱ウェルファーマ」(旧ミドリ十字、現田辺三菱製薬)から提出されたHCVに感染した418人分のリストが含まれていた。しかし厚生労働省は製薬会社から患者リストをもらいながら患者に連絡をせず、フィブリノゲン製剤を使用した納入先の医療機関を公表して、C型肝炎の検査を受けるように呼び掛けただけであった。

 平成19年10月、この患者リストが厚労省の倉庫から発見され、厳しい批判を浴びることになった。平成19年11月30日現在、418人のうち265人が特定されたが、そのうちの51人が死亡していた。医療機関を通して感染の事実や感染原因を告知されたのは92人。死亡した9人の遺族に対して感染原因などが伝えられた。

 平成14年10月21日、東京で13人、大阪で3人が東京地裁および大阪地裁に損害賠償を求めて提訴。さらに翌15年には患者原告は福岡地裁、名古屋地裁、仙台地裁において次々と提訴した。大阪と福岡の訴訟判決(平成18年)、名古屋の訴訟判決(平成19年)では、C型肝炎ウイルスを不活化していた期間においても感染の危険性が排除できないとして、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した。しかしそれ以外は国、製薬会社に責任はなしとの判断を示した。

 裁判所はこのように判断を下したが、この司法判断とは別に、政府は議員立法で一律救済の法案を成立させることになり、平成21年11月30日に肝炎対策基本法が成立した。肝炎対策基本法はすべてのB型、C型肝炎患者の救済を目的とし、肝炎患者への治療負担の軽減を盛り込んでいる。さらに過去の薬害肝炎事件に関する国の責任も明記しており、肝炎患者救済の第一歩と期待されている。

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  江戸時代、佐倉藩(現在の千葉県成田市)は飢饉の続くなか、年貢を厳しく取り立て、年貢滞納者には過酷な拷問まで行っていた。

 一家離散、餓死の惨状から農民が集結、一揆を起こそうとしたが、名主総代・佐倉惣五郎(そうごろう)は、「一揆を起こせば百姓の命はない、一家みな磔になる」、「私が領主に直訴する」と約束した。

 佐倉惣五郎は、佐倉藩に減税を訴えようとするが、この動きを察知した役人は、「訴えごとをなす輩は厳罰に処す」と回状を名主に送り、申し入れすら受け入れようとしなかった。

 305カの村の名主は、国許の佐倉藩では解決困難として、江戸にいる佐倉藩主・堀田正信に嘆願書を提出したが、「国許を差し置いて、強訴するとは不届き」と却下された。

 そのため名主たちは、幕府へ上訴することを決断。将軍家後見職・保科正之を江戸城のお堀端で待ち、嘆願書を出した。しかし保科正之は、他藩の内紛に口を挟むことはできないとした。

 この江戸の行動は、佐倉藩に通知され、「6人の名主総代は、藩にいれるな、召し取れ」となった。

 名主たちに残された手段は、将軍への直訴しかなかった。将軍への直訴は、死罪とされていたが、その大役を佐倉惣五郎が引き受けることになった。惣五郎は家族に別れを告げるため、雪降る夜、印旛沼の渡し場の小屋についた。

 渡し舟の夜間航行は禁じられていて、役人が渡し舟に鎖を掛けていた。船頭・甚兵衛は惣五郎が村民の窮状を救うため、江戸で活動していること知っていた。無断の夜間航行は打ち首であったが、甚兵衛は鎖を切って舟を出した。甚兵衛は、惣五郎を送ったあと、寒中の湖に身を投げた。

 惣五郎は家にもどると、妻に離縁状を渡し、子供を勘当し、罪が及ばぬようにして、涙の別れをして家を出た。

 惣五郎は四代将軍家綱へ直訴のため、上野寛永寺で参詣する将軍を待ち、訴状を将軍家綱へ差し出したが、その場で捕えられた。

 惣五郎の処罰は佐倉藩に一任される。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、佐倉藩は磔(はりつけ)となった。さらにメンツを潰された佐倉藩主は、事前に離縁していた妻も磔とし、勘当していた4人の子供をも死罪とした。

 いっぽう、将軍家綱は訴状の内容を確認、佐倉藩の状況を調査するよう命じ、

佐倉藩の酷政と深刻な不作に喘ぐ農民が確認された。幕府は佐倉藩に3年間年貢の免税を命じ、救済米を送った。

 佐倉惣五郎は命をかけて農民たちを救ったのである。

 この佐倉惣五郎の伝記は、「佐倉義民伝」として読まれ、歌舞伎では「東山桜荘子」として上演され、講談や浪花節でも取りあげられた。

 江戸末期の百姓一揆は、惣五郎の影響が大きく、明治の自由民権家たちは惣五郎を民権の先駆者ととらえ、福澤諭吉は佐倉惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と書いた。

 

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 小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。

 日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。

 小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。

 アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。

 小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.1〜0.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。

 小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。

 昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。

 ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。

 日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。

 このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。

 しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。

 子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。

 昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。

 ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。

 ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。

 昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。

 昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。

 昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。

 しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。

 このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。

 同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。

 このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。

 小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。

 世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。

 小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。

 

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2012.01.27 07:26 |  生活 / くらし  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  心の話  |  スーさん  | 推薦数 : 3

コーギー

 子供の情操教育をかねて犬を飼うことにした。都内の犬屋を数軒訪ね、ケージに入った犬を見てまわった。かつて捨て犬を飼っていたことがあったので、犬には慣れていたが、数十万円の犬ばかりで、値段の高さに驚いてしまった。店内でどの犬を買おうかと迷っているうるうちに、値段の高い犬が良いだろうと思うようになった。

 「物の価値は値段に比例する」とわが脳ミソは毒されていた。しかし妻はこの犬でなければいやだと一匹の犬を指さした。それは貧相な顔をしたコーギーだった。コーギーはエリザベス女王が飼っていることで有名になった犬種で30万円前後が相場の犬である。

 しかしその上目遣いのコーギーはなぜか2万円だった。「安いものには、どこかに欠陥がある」と小声で文句を言ったが、妻は耳を貸さずレジで2万円を払って、そそくさと店を出てしまった。そして帰りの自動車の中で「この犬はあと数日の命だったのよ」と犬を抱きしめながら妻がいった。

 つまり、売れ残った犬は値段が下げられ、それでも売れなければ安楽死にするのがこの業界の常識だったのである。妻がこの犬を買ったのはこの犬の命を助けたい気持ちからだった。

 この日だけは妻を尊敬してしまった。そして医師としての基本的姿勢を教えられた気持ちになった。2万円のコーギーは、最近、飼い主に似て凛々しい顔つきになってきている。

 

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2012.01.26 07:43 |  恋愛 / 結婚  |  その他(一般)  |  歴史私観  |  スーさん  | 推薦数 : 1

壮絶な死

 20世紀を代表する画家モディリアーニを知らない人は少ないであろう。生涯に1回だけ個展を開いたが、その時、裸婦画を出展し、警察が乗り出す騒ぎになった。その裸婦モデルが、恋人ジャンヌである。

 モディリアーニは貧困と肺結核に苦しみ、35歳で死去したが、死の2日後、妊娠9ヶ月のジャンヌもモディリアーニの後を追うように、飛び降り自殺している。昔の人は、生き方が壮絶だったように、死に方も壮絶であった。

 織田信長の取りなしで、細川忠興は明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。しかし明智光秀の本能寺の変で、忠興は妻ガラシャを丹後の山中に幽閉する。

 その後、秀吉の許しで、夫婦は一緒に生活するが、関ヶ原合戦の直前、西軍の石田三成が敵方細川忠興のガラシャを人質に取ろうと大阪の屋敷を取り囲んだ。ガラシャは人質を拒否。キリスト教では自殺は大罪であるが、屋敷に火を放ち自害した。ガラシャは次の辞世の句を詠んでいる。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 次に、尊敬する科学者にほれた男の壮絶な死を紹介する。

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 狂犬病は古代エジプトの時代から知られており、日本では984年の丹波康頼の「医心方」に狂犬病の記載がある。狂犬病は海外から持ち込まれた輸入感染症で、狂犬病ウイルスに感染した犬にかまれて発症する人獣共通感染症である。

 狂犬病が恐ろしいのは、発症すれば犬も人間も100%死亡することである。パスツールによってワクチンが開発され、感染してから発症するまでの予防法は確立しているが、発症すれば100%死亡する最も恐ろしい疾患である。

 江戸時代の徳川吉宗の時代に大流行があったが、これは将軍綱吉の出した「生類憐(あわ)れみの令」によって犬とのかかわりを人々に強制した結果、煩わしさから捨て犬が増加したことによる。明治5年に、犬の首輪に飼い主の住所氏名を記した木札をつけさせ、狂犬を見つけたら打殺することが定められ、明治14年には犬の登録制度が始まり、明治29年には犬の狂犬病を法定伝染病にした。しかし狂犬病は撲滅できず、大正時代は毎年500件から3000件の発症があった。昭和19年には狂犬788頭と患者46人が発生している。また昭和25年にも狂犬病が流行し、犬320頭が発症して21人が死亡した。

 昭和25年、狂犬病撲滅のために狂犬病予防法が設定され、それまで放し飼いの野犬が多かったが、飼い主は登録が義務づけられ、飼い犬には強制的にワクチンの接種が行われた。保健所は野犬狩りを繰り返し、輸入犬の検疫が施行され、これらの予防体制によって日本から狂犬病が駆逐されていった。

 昭和45年7月19日、ネパールを旅行していた日本大学の学生が首都のカトマンズで犬にふくらはぎをかまれた。青年は犬にかまれたこを忘れていたが、8月5日に帰国、同月16日になって急に呼吸困難をきたし、東京大学医科学研究所付属病院に入院となったが翌日死亡した。

 青年の話を聞いた主治医は、狂犬病特有の上行性脊髄炎の症状から、都立衛生研究所に狂犬病ウイルスの検査を依頼、その結果、狂犬病による死亡であることが確認された。日本では昭和32年に狂犬病の最後の患者が報告されて以降、今日に至るまで狂犬病患者はこの学生を含む3例だけで、いずれも海外で犬に噛まれての感染である。日本国内ではかつて恐れられていた狂犬病はすでに過去の疾患になっている。

 世界保健機関(WHO)によると、現在でも全世界で毎年6万人から7万人が狂犬病で死亡している。日本の狂犬病は撲滅しているが、世界的には狂犬病はまだ蔓延しており、特にインドや北朝鮮などのアジア、ロシア、アフリカでは狂犬病が多く、インドでは年間4万人近くが狂犬病で死亡している。

 狂犬病が存在しない国は日本の他、オーストラリア、台湾、ハワイなどの海に囲まれた10カ国程度しかない。日本で撲滅されたのは、犬へのワクチン接種や検疫制度によるが、わが国が島国という地域的要因が大きい。

 世界から狂犬病が撲滅できないのは、狂犬病ウイルスを媒介するのは犬だけでなく、猫、コウモリ、リスなど多くの哺乳類が関与しているからである。狂犬病ウイルスが犬だけに限られていれば、全部の犬にワクチン投与すれば撲滅は可能であるが、媒介する動物が多すぎるために撲滅できないのである。イギリスではコウモリが、フランスではキツネが感染源となっている。フランスでは国土の3分の1が汚染地区とされ、ワクチンを注入した鶏肉を森に置き、キツネの感染を予防しようとしている。

 メキシコでは、洞窟に入って霧状になったコウモリの唾液を吸入して、狂犬病を発症した例が報告されている。ラブドウイルスに属する狂犬病ウイルスは唾液腺で増殖するので、狂犬病に罹患した動物にかまれると、唾液中の狂犬病ウイルスが傷口から浸入して発症する。ウイルスが体内に潜伏すると、潜伏期間は通常1カ月から2カ月だが、早い場合は10日間で、1年以上の例も6%ほどある。

 潜伏期間に個人差があるが、潜伏期間は咬傷の程度、かまれた時の洗浄の有無、かまれた場所が関係している。発病率は頭頚部や顔面の咬傷では50%、手足等の露出部の咬傷では30%、衣服の上からの咬傷では10%とされている。

 全体では、かまれても発症するのは2割程度であるが、いったん発症すると100%死亡する。発症時にはウイルスはすでに脳を侵しており、脳におけるウイルスの増殖を阻止する方法はない。

 ヒトからヒトへの狂犬病の感染例は、患者が狂犬病に罹患していることを知らずに角膜を提供し、提供を受けた患者が発病した角膜移植の1例だけである。しかし患者に直接接触する医師、看護婦等の医療従事者は感染予防に十分注意すべきである。

 狂犬病の前駆症状として発熱、頭痛、不快感、かゆみ、手足のしびれ、全身倦怠感などの風邪に似た症状がみられる。次に異常行動、見当識障害、幻覚、痙攣発作、麻痺などで、狂犬病に特有の症状として「恐水発作」が有名である。

 恐水発作は水を飲もうとすると、あるいは水を見ただけで、のどに有痛性の痙攣が起きることである。これは咽頭麻痺によって水が飲めず、むせによって水に恐怖心を持つためとされている。また顔面や声帯が麻痺することから犬が叫ぶような声を出し、恐怖心から狂乱状態となるが、意識は最後まで残されている。精神錯乱、麻痺、呼吸障害、昏睡状態から突然死する。検査所見としては白血球が3万から4万に増加するが、死亡するまで診断がつかないことがある。発症から死亡までの期間は1週間以内である。

 狂犬病の予防としては、流行地に行く場合にはワクチンの接種が有効だが、ワクチンの効果のない狂犬病ウイルスが知られているので万全ではない。ワクチンが効かないことがあるのは、狂犬病ウイルスは1種類だけでなく数種類あるからである。

 日本では狂犬病の発生がみられないので、海外に出かけてもその危険性を認識していない人が多い。そのため海外で不用意に犬に近づき、かまれる例が後を絶たない。むやみに犬や野生動物に接触しないことである。

 ワクチンの接種が勧められているが、狂犬病が疑われた犬などの野生動物にかまれた場合には、傷口を石鹸と水でよく洗うことである。このことでウイルスを不活性化することができる。また早期に狂犬病ワクチンと抗狂犬病ガンマグロブリンを投与することであるが、それでも死亡例が報告されている。かまれてから7日を経過した場合は予防効果はないとされ、もちろん発症した場合には治療法はない。死を待つだけである。

 1992年、フランスを旅行していた日本人男性が、野犬に靴下の上から足をかまれた。男性はそのまま旅行を続けたが、かんだ犬が狂犬病と分かって現地でワクチンと狂犬病免疫グロブリンを注射し、さらに帰国後、都内の病院で5回ワクチンを接種して発病を免れた例がある。

 狂犬病の犬にかまれればその対応は早いが、リスなどにかまれた場合はやっかいになる。リスが狂犬病に感染していないと確認されない限り、現地の医療機関を受診し、狂犬病ウイルスを含めた感染症予防策をとるべきである。

 なお日本では狂犬病ワクチンは製造されているが、常備している医療機関は少ない。また抗狂犬病ガンマグロブリンは製造も輸入もしていない。このように日本の狂犬病への医療体制は不十分で、WHOの勧告通りの治療が受けられないのが実情である。

 平成15年の犬の輸入頭数は約1万7000頭になっている。日本では狂犬病予防法に基づき輸入動物を検疫所で調べ、狂犬病の上陸を水際で防いでいる。また狂犬病予防法では飼い主が市町村に犬を登録し、年に1回予防注射を受けることを義務づけている。

 日本国内では狂犬病の発症はみられないが、ペットブームにより世界中から動物が輸入されていることから、狂犬病が日本に上陸する可能性は残されている。また狂犬病の恐怖が薄れたことで、義務化されている予防接種を受けていない犬が5割以上に達している。厚生労働省は狂犬病の予防には7割以上の犬への接種が必要としている。

 さらに犬以外の哺乳類は検疫を通らずに輸入されていて、いつ狂犬病が侵入してきても不思議ではない。例えばアライグマ、プレリードック、シマリスなどは、犬よりも狂犬病を感染しやすいとされている。事実、1992年アメリカでは8545頭のアライグマが狂犬病によって死亡している。ペットショップで売られている動物は人工繁殖された動物が多いが、狂犬病に感染していないという証拠はない。

 WHOの調査では、人への感染源は犬82%、猫10%、牛1%、キツネ2%、その他5%となっている。なおアメリカでは3年間有効のワクチンが当たり前で、日本でも3年間有効のワクチンが可能であるが、狂犬病予防法が毎年の接種を義務づけているため、年1回の予防注射は獣医師たちへのボーナスとなっている。

 中国などアジア各国で狂犬病が多発していることから、平成16年、農林水産省は狂犬病発生国から生後10カ月未満の子犬の輸入を禁止している。また輸入犬の皮下にマイクロチップを埋め込み、個体識別をすることを決めている。このような対策を立てているが、輸入動物の検疫は農水省で、予防注射や発病時の対策は厚労省の担当となっていて、この縦割り行政が狂犬病の予防と対策の問題となっている。

 ところで疫病神と恐れられていた狂犬病のワクチンは、1880年、パスツールによって開発されたことは有名である。狂犬病のワクチンは、パスツールの偉大な業績のひとつで、当時はウイルスの概念はなかったが、犬の唾液によって狂犬病が伝染することが分かっていた。パスツールは狂犬病に感染させたウサギの脊髄液を処理してワクチンの研究を重ねていた。ある日、狂犬病のオオカミにかまれた少年がアルザスからパリのパスツールのところに連れてこられ、母親がパスツールに息子を治してくれるように懇願した。

 パスツールの狂犬病ワクチンは弱毒化した生ワクチンで、有効性と安全性がまだ未確認だった。パスツールはもしワクチンで少年が死んだら殺人罪になると躊躇したが、ワクチンでこの少年を助けることになる。人類史上初めての狂犬病ワクチンの接種だった。

 メイステル少年はパスツールの恩に報いるため、パスツール研究所の門衛として働くことになる。第二次世界大戦でドイツ軍がパリに侵攻し、パスツールのひつぎが納められている「パスツール廟」を開くよう命じるが、扉の前に立った門衛メイステルは、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたければ私を殺してからにしろ」といって自殺した。今もパスツール研究所の地下に「パスツール廟」があり、かつての少年、門衛メイステルの話はいまも語り継がれている。

 

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  日本では、昭和56年以降、野生株によるポリオ(自然感染)の発生はなく、平成14年にポリオ根絶を正式に宣言している。また同年、西太平洋各国もポリオ根絶を宣言している。しかし地球上から根絶との証拠がないため、ワクチン接種が続けられている。

 いっぽう、日本の生ワクチン接種後の二次性ポリオ、つまりワクチンによるポリオ発症は、14年間で182件である。この182件は国が認定した患者数で、軽微なものは含まれていない。

 昨年12月、神奈川県の黒岩知事は、より安全とされている不活化ポリオワクチンの輸入を約束し、これに対し、厚労省は不活化ポリオワクチンの安全性が確保できないと反対する声明をだした。

 このことについて、医師もマスコミも沈黙しているが、しかし、そもそも「存在しない疾患へのワクチン接種」そのものが間違っているのではないだろうか。乳幼児1人に6000円の費用をかけ、副作用のあるワクチン接種が本当に必要なのだろうか。 

 種痘を思い出してほしい。種痘は天然痘撲滅に大きな役割を果たし、昭和26年以降,日本での天然痘の発生はない。それが、昭和45年に種痘の副作用による死亡241例,後遺症254例,治療中148例(これは厚生省に届けられた数値で,実際にはその数倍とされている)との発表があり、種痘禍の世論が高まった。

 種痘は強制接種で、法律では罰則規定まで決められていた。まさに「存在しない疾患へのワクチン接種」が漫然と行われていた。

 厚生省は、昭和51年6月、予防接種法を改正し、種痘を強制接種から除外した。種痘の廃止ではなく、強制接種から除外したのは、もちろん「除外は事実上の廃止」であるが、除外としたのは、厚労官僚の「自分たちの行為は正しかった」の意地と、何か起きた場合の責任逃れの表れである。

 もう一度問う、本当にポリオワクチンは必要なのか。

 

 

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 日本の医療は、病院が赤字で、製薬会社と医療機械会社が儲かると思っていたが、この儲けの構造に調剤薬局が加わっていた。このことは昨年の長者番付けで、日本調剤社長の報酬が4億7700万円であったことから明確である。

 病院が経営に苦しみ、医療崩壊が日常語になっているのに、なぜ調剤薬局が儲かるのか、それは、調剤薬局は儲かる仕組みになっているからである。

 薬価は国が決めているので、値引きの必要はない。売れば売るほど儲かる仕組みになっている。病院の前には門前薬局が並んでいるが、調剤薬局の名前は違っていても、それらは個人経営ではなく、セブンイレブンのように大型チェーン店化している。チェーン系列であれば、仕入れ価格、薬剤師確保、在庫調整などのメリットがあるからである。

 調剤基本料が420円、基準調剤加算があればプラス100円、調剤料は1日50円で、2種類の飲み方の薬を7日貰ったら700円となる。さらに目薬と塗り薬が加われば200円プラス。薬歴作成費で220円、指導料で220円、お薬手帳で150円。合計2100円に薬剤費を足して、その3割が患者負担となる。

 毎回、同じ薬なのに、疾患名も知らないのに、「その後、いかがですか?」で指導料220円、薬の写真と説明のプリントは170円である(平成18年から多少改善)。逆に、大勢の前で、大きな声で病状や、住所、電話番号まで聞かれ、プライバシーなどはないに等しい。

 ジェネリック医薬品が話題になっているが、薬局が勧めるのは、薬価と仕入れ価格差の大きな薬品で、必ずしもジェネリッを勧めている訳ではない。調剤薬局の薬剤師が親切なのは、親切にすれば、儲かるからである。

 内科や眼科など複数の科が入居している医療モールが流行しているが、ベンツに乗った調剤薬局が大家で、店子が医師である。調剤薬局は各医院から出される処方箋で儲け、処方箋の少ない店子医師はイヤミを言われるのが現状である。

 医師から薬の説明を受けているのに、薬剤師からの説明は時間の無駄である。インフルエンザで意識朦朧患者も2カ所を回るのだから、患者にとっての利便性はない。

 医薬分業は、厚労省の日本医師会弱体化を目的とした利益誘導政策のひとつであるが、しかし厚労省さんよ、医療崩壊を防ぐには、病院や診療所の診療報酬0.004%の攻防よりも、受診時定額負担100円の議論よりも、まずは調剤薬局の報酬を減らすことではないだろうか。

 

 

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2012.01.23 08:05 |  診療  |  研究  |  仕事 / 職場  |  スーさん  | 推薦数 : 2

癌死急増のウソ

 癌死が急増しているのは正しいが、それはまた同時に、間違いとも言える。

 たとえば年齢を補正して60歳代、70歳代と年齢を区切って過去数十年と比較すると、年齢別による癌死の比率はほとんど変化してない。つまり高齢化が進んだために癌死が多くなったのである。長生きすれば癌になるのが人間の仕組みなのである。

 もしすべての癌が克服されたならば、日本人の寿命はどれだけ延びるのか。癌で死なずに済んでも、他の疾患で死ぬので平均寿命は意外に延びず、男性は4歳、女性は3歳の延長だけになる。

 いっぽう日本の男女の平均寿命差は6.9歳なので、寿命の性差がいかに大きいかが分かる。寿命の性差は癌の壁より2倍も厚く、男性の癌がすべて克服されても女性の寿命にはとてもおよばない。

 患者は「自分の家系には癌が多いので、心配」というが、日本人の3人に1人は癌で死に、癌でたすかる患者もその倍はいるのだから、家族に癌がいない方がおかしいのである。

 

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