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 エビデンス・ベースド・厚労省

 未曾有の経済危機と就職難、金メダルゼロと若者の学力低下、これらを示すまでもなく日本の国力が低下していることは誰もが認めることであろう。労働人口の低下と非労働人口の増加、つまり国力低下は少子高齢化によるものと思いがちであるが本当だろうか。

 日本のGDPは世界第2位で中国に抜かれようとしている。しかし中国に追い抜かれたとしても、中国の人口は日本の10倍だから、中国のGDPが日本の10倍になって初めて同レベルである。さらに韓国の飛躍が目立つが、韓国の人口1人当たりのGDPは日本の半分にすぎない。

 日本の高度成長は昭和25年の朝鮮戦争からバブル崩壊までのおよそ30年、いっぽうの中国の高度成長はこの20年、韓国は国家レベルの経済破綻から10年にすぎない。今後の中国や韓国の経済成長の行方は別にしても、残念なことではあるが、日本の若者に元気がない。目の輝き、向上心、競争心、つまり気骨の上で完全に負けている。

 平成5年、日本のGDPは世界第2位、人口1人当たりのGDPも世界第2位だった。しかし現在、人口1人当たりのGDPは世界19位になっている。つまり中国や韓国と比べるまでもなく、日本の国力は急速に降下している。財務官僚が「いざなぎ景気を超える」と数年前に公表したのは粉飾決算であり、世界各国が10から20%の経済成長の中で、日本は失われた20年の間、世界から取り残されていたのである。経済だけではない。世間受けを狙ったゆとり教育が資源のない若者の将来、ひいては日本の将来を奪ったのである。

 国力はその国の総合活力である。では堕落した日本の活力を高めるにはどうすればよいのだろうか。少子高齢化はさておき、それ以上に恐ろしいのは財政難と行政の正義ぶった浅知恵である。民主党政権は埋蔵金の活用、さらに官僚主導からの政策脱却を掲げて政権を得た。そして腹を切る覚悟もないのに平成維新とほざき、まさに日本語を知らない火星人である。

 ここで民主党の医療政策を検証してみよう。民主党は国民医療費を定期預金より低い0.19%上げたと自慢しているが、政権前までは日本の医療を欧米並にすると大ぼらを吹いていたのである。欧米並とは医療費10兆円増、30%増である。病院に手厚い診療報酬と言いながら、公立病院の赤字総額が1.8兆円、国立病院が1兆円、医学部の負債が1兆円あるのだから日本の医療が善くなるはずがない。

 政治家は誠実に美辞麗句の政策詐欺を行い、官僚は統合失調症の言葉を並べ偽装政策を真面目に述べている。医療界の大御所は知った顔の茶坊主ばかりである。お偉方が何を言ったとしても、ご高説など聞くだけでも気分が悪くなる。そしてマスコミは正義ぶった論調で世論を誘導し、汚れた尻尾できれいな胴体を振り回している。

 戦後の厚労省の歴史を振り返れば、厚労省が日本の医療をよくしたというエビデンスはない。世界に誇る日本の皆保険制度は制度は厚労省がつくったのではなく、かつての日本医師会と政治家トップによるものである。また保険医総辞退、医師国家試験ボイコット時も日本を憂う医師や医学生の純な気持ちがそうさせたのであり、厚労省の小役人はうおさおだけであった。厚労行政に改悪のエビデンスはあっても改善のエビデンスはない。もしあると言うならば、世間から批判されないための保身が動機であり、日本の医療を良くするとのポーズだけである。

 日本の医療は厚労省主導になっている。厚労省は国家統制の診療報酬、通達という凶器を持ち、医師を脅し医療の主導権を握っている。最近、上から目線と言う言葉が流行しているが、官僚もお偉方もまさに上からの目線である。さらには本来味方であるはずの患者までもが、医療はサービス業との目線で医師を見ている。

 お偉方は「医療は仁術、全人的医療」と学生に教えているが、実際には医療を算術とし、算術の出来ない病院は退場が当然と思っている。ヒポクラテスの誓いを忘れたお偉方に若い医師を指導する資格はない。人間としての恥を知るべきである。

 さてどうするか、財源がないのに文句ばかりでは改善はありえない。まず医療財源確保には消費税を上げるべきである。税金という国民の義務を国政トップ2人が軽視しているのだから、日本人が品性を失うのは当然であり、国民性を悪くしている。しかし希望はある。日本の1割の悪貨が9割の良貨を駆逐しているのだから、1割の悪貨を駆逐すればよいのである。良識に反する政策や正義ぶった屁理屈を恥と自覚させることである。日本の将来を委託された政治家や教育者は私心を捨て、腹を切る覚悟で正義を示すことである。

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2010.03.21 06:47 |  研究  |  その他(医療関連)  |  昭和 50年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 5

成人T細胞白血病

成人T細胞白血病(昭和51年)

 昭和47年頃から,熊本大学の高月清教授は成人に特有な新しい型の白血病を何例か経験していた.白血病は白血球がガン化する病気である.高月清が経験した白血病は,白血球増加に加え,リンパ球細胞の核に花びらのような切れ込みがみられる点が他の白血病と違っていた.さらにこの奇妙な白血病患者は九州,特に鹿児島出身者に多いという特徴があった.昭和52年,高月清はこの白血病を医学雑誌 Blood に記載,成人T細胞白血病(ATLAdult T-cell Leukemia)という新しい疾患概念を提唱した.

 白血球は好中球とリンパ球に大別され,医学の進歩によってリンパ球は液性免疫に関与するB細胞,細胞性免疫に関与するT細胞に分けることができた.そして白血病の多くはB細胞由来であったが,高月清が見いだした白血病は例外なくT細胞由来であった.この白血病は成熟したリンパ球の形をしていたので慢性リンパ性白血病の類縁疾患と考えられたが,患者の多くは予後不良の急性期型の経過をとった.この奇妙な白血病は高月清教授だけでなく,九州地方の医師たちも気づいていた.熊本大学・小宮悦造教授は異常細胞の形態が花の形に似ていることからflower cellと名づけ,著書・臨床血液学のなかでその形態をスケッチで示していた.

 成人T細胞白血病は成人に発症し,平均年齢は57歳である.症状は頸部、わきの下、足のつけ根などのリンパ節がはれ,また肝臓や脾臓も腫大することがある.骨髄に転移すると正常な赤血球や血小板が造られず,動悸、息切れなどの貧血の症状、鼻血、歯肉出血などの出血症状がみられた.さらに血液のカルシウム値が高くなると,食欲の低下、吐き気,意識低下などの症状がみられた.また細菌やウイルスに対する抵抗力が低下した.その他の臓器にも病変をつくることがあり,症状は多彩であった.

 昭和556月,東京の国立がんセンターでATLの研究会が開かれた.この会議に京都大学ウイルス研究所の日沼頼夫教授が出席していた.当時,ニワトリやネズミにガン引き起こすウイルスは知られていたが,人間のガンウイルスとしてはEBウイルスの例外があるだけだった.

 EBウイルスはバーキットリンパ腫を引き起こすことが知られていたが,EBウイルスはごく普通のウイルスで,日本人の多くが感染していた.EBウイルスによるバーキットリンパ腫の発症はアフリカに限局しており、他の国で患者をみることは少なかった.そのためEBウイルスをガンウイルスと認識する考えは少なかった.日沼教授はEBウイルスと人間の癌の関係を研究していたことから研究会に呼ばれたが,日沼教授はATLのウイルス説に疑問を持っていた.

 ATLの研究がすすみ,高知医科大学の三好教授が試験管で培養できるATLの細胞株をつくりあげた.ATL細胞と臍帯血リンパ球を一緒に培養することによってATL細胞株を得ることが出来たのである.このATL細胞株は試験管の中で増殖することからATLの解明に大きな貢献をもたらした.

 日沼教授はATLの原因がウイルスならば、ATLの白血病細胞にウイルスが存在すると推測していた.そしてこの仮説が正しければ,患者は異物であるウイルスに対して抗体を作っているはずである.日沼教授はATL細胞をバラバラにして患者血清の抗体と反応させた.ATL細胞にウイルスが存在すれば,ウイルスと抗体は結合するはずだった.抗体は人グロブリンなので、次に人グロブリンに対する抗体を加えた.そしてその抗体には蛍光色素を結合させていた.ウイルス・ウイルスに対する抗体・ヒトグロブリン抗体・蛍光色素の複合体をつくらせ原因ウイルスをチェーン式に見いだそうとしたのである.蛍光色素は特殊な光線をあてると蛍光を発するため,この蛍光を肉眼的に確認できれば,それはウイルスの存在を意味していた.

 昭和5511月,白血病細胞の抽出液に患者血清を加え、次に蛍光色素をつけたヒトグロブリン抗体を反応させた.そして暗室の中で蛍光を当て顕微鏡で覗くと,明るい部分が浮かび上がってきた.ATL患者の血清の代わりに、正常人の血清,別の白血病患者の血清を用いた実験では蛍光は発しなかった.つまりこれはATLに特有の反応だった.

 このことはATL患者の血液にATL細胞に特異的な抗体が存在し,この抗体と反応する抗原がATLを引き起こす原因ウイルスと考えられた.日沼教授の仮説が正しことが証明されたのである.

 日沼教授はATL細胞を大阪医科大学の中井益代教授に送った。中井教授は電子顕微鏡によるネズミのレトロウイルス研究の第一人者だった。そして昭和56年2月,中井教授は電子顕微鏡でC型レトロウイルスの粒子を見いだし,ついにATL細胞からウイルスを肉眼的に検出したのだった。

 さらに東京・癌研究所の吉田光昭博士が研究に加わり,ATL細胞から検出されたウイルスが、ATL細胞の遺伝子の中に一定の法則で組み込まれていることが証明された。つまりこのウイルスは遺伝子を介して正常Tリンパ球を白血病細胞に変える腫瘍ウイルスであることが証明された.

 この腫瘍ウイルスはATLの患者の白血病細胞に例外なく認められ,このウイルスはC型レトロウイルス(逆転写酵素をもつRNAウイルス)に属することがわかった.

 しかしこのATLウイルスの発見者はアメリカ国立癌研究所のロバート・ギャロ(Robert Gallo)博士となっている。昭和55年,ギャロ博士はATLのウイルスをすでに発見していた.ギャロがこの新種のウイルスを発見したのは、菌状息肉腫という皮膚の腫瘍細胞からだった.菌状息肉腫の織片より、新しいC型レトロウイルスを分離し,ギャロは菌状息肉腫の原因ウイルスを発見したと報告した.ところが他の菌状息肉腫の患者から、このウイルスは見つからず菌状息肉腫の原因ウイルスでないことがわかった.ギャロが菌状息肉腫と思ったのはATLの皮膚病変だったのである。ATLの患者は西インド諸島からの移民だった。カリブ海周辺はATLの散在する地域だった。

 日沼教授がATLウイルスとATLの因果関係を証明した時に、ギャロは自分の捕まえたウイルスが何者なのか分っていなかった.ギャロ博士は細胞からウイルスを分離しHTLV-Iと命名したにすぎないが,このHTLV-Iが日本の研究者が発見したウイルスと同一であったことが後にわかり,HTLV-Iのウイルスはギャロによって発見されたことになった.ギャロのウイルスの発見は偶然だった.吉田光昭博士が日米で別々に発見されたウイルスが同じ構造を持つことを証明したのである.

 ちょうど同じ頃,エイズが世界中の注目を集めており,エイズもATLと同じレトロウイルスに属することがわかった.当初,ATL抗体の検出には蛍光抗体法が用いられていたが、簡便な方法が開発され病院の検査室や血液センターでも検査が可能になった.研究が進むとATL患者がATL抗体陽性なのは当然であるが,患者の家族にも抗体陽性者が多いことが分かった。健康な人たちもATL抗体を持っていることは,感染しても発症しない人が大部分であることを意味していた.

 昭和58年,日沼教授らが国内のATL抗体陽性率を調べるため各地の血液センターに保存してある献血者の血液を調べた結果,ATL抗体陽性者は北海道1.2%、東北1.0%、関東0.7%、北陸・中部0.3%、近畿1.2%、中国0.5%、四国0.5%、九州・沖縄は8.0%であった.

 つまり九州・沖縄にATL抗体陽性者が多いという地域性があった.また九州では鹿児島県、那覇市、佐世保市の陽性率は10%を越え,福岡県、大分県は3から4%だった。沖縄の陽性率は高値であったが宮古島は低値だった。沖縄本島には縄文前期以降の遺跡があるが、宮古島には13世紀以前の遺物はない。宮古島に住む人々の祖先は沖縄地域とは異なり、比較的最近どこからか移り住んだと考えられた。

 また岩手県の陽性率は低いものの三陸地方では陽性率10%を超える地区があった.秋田の象潟,飛島,能登半島、紀伊半島、中国地方の日本海側、隠岐、四国の宇和島近郊などに陽性者が多かった.また東大に保存してある北海道のアイヌの血清を調べると44%という高い陽性率を示した。

 日沼教授はATLの地域性を説明するため次のような仮説を立てた.1万年以上前、日本に昔から住んでいた人々はATLウイルスを持っていた.そこにウイルスを持たない人々が数千年前に移住し,先住民を追い出したため日本列島の中央部の陽性者が減少した。つまりウイルス保持者の縄文人が、大陸からやってきたウイルス非保持者の弥生人に追いやられたとする仮説である.

 韓国と中国ではATL抗体陽性者はほとんどいない.東アジアでは日本だけに特有なものであった.日本以外でATL陽性の国はパプアニューギニア、オーストラリアの先住民族,カリブ海沿岸、南米アンデス地方、アフリカにわずかに見られる程度であった.

 遺伝子解析からATLにはサブタイプがあることが分かった.そして日本のATLはアイヌとアイヌ以外では違うタイプのウイルスであることがわかった。つまり古代日本人は北と南の両方のルートから別々にやってきたものと推測された.日本人のATLはアフリカやオセアニアのものより、南米アンデス地方のものに近かった.このことはアンデスの先住民と日本人が、同じ祖先から分かれたことを意味していた。

 ATLウイルス感染者は日本全国で約120万人(人口の約1%)と推定されている.しかし感染者が発症するのは年間700人で,大部分は発症しないことがわかっている.感染してATLを発症する者,発症しないキャリアの違いについてはまだ解明されていない.

 鳥取大教授・日野茂男はATLウイルスが母乳を介して母親から子へ垂直感染することを明らかにした.長崎大学・片峰茂教授は長崎県で13万人以上の妊婦から5千人以上のキャリア妊婦を見つけ12年にわたり母乳授乳をさけ1000人以上の母子感染を予防した。

 ATLウイルスは性行為でも感染はする.精液により男性から女性への感染であるが,夫婦間で感染してもATLを発症することは極めてまれである.そのため夫婦間感染に対する特別な対策は立てられていない。また輸血によっても感染するが、昭和61年から献血時に抗体の検査が行われ輸血による感染の心配はない.生きたリンパ球がATLウイルスを運ぶので,日常生活で感染することはない.

 鹿児島大学教授・納光弘はHTLV-Iに関連した神経症状であるHAM(HTLV-1associated myelopathy)について研究している.HAMHTLV-1が脊髄後角に感染し,炎症性の脱髄反応により麻痺などの様々な神経症状を引き起こす病気である.ATLウイルスはこのように神経症状も引き起こすのだった.

 成人T細胞白血病リンパ腫は、多彩な症状、臨床経過をとる.次の5つのタイプに分けることができる.1)急性型:血液中にflower cellのリンパ球が多数出現し、リンパ節の腫脹、皮疹、肝臓・脾臓の腫大を伴う。予後は不良で抗がん剤の治療でも数ヶ月で死亡する例が多い.2)リンパ腫型:悪性化したリンパ球が主にリンパ節で増えて、血液中に異常細胞が認められない型。抗がん剤による治療を必要とする。3)慢性型;血液中の白血球数が増加し、異常リンパ球が多数出現するが、増殖は遅く症状は見られない.無治療で経過を観察する.4)くすぶり型:白血球数は正常だが、血液中に異常リンパ球が存在する.多くの場合無治療で長期間変化しないことが多いため経過観察が行われる。5)急性転化型:慢性型やくすぶり型から、急性型やリンパ腫型へ病状が進む場合である。

 このように急性型、リンパ腫型,急性転化型が治療の対象になる.抗がん剤の併用療法によって3070%が寛解(悪性細胞が減少して、検査値異常が改善した状態)するが,最終的に治癒するのはごく一部である.また抗がん剤の副作用で死亡することもある.このように成人T細胞白血病は難治性であるが,造血幹細胞移植が現在最も期待されている治療法である. 

 ATL抗体陽性であっても、症状や検査値異常を認めらない人をHTLV-Iキャリアというが,HTLV-Iキャリアは定期的な通院の必要はない.

 成人T細胞白血病の発見は日本の科学者による輝かしい勝利だった。人間においてガンウイルスを明確にしたのは成人T細胞白血病が世界で初めてである.

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2010.03.21 06:46 |  研究  |  その他(医療関連)  |  スーさん  | 推薦数 : 3

焼き魚

焼き魚(昭和51年)

 昭和51104日,読売新聞は朝刊の1面トップで「魚の焼けコゲが発ガンの疑い」の記事を掲載した.国立がんセンター所長・杉村隆ら生化学グループが,魚の焼けコゲが突然変異を誘導しガンを引き起こすことを日本癌学会総会で発表すると報じたのである.

 杉村隆所長らがおこなった実験を正確に書けば,「アジ,イワシなどの魚を直火で焼き,表面のコゲた部分を集め細菌に与えたところ,突然変異を起こした細菌の頻度が高かった」ということである.このことから魚の焼けコゲがガンを引き起こすと推測したのである.

 多くの読者はこの読売新聞朝刊の一面トップに注目した.それまでタバコや食品添加物などの化学物質がガンの原因になると思っていた人たちは,人工的な物質だけでなく,魚のコゲなどの日常に溢れた自然産物までもがガンを引き起こすことを知りショックを受けた.ガンが日本人の4人に1人の死亡原因となり,読者の多くはガンの予防を模索していたので,その衝撃は大きかった.またそのことは,焼き魚を多く食べる日本人が胃ガンの死亡が多いことも説明できる現象であった.

 魚が焼けコゲると,たんぱく質を構成するアミノ酸が変質し,ヘテロサイクリックアミン,トリプP1P2P3などのガン誘発物質が出てくる.これが発ガンの原因とされた.さらに癌研究所の高山昭三部長はトリプP1をハムスターに注射して発ガン性を確認し,国立がんセンターはマウスにトリプP1P2を経口投与して肝臓癌の発生をみたと発表した.

 これらの実験報道は間違いではない.しかし多くの人たちに大きな誤解をまねくことになった.この細菌の突然変異実験をそのまま人間に当てはめた場合,マウスの実験を人間に当てはめた場合,体重60キロの人が毎日100トンの真っ黒に焼いた魚を食べなければいけない量に相当したのである.イワシに換算すると毎日92万匹を食べることに相当した.このことが記載されていなかったので大きな誤解を招き,また学者としての大きな罪を作ったといえる.

 がんセンターの実験を,人間の癌の原因として魚の焼けコゲを当てはめるには,あまりに飛躍がありすぎた.しかしガンを予防したいと思う多くの読者は読売新聞のこの記事に飛びつき,一種のコゲパニックを引き起こした.この報道によって家庭では焼き魚が敬遠され,調理法が煮物やムニエルに変わった.人々は焼き魚のコゲの部分を神経質に取り除いて食べるようになった.この記事が新聞の第1面を飾ったのはその意外性,話題性を狙ったのだろうが,社会的影響を考えると,むしろ誤報と呼ぶにふさわしい.

 この記事にはさらに尾ヒレがつく.焼き魚や焼肉を食べる際に大根おろしを一緒に食べると,大根おろしのアミラーゼが発ガン物質のトリプP1を抑制できると発表したのである.そして「魚に大根おろしを添える日本の習慣が,焼き魚の発ガンを押さえるための日本の古来からの知恵である」と報道したのだった.

 コゲが癌を引き起こすという実験は,コゲに含まれる発ガン物質を濃縮して大量に動物に与えた場合に発生するのであって,ゴゲそのものが癌を引き起こすことは実証されていない.昭和56年,この疑問を解消する実験がハムスターを用いておこなわれた.国立衛生試験所でコゲの含有率20%10% 0%の餌をハムスターに2年間にわたり与える実験をおこない,結果は3群とも癌は発生しなかった.つまり現実的なコゲの量では癌は引き起こされないのである.現在ではコゲの発ガン性は否定的と捉えるのが一般的である.

 昭58年,国会でコゲと発ガン性の問題について見解を求められた政府は,「コゲの発ガン性について疫学的証拠がないことから,行政的にコゲの発ガン性を取り上げない」と述べている.

 食事によってガンが予防できるかどうかは分からない.しかし平成8年,ハーバード大学のガン予防センターはアメリカ人のガンの原因として,喫煙,食事,運動,飲酒という生活様式がガン発症の68%を占めていると発表した.もちろん明確な根拠があるわけではない.しかし権威あるガン予防センターの公式発表なので異議を唱える者はいなかった.

 予防可能な癌について,食道ガンでは飲酒、喫煙、熱い飲食物.胃ガンでは塩分の高い食品.大腸ガンでは飲酒、肺ガンでは喫煙、乳ガンでは女性ホルモン,このような因果関係のある癌が習慣を変えることによって予防可能としている.

 今回のゴゲ騒動の杉村隆は国立ガンセンター総長となり,「ガン予防の12か条」を発表している.この12か条がガンを予防するかどうかは別にして,少なくても健康には良さそうなので紹介しておく.

1)バランスのとれた食事をとる.

2)ガンになる危険を分散させるため同じ食品を繰り返し食べない.

3)食べ過ぎを避け,「腹八文目」とする.

4)酒はほどほどに.アルコールの1日の適量は日本酒なら1合.

5)タバコを吸わない.

6)ビタミンと繊維質を含んだ緑黄色野菜をよくとる.

7)塩辛いものを大量に食べない.

8)熱すぎるものや焦げた部分は食べない.

9)カビの生えたものは食べない.

10)過度に日光に当たらない.

11)過労を避けストレスを貯めない.

12)体を清潔にする.

 以上が「ガン予防の12か条」である.きちんと実行すればガンの約60%は防げるとしている.要するに節度ある摂生した生活が一番良いというである。なお昭和37年に国立がんセンターが発足して以来,杉村隆を含む歴代総長7人のうち5人がガンになっている.ガン予防をとなえる学者でさえガンに冒されるのである.いかにガン征服が難しいかを示している.

 大体において科学者がこのようなことをおこなうのは,世間の注目を浴びたいという名誉欲と研究費稼ぎと考えてよい.この魚のコゲ研究だけで,国立がんセンターには16億円の研究費,国民の血税が投じられた.

 日本の発がん研究は伝統的に優れた分野である。大正時代にウサギの耳にコールタールを塗って初めて人工的にがんを作った山極勝三郎博士,戦後間もない時期にラットの腹水に吉田肉腫を作った吉田富三博士などの業績がある.焼き魚の報告がこの流れを引き継ぎ,環境中の発がん物質を避けるというがん予防の重要性を説いたのだろうが,むしろ誤解を招くだけの迷惑な発表であった.杉村隆は文化勲章を受章したが,魚の焼コゲ騒動は日本人に精神的パニックをもたらし,日本の焼き魚文明を衰退させ,日本の食生活を変化させた.このことからも罪深い研究と考える.

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鹿児島で五つ子誕生 (昭和51)

 昭和51131日,鹿児島市立病院で男児2人,女児3人の日本初の五つ子が誕生した.五つ子はNHK政治部記者・山下頼充(33)さんと妻の紀子(27)さんに授かった子供たちで,5卵生の赤ちゃんであった.

 山下さん夫婦は同じ鹿児島出身で,4年前に鹿児島で結婚式を挙げ,東京渋谷区笹塚に住んでいた.そして紀子さんは初めての出産に備え,妊娠8ヵ月で実家のある鹿児島へ帰った.帰郷した翌日,紀子さんは鹿児島市立病院・産婦人科を受診した.診察した産婦人科部長・外西寿彦は予定日まで2ヶ月以上あるのに異様に大きなお腹を診て双胎を疑った.そして超音波検査で5胎を確認し驚いた.中西寿彦部長はすぐに医師,看護婦,助産婦による「五つ子プロジェクトチーム」を結成し,日本初の五つ子誕生に備えるとともに厳重な箝口令を敷いた.

 中西寿彦は心音などから5つ子と事前にわかっていたが,両親を気遣い3つ子以上と伝えた。五つ子の確率は約4000万回の出産に1例で,日本には五つ子出産の記録はあるが、無事に成長した例はなかった.

 当時,鹿児島県の周産期死亡率は全国第1位であった.また鹿児島市立病院は未熟児網膜症の損害賠償の問題をかかえていた.この不名誉な記録から脱却しようと「五つ子プロジェクトチーム」は必死の思いで紀子さんを迎えた.中西寿彦はこれまで多産児が育たなかったのは早産が原因と考え,早産防止のためにすぐ入院してもらった.父親の山下頼充は中西寿彦部長の説明に,「全員は無理でも,母体第1主義でお願いします」と消え入りそうな声でいった.

 出産予定日は219日であったが,予定日より 20日早い131日の朝から陣痛が始まった.お産は自然分娩で,心配した割にはあっけないほど楽な出産であった.9分間に5人が次々に生まれた.胎盤は2つで5卵性の五つ子であった.2人は仮死状態であったがすぐに息を吹き返した.分娩室を出た中西部長は山下紀子さんの両親に片手を突き上げ5本の指をひらいてみせた.それは5人の初孫を意味していたが,両親は安堵と驚きからへたりこんでしまった.

 21日,朝7時のNHKニュースで五つ子誕生が報道された.この報道に最も驚いたのは鹿児島市立病院の院長,事務局長,総婦長であった.産婦人科中西部長は出産への支障を配慮し五つ子妊娠を産婦人科だけの極秘事項としていた.そのため院長・上高原勝美らは五つ子誕生をテレビで初めて知り,病院をあげて万全の体制をとるように各部所に指示をだした.

 市立病院には報道陣が大挙して押しかけた.五つ子の父親となった山下頼充さんは記者会見で,「いやーびっくりしました,必死に生きようとする姿に生命のまか不思議を感じました」と述べ,緊張と喜びの中で1度に5人の父親になった戸惑いをみせていた.妻の紀子さんは「ちょっとがんばりすぎちゃった」と恥じらいと喜びのまじった言葉を述べ,このあっけらかんとした明るさが,緊張した周囲の空気を和ませた.

 未熟児の五つ子を育てるため池ノ上克(後の宮崎医科大学教授)が主治医,蔵屋一枝,住吉稔が担当医となった.赤ちゃんは元気だったが体重は990から1800グラムで普通児の半分程度だった.3人の医師は長椅子に交代で寝ながら五つ子を監視し治療に当たった.22日,埼玉県の医療器具会社から保育器と未熟児用の点滴セットをのせたトラックがパトカーに先導され羽田に向かった.市立病院には保育器が3台しかなく五つ子は保育器に同居させられていた.五つ子のために警察も協力を惜しまなかった.生後6日目に次女が壊死性腸炎を起こして危険な状態になった.点滴を続けながら授乳を中止し,胃の中のものを外に出し,抗生物質を投与し2週間後に快復した.

 五つ子の誕生に日本中は大騒ぎとなった.全国から祝福の声が嵐のようによせられ「山下さんちの五つ子ちゃん」は国民的話題となった.新聞には連日五つ子の体重が掲載され,その体重の増減に一喜一憂した.ひとりの子供を育てるのでさえ大変なのに,どうやって5人を育てるのか,このような余計な心配が週刊誌をにぎわした.

 子供たちの名前は京都・清水寺の貫主・大西良慶(100歳)がつけることになった.山下さんが京都勤務のときに大西貫主と交流があったからである.大西貫主は5人の子供は仏のさずかりものとして,子供の名前を観音経の中の「福聚は感無量(聚に代えて寿,海に代えて洋)」から1字ずつとって長男福太郎,長女寿子,次男洋平,次女妙子,三女智子と名づけた.

 512日,五つ子は鹿児島市立病院を退院,飛行機で羽田に着くと日大板橋病院に入院し,927日に退院となった.山下さん夫婦は2間の社宅に住んでいたが,4LDKの家に引っ越し,夫婦,夫婦の母親,3人のベビーシッターが育児にあたった.

 今回の五つ子誕生は排卵誘発剤によるものだった.山下さん夫婦は結婚4年目で,そろそろ孫の顔を見たいという義母の言葉に,紀子さんは不妊症の治療とし排卵誘発剤・性腺刺激ゴナドトロピンの注射を受けることにした.不妊症は約10%のカップルにみられ,子供を欲しがる夫婦にとって深刻な問題であった.しかし昭和50年に不妊治療が保険で認められ,生殖医療の進歩により多くの夫婦が子供に恵まれた.誤解を受けやすいが,排卵誘発剤を使用しての多胎はまれであり,排卵誘発剤を使用してもほとんどは単胎か双胎である.紀子さんは軽い気持ちで不妊症の治療を受けたのだった.

 山下家はマスコミの大攻勢を受けた.取材の自主規制がしかれたが,山下家の五つ子は日本中が注目していた.マスコミはその成長を声援するようなふりをしながら取材した.そのため子供たちがそろって外に出ることはできず,家族そろっての遊園地,動物園,旅行などには行けなかった.経済的にも苦しかったが,粉ミルクメーカーなどの広告依頼をすべて断った.

 いっぽう排卵誘発剤の使用の是非について議論が展開された.母体に対する影響,生まれてくる子供への影響,さらには多胎児の減数術(間引き)の是非などが議論された.しかしこれらの議論は,山下両親の笑顔,可愛い赤ちゃんの様子に声援を送る国民にとっては,話題のための議論にすぎなかった.

 多胎児について,世界ではオーストラリアの九つ子をトップに、メキシコで八つ子、スウェーデン、ベルギー、アメリカの七つ子が知られている.日本では宝永2年に六つ子を出産したという記録が「元禄宝永珍話」に書かれている.この六つ子出産では2人の赤ちゃんは生きたものの, 4人の赤ちゃんは母親とともに死亡している.明治34年,福島県伊達郡栗の村で5つ子が生まれるが,生後数ヶ月で全員死亡.その後,大正4年に愛知県で五つ子が,大正12年に北海道で六つ子が,昭和17年と昭和49年に五つ子の記録があるが全員死亡している.また昭和519月に神戸大学医学部付属病院で六つ子が生まれたが,1人が死産,出生後4人が死亡,無事は1人だけだった.さらに同年10月東大付属病院で四つ子が生まれたが全員死亡している.

 昭和55年,鹿児島市立病院で排卵誘発剤による治療を受けた鹿児島県徳之島の上木恵造・桂子夫婦に日本で2組目の五つ子が誕生した.以後,東京,静岡など各地で五つ子が誕生して,平成4年の時点で日本の五つ子は25組以上とされている.

 昭和57年,「山下さんちの五つ子ちゃん」はそろいの制服で小学校に入学した.NHKスペシャル「一年生になりました,五つ子6年間の記録より」は多くの国民に感動をよんだ。あの愛くるしい笑顔から30年が経とうとしている,早いものであの赤ちゃんたちはすでに立派な社会人になっている.まさに光陰矢のごとしである.

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2010.03.21 06:43 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  昭和 50年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 1

在郷軍人病

在郷軍人病(昭和51年)

 昭和51721日,第58回米国在郷軍人大会がフィラデルフィアで開催された.大会は米国建国200年と重なり盛大に行われ,参加した在郷軍人のうち家族を含めて1500人がベルビュウーストラトフォードホテルに滞在していた.しかし大会3日目から高熱をきたす重症肺炎患者が多数発生し騒然となった.患者の多くは在郷軍人であったが,一般の宿泊客、ホテル従業員,通行人も発病し,発症総数221人,入院患者152人,そして34人が死亡した。

 患者の3分の2が在郷軍人とその家族だったことから,この原因不明の病気は在郷軍人病(レジオネ症)と呼ばれるようになった.発症平均年齢は54.7歳で,高齢者ほど罹患率,死亡率が高かった.疫学調査を待たなくてもベルビュウーストラトフォードホテルが感染源であることは明確であったが,感染経路は分からず,在郷軍人病は恐怖物語のような謎に包まれていた.細菌兵器という噂も流れたほどであった.

 死亡者の病理解剖から得られた新鮮肺をモルモットの腹腔内に接種すると,モルモットは死亡し,モルモットの臓器には多数の菌が増殖していた.もしこの細菌が原因菌であれば,患者の血清にはこの細菌に対する抗体ができているはずである.そこで保存していた33人の患者血清を調べたところ29人からこの菌と反応する抗体が見つかった.同年12月,米国疾病予防センターはそれまで知られていなかった新たなグラム陰性桿菌を原因菌と公表し,事件の経過からレジオネラ(在郷軍人)菌と命名することになった.この事件が世界で初めての在郷軍人病の報告となった.ベルビュウーストラトフォードホテルは由緒あるホテルであったが在郷軍人病により倒産した.病気によってホテルが倒産したのはこのホテルが唯一のものである.

 米国疾病予防センターはこれまで原因不明で亡くなった患者血清を調べ,昭和38年頃から在郷軍人病が世界各地で流行していたことをつきとめた.レジオネラ菌は冷却塔,温泉、加湿器などにおいて繁殖し,これが空気中の微小な水滴に混じって飛散し、感染するのだった.今回の事件はホテルの空調設備の冷却水がエアロゾルとなって外部に菌をまき散らしたのだった.そのためレセジオネラ感染は夏に多いことが分かった.

 現在,レジオネラ菌は全世界に分布し,自然界の土壌や川、湖などに生息し41菌種あることがわかっている.レジオネラ菌はアメーバや藻類と共生関係にあり,菌体は細長く1本のべん毛を持ち運動性がある.レジオネラ菌によって引き起こされる疾患は菌種によって劇症型の「レジオネラ肺炎」が9割で, 1割が軽症の「ポンティアック熱」を引き起こす.両者とも人から人への2次感染はない.空調設備などが共通の感染源となる.

 レジオネ症は多臓器不全を経て死亡する劇症型から,抗生物質の必要のない軽症例まで違いがある.特に劇症型は適切で強力な治療を行わなければ数日以内に死亡する.このように致死率の高い疾患であるが,劇症型の特徴としては,最初は全身倦怠、疲労感、頭痛、筋肉痛などで,後に急激な発熱が出現,咳はあるが痰は少なく(乾性咳嗽),さむけ、下痢、呼吸困難がみられ, 意識障害、傾眠、幻覚、歩行障害などの精神神経症状がみられる場合がある。

 ポンティアック熱(Pontiac fever)は、昭和437月から8月に米国ミシガン州オークランド郡の人口約84,000人のポンティアック市で発症した.オークランド郡の保健部で144人の患者の集団発生がみられたことから名づけられた.保健部の建物で働いていた100人中95人、保健部の建物に訪れた170人中49人が発症した.当時はポンティアック熱の病原体は不明だったが、保存されていた空調システムの水にレジオネラ菌が存在することが昭和52年になって明らかになった。また患者の保存血液からレジオネラに対する抗体価の上昇が84%に認められた.レジオネラ菌を含んだエアロゾルを吸い込み集団発生したとされている.ポンティアック熱は軽症で,抗生剤の投与無しでも治癒するとされ死亡例の報告はない。主な症状の特徴,発熱、さむけ、筋肉痛、倦怠感、頭痛など,下痢、腹痛、関節痛、咽頭痛などである.ポンティアック熱は自然治癒型でインフルエンザに似た一過性の疾患である。

 日本では昭和5510月の男性(64)死亡例がレジオネラ症の初例であり,以後,毎年のように患者報告がなされている.レジオネラ症は一般に抵抗力の低下した人に発症しやすく,抵抗力が低下している患者が多い病院では注意が必要である.なかでも新生児の院内感染によるレジオネラ肺炎の感染事例が報告されている。平成8年,慶応大学付属病院で3人の新生児がレジオネラ症に感染し、うち1人の女児が死亡している.死亡した女児は退院後に発症し,再入院となって死亡した。病理解剖にてレジオネラ感染がわかった.新生児室の温水タンクの蛇口や加湿器、ミルクの加湿器からレジオネラ菌が検出された。レジオネラ菌が死滅するのは60℃であるが,タンクの蛇口付近の温度は約50度で温水タンクのお湯を使った加湿器によって病院内に菌が散布された.

 日本では循環型温泉で集団発症する例が多く,平成124月,静岡県掛川市つま恋温泉森林の森で23人が感染し2人が死亡.平成126月には茨城県石岡市の総合福祉センターで45人が感染し3人が死亡.H147月には宮崎県日向市の温泉利用入浴施で295人が感染し7人が死亡している.

 イギリスのスタンフォードの病院では昭和60年に163人が院内感染し46人が死亡するという大規模な集団発生が起きている。この事件により空調設備の冷却水についてイギリスでは厳しい管理を行なうようになった。

 レジオネラは細胞内寄生細菌なので、治療には宿主細胞に浸透するエリスロマイシン、リファンピシン、ニューキノロンなどの抗菌薬を使用する必要がある.レジオネラ症は現在4類感染症疾患となっており,レジオネラ症と診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。

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2010.03.21 06:42 |  生活 / くらし  |  趣味  |  スポーツ  |  その他(一般)  |  昭和 50年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 1

ルームランナー

ルームランナー(昭和51年)

 昭和51年,通信販売会社・日本ヘルスメーカから室内ランニング機・ルームランナーが発売されると爆発的なヒット商品となった.ルームランナーは体重計のような台の上で足踏みする室内健康器具で,外でのジョギングを家庭でも気楽に行え,天候に関係なく室内で運動ができるという宣伝で売り出された.台の上を走ると走行距離が表示され,136500円であったが1年間で30万台が売れた.ルームランナーは現在でも販売されており,虚血性心疾患の診断に用いるトレッドミルに似た器具に進化している.

 昭和53年にはぶらさがり健康器が発売となった.ぶらさがるだけで健康増進になるという謳い文句であった.ぶらさがり健康器は個人が購入する以外に,職場や役所でまとめて購入するケースが多かった.企業の安全管理室,健康保険組合が窓口となって大量に注文した.社員の運動不足,ストレス解消のためであるが,当時の企業はぶらさがり健康器を買うだけ財務内容が良かったこと,さらに健康神話が企業にまで浸透していたことがわかる.

 サラリーマンは自宅の狭い部屋でせっせとランニングに励み,会社ではブラーンとぶらさがる.このことが健康にどれだけ効果があるのか分からないが,日本人は健康という言葉に弱いのである.健康食品,健康サンダル,このように健康という接頭語に弱いのであった.

 ぶらさがり健康器は学校の鉄棒の室内版であった.最初は珍しさもあり利用されたが,ご多分に漏れず家では洋服がけになった.ぶらさがり健康器はヒット商品であったが,長期間使用したという人の話はあまり聞かない.狭い部屋の粗大ゴミとなって,主婦の頭を悩ますことが多かった.

 また同じ頃にツイスターという健康器具が流行した.直径30cmの丸い板状の踏み板で,手すりに掴まった状態でこの板に乗り、腰をひねると運動になった.ウェストのくびれた女性が魅力的とする考えから、ムキになって運動して腰椎を傷める人が出た。当初,マスコミはツイスターを人気商品と持ち上げたが,危険性が言われる頃にはブームは去り市場から姿を消した.

 昭和53年には超音波美顔器がヒットした.超音波美顔器も宣伝に乗っておおいに売れた.しかし日本消費者連盟から効果なしと告発され消滅した.

 これらの健康器具の多くは通信販売という方法で販売された.通信販売は気楽に買え,たとえ失敗しても落胆する気持ちは少なかった.また消費者にとって人前では買いにくいというイメージがあり通信販売で売れた.実際に,これらのヒット商品を各大手メーカーが販売したが,店頭では売れなかった.

 昭和50年ごろから飽食の時代という言葉が使われ,厚生省の調査では日本人の8割が健康に不安を抱いていた.健康器具が売れた背景には,消費者が健康に気をつかうだけの余裕がでてきたこと,そして健康のために何かをしなければと焦る気持ちがあった.手軽で,安易で,ブームに乗り遅れまいと主婦たちは健康器具を買った.また健康に気をつかうサラリーマンも主婦と同じ心理がはたらいた.

 健康器具とは、健康に良いとされる機能性を持った器具であり,健康寝具,温泉器,浴用器,温熱器,マイナスイオン発生器,空気清浄器,磁石,家庭用マッサージ器などが含まれる.多種多様の健康器具が製品化されていが,健康にどれだけ役立っているのか,その証拠はなかった.また健康に効果があっても継続できず,途中で飽きてしまうケースが多かった.健康器具は手に入れるまではやる気があっても,手に入れるとそれだけで満足してしまうのである.しかも訪問販売や電話勧誘で無理矢理購入買ったわけではなく、自分の意志で買ったのだから文句は言えない.室内健康器具は現在でもさまざまな効果を謳いながら,テレビショッピング,新聞広告などで売られている.健康器具は夢を売る商品であり,人間の願望を満足させる商品である.テレビショッピングの売り上げは急増しており,平成14年に2200億円を売り上げている.

 健康器具は健康増進を宣伝されているが,健康器具が必ずしも安全とは限らない.健康を証明した健康器具は存在しないが.健康を害した健康器具は数多く見られる.平成141229日,和歌山県有田市の医療器具製造販売業・川衛製作所が販売した家庭用マッサージ器を使用した20歳後半の男性が死亡していたと公表された.このマッサージ器(コンセラン77)は空気圧で膨らむジャケットとスラックスを着て,空気圧の加圧、減圧を繰り返し、全身をマッサージする器具である.死亡原因は胸部圧迫による窒息死で,ジャケットを装着して空気を入れたが何らかの原因で加圧の状態で停止した.これまでにも東京都の女性、北海道の女性が死亡していた.同社はこれまでに販売していた同種製品3770台を自主回収することになった.

 健康器具による事故は平成7年から13年までで114件報告されている.最も多いのはスライダー・ローラーと金魚運動器で約半数を超えている.健康器具には安全に関する規格や基準がないことが1番の問題であった.

 なお健康器具の歴史は平賀源内や佐久間象山がつくったエレキテル(電気治療器)が最初とされ,このように日本人の健康願望は古くからあった.日本人は健康という名前に弱いのである.

 

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クロネコヤマトの宅急便(昭和51年)

 昭和511月,ヤマト運輸は日本で初めて「宅急便」を始めた.クロネコ親子のマークをつけ,電話1本で家庭の玄関から玄関へ,この発想は消費者物流の大革命といえた.

 大正8年に創業したヤマト運輸は運輸業界の中では歴史ある会社だった.関東一円の運送免許を持ち,三越百貨店などの大口企業を相手に「大和便」の名前で営業していた。当時は高速道路もなく、トラックの性能や積載量が劣っていたためヤマト運輸の営業は関東に限定されていた.遠距離輸送や小口の荷物は国鉄や郵便局が扱っていた.

 しかし昭和40年を過ぎると,東京オリンピックの開催を前に東名,名神などの高速道路が開通し,西濃運輸や福山通運などの関西勢がトラックによる長距離輸送に乗り出してきた.トラックの性能は向上し、時間的にも輸送量でも国鉄の優位性はくずれ、国内の輸送環境は変化した。しかしヤマト運輸はこの長距離便の流れに出遅れ、他社に荷物を奪われ、経営は悪化し赤字に転落した.昭和48年のオイルショックで経済が減速すると、運輸業界は企業の荷物を奪い合うようになり、その競争にヤマト運輸は敗れてしまった.

 昭和48年に2代目社長になった小倉昌男は当時常務の都築幹彦とともに、家庭から出る小口荷物に勝負をかける決断をした.大口貨物が全盛の時代に、家庭から出る小口貨物を扱うことは常識をはずれた無謀な賭けであった.役員会は大口貨物のうま味を捨てきれず猛反対だった。宅急便と大口貨物を平行してやりながら、宅急便の目途が立ったら大口を止めるべきとする意見だっが多かった.

 しかし小倉昌男は「牛丼の吉野」の成功をみて,メニューを少なくして合理化をはかれば成功すると確信していた.牛丼の吉野のメニューはラーメンやカツ丼は扱わず牛丼だけだった.そこで小倉昌男が示したメニューは家庭が送りたい物を送るという1点であった.荷物はLMサイズにして,輸送先をブロック別に分けるという簡単な価格設定であった.その当時,家庭から家庭ヘ荷物を届ける専門の運送業者はなかった.小口の貨物を送る場合には郵便小包や鉄道貨物の利用であったが,重量が軽いほど,重さ当たりの運賃が高くなる設定だった.電話1本で家庭まで集荷に来てくれて、しかも全国どこでもすぐに配送という宅急便の発想は運送業の常識を越えていた.宅急便の事業が軌道に乗るかどうか,初めての試みに採算の見通しもつかなかった.

 当時、郵便局の取扱量が13000万個、国鉄の小荷物が8000万個だった。つまり家庭から出る荷物は2億万個だったが,そこにどこまで食い込めるか,採算がとれるかどうか,まさに未知の勝負であった.しかし消費者の立場に立ってサービスを重視すれば,郵便局や国鉄に勝てるという確信があった.

 会社幹部はこの事業を成功させるため労働組合と交渉を繰り返した。会社の職員は5000人,その半分以上がドライバーだった.ドライバーはそれまで松下電器のテレビや洗濯機を運んでいた.それが個々の家庭に集荷に行き,営業所からまた個々の家庭に配達するのである.多くのドライバーはこの未知の商法に疑問を持っていた.またドライバーの仕事は歩合制だったので、個人の荷物では給料が上がらないと嫌がった。しかしヤマト運輸は三越などの大口荷物取引はすべて断り,背水の陣を敷きドライバーを説得した.社員の意識を変えるための挑戦が始まった.

 昭和51120日,クロネコヤマトの宅急便がスタートした。最初の日の取り扱い荷物は2個だけであったが,2月には8600個,12月までに170万個を扱い,その便利さが口コミで広がっていった.当初は関東の16県だけだったが,同年12月には半数の都道府県をカバーできるようになった.そして昭和58年には1億個,平成7年には6億個を突破した.このように宅急便は快進撃をとげた.ドライバーはお客さんが喜ぶ姿に接し、同時に利用者にとっても宅急便は新鮮な驚きだった.宅急便に慣れ親しんだ現世代にとっては理解しにくいだろうが,それは運送業のサービス革命であった.

 このように順調にスタートしたクロネコヤマトの宅急便に大きな問題が立ちふさがった.それは営業免許と路線免許という国の認可制度だった.トラック運送事業は利用する道路ごとに運輸省から免許をもらう必要がある.ヤマト運輸は運輸省と交渉したが,運輸省は地元業者の反対を理由になかなか免許を出さなかった。運輸省自身も規制によって業界をコントロールしたいという思惑があった.昭和55年にトラック輸送での路線免許を申請しても運輸省は認めなかった.その時点で郵便小包は年間15000万個,宅配便は19000万個に達していた.そのため免許のいらない軽自動車の営業を強いられ,ヤマト運輸は運輸大臣を相手に行政訴訟を起こし戦った.そして四国と福井県の免許を取得するのに15年かかり,昭和63年の沖縄県の免許ですべての都道府県で営業ができるようになった.過疎地を含め全国どこへでも翌日荷物が着くというシステムができあがった.現在でも全国で営業免許を持っているのはヤマト運輸だけである。

 昭和58年にはスキー宅急便,59年にはゴルフ宅急便を開始した。さらに中元,歳暮、母の目、バレンタインデーなどのギフト市場にも参入し,昭和63年にはクール宅急便を始めた.クール宅急便は「夏に生ものを送りたい」という消費者の声に答えたものだった.消費者の立場に立ったクール宅急便の売上は年間2割ずつ増え,そのため全国の海の幸、山の幸が手軽に届くようになった。

 クール宅急便は消費者だけでなく、全国各地の地場産業に貢献した。地方の生鮮物が村から都市の消費者へ届けられた.物流から取り残されていた地方の産物が地場産業として活気づいた.また逆に過疎地にいても暮らしが成り立つようになった.大口貨物では対応できないマーケットが広がった。

 さらにクレジットカードの配達などで郵政省(現総務省)と「信書か否か」で対立するなど、徹底して官の規制に抵抗した。小倉昌男さんは「ミスター規制緩和」とよばれた.

 宅急便の成功は,常に挑戦し続けたこと,消費者の目線で事業を判断したこと,目先の利益ではなく全体の利益を考えたこと,そして社員のやる気を大切にしたことであった.宅急便は消費者が求めていた生活に密着したニーズをみごとに掘り起こした.ちなみに宅急便はクロネコヤマトの商標で,他社は宅配便と呼ばれている.

 ヤマト運輸元会長の小倉昌男は自分が決めた定年制にしたがい63歳で会社をやめた.そして私財(46億円)を投じて、障害者を支援するヤマト福祉財団を設立した。ヤマト福祉財団は障害者に施すという発想ではなく,自立を支援し利益を出させるという従来の考えとは違った支援であった.小倉昌男は福祉の仕事に専念していたが,現役時代に腎臓癌を患い,平成15630日,腎不全のため80歳で亡くなった.不可能を可能にし,新しい時代を切り開いた経営者だった.

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2010.03.21 06:39 |  生活 / くらし  |  趣味  |  映画 / 音楽 / 読書  |  昭和 50年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 1

カラオケ

カラオケ(昭和51年)

 昭和51年ころからカラオケがはやり始めた.このカラオケは,昭和47年ごろ神戸市三宮の井上大祐さん(クレセント創業者)が伴奏音楽をテープに録音したのが始まりとされている.

 それまでの日本の酒場やスナックでは,流しや弾き語りが客に歌を聞かせるのが一般的であった.しかし神戸では客が歌い,客の歌に合わせて伴奏者が伴奏するという独特の風土があった.伴奏者として有名だった井上大祐さんは多くの店から呼ばれたが,すべてに応じられないで困っていた.そこになじみの客から「社員旅行で使いたいので,伴奏だけをいれたテープが欲しい」と依頼を受けた.そこでテープに曲を録音しておけば,演奏者がいなくても誰でも歌えることに気づき,カラオケテープのアイデアが生まれた.

 井上大佑さんはマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作し,録音した伴奏テープ10(40)をスナックへ貸しだした。料金は15分間で100円だったが、神戸市の客の人気は高かった。テープをレンタルにしたことから新曲にすぐに対応できるという利点があった.そしてこの評判からカラオケが業務用として普及することになった.カラオケは素人が歌いやすいようにアレンジされていた.

 井上大佑さんの名前を知るひとは少ないが,米誌「TIME」の「20世紀アジアの20人」に選ばれている.毛沢東、ガンジー、昭和天皇と肩を並べて井上大佑さんの名前が載っている.タイム誌が「世界的文化の発信者」と絶賛したが,日本では「井上大佑とは,いったい何者?」と話題になった。井上大佑さんは特許を申請しなかったが,もし特許を得ていたら年100億円の特許料を得たという試算がある.

 昭和51年,日本ビクターとクラリオンが業務用の「カラオケ」を発売,カラオケは酒場などで急速に普及していった.スナックの入り口には「カラオケあります」の張り紙が張られ,カラオケ目当ての客が群れをなした.一度マイクを持つと,すぐにマイク中毒になった.当初は30から40代のサラリーマンがスナックで演歌を歌うのが一般的であったが,すぐに客層が広がり,歌える曲も多彩となった.

 生活水準が向上し,余暇を楽しむ余裕が出てきたことがカラオケの流行となった.歌うことに飢えていた大衆,歌いたくても歌う場所がなかった人たちにとって,カラオケはその欲求不満を解消してくれた.

 「カラオケ」は「空っぽオーケストラ」の略で,演奏する者がいなくても,歌う者にとっては自分が歌手になったような気分にしてくれた.専属バンドをバックに歌っているような快感をもたらした.集団主義の日本社会において,たまには目立ちたい,注目されたいという欲望を満たしてくれた.それは音楽の新しい形態だった.

 昭和538月にビデオカラオケが登場した.それまでは歌詞カードを見ながら歌っていたが,ビデオカラオケはテレビに映る歌詞とイメージ画像を見ながら歌うものであった.さらに「自宅でもカラオケ」という欲求から,松下電器がホームカラオケを発売し爆発的なヒット商品になった.それ以降、各メーカーが次々と参入し一億総歌手現象となった。

 このようにカラオケは急速に広まっていった.歌うことが好きな国民性、人前で歌うという自己陶酔や満足感などが普及の理由と考えられる.もちろんカラオケが好きな人もいれば嫌いな人もいる.カラオケが好きな人は,楽しい,気分爽快,歌や歌うことが好き,ストレス解消,聴くことが好きなどをその理由としてあげている.その反対にカラオケが嫌いな人は,人前で歌うのはイヤ,歌える曲がない,気分がのらない,歌がうまくない,他人の歌を聴きたくない,歌うことの強要への反発,場を盛り上げるのに神経を使うという理由をあげている.

 カラオケが普及するとともに,各地でカラオケによるトラブルが起きた.カラオケには酒が入ることから,客同士のケンカが目立つようになった.昭和53年6月16日,長野県塩尻市のスナックで最初のカラオケ殺人がおきた。「俺の耳が腐る,やめろ,へたくそ」このヤジが口論のきっかけとなり殺人となった.その他「おれの歌をなぜ聞けない」といった口論,あるいはマイクの奪い合いによる乱闘などが各地でおきた.

 また深夜早朝の「カラオケ騒音」は騒音被害のトップとなり、「カラオケ騒音」は日本中に広がった.昭和537月,大阪府警はカラオケ騒音に公害防止法を適応,豊中市のスナックからカラオケ装置を押収した.また昭和54年には大阪の八尾市でカラオケ防止騒音条例が施行された。

 昭和57年,「レーザーカラオケ」がパイオニアから発売されファンのすそ野が広がった.そして昭和60年にはコンテナを利用した「カラオケボックス」が岡山県に登場した。

 当初,カラオケボックスはその密室性から住民の抵抗があった.カラオケボックスが非行の温床になるという現実があった.しかしカラオケボックスは娯楽の少ない地方都市に広がり全国的に普及していった.カラオケボックスの登場によって若者や主婦の間にもカラオケが流行し,客層の低年齢化が進んでいった.平成4年にはISDNを利用した「通信カラオケ」が登場,いろいろな機能がついたカラオケが登場することになる.

 「カラオケ」は海外にも輸出され,外国でも有名となった.世界的にみると欧米人よりアジア人,アジア人のなかでも日本人がカラオケ好きとされている.カラオケは日本が世界に誇る数少ない文化のひとつといえる.平成6年の「レジャー白書」によると,カラオケを楽しんでいる人は年間5800万人,つまり日本人の半数がカラオケで楽しんでいることになる.まさに日本が生んだ庶民文化である.

 カラオケの利用者数は平成8年をピークに減少している.この原因は余暇の低下,携帯電話の普及,趣味の分散化,歌える曲の少なさが影響していると思われる.サラリーマンの歌える演歌が少なくなり,若者の歌う曲はある程度の歌唱力が必要となったことも大きな要因である.それでも平成12年には4900万人が利用し,カラオケは子供からお年寄りまでの国民的な楽しみになっている.

 

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カレン裁判(昭和51年)

 昭和5141日,朝日新聞はカレンさんの尊厳死裁判について報じた.この新聞記事で尊厳死という言葉が用いられ,尊厳死という言葉が一般に普及するようになった.尊厳死とは死期が迫っているときに,無駄な延命治療を中止することである.

 カレン事件とはアメリカで尊厳死をめぐって争われた裁判である.カレン・アン・クインラン嬢(21)は友人のパーティーで酒を飲んだあと精神安定剤を服用して昏睡状態におちいった。意識は消失したまま呼吸が停止し,人工呼吸器につながれ,チューブで流動食を送り込み,カレンの生命はかろうじて保たれていた。3ケ月後,両親は「機械の力で惨めに生かされるより、おごそかに死なせてやりたい」と主張したが,医師団が反対したため裁判になった。

 両親はニュージャージー州高等裁判所に「美と尊厳をもって死ぬ権利を認めてほしい」と提訴した.しかし裁判所は「呼吸器を外すかどうかは主治医に任すべきである.また患者が自分の意志を決定できない場合には、患者は生きつづけることを望むとするのが社会通念であり,親を後見人にすることは出来ない」として尊厳死を認めなかった.

 そのため両親は州最高裁判所に上告,最高裁判所は「人命尊重の大原則よりも,死を選ぶ個人の権利が優先されるべき,治療をつづけても回復の見込みがない場合には人工呼吸器を止めてよい」と逆転判決を下した.最高裁判所は父親を後見人に任命し,人工呼吸器を外すことに同意できる主治医を選択する権利を両親に与えたのである.

 それまでのアメリカは尊厳死に対しカトリック教の考えから,「積極的安楽死は神の意思に反する」とする反発が強かった.しかしこのカレン裁判が尊厳死を認める初めての判例となった.それまで延命治療の中止は医師と家族との合意のもと密かに行われていた.しかしこの問題に法律が介入した場合,その法的根拠が無いためやっかいな問題となる可能性があった.しかしこのカレン判決によって法的問題がクリアーされた.

 それまでの日本は安楽死や尊厳死を考える必要はなかった.自宅で死を迎える人の方が病院で亡くなる人よりも多かったからである.それが昭和50年ごろに逆転した.救命医療の進歩により,呼吸が出来なくても,意識が無くても,口から栄養を取れなくても、心臓を動かすことが可能になった.

 死を前にして,心臓マッサージ,気管内挿管,徐細動,強心剤の注射,これらは「死の4点セット」と言われ常時おこなわれるようになった.患者を快復させるための救命処置が,死が確実な患者にも行われたことが問題となった.この救命医療の進歩が結果的に延命治療となり,いたずらに死期を延ばし,人間としての尊厳を奪うことになった.延命措置によって植物人間,脳死状態でも生命を保つことができるようになった.

 最近でも臨終の際に「どうなされますか?」と医師が家族にきく場合がある.死は医療の敗北という考えから,すべての患者に積極的治療をおこなう医師もいるが,むしろ医師としては何も考えず「死の4点セット」をルーチンに行う方が精神的に楽であった.不治の病であっても生命に対する微かな期待から、「出来るだけのことをお願いします」と答える患者の家族が多い.無駄な治療かもしれないが,治療中止という言葉には,ある意味での殺人行為とする不安がその言葉に含まれていた.しかし家族の言葉が本人の尊厳を奪い苦痛を与えることが多いのである.

 人間は単に生物学的に生きているのではなく,精神的あるいは人格的生存である.人間は単なる肉体的存在ではなく,尊厳をもった精神的存在である.この尊厳死,あるいは安楽死を肯定する考えが,救命医療の進歩とともに出てきた.たくさんのチューブに繋がれた「スパゲティー症候群」にどれだけの意味があるのか.延命治療が本人にとって本当に幸せなのかという疑問があった.

 生命をどうするかは,医師が決めるのではなく,家族が決めるのでもなく,本来、患者本人が決めるべきものである.治療に対する自己決定権,生命に対する自己決定権は本人のものである.しかし日本では,生前にその意思を示している患者はまれである.この「人間としての尊厳をもった死」という新たな概念に対し,多くの人たちは同意するが,まだ国民的合意には至っていない.

 昭和50年6月に日本安楽死協会が発足,昭和58年に日本尊厳死協会と名称をかえ,そして尊厳死を選択する場合は,自分の意思を証明する「事前指定書リビング・ウイル」を書き,延命治療の拒否を書き留めておくことを提唱した.誰でも死ぬ運命にあるのだから,死を前にして事前指定書を残しておくべきとしている.しかし事前指定書を持つ患者はきわめてまれである.

 欧米キリスト教では死を単なる通過点ととらえる強さがあるが,日本人は生死を考えず自然なものとする弱さがあった.日本では死を語ることをタブー視する死生観があるせいである.日本でもカレン事件が報道されたが,安楽死、尊厳死といった言葉はなじみが薄く,また生命維持装置を外すことの是非が法廷に持ち込まれたことはない.

 昭和55年,日本安楽死協会の理事が安楽死の意思表示の有効性を裁判所に訴えた.しかし裁判所は「裁判は法律上の争訟が存在する場合に限られ,安楽死の意思表示の有効性は争訟にあたらない」として門前払いにした.これが日米裁判所の大きな違いである.

 平成13年4月、積極的安楽死を認める法律がオランダで成立した。オランダでは患者の明確な意思表示、医師と患者の十分な信頼関係、患者の耐えがたい苦痛,そして治る見込みがない場合に安楽死が認められるようになった。この法律は16歳以上の患者が対象になっているが、12歳以上でも親権者の同意があれば安楽死は認められる。世界で初めてオランダで安楽死が法的に認められたが、その背景には昭和46年に起きたポストマ事件があった。ポストマ事件とは脳出血の後遺症に苦しみ、何度も自殺を図った母親に対し、女医のトルース・ポストマが致死量のモルヒネを注射して死なせた事件である。ポストマは殺人罪で起訴されたが、執行猶予付きの懲役1週間という無罪に近い判決であった。このポストマ事件が肉体的苦痛を訴える患者を安楽死させる法律を作られるきっかけとなった.

 医師が終末期の患者に致死物質を注射して安楽死させることがオランダでは認められるようになった.平成7年,オランダで安楽死による死亡者数は死亡した人の2.7%に達している.この2.7%の数値をどのように評価すればよいのだろうか.

 

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六価クロム汚染事件(昭和50年)

 昭和48年3月,東京都は都営地下鉄をつくるために江東区大島九丁目を買い上げ掘り起こしたところ,大量のクロム鉱滓(こうさい)が埋められていたことが判明した.これが六価クロム汚染事件の発端になった.

 クロム鉱滓とはクロム鉱からメッキや皮なめしに使われる重クロム酸ソーダをつくる過程で生じた残りカスのことである.いわば産業廃棄物で,このクロム鉱滓には猛毒である六価クロムが含まれていた.投棄されていたクロム鉱滓は33万トンで,クロム鉱滓には環境基準の2万倍もの六価クロムが含まれていた.

 地下鉄工事のために東京都が買収したのは日本化学工業が所有していた土地で,大量に投棄されていたクロム鉱滓は日本化学工業が捨てたものと判明した.さらにクロム鉱滓が投棄されていたのは大島九丁目だけでなく,江東区の広範囲にわたって大量のクロム鉱滓が放棄されていた.日本化学工業が捨てたクロム鉱滓は52万トンに達していた.

 大正時代から江東区に立地していた日本化学工業は,戦後の景気に乗り生産量を伸ばしていった.そしてそれにともない産業廃棄物であるクロム鉱滓が急増し,工場敷地だけでなく江東区のいたるところにクロム鉱滓を投棄していた.クロム鉱滓を地面に敷くと地面が固くなることから,埋め立て地や造成地にも大量のクロム鉱滓がまかれていた.しかし毒性のあるクロム鉱滓をまいたことから,その土地は草もはえず,虫も生息しない荒れ地になった.投棄された場所の周辺では,風が吹くとクロム鉱滓の黄色い粉塵が舞い上がり,雨が降ると黄色い土砂混じりの汚水が溢れることになった.

 クロムは一価から六価までの化合物にわけることができ,その中で最も使用されていたのが三価クロムと六価クロムだった.三価クロムは緑色の顔料に使われ毒性は低いが,メッキに使用される六価クロムは毒性が高いことが知られていた.この六価クロムがクロム鉱滓に多く含まれていた.

 六価クロム汚染が社会問題になる以前から,六価クロムを扱うメッキ工場の従業員の間で健康被害が起きていた.また六価クロムが公害として問題になる前から,投棄されていた土地の周辺では,子供の皮膚炎が異常に多いことがわかっていた.子供たちはクロム鉱滓で汚染された土地で遊び育っていたからである.

 六価クロムは皮膚に付着するとアレルギー性皮膚炎をおこし,また霧状になった六価クロムの粉塵を吸うと鼻中隔穿孔を引き起こした.六価クロムは気化しやすいため,鼻の粘膜に炎症を起こし,徐々に鼻中隔潰瘍や鼻中隔穿孔を引き起した.鼻中隔穿孔とは左右の鼻を分けている鼻中隔に穴が開くことで,それは鼻輪を通した牛と同じになることである.クロムの蒸気や粉塵によって生じる鼻中隔穿孔は工員の間では以前から知られていた.また皮膚から骨膜に達した六価クロムは激痛をもたらし,末梢神経麻痺を生じさせた.さらに最も問題になったのは,クロムの長期間暴露により従業員に肺癌という職業病を発生させたことである.

 工場は六価クロムが身体に有害という教育をしていなかった.むしろ逆に,身体に良いと教育していた.そのため工員たちは作業衣を着ないで上半身裸のまま重労働をおこなっていた.昭和46年の日本化学工業・小松川工場の調査では,従業員461人のうち62人に鼻中隔穿孔が認められた.しかし公害という概念がなかった当時は,この鼻中隔穿孔を職業病とする認識はなかった.鼻中隔穿孔をきたすことが一人前の労働者と受け止められていた.そのため職業病として工場を糾弾する動きは見られなかった.

 また六価クロムは肺ガンを誘発する発ガン物質として知られていたが,工場はその対策を立てていなかった.そのため作業員が肺ガンになる頻度が高かった.このように日本化学工業は従業員の健康よりも会社の営利を優先させていたが,同族意識の高い従業員が六価クロム汚染を糾弾することはなかった.従業員が立ち上がったのは,周辺の住民が公害として日本化学工業を糾弾してからである.このように日本化学工業はクロム鉱滓を工場周辺に投棄し公害問題を引き起こしただけでなく,従業員の健康管理を軽視していた事実が判明した.そしてこの事件を契機に元従業員や家族たちは総額548000万円の「クロム職業病訴訟」を起こすことになった.

「墨東から公害を無くす区民の会」が日本化学工業・亀戸工場跡地の六価クロム汚染を告発した.さらに日本化学工業・小松川工場でも昭和14年から六価クロムが投棄されていたことが判明し,六価クロムにより同社だけで肺癌などで50人以上の犠牲者を出していることがわかった.六価クロムによる肺癌は退職して数年後に発症することが多かった.そのため肺癌の被害実数は不明であるが,相当数の被害者が出たと推測された.

 六価クロム禍は従業員に健康被害を及ぼした職業病として,また有害物質をばらまき地域住民に健康被害をもたらした公害として,さらには産業廃棄物を勝手に処理したことなど多くの問題を含んでいた.

 日本における六価クロム汚染は東京江東区の日本化学工業が最大であった.しかし全国にある六価クロム工場も実情はほとんど同じで,日本化学工業が住宅密集地にあったため被害者を多く出したのである.江東区の六価クロム事件がきっかけになり,全国各地で六価クロムの報告が相次いだ.そして環境庁はクロム鉱滓75万トンが全国112カ所に未処理のまま埋め立てられていると発表した.このように六価クロム公害は大きな社会問題となった.

 昭和521029日,六価クロム禍で初の和解が成立し,65人に1億9500万円の補償金が渡された.さらに昭和569月,東京地裁は企業責任を認め,被害者102人に105千万円の賠償金を支払うことを命じた.

 東京都は「汚染物は汚染した者の責任で処理する」という汚染者負担の原則に基づき,昭和55年2月,日本化学工業にクロム鉱滓の処理を命じた。しかし52万トンものクロム鉱滓である,その処理には長い年月を必要とした.日本化学工業の工場跡地では,汚染土に還元剤を入れ,盛り土をして地中に封じ込める処理をおこなった。そして跡地を「風の広場」として開放した。

 しかしその後、「公園内で汚染水が出ている」と指摘があり、東京都の調査で六価クロムを検出した。平成7年にも環境基準の2000倍以上の高濃度の六価クロムを含む汚染水が河川敷から検出されている.この汚染水はクロム鉱滓が老朽化した護岸からしみだしたものであった. 


XYY症候群(昭和50年)

 昭和5039日,東京の八丈島で1人旅をしていた都内の東電病院の看護婦・江尻あさ子さんが八丈富士山頂で殺害された.

 江尻あさ子さんは休みを利用して,殺害される前日の38日,東京の竹芝桟橋からフリージア丸に乗り,予約していた民宿に泊まった.その民宿には身体の大きな迷彩服を着た男性が泊まっていた.翌朝,朝食をすませたふたりは,八丈富士に行くと言って民宿を後にしたが,翌日になってもふたりは帰ってこなかった.民宿の主人は八丈島警察に連絡,捜索の結果,江尻あさ子さんが八丈富士噴火口近くで死んでいるのが発見された.平和な島での殺人事件に島中が騒然となった.

 八丈島警察は迷彩服を着た男性を犯人とみて捜査を始めた.なにしろ迷彩服を着た大男である.目撃者は次々と現れ情報が提供された.そして犯行翌日,元パチンコ店員・海老根信也(22)を犯人と断定,殺人容疑で全国に指名手配した.そして1週間後の 316日,沖縄県那覇市の東急ホテルで海老根は逮捕された.海老根は殺害から逮捕となる日まで,北海道から沖縄まで全国をマタにかけ逃避行をしていた.

 逮捕されたとき,海老根は「今度の旅行は,殺しのための旅だ,相手は誰でも良かった」というメモを持っていた.またメモには乱暴しようとしたが騒がれたため殺害したことが書かれていた.

 海老根信也は幼いときから放浪癖があり,幼稚園児のときから家出をしては何度も保護されていた.小学生時より盗癖が加わり,何度も少年刑務所に入っていた.そして染色体の検査で彼がXYY症候群であることが分かり,追跡調査が行われていた.「人を殺したくてたまらない」という衝動は本当なのか,この言葉を聞いたとき,ある精神科医は以前からの不安がついに現実になったと感じた.

 当時,精神科の医師たちは犯罪者を遺伝学的,あるいは環境学的な因子として説明しようとしていた.犯罪者を一般市民から区別するための科学的方法が模索されていた.かつてイタリアの犯罪学者ロンブローゾが顔や頭蓋骨の形から犯罪者を識別しようとしていたが,昭和40年代になると遺伝子や染色体が犯罪に関係するのではないかと盛んに研究されていた.

 人の染色体は23対(46本)で,22対の常染色体は男女同じであるが,23対目の1本だけが男女で違っている.正常な男性は1個のX染色体と1個のY染色体を持っており,正常な女性は2個のX染色体をもっている.性染色体異常のXYY症候群は別名スーパー・メール症候群とも呼ばれ,男性700人に1人の割合でみられる。男性染色体が1個多いXYY症候群の犯罪率が高ことがイギリスで発表され,この学説が長い間信じられ教科書にも記載されていた.殺人者の90%が男性で,犯罪者の犯行年齢は20歳代がピークで,テストステロンの血中濃度と犯罪年齢が相関していたことから,このような学説が支持されていた.XYY症候群の男性は背が高かく,男っぽい容貌だった.

 昭和41713日の深夜,シカゴの病院で看護婦8人が惨殺される大量殺人事件がおきた.看護婦の両手を後ろ手に縛り,ナイフで刺し殺すという犯罪都市シカゴはじまって以来の残忍な凶悪犯罪であった.1週間後リチャード・スペックという男性が逮捕され,この殺人鬼がXYY症候群であったことが報道され,この染色体異常の男性すべてが狂暴で残忍な性格とする疑いがかかった.この事件が「犯罪に染色体が関係する」という学説のきっかけであった.つまり犯罪者は生まれつき犯罪者になる素質があるとする学説だった.

 昭和50年前後は,DNA、RNA、染色体が注目された時期である.特に犯罪学で脚光を浴びたのが染色体異常だった。昭和47年,リチャード・スペックは400年から1200年の懲役刑を受け、平成3年に獄中死したが,リチャードの染色体はXYYではなく,通常のXYの持ち主だったことが判明している.Y染色体が攻撃性染色体とされ,XYY染色体の持ち主は犯罪者という学説は現在では統計上否定されているが,まだそれを信じている人がいる.科学らしきものが偏見を生み、学説がひとり歩きしていたのである.

 犯罪が遺伝的要因によるものなのか,環境因子によるものなのに関し,一卵性双生児の犯罪歴を調べた研究がある.一卵性双生児は遺伝的に同じであるが,出生後,別々の家庭で育てられた一卵性双生児を調べ,一卵性双生児の犯罪率から,遺伝的要因,環境要因のどちらが犯罪に関与しているかを調べたものである.この研究では別々の環境で育てられても一卵性双生児の犯罪率は同じである.つまり犯罪に遺伝が関与していると報告されているが,それが本当かどうかは検証されていない.

 染色体異常としてターナー症候群(X0)がある.ターナー症候群は女性のみにみられる染色体異常で,通常の女性の染色体はXXだが,片方のXが完全にかけた状態(X0)で生まれた者をいう.ターナー症候群の女児が成長すると無月経や性的成熟がみられないことから気づかれることが多い.この染色体異常とは逆にY0染色体だけの人間は存在しない.X0だけで生命が存在できることから,人間を含めてほ乳類の原型は女性であるという説がある.

 昭和50年当時,遺伝と犯罪について盛んに研究されたが,明らかな結論は出ていない.むしろ遺伝と犯罪については否定的考えが多い.東京地裁で殺人罪に問われていた茨城県出身の海老根信也の裁判で林修裁判長は「残虐な犯行で社会に与えた影響は大きい」として懲役13年の判決を言い渡した.

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