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荻野久作博士(世界の荻野)

 

 日本の医学史を飾る偉人の名前を挙げるとしたら、小学生でも野口英世、北里柴三郎などの名前を言うことができる。しかし視点を海外に置き、日本人の医師の中で最も有名な医師は誰かと外人に訊けば、それは新潟に住んでいた一介の勤務医、

荻野久作先生が間違いなく第一位になるであろう。

貧しい生い立ち

 世界的な学者である荻野久作博士は、明治15年3月25日、愛知県八名郡下条村(現在の豊橋市下条東町)の農家、中村彦作の次男として誕生した。幼少時から無口なほうであったが、小学生時の成績はずば抜けていた。下条村高等小学校の卒業試験は平均99点の成績で、もちろん首席での卒業であった。時習館中学へ進学してからもその秀才ぶりを発揮したが、貧乏な農家であった中村家には高校に進学させるだけの財力はなかった。また久作は次男だったので家督を継ぐこともできなかった。久作が生まれた明治時代は、まだ江戸時代からの長子相続の伝統が残されていて、どんなに優秀な成績であっても長男以外はよけい者としての扱いを受けていた。このままでは久作は高校にも進学できず、小作農の百姓になるしかなかった。

 明治33年5月、中村久作が17歳の時に大きな転機が訪れた。愛知県幡豆郡西尾町に住む荻野忍が久作を養子にしたいと願い出たのである。荻野家は中村家から60キロ離れており、代々三河西尾藩に使えてきた漢学者の家柄であった。荻野忍も藩主に漢学を指導していた学者であった。しかし明治維新となって、荻野家も他の士族と同じように凋落していた。荻野家には男の跡取りがいなかったので養子を探していた。そして中村久作の秀才ぶりを伝え聞くと、荻野忍は荻野家の復興を久作にかけたのである。

 中村久作が荻野家に養子に入った翌年、荻野忍は日本赤十字の事務員の職を得ることができ、一家は東京に移り住むことになった。荻野久作は時習館中学から私立日本中学に転校し、明治35年には旧制一高に入学することになった。荻野久作の成績は優秀であったが、特に医師になりたいという意志はなかった。おとなしい引っ込み思案の性格だったので政治家には向かず、さらに文才も美的感覚もないと自分では思っていた。工科、あるいは生物学科に進みたいと漠然と思っていたが、進路を養父の荻野忍に言い出すほど強い意志はなかった。

産婦人科に入局

 荻野忍は養子の久作が医師になることを望んでいた。当時の開業医はいずれも収入が良く大きな屋敷に住んでいたからである。荻野忍は凋落した荻野家の再興を願い、久作を開業医にさせたかった。久作はこの両親の意志を無視することができず、明治38年7月に東京帝国医科大学に入学、卒業と同時に産婦人科に入局することになった。

 医学部の中では内科や外科が花形であったが、久作はそこで産婦人科を選ぶことになった。それは養母フサの意志が強く働いていた。フサは忍の後妻であり、前妻の妹、高橋瑞が女性の産婦人科医師で、羽振りの良い生活をしていることを知っていたからである。高橋瑞は日本で三番目の女性医師で、日本橋で産婦人科を開業していた。女性の産婦人科医師として繁盛し、多くの書生を抱え、男まさりの働きぶりであった。フサは高橋瑞の羽振りの良さを見せつけられ、久作を産婦人科医にしたかった。このこともあって、久作は明治42年に東京帝国医科大学を卒業すると産婦人科学教室に入局することになった。養母フサは三河西尾藩の御殿女中を勤めた勝ち気な女性である。温厚な久作は養母フサに逆らうことはできなかった。またに逆らってまで自分の人生を進みたいと思うほどの意志はなかった。

 産婦人科学教室に入局すると、木下正中教授について研究生活を送ることになった。しかしその当時は入局したばかりの医師は無給だったため、多少のアルバイトはできたものの両親を養う生活は苦しかった。東京帝国医科大学で2年間の研修や研究に打ち込んだが、荻野家は生活費に困るほど苦しい状態にあった。そのため久作に早く開業してくれという両親の希望を無視することはできなかった。明治45年、荻野久作は木下正中教授に生活苦を訴え開業したいと相談した。相談を受けた木下正中教授は、卒業してまだ2年の開業は早すぎるが、そのかわりに就職先の病院を斡旋すると約束してくれた。ちょうど久作が教授に相談したのと前後して東京帝国医科大学内科教授入沢達吉が、親戚である新潟の竹山病院が産婦人科医を捜しているという話を木下教授に持ってきた。

 竹山病院は遠く離れた新潟の田舎の病院である。新潟は生まれ故郷の愛知県とは遠く離れ、厳しい寒さの雪国であった。しかし荻野久作は教授からの斡旋をすぐに受け入れた。東京にも病院の職はあったが、東京の病院は月給が50円であるのに、竹山病院では月給200円を約束してくれた。それほど竹山病院の給料は良かったのである。このように将来を有望視されていた東京帝国医科大学の医師が、新潟市の竹山病院に就職したのは、養父母の面倒をみなければいけないという単に経済的な理由であった。

 久作は東京を離れ、新潟の竹山病院に赴任することになった。養父の忍も日本赤十字の事務員をやめ、養母フサとともに新潟に移り住むことになった。荻野家にとって竹山病院は腰掛けにすぎず、竹山病院で開業資金を貯めて故郷の愛知県で開業する予定であった。養父母にとっては凋落した荻野家を故郷の三河で再興させることが強い願いであり、故郷に錦を飾ることを常に夢見ていた。しかし腰掛けのつもりだった新潟の竹山病院で、久作は勤務医として生涯を過ごすことになる。そしてまた両親も新潟で生涯を終えることになった。

 明治36年に建てられた竹山病院は、木造2階建の長屋のような粗末な病院であった。荻野久作は産婦人科医長として赴任したが、赴任してみると産婦人科医師は自分ひとりだった。東京帝国医科大学で2年間修行したとはいえ、2年間の臨床は見学に近いものであった。産婦人科の知識も少なければ臨床の腕も未熟であった。それでも患者の前では医長として何でも知っているように振る舞わなければならない。荻野は手術に立ち会ったことはあったが、それまで一度もメスを握ったことがなかった。初めての手術のとき、荻野の鼓動は患者の脈よりも早くなった。

 最初の頃は冷や汗の連続であった。誰に教えてもらうこともできず、誰に頼ることもできず、毎晩、夜遅くまでドイツ語の産婦人科教科書とにらめっことなった。荻野が竹山病院に赴任する2年前に新潟医専(新潟大学医学部)が創立されたが、荻野は新潟医専の産婦人科に頼らず独学で婦人科疾患を学び、そして臨床の腕を上げていった。

 荻野のもとには様々な婦人科疾患の患者が押し寄せてきた。毎日、80人の外来患者を診察し、20人の入院患者を抱え、連日のように手術を行った。荻野の性格は温厚そのもので、患者に接する態度は親切だった。また治療成績も良かったので新潟の人たちの信頼は大きかった。竹山病院には大勢の患者が集まり、やがて新潟医専の産婦人科の医局員も荻野のもとで研修するまでになった。

排卵と月経の謎

 多忙な診療を行いながら荻野には心に決めていた研究テーマがあった。それは「排卵と月経」の関係だった。その当時は「排卵と月経」の関係はまったく未知の分野だった。

妊娠については、女性の卵子が卵巣から飛び出し卵管に入り、そこで受精して子供ができる。そこまでは解明されていた。しかし女性の排卵がいつ起きるのか分からなかった。女性の排卵時期に関する論争は、17世紀に卵巣に卵子が発見されて以来、諸説が入り交じり、まったく未知の分野、学問的には暗黒の世界であった。

 排卵日と月経の関係については多くの学説があった。18世紀までは月経は発情期と同じようなもので、排卵と月経は同時に起こるという考えが支配的であった。多くの動物は発情期に排卵することから、女性の月経も発情期に相当すると考えられた。またウサギは性交の刺激によって排卵することから、女性の排卵も月経とは無関係で、性交の刺激によってなされると主張する学者も多かった。しかし19世紀になると、ドイツで統計的な研究がなされ、月経初日の14日から16日目に排卵が起きる。あるいは月経初日の8日から14日目に排卵が起きるとする学説が出された。このようにたくさんの学説があったが、いずれも確実な証明はなされず、排卵時期に関してはまだ混沌としていた。そしていずれの学説でも「月経や性交などの何らかの刺激によって排卵が起きる」という考えが支配的であった。さらにこれだけ学説があるのだから、月経と排卵日との関連性はないと主張する学者までいた。

 荻野はこの混沌とした「排卵と月経の謎」を明らかにしたかった。排卵という人間の誕生につながる基本的問題を解決したかった。子供ができるためには卵子と精子が一緒にならなければいけない。しかし女性の排卵は月に1回である。排卵の時期が分かれば、子供をほしがっている夫婦にとっても、ほしくない夫婦にとってもその価値は大きかった。荻野は日常の診療に追われながら、この排卵と月経の謎を解くことが自分に与えられた使命であるかのように常に頭から離れなかった。

月経カレンダー

 大正5年、竹山病院の院長が仲人になり、荻野久作は新潟県小千谷市の大塚幸三郎の四女のトメと結婚することになった。久作34歳、トメ29歳で当時としては晩婚であった。トメは長岡高女を卒業した才女で、久作との結婚以降、荻野家の家事や姑の世話などこまめに働いた。結婚の翌年には長女の常子が誕生し、その2年後には長男の磐が生まれ、トメは診療と研究に没頭する久作を支え、荻野家を守ることになった。

 荻野はトメとの結婚が決まると、いきなりふたつのことを願い出た。ひとつは月経があった日にはカレンダーに斜線の印をつけてほしいということ、もうひとつは夫婦生活があった日には×印をつけてほしいということである。トメはこの突然の申し出に躊躇したが、久作はトメに対し「世界であなたにしかできない重大な仕事だ」と説得して同意させた。

 月経カレンダーを頼まれたのは妻のトメだけではなかった。荻野は自分の患者にも月経と夫婦生活のカレンダーをつけるように頼んでいた。そして看護婦にも同じように月経カレンダーの記入を依頼した。その当時は今以上に性生活は秘め事であり、夫婦生活については口に出すのも恥ずかしいことで、夫婦生活を話題にすることは淫乱な夫婦とのイメージが持たれがちであった。荻野が多くの患者や看護婦に月経カレンダーをつけてもらえたのは、彼の熱心な研究心、誠実で真面目な人柄があったからである。さらに、それに答えようとする新潟の明るく、そして素朴な土地柄によるものであろう。荻野から月経カレンダーを頼まれると、突然の話に患者は顔を真っ赤にしながらも応じたのである。

 荻野は東京帝国大学の出身でありながら、威張ることを知らなかった。患者を心配させないように態度は穏やかで、医師というよりも人生の相談役のようであった。診察は丁寧で的確であった。そのため荻野の人気は高く、「久作先生のためなら何でもする」という患者がたくさんいた。

 排卵日と月経の学説はいまだに混沌としていたが、1913年、ドイツのシュレーダーが「卵巣の黄体と子宮粘膜に規則的な変化」を見出し、排卵は月経第1日目から起算して14日から16日の3日間におこるという統計的学説を発表した。当時、このシュレーダー学説が多くの学者の賛同を得ていた。欧米の婦人は28日の月経周期が多いことから、シュレーダー学説はいわば欧米では定説になっていた。そしてドイツ医学に追従する日本の医学界もシュレーダー学説を定説として受け入れていた。しかしシュレーダー学説は28日周期の女性には当てはまるが、それ以外の周期の女性には当てはまらないという難点があった。日本の場合は、月経28日周期の女性は半数に満たなかった。月経周期が一定していない女性も多かった。患者の月経カレンダーをみると、農繁期や盆暮れなどで忙しくなると月経周期はずれる傾向にあった。このように月経周期に例外が多すぎる以上、排卵と月経の関係は未解決の問題であり、シュレーダー学説では説明できない部分が多かった。産婦人科医である荻野はこの「月経と排卵との関係」を明らかにするという当初からの研究テーマを変えなかった。女性の排卵日はいつなのか、彼の探求心は日々強くなるばかりであった。

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