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< 中ピ連 | メイン | ハンセン病治療に尽力の医師 >
2010.03.02 04:25 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  昭和 40年代 3  |  スーさん  | 推薦数 : 0

公害列島

公害列島(昭和45年)

 昭和25年の朝鮮戦争による特需を契機に日本の重工業が復興することになる.そして重工業の復興とともに日本の経済は高度成長の波に乗ることになった.昭和43年,日本の国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き,アメリカに次いで世界第2位になった.このように国民の生活水準は飛躍的に向上したが,その代償として工業化による環境汚染が広がっていった.日本に豊かさをもたらした経済政策の歪みが公害となって日本を侵してゆくことになる.生活の豊かさと比例して,大気汚染などの環境汚染が進み,高度経済成長のツケが回ってきたのだった.とりわけメチル水銀中毒による熊本水俣病と新潟水俣病,カドミウム中毒のイタイイタイ病、大気汚染の四日市喘息は「四大公害病」と呼ばれているが,その他,数多くの公害が日本各地で引き起こされた.

 工業先進国を目指していた政府は,公害に対する対応が遅れていた.また企業誘致に熱心な地方自治も,地元に税金や雇用などの金銭をもたらす企業に遠慮がみられた.また面倒なことに,環境汚染は特定の工場による汚染物質だけでなく,複合汚染であり,汚染の犯人を特定しにくいことがあった.特に自動車の排気ガスは運転手1人ひとりが犯人といえるが,それでいて1人ひとりに自覚を求めることは困難であった.そのため公害への対応は遅れることになったが,あまりにすさまじい日本の公害は住民運動を引き起こし,政府は重い腰を上げざるを得なくなった.

 昭和42年に公害基本法が設定され,大気汚染防止法,環境庁設置などの対策が打ち出された.そして「東京に青空を」のスローガンを掲げた社共推薦の美濃部亮吉が独特のスマイルで東京都知事選に当選したのも昭和42年のことであった.公害は深刻な社会問題となり,昭和45年の第1回公害メーデーでは「青空と緑を取り戻すこと,国民の命を守ること」がスローガンになり,全国150カ所で82万人が参加した.

 公害,公害列島という言葉が誕生したのは昭和45年のことであった.それまでの日本には公害という言葉はなかった.公害という言葉は法律の分野で最初に使われたが,それは英米法のパブリック・ニューサンス(公衆に対する生活妨害)に相当する言葉であった.昭和45年は大阪万博や国産宇宙衛星の打ち上げ成功にわき,日本の成長ぶりを実感するいっぽうで,公害が深刻化していった年でもあった.

 

●光化学スモッグ

 昭和45718日の昼過ぎ,東京都杉並区堀ノ内にある東京立正高校のグランドでソフトボールの練習をしていた女子生徒たちが,突然,吐き気,目の痛み,呼吸困難を訴えだした.さらにプールで泳いでいた生徒も同様の症状を起こし,女子生徒たちは保健室や応接室に寝かされた.時間とともにその数は続々と増え40数人にまで達した.その中には痙攣を起こした生徒までいた.

 学校周辺を救急車が走り回り,サイレンの音があたりに響きわたり,学校周辺は騒然となった.その日,症状を訴えたのは立正高校の生徒だけではなかった.杉並区,世田谷区など東京都内各地で目の痛みや吐き気などを訴える者が続出したのである.その後の4日間で5000人をこえる被害者が出たことから,また被害者の大半が学生だったことより,文部省は空気のきれいな田舎に学童疎開を検討するほどであった.

 東京都の公害規制部と公害研究所がこの事例を新たな公害として調査を開始することになった.その結果,この原因を光化学スモッグによる公害と断定した.それまでの公害は,水俣病(熊本県水俣市)やイタイイタイ病(富山県神通川流域)などの特定の企業による環境汚染であり,それらは戦後の復興と高度成長を目指す不可抗力の地方の事件とする雰囲気があった.しかし首都東京をおそった光化学スモッグによって,公害が自分たちの身近な問題として多くの人々に捉えられるようになった.

 光化学スモッグとは,自動車の排気ガスによる新たな都市型公害である.スモッグとは煤煙(スモーク)と霧(フォッグ)を合成した造語で,自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物などが太陽の紫外線を受け,大気中で光化学オキシダントに変化することが原因であった.光化学オキシダントは目やのど痛みを引き起こし,さらに頭痛や胸痛,意識障害などの重篤な症状まで示すことがあった.この大気汚染物質の被害は人間ばかりではなく,植物にも影響をおよぼした.植物の葉の表面には白い斑点が現れ,草花は醜く枯れていった.

 光化学スモッグの予防は屋外に出ないこと,さらにうがいをして目を洗うことであった.そのため光化学スモッグ警報が出ると,外出を控え,うがいや洗顔を行い予防することになった.

 日本における光化学スモッグは東京都杉並区における騒動が最初の事例であったが,しかし自動車王国であるアメリカのロサンゼルスでは東京での光化学スモッグ発生の以前から小規模な光化学スモッグがあった.光化学スモッグは風が弱く,太陽の紫外線が強い夏場に発生しやすい特徴があった.

 光化学スモッグは杉並区での発生以降,東京都だけでなく日本の大都市で続々と発生することになった.公害問題は一気に国民一人ひとりの問題として印象づけられた.そのため大気汚染防止法に基づき大気汚染のレベルは都道府県条例で定められ,それを越えた場合には警報がだされた.注意報は1時間値0.12ppm,警報は0.4ppm以上が採用された。

 昭和48年前後が光化学スモッグのピークで,首都圏では1年間に光化学注意報が45回だされ被害者は3万人に達した.

 環境庁は光化学スモッグの対策として自動車の排気ガス規制基準を示し,自動車メーカーにこの基準を守ることを告示した.当初,この規制基準が厳しすぎると指摘されていたが,ホンダがCVCCエンジンを,東洋工業がロータリー・エンジンを完成させる,各自動車会社はそれに続き基準合格車を完成させていった.日本の排ガス規制は欧米よりも厳しいもので,それをクリアーするために蓄積された技術が優位に働き,日本車が世界市場で優位に販売されるきっかけをつくった.日本車は世界中で売り上げを伸ばし,この技術改革により日本車が欧米自動車会社の脅威となるまでに成長した.

 この光化学スモッグ排ガス規制により自動車の排気ガスはきれいになり,またオイルショックの影響,工場の窒素酸化物発生対策などにより,昭和50年代後半から光化学スモッグは激減してゆき,現在ではほとんど死語に近い言葉になっている.現在では想像も出来ないが,かつての東京の空は排気ガスでどんよりとくもり,太陽は乳白色に濁っていた.

 

●四日市喘息

 昭和25年,中東原油が生産過剰となり原油の国際価格が低下した.そのためGHQは国際石油資本を救済するため,日本の太平洋沿岸における輸入原油の精製を解禁することにした.輸入原油の精製のためには,石油化学コンビナートとして広大な湾岸用地が必要であった.その用地として四日市(三菱),徳山(出光),岩国(三井)などの旧日本軍の燃料廠跡が一括入手され,その際,政治家,官僚,企業グループの癒着が表面化して世論の強い批判を浴びることになる.また当時,臨海コンビナートは高度成長の旗手とされ,地方自治体はコンビナートの誘致に奔走していた.

 伊勢湾に面した三重県四日市は,かつては美しい浜辺が続く勝景な海岸を有していた.四日市市塩浜にある元陸海軍燃料廠跡がシェル石油系の昭和石油と三菱系化学企業を中核とした石油化学コンビナートに払い下げられ,この美しい浜辺は東洋最大の大規模石油化学コンビナートへと生まれ変わったのである.

 昭和32年に三菱を中心とした精油所の建設が始まり,昭和34年に第1コンビナートが完成,ついで大協石油と中部電力からなる第2コンビナートが完成した.このコンビナートが作動するようになり,四日市の海水はしだいに汚染されていった.沖合の伊勢湾では石油の臭いのする魚が捕れるようになった.そのため魚の値段は下がり漁民は打撃を受けた.もちろん原因は石油コンビナートであったが,企業は住民の訴えを聞こうとしなかった.海の汚染は戦争中に沈没したタンカーの油がもれたせいであると主張したのである.そしてこの臭い魚以上に住民を困らせたのは亜硫酸ガスなどによる悪臭であった.四日市市の石油コンビナートは,利益は中央の企業に流れ,損失だけが地元に残るという典型的な国内植民地的開発であった.

 昭和34年ころから大気汚染により喘息などの呼吸器症状を訴える患者が多発するようになった.また患者の症状は喘息だけでなく,慢性気管支炎,肺気腫,さらには感冒様症状,扁桃炎、結膜炎などの様々な呼吸器症状を示した.とくにコンビナートの排煙が流れつく四日市の塩浜地区,磯津地区の住民に被害が最も多かった.塩浜地区の住民は外出時にはマスクをつけ,学校では悪臭のため夏でも窓を開けられない状態が続いた.当時の学校にはエアコンはなかった.そのため夏の授業は灼熱地獄の教室の中で行われた.

 四日市は,昭和35年に公害対策委員会を発足させ,三重県立大学医学部公衆衛生学教室の吉田克巳教授,名古屋大学医学部水野宏助教授に環境汚染と呼吸器症状との因果関係についての調査を依頼した.吉田克巳教授らは硫黄酸化物濃度が汚染地区では名古屋の4倍であること,さらに硫黄酸化物濃度と喘息発作頻度との間に高い相関関係があることを指摘した.このことからコンビナートから排出される硫黄酸化物が気管支喘息の原因であると結論した.地域住民は再三にわたり公害の早期解決を訴えてきた.しかし各企業はこれを無視し操業を続け,さらにはコンビナートの拡大まで計画していた.四日市市や三重県は公害対策を取ろうとしなかったので,喘息患者は増え続けていった.

 昭和42年,四日市ぜんそくの患者とその遺族12人が,昭和四日市石油,三菱油化,三菱化成,三菱モンサント化成,石原産業,中部電力の6社に対し工場から排出された亜硫酸ガスが健康を害したとして慰謝料を請求する訴訟を起こした.これに対し被告の6社は各工場の排煙の大気汚染濃度は煤煙規制法の規制値以下であり違法性はないと反論した.大気汚染による産業公害を争う初めての裁判が始まった.

 昭和47年7月24日,津地方裁判所四日市支部は企業による大気汚染に対し,気管支喘息などの症状は,企業が排出した亜硫酸ガスなどの硫黄酸化物が原因であるとの判決を下した.そして闘病生活による収入減,家庭生活の破壊,精神的苦痛に対し,企業6社は連帯して総額8821万円の損害賠償額を原告12人に支払うように命じた.企業側は病気に対する責任はないと主張し,大気汚染と喘息との因果関係を中心に反論を主張していた.しかし裁判官は「疫学的に相関関係がはっきりしていれば因果関係に科学的論争は必要ない」として患者側の勝訴としたのである.人間の生命に危険をもたらす汚染物質については,企業は経済性を度外視して最高の技術を導入して防止の措置をとるべきとした.

 賠償金額は請求額の4割5分にとどまったが,6社ぐるみの共同不法行為が認められ,また国や地方自治体が経済優先から,また地域振興から被告企業の誘致運動をおこなったことに対してもその責任について裁判所は言及した.

 この判決を受け,会社側は硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り換え、ボイラーに脱硫装置を設置し、60メートル級の煙突を150200メートルの高煙突へと変え,さらに工場周辺に植樹などを植えることになった.昭和51年末の四日市ぜんそくの認定患者は1112人であったが,これらの対策によって新規の患者数は減少していった.

 四日市公害訴訟は大気汚染の総量規制、亜硫酸ガス環境基準の改正、公害健康被害補償法の制定などに影響を与えた.この裁判は大気汚染に関する判決ばかりでなく,公害対策の進展に大きく寄与することになった.そして全国の石油化学コンビナートの公害対策に大きな影響を与えた。各企業が個別に公害規制法を遵守しても,結果として公害被害が発生した場合、企業の法的責任が問われることになった。高度経済成長期社会が生んだ公害に対し,四日市公害訴訟は全国的な住民運動のきっかけをつくった.そして被害住民が公害訴訟で勝訴したことで、一応はきれいな環境が戻ったであった.

 

●田子の浦のヘドロ

 静岡県富士市の田子の浦は日本有数の景勝地で,富士山の眺望と切れ目のない青松がどこまでも続く海岸を有していた.万葉の歌人・山部赤人が,「田子の浦 打出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」と歌を残すほどであった.

 田子の浦は,伝統的に富士山の清澄な伏流水を利用した和紙作りの盛んな土地であった.この豊富な地下水と森林資源に恵まれた富士市に大昭和製紙を筆頭とした製紙工場が戦後建設され,富士市は工業都市として発展をとげることになった.この製紙工場がこの景勝地である田子の浦の風景を一変させたのである.

 製紙工場はその製紙工程で大量の燃料と水を必要とした.そしてチップやボロなどの原料から大量の汚水を発生させた.製紙工場からは製紙のカスであるヘデロが1日に3000トンも排出され,流れ込んだヘデロによって田子の浦の浅海が埋め尽くされた.ヘデロは有機物を含んだ粘土質のドロドロとしたもので,製紙工場から排出されたヘドロが堆積して悪臭を放った.田子の浦では奇形の魚が釣れるようになり,アワビやサザエを捕っていた海女たちは,原因不明の蕁麻疹に悩まされた.そして昭和45年7月,ヘデロによって貨物船の運航が不可能になる事態へと進展していった.89日にはヘデロ公害追放住民大会が開かれ,漁船144隻が参加して海上デモが行われた.そして住民運動によってヘデロは除去されることになったが,ヘデロが発生する毒ガスで作業員が中毒症状を引き起こすほどであった.

 日本の誇りである富士山を背景に,アブクで埋まった田子の浦が全国に放映され,国民に大きなショックを与えた.田子の浦の公害はヘデロだけでなかった.大気汚染もすざましく富士市の工場の重油燃焼量は1日3200キロリットル,発生する二酸化硫黄の量は1日130トンに達していた.昭和52年の公害病患者は912人、死者が39人となった。富士市はさまざまな公害を抱え公害のデパートとさえいわれた。静岡県が港内に堆積したヘデロの処理をおこない,約1,823m3のヘデロを除去したのは昭和55年のことであった.

 このように公害問題は日本中に吹き荒れ,政府は公害を抑制するための主務官庁が必要とされ,昭和46年7月に環境庁が誕生した。当初は「公害安全庁」であったが,「環境保護庁」と名称案に変わり最終的には環境庁になった.

安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)

 

 

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