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天六ガス爆発(昭和45年)
昭和45年は大阪万国博覧会が開催され,万博を契機に大阪の再開発が急ピッチで進められていた.地下鉄は5年間に6路線33キロの建設を終え総延長は64キロとなり,大阪は世界第9位の地下鉄都市になった.そして次の目標を周辺都市への地下鉄の延長とし,その第一歩が谷町線東梅田−都島間3.5キロの延長工事だった。大阪万国博覧会の開催から約1ヶ月後の4月8日,予想もしなかったガス漏れ事故が北区菅栄町の地下鉄・天神橋六丁目駅(天六)付近でおきた.天神橋は大阪駅から約2キロ東北に位置する繁華街で,午後5時ごろ建設工事現場でガス漏れが発見された.
地下2メートルのところに宙吊りになっている大阪ガスの直径50センチのガス管に亀裂が生じ黒煙が上がっているのを作業員が発見,現場で働いていた10人を避難させ、すぐに大阪ガス,大阪市消防局、大阪府警に連絡した.
大阪ガスの緊急事故処理車が現場に到着したときにはガスは付近一帯に広がっていた.そして大阪ガスの緊急処理車のエンジンの火花がガスに引火し車は炎上した.そして午後5時45分,大音響とともに大爆発を引き起こした.
鼓膜が破れそうになるほどの大爆発とともに10メートルの火柱が3本立ち上り,この爆発により作業員や通行人79人が死亡する大惨事となった.地面は炎に覆われて民家22棟と車10数台が炎上した.また200メートル四方の民家、ビルの窓ガラスやドアは爆風で吹きとんだ.
この事故が悲惨だったのは,大阪ガスの自動車が炎上した時点では,単なる事故と思いこんだ2300人の見物人が現場に押し寄せていたことだった.爆発直前の午後5時半の時点ではケガ人はいなかった.見物人にガス漏れを知らせず,退避指導を行わなかった事が被害を甚大にした.その意味では人災とされても仕方のない事故であった.
当時の地下鉄工事はオープンカット方式で建設されていた.道路の中央に深さ15メートルの掘をつくり、堀をおおうように長さ1.5メートル、幅50センチ、厚さ20センチ,重さ400キロのコンクリートの鉄板を市道に敷き,その上に自動車を走らせていた.コンクリート鉄板の下には電気、ガス、水道、下水道、通信線などを支柱にぶらさげ,今回の事故は地下溝に剥き出しの状態で宙づりにされた都市ガス大口径管の継ぎ手から大量のガスが漏洩したのだった.
見物人は爆風でなぎ倒され,10メートル下の工事現場に転落し、吹き飛んできた畳1枚400キロのコンクリート鉄板の下敷きになり、尊い多くの生命が奪われた.コンクリート鉄板に下半身を挟まれ助けを求める者が目の前にいても、再爆発を恐れて手が出せない状態が続いた.この天六ガス爆発では作業員の犠牲者は4人で、残りのほとんどが10代や20代の見物人であった.この事故は帰宅のラッシュが重なり,バスが動かないため歩きながら見物しながら犠牲となった者が多かったことである.被害が拡大したのは現場でのガス会社の対応が後手にまわったためで,見物人らはガス漏れとは知らずに、自動車が炎上してから爆発まで10分間の間に見物人は増え続けていった.
爆発現場は警察も消防も正確な被害者の数を把握できないほどだった.夜の9時半になって消防局がガス管を閉め炎を止め、夜11時から救出作業が開始された. 400キロのコンクリート鉄板はめくり上がり,積み重なったまま木箱のように散乱していた.工事現場に転落した遺体はクレーン車で運び上げられた.
救急車が現場に駆けつけたが周囲は混乱しており,北野病院,松本病院,斎藤病院,行岡病院に負傷者が運ばれたが,病院は戦場のようであった.遺体は黒こげで判別がつかないほどであった.また火傷はなく打撲による死亡例も多かった.
この事故は人災といえた.現場から一般家庭にガスを供給する2本のガス管を止めるバルブはなく、それぞれ1時間かけ6ヶ所のストッパーを入れやっとガスが止まったのである.午後9時半まで現場ではガスが充満している状態であった。 この事故は都市災害という言葉が広く使われた最初のものとして特筆すべき災害といえた.天神橋六丁目交差点から東へ600mを左折すると、立派な山門がある。大本山國分寺に地下鉄谷町線工事現場ガス爆発事故犠牲者慰霊の祠になっている.
昭和40年代から地上の過密を逃れるかのように,都市の駅前には地下街が網の目のように造られていった.炭鉱事故を除くガス爆発事故を誰もが心配していた.そして多くの人が心配していたガス爆発がついにおきた.昭和55年8月16日,静岡駅前地下街の飲食店で小規模のガス爆発が起き、その30分後にガス管から漏れた都市ガスに引火し二次爆発となり死者15人、重軽傷233人を出したのである.事故後の調査により,最初の爆発は地下湧水槽に捨てられていた残飯のヘデロから発生したメタンガスが原因でけが人はいなかったが,最初の爆発によって破損したガス管から漏れた都市ガスが二次爆発の原因となった.現場検証中の消防士や取材中の報道関係者、通行人などが爆風で吹き飛ばされ、火災でやけどを負うなどして死傷した。静岡市駅前地下街ガス爆発事故では現場に最も近く収容能力最大の総合病院に軽症者が集中し、重症者は私的救急病院に運ばれ15人が死亡した。静岡県警は業務上過失致死傷の疑いで静岡ガスの保安要員ら2人を書類送検したが、静岡地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。
昭和58年11月22日,午後0時,静岡県掛川市のレクレーション施設「つま恋」の室内バーベキューガーデンでプロパンガスが爆発,建物は崩壊,全焼した.この事故でアルバイトの女子学生,従業員など14人が死亡,28人が重軽傷を負った.現場から約15分で収容できる浜松市内の総合病院には何ら連絡はなく、市民病院と市立病院の2ヵ所で対応し、市民病院に34人が収容された。静岡県の集団災害時の救急体制のまずさから,集団災害時の(triage)が救命手段に欠かせないと考えられ,集団災害時の対応として、その日の2次病院の医師と看護婦は出動する救急隊と共に災害現場で赤(重症)黄(中等症)青(軽症)の順に重症度識別を患者に結びつけて対応しながら応急処置を行い、重症度に応じて搬送する病院を振り分ける対策をとるようになった.
つま恋の事故はベキューガーデンの改装のときに,床下のガス栓を閉め忘れたのが原因であった.爆発前に警報機が鳴ったが誤報と思いこみ逃げ遅れたのだった.ところでサッカー解説者で監督として川崎フロンターレを2度優勝させた松本育夫さんは42歳の時につま恋ガス爆発事故に巻き込まれた.両手両足を複雑骨折4,0%のやけどを負い死線をくぐり抜けた監督である.
安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)
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ハンセン病治療に尽力の医師(昭和45年)
昭和45年12月12日,ハンセン病(らい病)の治療に尽くした小笠原登医師が肺炎のため故郷の愛知県甚目寺町の円周寺で亡くなった.82年間の名誉ある人生であった.
ハンセン病は明治時代から強制隔離政策がとられ,90年間にわたる強制隔離が患者の差別と偏見を招いていた.小笠原登は国賊と言われながらもこの強制隔離政策に反対し,ハンセン病患者の治療のために尽くした医師である.小笠原登は現代医療思想の先駆けとして高く評価されている.
小笠原登は愛知県甚目寺町にある真宗大谷派の円周寺に生まれ,医師であるとともに真宗大谷派の僧侶でもあった。小笠原登の祖父・小笠原啓實は漢方医であり,また僧侶でもあり,寺でハンセン病患者の療養をしてきた。国の隔離政策が行われるまではハンセン病患者は寺院に集まり生活をすることが多かった.小笠原登の医療を支えた背景には、ハンセン病患者が集まる寺院に生まれたこと,また仏教への信仰が強かったことがあった.漢方医であった祖父の治療を通じて,ハンセン病の感染力は弱く遺伝性はないものと確信していた.
小笠原登は旧制三高から京都帝大医科大学(現京大医学部)に進学,大正4年に卒業すると,京大医学部皮膚科でハンセン病の治療と研究を始めた.小笠原登は「隔離政策」に反対して外来治療をおこなった.京大時代に診察したハンセン病患者は1500人を超えたとされている.当時はハンセン病の感染を恐れ,患者に触れたがらない医者が多かった.しかし小笠原医師は患者を直接手でさわり診察していた.診察が終われば手を洗うが,小笠原医師は患者の目の前では決して手を洗うことはなかった.患者の心を傷つけたくなかったからである.もしハンセン病の診断がつけば医師には届出義務があり患者は強制隔離された.そのため患者の病名には「進行性皮膚炎」などの偽りの病名をつけ,あるいは病名を書かないで診療した.
その当時,ハンセン病は恐ろしい伝染病とする光田健輔医師(1876―1964)の学説から強制隔離政策が打ち出され,隔離政策を当然とする考えに医学界も国民も縛られていた.国は各地に療養所をつくりハンセン病患者の隔離政策を進めていった.「大和民族の純潔を守るために,多数の国民の安全を守るために,少数の人権無視はやむをえない」,このような軍国主義敵影響を受けていた.この隔離政策はハンセン病が恐ろしい伝染病とする以外に,醜い形相となるハンセン病を世間の目から隔離しようとする考えがあった.
小笠原医師はハンセン病の感染力は弱く患者を隔離する必要がないこと。つまり感染しても発病するかどうかは個人の体質に大きく左右されるという「体質説」を昭和16年に発表した.この「体質説」は学会から攻撃を受け,小笠原登は学会や社会から異端視され,国民からも隔離制度を混乱させる国賊とみられていた.そのため生前の小笠原登に対する世間の評価は低いものであった.京大でも助教授のままで退官しているが,医学史の視点からみれば,小笠原医師の学説の方が正しかったのである.
戦後基本的人権を尊重する憲法ができたが,ハンセン病患者の人権はないに等しいものであった.アメリカでハンセン病の新薬プロミンが開発され,昭和24年ごろから日本でも使われるようになった.この特効薬の開発によりハンセン病は不治の病ではなくなった.しかし昭和28年に癩予防法は「らい予防法」と名前を変えたが隔離政策は継続されたままであった。プロミンの普及で療養所の患者に希望が広がり,ハンセン病の国際会議(ローマ会議:昭和31年)で日本の隔離政策が批判された。世界の流れは開放治療へ向かっているのに,日本では隔離政策が続けられていた。「らい予防法」は近い将来改正するという条件付きだったが,それから平成8年の廃止まで40年間も放置されたままであった.そしてその間にも患者への偏見と差別は増幅されていった.これはハンセン病の本質を知る医師たちの怠慢だったといえる.
京大勤務時代の小笠原登は毎年のよう医学雑誌などに論文を発表して,昭和23年から60歳で退官する昭和48年まで,その論文数は110を超えていた。京大退官後は国立豊橋病院(愛知県豊橋市)や国立療養所奄美和光園(鹿児島県名瀬市)に勤務し論文発表を続けていた。医師としてまじめに診療研究をおこない,研究者として多くの学会に報告している。また漢方に関する論文も多く書いている.西洋医学だけでなく,東洋的,仏教的な思想を医学や医療に応用したかったのである.京都大学の皮膚科時代の患者さんが豊橋や円周寺を尋ねてくると,診察を終えると患者さんを一晩泊めて一緒に食事をとった.どこまでも患者に温かい医師であった。
小笠原登の写真を見ると,いつも黒の詰めえりの服を着ていた.頭髪も短く刈り込み,黒衣の僧侶が医者になった感じである.さらに強い信念を持っていたことが伝わってくる。 小笠原医師が活躍した時代は,大正デモクラシーから軍国主義への転換期で,非民主的な政策がまかり通っていた.ハンセン病患者の隔離政策もそのひとつであり,時代の流れの中で自分の思想を捨てなかった小笠原医師の内面の強さは高く評価される.
小笠原医師と同じ考えを持つ医師として大谷藤郎がいた.大谷藤郎は京都大医学部の学生時代に小笠原医師の研究を手伝い,厚生省医務局長となりらい予防法の廃止に尽力をつくした.後にハンセン病の啓発団体「財団法人藤楓協会」理事長,国際医療福祉大学長となっている.ハンセン病を考える場合,この2人の医師の存在を無視することはできない.
小笠原医師は70歳を超えてから奄美大島の和光園療養所で7年間を過ごし300人の患者の診察にあたった.療養所では患者に慕われ,奄美の良寛さまと言われていた.
奄美大島から故郷に戻り肺炎にて亡くなった.小笠原医師のお墓は円周寺にあるが,お墓といっても墓標はない.それは「名のないみんなと同じように土に埋めてほしい」という本人の遺志であった.墓地の一角に小さなお地蔵さんが立っているが,その場所に遺骨が埋められている.小笠原医師が亡くなってから,ハンセン病の発病に至る体内のメカニズムが急速に解明された.そして発病の仕組みを遺伝子レベルで解析する研究がおこなわれるようになった.かつては国賊と呼ばれた小笠原医師は再評価され平成13年東弁人権賞を受賞している.
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公害列島(昭和45年)
昭和25年の朝鮮戦争による特需を契機に日本の重工業が復興することになる.そして重工業の復興とともに日本の経済は高度成長の波に乗ることになった.昭和43年,日本の国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き,アメリカに次いで世界第2位になった.このように国民の生活水準は飛躍的に向上したが,その代償として工業化による環境汚染が広がっていった.日本に豊かさをもたらした経済政策の歪みが公害となって日本を侵してゆくことになる.生活の豊かさと比例して,大気汚染などの環境汚染が進み,高度経済成長のツケが回ってきたのだった.とりわけメチル水銀中毒による熊本水俣病と新潟水俣病,カドミウム中毒のイタイイタイ病、大気汚染の四日市喘息は「四大公害病」と呼ばれているが,その他,数多くの公害が日本各地で引き起こされた.
工業先進国を目指していた政府は,公害に対する対応が遅れていた.また企業誘致に熱心な地方自治も,地元に税金や雇用などの金銭をもたらす企業に遠慮がみられた.また面倒なことに,環境汚染は特定の工場による汚染物質だけでなく,複合汚染であり,汚染の犯人を特定しにくいことがあった.特に自動車の排気ガスは運転手1人ひとりが犯人といえるが,それでいて1人ひとりに自覚を求めることは困難であった.そのため公害への対応は遅れることになったが,あまりにすさまじい日本の公害は住民運動を引き起こし,政府は重い腰を上げざるを得なくなった.
昭和42年に公害基本法が設定され,大気汚染防止法,環境庁設置などの対策が打ち出された.そして「東京に青空を」のスローガンを掲げた社共推薦の美濃部亮吉が独特のスマイルで東京都知事選に当選したのも昭和42年のことであった.公害は深刻な社会問題となり,昭和45年の第1回公害メーデーでは「青空と緑を取り戻すこと,国民の命を守ること」がスローガンになり,全国150カ所で82万人が参加した.
公害,公害列島という言葉が誕生したのは昭和45年のことであった.それまでの日本には公害という言葉はなかった.公害という言葉は法律の分野で最初に使われたが,それは英米法のパブリック・ニューサンス(公衆に対する生活妨害)に相当する言葉であった.昭和45年は大阪万博や国産宇宙衛星の打ち上げ成功にわき,日本の成長ぶりを実感するいっぽうで,公害が深刻化していった年でもあった.
●光化学スモッグ
昭和45年7月18日の昼過ぎ,東京都杉並区堀ノ内にある東京立正高校のグランドでソフトボールの練習をしていた女子生徒たちが,突然,吐き気,目の痛み,呼吸困難を訴えだした.さらにプールで泳いでいた生徒も同様の症状を起こし,女子生徒たちは保健室や応接室に寝かされた.時間とともにその数は続々と増え40数人にまで達した.その中には痙攣を起こした生徒までいた.
学校周辺を救急車が走り回り,サイレンの音があたりに響きわたり,学校周辺は騒然となった.その日,症状を訴えたのは立正高校の生徒だけではなかった.杉並区,世田谷区など東京都内各地で目の痛みや吐き気などを訴える者が続出したのである.その後の4日間で5000人をこえる被害者が出たことから,また被害者の大半が学生だったことより,文部省は空気のきれいな田舎に学童疎開を検討するほどであった.
東京都の公害規制部と公害研究所がこの事例を新たな公害として調査を開始することになった.その結果,この原因を光化学スモッグによる公害と断定した.それまでの公害は,水俣病(熊本県水俣市)やイタイイタイ病(富山県神通川流域)などの特定の企業による環境汚染であり,それらは戦後の復興と高度成長を目指す不可抗力の地方の事件とする雰囲気があった.しかし首都東京をおそった光化学スモッグによって,公害が自分たちの身近な問題として多くの人々に捉えられるようになった.
光化学スモッグとは,自動車の排気ガスによる新たな都市型公害である.スモッグとは煤煙(スモーク)と霧(フォッグ)を合成した造語で,自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物などが太陽の紫外線を受け,大気中で光化学オキシダントに変化することが原因であった.光化学オキシダントは目やのど痛みを引き起こし,さらに頭痛や胸痛,意識障害などの重篤な症状まで示すことがあった.この大気汚染物質の被害は人間ばかりではなく,植物にも影響をおよぼした.植物の葉の表面には白い斑点が現れ,草花は醜く枯れていった.
光化学スモッグの予防は屋外に出ないこと,さらにうがいをして目を洗うことであった.そのため光化学スモッグ警報が出ると,外出を控え,うがいや洗顔を行い予防することになった.
日本における光化学スモッグは東京都杉並区における騒動が最初の事例であったが,しかし自動車王国であるアメリカのロサンゼルスでは東京での光化学スモッグ発生の以前から小規模な光化学スモッグがあった.光化学スモッグは風が弱く,太陽の紫外線が強い夏場に発生しやすい特徴があった.
光化学スモッグは杉並区での発生以降,東京都だけでなく日本の大都市で続々と発生することになった.公害問題は一気に国民一人ひとりの問題として印象づけられた.そのため大気汚染防止法に基づき大気汚染のレベルは都道府県条例で定められ,それを越えた場合には警報がだされた.注意報は1時間値0.12ppm,警報は0.4ppm以上が採用された。
昭和48年前後が光化学スモッグのピークで,首都圏では1年間に光化学注意報が45回だされ被害者は3万人に達した.
環境庁は光化学スモッグの対策として自動車の排気ガス規制基準を示し,自動車メーカーにこの基準を守ることを告示した.当初,この規制基準が厳しすぎると指摘されていたが,ホンダがCVCCエンジンを,東洋工業がロータリー・エンジンを完成させる,各自動車会社はそれに続き基準合格車を完成させていった.日本の排ガス規制は欧米よりも厳しいもので,それをクリアーするために蓄積された技術が優位に働き,日本車が世界市場で優位に販売されるきっかけをつくった.日本車は世界中で売り上げを伸ばし,この技術改革により日本車が欧米自動車会社の脅威となるまでに成長した.
この光化学スモッグ排ガス規制により自動車の排気ガスはきれいになり,またオイルショックの影響,工場の窒素酸化物発生対策などにより,昭和50年代後半から光化学スモッグは激減してゆき,現在ではほとんど死語に近い言葉になっている.現在では想像も出来ないが,かつての東京の空は排気ガスでどんよりとくもり,太陽は乳白色に濁っていた.
●四日市喘息
昭和25年,中東原油が生産過剰となり原油の国際価格が低下した.そのためGHQは国際石油資本を救済するため,日本の太平洋沿岸における輸入原油の精製を解禁することにした.輸入原油の精製のためには,石油化学コンビナートとして広大な湾岸用地が必要であった.その用地として四日市(三菱),徳山(出光),岩国(三井)などの旧日本軍の燃料廠跡が一括入手され,その際,政治家,官僚,企業グループの癒着が表面化して世論の強い批判を浴びることになる.また当時,臨海コンビナートは高度成長の旗手とされ,地方自治体はコンビナートの誘致に奔走していた.
伊勢湾に面した三重県四日市は,かつては美しい浜辺が続く勝景な海岸を有していた.四日市市塩浜にある元陸海軍燃料廠跡がシェル石油系の昭和石油と三菱系化学企業を中核とした石油化学コンビナートに払い下げられ,この美しい浜辺は東洋最大の大規模石油化学コンビナートへと生まれ変わったのである.
昭和32年に三菱を中心とした精油所の建設が始まり,昭和34年に第1コンビナートが完成,ついで大協石油と中部電力からなる第2コンビナートが完成した.このコンビナートが作動するようになり,四日市の海水はしだいに汚染されていった.沖合の伊勢湾では石油の臭いのする魚が捕れるようになった.そのため魚の値段は下がり漁民は打撃を受けた.もちろん原因は石油コンビナートであったが,企業は住民の訴えを聞こうとしなかった.海の汚染は戦争中に沈没したタンカーの油がもれたせいであると主張したのである.そしてこの臭い魚以上に住民を困らせたのは亜硫酸ガスなどによる悪臭であった.四日市市の石油コンビナートは,利益は中央の企業に流れ,損失だけが地元に残るという典型的な国内植民地的開発であった.
昭和34年ころから大気汚染により喘息などの呼吸器症状を訴える患者が多発するようになった.また患者の症状は喘息だけでなく,慢性気管支炎,肺気腫,さらには感冒様症状,扁桃炎、結膜炎などの様々な呼吸器症状を示した.とくにコンビナートの排煙が流れつく四日市の塩浜地区,磯津地区の住民に被害が最も多かった.塩浜地区の住民は外出時にはマスクをつけ,学校では悪臭のため夏でも窓を開けられない状態が続いた.当時の学校にはエアコンはなかった.そのため夏の授業は灼熱地獄の教室の中で行われた.
四日市は,昭和35年に公害対策委員会を発足させ,三重県立大学医学部公衆衛生学教室の吉田克巳教授,名古屋大学医学部水野宏助教授に環境汚染と呼吸器症状との因果関係についての調査を依頼した.吉田克巳教授らは硫黄酸化物濃度が汚染地区では名古屋の4倍であること,さらに硫黄酸化物濃度と喘息発作頻度との間に高い相関関係があることを指摘した.このことからコンビナートから排出される硫黄酸化物が気管支喘息の原因であると結論した.地域住民は再三にわたり公害の早期解決を訴えてきた.しかし各企業はこれを無視し操業を続け,さらにはコンビナートの拡大まで計画していた.四日市市や三重県は公害対策を取ろうとしなかったので,喘息患者は増え続けていった.
昭和42年,四日市ぜんそくの患者とその遺族12人が,昭和四日市石油,三菱油化,三菱化成,三菱モンサント化成,石原産業,中部電力の6社に対し工場から排出された亜硫酸ガスが健康を害したとして慰謝料を請求する訴訟を起こした.これに対し被告の6社は各工場の排煙の大気汚染濃度は煤煙規制法の規制値以下であり違法性はないと反論した.大気汚染による産業公害を争う初めての裁判が始まった.
昭和47年7月24日,津地方裁判所四日市支部は企業による大気汚染に対し,気管支喘息などの症状は,企業が排出した亜硫酸ガスなどの硫黄酸化物が原因であるとの判決を下した.そして闘病生活による収入減,家庭生活の破壊,精神的苦痛に対し,企業6社は連帯して総額8821万円の損害賠償額を原告12人に支払うように命じた.企業側は病気に対する責任はないと主張し,大気汚染と喘息との因果関係を中心に反論を主張していた.しかし裁判官は「疫学的に相関関係がはっきりしていれば因果関係に科学的論争は必要ない」として患者側の勝訴としたのである.人間の生命に危険をもたらす汚染物質については,企業は経済性を度外視して最高の技術を導入して防止の措置をとるべきとした.
賠償金額は請求額の4割5分にとどまったが,6社ぐるみの共同不法行為が認められ,また国や地方自治体が経済優先から,また地域振興から被告企業の誘致運動をおこなったことに対してもその責任について裁判所は言及した.
この判決を受け,会社側は硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り換え、ボイラーに脱硫装置を設置し、60メートル級の煙突を150〜200メートルの高煙突へと変え,さらに工場周辺に植樹などを植えることになった.昭和51年末の四日市ぜんそくの認定患者は1112人であったが,これらの対策によって新規の患者数は減少していった.
四日市公害訴訟は大気汚染の総量規制、亜硫酸ガス環境基準の改正、公害健康被害補償法の制定などに影響を与えた.この裁判は大気汚染に関する判決ばかりでなく,公害対策の進展に大きく寄与することになった.そして全国の石油化学コンビナートの公害対策に大きな影響を与えた。各企業が個別に公害規制法を遵守しても,結果として公害被害が発生した場合、企業の法的責任が問われることになった。高度経済成長期社会が生んだ公害に対し,四日市公害訴訟は全国的な住民運動のきっかけをつくった.そして被害住民が公害訴訟で勝訴したことで、一応はきれいな環境が戻ったであった.
●田子の浦のヘドロ
静岡県富士市の田子の浦は日本有数の景勝地で,富士山の眺望と切れ目のない青松がどこまでも続く海岸を有していた.万葉の歌人・山部赤人が,「田子の浦 打出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」と歌を残すほどであった.
田子の浦は,伝統的に富士山の清澄な伏流水を利用した和紙作りの盛んな土地であった.この豊富な地下水と森林資源に恵まれた富士市に大昭和製紙を筆頭とした製紙工場が戦後建設され,富士市は工業都市として発展をとげることになった.この製紙工場がこの景勝地である田子の浦の風景を一変させたのである.
製紙工場はその製紙工程で大量の燃料と水を必要とした.そしてチップやボロなどの原料から大量の汚水を発生させた.製紙工場からは製紙のカスであるヘデロが1日に3000トンも排出され,流れ込んだヘデロによって田子の浦の浅海が埋め尽くされた.ヘデロは有機物を含んだ粘土質のドロドロとしたもので,製紙工場から排出されたヘドロが堆積して悪臭を放った.田子の浦では奇形の魚が釣れるようになり,アワビやサザエを捕っていた海女たちは,原因不明の蕁麻疹に悩まされた.そして昭和45年7月,ヘデロによって貨物船の運航が不可能になる事態へと進展していった.8月9日にはヘデロ公害追放住民大会が開かれ,漁船144隻が参加して海上デモが行われた.そして住民運動によってヘデロは除去されることになったが,ヘデロが発生する毒ガスで作業員が中毒症状を引き起こすほどであった.
日本の誇りである富士山を背景に,アブクで埋まった田子の浦が全国に放映され,国民に大きなショックを与えた.田子の浦の公害はヘデロだけでなかった.大気汚染もすざましく富士市の工場の重油燃焼量は1日3200キロリットル,発生する二酸化硫黄の量は1日130トンに達していた.昭和52年の公害病患者は912人、死者が39人となった。富士市はさまざまな公害を抱え公害のデパートとさえいわれた。静岡県が港内に堆積したヘデロの処理をおこない,約1,823千m3のヘデロを除去したのは昭和55年のことであった.
このように公害問題は日本中に吹き荒れ,政府は公害を抑制するための主務官庁が必要とされ,昭和46年7月に環境庁が誕生した。当初は「公害安全庁」であったが,「環境保護庁」と名称案に変わり最終的には環境庁になった.
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中ピ連(昭和45年)
当時,欧米各国で盛んになった女性解放運動が日本に上陸,男女差別の撤廃,雇用の機会均等などを主張する女性による女性解放運動が活発になっていた.彼女たちの運動はウーマン・リブと呼ばれ,女性の地位の向上を目指した運動として若い女性の間である種の期待感がもたれていた.ウーマン・リブ運動として,「女性解放運動準備会」「ぐるーぷ闘うおんな」などのグループが活動をおこなっていた.しかしこの女性解放運動は当初の目的から逸脱し,世間の反感と失笑を買うようになった.その原因となったのが中ピ連である.中ピ連はピンク色のヘルメットをかぶり黄色い声を張り上げ,時代を駆け抜けていった。
ウーマン・リブ運動から2年遅れの昭和47年6月18日に中ピ連は結成された.中ピ連とは「中絶禁止法に反対しピル解禁をかちとる女性解放連合」の略称で,27歳の榎美沙子が代表であった.他のウーマン・リブのグループは自然発生的な団体で代表者を置かなかったが,中ピ連だけは榎美沙子が唯一の代表者であった.榎美沙子の独裁色の強い個性によって,榎美沙子そのものが中ピ連といってよかった.昭和48年5月12日,ピルを解放せよと中ピ連はピンクのヘルメットをかぶり厚生省に押し掛け座り込んだ.「生む生まないは,女性にまかせよ」,「厚生省は男性の避妊薬を開発せよ」などとシュプレヒコールを繰り返えした.
中絶禁止法に反対しピル解禁をかちとることだけが中ピ連の目的であったならば,中ピ連はそれほど注目されなかったであろう.しかし中ピ連の活動は常に過激だった.当時盛んだった学生運動をまねたピンク色のヘルメットをかぶり,集会やデモなどの派手な街頭行動を繰り返えした.家族計画連盟の集会に殴り込みをかけ,優生保護法に反対して男女平等をとなえ,中ピ連は一部の若い女性から支持を得られていたが,多くの女性や男性からはその奇抜な行動ゆえに好奇の目で見られていた.中ピ連の代表榎美沙子は京大薬学部出身で,かなり優秀な目立つ美人であった.このお騒がせ集団をマスコミが黙っているはずはなかった.榎美沙子はテレビやラジオに頻回に顔を出し,マスコミはしだいに彼女に翻弄されていった.マスコミは榎美沙子を追い回し,榎美沙子はマスコミに出ずっぱりとなった.
さらにこの中ピ連は,昭和49年8月19日,「女を泣き寝入りさせない会」を結成し,身勝手な男たちに対しゲバルト行動をおこなうようになった.浮気や慰謝料などの問題が発生すると,男性の職場に大勢で押し掛け,「慰謝料を出せ」とシュプレキコールをはり上げた.プラカードを持ち,会社の前に座り込みを行い,問題のある男性の糾弾を繰り返した.「離婚するときは全財産を妻に渡すこと,さもなければ連日勤め先にデモをかける」,「上司の責任も追及する」このように恐喝といえる過激な実力行使を繰り返した.実際に20年間連れ添った妻を無一文で追い出した自動車会社社長の会社に押し掛け,財産の半分を譲渡する条件を引き出し世間を驚かした.また倒産寸前の会社に押し掛け,女子職員の給与を支払うように団体交渉を行った.中ピ連は「弱き女性を助け,強き男性を挫く行動」であった.しかし彼女らの行動は世の良識をはるかに越えていた.公私混同のゲリラ戦と呼ぶにふさわしかった.
昭和50年は国際婦人年で,そのこともありマスコミは中ピ連に迎合していった.中ピ連はミス・インターナショナル・コンテストに抗議し会場に押し掛け中止を叫んだ.NHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手のなかに女性を泣かせた者がいるとして粉砕予告を出したりもした.中ピ連はマスコミを意識し過激な運動を繰り返し,またマスコミも面白半分に中ピ連を取り上げた.
昭和50年4月1日,京都市の京都国際会館で開催中の日本医学会総会に中ピ連35人が会場に乗り込みピルの解禁を迫った.それだけでなく,愛人同伴で総会に出席していた離婚訴訟中の開業医をつるし上げ糾弾行動を起こした.昭和51年10月6日,東京で行われた第29回世界医師会総会にも中ピ連は乗り込み,「ピルを不当に解禁せず,妊娠中絶手術でボロ儲けする日本医師会粉砕」を叫んだ.黄色い声でシュプレキコールを繰り返す中ピ連に誰も手を出せない状態であった.女性解放運動というよりは世間の注目と騒動を求めて中ピ連は行動していった.そのためウーマン・リブに対する偏見と反感をもたらし,彼女らの行動は女性の地位向上にはマイナス効果をもたらした。
昭和51年6月25日,中ピ連は宗教団体「女性復光教」を創設,オスが小育てをするタツノオトシゴをご神体に榎美沙子自らが教祖となった.そして昭和52年4月1日には参議院選挙をめざし「日本女性党」を結成,「内閣はすべて女性とする」「公務員はすべて女性とし,男性は臨時職員かアルバイトとする」など荒唐無稽の政策を掲げ10人の公認候補をたてた.榎美沙子は白地に金モールのミリタリー・ルックで演説を繰り返したが,もちろん全員落選であった.選挙中に福田赳夫自民党総裁は「ワラのごとき存在」と称したが,まさにそれを実証した.
この参議院選挙惨敗の結果,榎美沙子は「中ピ連」「日本女性党」を解散,「愛する夫に尽くす」としおらしく主婦業を宣言して家庭に入った。あまりにあっけない言葉を残しての解散であった.榎美沙子は女性のためと言いながら,結果的に最も女性を裏切った女性であった.
榎美沙子はそれ以降,ウーマン・リブ運動の舞台からは完全に姿を消した.そして南極越冬隊に参加した内科医と結婚して家庭に入った.その後,夫からの申し出で協議離婚となったが,彼女は今でもマスコミから完全に身を隠している.
現在,世界中でピルを服用している女性は約1億人と推察されている.欧米では過半数の女性がピルを内服しているが,先進国の中で日本だけはピルを認めていなかった.しかし平成11年6月17日,厚生省はホルモン量の少ない経口避妊薬(低用量ピル)を医薬品として承認,中ピ連・榎美沙子が「ピル解禁」を叫んでから27年目の平成11年9月2日から低用量ピルが販売された。日本もようやく低用量ピルが解禁されることになったが,ピルを入手するには医師の診察,処方箋が必要で,また保険も適用されないので年間数万円の負担になることが問題である。榎美沙子が理想としていた市中の薬局での販売はまだなされていない.
一世を風びしたピンクのヘルメットをかぶった中ピ連,あれはいったい何だったのだろうか.榎美沙子はまさに時代が生んだあだ花と呼ぶにふさわしい女性であった.
安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)
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三島由紀夫割腹事件(昭和45年)
昭和45年11月25日10時45分,世界的に有名な純文学作家・三島由紀夫(45)が.自ら結成した民間防衛組織「盾の会」の会員4人を引き連れ,東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地を訪ねた.三島由紀夫は前日に陸上自衛隊東部方面総監である益田兼利陸将(56)に面会を申し込んでいたので,盾の会の制服を着た5人は2階の総監室に案内された.三島由起夫は日本刀を持っていたが,指揮刀と称し総監室に持ち込むことができた.そしてかねてから交友のあった益田兼利陸将としばらく雑談を交わしていたが,三島由紀夫がハンカチを取り出したのを合図に4人は用意したひもで益田兼利陸将を椅子に縛りつけ,5人は部屋に立てこもり,持ってきた要求書を突き付けた.部屋の外にいた自衛官がこの気配に気づき総監室に入ってきたが,三島は日本刀「関の孫六」を抜き,4人は短刀を振るい,中村二等陸佐は三島の日本刀で左腕を切られて重傷を負うなど自衛官5人が負傷した.
三島由紀夫らは机や椅子で部屋の内側にバリケードを築き,陸将を監禁したまま部屋に立てこもった.騒ぎを知り駆けつけた吉松幕僚副長がガラス窓ごしに説得をするが,三島は受けつけず,正午までに自衛隊隊員を本館前に集めるように要求した.三島が立てこもった総監室はかつて大本営が置かれていた歴史的な部屋で,部屋の前には正面バルコニーがつながっていた.三島由紀夫は総監室から正面バルコニーへ出ると,約1000人の自衛官を前で要求書の垂れ幕を下ろし檄文をばら撒いた.カーキ色の楯の会の制服を着た三島由紀夫は,七生報国のハチマキをしめ約10分間にわたり演説をおこなった.
三島由紀夫の主張は,米軍の支配下にある自衛隊の自立,憲法改正のための決起,民族の自立,天皇を中心とした日本の伝統の擁護であった.戦後,日本民族は深い惰眠をむさぼり,日本の文化は破壊され,日本の伝統は後退し,武士の魂は失われた.このことに危機感を持っての演説であった.日本人は戦後の経済繁栄にうつつをぬかし,国の大本を忘れ,国民精神を失い,本を正さずして末に走り,自ら魂を空白の状態へ落ち入れたと訴えた.さらに国を防衛すべき自衛隊が妥協と欺瞞の政治のなかで,ご都合主義の法的解釈でごまかされていると主張した.三島由紀夫の演説は荒廃した日本に活路を見出そうとするものであり,憲法改正がむずかしいことから,自衛隊の治安出動によってクーデターを起こそうとしたのであった.
「われわれの愛する歴史と伝統の国,日本.これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか.もしいれば,共に立ち,共に死のう.われわれは至純の魂を持つ諸君が一個の男子,真の武士として蘇ることを切望する」,「今から国会を占拠し,憲法を改正しよう」.三島由起夫はマイクを使わず必死に訴えたが,彼の演説はあまりに唐突であり,集まった自衛隊員には通用しなかった.
三島由紀夫の演説はテレビで放映されたが,バルコニーからの三島の演説に対し,自衛隊員のだれ一人として真面目に耳を貸す者はいなかった.むしろ演説する三島に対して「バカヤロー」,「アタマを冷やせ」,「英雄気取りはよせ」などの野次や罵声が飛んだ.自衛隊員に対する激文,三島由起夫の絶叫は悲壮感を帯びたむなしいものであった.三島由起夫の演説は不発に終わったばかりか,むしろ悲惨であり時代錯誤の醜悪と捉えられた.サラリーマンと化した自衛隊員に武士という言葉は通用しなかった.2時間の予定の演説は,罵声とヘリコプターの騒音の中でわずか8分で終わってしまった.
三島由紀夫は自衛隊の決起は無いと判断,皇居に向かい天皇陛下の万歳を三唱し,再び総監室に戻ってきた.三島由紀夫は益田総監の見ている前で制服のボタンを外し,上半身裸になるとじゅうたんの上に正座し,古式に則り,銘刀「関の孫六」で左脇腹から右へ腹部を切り裂き割腹自決をとげた.森田必勝(25)がうしろから日本刀で三島由紀夫を介錯,次いで森田必勝も切腹をとげた.血の海となった総監室に残された盾の会会員,古賀浩靖,小賀正義,小川正洋は三島と森田の2つの首を遺体の前に並べ上から制服をかけた.そして部屋から出たところを監禁障害の現行犯で逮捕された.翌朝の朝日新聞に三島と森田の首の写真が掲載された.二人の遺体は慶応病院で検死を受けたが,見事なほどに腹部は深く切られていた.
三島由紀夫は日本を愛し,必死の形相で自衛隊に決起を呼びかけたが,彼の国粋主義によるクーデターは失敗に終わった.文学的手法では人々の心は動かなかった.夢と現実は完全に分離していた.しかし三島由紀夫は自衛隊の決起を本気で考えていたのだろうか.クーデターが失敗したから切腹したのではなく,切腹するためにクーデターを呼びかけたのではないだろうか.
三島由紀夫は毎年のようにノーベル賞候補とされていた.その三島は彼の45歳の人生で何を後世に残したかったのだろうか.三島由紀夫は日本文化を天皇制中心の華麗な古典主義としてとらえていた.日本人の生き方を武士の生き方と重ね合わせ,そして葉隠に書かれた「武士道とは死ぬことと見つけたり」を実践したかったのであろうか.形の上では日本国憲法と民主主義に対する抗議の死であったが,実際には義のための死,打算なき死,自らの小説「憂国」の主人公・武山信二中尉が腹を切ったように美的な死を演出したように思えるのである.
降って湧いたような前代未聞の事件は世間を驚かした.佐藤榮作首相は官邸での昼食中にテレビ速報で事件を知り,記者団に感想を問われると,暗い顔で「気が狂ったとしか思えない.常軌を逸している」とコメントを述べた.作家の井上光晴は「三島は必死に自分の思想を追求した結果,現実との相違に失望し死んだ.その思想も行動も全く漫画的で無意味である」.このように多くの見識者のコメントも同様に冷静なものであった.高名な作家であっても法秩序を乱すというのは思い上がりの幻想と一般人も受け止めた.
たしかに三島由紀夫の考える天皇制は非現実なものであった.天皇陛下の万歳を唱え自決することが,たとえ純粋であっても時代錯誤の狂気の美学を感じさせた.天才なのか狂気なのか,ノーベル文学賞候補作家の衝撃的な最期は日本だけでなく世界中を驚かせた.大正元年,乃木希典が明治天皇への巡視として割腹自殺を行っているが.三島由紀夫の割腹自殺はその何十倍もの衝撃を与えた.
三島由紀夫は本名・平岡公威(きみたけ)で大正14年に東京・四谷で生まれた.祖父は元樺太庁長官の平岡定太郎,父親の平岡梓は,東京帝大卒業後農林省に入り水産局長を務め,母親は開成中学の校長で儒教学者・橋健三の次女であった.三島由紀夫は学習院初等科のころから病弱で,文学にあこがれをもち多くの書物を読んでいた.そして学習院中等科の頃から文学をこころざし,俳句,詩歌などを作り16歳で処女作「花ざかりの森」を書いている.19歳時に学習院高等科を首席で卒業し天皇陛下から銀時計を授かり,東大法学部に推薦入学している.大学生時代にその早熟な文学的才能を川端康成に見いだされ,川端康成の推薦で雑誌「人間」に「煙草」を発表して文壇に登場した.
昭和22年に東大法学部を卒業すると大蔵省に入るが,翌年には作家活動に専念するため大蔵省を1年で退職し作家活動に専念することになる.彼の作品は緻密に計算された物語性を特徴とし,昭和24年に「仮面の告白」で文壇の注目を集め,さらに「愛の渇き」,「青の時代」,「潮騒」,などの小説を書き,その才能を十分に発揮した.昭和32年に「金閣寺」を書き,11ヵ国で翻訳され三島は世界的作家となった.それ以降,「美徳のよろめき」「鏡の家」「宴のあと」「憂国」などたくさんの小説を書き,また独創的な戯曲や切れのいい評論を次々と発表し文壇をリードし,作品の発表ごとに話題を集めた.
文学以外でもボディービルで身体を鍛え,剣道4段で,また自作自演の映画出演などで話題をまいた.そして文学からしだいに政治的な発言を強め,天皇を日本文化の中心にすえようと主張するようになった.当時は左翼全盛期の時代であったが,三島由紀夫は左翼陣営に対抗する右翼の論客として担ぎ上げられた.また自衛隊に体験入学した学生らと「楯の会」を結成した.「楯の会」は民間防衛組織で,隊員は早大,東大,京大,などの学生95人にのぼっていた.そして掲げる主義は反共,天皇制支持,暴力是認であった.共産主義は日本の伝統と文化に反するものであり,日本の歴史と相容れないとした.天皇は日本の歴史の文化的連続性と民族的同一性の唯一の象徴としている.暴力是認は,無原則の暴力否定は日本共産党の宣伝にのるだけとしていた.「楯の会」はカーキ色のダブルの軍服を着て,規律と品位を保つことに重点がおかれ,隊員は自衛隊での1ヶ月以上の体験入隊を義務づけられていた.
三島由紀夫が自決した当時は,大阪万博が成功し日本中が好景気に浮かれていた.そして戦後の経済的繁栄に,その反動として左翼運動が活発化していた.このような時代背景の中で,その場しのぎと偽善に満ちた日本の表面的繁栄に義憤を感じている者が少なからずいた.三島由紀夫は憂国の想いからこのような行動に出たのだろうが,三島由紀夫の行動に同情はしたものの,賛同する声は小さかった.しかし三島の葬儀には8200人が集まった.参列者の多くは何も語らなかったが,心の中では三島由紀夫がたるみきった日本に渇を入れた英雄と捉えていたであろう.
昭和の年号と自分の年齢が同じであった三島由紀夫は,激動の昭和と共に生き,自らの芸術を開花させ,そして三島の死は彼の美学の総括だった.三島由紀夫事件から1ヵ月後に朝日新聞は大学生にアンケート調査を行ったが,三島の死をバカバカしい自己陶酔と捉える否定派,死をかけて主張したことに対して心情共感派,行動が理解できずショックを受けたという不可解派,この3つの受け止め方はほぼ同数であった.
三島由紀夫の葬儀委員長はノーベル賞作家・川端康成が勤めた.そして川端康成は三島由紀夫の死から2年後の昭和47年4月16日,三島由紀夫の後を追うように逗子マリーナマンションで睡眠薬をのみガス自殺している.
現在,山梨県山中湖の湖畔に三島由紀夫文学館が建てられ,多くの資料が並べられている.彼の自決の本当の意味は永久に分からない.葉隠には「武士道は死ぬことと見つけたり」と書かれているが,三島由紀夫は武士道に殉じたのだろうか,結果的には武士道を演じて死んだと思えるのだが,その真意は誰にも分からない.いずれにしても三島文学は永久に残るであろう.
安全保障としての医療と介護(朝日出版社)
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ハンセン病治療に尽力の医師(昭和45年)
昭和45年12月12日,ハンセン病(らい病)の治療に尽くした小笠原登医師が肺炎のため故郷の愛知県甚目寺町の円周寺で亡くなった.82年間の名誉ある人生であった.
ハンセン病は明治時代から強制隔離政策がとられ,90年間にわたる強制隔離が患者の差別と偏見を招いていた.小笠原登は国賊と言われながらもこの強制隔離政策に反対し,ハンセン病患者の治療のために尽くした医師である.小笠原登は現代医療思想の先駆けとして高く評価されている.
小笠原登は愛知県甚目寺町にある真宗大谷派の円周寺に生まれ,医師であるとともに真宗大谷派の僧侶でもあった。小笠原登の祖父・小笠原啓實は漢方医であり,また僧侶でもあり,寺でハンセン病患者の療養をしてきた。国の隔離政策が行われるまではハンセン病患者は寺院に集まり生活をすることが多かった.小笠原登の医療を支えた背景には、ハンセン病患者が集まる寺院に生まれたこと,また仏教への信仰が強かったことがあった.漢方医であった祖父の治療を通じて,ハンセン病の感染力は弱く遺伝性はないものと確信していた.
小笠原登は旧制三高から京都帝大医科大学(現京大医学部)に進学,大正4年に卒業すると,京大医学部皮膚科でハンセン病の治療と研究を始めた.小笠原登は「隔離政策」に反対して外来治療をおこなった.京大時代に診察したハンセン病患者は1500人を超えたとされている.当時はハンセン病の感染を恐れ,患者に触れたがらない医者が多かった.しかし小笠原医師は患者を直接手でさわり診察していた.診察が終われば手を洗うが,小笠原医師は患者の目の前では決して手を洗うことはなかった.患者の心を傷つけたくなかったからである.もしハンセン病の診断がつけば医師には届出義務があり患者は強制隔離された.そのため患者の病名には「進行性皮膚炎」などの偽りの病名をつけ,あるいは病名を書かないで診療した.
その当時,ハンセン病は恐ろしい伝染病とする光田健輔医師(1876―1964)の学説から強制隔離政策が打ち出され,隔離政策を当然とする考えに医学界も国民も縛られていた.国は各地に療養所をつくりハンセン病患者の隔離政策を進めていった.「大和民族の純潔を守るために,多数の国民の安全を守るために,少数の人権無視はやむをえない」,このような軍国主義敵影響を受けていた.この隔離政策はハンセン病が恐ろしい伝染病とする以外に,醜い形相となるハンセン病を世間の目から隔離しようとする考えがあった.
小笠原医師はハンセン病の感染力は弱く患者を隔離する必要がないこと。つまり感染しても発病するかどうかは個人の体質に大きく左右されるという「体質説」を昭和16年に発表した.この「体質説」は学会から攻撃を受け,小笠原登は学会や社会から異端視され,国民からも隔離制度を混乱させる国賊とみられていた.そのため生前の小笠原登に対する世間の評価は低いものであった.京大でも助教授のままで退官しているが,医学史の視点からみれば,小笠原医師の学説の方が正しかったのである.
戦後基本的人権を尊重する憲法ができたが,ハンセン病患者の人権はないに等しいものであった.アメリカでハンセン病の新薬プロミンが開発され,昭和24年ごろから日本でも使われるようになった.この特効薬の開発によりハンセン病は不治の病ではなくなった.しかし昭和28年に癩予防法は「らい予防法」と名前を変えたが隔離政策は継続されたままであった。プロミンの普及で療養所の患者に希望が広がり,ハンセン病の国際会議(ローマ会議:昭和31年)で日本の隔離政策が批判された。世界の流れは開放治療へ向かっているのに,日本では隔離政策が続けられていた。「らい予防法」は近い将来改正するという条件付きだったが,それから平成8年の廃止まで40年間も放置されたままであった.そしてその間にも患者への偏見と差別は増幅されていった.これはハンセン病の本質を知る医師たちの怠慢だったといえる.
京大勤務時代の小笠原登は毎年のよう医学雑誌などに論文を発表して,昭和23年から60歳で退官する昭和48年まで,その論文数は110を超えていた。京大退官後は国立豊橋病院(愛知県豊橋市)や国立療養所奄美和光園(鹿児島県名瀬市)に勤務し論文発表を続けていた。医師としてまじめに診療研究をおこない,研究者として多くの学会に報告している。また漢方に関する論文も多く書いている.西洋医学だけでなく,東洋的,仏教的な思想を医学や医療に応用したかったのである.京都大学の皮膚科時代の患者さんが豊橋や円周寺を尋ねてくると,診察を終えると患者さんを一晩泊めて一緒に食事をとった.どこまでも患者に温かい医師であった。
小笠原登の写真を見ると,いつも黒の詰めえりの服を着ていた.頭髪も短く刈り込み,黒衣の僧侶が医者になった感じである.さらに強い信念を持っていたことが伝わってくる。 小笠原医師が活躍した時代は,大正デモクラシーから軍国主義への転換期で,非民主的な政策がまかり通っていた.ハンセン病患者の隔離政策もそのひとつであり,時代の流れの中で自分の思想を捨てなかった小笠原医師の内面の強さは高く評価される.
小笠原医師と同じ考えを持つ医師として大谷藤郎がいた.大谷藤郎は京都大医学部の学生時代に小笠原医師の研究を手伝い,厚生省医務局長となりらい予防法の廃止に尽力をつくした.後にハンセン病の啓発団体「財団法人藤楓協会」理事長,国際医療福祉大学長となっている.ハンセン病を考える場合,この2人の医師の存在を無視することはできない.
小笠原医師は70歳を超えてから奄美大島の和光園療養所で7年間を過ごし300人の患者の診察にあたった.療養所では患者に慕われ,奄美の良寛さまと言われていた.
奄美大島から故郷に戻り肺炎にて亡くなった.小笠原医師のお墓は円周寺にあるが,お墓といっても墓標はない.それは「名のないみんなと同じように土に埋めてほしい」という本人の遺志であった.墓地の一角に小さなお地蔵さんが立っているが,その場所に遺骨が埋められている.小笠原医師が亡くなってから,ハンセン病の発病に至る体内のメカニズムが急速に解明された.そして発病の仕組みを遺伝子レベルで解析する研究がおこなわれるようになった.かつては国賊と呼ばれた小笠原医師は再評価され平成13年東弁人権賞を受賞している.
安全保障としての医療と介護(朝日出版社)
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よど号ハイジャック事件(昭和45年)
昭和43年,44年の2年間で,海外では110件の飛行機ハイジャック事件が相次いで起きていた.しかしまさか日本でハイジャック事件が起きるとは誰も想像していなかった.よど号ハイジャック事件とは日本赤軍派学生が起こした日本で初めての飛行機ハイジャック事件である.
昭和45年3月31日,午前7時21分,羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」は乗員7人,乗客131人を乗せ羽田空港を離陸した.当時の飛行機には愛称がついており,その愛称名から「よど号ハイジャック事件」と呼ばれるようになった.乗員は機長の石田真二(47),副操縦士の江崎悌一(32),航空機関士の相原利夫(31),そして4人のスチュワーデスであった.ほぼ満員の乗客の中には福岡での日本内科学会へ出席するため,現・聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(58)が乗っていた.
羽田を定刻より10分遅れて離陸したよど号は2時間後には板付空港(福岡空港)に着陸するはずであった.禁煙のサインが消えるまでは,機内は普段と変わりはなかった.7時40分,飛行機が富士山の南側を飛行中,突然過激派(赤軍派学生)が操縦室に乱入,日本刀を振りかざしながら飛行機をハイジャックした.当時の飛行場には金属探知機もボディチェックもなく,日本刀,ピストル,ダイナマイトなどを簡単に機内に持ち込むことができた.
飛行機を乗っ取った赤軍派学生はリーダーの田宮高麿(27,大阪市立大)、サブ・リーダーの小西隆裕(25,東大)、田中義三(21,明冶大)、安部公博(22,関西大)、吉田金太郎(20,元工員)、岡本武(24,京大)、若林盛亮(23,同志社大)、赤木志郎(22,大阪市立大)、柴田泰弘(16,神戸市内の高校)の9人であった。なお岡本武の弟は岡本公三で,昭和47年5月30日に奥平剛士,安田安之とともにイスラエル・テルアビブ空港を襲って26人の死者を出す事件を起こした犯人である.当時,日本では赤軍派に対する捜査網が厳しさを増し,赤軍派は反帝国統一戦線の拠点を海外に求め,北朝鮮に活路を見いだそうとした.「いかに国境の壁が厚かろうが,再度日本に上陸して武装蜂起を貫徹する」と田宮高麿は声明文を述べた.犯人たちは世界同時革命を信じ,乗客の手を縛り所持品を検査した.
赤軍派は相原利夫・航空機関士を縛り,石田機長に北朝鮮へ行くように命じた.しかし石田機長は平譲に行くには燃料が足りないと説得し,犯人たちに給油のための福岡行きを了解させた.赤軍派学生は北朝鮮行きを指示したが,彼らは北朝鮮に事前に連絡がついていた訳ではなかった。北朝鮮が受け入れるかどうかはわからなかった。
午前8時59分,よど号は機動隊230人と警察官1000人が待機する板付空港に着陸した.犯人説得は通用せず,機体を離陸不能にするための工作も失敗し,政府は初めてのハイジャックにとまどい対策を打てずにいた.給油を遅らせるなどして5時間にわたる引き延ばし工作を行うも有効な解決には至らなかった.午後1時35分,犯人は病人,女性,子供ら23人を解放して,よど号は突然北朝鮮に向かって離陸した.石田機長に渡された北朝鮮の地図は中学生が使う地図帳を破りとった簡単なものであった.
よど号が福岡空港を飛び立って約35分後,38度線付近で右側に戦闘機の姿が見えた。国籍は不明であったが,操縦席の兵士は親指を下に向け,高度を下げろというサインをだした.石田機長が高度を下げると管制塔からの無線が入ってきた.石田機長は無線に指示されるまま空港に着陸した.しかしそこはソウル郊外の金浦(きんぽ)空港だった.北朝鮮に行かれては困るとする日米韓による連携プレーであった.
金浦空港は北朝鮮らしく偽装されていた.韓国兵は北朝鮮兵の服装を着て,女性はニセの歓迎プラカードを立てて出迎えた.しかし赤軍派らは空港内に米軍機を発見,激怒した犯人は金日成の大きな写真を持って来いと言った.もちろん韓国にはそのような写真はなく韓国側の計画は失敗に終わった.そして以後長い膠着状態に入る。
翌4月1日,韓国側は朴正照大統領が陣頭に立ち「乗客を解放すれば、北朝鮮に行かせる」と説得したが,犯人は態度を硬化させ膠着状態が続いた.朴正照大統領は人質を北朝鮮にやれば戻ってこない可能性が高いと考えていた。韓国では前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11名が北に抑留されたままになっていた。
機内は暑く,食料,水は不足し,自由にトイレに行けない状態が続いた.東京から山村新治郎運輸政務次官(36)がソウルに到着,赤軍派と交渉を始めたが交渉は難航した.午後になって橋本運輸相もソウルに到着した.
4月2日,よど号は依然として金浦空港にいた.山村新治郎運輸政務次官身代わりになることを提案した.この交渉により4月3日,ようやく乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放された.北朝鮮赤十字は領土内の飛行の安全,乗員の人道的処遇、機体返還を保障すると発表した.
4月3日午後6時4分,山村新治郎運輸政務次官をのせたよど号は金浦空港を離陸し,北朝鮮へと向かうことになった.石田機長の手元には中学生用の地図しかなく,気象情報も運航情報もなかった.夕闇が迫る中での完全な有視界飛行は危険だった.平壌管制塔からの応答はまったくなかったが,石田機長は戦争中夜間特攻隊の教官だったことから肉眼で見つけた滑走路に強行着陸した.明かりのまったくない暗闇の空港への着陸は成功したが,着陸したのは平譲の美林(ミリム)空港という廃港であった.北朝鮮はもし誘導を行えば、「よど号」を受け入れたことになるので、最初から誘導するつもりはなく,「よど号」はあくまで不法侵入者として取り扱うつもりであった。赤軍派の9人はそのまま北朝鮮に収監されることになる.
赤軍派の亡命は成功,そして山村政務次官と乗員3人を乗せたよど号は4月5日に羽田に到着した。日航は見舞金として金浦空港で降りた乗客に10万円、福岡空港板付空港で降りた乗客には5万円を配った.ちなみにこの夏のボーナスが一流企業で約15万円であった.この事件で山村政務次官は男をあげ,マスコミも「男,山新」とかき立て「身代わり新治郎」というレコードまで売り出され,山村政務次官は次の衆議院選挙ではトップ当選となった.また危険な任務を沈着冷静にこなした石田機長は国民的な英雄としてのあつかいを受けマスコミの売れっ子となった.しかし石田機長の女性問題のスキャンダルが報道されてしまい,日本航空を退社することになった.
「よど号ハイジャック事件」は1人の死傷者を出すこともなく解決した。ハイジャックの犯人たちは腐敗した資本主義社会である日本から脱出し,北朝鮮では社会主義朝鮮の金日成のもとにやってきた英雄として待遇を受けたのだった.自由な共同生活を保証され,彼らが抱いていた革命戦士として凱旋帰国の夢は次第に破れ,軍事訓練も帰国も許可されなかった.ひたすら政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受ける日々の連続であった.
北朝鮮に行った犯人の消息は事件発生から20年近く日本に届くことはなかった。彼らの生活について伝わってくるようになったのは平成の時代に入ってからである.彼らは貿易会社を設立して平譲市内に外貨ショップを開いていた.また昭和50年,金日成は犯人らに革命持続のため結婚相手を見つけるように指示,各メンバーたちは日本女性と結婚した。小西隆裕は東大闘争時代に恋人だった福井タカ子と結婚,安部公博は魚本民子と,岡本武は福留貴美子と,若林盛亮は黒田佐喜子と,田宮高麿は森順子と,赤木志郎は金子恵美子と,柴田泰弘は八尾恵と,そして田中義三は水谷協子と結婚した。吉田金太郎については結婚したかどうかは不明であった.花嫁たちの中には日本でチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていたものが多く,東欧の朝鮮大使館経由で入国した女性たちは彼らと結婚することが目的ではなく,結婚を余儀なくされていったものと思われる。
北朝鮮における赤軍派とその家族に対する待遇は良かった.衛星放送や新聞などで日本の事情を知ることができた。そして犯人のうち数人は昭和50年ごとから海外へ出はじめ各国の北朝鮮大使館を宿泊場所とし北朝鮮外交官や工作員と行動をともにすることになる。特にスペインのマドリッドは彼らの重要な工作拠点のとなり10年間にわたり,日本人拉致の活動舞台となった。しかしこのような北朝鮮側の活動は西側組織によって徹底的にマークされ,そしてベルリンの壁が崩壊するとともに彼らはヨーロッパの拠点を失い北朝鮮へ帰ることになる.
平成4年4月12日夜,よど号事件で男を上げた山村新治郎衆議院議員は翌日の北朝鮮訪問のために千葉県・佐原市の自宅に戻っていた.自民党訪朝団の団長として,金日成主席80周年のへの参加と「よど号」グループとの再会を楽しみにしていた.しかし深夜,ノイローゼだった次女(24)に自宅で包丁にて刺されて死亡したのである.次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが4年後に自殺した.よど号事件の際に父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女であった。
犯人たちはヨーロッパでの活動ができず,対日工作の方向転換をせざるを得なくなった.そして密かに日本に入国していた柴田泰弘と八尾恵が神戸で逮捕され,平成6年,柴田は懲役5年の実刑を受けた。平成7年11月30日には田宮高麿(52)が心臓発作で死亡。平成8年,田中義三はカンボジアで偽札事件を起こし4年間の獄中生活を送り日本へ移送された。東京地裁は田中義三に対し懲役12年を言い渡した.
北朝鮮に残された犯人グループは自分たちの子供の帰国に取り組んだ.そして平成13年5月15日、小西隆裕の長女(23)、田中義三の長女(22)、田宮高麿の長女(22)の3人が帰国した。同年9月18日には赤木志郎の妻の赤木恵美子が北朝鮮から北京経由で帰国したところを旅券法違反の疑いで逮捕された.東京地裁で赤木恵美子の公判が開かれたが,その際,柴田泰弘の元妻である八尾恵が証人として出廷し,昭和56年にロンドンで留学していた有本恵子(23)さんを騙して北朝鮮に連れ出したことを証言した。有本恵子さんに北朝鮮の市場調査をしないかと誘い,デンマークのコペンハーゲンで貿易関係者を装った安部公博と北朝鮮工作員に引き合わせモスクワ経由で北朝鮮に向かったとされている。
9月10日、小西隆裕の妻の小西タカ子(56)とメンバーの子ども5人が北京を経由して帰国,タカ子は旅券法違反容疑で逮捕された。平成15年4月4日、東京地裁は旅券法違反の罪に問われた小西タカ子被告に対し懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決を言い渡した。同じく4月22日,赤木志郎の妹の美智子(44)が、北朝鮮から北京経由で帰国し逮捕されている.平成16年1月13日,メンバーの子ども6人が北朝鮮から帰国した.計18人いる子どものうち14人が帰国することになったが,赤軍派の犯人たちの長い漂流の旅はまだ終わっていない.彼らの活動は闇に包まれているが,犯人メンバーがたちは次々と病死や事故死などで死亡し,北朝鮮に残っているのは小西隆裕、安部公博、若林盛亮、赤木志郎の4人だけとなった。
安全保障としての医療と介護(朝日出版社)
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シンナー遊び(昭和45年)
昭和42年ころからシンナー遊びが若者のあいだで流行し,昭和45年には約5万人の青少年が補導された.シンナーは値段が安いこと,入手しやすいことから,若者の間でシンナー遊びは急速に広まっていった.それまでは覚醒剤が特定の人たちの間で流行していたが,覚醒剤は値段が高いだけでなく販売ルートが限られていたため,若者たちの間では流行しなかった.
シンナーはペンキなどの塗装をうすめるために用いる有機溶剤で,麻薬や覚醒剤のように販売は規制されていなかった.シンナーは50円で買えるボンドなどの接着剤にも大量に含まれ,誰でも気楽に買えるという入手の安易さが流行を生んだ.シンナーの主成分はトルエン(60〜70%)であるが,その他キシレン,メタノール,エタノール,酢酸エチルなど多種多様の成分が含まれている.
シンナー遊びは若者のあいだで流行したが,シンナー遊びのきっかけは刑務所であったとされている.刑務所では酒を飲むことができない.そのため受刑者たちは塗料に使うシンナーを酒の代わりに隠れて使用していたのである.
シンナー遊びはビニール袋にシンナーを入れて吸い,あるいは脱脂綿に染み込ませ吸うことが多かった.肺から吸収されたシンナーは脂溶性のため,シンナーを吸うと脂肪組織が中心である脳に作用し,多幸感,酩酊,幻覚を引き起こした.意味も分からず楽しくなり,羞恥心や恐怖感が消失する.また呂律がまわらなくなり,歩行もふらつくようになる.そして夢の中をさまよっているような,いわゆる「ラリった」状態になった.シンナー遊びは若者の仲間たちが数人でおこなうことが多かったので,仲間意識から止めることができず,いつしか中毒になってしまうのであった.
シンナー中毒は発育に障害をもたらすが,もっとも恐ろしいのは精神分裂病と似た症状を引き起こし,殺人などの傷害事件を引き起こすことである.幻覚,幻聴により,窓からの飛び降り事故,転落事故,自動車を運転して事故を起こす例が多発した.また自傷事故だけでなく,周囲にも被害を与えることになった.
ビニール袋をかぶったままシンナーを吸い,麻酔状態から呼吸苦を感じないまま無酸素状態,急性シンナー中毒で死亡する者が多くいた.死亡事故の多くは友人たちとビニール袋をかぶったまま集団で吸っている状態が多かった.特に自動車などの限られた狭い空間でシンナーを吸って死亡する事件が多発した.自動車に150mlのシンナーを持ち込んで気化させた場合,車内のシンナー濃度は1%になる.空気中にシンナーが1%含まれると危険な状態となり,2%で死亡するとされている.さらにたばこの火がシンナーに引火して火傷を負う事件が多発した.シンナーによる死亡事故は,昭和42年に初めて9人が確認され,翌43年には 42人に急増し,また補導件数も激増した.
シンナー遊びは思春期の終わりとともに卒業する傾向にあるが,シンナーの慢性中毒になると後遺症が残ることが多い.慢性中毒の患者は脳波に異常がみられ,頭部CTスキャンでは脳の萎縮が認められた.また末梢神経障害をきたし両下肢の脱力や手足のしびれなどの感覚障害が残ることがあった.さらにメチルアルコールが含まれているシンナーを吸って失明をきたした例もあった.
シンナーの主成分はトルエンであるが,トルエン中毒は習慣性があり,麻薬と同じように吸わないと我慢ができなくなるという禁断症状が特徴である.またトルエン中毒はシンナー中毒よりも中枢神経症状が強い.トルエンの慢性中毒では歩行が困難となり,物をつかめず,手の震えなどの小脳失調症状が出現し,その他,耳鳴り,視力障害,不眠,小脳萎縮,脳波異常など様々な精神神経症状が出現した.
シンナーやトルエンは脳細胞を破壊し,脳細胞に不可逆的変化を引き起こした.シンナーやトルエン中毒による後遺症は覚醒剤の後遺症より強いとされている.このようにシンナー遊びは麻薬以上に危険な遊びで,一時的な快楽や開放感のため一生を棒に振ることになる.平成10年だけでもシンナー乱用者として6611人が検挙されている.
平成10年1月10日,大阪・堺市でシンナーを吸った男性による通り魔事件が起きている.大阪府堺市の路上で上半身裸になった無職男性(19)が登校途中の女子高生(15)の背中を包丁で刺し,さらに幼稚園の送迎バスを待っていた幼稚園女児(5)とその母親を包丁で次々に刺した.この事件で園児は死亡し母親と女子高生は重傷を負った.逮捕された男性は前夜からシンナーを吸っていて,裁判では心神耗弱状態であったとして無罪を主張した.しかし平成12年2月の1審では懲役18年の判決が言い渡されている.この事件が有名になったのは,平成10年4月,月刊誌「新潮45」に男性の顔写真と実名が掲載され,男性がこの顔写真と実名掲載が少年法に違反すると編集長,筆者を名誉毀損容疑で告訴したことによる.この裁判の1審では男性側の訴えが通ったが,2審では逆転敗訴となり請求は棄却された.この事件のようにシンナーを吸って殺人を犯したり,自分が事故で死亡する事故が現在でも多発している.
昭和の時代を振り返ると,街角にしゃがみながらビニール袋を口に当てている若者が目立っていた.シンナーはアンパンと呼ばれ,うつろな視線の若者が街角に散在していた.現在ではシンナー遊びは激減しているが,平成10年の全国中学生の調査では1.2%の中学生がシンナー遊びを経験していると答えている.なおシンナーが入手しにくくなったことから,平成8年ころよりシンナー遊びに代わって,ガスパン遊びというものが流行っている.
ガスパン遊びとはガスライター用のガスボンベからビニール袋にガス(ブタンガス)を注入し,それを吸入して一種の酸欠状態による恍惚感に浸る遊びのことである.いわゆるアンパンからガスパンへと変わったが,ガスパン遊びによる死者が増えている.ブタンガスは空気より重いため,いったん吸い込むと肺に蓄積し,肺の換気量が減少し酸欠状態となる.そのため血液中の酸素濃度が低下し窒息寸前に意識が遠くなる.これが恍惚感を引き起こすのである.シンナーが酩酊状態をつくるのに対し,ガスパンは酸欠による幻覚,幻聴を引き起こすのである.肺にブタンガスが充満すると,そのまま窒息死に至ることになる.シンナー遊び,ガスパン遊び,これらは遊びどころか,極めて危険な自殺行為である.
安全保障としての医療と介護(朝日出版社)
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東北大学人体実験訴訟(昭和44年)
昭和44年の暮れごろから,山形県天童市に住む黒沼正五郎さん(45)が両下肢に力が入らないという症状が数回あった.そのため東北大学付属病院第二内科を受診,担当医は体重減少,手の震え,動悸,眼球突出からバセドー病と診断した.バセドー病とは甲状腺機能亢進症のことで,甲状腺ホルモンが過剰に分泌されるために起きる疾患である.
甲状腺ホルモンは身体の新陳代謝を活発にするホルモンで,甲状腺ホルモンが過剰に分泌されるバセドウ病の患者さんは一見生き生きと元気そうに見えるが,安静時でも走っている時と同じくらいのエネルギーを消費する。そのため疲れやすく,動悸,手の震えなどがこの病気にみられる症状である。そして放置すれば心不全で死亡する疾患である.幸いにも現在ではバセドー病には特効薬があるため死に至ることはきわめてまれな疾患となっている.
黒沼正五郎さんは両下肢の脱力を周期的に示していたが,この症状はバセドー病のまれな合併症である周期性四肢マヒによるものであった.四肢麻痺マヒはその病名のごとく,四肢の麻痺が周期的にくる病気で,バセドー病患者40人に1人の割合で起きることが知られている.
昭和45年3月17日,黒沼正五郎さんはバセドー病の治療のため東北大付属病院第二内科に入院となった.バセドー病の治療として甲状腺にアイソトープを照射して甲状腺の機能亢進を抑制する方針がとられた.周期性四肢マヒは血液中のカリウムが高値でなる場合と,低値でなる場合があり,脱力発作時のカリウムを測定すれば分かることであるが,黒沼正五郎さんは入院中に1度も発作を起こさなかった.血液中のカリウムが高値の場合と,低値の場合では治療法は全く逆となる.そのため担当医は甲状腺の専門医である村田輝紀医師に,四肢麻痺マヒを一時的に誘発する「インシュリン・ブドウ糖負荷試験」を依頼した.インシュリン・ブドウ糖負荷試験とはインシュリンを投与して血中のカリウム濃度を低下させ発作を誘導する試験で,患者さんの同意を得て実施したのである.
インシュリン・ブドウ糖負荷試験は学会でも認められている検査法で,麻痺が誘導できればその病態が明確になるはずであった.しかし負荷試験をおこなった結果,正五郎さんは全身のマヒ状態をきたし,4月13日心停止をおこし死亡した.村田輝紀医師は「四肢マヒは脳圧降下剤マンニトールで改善できる」という自らの仮説を証明するため,マヒを人工的に誘発する「インシュリン・ブドウ糖負荷試験」を実施したのだった。負荷試験後,マンニトールを注射して麻痺の状態を見届けようとしたが、正五郎さんは負荷試験の段階で全身マヒをきたし心臓に異常を起こし死亡したのである.死亡診断書には急性心停止と書かれており,原因欄は空欄のままであった.
黒沼正五郎さんが死亡して1年後にこの事件が発覚した.東北大付属病院第二内科・鳥飼龍生教授が定例の症例検討会でインシュリン・ブドウ糖負荷試験により黒沼正五郎さんが亡くなったことを発言したのだった.当時,大学病院の研究至上主義に反対していた医局改革運動に参加していた若手医師たちは「東北大学・鳥飼内科人体実験を告発する会」を結成した.また遺族に対しても教授は誠意ある態度はみせなかった.そのため遺族の妻・黒沼京子さんらは「治療上不必要なうえ,危険な負荷試験をしたのは、大学病院の研究至上主義に基づく人体実験だ」として,昭和48年に総額5180万円の損害賠償を求めて提訴した。この裁判は「人体実験訴訟」として注目を集めた.人体実験というと患者の人権を無視した非道な医療行為をイメージさせるが,インシュリン・ブドウ糖負荷試験は一般的に認められている検査法であった.
昭和52年11月、仙台地裁の一審判決は,担当医師が患者の症状を十分に監視せず,症状が悪化した段階で回復措置を講じなかったとして、医師としての注意義務を怠ったと判断,国に総額3570万円の支払いを命じた.しかし「人体実験」については「証拠がない」として原告側主張を認めなかった。
控訴審では遺族側が「単なる医療過誤ではなく,大学病院特有の研究至上主義を背景にした非人道的な生体実験である」と主張したのに対し,被告側は当時インシュリン・ブドウ糖負荷試験による死亡例はなく,昭和45年当時の医学水準では妥当なものであること.マンニトールは実際には投与していなかったと反論していた。控訴審判決は担当医師の過失を認めたが,人体実験については訴えを退けた。控訴審では損害賠償額を約700万円増額して約4270万円としたが原審とほぼ同一の判断にとどまった。
付属病院を持つ東北大などの大学医学部は、診療と同時に研究、教育の使命がある。当時、この研究をしていた村田輝紀医師が「マヒは細胞内に水が取り込まれる際に起きるから、マヒが発生した時、細胞内の水を細胞外に抜き出す脳圧降下剤マンニトールを投与すれば、マヒは防止できる」との仮説から、黒沼さんに対マヒを誘発するインシュリン・ブドウ糖負荷試験を実施した。これについて村田医師は「マヒの診断を確定し,治療方法を確かめるための検査方法である」と主張した.治療しながら研究するという意味では、各種試験は全国の大学病院で日常的に行われていることであった。
村田医師は負荷試験実施の際、黒沼さんから承諾を取ったと法廷で証言している.しかし判決では「日常的な診療行為について,医師は患者から事前に包括的な同意を与えられている」としただけで、実際に承諾があったかどうか認定しなかった。
患者の人権を守るため、世界の医師が集まって1964年に採択した「ヘルシンキ宣言」は、「医学の進歩のためには人体実験も必要」とし,その際は、「研究内容が科学的客観性に裏付けられたもので、実験内容の妥当性を客観的に保障する手続きが必要」としている。
判決でも「人体への害がないように医療関係者がその職業倫理に基づき妥当な基準を設定し,順守することが必要」としている.また患者の承諾を得て検査を行うためには,欧米先進諸国で行われているような基準設定などの手続きが必要であるとした.原告側は仙台高裁控訴審判決を不服として最高裁に上告した。この裁判は最高裁まで20年間争われ,慰謝料の増額と,東北大学医学部長と病院長の謝罪で決着がついた.この事件は人体実験訴訟として訴訟問題となったが,人体実験という言葉が一人歩きした印象がもたれた.
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