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2010.02.19 18:10 |  医療事故  |  生活 / くらし  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

赤ちゃん取り違え事件

赤ちゃん取り違え事件(昭和40年)

 自分のおなかを痛めて出産した子供が,手塩にかけて育ててきた自分の子供が,実は他人の子供だったとしたら,母親のショックは言葉では表現できないものであろう.このような信じがたい事件が昭和40年ごろ日本各地で多発した.

 滋賀県大津市に住む大学助教授Yさん夫婦には,4月から幼稚園に通う予定の4歳の長男がいた.Yさん夫婦は交通事故の痛ましいニュースを頻回に耳にすることから,入園を機会に子供の血液型を調べて名札に書いておこうとした.そのため長男を近くの病院につれてゆき,血液型を調べてもらった.そして血液検査の結果,驚くべき事実を知ることになる.

 Yさん夫婦の血液型はともにB型であった.しかし長男の血液型はなぜかA型だった.B型の両親からA型の子供は絶対に生まれるはずがなかった.Yさん夫婦はこの結果に驚き,そして頭を抱え込んでしまった.妻の不貞は考えられず,残された可能性は,長男が生まれた大津日赤病院で取り違えられたことだけであった.連絡を受けた大津日赤病院では,当時の入院患者をひそかに調査することになった.そして同じ大津市に住む土建業Aさんの子供とYさん夫婦の子供が取り違えられていたことが明らかになった.

 生まれたばかりの赤ちゃんは,赤ちゃんの足の裏にマジックインクで名前を書き識別していた.しかしインクが蒸発して赤ちゃんが中毒症状を起こす事件があったためその方法は中止されていた.次に木札を胸にぶら下げる方法が採用されたが,赤ちゃんの怪我が心配された.そのため当時の大津日赤病院では,何の識別票もつけず,赤ちゃんを取り扱っていたのである.出産した直後に赤ちゃんを母親のそばに同室させる方法を取っていたので,赤ちゃんの取り違えは誰も予想しないことであった.

 YさんとAさんの「赤ちゃんの取り違え」は,生後3日目の入浴時に起きたとされている.赤ちゃんは11回入浴することになっていたが,生後3日目のYさんとAさんの入浴時間が同じだった.看護婦不足の病院では,看護婦が両腕に2人の赤ん坊をかかえて入浴させることが日常的におこなわれていた.母親にとって五体満足の赤ちゃんを無事に出産した安心感,さらには出産後の疲労も重なり,自分の子供の取り違えに気づかなかったのである.

 「自分の生んだ赤ちゃんを間違えるはずはない」と誰もが思うかもしれない.しかし出産後の赤ちゃんは顔のむくみが次第に取れゆき,毎日のように顔の表情が変化していくのだった.たとえ多少顔つきが違っていても,まさか自分の赤ちゃんが取り違えられたとは誰も想像しないことであった.

 間違えられた子供は,すでに物心のついた幼稚園生である.子供を交換するといっても単純なことではない.オッパイを含ませ,おしめを取り替え,鼻が詰まったときには口で吸って,生まれたときから自分の子供として育ててきた子供である.4年間も実子として育ててきた子供を,他人の子供だったからといって,「ああそうですか」とすっきりと簡単に割り切れるはずはなかった.

間違って育てられた子供も大変であった.昨日までAちゃんと呼ばれていたのが,違う両親からBちゃんと呼ばれるのである.混乱しないはずはない.昨日までお兄ちゃんと呼んでいた弟は,昨日までのお兄ちゃんは違うお兄ちゃんで,明日からは別のお兄ちゃんをお兄ちゃんと呼ばなければいけない,このようなことは子供には理解不可能なことであった.

 YさんとAさんの家族は相談の結果,しばらく一緒に生活をして,徐々に慣れさせてゆく方法をとることになった.市内の旅館で2組の家族が19日間の共同生活をおこない,そして子供の反応をみながら実子を引き取ることになった.

 母親にとって実の子供,それに育ての子供,どちらの子供であっても,子供は自分の子供である.子供を思う気持ちに変わりはない.知らないで過ごしていれば幸せだったのに,「血液型なんかなければ良かったのに」と科学の進歩を恨んだりもした.だが知ったからには仕方がない,泣く泣く交換に踏み切ったのである.両夫婦の苦悩,子供の戸惑い,これらは他人が想像する以上に大きなものであった.子供を交換しても,それまでの子供を忘れることはできなかった.子供は本当の両親を「お父さん,お母さん」と呼べず,夜になると育てられた家に帰りたいと泣いて両親を困らせた.

 このような「赤ちゃんの取り違え事件」は,昭和40年ごろから全国で多発した.広島県福山市,山形県米沢市,静岡県吉原市,三重県四日市市,三重県員弁郡の病院などで同様の事件が起きている.昭和48年の熊本の学会で東北大学医学部の赤石英教授は赤ちゃんの取り違いは全国で64人いることを報告,いずれのケースも実子を引き取っていたことが分かった.

 この赤ちゃん取り違え事件は,当時のベビーブームという社会背景に加え,看護婦の多忙が関係していた.産婦人科の看護婦は,次々に生まれる赤ちゃんに追われ,それこそ戦場のような忙しさだった.この「赤ちゃん取り違え事件」は深刻化している看護婦不足が生んだ悲劇であった.それまでの医療法では新生児は患者数に入れず,新生児の数とは関係なしに看護婦の定数が決められていた.しかしこのような事件が多発したことから,昭和43年から新生児4人に対して看護婦1人を置くことが法律で決められた.赤ちゃん取り違え事件は看護婦の過誤ではあるが,行政の責任はそれ以上に重いと考えられる.

 この事件以降,親子の識別のため母親の腕と赤ちゃんの足には同じプラスチックのバンドがつけられるようになった.プラスチックのバンドは出生時に付けられ,入院中はいかなる理由があっても外すことはできず,帰宅した後に外すようになった.それ以降.赤ちゃん取り違え事件は起きていない.

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