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2010.02.19 18:18 |  医療事故  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

アンプル風邪薬事件

アンプル風邪薬事件(昭和40年)

 昭和40年は,患者数26000人,学級閉鎖2378というようにA型インフルエンザが猛烈な勢いで大流行した年である.そしてインフルエンザが猛威をふるっているさなかの211日,千葉県で農業を営む男性が団体旅行から帰宅後,アンプル入り風邪薬「強力パブロンアンプル(大正製薬)」を飲み急死した.そしてこの事件の3日後,同じ千葉県でアンプル入りの風邪薬を飲んだ老人と15歳の少女が死亡.さらに217日,静岡県伊東市の主婦(39)エスエス製薬のアンプル入りの風邪薬「エスピレチン」を飲んだが死亡した.

 このように日本各地でアンプル入り風邪薬を飲み急死する事件が続発した.アンプル入り風邪薬事件は連日のようにマスコミをにぎわし,アンプル入り風邪薬で死亡した患者数は新聞が報道しただけで34日までに11人,累積死亡数は50人に達した.また死亡に至らなくても,重症となった患者は多数いたとされている.大阪府医師会の調査では半年間にアンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は702人で,そのうち62人が意識混濁,失神,呼吸困難,痙攣などの重症患者であった.

 アンプル入り風邪薬とは亜細亜製薬の「ベルベ」の発売から始まったもので,それまで粉末か錠剤であった風邪薬を水溶性の液体に変えたものである.主成分は解熱鎮痛剤のアミノピリン・スルピリンで,それにビタミン剤などを加えたものである.このアンプル入り風邪薬に含まれる成分は従来の風邪薬と同じで,薬理学的にはなんら問題のないものであった.アンプル入り風邪薬は注射薬の即効性をねらったイメージ商品で,製薬会社はインフルエンザの流行に乗り遅れまいとガラスに入ったアンプル風邪薬を盛んに宣伝して増産体制をとっていた.

 その当時の日本は,日本中が高度経済成長に沸き,働き続けることが美徳のように受け止められていた.仕事が忙しく,風邪ぐらいで休めない雰囲気に包まれており,勤労者にとって薬局の店頭でチュッと1本飲んで風邪が治れば,それにこしたことはない.当時の流行語はモーレツ社員,ファイトでゆこうであり,風邪をひいたら即効性の注射を打って一発で治してもらうという気分にあふれていた.科学や医学の進歩を過度に賞賛し,風邪は風邪薬で,しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治そうとする雰囲気があった.そのため各製薬会社は,従来の粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更したのだった.これは日本人の注射信仰を利用したものといえる.

 アンプル風邪薬の方がより効果的であるという証拠は何もなかった.しかし注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと何となく早く効きそうなイメージがあった.

 当時は風邪でも何でも病院に行けば注射を頻回に打つ乱診が行われていた.患者も,「あの医者の注射はよく効く」,「注射を一本打ってくれ」と言うほどであった.医師も患者も風邪は注射で治すのが当たり前と思い込んでいた.そのためアンプルの方が粉薬や錠剤よりも効きそうなイメージがあった.いわゆるアンプル風邪薬は注射のイメージをまねた疑似注射で,風邪などひいている場合ではないという高度経済成長の中で売れに売れたのである.

 アンプル風邪薬事件は,初めは患者の特異体質が原因と簡単に報じられていた.個人的な不幸な出来事と捉えられていた.しかし1ヶ月に11人の被害者が出たことから,マスコミが連日のようにこのことを報じ,厚生省がその対策に乗りだすことになった.

 厚生省は昭和40219日,アンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を大正製薬に要請した.しかし大正製薬の岡部広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで年間9000万本製造しており,すでに10年の実績をもっている.このような死亡事故は偶然が重なったせいで,厚生省の許可の基準に従って製造されたものだからクスリの成分に問題はない」とコメントを述べ厚生省の要請に難色を示した.この広報課長の難色発言がマスコミで大々的に取り上げられ,アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった.

 厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ,大正製薬,エスエス製薬に自主的に販売を中止することを再度要請,両社はこれを受け入れることになる.大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」,エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売停止にした.

 アンプル風邪薬は販売停止となったが,薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため,その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになった.在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行ったことが新聞で報道され,自主回収の必要性が叫ばれた.32日,厚生省は「市場からのアンプル入り風邪薬の回収」を日本製薬団体連合会に正式に要請,日本製薬団体連合会は「回収および返品にともなう経済損失を補う優遇措置」を条件にこれを受け入れた.つまり損害の救済,税制上の優遇,金融上の優遇,薬型変更の承認許可の優遇策を条件にアンプル入り風邪薬3000万本を自主回収することになった.

 アンプル風邪薬に限らず,風邪薬の副作用の大部分はアミノピリン,スルピリンに対するピリン・ショックが原因とされている.このアンプル風邪薬事件について厚生省は「患者の体力が弱っているときに,早く治したい一心から多く飲み過ぎたり,他のクスリとあわせて内服するなどの乱用が原因ではないか」と述べ,悪いのは患者個人であるかのような発言をした.中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は錠剤,粉末に比べて吸収速度が極めて早いため,血中濃度が急速に高値に達し,毒性の発現が強く出たのであろう」とコメントを述べ,さらにショック死を引き起こしたのは「使用者がある種の特異体質を持っていることも原因である」とコメントを追加した。

 アンプル入り風邪薬を製造していた製薬会社は全国で200社におよび,アンプル入り風邪薬は年間数100万本生産されていた.このようにアンプル入り風邪薬は,各製薬会社や薬局の稼ぎ頭で,年間の売り上げは約100億円と推定されていた.製薬会社の中には全体の売り上げの半分以上を占める会社もあり,製造中止は製薬会社に大きな打撃をもたらした.そしてその回収は製薬会社にとって死活問題となった.

 また薬局にとっても打撃が大きかった.その当時は医薬品の過剰生産から薬局の倒産が続出していたのである.このような薬局にとって,他の薬剤よりも利潤が大きいアンプル入り風邪薬は起死回生の商品だった.風邪薬は10100円であったが,アンプル入り風邪薬は1100円から200円で,その40%が薬局の儲けになっていた.薬局の売り上げの2割を占めていたのである.

 この事件への厚生省の対応はかつてないほどの英断と高く評価されている.しかし厚生省の対応によって製薬会社は大損害を被ることになった.そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め,今回の経緯について説明するとともに,損害を与えたことを陳謝している.そしてこの事件に対する厚生省の製薬会社への遠慮が,後に続くクロロキン網膜症への対応の遅れを作ったとされている.

 この事件の背景には,当時の製薬会社の利益追求の販売姿勢に問題があった.製薬会社は病院で処方される医家向け薬剤よりも,薬局で自由に買える大衆薬品の方にウエイトを置いていた.そのため風邪薬は製薬会社による成分の違いがほとんどないのに,各製薬会社は新聞,雑誌,テレビ,ラジオを通して誇大広告や過激な広告を繰り返した.競争が加速し,各メーカーの広告はどきついものとなった.もともと風邪薬に成分の違いはほとんどない,そのため薬剤の内容ではなく,薬剤のイメージが製薬会社の販売戦略となり宣伝が加熱していった.

 なお「くしゃみ3回,ルル3錠」は三共製薬の風邪薬のCMであるが,このCM史上に残るキャッチコピーは昭和30年に作られたもので,三島由紀夫が激賞したとされている.「くしゃみ3回,ルル3錠」のキャッチコピーは現在でも使われており,この宣伝文句によって三共製薬は総合感冒薬市場でトップクラスの座を確保しているといえる.ルルの宣伝は,大空真弓、いしだあゆみ,由美かおる,伊東ゆかり,松坂慶子、大竹しのぶ,富田靖子,木村佳乃,このようにルルの宣伝に出た女優は大女優になるとの伝説まで生まれるほどである。この三共製薬の宣伝と逆だったのが昭和3912月に放送された興和の風邪薬「コルゲンコーワ」のCMだった.「おめえ、ヘソねえじゃねえか」と言いながら、薬局前に置かれたカエルの人形へ落書きする宣伝だった。この宣伝は、「子供の言葉遣いが悪い」と批判を受け放送2か月で打ち切られた。

 当時の新聞を開いてみると,新聞紙上の広告の半分近くが医薬品の宣伝で占められている.製薬会社は薬品の広告に熱心で,今日でいえば家電産業や自動車産業と同じような広告を出していた.またテレビでのコマーシャルでも同様に盛んに宣伝された.製薬会社は広告産業の一番の得意先であり,売り上げに対する製薬会社の研究費は4.0%であったが,広告費は5.1%と研究費を上まわっていた.高度成長に歩調を合わせるかのように各製薬会社は利潤追求にしのぎを削り,イケイケドンドンの営業で,およそ人の命に関わる薬剤を売っているという意識は少なかった.

 昭和36年に国民皆保険制度が発足し,製薬会社はそれまで市販の薬剤に重点を置いていたが,国民皆保険制度による患者数の増大とともに医家むけの薬剤も急速に延びていった.昭和30年から昭和45年までの15年間に,製薬会社の売り上げは12.4倍に,利潤は22.9倍に延びた.製薬会社は国民皆保険制度,高度経済成長と大衆薬ブーム,さらにクスリ好きの国民性も加わり,この時期に製薬会社は驚異的な成長をとげたのである.

 アンプル入り風邪薬事件をきっかけに,日本製薬団体連合会は「医薬品広告に関する自主規制」を行うことになった.そしてこの事件以降,クスリの宣伝がテレビや新聞から急速に減少することになった.以前ほどではないが,現在でも寒くなるにつれ女性タレントを用いたイメージコマーシャルが多く見られる.

 今回,アンプル入り風邪薬が問題となったが,一般的な風邪薬が必ずしも安全とは限らない.風邪薬がスティーブンス・ジョンソン症候群(全身の皮膚がやけどのようにただれる)を招き死亡した例が報告されている.また大量の内服にて死に至ることは埼玉・本庄の風邪薬殺人事件が示している.風邪の場合には不必要な薬を使わずに,薬に頼るのではなく,薬の助けをかりて休養で治すことを心がけるべきである.

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2010.02.19 18:17 |  研究  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

エキノコックス症

エキノコックス症(昭和40年)

 昭和11年に北海道の礼文島でエキノコックス症の患者が初めて報告された.エキノコックス症は明治時代に野ネズミを駆除する目的で千島列島からキタキツネが持ち込まれたのが原因であった.そして昭和20年代に患者が大量に発生したことから問題となった.エキノコックス症は昭和39年までは礼文島のみに限局していた風土病といえた.しかし昭和40年ごろからしだいに北海道のほぼ全域に感染動物,患者が広がり,札幌市内でも患者が発見されるようになった.

 エキノコックスは寄生虫の1種である.エキノコックスは世界的に分布する単包条虫と北方圏諸国に分布する多包条虫の2種類に大別することができる.世界的には単包条虫による被害のほうが多包条虫による被害よりも多いが,北海道で問題になったのは多包条虫である.

 エキノコックスの成虫はキタキツネに,幼虫は野ネズミに寄生する.そして北海道全土でキタキツネが増えたことから,エキノコックスの分布が礼文島から北海道全土に拡大したのだった.エキノコックスを媒介するキタキツネは感染を受けても症状を示さない.キタキツネの小腸に寄生した成虫が虫卵を生み便中から排泄され,糞に混じったエキノコックス虫卵が水、食物などを介してヒトに経口感染する.エキノコックスの幼虫は肝臓に移行し,増殖して致死的な肝機能障害をもたらすのであった.エキノコックスの幼虫はネズミや人の体内では成虫にならないので,ネズミからヒト,ヒトからヒトへの感染はありえない.キタキツネあるいは犬の便からヒトに感染するのである.

 ヒトの場合,エキノコックスは主に肝臓に寄生して腫瘤を形成する.感染を受けてから,肝臓の腫大、黄疸、腹水貯留,全身倦怠などの症状が出るまで長期間を有し,小児で5年,成人で10年以上とされている.肝臓の他,肺、骨、腎臓、脳などにも寄生するが,問題になるのは肝臓である.エキノコックスの治療としてアルベンダゾールを用いる薬物療法があるが,ほとんどの患者は肝病巣の切除が必要となる.この肝臓切除術は北大医学部第1外科教授・三上二郎が昭和23年にわが国で初めておこなった治療法である.

 エキノコックス症の初期症状はほとんどない.そして症状が出る前ならば,大半の患者は病巣を切除することができる.しかし発症を示すようになった患者の手術では2割くらいの患者しか腫瘤を取り切れない.このように自覚症状に乏しいことから早期発見,早期治療が必要となる.エキノコックスは放置すれば癌と同じように全身状態が悪化し,悪液質に陥り死亡する.北海道では新たな患者が毎年約10人程度報告されているが,キタキツネのエキノコックス感染率は約4割と上昇していることから,キタキツネの生息地ではエキノコックスの感染を受ける可能性は大きいといえる.

 毎年の感染者は10人前後であるが,これは10年前に初感染を受けた患者であり,今後,増加する可能性がある.感染の予防のためにはエキノコックスの卵が口に入らないようにすることである.人家の周辺にキツネを近づけないこと.また山菜や果実は良く洗い,十分に加熱することである.特にキャンプ場での感染の可能性が指摘されている.自然にあふれた北海道で湧き水,井戸水,沢水などのおいしい水が飲めないのは残念であるが,それほど恐ろしい感染症なのである.エキノコックスの卵は沸騰すれば死滅することが分かっている.

 北海道では毎年10万人以上の住民が定期検診を行っており,エキノコックス認定患者数の累計は平成10年の時点で383例(多包条虫が組織学的に確認された症例のみ)となっている.ELISA法による住民のスクリーニング検査による血清反応陽性者は平均すると約0.3%である.

 エキノコックス症は北海道だけでなく本州からも70例以上が報告されている。特に青森では22例の患者がいることが分かっている.また本州の患者の中には北海道に行った経験のない16例(青森8、宮城および東京2、秋田、長野、福井および京都1例)が含まれ,その感染経路は不明である.北海道のキタキツネが青函トンネルなどから本州に移入し,あるいはゴルフ場の芝や牧草に紛れた虫卵が移動したものと考えられる.エキノコックスは北海道のキタキツネに寄生しているが.本州のキツネには寄生していないことが分かっている.このようにエキノコックス症が本州へ広がることが憂慮されている.

 作家の畑正憲さんは北海道の中標津にムツゴロウ動物王国を作り,テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」がシリーズとして人気を集めていた.しかし資金難から犬84匹,猫25匹をつれ,北海道のムツゴロウ動物王国が東京サマーランド(あきる野市)に移転することになった.この際,エキノコックスの感染の有無が大問題となり,あきる野市ではエキノコックス安全委員会が設置されすべての動物が検査を受けることになった.

 エキノコックスの発症の地である礼文島では,エキノコックス症の発症例は現在では見られない.それは感染源となるキタキツネや犬を殺し,島からエキノコックスを完全に駆除したからである.キタキツネは北海道の観光の象徴でもあり,その対策をどうするかは大きな問題である.なおエキノコックス症は平成11年の感染症法では4類に分類されている.

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2010.02.19 18:16 |  医療事故  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

キセナラミン事件

キセナラミン事件(昭和40年)

 名古屋市に本社を置く興和株式会社が,風邪の新薬・キセナラミンを自社社員に内服させ,その副作用で17人が入院,1人が死亡する事件が発覚した.人体実験ともいえるこの事件は,同社社員の内部告発で明らかになった.

 昭和40324日,興和株式会社社員である中村晴子(24)さんは,興和株式会社が自社の社員に対し,新薬の人体実験をしたとして東京法務局・人権擁護部に内部告発を行った.共立薬科大学を卒業し入社2年目の中村晴子さんは,同社の東京薬品部の企画課に勤務し,そこで今回の新薬の人体実験を受けたのである.中村晴子さんの告発により,昭和38年に興和株式会社が187人の社員に対し新薬キセナラミンを強制的に内服させ,副作用により多数の被害者が出したことが明らかになった.興和株式会社は新薬の効果を調べるために密かに社内で臨床試験を行っていたのだった.

 この事件は中村晴子さんの告発が新聞に載り表沙汰になったが,企業内で行われる臨床試験はよほどのことがない限りは外部に漏れることはない.今回,もしこれほどの副作用がなかったら告発は免れていたであろう.しかし問題になるのは,副作用の有無とは関係なしに,自社社員を対象に新薬の臨床試験を行った会社側の姿勢である.新薬の開発に際して自社社員を用いることは当時の製薬会社では日常的に行われていた.しかし社員を用いた臨床試験では新薬の効果が証明されたとしてもその効果が信用できないこと,またクスリによる副作用が出た場合には副作用の事実そのものがもみ消されることになる.研究開発中のクスリを社員に試すことは,社員の愛社精神を利用した非人道的行為と言うことができる.

 社員にとって治験への参加は断りにくい.もし断れば冷遇や左遷の可能性があった.この社員の弱点を利用した点に会社の卑劣な態度を感じさせる.興和はキセナラミンの臨床試験で死者まで出したのである.人体実験,人間モルモットと非難されても反論はできないであろう.

 キセナラミンはイタリアの研究者・マグラッシュが昭和34年に開発したクスリである.インフルエンザ,水痘,麻疹などのウイルス性疾患に効果があるとされていたが,これまでに数社の製薬会社がキセナラミンの開発,販売をこころみたが,毒性が強いことが問題になり断念していた.しかし興和はこのキセナラミンの合成法を独自に開発し,抗ウイルス剤として開発に着手したのだった.興和は風邪クスリであるコルゲンコーワで有名な会社であるが,これまでの風邪クスリは風邪の症状を緩和するクスリであり,当時はウイルスに直接効果のある薬剤は存在しなかった.もし興和のキセナラミンが抗ウイルス剤を完成していれば,それこそ画期的なクスリになると予想されていた.キセナラミンの開発,販売に興和の首脳陣が色めき立ったのは当然のことである.

 興和はこの新薬開発に意欲を示し,キセナラミンの臨床研究を東北大学内科・中村隆教授を中心とする著明なウイルス研究者に依頼していた.そして中村隆教授を班長としたウイルス病化学療法研究班20人が結成され,興和より研究費を受けて臨床試験に踏み切っていた.中村隆教授は東北大学病院内科に入院している22人の患者にキセナラミンの予備的な投与試験を行い,1人に肝障害を認めたが他には特別な副作用は認めなかったと公表している.さらに研究班は各病院に入院している61人の患者にキセナラミンの投与を行い,ウイルス性疾患に有効との結論を得ていた.そこでキセナラミンの効果を確実とするため投与する人数を増やすために,興和は自社社員を用いてキセナラミンを投与することになった.健康人である自社社員を用いたことは,キセナラミンの効果よりも副作用に主眼が置かれていた.

 昭和381015日,興和は名古屋本社と東京支社薬品部に男女207人の自社社員を集め,キセナラミン服用の説明を行った.学術部長・勅使川厚,佐々木信元課長が責任者となり,投与の人選は会社側から一方的に決められた.選ばれた207人の社員はシート14枚,124錠のキセナラミンが渡され,2週間の内服が強制的に言い渡された.

 この臨床試験は実薬(キセナラミン)と偽薬(プラシーボ)を無作為に投与する二重盲検法と呼ばれる方法で行われた.207人の社員のうち実際に実薬のキセナラミンが投与されたのは半数の104人,残り103人には偽薬が投与された.この二重盲検法による臨床試験はクスリを内服した被験者も,またクスリを投与した試験側も,その錠剤が実薬か偽薬かが分からないようになっており,臨床試験が終了した段階で,投与したのが実薬だったか偽薬だったのかを遡って調べ,薬剤の効果と副作用を調べる方法であった.二重盲検法は薬剤の効果と副作用を調べる上で最も優れた臨床試験であった.

 興和の社内で行われた臨床実験は上司により強制的に人選が行われ,参加するかどうかの被験者の自由な選択権は無視された.また事前の身体検査も行われず,医師の立ち会いはなく,投与は上司の監視下で行われた.さらにお粗末なことに,キセナラミンの内服量は11グラムであったが,間違って倍の量の2グラムが投与された.社員にはキセナラミンはすでにイタリアで市販されている安全な風邪薬で,副作用はこれまで認められていないと佐々木課長が説明した.なお胎児に対する作用は調べられていないことから,結婚直後の女性,妊娠予定の女性は除かれることになった.

 佐々木課長は社員に対しキセナラミンはイタリアですでに市販されているクスリで副作用はないと断言して治験が開始された.しかし投薬数日後から頭痛,食欲不振,全身倦怠感などを訴える社員が出てきた.それでも上司の命令によって治験は中止されず,症状を訴える社員に対しては胃腸薬などを飲ませながら治験は続行された.そしてキセナラミンを内服した104人のうち76人(73%)が副作用を訴え,17人が入院,1人が死亡する事態に至った.東大伝研付属病院に入院していた東京薬品部宣伝課の内田美穂子(24)さんは服用後4ヶ月後に骨硬化症と急性肺炎で死亡した.この死因とキセナラミンとの関連性については不明であるが,何らかの因果関係があったのではないかとされている.

 入院した17人の社員は肝障害がほとんどで,入院した17人全員が1ヶ月以上,最長では1年半にわたる長期入院をよぎなくされた.社員たちは安全なかぜ薬と説明され,誰もが気楽な気持ちで臨床実験に参加したのだった.キセナラミンにこのような副作用があるとは思いもしなかったのである.

 中村晴子さんが東京法務局・人権擁護部に内部告発したのは事件から1年半後のことである.告発したのは厚生省がこの事件に何ら対応せず,同様の事件の再発が予想されたからであった.中村晴子さんは新薬開発という名のもとにおこなった治験を人権侵害と訴えたが,別の反応を示す社員もいた.新しいクスリを社員が試すことは,当時の製薬会社では慣例となっていたし,治験を強制されなくても会社との信頼関係で内服するのは当然と述べる社員がいた.またお菓子屋が新しいお菓子を試作する際に,店員が試食するのと同じ感覚で参加したと述べる社員がいた.

 この事件に先立ち,東北大学内科・中村隆教授が中心となって設立された「ウイルス病化学療法研究班」が入院患者61例におこなった臨床実験では特別な副作用は出現していなかった.同じキセナラミンによってなぜ73%の社員に副作用が出たのか解明されていない.投与量が倍量だったことが関係しているのか,もちろん解明する猶予もなくキセナラミンの開発は中止となった.

 この事件は興和社員の中村晴子さんによって内部告発され明るみになったが,営利企業である製薬会社にとって,当時は社員に対する人権の意識は薄かった.社員にしてみれば自社の治験を断ることは愛社精神を疑われるだろうし,また副作用や事故が起きたとしても,自社を訴えることは会社を敵に回す勇気が必要であった.

 法務局はこの事件に対し,臨床試験前の検討が不十分であったこと,被験者が強制的であったこと,医師による管理が不十分であったことを問題と指摘した.昭和405月には,被害者の入院費などの治療費を会社が全額支払うことなどを明記した念書が会社と被害者社員の間でかわされた.

 このように会社と被害者社員との治療費について問題は解決したが,この事件の責任の所在が重要な課題となった.つまり薬事法によると厚生省が薬剤に対して責任を持つのはクスリとして承認され発売されたあとの薬剤につてであった.承認以前の開発中の薬剤については厚生省に報告する義務もなかったことから,法律上厚生省に責任はないと解釈されていた.また厚生省はこの事件を会社から報告は受けておらず新聞で初めて知ったことであった.クスリとして発売されれば,使用した医師の責任も加わるが,開発段階の薬剤についてはその責任は明確にされていなかった.新薬開発における薬事行政の盲点であった.また製薬会社の利潤追求と人間軽視の思想が根底にあったといえる。

 新薬を開発するためには必然的に何らかの人体実験が不可避となる.動物実験にていかに安全性が確保されたとしても,人間と動物とは薬剤効果が異なる場合が多い.人体実験が新薬開発に不可避であるならば,なおさら新薬の開発には人権を尊重する方法に徹することが必須条件といえる.もし被験者側の人権が軽視されれば,今回のキセナラミンのように新薬開発のために人間がモルモットとなってしまうのである.危険性をともなう被験者の人権を最も尊重しなければいけないことである.会社の安全なクスリであるとの説明を信じキセナラミンを内服した社員に対し,社員を裏切った興和の道義的責任が強く問われる事件であった.興和の人体実験はこの事件によって表沙汰になったが,社員を対象にした新薬の開発の実験は,他の製薬企業でも日常的におこなわれていた.この事件後,厚生省は通達を出し表立っての人体実験は出来なくなった.しかし逆に,承諾書をとって堂々と行われるようになった.

 このキセナラミン事件は被害者が多かったこと,また企業側が威圧的に事件を隠蔽しようとしたことから,薬剤師である中村晴子さんの内部告発により表面化したのである.なお中村晴子さんは退社後,薬事関係専門の弁護士になった.

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シュバイツァーの死(昭和40年)

 昭和4094日,神学者,思想家,音楽家,医師として有名なアルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)がアフリカのガボンで死去し90年の人生を閉じた.

 現在の医学生のなかでシュバイツァーの名前を知る者は少ないだろうが,シュバイツァーはかつての小学生の教科書に「原始林の聖者」,「アフリカの光明」として紹介されており,当時の医学生,医師たちのなかにはシュバイツァーに強いあこがれを抱いていた者が多くいた.また白いひげのシュバイツァーの写真を机上に置き勉学に励んだ者も多くいた.生涯をかけて熱帯アフリカの原住民のために医療活動を行ったシュバイツァーは「医療の本質は人間愛にもとづく奉仕であり,また医療は自己犠牲であって,患者を身分や性別によって差別してはいけない」という言葉を残し,この医師としての理念を私たちに教えてくれた.

 シュバイツァーはルター派の牧師の子として,当時ドイツの支配下にあったアルザス地方(フランス)に生まれた.恵まれた少年時代を過ごし,5才からピアノを習い,8才からオルガンを弾きはじめ,9歳の時にオルガニストとしてデビューするほどであった.このようにシュバイツァーは多才であり,オルガニストとしてまず国際的に優れた演奏家として有名になった.

 シュバイツァーが8歳の時,彼の人生を方向づける次のような逸話が残されている.それはある日曜日のことである.シュバイツァーと友人が小鳥をうちにブドウ畑へ行ったときの話である.友人がパチンコで鳥を打ち落とそうとした時,小鳥がさえずる中で突然教会の鐘が鳴り響いた.その鐘の音がシュバイツァーの心を動かし,勇気に目覚めたシュバイツァーは声を張り上げ小鳥を追い払った.この少年時代の話はかつての小学校の教科書に載っていた.

シュバイツァーは10歳から18歳まで親戚のもとに身を寄せ,親戚から厳しい道徳教育を受けた.そしてシュトラスブルグ大学に進学し,神学,哲学を学び,カント哲学の研究で学位をとった.また聖ニコライ教会の副牧師となり日曜ごとに説教をし,また神学と哲学を大学で学び27歳でシュトラスブルグ大学の講師となった.シュバイツァーは神学部の教授候補になるほど優秀であった.また愛と同情を信条とするトルストイにひかれ,さらにイエスの生涯にも強い影響を受けた.

シュバイツァーはイエスの言葉,救世主としてのイエスの研究に没頭し,「イエス,その歴史的考察(1905)」を書き高い評価を受けている.また哲学者,宗教家として「メシアと受難の秘密(1901)」,「ライマールスよりウレーデまで,イエス伝研究史(1906)」,「パウロ研究史(1911)」などを刊行し世界的に神学者としての業績が認められている.

さらに音楽に対する造詣も深く,著書「J. S.バッハ」(1905)はバッハの古典的研究本となっている.またパリにバッハ協会を創立した.このようにシュバイツァーは哲学者,神学者,オルガン演奏家として有名になるが,それらの肩書きをすべて捨て,190510月,医学を学ぶことを決意する.

シュバイツァーの周囲はこの決意に驚くが,30歳までは学問と芸術を身につけ,それからの人生は人類に直接奉仕できる仕事に自分を捧げようと決心していた.この決意は,「私に従いなさい」とのイエスの霊的衝撃を感じたからで,信仰からくる真摯な思いであり,具体的には自分の人生を赤道アフリカの無医村地区に捧げることであった.

シュバイツァーは30歳で医学部に入学するが,医学部で若者に混じりながら生物学,物理学,化学などの教養課程,さらには解剖学,生理学,生化学,病理学などの基礎医学を学び,また学費とアフリカへの医療活動の費用を集めるためにオルガン演奏会を開き,睡眠時間は2時間ぐらいの日々を送った.そして多忙な彼を助けたのが後に妻となるヘレーヌ・ブレスラウであった.彼女はシュバイツァーがアフリカで医療を行うために医学部に入ったことを打ち明けられたとき,彼女も看護学校に入って勉強を始めたのであった.

 シュバイツァーが医師の資格を得たのは36歳のときであった.シュバイツァーは看護婦になったブレスラウと結婚し,19133月,ふたりは赤道アフリカのフランス領コンゴ(現ガボン共和国)のランバレネにむかった.医薬品,医療器具,手術用具,運営資金として約1000万円の費用がかかったが,資産家でもない彼が集めた資金は,オルガンの演奏資金,著書の印税によるものだった.このようにシュバイツァーの偉大さのひとつは,アフリカでの医療活動の大部分に私財を投げ打ったことである.

 ランバレネではカトリック教会の敷地にある鶏小屋を改造して診療所をつくり医療活動を開始した.シュバイツァーはアフリカの地で医師として治療にあたるだけでなく,伝道師としてキリスト教の普及にも尽くした.活動を初めて1年後,第一次世界大戦が始まりフランス領土ガボンで働いていたドイツ人のシュバイツァーはフランス軍の捕虜となり診療所も閉鎖となった.捕虜となったシュバイツァーはフランスのボルドーで1年間の収容所生活を送ることになる.彼には2万フランを超える借金が残され,また収容所でアメーバ赤痢に罹患し,アメーバ性肝膿瘍となり2度の手術を受けるという苦難の時期であった.

 この窮地を救ったのがオルガニストとしてのシュバイツァーの腕前だった.ヨーロッパで演奏ツアーを行った.演奏会会場は常に人があふれ,この演奏ツアーによって資金を得たシュバイツァーは再び赤道アフリカの地に向かうことになる.

 1923年,シュバイツァーはランバレネに戻ると病院を再建し,原住民の医療のために献身的に働くことになる.シュバイツァーはアフリカの医療活動を行いながら,いかなる境遇の人たちにも,人間らしさを培わせる哲学を求めていた.そして「生命への畏敬」という理念をみいだしたのである.それは人間だけでなく生けるものすべてに対する限りない感動と畏敬を意味するものであった.この「生命への畏敬」はシュバイツァーが見いだした哲学であり,国境を越え,全世界の人々の心に将来に対する大きな希望の光を示した.

 1953年,シュバイツァーはノーベル平和賞を受賞した.シュバイツァーの偉大さは,人間としての生きる思想,哲学を具体的な生活を通して私たちに示したことである。また人類の脅威となる核兵器の実験禁止を訴え続けた.世界の平和,人類愛は私たちにとって最大の課題であるが,彼が示した生命への畏敬の哲学こそが,それを成しえる最も大きな精神といえる.

 1965年9月4日,シュバイツァーはランバレネで死去,ランバレネの地に埋葬された.シュバイツァーの50年にわたるアフリカでの奉仕の精神と生命への畏敬の哲学は,ランバレネの病院とともに今も生き続けている.「生命への畏敬」という言葉は、人類を正しい方向へと導く灯火として灯り続けている.

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夢の島と東京ゴミ戦争((昭和40年)

 昭和406月,東京の江東区南砂町一帯にハエの大群が押しよせ大騒動となった。南砂町の商店街にはハエが群がり,ハエは民家の天井を黒く覆い,振り払っても顔にたかられ,夜も眠れない状態になった.この突然あらわれたハエの大群は海を隔てた「夢の島」から飛んできたのだった。

 夢の島とは東京湾沖合に作られた東京のゴミ捨て場の名称である.当時は,東京都のゴミのほとんどがこの夢の島に持ち込まれていた.ハエにとって餌は無尽蔵にあり,天敵がいないのだから増えないはずはない.このハエ騒動が起きるまでは,ハエの活動半径は発生地から40m以内というのが定説であった.しかしこの定説をあざ笑うかのようにハエは海を越えて飛んできたのだった。住民たちは夢の島を「悪魔の島」と呼ぶようになった.

 その当時は,魚屋の店先や食堂などにハエとり紙がヒラヒラとぶら下がっていた.ハエとり紙は黄色い粘着テープで,普通の家庭にも見ることが出来た.江東区の家々はこのハエとり紙が1時間ぐらいでハエでいっぱいになり,小学校の給食の時間にはPTAがハエとりに駆り出されるようになった.このハエ騒動に対し伝染病の発生も心配され,東京都清掃局,衛生局,江東区は共同でハエ撲滅対策本部を設け,本格的なハエの駆除に乗り出すことになった.佐藤栄作首相は「全力をあげてハエを撲滅するように」と厚生大臣に指示をだすほどであった.

 昭和40716日,タンクローリー5台分の重油が「夢の島」のゴミの山にかけられ,ハエの焼き払い作戦がおこなわれた.また大量の有機リン系殺虫剤を何度も繰り返し散布し,ハエの絶滅を図った。しかし夢の島のハエはしぶとかった.殺虫剤に対して通常の2千倍にも達する驚異的な薬剤抵抗力を獲得し,ハエは不死身となって増え続けた。

 東京都は薬剤抵抗性ハエをなくすため,複数の殺虫剤を1年ごとに変更する作戦をとった.このような方法により薬剤抵抗性のハエの発生をおさえ,ゴミの表面を土で覆うサンドイッチ方式を採用してハエの撲滅作戦は次第に成果を上げていった.

 東京都江東区の夢の島には東京23区の7割,毎日9千トンのゴミが持ち込まれていた。そのためにハエの大量発生だけでなく,江東区の一部では悪臭が漂い,自然発火による火災が発生し,煙と灰が江東区民頭上を流れ生活をおびやかた。これらの被害を受けた江東区民は,他の区から持ち込まれていたゴミを断固拒否する声明をだした.「江東区だけがゴミ公害の吹き溜まりにされるのは御免」と声明を出したのである.江東区は美濃部都知事に「各区はごみの自区内処理,処理と迷惑の公平な負担」この2原則を求め,各区のゴミは各区で処分することを要請した.そしてほとんどの区では江東区の要請を受け区内にゴミ処理場を建設する計画を進めることになった.ところが夢の島から約20 km離れた杉並区だけはゴミ処理場の建設計画を進めずにいた.昭和48年,ここに東京ゴミ戦争がはじまることになる.東京ゴミ戦争という物騒な言葉がマスコミをにぎわした.

 昭和48518日,東京都は杉並区でミ処理場建設の説明会を開いたが,建設反対派の杉並区民が乱入し説明会を中断させる事件がおきた。これを「杉並の住民エゴ」と怒った江東区議会は全会一致で杉並区からのゴミの受け入れを拒否することを決定した.そしてヘルメット,防災服姿で身を固めた区長、区議、町会役員ら180人が道路に並び,杉並区からのゴミ運搬車の立ち入りを実力で阻止した。このため522日から杉並区ではゴミの回収が中止されることになった.杉並区はゴミを出さないように各家庭に通知したが,杉並区の住民は路上にゴミを捨て,5月の陽気で生ゴミは悪臭をはなった.杉並区は消毒車出動させ,路上のゴミに消毒液をまくことになった.これでは「杉並エゴ」といわれても仕方がなかった.

 江東区と杉並区はゴミ処理をめぐって対立したが,孤立した杉並区は区長がゴミ処理場建設を約束して収集がついた.杉並区ではゴミの回収が再開されたが3日間放置された2000トンのゴミを処理するのに10日以上かかったほどであった.

 この東京ゴミ戦争から9年後の昭和57年,杉並区高井戸に日本最大級のゴミ処理施設が完成した。そして杉並区の可燃ゴミのすべてがこの処理場で処理されるようになった.しかし杉並区内のゴミの量はさらに増え、現在では杉並区から出たゴミの一部は隣接する世田谷区の処理場に持ち込まれている。東京ゴミ戦争を境としてゴミ処理は埋め立て地から焼却所に代わったが,焼却にも限界が生じている.資源の有効利用,リサイクルシステムの確立がこれからの課題とされている.

 現在の夢の島は広大な公園として整備されている.あの当時の面影はまったく感じられない.「夢の島」という名前はゴミ捨て場の悪いイメージを隠すために意図的に命名されたと思っている人が多い.だが夢の島の名称は,戦前からの地名で,都民のゴミを埋め立て,将来はハワイに匹敵する保養地にすることが計画されていたのである.現在,夢の島はそのイメージに近い公園になっている.

 ところで東京都心部の山といえば港区の愛宕山(26m),上野のお山(23m)がよく知られる.しかし都心部で最も高い山は東京湾内の夢の島で,埋め立て地は文字通り「チリが積もった標高30mの山」となっている.

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2010.02.19 18:13 |  その他(医療関連)  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

新潟水俣病

新潟水俣病(第二水俣病)(昭和40年)

 栃木県,福島県を源水とし日本海に流れる阿賀野川は新潟の重要な交易路として栄えていた.その豊かな水量は新潟平野の灌漑用水として重要な役割を果たし,また阿賀野川流域に住む人々は半農半漁民が多く,サケ、マス、ヤツメなどの川魚が住民の食卓にのり,川魚は住民たちの重要なタンパク源となっていた.この日本有数の阿賀野川の阿賀野は,アイヌ語で「清い川」を意味していた.この「清い川」がメチル水銀に汚染されて発症したのが新潟水俣病である.

 熊本県・水俣市の水俣病が「チッソ水俣工場のアセトアルデヒドの生産過程における排出されたメチル水銀による中毒が原因」と判明してから6年後のことである.昭和39年から40年にかけて,新潟県・阿賀野川流域の住民の間で,手足がしびれ,口がきけなくなるなど水俣病に似た患者が発生していることが明らかになった.

 昭和391112日,原因不明の神経症状を示す31歳の男性漁民が新潟大学医学部付属病院に入院,新潟市下山地区に住むこの患者が新潟水俣病発見のきっかけとなった.この最初の患者が入院して以降,同じ症状を示す患者が連続して新潟大学病院に入院してきたのである.その症状は視野狭窄,歩行障害,言語障害などの中枢神経症状であった.昭和401月,ちょうど東京大学脳研究所から新潟大学医学部神経内科の教授として赴任した椿忠雄教授は,これらの患者を診察してすぐに水俣病を疑った.全身のしびれ,視野狭窄,言語障害,歩行障害,どの症状も水俣病に酷似していたのである.水俣病の原因であるメチル水銀(有機水銀)は無機水銀とは異なり消化管から100%吸収され,脳内に移行して神経症状を引き起こすことがすでに分かっていた.患者はいずれも阿賀野川流域に住み,川魚を多く食べていた.椿忠雄教授は水俣病を疑い患者の毛髪に含まれる水銀を測定すると,通常の50倍にあたる390 ppmもの高濃度の有機水銀が検出されたのである.

 昭和40531日,新潟大学医学部脳神経外科・植木幸明教授,神経内科・椿忠雄教授は「阿賀野川流域に水俣病に似た有機水銀による中毒患者が発生している」と新潟県衛生部に報告,さらに612日に記者会見をおこない「この疾患は阿賀野川の川魚を多く摂取したことが原因と推定される」と正式に発表した.脳神経を冒され,視力障害,聴力障害,全身のしびれなどを訴える患者はそれまでに7人入院し,2人がすでに死亡していることを公表した.

 有機水銀中毒の原因については,住民の多くは容易に想像することができた.阿賀野川の上流60キロの福島県との県境に近い鹿瀬町に昭和電工鹿瀬工場があり,チッソ水俣工場と同じアセトアルデヒドを生産していたからである.当時,日本のアセトアルデヒドの生産量はチッソが第1位,昭和電工が第2位であった.昭和11年から昭和電工はアセトアルデヒドを生産しており,有機水銀を含んだ排液が阿賀野川を汚染させたと考えても不思議ではなかった.昭和電工鹿瀬工場は山奥にあったが従業員約2000人の日本有数の化学工場であった.

 熊本県の水俣病と同じように,昭和398月ころから阿賀野川流域の犬やネコが狂死したり,大量の川魚が浮き上がることが観察されていた.しかし昭和電工鹿瀬工場は,熊本のチッソ水俣工場以上に強固な反論を繰り返し自社犯人説を否定した.昭和電工鹿瀬工場は熊本の水俣病が問題になったあとも何ら対策をとらずいながら,それでいて工場排水中の有機水銀中毒が原因であることを頑として認めなかった.

 昭和電工鹿瀬工場はアセトアルデヒドの製造過程で水銀が使用しており排水を阿賀野川に放出していた.阿賀野川の魚介類から有機水銀が検出されたが,昭和電工鹿瀬工場は自分たちの非を認めず,昭和39616日に起きた新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したことが原因と主張した.新潟地震は死者25人,家屋全壊994に達する大地震であったが,有機水銀を流出させた農薬工場はどこにも存在しなかった.また新潟水俣病患者が工場周辺ではなく,阿賀野川下流地域に多いことも否定の根拠となった.

 調査が進むにつれ,患者が発生した地区では食べた川魚の量と毛髪中のメチル水銀の量が明らかに相関することがわかった.さらに婦人の長い髪に含まれる有機水銀の量を分析した結果,新潟地震以前の毛髪部分からも正常値を超える水銀が検出された.これらにより川魚の汚染は昭和電工鹿瀬工場の排液中に含まれたメチル水銀が原因と決定された.患者が阿賀野川下流多いのは,阿賀野川に生息する生物の食物連鎖で水銀が濃縮され,下流の魚介類の水銀濃度が高くなっていたからである.

 先に発生した熊本県の水俣病は,水俣市がチッソの企業城下町であったこと,病気の原因が不明のまま患者や漁民が周囲から孤立したことが原因究明の遅れをとった.しかし新潟水俣病は水俣の前例があったため,また公害という環境汚染に対する住民の認識が高まっていたため,さらに周辺住民だけでなく,新潟県知事,民間団体,行政,政府が一体となって解決に努力したため原因究明ははやかった.さらに熊本大学水俣研究班やチッソを退職した水俣工場付属病院の細川元院長らが新潟水俣病の原因究明のために協力を惜しまなかった.

 ここで重要なことは,同じ水俣病である新潟と熊本の患者認定に大きな差がみられたことである.熊本県の水俣病は重症の典型例だけを水俣病と認定したが,新潟水俣病はしびれや運動障害などの軽症患者も水俣病として認定したのだった.それは新潟大学が熊本水俣病の前例をふまえ,県衛生部と綿密におこなった住民調査の功績が大きかった.新潟では病気の原因が有機水銀と分かると,すぐに汚染地区の29000人全員にアンケート調査を実施し,アンケートで疑わしい患者をピックアップして髪毛の水銀を調べる方法を取った.そのため軽症の患者を含めた全患者をリストアップすることができた.また熊本水俣病での胎児水俣病の悲劇を繰り返さないように,頭髪水銀濃度の高い婦人には受胎調節の指導が行われた.新潟水俣病の患者は阿賀野川流域の住民がほとんどで認定患者は690人,非認定であるが医療救済対象患者は834人となった.死亡患者は50人以上とされている.

 このように被害者対策は迅速に行われたが,住民にとっては水俣病と認定されることは周囲との偏見との戦いでもあった.認定されるためには大学病院で検査を受けて申請しなければならない.補償金欲しさのニセ水俣病という周囲の偏見があった.また水俣病と認定されても,就職ができず,会社はクビになり,結婚ができないという噂が流れ,症状があっても申請しない患者が多くいた.そして患者は自暴自棄となり家庭の平和が損なわれ,阿賀野川の漁は売れずに漁民は深刻な打撃を受けた. 

 昭和413月,厚生省特別研究班は,「昭和電工鹿瀬工場の排水口から採取した水ゴケからメチル水銀を検出した」と発表し,新潟水俣病の原因を昭和電工鹿瀬工場の排水によるものとした.そして昭和439月に,政府は新潟水俣病を公害病と公式に認定した.このように政府が公害と認定にもかかわらず,昭和電工はその関係を否定したまま裁判で争われることになった.

 昭和42612日,新潟水俣病患者13人は昭和電工に対し慰謝料4450万円を請求して新潟地裁に提訴し,さらに患者77人が慰謝料5億2267万円の損害賠償を求める訴えを起こした(第1次訴訟).この第1次新潟水俣病訴訟は,昭和48320日に患者側の全面勝訴となり,新潟地裁は昭和電工に2億7779万円の支払いを命じた.昭和電工は責任を追求する世論が沸騰したため控訴を断念した。この裁判は我が国の4大公害裁判(熊本水俣病,四日市ぜんそく,富山のイタイイタイ病)の中での最初の判決であり,それ以降の公害裁判に大きな影響を与えることになった.公害裁判の特徴は企業が加害者であり,住民が被害者であり,高度経済成長の中で環境よりも生産性を優先させた企業の姿勢が裁判での争点となった.

 法律では水俣病と認められない,水俣病未認定患者 140人は,新潟水俣病における国の行政責任を求め新潟地裁に提訴することになった(第2次水俣病訴訟第2〜8陣).この裁判は長期化し,平成7年,村山連立内閣は水俣病患者の救済を遅れたことについての政治責任を認め患者と和解をめざすことになった.そして平成8年,東京高裁(第2次第1陣)と新潟地裁(第2次第2から8陣)は村山首相の謝罪談話を受け,患者と国との和解協議が進めることになった.国は患者を広く認定救済し1人当たり 260万円の一時金と団体加算金4億4000万円を支払うことになった.この結果を受け患者は訴訟を取り下げ和解に応じることになった.この政治決着まで13年半の月日を要し,この間原告43人が亡くなっている.

 国は和解に応じたが,一時金や団体加算金を国は一切払わず,昭和電工が全額支払うことになった.国が政治責任を認めたにもかかわらず,昭和電工が損害賠償の肩代わり応じることになったのは,国が昭和電工に公害防止の設備投資などの名目で,租税優遇措置や低利融資などの実質的資金援助を行い,昭和電工には実質的な損害を生じさせなかったからである.

 新潟水俣病は和解により決着したが,新潟水俣病は経済の高度成長のなかで熊本水俣病の教訓を生かさなかった企業の利益追求の姿勢が生んだ悲劇といえる。阿賀野川の魚類の有機水銀濃度はしだいに自然界レベルに低下し,阿賀野川流域の魚介類の食用抑制は昭和53年に解除されることになった.

 

 

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2010.02.19 18:10 |  医療事故  |  生活 / くらし  |  昭和 40年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

赤ちゃん取り違え事件

赤ちゃん取り違え事件(昭和40年)

 自分のおなかを痛めて出産した子供が,手塩にかけて育ててきた自分の子供が,実は他人の子供だったとしたら,母親のショックは言葉では表現できないものであろう.このような信じがたい事件が昭和40年ごろ日本各地で多発した.

 滋賀県大津市に住む大学助教授Yさん夫婦には,4月から幼稚園に通う予定の4歳の長男がいた.Yさん夫婦は交通事故の痛ましいニュースを頻回に耳にすることから,入園を機会に子供の血液型を調べて名札に書いておこうとした.そのため長男を近くの病院につれてゆき,血液型を調べてもらった.そして血液検査の結果,驚くべき事実を知ることになる.

 Yさん夫婦の血液型はともにB型であった.しかし長男の血液型はなぜかA型だった.B型の両親からA型の子供は絶対に生まれるはずがなかった.Yさん夫婦はこの結果に驚き,そして頭を抱え込んでしまった.妻の不貞は考えられず,残された可能性は,長男が生まれた大津日赤病院で取り違えられたことだけであった.連絡を受けた大津日赤病院では,当時の入院患者をひそかに調査することになった.そして同じ大津市に住む土建業Aさんの子供とYさん夫婦の子供が取り違えられていたことが明らかになった.

 生まれたばかりの赤ちゃんは,赤ちゃんの足の裏にマジックインクで名前を書き識別していた.しかしインクが蒸発して赤ちゃんが中毒症状を起こす事件があったためその方法は中止されていた.次に木札を胸にぶら下げる方法が採用されたが,赤ちゃんの怪我が心配された.そのため当時の大津日赤病院では,何の識別票もつけず,赤ちゃんを取り扱っていたのである.出産した直後に赤ちゃんを母親のそばに同室させる方法を取っていたので,赤ちゃんの取り違えは誰も予想しないことであった.

 YさんとAさんの「赤ちゃんの取り違え」は,生後3日目の入浴時に起きたとされている.赤ちゃんは11回入浴することになっていたが,生後3日目のYさんとAさんの入浴時間が同じだった.看護婦不足の病院では,看護婦が両腕に2人の赤ん坊をかかえて入浴させることが日常的におこなわれていた.母親にとって五体満足の赤ちゃんを無事に出産した安心感,さらには出産後の疲労も重なり,自分の子供の取り違えに気づかなかったのである.

 「自分の生んだ赤ちゃんを間違えるはずはない」と誰もが思うかもしれない.しかし出産後の赤ちゃんは顔のむくみが次第に取れゆき,毎日のように顔の表情が変化していくのだった.たとえ多少顔つきが違っていても,まさか自分の赤ちゃんが取り違えられたとは誰も想像しないことであった.

 間違えられた子供は,すでに物心のついた幼稚園生である.子供を交換するといっても単純なことではない.オッパイを含ませ,おしめを取り替え,鼻が詰まったときには口で吸って,生まれたときから自分の子供として育ててきた子供である.4年間も実子として育ててきた子供を,他人の子供だったからといって,「ああそうですか」とすっきりと簡単に割り切れるはずはなかった.

間違って育てられた子供も大変であった.昨日までAちゃんと呼ばれていたのが,違う両親からBちゃんと呼ばれるのである.混乱しないはずはない.昨日までお兄ちゃんと呼んでいた弟は,昨日までのお兄ちゃんは違うお兄ちゃんで,明日からは別のお兄ちゃんをお兄ちゃんと呼ばなければいけない,このようなことは子供には理解不可能なことであった.

 YさんとAさんの家族は相談の結果,しばらく一緒に生活をして,徐々に慣れさせてゆく方法をとることになった.市内の旅館で2組の家族が19日間の共同生活をおこない,そして子供の反応をみながら実子を引き取ることになった.

 母親にとって実の子供,それに育ての子供,どちらの子供であっても,子供は自分の子供である.子供を思う気持ちに変わりはない.知らないで過ごしていれば幸せだったのに,「血液型なんかなければ良かったのに」と科学の進歩を恨んだりもした.だが知ったからには仕方がない,泣く泣く交換に踏み切ったのである.両夫婦の苦悩,子供の戸惑い,これらは他人が想像する以上に大きなものであった.子供を交換しても,それまでの子供を忘れることはできなかった.子供は本当の両親を「お父さん,お母さん」と呼べず,夜になると育てられた家に帰りたいと泣いて両親を困らせた.

 このような「赤ちゃんの取り違え事件」は,昭和40年ごろから全国で多発した.広島県福山市,山形県米沢市,静岡県吉原市,三重県四日市市,三重県員弁郡の病院などで同様の事件が起きている.昭和48年の熊本の学会で東北大学医学部の赤石英教授は赤ちゃんの取り違いは全国で64人いることを報告,いずれのケースも実子を引き取っていたことが分かった.

 この赤ちゃん取り違え事件は,当時のベビーブームという社会背景に加え,看護婦の多忙が関係していた.産婦人科の看護婦は,次々に生まれる赤ちゃんに追われ,それこそ戦場のような忙しさだった.この「赤ちゃん取り違え事件」は深刻化している看護婦不足が生んだ悲劇であった.それまでの医療法では新生児は患者数に入れず,新生児の数とは関係なしに看護婦の定数が決められていた.しかしこのような事件が多発したことから,昭和43年から新生児4人に対して看護婦1人を置くことが法律で決められた.赤ちゃん取り違え事件は看護婦の過誤ではあるが,行政の責任はそれ以上に重いと考えられる.

 この事件以降,親子の識別のため母親の腕と赤ちゃんの足には同じプラスチックのバンドがつけられるようになった.プラスチックのバンドは出生時に付けられ,入院中はいかなる理由があっても外すことはできず,帰宅した後に外すようになった.それ以降.赤ちゃん取り違え事件は起きていない.

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