ワンモアタイム、いつまでも
九
それは薄暗い病室だった。窓のカーテンは隙間なく閉められ、夕暮れの残光がカーテンを赤黒く染めていた。葉子は点滴を受けたままベッドに横たわり、点滴を受けている白く細い腕を、掛け布団の上からのぞかせていた。
真一郎はポケットから精神安定剤のアンプルを取り出し、注射器で溶液を吸い上げると、葉子の顔を見た。すると寝ていたはずの葉子は、ぼんやりと眼を薄く 開け、真一郎の動作を静かに見ていた。真一郎が眼で合図を送ると、葉子は次ぎに起きる事態を受け止めているように、小さくうなずいて眼を閉じた。ベッドの 側にぶら下がっている点滴のチューブをさぐり、側管から精神安定剤を注入すると、もう一度、葉子の顔を見た。穏やかな美しい寝顔のままだった。次に速効型 インスリンの瓶を取り出して、注射器で吸い上げた。
真一郎は葉子の顔をしばらくのあいだ見つめていた。葉子の人生はこのインスリンの注射で終わりをむかえるはずである。しかし、葉子の生命、葉子の肉体、 それらを奪う気持ちはなかった。むしろ安息の世界へ送ってあげたい、そのような安堵に近い気持ちだった。これでいい、もうこれ以上苦しめるのはやめにしよ う。手に持ったインスリンを一気に注入した。もう後には戻れない、もう葉子は帰ってこない。でも、これでよかった。これで葉子は苦しみから解放される。葉 子の手を握りしめた。この暖かい手が冷たくなるまで・・・・・・、自分に出来ることはこれしかなかった。許して欲しい。
その時、背後から刺すような妖気を感じ、振り向くと亜紀が立っていた。亜紀の顔は能面のように無表情のまま母親を見ていた。何かを言い出すのか、と亜紀 の顔をじっと見た。すると亜紀の顔が、写真を斜めに切ったようにふたつにわかれ、いっぽうの顔が崩れ、数秒後、もういっぽうの顔が崩れた。・・・・・・ど うしたんだ。何が起きたのだ。真一郎は振り向いて葉子の顔を見ようとしたが、ベッドの布団はめくれたまま、横たわっているはずの葉子がいなかった。外から の突風がカーテンを舞い上げ、赤黒い夕日が渦を巻きベッドを照らしていた。・・・・・・夢だった。恐ろしい夢だった。真一郎は、病院の部屋で足を机に投げ たまま、いつのまにか寝ていたのだった。首のまわりには汗がべっとりとついていた。
いやな予感がした。全力を尽くしても、尽くしきれないかもしれない。苦しみを与えるだけかもしれない。葉子が苦痛に耐えられなくなったら、インスリンを 手にした自分がベッドの側に立つシーンがやってくるかもしれない。安楽死という禁じられた言葉が頭をよぎった。そしてその言葉が脳裏にあったからこのよう な夢を見たのだろう。それは安楽死という事態を予感させる嫌な夢だった。たとえ夢であっても心が暗くなった。
人間としての葉子の尊厳を守るためには、安楽死という行為を否定することはできなかった。医師としての倫理観、社会通念としての法律、たとえ自分の行為 がそれらに反したとしても、葉子を苦難から救うためには許されるべき行為、と考え込んでしまった。安楽死という最悪の事態を予想し、その対応に暗くなっ た。
コーヒーを飲み、来週には葉子が入院するのかと思っていた。その時、ポケットベルが鳴り、電話交換士が「横浜労災病院の石井先生からの外線です」と伝えてきた。あの女医さんからだ、からだを固くして受話器を耳に当てた。
「先生、先日はいろいろとありがとうございました。新幹線の勝俣健介さんですが、順調にいきまして、明日退院になる予定です。勝俣さんのご自宅から遠いので、以前通っていた病院に紹介状を書くつもりですが・・・・・・」
あの女医さんの明るい声だった。よかった。さきほどの夢が、勝俣健介の悪い知らせを予感させていたので、ダメかと思い受話器を握っていたのだった。
「本当ですか、それはよかった。それで病名は心筋梗塞ですか?」
「はいそうです。心臓の下の部分、下壁梗塞でした。心臓カテーテルで冠動脈にステントを入れ、もちろん意識も正常になりまして、もう普通の生活ができる状 態です。・・・・・・ところで、後藤先生のことは内緒にしているのですが、勝俣さんが先生のことを命の恩人だ、と何度も訊いてくるので、先生さえよろしけ れば、先生のお名前を教えたいと思っているのですが、どうしましょうか?」
真一郎は勝俣健介の無事を知り、明るく心が躍っていた。
「いや、勘弁してください。わたしは男性が嫌いですから、とくに中年の男性は・・・・・・」
「また先生、冗談でしょう? 本物の奥さんはきれいな方ですよ」
「わたしは学問一筋、男性も女性も嫌いなんです。・・・・・・面倒なことは嫌いですから、わたしのことは言わないでください」
「では先生のおっしゃるとおりにします。でも本当によろしいのですか?」
「はい、そのようにお願いします。・・・・・・ところで、石井先生はお若いから、将来がありますから、頑張ってください。こんどお会いすることがありましたら、食事ぐらいおごらせて下さい」
「ありがとうございます。わたしも勉強して、先生の意地悪な質問に答えられるように、頑張ります。これからも宜しくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ萎縮した脳ミソにむち打って頑張りますから。・・・・・・では、何かありましたら、また宜しくお願いします」
真一郎は気分よく受話器を置いた。・・・・・・あの勝俣健介が回復した。そして自分を命の恩人だと思っている。うれしかった。ただうれしかっ た。・・・・・・生まれてから死ぬまでが人生であるが、人生はただそれだけであるが、うれしかった。勝俣健介の人生は終わりとならず、また新たな人生が始 まるのだ。あの勝俣健介が、・・・・・・彼とは話しはできなかったが、物体にすぎなかった勝俣健介が、無事に生還したのだった。
勝俣健介、彼はどのような人物なのだろうか。グリーン車に乗っていたのだから経済的には裕福なのだろう。別れた女房と旅行に行き、ふたりの女性の前で生 死をさまよい、そしてこれからも、多分、同じような生活を送るのであろう。真一郎は勝俣健介の心情を知りたかった。しかし面会を断った以上、もう彼と会う ことはない。でもうれしかった。あの勝俣が救われ、社会復帰ができたと思うと、大声で叫びたいほどうれしかった。勝俣健介の生還、そしてあの女医さんの弾 むような明るい声。心が晴れ渡り、からだ全体が軽やかになった。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (0)
トラックバック
この記事のトラックバック URL
http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100216/9/trackback
コメント
コメントはまだありません。
コメントを書く