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< ワンモアタイム、いつまでも 17 | メイン | どうする医療と介護(序文) >
ワンモアタイム、いつまでも




一八

 金曜日の夕方、真一郎は村田部長の部屋を訪ねた。村田部長は葉子の頭部MRI写真をまだ見ていないはずである。葉子の脳転移のことは言わないでいた。村田部長は、眉間にシワを寄せ、表情を変えずに、真一郎の話をじっと聞いていた。
「犬の大腸癌か・・・・・・。まず診察して、手術だろうが、相手がワン公か。困ったな、どうしようか。うちの病院で手術をして、それがばれたら、問題にな るだろうな。たとえ手術で助かっても、美談よりは非難だろな・・・・・・。そうだ、いい考えがある。後藤先生の家は世田谷だったよね。橋爪先輩に頼んでみ るか」
 部長は棚から同窓会名簿を取り出した。ページをめくりながら、橋爪先輩について説明してくれた。
「橋爪先輩が、世田谷の用賀で外科を開業しているんだ。今は七十歳を過ぎたくらいかなぁ、高齢だから医院は閉院状態だが、設備は揃っているはずだ。先輩なら大丈夫だ。むかし腎臓移植の実験で犬の手術をしていたから、犬には慣れているはずだ。でも先輩、まだ生きているかな」
 外科部長が電話をかけると、どうやら電話がつながったらしい。側で訊く電話の内容は懐かしさにあふれていた。そして本題に入ると、驚きと笑い声の交った会話になった。外科部長は笑顔を見せ電話を切った。
「よし、大丈夫だ。やるぞ、後藤先生。・・・・・・自宅に連絡をして、三時間後に用賀の橋爪外科医院に来るようにしてくれ。わたしは若い連中、そうだ岡林がいいな、あいつを連れて行くから。いいかい」
「どうするんです?」
「どうするって、手術に決まっているだろう」
「えっ、手術ですか?」
「驚いている場合じゃないだろう。一週間も便をしてないのだから、腸が腐っているかもしれない。腸が腐っていたら手遅れだ、緊急手術だ。集合時間は八時、 場所は用賀の橋爪外科医院。八時に待っているから、それまでに犬を連れてきてくれ! わたしはこれから患者を診て、手術道具を持って、八時に橋爪先生のと ころで待っているから、現地集合だ、それでいいね」
 真一郎はあっけにとられてしまった。お辞儀をして部長室を出ると、いそいで自室に走った。机の電話を取ると、すぐに自宅のダイヤルボタンを押した。のんびりと電話にでた永子を叱るように、外科部長とのやりとりを説明した。
「すぐ帰るから、準備を頼む。あと越川さんに電話をして、七時二十分にタクシーが来るように頼んでくれ」
 急な話に永子は驚いていたが、冷静に話を聞いていた。電話を切ると、いそいで着替え、駅まで走って行った。電車を乗り継いで、家に着いたのは六時半だった。玄関のドアを開けると、すぐに永子が飛んできた。
「手術って、大丈夫かしら?」
「大丈夫だ。安心しろ。うちの外科部長は、ゴッドハンドと言われているんだ。手術の腕はすごくいいんだ、それよりも早く準備だ」
 それを聞くと、永子は奥に引っ込んで準備を急いだ。
「馬鹿、いまさらお前が化粧をしてどうする。コーちゃんの準備だ!」
「コーちゃんの準備といっても、どうすればいいの?」
「大きめの段ボールに毛布を敷いて、あとおむつ、それに水を入れる金属のボール。あと三十分だぞ! そうだフロに入れなければ、手術となったら清潔が一番だ!」
「おフロが沸くのに二十分はかかるわ」
「シャワーにしよう」
 真一郎は廊下に服を脱ぎすて、パンツひとつになると、コーちゃんを抱いて風呂場に向かった。全身にシャワーでお湯をかけ、シャンプーでコーちゃんの身体 をゴシゴシと洗った。コーちゃんは身体をふらつかせていた。濡れた身体はずいぶんと痩せていた。何度もブルブルと身体を震わせて、お湯を吹き飛ばした。
「大丈夫、すぐに良くなるから、良くなったら、ステーキを食べようね」
 真一郎はコーちゃんに言葉をかけ、タオルで水分を拭き取った。コーちゃんは病気なのに、手術の前なのに、うれしそうにしていた。
 タクシーがやって来た。「用賀の橋爪外科医院まで」と言うと、越川運転手は「承知しました」とすぐに車を走らせた。
 タクシーのなかで、永子は携帯電話を取り出し、娘の真里に事情を説明した。越川運転士は事情を察したらしく、「先生、今日は仕事はやめにしますから、必 要なときはいつでも呼んで下さい。コーちゃん、がんばるんだぞ」と振り向いて言った。右に左に裏道を曲がりながらスピードを上げ、約束の時間の十分前に橋 爪外科医院に着いた。医院の駐車場には村田部長の車が止まっていた。
 橋爪外科医院の看板は傾いており、今にも壊れそうな古い建物だった。木製のドアは、触ると外れそうだった。真一郎は大丈夫かな、と思いながらドアを開け ると、薄暗い玄関の奥から村田部長と岡林医師が出てきた。そして後ろに立っている橋爪先生を紹介してくれた。橋爪先生は人の良さそうな、背の高い老人だっ た。ニコニコしながら前に出ると、コーちゃんの頭をなでてくれた。
「奥さんは、応接室でお茶でも飲んでいてください」
 橋爪先生はそう言って、永子を応接室に案内した。村田部長は応接室でコーちゃんの腹を丹念に触った。
「間違いない大腸癌だ。フィラリアかもしれないが、もし違っていたら腹を開けてから考えればいい。麻酔は筋肉注射でいいだろう。では、始めようか」
 村田部長は、狭い廊下を先頭を切って勝手に手術室に向かった。真一郎はコーちゃんを抱きかかえて手術室に運んだ。手術室は何年も使っていないようで、カ ビ臭く、薄くチリが積もっていた。壁に掛けられた時計は止まっていた。手術台の電気がつき、コーちゃんは手術台の上に仰向けに寝せられた。村田部長は岡林 医師に命じてセルシンを注射させた。五分もしないうちにコーちゃんはベロをだらりと横にたらして寝てしまった。
「岡林、早く点滴を入れろ!」
 部長の命令に岡村医師は困った顔をしていた。
「・・・・・・と言っても先生、どこに点滴を入れるんですか。全身毛だらけですよ」
「馬鹿、前足の内側にあるはずだ。よく探すんだ!」
「あっ、ここにあった。入れます」
 針を刺すと赤い血液が逆流し、上手い具合に点滴が入った。村田部長はワイシャツをまくりあげ、滅菌のゴム手袋をはめた。
「岡林、脱水があるから点滴は全開。それとお前は前足を持って、呼吸状態を見ておけ。呼吸が止まったら何とかしろよ! 後藤先生は、後ろ足を開いたままの状態で持っていて下さい」
 橋爪先生が、コーちゃんの腹全体に消毒液イソジンをかけた。腹の白いうぶ毛が褐色に染まりペタンとなった。
「では、司令官は橋爪先生。手刀医はわたし、全身管理は岡林。よろしいですか、では手術を始めます」
 コーちゃんの腹にメスが入いった。真一郎は、後ろ足を持ちながら思わず顔をそむけてしまった。しばらくして恐る恐る顔をあげると、切開の入った皮膚から腸の一部がはみ出ていた。
「これだ!」
 村田部長の大きな声に、顔を上げて腹の中を覗くと、左の大腸の一部が硬く盛り上がっていた。
「やはり、大腸癌だ! 癌の周りに転移なし。肝臓に転移があったら、どうせ助からないから、大腸のみ部分切除。橋爪先生よろしいですか?」
 村田部長の言葉に橋爪医師はうなずいた。村田部長は大腸を十センチほど切除すると、すぐに縫合にかかった。橋爪医師は取り出した大腸の一部を台の上で縦に切った。
「間違いない大腸癌だ! 癌はうまく取れている。癌が大腸内部を塞ぐように隆起しているから、これじゃ通過障害で便が出ないのも当然だ!」
 村田部長はそれを聞くと、
「場所がよかったですね。癌が上か下かにずれていたら、人工肛門だから。犬の人工肛門なんて聞いたことないから、これなら大丈夫だろう。しかしこの犬の胴は長いね、腸もタマタマも人間以上だよ」
 村田部長の腕はすごかった。冗談を言いながら、ミシンのように正確にキズを縫合していった。手術が終わった。
「無事終了! 岡林、手術時間は?」
「はい、十五分です」
「よし、新記録だ。岡林、抗生剤を一発、頼んだぞ」
 村田部長の自信に満ちた声に、それまでの不安はどこかに消えてしまった。
「後藤先生、大丈夫だよ。あと数時間で眼を醒ますから。いちおう、安全のため抗生剤と下剤を持って帰ればいいよ」
「食事は?」
 その質問に、橋爪先生が答えた。
「犬は人間以上に、自分のからだを本能的に知っているんだ。食べたそうにしたら、食べさせればいい。深刻に考えることはない。犬の生命力は強いから」
 手術を終えたコーちゃんは、毛布の敷かれた段ボールに入れられ、橋爪先生の応接室に運ばれた。応接室のテーブルにはウイスキーが数本用意されていた。橋 爪医師はウイスキーの銘柄を見ながら、誰も興味がないのにウイスキーの講釈を述べた。我慢しながら一通りの講釈に相槌を打ち、やっと流れが本道に戻ってき た。橋爪医師は満足そうにグラスを前にだした。
「じゃ、飲もうか。何年ぶりかな、こんなに気分のいい手術は・・・・・・。出血量はゼロじゃないか、相変わらず村田はいい腕をしているね、見ていてほれぼれする手術だった」
「それは先生の弟子ですから、当たり前ですよ。そして次の時代は、この岡林ですからね。橋爪先生、岡林をよろしく頼みます」
 橋爪医師の奥さんが、愛想良く出前の寿司を運んできた。小太りの奥さんはおっとりとしていたが、いるだけで安心感があった。永子は何かを手伝おうとした が、それを包み込む奥さんの雰囲気に、ぽつんと取り残されていた。一時間ほどすると、娘の真里がドアを開け、硬い表情で入ってきた。
 開腹手術という深刻な事態に、酒の臭いを漂わせ、笑い声を上げている男性たちを見て、真里は事態を理解できず、ドアの前で立ちすくんでいた。永子がコー ちゃんのところに真理を連れて行くと、周囲を振り切るようにコーちゃんに近づき頭をなでた。しばらくすると、橋爪先生が外科医らしい大らかな声で真理に話 しかけた。
「お嬢さん、ワンちゃんは大丈夫だよ。手術は上手くいったから。手術が上手くいったから、これはお祝いのお酒だから、安心して」
 橋爪先生の言葉に付けたすように、村田部長が赤い顔で話しかけた。
「お嬢さん、外科医はね。患者さんが回復するまで帰らないんだ。ちょっと酔っているけど、勘弁してね・・・・・・。やるべきことは、きちんとやったから、・・・・・・ところで、その肩に背負っているのは何?」
「バイオリンです」
「バイオリン? これはいいや。頼むよ、お嬢さん。何か弾いてよ」
 真理はそれまで半分怒ったように男性たちを見ていたが、ヒトの良さそうな言葉に、どうしようかと迷っているようだった。永子が目線を送り、早く弾くようにとうながした。
「わかりました。ではお礼の気持ちを込めて、弾かせてもらいます」
 真里はケースからバイオリンを取り出すと、バッハのシャコンヌを弾いた。無伴奏のシャコンヌは神との対話を感じさせる荘厳な宗教音楽だった。弾き終わると拍手の音が部屋に響いた。橋爪先生は上機嫌だった。
「すごいね、心に響くね。こりゃいいや、ドイツの宮廷貴族になったみたいだ。もう一曲頼むよ」
「では、イザイのバラードを弾かせてもらいます」
 赤い顔の聴衆は、バイオリンを弾く真里の姿に見入っていた。しかし真一郎にとって、この曲は朝から深夜まで、毎日のように強制的に聞かされていた。しか も演奏会のように曲全体を弾くことはまれで、間違いやすい部分、難解な部分を繰り返す練習だった。最初は何気なく聞いていたが、しかし不思議なことに、次 第に曲に引き込まれていった。そしてテンポが速くなり、超技巧的な最後の山場を迎えた。曲の盛り上がりに、すごいと感動していると、弾き終わる直前にコー ちゃんの耳がピクッと動いた。バイオリンが終わり拍手の音が静まると、ダンボールの中からゴソゴソと音がした。真一郎は急いでダンボールに近づき、身体を 動かそうとするコーちゃんを制して、ダンボールを抱いてテーブルまで運んだ。全員がダンボールを覗き込んだ。
「よかったねえ、コーちゃん。助かったね」
 橋爪先生の奥さんがうれしそうに笑みを浮かべた。
「こら、ワン公。よかったな。この橋爪のおじさんが助けたんだ。おじさんの顔をよく覚えておけよ」
 コーちゃんはまだ寝たままなのに、グラスを片手に橋爪医師は上機嫌だった。
「橋爪先生、先生はこれまで何匹も犬を殺してきたのだから、これは罪ほろぼし、ということですな」
 村田部長はそう言って大きな声で笑った。
 橋爪医師の奥さんは「二階の部屋が空いていますから、二階で休んで下さい」と言った。永子と真里はダンボールを持ち、遠慮がちに二階に上がっていった。男性たちはまた酒を飲み交わした。
「ワン公の命を救い、美味しい酒を飲み、素晴らしいバイオリンを聞き、こんなに楽しいことはないな・・・・・・。橋爪先生そうでしょう?」
 村田部長ははしゃぎながら、相槌を求めるように先輩の肩を叩いた。
「そのとおり。だが、この橋爪医院の最後の患者が犬とはなぁ、・・・・・・でもいいか、人間と同じ生あるモノを救ったということか」
「そうですよ、先生。先生が生まれ変わるとしたら、次は犬かもしれませんから、犬を助けることもいいことですよ。・・・・・・そうだ、岡林、お前の家は川崎だったな。じゃ、適当にタクシーで帰れよ」
 真一郎はそれを聞くと、あわてるように言った。
「ちょっと待って下さい。知り合いのタクシーがいますから、すぐに呼びます」
 真一郎は越川さんに電話をかけ来てもらうことにした。
 タクシーが来ると、お礼の言葉を言いながら岡林医師を車まで送って行った。岡林医師は後輩だったが、後輩先輩は別として、いつも大らかで患者に親切な医師だった。
「よかったですね、本当のことを言うと、最初、犬の手術と聞いて驚きました。なんせ、今回の手術が、ちょうど医者になって五百例目の手術なので。でも、いい記念になりました」
「ありがとう。助かったよ、感謝している。・・・・・・話は違うけど、・・・・・・あの古河葉子、覚えている?」
「ええ、覚えていますよ。あの上品な、乳ガンの患者さんですよね」
「先週、彼女の頭のMRI写真を見てしまったんだ。そしたら、腫瘍が二カ所にあるんだ。まいってしまった」
「えっ! 本当ですか。脳転移ですか、・・・・・・それは残念です。可哀想ですね」
「治療は無理だろう?」
「治療法はありますが、効果があるかどうかですね。厳しいでしょうね。正直言って、余命、数ヶ月でしょうね」
「まだ村田部長には話してないけど、来週、外科外来を受診する予定だから、そこでわかるだろうが」
「辛いですね」
「本当に辛いけど、仕方ない。入院になったら教えてくれ、頼んだよ」
「承知しました。先生、気を落とさないで下さい。本当に仕方ないですよね、病気っていうやつは」
「そう言えば、岡林先生。そろそろお子さんが誕生と聞いていましたが」
「ええ、昨日、産まれまして、これから顔を見に行くところです」
「そうですか。それはおめでとう。時間をとらせて、すまなかった」
「いえ、とんでもない。では、これで失礼します」
 真一郎はタクシーに乗る岡林医師を見送ると、応接室には行かず、二階へ上がって行った。永子と真里は段ボールの側にしゃがみこんでいた。真一郎は二階の ガラス戸を開けた。そしてコーちゃんを段ボールに入れたままベランダに運ぶと、夜空を見上げた。木の葉の風に擦れる音が、音楽のように聞こえてきた。
 空にはたくさんの星がきらめいていた。コーちゃんは上目づかいで、星を見ているようだった。真一郎はコーちゃんの頭をなでると、「早く元気になって」と声をかけた。
 夜空を仰ぐのは何年ぶりのことだろう。真一郎は、それまで星空の存在すら忘れていた。夜空はどこまでも澄みきっていて星がきれいだった。杉山、勝俣さんの星はどれだろう、そして葉子は、どの星になるのだろうか・・・・・・。
 生きとし生けるものは、死という運命が待っている。その死を誰が決めるのか、そして死んだらどうなるのか、・・・・・・それは誰にもわからない。運命という枠の中で、人々は人生を送っている。それはわかっているが、しかしそのあと、どうなるのかわからない。
 誕生と死。太古の昔から数え切れない人たちが星の下で生まれ、星の下で死んでいった。人間は死んでしまったら、星の下から、星の上へ昇って行くのだろうか、・・・・・・それとも星の下から、土の下へ帰って行くのだろうか。人間はどこから来て、どこへ行ってしまうのか。
 真一郎は、葉子が「悲しいほど美しい曲」、と教えてくれたモーツアルトのピアノ協奏曲二十二番の旋律を自然に口ずさんでいた。・・・・・・死んだあとの ことはわからない。でも葉子には、きらめく星の間を、どこまでも昇って行って、夜空の星の中で一番美しい星になってほしかった。真一郎に出来ることは、そ の願いがかなうように祈るだけだった。永子と真里の横顔を見ると、夜風が長い髪をそよがせていた。
 そして、なぜだかわからないが、真一郎はコーちゃんの顔を見ると、「ワンモアタイム、いつまでも」とつぶやいていた。

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