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ワンモアタイム、いつまでも




一八

 金曜日の夕方、真一郎は村田部長の部屋を訪ねた。村田部長は葉子の頭部MRI写真をまだ見ていないはずである。葉子の脳転移のことは言わないでいた。村田部長は、眉間にシワを寄せ、表情を変えずに、真一郎の話をじっと聞いていた。
「犬の大腸癌か・・・・・・。まず診察して、手術だろうが、相手がワン公か。困ったな、どうしようか。うちの病院で手術をして、それがばれたら、問題にな るだろうな。たとえ手術で助かっても、美談よりは非難だろな・・・・・・。そうだ、いい考えがある。後藤先生の家は世田谷だったよね。橋爪先輩に頼んでみ るか」
 部長は棚から同窓会名簿を取り出した。ページをめくりながら、橋爪先輩について説明してくれた。
「橋爪先輩が、世田谷の用賀で外科を開業しているんだ。今は七十歳を過ぎたくらいかなぁ、高齢だから医院は閉院状態だが、設備は揃っているはずだ。先輩なら大丈夫だ。むかし腎臓移植の実験で犬の手術をしていたから、犬には慣れているはずだ。でも先輩、まだ生きているかな」
 外科部長が電話をかけると、どうやら電話がつながったらしい。側で訊く電話の内容は懐かしさにあふれていた。そして本題に入ると、驚きと笑い声の交った会話になった。外科部長は笑顔を見せ電話を切った。
「よし、大丈夫だ。やるぞ、後藤先生。・・・・・・自宅に連絡をして、三時間後に用賀の橋爪外科医院に来るようにしてくれ。わたしは若い連中、そうだ岡林がいいな、あいつを連れて行くから。いいかい」
「どうするんです?」
「どうするって、手術に決まっているだろう」
「えっ、手術ですか?」
「驚いている場合じゃないだろう。一週間も便をしてないのだから、腸が腐っているかもしれない。腸が腐っていたら手遅れだ、緊急手術だ。集合時間は八時、 場所は用賀の橋爪外科医院。八時に待っているから、それまでに犬を連れてきてくれ! わたしはこれから患者を診て、手術道具を持って、八時に橋爪先生のと ころで待っているから、現地集合だ、それでいいね」
 真一郎はあっけにとられてしまった。お辞儀をして部長室を出ると、いそいで自室に走った。机の電話を取ると、すぐに自宅のダイヤルボタンを押した。のんびりと電話にでた永子を叱るように、外科部長とのやりとりを説明した。
「すぐ帰るから、準備を頼む。あと越川さんに電話をして、七時二十分にタクシーが来るように頼んでくれ」
 急な話に永子は驚いていたが、冷静に話を聞いていた。電話を切ると、いそいで着替え、駅まで走って行った。電車を乗り継いで、家に着いたのは六時半だった。玄関のドアを開けると、すぐに永子が飛んできた。
「手術って、大丈夫かしら?」
「大丈夫だ。安心しろ。うちの外科部長は、ゴッドハンドと言われているんだ。手術の腕はすごくいいんだ、それよりも早く準備だ」
 それを聞くと、永子は奥に引っ込んで準備を急いだ。
「馬鹿、いまさらお前が化粧をしてどうする。コーちゃんの準備だ!」
「コーちゃんの準備といっても、どうすればいいの?」
「大きめの段ボールに毛布を敷いて、あとおむつ、それに水を入れる金属のボール。あと三十分だぞ! そうだフロに入れなければ、手術となったら清潔が一番だ!」
「おフロが沸くのに二十分はかかるわ」
「シャワーにしよう」
 真一郎は廊下に服を脱ぎすて、パンツひとつになると、コーちゃんを抱いて風呂場に向かった。全身にシャワーでお湯をかけ、シャンプーでコーちゃんの身体 をゴシゴシと洗った。コーちゃんは身体をふらつかせていた。濡れた身体はずいぶんと痩せていた。何度もブルブルと身体を震わせて、お湯を吹き飛ばした。
「大丈夫、すぐに良くなるから、良くなったら、ステーキを食べようね」
 真一郎はコーちゃんに言葉をかけ、タオルで水分を拭き取った。コーちゃんは病気なのに、手術の前なのに、うれしそうにしていた。
 タクシーがやって来た。「用賀の橋爪外科医院まで」と言うと、越川運転手は「承知しました」とすぐに車を走らせた。
 タクシーのなかで、永子は携帯電話を取り出し、娘の真里に事情を説明した。越川運転士は事情を察したらしく、「先生、今日は仕事はやめにしますから、必 要なときはいつでも呼んで下さい。コーちゃん、がんばるんだぞ」と振り向いて言った。右に左に裏道を曲がりながらスピードを上げ、約束の時間の十分前に橋 爪外科医院に着いた。医院の駐車場には村田部長の車が止まっていた。
 橋爪外科医院の看板は傾いており、今にも壊れそうな古い建物だった。木製のドアは、触ると外れそうだった。真一郎は大丈夫かな、と思いながらドアを開け ると、薄暗い玄関の奥から村田部長と岡林医師が出てきた。そして後ろに立っている橋爪先生を紹介してくれた。橋爪先生は人の良さそうな、背の高い老人だっ た。ニコニコしながら前に出ると、コーちゃんの頭をなでてくれた。
「奥さんは、応接室でお茶でも飲んでいてください」
 橋爪先生はそう言って、永子を応接室に案内した。村田部長は応接室でコーちゃんの腹を丹念に触った。
「間違いない大腸癌だ。フィラリアかもしれないが、もし違っていたら腹を開けてから考えればいい。麻酔は筋肉注射でいいだろう。では、始めようか」
 村田部長は、狭い廊下を先頭を切って勝手に手術室に向かった。真一郎はコーちゃんを抱きかかえて手術室に運んだ。手術室は何年も使っていないようで、カ ビ臭く、薄くチリが積もっていた。壁に掛けられた時計は止まっていた。手術台の電気がつき、コーちゃんは手術台の上に仰向けに寝せられた。村田部長は岡林 医師に命じてセルシンを注射させた。五分もしないうちにコーちゃんはベロをだらりと横にたらして寝てしまった。
「岡林、早く点滴を入れろ!」
 部長の命令に岡村医師は困った顔をしていた。
「・・・・・・と言っても先生、どこに点滴を入れるんですか。全身毛だらけですよ」
「馬鹿、前足の内側にあるはずだ。よく探すんだ!」
「あっ、ここにあった。入れます」
 針を刺すと赤い血液が逆流し、上手い具合に点滴が入った。村田部長はワイシャツをまくりあげ、滅菌のゴム手袋をはめた。
「岡林、脱水があるから点滴は全開。それとお前は前足を持って、呼吸状態を見ておけ。呼吸が止まったら何とかしろよ! 後藤先生は、後ろ足を開いたままの状態で持っていて下さい」
 橋爪先生が、コーちゃんの腹全体に消毒液イソジンをかけた。腹の白いうぶ毛が褐色に染まりペタンとなった。
「では、司令官は橋爪先生。手刀医はわたし、全身管理は岡林。よろしいですか、では手術を始めます」
 コーちゃんの腹にメスが入いった。真一郎は、後ろ足を持ちながら思わず顔をそむけてしまった。しばらくして恐る恐る顔をあげると、切開の入った皮膚から腸の一部がはみ出ていた。
「これだ!」
 村田部長の大きな声に、顔を上げて腹の中を覗くと、左の大腸の一部が硬く盛り上がっていた。
「やはり、大腸癌だ! 癌の周りに転移なし。肝臓に転移があったら、どうせ助からないから、大腸のみ部分切除。橋爪先生よろしいですか?」
 村田部長の言葉に橋爪医師はうなずいた。村田部長は大腸を十センチほど切除すると、すぐに縫合にかかった。橋爪医師は取り出した大腸の一部を台の上で縦に切った。
「間違いない大腸癌だ! 癌はうまく取れている。癌が大腸内部を塞ぐように隆起しているから、これじゃ通過障害で便が出ないのも当然だ!」
 村田部長はそれを聞くと、
「場所がよかったですね。癌が上か下かにずれていたら、人工肛門だから。犬の人工肛門なんて聞いたことないから、これなら大丈夫だろう。しかしこの犬の胴は長いね、腸もタマタマも人間以上だよ」
 村田部長の腕はすごかった。冗談を言いながら、ミシンのように正確にキズを縫合していった。手術が終わった。
「無事終了! 岡林、手術時間は?」
「はい、十五分です」
「よし、新記録だ。岡林、抗生剤を一発、頼んだぞ」
 村田部長の自信に満ちた声に、それまでの不安はどこかに消えてしまった。
「後藤先生、大丈夫だよ。あと数時間で眼を醒ますから。いちおう、安全のため抗生剤と下剤を持って帰ればいいよ」
「食事は?」
 その質問に、橋爪先生が答えた。
「犬は人間以上に、自分のからだを本能的に知っているんだ。食べたそうにしたら、食べさせればいい。深刻に考えることはない。犬の生命力は強いから」
 手術を終えたコーちゃんは、毛布の敷かれた段ボールに入れられ、橋爪先生の応接室に運ばれた。応接室のテーブルにはウイスキーが数本用意されていた。橋 爪医師はウイスキーの銘柄を見ながら、誰も興味がないのにウイスキーの講釈を述べた。我慢しながら一通りの講釈に相槌を打ち、やっと流れが本道に戻ってき た。橋爪医師は満足そうにグラスを前にだした。
「じゃ、飲もうか。何年ぶりかな、こんなに気分のいい手術は・・・・・・。出血量はゼロじゃないか、相変わらず村田はいい腕をしているね、見ていてほれぼれする手術だった」
「それは先生の弟子ですから、当たり前ですよ。そして次の時代は、この岡林ですからね。橋爪先生、岡林をよろしく頼みます」
 橋爪医師の奥さんが、愛想良く出前の寿司を運んできた。小太りの奥さんはおっとりとしていたが、いるだけで安心感があった。永子は何かを手伝おうとした が、それを包み込む奥さんの雰囲気に、ぽつんと取り残されていた。一時間ほどすると、娘の真里がドアを開け、硬い表情で入ってきた。
 開腹手術という深刻な事態に、酒の臭いを漂わせ、笑い声を上げている男性たちを見て、真里は事態を理解できず、ドアの前で立ちすくんでいた。永子がコー ちゃんのところに真理を連れて行くと、周囲を振り切るようにコーちゃんに近づき頭をなでた。しばらくすると、橋爪先生が外科医らしい大らかな声で真理に話 しかけた。
「お嬢さん、ワンちゃんは大丈夫だよ。手術は上手くいったから。手術が上手くいったから、これはお祝いのお酒だから、安心して」
 橋爪先生の言葉に付けたすように、村田部長が赤い顔で話しかけた。
「お嬢さん、外科医はね。患者さんが回復するまで帰らないんだ。ちょっと酔っているけど、勘弁してね・・・・・・。やるべきことは、きちんとやったから、・・・・・・ところで、その肩に背負っているのは何?」
「バイオリンです」
「バイオリン? これはいいや。頼むよ、お嬢さん。何か弾いてよ」
 真理はそれまで半分怒ったように男性たちを見ていたが、ヒトの良さそうな言葉に、どうしようかと迷っているようだった。永子が目線を送り、早く弾くようにとうながした。
「わかりました。ではお礼の気持ちを込めて、弾かせてもらいます」
 真里はケースからバイオリンを取り出すと、バッハのシャコンヌを弾いた。無伴奏のシャコンヌは神との対話を感じさせる荘厳な宗教音楽だった。弾き終わると拍手の音が部屋に響いた。橋爪先生は上機嫌だった。
「すごいね、心に響くね。こりゃいいや、ドイツの宮廷貴族になったみたいだ。もう一曲頼むよ」
「では、イザイのバラードを弾かせてもらいます」
 赤い顔の聴衆は、バイオリンを弾く真里の姿に見入っていた。しかし真一郎にとって、この曲は朝から深夜まで、毎日のように強制的に聞かされていた。しか も演奏会のように曲全体を弾くことはまれで、間違いやすい部分、難解な部分を繰り返す練習だった。最初は何気なく聞いていたが、しかし不思議なことに、次 第に曲に引き込まれていった。そしてテンポが速くなり、超技巧的な最後の山場を迎えた。曲の盛り上がりに、すごいと感動していると、弾き終わる直前にコー ちゃんの耳がピクッと動いた。バイオリンが終わり拍手の音が静まると、ダンボールの中からゴソゴソと音がした。真一郎は急いでダンボールに近づき、身体を 動かそうとするコーちゃんを制して、ダンボールを抱いてテーブルまで運んだ。全員がダンボールを覗き込んだ。
「よかったねえ、コーちゃん。助かったね」
 橋爪先生の奥さんがうれしそうに笑みを浮かべた。
「こら、ワン公。よかったな。この橋爪のおじさんが助けたんだ。おじさんの顔をよく覚えておけよ」
 コーちゃんはまだ寝たままなのに、グラスを片手に橋爪医師は上機嫌だった。
「橋爪先生、先生はこれまで何匹も犬を殺してきたのだから、これは罪ほろぼし、ということですな」
 村田部長はそう言って大きな声で笑った。
 橋爪医師の奥さんは「二階の部屋が空いていますから、二階で休んで下さい」と言った。永子と真里はダンボールを持ち、遠慮がちに二階に上がっていった。男性たちはまた酒を飲み交わした。
「ワン公の命を救い、美味しい酒を飲み、素晴らしいバイオリンを聞き、こんなに楽しいことはないな・・・・・・。橋爪先生そうでしょう?」
 村田部長ははしゃぎながら、相槌を求めるように先輩の肩を叩いた。
「そのとおり。だが、この橋爪医院の最後の患者が犬とはなぁ、・・・・・・でもいいか、人間と同じ生あるモノを救ったということか」
「そうですよ、先生。先生が生まれ変わるとしたら、次は犬かもしれませんから、犬を助けることもいいことですよ。・・・・・・そうだ、岡林、お前の家は川崎だったな。じゃ、適当にタクシーで帰れよ」
 真一郎はそれを聞くと、あわてるように言った。
「ちょっと待って下さい。知り合いのタクシーがいますから、すぐに呼びます」
 真一郎は越川さんに電話をかけ来てもらうことにした。
 タクシーが来ると、お礼の言葉を言いながら岡林医師を車まで送って行った。岡林医師は後輩だったが、後輩先輩は別として、いつも大らかで患者に親切な医師だった。
「よかったですね、本当のことを言うと、最初、犬の手術と聞いて驚きました。なんせ、今回の手術が、ちょうど医者になって五百例目の手術なので。でも、いい記念になりました」
「ありがとう。助かったよ、感謝している。・・・・・・話は違うけど、・・・・・・あの古河葉子、覚えている?」
「ええ、覚えていますよ。あの上品な、乳ガンの患者さんですよね」
「先週、彼女の頭のMRI写真を見てしまったんだ。そしたら、腫瘍が二カ所にあるんだ。まいってしまった」
「えっ! 本当ですか。脳転移ですか、・・・・・・それは残念です。可哀想ですね」
「治療は無理だろう?」
「治療法はありますが、効果があるかどうかですね。厳しいでしょうね。正直言って、余命、数ヶ月でしょうね」
「まだ村田部長には話してないけど、来週、外科外来を受診する予定だから、そこでわかるだろうが」
「辛いですね」
「本当に辛いけど、仕方ない。入院になったら教えてくれ、頼んだよ」
「承知しました。先生、気を落とさないで下さい。本当に仕方ないですよね、病気っていうやつは」
「そう言えば、岡林先生。そろそろお子さんが誕生と聞いていましたが」
「ええ、昨日、産まれまして、これから顔を見に行くところです」
「そうですか。それはおめでとう。時間をとらせて、すまなかった」
「いえ、とんでもない。では、これで失礼します」
 真一郎はタクシーに乗る岡林医師を見送ると、応接室には行かず、二階へ上がって行った。永子と真里は段ボールの側にしゃがみこんでいた。真一郎は二階の ガラス戸を開けた。そしてコーちゃんを段ボールに入れたままベランダに運ぶと、夜空を見上げた。木の葉の風に擦れる音が、音楽のように聞こえてきた。
 空にはたくさんの星がきらめいていた。コーちゃんは上目づかいで、星を見ているようだった。真一郎はコーちゃんの頭をなでると、「早く元気になって」と声をかけた。
 夜空を仰ぐのは何年ぶりのことだろう。真一郎は、それまで星空の存在すら忘れていた。夜空はどこまでも澄みきっていて星がきれいだった。杉山、勝俣さんの星はどれだろう、そして葉子は、どの星になるのだろうか・・・・・・。
 生きとし生けるものは、死という運命が待っている。その死を誰が決めるのか、そして死んだらどうなるのか、・・・・・・それは誰にもわからない。運命という枠の中で、人々は人生を送っている。それはわかっているが、しかしそのあと、どうなるのかわからない。
 誕生と死。太古の昔から数え切れない人たちが星の下で生まれ、星の下で死んでいった。人間は死んでしまったら、星の下から、星の上へ昇って行くのだろうか、・・・・・・それとも星の下から、土の下へ帰って行くのだろうか。人間はどこから来て、どこへ行ってしまうのか。
 真一郎は、葉子が「悲しいほど美しい曲」、と教えてくれたモーツアルトのピアノ協奏曲二十二番の旋律を自然に口ずさんでいた。・・・・・・死んだあとの ことはわからない。でも葉子には、きらめく星の間を、どこまでも昇って行って、夜空の星の中で一番美しい星になってほしかった。真一郎に出来ることは、そ の願いがかなうように祈るだけだった。永子と真里の横顔を見ると、夜風が長い髪をそよがせていた。
 そして、なぜだかわからないが、真一郎はコーちゃんの顔を見ると、「ワンモアタイム、いつまでも」とつぶやいていた。

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ワンモアタイム、いつまでも

一七

 宴会は終わってはいなかったが、越川さんのタクシーが八時きっかりに迎えに来てくれた。女性軍団がぞろぞろと道路までついてきて、タクシーを取り囲んだ。それはテレビで見る銀座のバーの見送りのようだった。
 タクシーが動き出すと、越川運転手はすぐに、「すごいですね、今日はどうしたんですか。べっぴん揃いで、先生もすみにおけませんね」とうれしそうに話しかけてきた。
「たまには、いいんじゃないの」と言うと、暗い気持ちで、今日の快気祝いと、その陰に潜んだ悲劇的事実について簡単に説明した。誰にも話せなかったことを、真一郎は越川運転手にしゃべってしまった。
「そうですか、可哀想ですね。病気って、本当にいやですね。人間生きてれば、いろんなことがありますが、病気ほどいやなものはありませんね」
「まったくだね、人間、金でも、名誉でもないよね、病気をせずに、健康でまともに生きていければ、それでいいよね」
 真一郎はしゃべる気力を失ったまま黙ってしまった。眠くはなかったが、目をつむり、葉子のこと、母親を失う亜紀のことを思い浮かべていた。涙が流れた、 葉子は二週間後には外科部長の診察を受け、絶望的状況を知るはずだった。沈んだ心の中で、葉子のことが何度も頭の中を行き来していた。
 首都高速に入いり、どれくらい経っただろうか。「先生、先生!」と緊迫した声が飛んできた。そして同時に、運転席から新聞紙が投げつけられてきた。
「先生、コーちゃんの様子がおかしい!」
 わけもわからず横を見ると、コーちゃんがいまにも吐きそうにしていた。真一郎は新聞紙を広げ、よろつくコーちゃんの口もとを追った。次の瞬間、ゲェ、 ゲェと絞り出す音をたて、ガバッと食べたものを吐いた。新聞紙で吐物を上手く受け止めたが、吐物はずっしりと重かった。コーちゃんはすまなそうな顔で真一 郎を見ていた。その黒い瞳は涙でにじんでいるようだった。
 堀川さんは運転席の窓を開け、「食べ過ぎたんじゃないの。先生、お酒は飲ませなかったでしょうね」と強い口調で訊いてきた。
「コーちゃんは、酒は嫌いだから飲ませなかったけど、食べ過ぎたんだろうな・・・・・・。いつもドッグフードなのに、食べつけない物を、うれしそうに次々に食べていたから」
「ダメですよ、犬は美味しいものがあれば、際限なく食べますから・・・・・・。先生しっかりしてください」
「わかった。すまん」
 いつものコーちゃんならば、車に乗ると興味深そうに外を見ているのに、これまで車で酔ったことはなかったのに、どうしたのだろう。コーちゃんは弱々しく 真一郎の膝の上に乗ろうとした。膝の上でからだを丸めようとしたが、長い胴が膝からはみ出てしまった。真一郎は膝の上のコーちゃんを両腕で抱くように支え た。家に着くと、コーちゃんは真一郎の後から弱々しく部屋に入ってきた。永子と真里は実家に帰っていて留守だった。
 真一郎は葉子のことを考えると飲み足らず、外に出て近所のコンビニへ行った。コーちゃんの大好きなチーズと焼酎を買って家に帰ると、玄関のドアの向こう側に、へばりつくように伏せているコーちゃんの姿がスリガラス越しに見えた。
 真一郎はベッドに入り込むと、コーちゃんの顔を見ながら焼酎を飲み始めた。アルミ薄を剥がしてチーズを見せたが、コーちゃんは伏せの姿勢のまま動かな かった。しばらくすると、コーちゃんがベッドの側に寄ってきた。真一郎はコーちゃんを抱き上げてベッドの上に寝せてあげた。ベッドで一緒に寝るのは初めて だった。初めてのベッドなのに、コーちゃんは背中を向け、丸くなって伏せていた。朝、目を醒ますと、コーちゃんは部屋の隅に伏せていた。そばに置いてあっ た新聞紙は吐物で汚れていた。
 いつものように朝の散歩に連れて行ったが、元気がなかった。何度かウンチをするかっこうをしたが、小さなウンチがポロッと二個でただけだった。交差点を横切ろうとすると、コーちゃんは地面に伏せてしまった。仕方がなく早めに散歩を切り上げて家に戻った。
 餌を与えたが食べなかった。戸棚を探して、胃グスリの錠剤を取り出した。何度か飲ませようとしたが、その都度、ベロッと吐きだした。仕方がないので、ペ ンチを持ち出し、胃グスリを粉末にすると、コーちゃんを仰向けにして、無理矢理、口を開けさせ、口の奥にクスリをふりかけた。
 夕方になって永子と真里が帰ってきた。コーちゃんはいつものように玄関に向かったが、その歓迎ぶりは弱々しかった。永子は異変に気づいたが、「さっきまでは元気だった」と真一郎は嘘をついた。昨日の宴会のことなど話せなかった。
「どうしたんだろう、明日には元気になるだろう」
と、とぼけながらクスリの効果に期待した。
 翌日、いつものように遅い時間に帰宅すると、「今日は、動物病院で診てもらった」と永子が教えてくれた。そして処方されたクスリを見ると、人間に使うのと同じ胃ぐすりだった。これで良くなるのだろうか? 不安に思いながらも、何も言わずコーちゃんの頭をなでた。
 次の日になって、少し餌を食べたが、便はでなかったらしい。そして翌日、動物病院に行って浣腸をしてもらったが、便は出ず、出てきたのは浣腸液だけだったらしい。動物病院の獣医は首をかしげ、前回とは違うクスリを処方した。そのクスリを見るとそれは下剤だった。
 真一郎は病院から持ち帰った聴診器で、コーちゃんの腹の音を聞いてみた。腸の音は聞こえたが、キーンと金属を擦るような音だった。音が聞こえるというこ とは、腸が動いている証拠だった。しかしその音が高音なのは、腸が何かで詰まっているのに、無理に便を出さうとする腸の悲鳴を意味していた。便がでなけれ ば、便秘か腸閉塞である。腸の音が聞こえるのだから、腸の働きが悪いのではなく、何らかの通過障害だった。もしかして大腸癌か? 腸が閉塞しているのに下 剤を飲ませれば、腸が破裂する恐れがあった。下剤は危険すぎた。
 真一郎はコーちゃんを仰向けにして腹を触った。腹は膨らんでいたが、左下腹部に何か硬い物がふれた。大腸癌だろうか? 犬も人間と同じである。癌ができても不思議ではなかった。大腸癌であれば便が出ないことも、食欲がないことも、吐いたことも説明がついた。
 真一郎は、永子にサランラップとマヨネーズを持ってこさせた。真一郎はサランラップを人差し指に巻き付け、その上にマヨネーズを塗ってコーちゃんの肛門 から指を入れた。直腸の状態を指で調べたが、便の塊はなかった。大腸粘膜の周囲をなぞってみたが、何も触れなかった。指のとどかない所に癌があるのだろう か、あるいはフィラリアだろうか? 驚いているコーちゃんを前に、どうしようかと考え込んでしまった。
 真一郎は永子に気づかれないように家を出ると、動物病院に向かった。まだ獣医の先生がいたので、「もしかして大腸癌でしょうか」と訊いてみると、獣医は 「もう少し様子をみようと思っていたのですが、可能性はあると思います」と答えた。やはりそうだったのか、目の前が暗くなった。「大腸癌だったら手術にな りますか?」と訊くと、「ここでは手術はできませんが、他の獣医の先生を紹介します。手術は百万円はかかるでしょう」と獣医は下を向きながら答えた。
 二万円で買ったコーちゃんの手術費用が、コーちゃん五十匹ぶんだった。しかしお金の問題ではなかった。手術でコーちゃんが助かるかどうかだった。


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ワンモアタイム、いつまでも

      一六

 土曜日がやって来た。葉子のことを考えると気が重かった。絶望的な状態と知りながら、快気祝いとは皮肉ものである。真一郎は越川さんに電話をしてタクシーを予約した。  
 車の止まる音で時計を見ると、越川運転手は時間どおりに家の前に来てくれた。真一郎は何も知らないコーちゃんに首輪を付けて、「じゃ、いくよ」と静かに抱き上げ、タクシーに乗り込んだ。
 あれは二年前の蒸し暑い夏の日だった。強い日差しのなかでコーちゃんを散歩させていると、さきほどまで晴れていたのに、いつの間にか、黒々とした雲が空 をおおい、土砂降りの雨となった。ずぶ濡れになって店のひさしに飛び込んだが、そこから動きが取れなくなった。落雷にともなう閃光、大気を震わせる雷鳴。 コーちゃんはおびえ、ハァハァと息を荒くして、足もとに寄せてきたからだは小刻みに震えていた。
 激しい雨は止みそうもなかった。どうしようかと困っている時、遠くから水しぶきを上げてタクシーが近づいてきた。そして手をあげて止まってくれたのが、 越川さんの個人タクシーだった。びしょ濡れのコーちゃんを連れていたのに、それを気にする様子を見せず、ドアを開けてくれた。タクシーの中でコーちゃんを 抱いていたが、シートを濡らしてしまった。ワンメーターの距離なのに、越川さんは愛想よく、濡れたコーちゃんを心配してくれた。その日以降、自宅からタク シーを使う場合は、越川さんの個人タクシーと決めていた。
「越川さん、新橋まで、新橋のこの場所だけど、わかりますか?」
 インターネットの地図を印刷した紙を手渡すと、越川運転手は地図をしばらく見ていたが、納得したように地図を置いてタクシーを動かした。
「先生、今日は、ワンちゃんと新橋でデートですか?」
「そう、たまにはね。・・・・・・男どうし、新橋の一杯飲み屋で、と言うやつですよ」
「よかったね、ワンちゃん。ワンちゃんの名前はコーちゃんだったかな? コーちゃんは前と変わりませんね」
「いや変わったよ。主人に似て賢くなってきたから」
「そうですか、顔も似てきたみたいですよ」
「そうかな、そんなにハンサムになったかな」
 越川運転手とは年齢が近いせいか、なぜかウマがあった。越川運転手は時折バックミラーを見ながら話しかけてきた。いつもなら世間話に花が咲き、時間はす ぐに過ぎてしまうのだが、真一郎は気が重くしゃべるのが億劫だった。首都高速をおり、葉子のマンションの前に着いた。真一郎はマンションの玄関ホールを見 て、このマンションなら、犬はなんとか大丈夫と思った。
「では、八時ぐらいに迎えに来て下さい。電話番号はさっきの地図に書いてありますから、よろしくね」
 真一郎はコーちゃんを抱いてタクシーを降りた。土曜日のビジネス街である。周囲は閑散として通行人はいなかった。
「しょうがない。レントゲンは見なかったことにしよう。葉子を元気づけるしかない」真一郎は自分にそう言い聞かせると、努めて明るくするため、気合いを入れた。マンションを見上げ、葉子に電話を入れた。電話がつながった。
「後藤です。いまからすぐに着くから、ドアを開けていて」
 それだけを言うと、返事も聞かずに電話を切った。いそいでコーちゃんを抱き上げ、マンションの玄関からエレベーターに突進、十二階のボタンを押した。エ レベーターはスピードを上げ滑らかに上昇、前向きに抱いていたコーちゃんを肩越しに抱き変え、息をこらえていると、すぐに十二階の扉が開いた。左側の突き 当たりの部屋のドアが開くのが見えたので、コーちゃんを肩に担いだまま、飛脚のようにドアを目がけて走った。ドアから葉子が出てくるのと、ほぼ同時にたど りついた。
「あら、あら、まぁ、可愛い顔をして」
 葉子がうれしそうにそう言うと、その声につられて、奥から美女軍団が狭い玄関にぞろぞろと出てきた。そしてコーちゃんを見ると、きゃぁ、きゃぁと甲高い 声あげ、コーちゃんと一緒に部屋の奥へ消えていった。主役を奪われた真一郎は玄関に取り残されたが、しばらくすると白い半袖シャツにジーパンをはいた亜紀 が、若々しい笑顔で迎えてくれた。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。狭いところですが、どうぞお入り下さい」
「やぁ、しばらくぶりですね」
「母がお世話になりまして、本当にありがとうございます」
「勉強はしていますか?」
「えぇ、大丈夫です。先生以上の医師になるつもりですから」
「まあ、頑張って下さい。お母さんはお変わりないですか?」
「ええ、おかげさまで、すっかり元気になりました」
 葉子のマンションは初めてだった。リビングルームに入ると、美女軍団の目は、狭い部屋をうれしそうに走り回るコーちゃんに注がれていた。美女軍団のは しゃぐ声に、挨拶の言葉はどこかへ行ってしまった。テーブルの向こう側に座っていた杉山恵子は立ち上がると、目の前に真一郎がいるのに、大げさに腕を伸し て、「早く座って」と葉子の隣の席へ手招いた。困ったように恥じらう葉子を見ながら、杉山恵子はおどけたように笑い声を上げた。外はまだ夕暮れなのに杉山 恵子はもう上機嫌だった。真一郎はやれやれと思い席に着いた。葉子がビールをついでくれた。中村麗子がキッチンから顔を出し、「あら、先生」と言いなが ら、テーブルに食べ物を並べていった。中村麗子は勝手を知っているように仕切っていたが、それがわざとらしかった。
 口火を切ったのは、杉山恵子だった。
「ちょっと待って、後藤先生に乾杯の挨拶をしてもらわなければいけないわ」
「乾杯の挨拶なんて面倒だ、省略しよう」
「ダメ、ダメよ。後藤先生には、きちんと挨拶してもらわないと、わたしの結婚式のときも、しゃべってもらったんだから」
 葉子のことを考えると、乾杯などしたくはなかったが、恵子の勢いに押されてしまった。真一郎は狭い部屋で美女軍団の注目を受けた。
「わかった、わかった。ちょっと待って、飲まないとしゃべれないから」
 真一郎は立ち上がるとビールを一気に飲み干した。空になったコップをテーブルに置くと、葉子がビールをついでくれた。真一郎はビールをつぐ葉子の白く細い腕を、悲しい気持ちでじっと見てしまった。
「仕方がない。それでは、よろしいでしょうか。きょうは葉子さんの誕生日と、快気祝いをかねて、と言うことですが、・・・・・・葉子さんは何才になるのか な? 何回目の誕生日になるのか忘れてしまいましたが、葉子さんの誕生日をこうして迎えられるのは、何年ぶりだろう? それも忘れてしまいましたが、わた しが葉子さんの誕生日を祝うのは、きょうで二度目になります。・・・・・・本当はふたりだけでこの日をお祝いをしたかったのですが、きょうは多くのたくま しい女性たちに囲まれ、うれしく思います」
 美女軍団といっても、手を叩き無邪気に騒いでいるのは杉山恵子だけだった。しかし恵子の笑い声が狭い部屋を明るくしていた。何も知らない葉子は、視線を 落とし話を聞いていた。亜紀は部屋の端の壁によりかかり、足をクロスさせこちらを見ていた。コーちゃんは挨拶とは関係なく、テーブルの食事を気にして落ち 着かない様子だった。真一郎は挨拶を続けた。
「病気が回復して、このように誕生日を迎えられることを、何よりもうれしく思います。葉子さんの回復を祝い、・・・・・・そして杉山宏君、勝俣さん、彼らはこの席にはいませんが、彼らの冥福をも祈りたいと思います」
 急に静かになった。それまではしゃいでいた杉山恵子が姿勢を正すと、周囲は神妙な雰囲気になった。
「亜紀さん、ちょっとカーテンを開け、ガラス戸を開けて下さい」
 バルコニーのそばにいた亜紀は、怪訝そうにからだの向きを変えると、カーテンの端をにぎって、ゆっくりとカーテンを開けた。バルコニーの向こうには、ビルの谷間に沈もうとしている大きな夕日があった。
「部屋の電気を消して下さい」
 部屋の明かりが消えると、夕暮れが浮かび上がってきた。燃えるような夕日が、バルコニーを額縁に、ビルをシルエットに、神々しく浮かび上がってきた。
「葉子さんが入院した時、『いつか一緒に夕日を見よう』と約束しましたが、その約束を今、はたすことができました。・・・・・・あの太陽は消え去ろうとし ています。でもあの太陽は再生のために少し休もうとしているだけです。燃えるような明日の朝日のために、元気をつけるために、沈んで行くのです。葉子さん は、この夕日のように消え去ろうとしましたが、朝日のようにまた元気に復活しました。・・・・・・葉子さんは何度でも復活するのです。わたしたちも、葉子 さんのように、どんなことがあっても再生し、また復活するのです。宏君、勝俣さんも同じだと思います。彼らはただ姿を隠しているだけで、いずれまた会える はずです。わたしたちのため、・・・・・・この犬も含め、そしていつか会える宏君、勝俣さんのためにも、乾杯しましょう。乾杯!」
「乾杯!」
 ひとすじの風が、亜紀の髪をなでていった。
「・・・・・・ダメ、ダメ、声が小さい! わたしたちの声が天国に届くように、大きな声で、ワンモアタイム、乾杯!」
「乾杯!」
 乾杯が終わると、葉子は座ったまま夕日をいつまでも見ていた。暗い部屋の中で、遠くを見る葉子の横顔が悲しいほど美しかった。真一郎は涙をこらえてい た。眼には見えない病魔が、葉子の脳を蝕んでいると思うと辛かった。悲哀という薄い被膜に包まれ、去って行こうとする葉子が、切なく愛おしかった。辛かっ た。辛かったが仕方がなかった。
 「これプレゼント、ひとりになったら開けて」
 真一郎は、きれいな紙に包んでもらった小箱を葉子にそっと手渡した。葉子は真一郎の顔を見て、「ありがとう」と微笑んだ。その小箱には、モーツアルトの ピアノ協奏曲二十二番のCDとクロスのペンダントが入っていた。それは葉子の、悲しいほどの孤独を、少しでも癒してくれることを願っての贈り物だった。
 拷問のような時間だった。微笑みながらビールを飲んでいたが、明るい声とは裏腹に、心はいまにも泣きそうだった。真一郎は時計を見ては、早く時間が過ぎて欲しいと願った。


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ワンモアタイム、いつまでも
 
一五

 翌日、真一郎は約束の時間が近づくと、病院の玄関の前で中村麗子を待った。病院の玄関から門の方を落ち着かない気持ちで見ていると、中村麗子がバスから 降り、こちらに向かって来るのが見えた。まだ約束の三時前なのに、麗子は腕時計を見ると急ぎ足で近づいてきた。そして白衣姿の真一郎に気づくと、驚いたよ うに歩調を止め、深々とお辞儀をした。
「昨日は、ご迷惑をかけまして」
「いえ、まだ時間があります。どうしましょうか、 ちょっと、その辺を歩いてみませんか」
 真一郎は病院の裏に広がる森へと誘った。
 中原病院は、多摩丘陵の中原山という小高い山の上に建っていた。周囲を森に囲まれ、春ならば染井吉野や山桜が咲き誇り、秋にはもみじや銀杏などの紅葉に 目を奪われるほどだった。しかしこの時期の木々は緑の葉を奪われ、それでいて裸木が寒さに負けまいと力強く枝を空に伸ばしていた。松やくすの木などの緑だ けが所々に残されていた。
「今度は、桜の咲く時期に来てください。もうすぐ梅が咲いて、次ぎに桜が咲きますから。ここの桜は本当にきれいですよ」
「えぇ、楽しみにしています。あら、あれは水仙の花かしら」
 麗子の視線の先を見ると、白い花が小さな群れをなして可憐に咲いていた。枯れた木々に囲まれ、緑の葉と白い花弁が、小さな生を主張していた。
 寄付金のことがあったので、麗子の決心がどうなったのか気になって、会話は少なかった。冷たい冬の風を頰に受け、落ち葉を踏む音がサクサクと足もとで なった。なだらかに続く小径を歩いていると、何となくデートをしているようで、真一郎は散歩に誘ったことを少しばかり後悔した。
「それでは、昨日のことは、昨日のこととして、時間ですから院長室へ行きましょうか」
 ふたりは森を抜け、病院の玄関に戻った。麗子は真一郎の後を黙ったままついてきた。低い天井の廊下を歩いて行くと、看護師や事務の人たちとすれ違い、そ のつど、にこやかな挨拶を受けた。真一郎は麗子と一緒だったので、真面目な顔で目礼だけを送り、それを挨拶の代わりとした。ふたりは院長室に入った。
 中村麗子は院長に丁寧にお辞儀をすると、勧められるままにソファーに座った。院長は世間話を始めたが、麗子は軽く話を合わせると、バックから封筒を取り出し一千万円の小切手を院長に差し出した。
 真一郎はあっけにとられたまま、麗子の落ち着いた動作を見ていた。事務員は小切手を受け取ると、名前と住所を書くように、と書類を麗子の前に出した。ひ ととおりの手続きを終えると、麗子は真一郎へ顔を向け笑顔を見せた。そして院長の顔を見ると、「お手数をかけました」とお辞儀をした。麗子の笑顔を見るの はこれが初めてだった。しかしその笑顔はどこか自慢げで、勝誇っているようだった。
 まさか一千万円を持ってくるなんて信じられなかった。自分の給料とは関係ないが一千万円といえば大金である。年老いた金持ちが寄付をと言うならば、気持 ちは理解できなくもないが、一体全体、この女性は何のつもりなのだろう。その日は院長命令で中村麗子の接待役を仰せつかっていた。
 ソファーから腰を上げて部屋を出ようとすると、院長が「ちょっと」と言って、真一郎を呼び止めた。そして薄い財布から一万円を取り出し、「これで食事を するように、いつもの日本料理屋がいいよ」と言った。真一郎は「先生、お金はいいですよ、自分で出しますから」、そうは言ったものの、こんな所で押し問答 もできず、「では、そうさせていただきます」と頭を下げ、一万円をポケットに押し込んだ。
 真一郎は麗子を連れて病院を案内した。
「中原病院は古い建物ですが、いい病院ですよ。病院は見た目ではなくハートですから、この病院のハートは自慢できますよ」
 病棟のラウンジへ行くと、ポインセチアの鉢が飾られており、大きな窓のむこうには、都心に立ち並ぶ高層ビルを遠くに見ることができた。
「もしよろしければ教えて欲しいのですが。あのような大金、どうして寄付する気持ちになったのですか?」
「寄付でもしなければ、バチが当たります。でも心配しないで下さい。あの寄付金は勝俣が残した保険金の一部ですから」
「そうですか、わたしには理解できませんが」
「そうでしょうか。ここから新宿の高層ビルまで見えますが、世の中には億万長者はきっと何十万人もいるはずです。わたしは億万長者ではありませんが、困っ ている人の役に立てれば、それでいいんじゃないかしら。死んでしまったら、お金は意味はないし、生活できるだけのお金があれば、それでいいと思います」
「まぁ、そうでしょうが、でも驚きました。本当に」
 真一郎は中村麗子の気持ちが理解できず、また一緒にいることに苦痛さえ感じていた。それは真一郎の女性に対する美形評価とは関係がなかった。麗子の表情なのか、それとも品性なのか、理由は説明できないが、どうも麗子が苦手だった。
 人生何が起きるかわからないのに、今日の金持ちが明日も金持ちとは限らないのに、この病院だって、いつ倒産するかわからないのに・・・・・・、真一郎は 麗子を玄関まで送って早く別れようとした。病棟のラウンジから別棟に続く廊下を歩いて行くと、中庭が見えてきた。麗子はふと足を止めた。
「叔母が中原病院にお世話になったのは、ずいぶん前になりますが、あの中庭のことは覚えています。色とりどりのお花がずいぶんきれいでした。あれは夏のころでした。・・・・・・あら、あの人たちは?」
 麗子は中庭で背中を屈め、しゃがんでいる人たちを指さし、興味深そうに聞いてきた。
「あれはボランティアの人たちです。あの人たちは偉いですよ。花を植えたり、掃除をしたり、受付の手伝いをやったり、きっと中原病院を自分たちの病院と思って大切にしているんです。中原病院には百人のボランティアの方がいます。ボランティアの人たちは中原病院の誇りです」
「みなさんは、中原病院を宝物のように思っていらっしゃるのね。わたしもボランティアに入れてもらおうかしら。患者さんの気持ちを少しでも和やかにできたら、すてきなことですわ」
「いいじゃないですか」
 真一郎は深い考えもなく、反射的にそう言ってしまったが、中村麗子には地味なボランティアは向かないと思っていた。ボランティアは立派なことだが、一千 万円の寄付をするような人が、ボランティアをすることに違和感があった。しかし中村麗子はその後、中原病院のボランティアに入り、いつしか葉子と知り合う ようになった。
 麗子が葉子とラウンジで話しているとき、ちょうど真一郎が通りかかり、ふたりの女性から同時に挨拶を受け、正体がばれてしまった。麗子は葉子と時々会っているようだった。
 葉子の手術後の経過は順調だった。放射線治療を受け、化学療法による脱毛や吐気などの副作用も軽度で、葉子は生命を救われ元気になった。入院から約三ヶ月で無事退院となった。
 葉子の入院中に、出張から帰った夫が見舞いに来たらしい。村田外科部長が病気の説明をしてくれたので、真一郎は葉子の夫と会うことはなかった。葉子の夫 はどんな男性なのか、もちろん興味はあったが、もし会ってしまったら、葉子に対する印象が変わることを恐れた。葉子が夫を嫌っての離婚らしいが、葉子が 嫌っていようが、葉子を嫌って夫が他に女性をつくろうが、いずれにしても、真一郎以上に葉子を知っている男性の顔など見たくはなかった。もし葉子の夫と 会ってしまったら、葉子と会う度に、葉子のことを考える度に、夫の顔が重なって浮かんできてしまう。会うべきでも、知るべきでもない、と真一郎は本能的に 葉子の夫を避け、そして上手い具合に切り抜けることが出来た。
 退院すると葉子は夫と別れ、亜紀が通っている大学の近くにマンションを借りて生活することになった。その後も中原病院の外科に通院していた。村田外科部 長は「乳ガンの再発はあるかもしれないし、ないかもしれない。あったとしても数年後だろう。大丈夫だよ」と曖昧な言葉を、自信ありげに話していた。
 葉子が退院して、半年ぐらいが経った夏の暑い最中だった。廊下を歩いていると、後ろから走ってきた中村麗子に声を掛けられた。
「後藤先生、今度の土曜日、時間をあけてもらえませんか?」
「どうして? 何かあるの?」
「昨日、葉子さんが病院に来ていて、偶然に会ったの。そしたらね、今度の土曜日、葉子さんの誕生日なんですって・・・・・・。それで快気祝いをやろうって 言ったのよ。わたしも誘われたのですが、先生もぜひと言うことになったの。誕生日の祝いと、快気祝。・・・・・・どうです? 先生、いかがですか?」
「それはぜひとも、と言いたいところだが、・・・・・・もしかして男性はわたしだけ?」
「聞いていませんが、多分そうでしょうね」
「ちょっと待って、わたしひとりが美女軍団に囲まれるわけ? ちょっとね、どうかな。場所はどこでやるの?」
「葉子さんのマンション、新橋の」
「行けないことはないけど、どうしよう。・・・・・・わたしの親友を連れて行ってもいいかな。若い男で、無口なやつだが、性格は抜群で、すごいハンサムなんだ」
「あら、それは大歓迎よ。ああ見えて、みんな面食いだから喜ぶわ。もしよろしければ、お迎えにうかがいましょうか?」
「いや、いや、けっこうです。時間の都合がわかりませんので」
 今度の土曜日は、永子と真里は実家に帰って留守のはずだった。特別な用事もなかったので出席することにしたが、真一郎が躊躇したのは中村麗子と一緒だったからである。何となく、中村麗子には下心がありそうで、いつも避けていたのだった。
真一郎は葉子の誕生日と聞いて、あの四谷の喫茶店でじっと葉子を待っていたつらい日のことを思い出していた。葉子への愛情は、かつての愛情とは違っていた が、本当は葉子とふたりだけで誕生日を迎えたかった。三十年前の、あの日の誕生日に戻りたかった。過ぎ去ったあの日に戻り、あの日から新しい日々が始まれ ばと思った。
 真一郎は葉子のマンションを知らなかった。マンションの住所を調べるためカルテ室に行った。患者のID順に並んでいる棚の中から葉子のカルテを取り出した。
 葉子の新しい住所と電話番号をメモすると、何気なくカルテをめくってみた。カルテには先週外科を受診したことが書かれてあった。カルテには特に変わった記載はなかったが、昨日の日付で頭部MRIの検査を予約していたことがわかった。
 乳ガンの場合、脳転移の可能性があるので、定期的に頭部MRIの検査を行うのは不思議なことではなかった。昨日の検査ならば、フィルムはまだレントゲン室にあるはずである。カルテ室の隣がレントゲン室だった。レントゲン室に行くと、葉子の頭部MRI写真を探した。
 葉子の頭部MRI写真を袋から取りだし、写真を見てみると、まさかと思った。まさかこんなことがあるのだろうか。すぐに写真の名前を確かめたが、葉子の 写真に間違いはなかった。愕然として言葉を失ってしまった。葉子の頭部MRI写真には、右脳の前頭部と後頭部の二カ所に直径一センチほどの円形の塊が二カ 所に写っていた。それは乳ガンの脳転移に間違いなかった。その塊は周囲の正常脳組織を圧迫していた。真一郎の眼は頭部MRIの写真に釘付けになった。驚き と悲しみで、うっすらと涙が浮かんできた。
 あの葉子に、このようなことがあっていいのだろうか。予期せぬ出来事に、目の前が暗くなった。どうしようかと思ったが、どうしようもなかった。切ない気持ちがこみ上げてきた。
 大切な積み木が一瞬のうちに崩れたような、輝いていた宝石がまばたきの瞬間に泥の塊に変わったような、あまりのことにからだが震えてしまった。神の嫉妬なのか、悪魔の仕業なのか、あまりにもひどすぎた。真一郎は、生まれて初めて運命という言葉を恨んだ。
 乳ガンの肺転移と聞いた時、最初は、根本治療はないと思い込んでいた。それは間違いだったが、しかし脳転移ならば、間違いなく絶望的だった。手術前の頭 部MRI写真は正常だったのだから、脳転移は半年の間だった。あまりに転移までのスピードが速すぎた。化学療法をやっていたのに、治療中の脳転移である。 治療をするにしても手術は出来ない。これ以上の治療は苦しむだけだと思った。悲惨な最期が予想された。
「何が快気祝いだ、これじゃ、お別れ会じゃないか!」
 涙が流れた。葉子の快気祝いに、出席の返事をしたことを後悔した。そして中村麗子が冷酷な疫病神に思えた。


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ワンモアタイム、いつまでも
 
一四

 葉子が入院して三週間くらい経ったころだった。外来が終わって廊下を出たところで、「後藤先生」と女性からふいに声をかけられた。振り向くと、中年の女性が真一郎の顔を見てお辞儀をした。名前は咄嗟には出なかったが、その小太りの女性が誰なのかすぐにわかった。
「あなたは、あの時の・・・・・・」
「ええ、新幹線で勝俣健介を助けていただいた、中村麗子です」
「ああ、あの時の中村さんですね。・・・・・・今日はどうしたんですか?」
 真一郎は予期せぬ面会人に驚いた。
「先生にお話があって、診察が終わるのを待っていました」
「そうですか、ではそこの面談室でお話を伺いますか」
「時間は、よろしいのでしょうか?」
「えぇ、大丈夫です。どうぞ、こちらに」
 中村麗子は遠慮深そうについてきた。新幹線で会ったときは派手な服装だったが、今日はネックレスもしておらず、普段着にちかい服装だった。込みいった話ではないだろうと勝手に決め込み、面談室に案内した。向かい合って座ると、麗子は視線を落としたまま話しを始めた。
「・・・・・・実は、勝俣が亡くなりまして。ご報告にと思い、やってまいりました」
「えっ? そんな、そんな馬鹿な。・・・・・・勝俣さんは無事退院したと聞いていましたが」
「退院して三週間後に、突然、亡くなりました。・・・・・・自宅で倒れ、救急車を呼んだらしいのですが、病院まで一時間以上かかってしまい。・・・・・・先生にせっかく助けてもらったのに」
 真一郎は言葉を失ってしまった。元気に退院したのに、こんなことがあって良いのだろうか・・・・・・。真一郎は茫然となってしまった。
「実は、あの時のお礼と思いまして」
 麗子はバックに手を入れると、封筒を取り出して真一郎の前に置いた。
「これは何ですか?」
「お礼です」
「お礼は、お言葉だけで結構です」
「でもそれでは、勝俣も、わたくしも気が済みませんので、お受けとり下さい」
「失礼ですが、ここで封を切ってもよろしいですか?」
「・・・・・・はい」
 麗子はためらいがちに返事をした。真一郎は無造作に封を破ると、札束が入っていた。金額は確かめなかったが、そのまま封筒を中村麗子の前に突き返した。
「勝俣さんは亡くなったのです。わたしが、これを受け取れる訳がないでしょう。お返しします。気持ちだけで十分です」
「いえ、どうしても受け取ってもらわないと、気がすみません」
「勝俣さんは亡くなったのですよ、受け取る訳にはいきません」
「そんなこと、おっしゃらないで下さい」
「ダメなものはダメです。・・・・・・あなたには、たしかお子さんがいましたよね。お子さんのため、それと、あなたのためにお使い下さい」
「わかっております。でも、勝俣が残した最後の気持ちとして受け取ってほしいのです」
 長い沈黙の時間が続いた。麗子は寂しそうに視線を落とし、しばらくしてから話を続けた。
「わたくしも知らなかったのです。勝俣はわたくしに内緒にしていましたが、これは勝俣の奥さんから聞いた話です。・・・・・・わたしと勝俣が離婚して、子 供の養育費だけはもらっていました。でも、勝俣は離婚してからも生命保険を解約せず、毎月払い続けていたのです。勝俣の奥さんもそれに気づいていたそうで すが、何も言わずにいたらしいのです」
「そうですか、勝俣さんが亡くなったのは、本当に残念です。くやしく思います。・・・・・・でも、勝俣さんはあなたのために残したのでしょう。そうでなければ、別れた女房に保険料を毎月払うことなどできません。できるはずがないでしょう」
「そうかもしれません。離婚の原因は勝俣の浮気でした。でもそれは許せる範囲の浮気だったのです。勝俣が浮気をしたから離婚したのではありません。勝俣の 浮気を口実に離婚したのです。離婚の本当の理由は、勝俣の両親の面倒をみたくなかったからです。わたしの親の方が大切だったから、本当に悪いのはわたしの 方なのです」
「勝俣さんはそのことを、あなたの本心を知っているのですか?」
「それはわかりませんが」
「でも、きっとわかっていたのでしょう」
「恥ずかしい話ですが、そうでしたら、うれしく思います」
「保険金を払い続けたんですよ。・・・・・・これを愛情でないとしたら、何と言ったらいいのですか? 勝俣さんが生命をかけたあなたへのお金は、あなたへの愛情ですから、大切にしてください」
「でも先生、勝俣の命を助けてくれたのは先生です。勝俣の気持ちとして受け取ってください」
「それは、どんなことがあっても受け取れません」
「でも先生、わたしは勝俣からお金をもらえるような女ではありません。わたしは勝俣を裏切った、悪い女なのです」
 中村麗子は下を向き涙を流した。真一郎はやれやれと思った。涙を流すぐらいなら、離婚などするなよ、一緒に旅行などするなよ、と麗子の涙にうんざりとしていた。仕方がないので麗子の気持ちが落ち着くのを待った。
「よろしいですか。わたしにまかせてもらえませんか。・・・・・・院長と相談してみます」
 麗子を連れて二階の院長室に行った。院長室のドアは半開きになっていた。誰でも気楽に入れるように、それは院長の配慮だった。半開きのドアをノックし て、「ちょっと、よろしいですか」と声をかけ、そのまま入って行った。院長は机に向かい書類を見ながら仕事をしていたが、真一郎の声に驚いたように老眼鏡 をずらし、上目づかいでこちらに顔を向けた。
「後藤君、どうかした?」
「ええ、ちょっとご相談がありまして」
 院長は真一郎の後ろに女性がいることに気がつくと、イスから立ち上がった。
「まあ、こちらに入って。ここにお座り下さい」
 院長はにこやかな顔で、来客用のソファーに二人を座らせた。真一郎は手短に経過を報告した。
「そうですか、中村さんがこの病院に寄付をしたいと・・・・・・。ありがたいことです」
 中村麗子は呆気にとられたまま、つられるように「はい」と言った。院長の提案は、真一郎が期待していたことだった。
「寄付していただけるとは、これほどうれしいことはありません」
 院長の言葉に真一郎は安心した。
「では有効利用として、どうしましょうか。勝俣さんの名前が残るような・・・・・・。院長先生、外来と病棟に本棚を買って、勝俣文庫というのはどうでしょう。中村さんの寄付金で本棚を買って、本は職員から集めましょう。また患者さんにもお願いすれば本はすぐ集まりますよ」
「それはいいが、中村さん、どうでしょうか?」
「ありがとうございます。そうしていただければ勝俣も喜ぶと思います」
「本棚はいくつ必要かな、五個かな、いやひとつでもいいか。・・・・・・もしよろしければ、寄付金はどれくらいか、教えていただければ」
 院長は心配そうに、それでいて恥ずかしそうに麗子に尋ねた。麗子は何かを考えているらしく、返事に時間がかかったが、心が決まったのか、顔をあげた。
「一千万円ほど」
「え? 桁が二つも三つも違いますよ!」
 真一郎はあまりのことに、思わず大きな声を出してしまった。
「いえ、一千万円ほど」
「ちょっと待って下さい。そんな大金、簡単に決めないでください。とにかく急な話なので、もう一度よく考えてから、おっしゃって下さい」
「でも、一千万円です」
 麗子は真一郎の言葉を意にせず平然とそう答えた。
「後藤君、どうする?」
「どうすると言われても、・・・・・・では、明日、わたしと院長が中村さんのご自宅をお訪ねしますから、そのときに改めて返事をしていただければ・・・・・・。それまでに、どなたかとご相談下さい」
「いえ、お仕事のじゃまはしたくありません。わたくしが明日伺います。・・・・・・あの、お願いがあります。明日ですが、お会いするのは院長先生と後藤先生、それに事務の方の三人だけにしてほしいのですが、よろしいでしょうか」
 真一郎と院長は顔を見合わせ、小さく「はい」と言うだけだった。

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ワンモアタイム、いつまでも

一三

 葉子の手術の日がやってきた。真一郎は病院に着くと、すぐに葉子の部屋を訪ねた。部屋に入ると、葉子は起きていたが、亜紀は背を丸めたまま簡易ベッドの布団にくるまって寝ていた。
「いよいよ手術だね、きのうは眠れました?」
 真一郎は小さな声で話しかけた。
「遅くまで亜紀と話していたわ。手術を受けるは初めてだから、なんだか怖いけど」
「大丈夫だよ、何も起こらないから。大変なのは外科の先生たちで、葉子さんは寝ているうちに手術は終わっているよ。眼を醒ましたら、元気な声で会いましょう」
「ええ、ありがとう。何かあったら亜紀のことお願いします」
「大丈夫。何も起こりませんよ。それに亜紀さんは強いから、芯がしっかりしているから、心配することは何もないでしょう」
「でも、怖いわ。もし死んでしまったら、どうしよう」
「大丈夫。ちょっと待っていてくれたら、わたしもいずれ行くでしょうから。そのときは知らないふりはしないでね。いっしょに雲の上でも散歩しましょう」
 葉子の顔が明るくなった。真一郎が笑顔で手を出すと、葉子はその手を握った。手を握り、見つめ合った。そうしているうちに、亜紀がからだを動かし、起きてきそうな様子だった。
「じゃ。元気になったら、また話そう。君のそばにいるから、安心して」
 真一郎はそう言うと、外国の映画のように、右手の親指を力強く立て、勇気と励ましの視線を送った。葉子の顔を見ながら静かに部屋をでた。
 朝の九時、いよいよ葉子の手術が始まった。真一郎は時計を見ながら気が気ではなかった。村田部長から電話が入ったのは午後の三時ごろだった。手術は順調 に行き、集中治療室で経過をみているということだった。真一郎は夕方、集中治療室に行くと、葉子の手術記録を読んだ。乳ガンは乳房を残す乳房残存術で癌塊 だけを切除、さらに右肺上葉の切除、右腋窩リンパ節切除、と書かれていた。葉子は手術の翌々日には507号室に戻り、数日後には放射線療法とホルモン療法 が開始された。
 その日も真一郎が病室を訪ねたのは遅い時間だった。507号室に向かうと、部屋から中年の女性が出てくるのが見えた。真一郎は下を向いたまま黙って通り行きすぎようとすると、女性は真一郎に気づいたらしく、「あら、後藤先生じゃない?」と声をかけてきた。
「わたしです。杉山です。しばらくぶりです」
 その声に顔を上げると、目の前の女性は杉山と結婚した高橋恵子だった。恵子と会うのは二年前の杉山の葬儀のとき以来だった。葬儀の時、恵子は遺族席で下 を向いたままだったので、恵子の声を聞くのは杉山の結婚式以来、初めてだった。杉山と名乗ったから、その女性が杉山恵子とわかったが、街ですれ違っても気 づかないほどだった。恵子は目もとにシワを寄せ、心配そうな顔をして訊いてきた。
「葉子さん、元気そうですけど、大丈夫かしら?」
「ええ、大丈夫だと思いますよ」
「本当? 良かった。入院する前に会った時は落ち込んでいてね、見ているのが辛かったの。でも安心したわ。本当に後藤先生がいて助かったわ」
 真一郎は思い出した。このしゃべり方だった。早口で気さくにしゃべるのが恵子の特徴だった。あの居酒屋の飲み会の時、表情を変え次々にしゃべってくるのを、自分に好意を持っていると誤解していたが、それは恵子の単なる癖だった。
「杉山さん。まだ杉山さんと呼んでいいの?」
「ええ、まだ杉山です」
「懐かしいですね、よろしければ、ちょっと話でもしましょうか、時間ありますか?」
「ええ、いいですわ」
「どうしましょうか。ご自宅は町田でしたよね。もしよろしかったら日吉の駅でどうですか?」
「ええ、時間はたっぷりありますから」
 真一郎は葉子の部屋によることを帰宅前の日課にしていたが、その日は例外と決め込んだ。部屋に戻って着替えると、恵子を待たせてあるタクシー乗り場に急 いだ。病院から日吉の駅まではすぐだった。タクシーを降りると、なじみの日本料理屋に入った。奥のテーブルにつくと、適当に料理を注文した。
「恵子さんと話すのは、何年ぶりだろう。杉山があんなことになって、本当に辛かった。恵子さんも辛かっただろうけど、可哀想だね、杉山は・・・・・・。いいやつだったのに」
「あれからもう二年になるかしら、辛かったわ。杉山が死んで、でも葉子が助かれば・・・・・・」
「葉子さんは、大丈夫だろう」
「それならうれしいけれど、乳ガンで肺転移と聞いたときは驚いたわ」
「わたしも最初はダメかと思ったが、治療がうまくいっているようで、退院できそうだよ」
「本当? 良かったわ」
「ところで、葉子さんとわたしが、偶然のいたずらで別れてしまった。こんなことって、あるのだろうか?」
「そうね、話は葉子から聞いていたけど、でも葉子は、あのままの女性(ひと)よ」
「葉子さんの言葉を、そのまま信じていいのだろうか?」
「どうでしょう。過去は、過去でしょう? 言いたくないことがあったら、無理に聞くこともないでしょう? 別にどうでもいいじゃないの? それよりも、今が大切じゃない?」
「えぇ? 葉子さんとのことは、いつから知っていたの?」
「入院するちょっと前かしら」
「そうか、杉山は、わたしと葉子さんのこと知っていたのだろうか?」
「杉山が知っていたはずないでしょう。知っていたら後藤さんに話したはずよ・・・・・・。後藤さんが葉子さんと付き合っていたことも、後藤さんが振ったことも、杉山は知らなかったわ」
「わたしが振った? まいったな、どうなっているのだろう」
「過去のことは、どうでもいいじゃない。誰だって、誰にも言えない秘密ぐらいあるものよ、真一郎さんはいい家庭を持っている、と葉子は言っていたわよ。それに葉子さん離婚するつもりよ。だったらまたやり直せるじゃない?」
「たしかに葉子さんを愛していたけれど、でもそれは大昔の話さ。葉子さんとは、良き友達でいるつもりだよ」
「でも後藤さんは葉子を愛して、葉子が裏切ったと誤解して、信じながら、信じられずに違う道を歩んだのでしょう? 葉子は被害者、後藤さんは加害者よ」
「ちょっと待ってください。わたしが加害者? まぁ、どちらが加害者か被害者かわからないが、犯罪に時効があるように、恋愛にも時効があっても・・・・・・。でも、自分に家庭という歯止めがなかったら、正直言ってどうなっていたかわからないが・・・・・・」
「真一郎さんは、奥さんのことを愛しているのね」
「愛しているなんて、そんなこと急に言われても、恥ずかしいだけでわからないが。・・・・・・家内とは、そうねぇ、友愛かな。最大の友人だよ」
「そうか、葉子の帰る場所を考えていたけど、残念。・・・・・・純愛物語を期待していたのに」
「純愛物語? 純愛ね、・・・・・・純愛。ところで純愛って何だろうね」
「そう言われてみれば、純愛って何かしらね? 自己犠牲的な愛情? 命がけの愛かしら・・・・・・」
「ちょっとピンとこないね。・・・・・・純愛って、愛情プラス死の幻想かな?」
 真一郎はそう言うと、運ばれてきた酒を飲みながら考え込んでしまった。愛という言葉は日常に溢れている。そして死という言葉も病院では日常茶飯事のことだった。しかし純愛という言葉は別世界の言葉のように思えた。
「そうね、ハッピィーエンドの純愛は存在しないし、どんなに愛していても、家族の愛は純愛とは言わないわね。それに年老いたカップルが、愛し合ったまま片 方が死んでも、純愛とは言わないわね。純愛って、女性が病気で死んで、残された男性が思い出の中で愛を叫び視聴者の涙を誘う、というドラマのパターンよ ね。もし葉子がこのまま、美しいまま遠い世界へ行ったら、純愛の条件は成り立つわね」
「馬鹿なことを言わないで下さい。ドラマはドラマであって、ドラマのような人生なんて有り得ないよ。でも純愛って、やはり幻想かな、・・・・・・そういえば、杉山は、ごめんね、杉山はどうして交通事故なんかで死んでしまったのだろう?」
「交通事故は、表向きの理由よ。・・・・・・本当はわからないの。病院からの帰りに首都高速で事故を起こして、でもわからないわ。シートベルトをしていな かったの、そんなこと絶対に有り得ないことよ。病院の帰りに首都高速なんか走るわけがないのに、町田の自宅とは反対方向で、それより、深夜に都心に用事な んて、あるはずないんですもの」
「もしかして、自殺?」
 低い声でそっと訊いてみた。
「多分そうだと思うわ。杉山はずいぶん悩んでいたから。医療事故というのかしら、毎日、深夜まで仕事をして、あの日は当直の徹夜明けで、大腸の内視鏡検査 をやって、患者さんの腸に穴をあけてしまったらしいの。患者さんが急変して緊急手術。それから四日間病院に泊まり込んだが、ダメだったの。・・・・・・病 院って冷たいわね。全部杉山に責任を押しつけて、杉山はもう別人みたいだったわ。あの事故から二か月後のことよ、首都高速の分岐部に激突だって、警察は交 通事故として扱ったけど、交通事故なんて考えられないわ」
「杉山は、責任を全部かぶるタイプだから・・・・・・。でも可哀想だね」
「そうね、言われてみれば、これが純愛かしら・・・・・・。でも純愛なんか必要なかったのに、杉山が生きていれば、それだけで良かったのに」
「杉山なりに悩んでいたのだろう?」
「悩んでいたことはわかるけど、死ぬことなんかないのに・・・・・・。死んでしまったら、何もかもおしまいよ、まったく馬鹿よね、本当に」
「そう言わないで、あいつは本当にいいやつだったんだから」
「もう許せない。意地でも天国になんか行ってやらないから」
 恵子はそう言うと、グッと酒を飲んだ。
 恵子は飾るところがなく、裏も表もなくしゃべり続けたが、葉子の過去については知らないようだった。

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ワンモアタイム、いつまでも


一二

 村田部長の対応は早かった。入院翌日には触診で乳ガンの可能性が高いと判断、同日のMRI造影、エコー検査で乳ガンで間違いなしと診断した。頭部MRI で脳転移なし、骨髄シンチで骨転移なし。次から次と検査が進み、葉子に悩む時間を与えないほどだった。乳ガンに対し針生検が行われ、ガン細胞のホルモン感 受性、遺伝子型が調べられた。
 真一郎はいつも面会時間を避けて葉子の部屋を訪ねていた。ちょうどその日は夕方の遅い時間だった。部屋に入ると、葉子はテレビをつけたまま、遠くを見つ め物思いにひたっているようだった。食事はすでに済んだらしく、ベッド柵に乗せられたテーブルには、食べ終えた食器がきれいに重ねられていた。
「気分はいかがですか?」
「ええ、大丈夫です」
「夕食はいかがでした?」
「ええ、美味しく頂きました」
 サイドテーブルには上品なピンク色の花々が、花瓶から盛り上がるように飾られていた。十種類ほどの花々が華やかさを競いあい、それらが殺風景な部屋を明るくしていた。
「きれいな花ですね。その花の名前、ひとつ、ひとつ言えますか?」
「バラ、カーネーション、ええっと、他の花の名前はわからないわ。多分、カタカナの長い名前なのでしょうね、本当、こんなきれいな花の名前を言えないなんて、恥ずかしいわ」
「この花は、亜紀さんが買ってきたの? そう言えば、亜紀さんは?」
 部屋にはいつも亜紀がいるはずだったが、その日は亜紀の姿が見えなかった。いつもならば、テーブルの上には本が乱雑に置いてあるのに、テーブルはきれいに整頓されていた。
「今日は、家に帰りました。おもしろいのよ、亜紀ったら、帰ったら、すぐお風呂に入る、と言って頭をかきながら出て行ったのよ」
 葉子は可笑しそうに話すと、白く細い手を袖から伸ばして、テレビのスイッチを切った。葉子はベージュ色の患者用の浴衣を着ていた。
 真一郎はベッドの側にイスを移動させて腰をおろした。葉子と再会して初めてふたりだけになった。空調の音がわずかに聞こえるだけで、ふたりは静寂のなかにいた。同じ高さの視線で向かい合うと、お互いに、気恥ずかしい雰囲気に包まれた。
「亜紀さんは、今日はひとりで食事ですか。亜紀さんも、ひとりじゃ寂しいでしょうね」
「いいえ、亜紀はひとりでレストランに入れますから。レストランで新聞を読んだりしているのよ」
「へぇー、ひとりでレストランに、さすが今の若い女性(ひと)は違いますね。葉子さんはひとりでレストランに入れますか?」
「そうですね、喫茶店ならば入れますけど、ひとりでレストランに入ったことはないわ」
「・・・・・・亜紀さんはお母さん思いで、葉子さんは、亜紀さんがいて幸せですね」
「そうですね。亜紀とは親子というより、友達みたいなものですから」
 来週には手術になるはずなのに、落ち着いたしゃべり方だった。葉子の穏やかな様子を感じ取ると、覚悟を決めた。それまで胸に詰まっていた疑問を、それとなく小出しに訊いてみることにした。
「亜紀さんは、あなたのことを何でも知っているの?」
「全部は知らないでしょうが、大体のことは・・・・・・」
「杉山と高橋さんが結婚したこと知っている?」
「ええ、知っているわ」
「杉山が亡くなったことも?」
「もちろん知っているわ。・・・・・・杉山さん、可哀想ね。まだお若いのに」
 葉子の話し方は予想に反し気負いがなく自然だった。真一郎の重苦しい質問を、深刻さをみせずに、しかも日常会話のように答えてくれた。
「杉山たちは、僕たちのことを知っていたのだろうか?」
「杉山さんたちが、わたしたちのことを知っていたか、どうかと言うこと? ええ、もちろん知っていたわ」
「それはあなたが話したから?」
「そうね、・・・・・・そうなるかしら」
 葉子は昔を懐かしむように、ゆっくりとそう言った。
「一度だけでいい、本当のことを教えてほしいんだ。あなたはなぜ、さようならの言葉も残さず、わたしと、さよならをしたの?」
「さよなら? 過ぎたことは思い出したくないわ。・・・・・・でも、真ちゃんがそんな顔で訊くから、本当のことを言うわ。真ちゃんから連絡が途絶えて、半 年ぐらいかしら、父が脳梗塞で倒れて、しばらく名古屋に帰っていたの。大学を卒業して、そしてお見合いで結婚したの。真ちゃんと別れ、そうね、もう誰でも 良かったの。名古屋で結婚して、亜紀が生まれて・・・・・・、夫の仕事の都合で東京に来て・・・・・・」
「わたしの手紙を読んだ?」
「えっ? 手紙ってなに? 何のこと? 知らないわ」
 葉子は、自分を捨てた張本人なのに、何も知らないように、きょとんとしていた。
「君に二通の手紙を書いたんだ、読んでない? どうして? 真面目な手紙だったのに」
「でも本当よ、読んでいないわ。何なのそれ」
「そんな、あなたのアパートで手紙を盗むような人は?」
「盗む? あのアパートで? そんな人、いるわけないわ」
「正直に言うよ。馬鹿なことかもしれないが、新宿駅であなたが他の男性と楽しそうに歩いているのを見たんだ。それであなたの気持ちを知りたくて手紙を書いた。それを読んでない?」
「それって、どうゆうこと? 読んでいないものは、読んでいないわ」
「自分の人生を賭けた手紙だったのに、読んでいなかったのか・・・・・・」
「手紙は貰っていないわ。どんなことが書いてあったの?」
 葉子は興味深そうに、まばたきもしないで身を乗り出してきた。しかし真一郎は葉子の質問に答えず、どうしてこうなったのかを考えていた。間違った思い込みだったのか、何もかも間違っていたのか、そう思うと思考が停止したまま呆然となった。
「読んでない? あぁ、どうなっているのだろう。どうしてこうなったのだろう?」
 何も喋りたくなかった。しかし葉子は真一郎の失望とは関係がないように、謎解きを楽しんでいるように眼を輝かせていた。
「あら、もしかして、真ちゃんが見た男性って彼のことかしら」
 葉子はポロッと言った。
「彼って?」
「高校の時から付き合っていた友達のこと。アメリカに行った友達とは会ったわよ。でも彼はただの友達よ、誤解しないでね。それにずいぶん昔のことよ」
「誤解しないで、と言われても、あぁ、・・・・・・人生間違ってしまったな、何のためにこれまで悩んできたのだろう。あなたと別れ、辛かったんだ。もう昔のことだから、気楽な気持ちで言えるけど、本当に辛かったんだ」
「でも、良いほうに変わったのでしょう? 真ちゃん幸せそうよ」
 葉子は真一郎の落胆を気にするでもなく、物事の展開をおもしろそうにしていた。
「じゃ、あの手紙はどこにいったんだろう?」
「真ちゃんは、どこかヌケてるから。住所を間違えたんじゃないの? あのアパートは三棟あって、用心のため父の名前で借りていたのよ」
「そんな。でも住所を間違えたとしても、手紙は差出人に戻ってくるだろう?」
 そう言うと、はっと気がついた。葉子への手紙には差出人の名前を書いていなかった。手紙を読めば、葉子なら差出人が自分であることがわかるはずだった。 もし付き合っている男性がいて、その男性が手紙を読んだとしても、差出人が誰なのかわからないように、と考慮してのことだった。・・・・・・どんなことで あれ、葉子が手紙を読んでいない、ということはショックが大きすぎた。明るい部屋なのに、目の前が暗くなり、肩に落胆の重りがのしかかってきた。小さな声 で訊いてみた。
「わたしたちのこと、亜紀さんはどこまで知ってるの?」
「大体のことは話してあるわ、親子ですもの。真一郎という悪い遊び人がいて、わたしを振ったってね」
「わたしが振ったって? ノートにわたしのこと書いていたの?」
「ノート? ノートってなに?」
「亜紀さんから聞いたんだ。母親のノートを読んだら、わたしのことが書いてあったと」
「ノートなんて大げさなものではないわ、メモ程度かしら。何となく寂しくなって、書いてしまったの」
 悪気もなさそうに、葉子は軽くそう答えた。
「わたしがこの病院に勤めていることを、どうしてわかったの?」
「恵子さんが教えてくれたの、同級生名簿で知ったのよ」
「そうか、恵子さんか。恵子さんとは、よく会っているの?」
「ええ、たまにですけど。でも驚いたわ、亜紀が強引に話を進めて、真ちゃんとまた会えるなんて・・・・・・。もう会えないと思っていたのに」
「あなたがこの病院を選んだんじゃないのか」
「そうよ、病院じゃなく、真ちゃんを選んだの。本当は、真ちゃんに会いたいと、ポロッと亜紀に言ってしまったの。そしたら亜紀がすぐに恵子さんに電話し て、でもうれしかったわ。本当よ、真ちゃんが最後まで看取ってくれると聞いてうれしかったわ。わたし決心したの、乳ガンが治っても、治らなくても、もう一 度生まれ変わろうって」
「生まれ変わるって?」
「死んでも、死ななくても、夫のもとには帰らないつもりよ」
「離婚する、と言うこと?」
「そう、離婚なんて、乳ガンに比べれば、たいしたことじゃないわ」
「じゃ、退院したら家には帰らないつもり?」
「生きても、死んでも、第二の人生よ。悔いはないわ」
「誰か頼れるヒトがいるの?」
「目の前にいるわ」
「えっ?」
 真一郎は不意を突かれ慌ててしまった。
「冗談よ、いやね。顔が赤くなっているわ。真ちゃんって本当に純粋ね。・・・・・・そうね、真ちゃんが女性を振るわけなかったか。あぁ、損をしてしまった」
 長年、思い詰めていたことが、葉子の言葉であっけなく解けてしまった。あれほど悩んでいたのに、過去は無惨な自作自演の幻想だった。これまで何のために 悩んできたのか。過去の間違った幻想に縛られたまま、それを今さら訂正しようとしても、あまりに時間が経ちすぎていた。自分があまりに馬鹿らしく、虚脱感 の中で何度も苦笑してしまった。窓ガラスを見ると、暗闇の手前に愚かな自分が映っていた。

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ワンモアタイム、いつまで

一一

 亜紀には前もって乳ガンの治療法を考えていると言っていたが、本当は治療を諦めていた。乳ガンの肺転移、リンパ節転移であれば治療法はなく、緩和ケアーか終末医療と思い込んでいた。真一郎はレントゲンと検査結果を持って、村田外科部長の部屋にむかった。
 中原病院の村田外科部長はメスを持てば超一流と噂されていた。それでいて名前を売ろうとする態度はなく、論文や学会よりも、患者さんの治療を何よりも優 先させていた。外科の医局員たちには厳しい指導だったが、対外的には威張るところもなく温厚だった。そのため外科だけでなく、他科の医師や看護師たちから も慕われていた。
 村田部長の部屋に入ると、机の上にはコンピューター、さらにはコップから歯ブラシまで雑然と置かれ、書類がうずたかく積み上げられていた。村田部長はレ ントゲン受け取ると、蛍光灯にかざし、食い入るように見つめながら、真一郎から葉子の病状を聞いていた。そしてしばらくして一言(ひとこと)、「治療しま しょう」とあっさりと言った。真一郎は自分の耳を疑った。部長の迷いのない短い言葉が信じられなかった。
「改善の可能性はあるのですか?」
 恐る恐る訊いてみた。
「やってみなければ、わからないが、大丈夫だろう。この程度なら良くなるよ。乳ガンの治療は進歩しているから、教科書レベルの治療は最新の治療とは言えないんだ。まぁ、諦めることはないだろう」
「そうですか。それは延命治療という意味ですか?」
「いや、延命治療ではなく、完治を目指してということです。この患者の場合は、乳ガンで肺転移があるから、悪性は悪性だろうが、そんなに大変ではない。何とかなるだろう。退院は出来ますよ」
 村田部長は右手に持ったレントゲンの角度を変えながら、顔色を変えずに説明を続けた。
「この肺の陰影は、周辺が丸くはっきりしているから、肺ガンではなく、きっと乳ガンの肺転移だろう。CTで乳ガンが映っていないのだから、乳ガンは多分小さいのだろう。肺のリンパ節は、このレントゲンでは、・・・・・転移はないな」
「肺の転移はどうするのですか?」
「乳ガンも肺も手術で取りましょう。そのあとでホルモン療法か化学療法で治療すればいいだろう」
「それで大丈夫でしょうか?」
「いいじゃないの」
 真一郎は村田部長のあっさりとした返答に呆然としていた。村田部長は「この程度で、手術をしないでどうするの」と言いたげだった。さすがプロだと思っ た。医学を知っているようで知らない、無知な自分を恥じてしまった。真一郎は自分の馬鹿さ加減を知ると同時に、それ以上の喜びが体中から溢れてきた。
「では先生。明日、外科に依頼しますから、診察よろしいでしょうか」
「もちろんです。診察したら外科に転科としますが・・・・・・。ところで、この患者さんは閉経前なの?」
「訊くのを忘れていました」
「あっそう。いいよ、明日訊いておくから。乳ガンの治療は閉経前と後では違っているから。まぁ、どちらにしても希望はあります」
「外科への転科は問題ありませんが、ただその女性とは知り合いなので、わたしも治療に加わりたいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろん問題はありません」
 外科部長の部屋を出て自室に戻ると、真一郎はひとりほくそ笑んでしまった。うれしかった。あれほど自然な言葉で、村田部長が希望を与えてくれるとは思っ てもいなかった。村田部長の言葉に勇気づけられ、世の中の暗闇がいっきに晴れ渡ったように感じられた。真一郎がこれまで経験した乳ガンは転移のない乳ガン だけだった。転移をきたした乳ガンの根本治療はないものと最初から決めつけていた。真一郎はひとりでコーヒーを飲みながらうれしい気持ちにひたっていた。 部長の言葉を信じ、乳ガンに対する自分の考えを修正した。
 部屋を出ると、軽い足取りで507号室に向かった。507号室に入ると、葉子はベッドに座ったまま、亜紀は窓辺に立ったまま、夕日の沈むのを眺めていた。窓の外は中庭になっていて、その向こうには丹沢山系が霞んでいた。そして山の稜線に夕日が沈もうとしていた。
「どうです、いい眺めでしょう」
「本当にきれいな夕日ですね」
 葉子は振り向くと、しみじみと言った。真一郎も立ったまま夕日を眺めた。
「この夕日を、違う場所で見られるように、頑張ってみませんか」
 さりげなく真一郎が言うと、葉子は「えっ?」と驚いたように小さな声をもらした。
「どこがいいかな、横浜のみなとみらい、お台場、富士山に夕日が沈むのもいいでしょうね。・・・・・・どうです。いっしょに頑張ってみませんか」
 窓辺に立っていた亜紀は、思いがけない言葉に振り向くと、母親の返事を待つように葉子の顔を見つめた。葉子の口が動いた。
「真ちゃんにお任せします」
「わかりました。明日、外科部長に診察してもらい、治療は外科部長に判断してもらいます。よろしいですか。もちろん葉子さんが退院するまで、わたしは主治医のつもりです」
 葉子は真一郎を見つめ、口をつぐんだままうなずいた。
「亜紀さん、よく勉強して下さいね。お母さんの乳ガンは治りますからね」
 元気な言葉に、亜紀は茫然とうなずいた。真一郎はそれ以上、言葉が続かなかった。「では、また来ます」と言って、涙が出る前に病室を出た。病室を出ると涙が頰を濡らした。それは晴れやかな、そしてうれしい涙だった。

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ワンモアタイム、いつまでも



 十一月四日の月曜日がやって来た。葉子と亜紀は十時に病院に着いていたが、真一郎は外来中だったので、病室に行ったのは午後の二時ごろだった。病棟で葉 子の部屋番号を調べると、507号室の個室に入院していることがわかった。主治医の欄には後藤真一郎の名前が書いてあった。そばにいた看護師に、訊かれも しないのに「古河葉子は高校時代の同級生で、サッカー部の選手とマネージャーの関係」とそれとなくしゃべった。これならば部屋を頻回に訪ねても不自然では なかった。
 507号室へ入って行くと、葉子はパジャマ姿で、ベッドの背もたれにからだをあずけていた。亜紀はソファーに座っていた。パジャマが大きいせいか、葉子 は二週間前より少し痩せたようだった。また蛍光灯のせいか、肌の色がホテルで会ったときよりも白くみえた。肌の白さは美人を連想させるが、同時に貧血をも 意味していた。乳ガンの骨髄転移による貧血なのだろうか、それとも化粧をしていないせいなのか、少し心配になった。
「葉子さん、お疲れではないですか?」
「いえ、大丈夫です」
 澄んだ声は意外に元気そうだった。
「息切れは、どうですか?」
「咳は少しありますが、息切れはありません」
「そうですか。遠いところ大変でしたね。今日は車ですか?」
「ええ、亜紀が運転してくれましたから」
「この病院、すぐにわかりました?」
 神妙な顔をしている亜紀に訊いてみた。
「ちょっとむずかしかったです。道を間違えましたが、早めに家を出ましたので、時間どおりにこれました」
「ところで、診察は省略しますが、よろしいですか。どうせ診察してもヤブ医者ですから、何もわかりませんので・・・・・・。亜紀さんは医者のタマゴですから、お母さんが言いにくいことがあったら、亜紀さんが代わりに話してくださいね」
「わかりました」
 亜紀はうなずいた。真一郎が診察を省略したのは、本当は葉子の裸を見たくなかったからである。医師としては失格であるが、かつての乳房やウエスト、その思い出を壊す勇気がなかったのである。現実からの逃避だった。
「快適な入院生活を送って下さい。それが入院の目的ですから、辛いこと、嫌なこと、全部言ってください、よろしいですか」
「食事の持ち込みはよろしいでしょうか?」
「規則では禁止されています。でも知らんぷりをして、どんどん持ち込んで下さい。あくまでも、知らんぷりでね。持ち込みを注意するような野暮な看護婦は、うちの病院にはいませんから、・・・・・・うちの看護婦は本当に白衣の天使ですよ」
「そうですね、さきほど看護婦さんがいらっしゃいましたけど、やさしいかたでした」
「そうでしょう。ところで、すごい荷物ですね。それ旅行用のバックじゃないの?」
 真一郎はテーブルの横に置いてあるバックを見てそう言った。
「それは、わたしのです。勉強に必要な本を入れてきたので。このバックはキャスターが付いていて、街の中を引っ張るのは楽ですが、病院では音が響いて、あまりに大きな音なので恥ずかしくなりました」
 亜紀は自分の失敗を可笑しそうに答えた。
「いいですよ、気にしないでください。お母さんのため、勉強のためですから。そういえば亜紀さん、お母さんに付き添うと言ってましたね」
「ええ、そのつもりです」
「付き添いはかまいませんが、疲れますよ。付き添いのベッドは安物ですから、食事のこともありますから、時々自宅に帰られたほうがいいですよ」
「ええ、わたしの着替もありますし、母の洗濯物もありますから、一日置きぐらいに帰るつもりです」
「そうですね、なるべく無理をしないで下さい。・・・・・・では、申し訳ありませんが、わたしは他に用事がありますので、時間が空きましたらまた伺います」
「ありがとうございます」
「では、のちほどまた参ります」
 ナースステーションに戻ると、吉祥寺の病院から、がんセンター宛に書かれた紹介状のコピーを読んだ。「約半年前から咳あり、近所の内科医院を受診。咳止 めの薬で経過をみていたが、改善しないため胸部レントゲンを撮ったところ、右の肺に異常陰影が見つかり、当病院へ紹介入院となった。胸部CT検査から肺ガ ンと診断。しかし全身検索で右乳房にしこりが見つかり、乳ガンの可能性が考えられた。乳房のしこりは触診でやっとわかる程度。乳ガンとの確定診断には至っ ていないが、可能性は高いと考えられる。右腋窩リンパ節の腫大を認めるが、転移かどうかは不明。肺ガン単独か、あるいは乳ガンの肺転移、リンパ節転移と考 える」と書かれていた。
 真一郎は前もって入院当日の検査を予約していた。それらの検査は午前中にすべて終わっていた。真一郎は午前中に撮った胸部レントゲン、胸部CT写真を取 り出すと、写真を見つめたまま葉子の病態を考えていた。そして血液検査結果をチェックすると、心配していた貧血はなかった。そばにいた看護師に声をかけ た。
「507号の古河さんのお嬢さんを呼んで下さい。母親の病状を説明したいので、・・・・・・本人にわからないように、入院会計の手続きと言って、お嬢さんを呼んでもらえませんか」
 真一郎は亜紀が来るまでレントゲン写真をじっと見つめていた。亜紀がナースステーションに入ってきた。
「お母さんのことで、話があるのですが、面談室へよろしいでしょうか」
 真一郎は立ち上がって、亜紀を面談室へ案内した。ナースステーションには看護師がいたので、話がしずらかったのである。面談室でレントゲン写真を手に持ち、それを亜紀に見せながら説明した。
「これが今日のレントゲン写真です。胸部レントゲンで右肺の上肺野、ここですが、ここに異常な陰影が写っています。次ぎにこれが胸部のCT写真ですが、こ の部分に異常陰影があるのがわかると思います。肺のリンパ節に転移があるかどうかは微妙ですが、このレントゲンを見れば、患者さんが男性ならば肺ガンは確 実です。でも、お母さんの場合は、乳ガンの肺転移の可能性を考えなければいけません。まずは乳ガンがあるのかないのか、それが診断のポイントになると思い ます。血液検査では特別な異常はありません。・・・・・・それで、お母さんのことですが、あれからいろいろ調べてみました。わたしはお母さんのために全力 を尽くすと約束しました。その気持ちに変わりはありません。・・・・・・でも、もし乳ガンで肺に転移となれば、化学療法しか治療法はないと思います。改善 の可能性が少しでもあるならば治療すべきです。亜紀さんはこの前、治療法がないと言ってましたよね。でも可能性があれば、可能性にかけてみるべきだと思い ます」
「この前、先生にお会いしたとき、母は治療を拒否していると言いました。確かに母は治療を拒否していたのです。でも先生、それは母が先生にお会いする前の話です。先生にお会いして気持ちが変わっているかもしれません」
「亜紀さんの考えはどうなの?」
「本当はよくわからないのです。先生、教えて下さい。もし先生の奥さんが、同じ病気になったら、どうしますか?」
「わかりません。多分、治療はしないでしょう」
「では、母の場合は?」
「わかりません。治療をするかもしれません」
「どうしてですか?」
「もし患者さんが最愛のひとなら、愛情が判断をくるわせるからです。お母さんの場合は自分の判断ではなく、外科の専門の先生に、判断をゆだねるつもりで す。その上で、治療をするのか、しないのかを決めたいと思います。お母さんが治療を受け入れるかどうかは別として、あなたの考えは?」
「すべてお任せします。ただお母さんを苦しめないで下さい」
 亜紀は眼を赤くして、涙を浮かばせていた。
「わかりました約束します。全力をつくすことを約束します。たとえ治療しないと方針が決まっても、全力をつくして何もしないつもりです。よろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
 亜紀の声は弱々しく、やっとの思いで返事をしているのがわかった。
「亜紀さん。ここの病院の売店がどこにあるのか、知っていますか?」
「いえ」
「一階の入り口の右側です。これから売店に行って、お母さんの好きなモノを買って部屋に戻って下さい。・・・・・・それまでに涙が乾くでしょう。よろしいですか」
 涙をこらえている亜紀を、母親を思う娘の亜紀を、いじらしく思えた。そしてキザなセリフが、そのまま自然に出てしまった。亜紀は涙を拭こうともせず、 「ありがとうごさいました」と声を詰まらせて面談室をでて行った。真一郎は廊下を歩いて行く亜紀の後ろ姿を見ていた。うなだれて気落ちした後ろ姿、それは 母親のからだを心から案じる娘の姿だった。
 真一郎は医師として毎日のように人間の生死を見ていた。葉子に対しても、他の患者と同じように冷静だった。真一郎にとって葉子はひとりの患者であり、亜紀はその家族のひとりだった。医師にとって必要なことは冷静な態度と判断だ、と新たに悟ったような気がした。


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ワンモアタイム、いつまでも



 それは薄暗い病室だった。窓のカーテンは隙間なく閉められ、夕暮れの残光がカーテンを赤黒く染めていた。葉子は点滴を受けたままベッドに横たわり、点滴を受けている白く細い腕を、掛け布団の上からのぞかせていた。
 真一郎はポケットから精神安定剤のアンプルを取り出し、注射器で溶液を吸い上げると、葉子の顔を見た。すると寝ていたはずの葉子は、ぼんやりと眼を薄く 開け、真一郎の動作を静かに見ていた。真一郎が眼で合図を送ると、葉子は次ぎに起きる事態を受け止めているように、小さくうなずいて眼を閉じた。ベッドの 側にぶら下がっている点滴のチューブをさぐり、側管から精神安定剤を注入すると、もう一度、葉子の顔を見た。穏やかな美しい寝顔のままだった。次に速効型 インスリンの瓶を取り出して、注射器で吸い上げた。
 真一郎は葉子の顔をしばらくのあいだ見つめていた。葉子の人生はこのインスリンの注射で終わりをむかえるはずである。しかし、葉子の生命、葉子の肉体、 それらを奪う気持ちはなかった。むしろ安息の世界へ送ってあげたい、そのような安堵に近い気持ちだった。これでいい、もうこれ以上苦しめるのはやめにしよ う。手に持ったインスリンを一気に注入した。もう後には戻れない、もう葉子は帰ってこない。でも、これでよかった。これで葉子は苦しみから解放される。葉 子の手を握りしめた。この暖かい手が冷たくなるまで・・・・・・、自分に出来ることはこれしかなかった。許して欲しい。
 その時、背後から刺すような妖気を感じ、振り向くと亜紀が立っていた。亜紀の顔は能面のように無表情のまま母親を見ていた。何かを言い出すのか、と亜紀 の顔をじっと見た。すると亜紀の顔が、写真を斜めに切ったようにふたつにわかれ、いっぽうの顔が崩れ、数秒後、もういっぽうの顔が崩れた。・・・・・・ど うしたんだ。何が起きたのだ。真一郎は振り向いて葉子の顔を見ようとしたが、ベッドの布団はめくれたまま、横たわっているはずの葉子がいなかった。外から の突風がカーテンを舞い上げ、赤黒い夕日が渦を巻きベッドを照らしていた。・・・・・・夢だった。恐ろしい夢だった。真一郎は、病院の部屋で足を机に投げ たまま、いつのまにか寝ていたのだった。首のまわりには汗がべっとりとついていた。
 いやな予感がした。全力を尽くしても、尽くしきれないかもしれない。苦しみを与えるだけかもしれない。葉子が苦痛に耐えられなくなったら、インスリンを 手にした自分がベッドの側に立つシーンがやってくるかもしれない。安楽死という禁じられた言葉が頭をよぎった。そしてその言葉が脳裏にあったからこのよう な夢を見たのだろう。それは安楽死という事態を予感させる嫌な夢だった。たとえ夢であっても心が暗くなった。
 人間としての葉子の尊厳を守るためには、安楽死という行為を否定することはできなかった。医師としての倫理観、社会通念としての法律、たとえ自分の行為 がそれらに反したとしても、葉子を苦難から救うためには許されるべき行為、と考え込んでしまった。安楽死という最悪の事態を予想し、その対応に暗くなっ た。
 コーヒーを飲み、来週には葉子が入院するのかと思っていた。その時、ポケットベルが鳴り、電話交換士が「横浜労災病院の石井先生からの外線です」と伝えてきた。あの女医さんからだ、からだを固くして受話器を耳に当てた。
「先生、先日はいろいろとありがとうございました。新幹線の勝俣健介さんですが、順調にいきまして、明日退院になる予定です。勝俣さんのご自宅から遠いので、以前通っていた病院に紹介状を書くつもりですが・・・・・・」
 あの女医さんの明るい声だった。よかった。さきほどの夢が、勝俣健介の悪い知らせを予感させていたので、ダメかと思い受話器を握っていたのだった。
「本当ですか、それはよかった。それで病名は心筋梗塞ですか?」
「はいそうです。心臓の下の部分、下壁梗塞でした。心臓カテーテルで冠動脈にステントを入れ、もちろん意識も正常になりまして、もう普通の生活ができる状 態です。・・・・・・ところで、後藤先生のことは内緒にしているのですが、勝俣さんが先生のことを命の恩人だ、と何度も訊いてくるので、先生さえよろしけ れば、先生のお名前を教えたいと思っているのですが、どうしましょうか?」
 真一郎は勝俣健介の無事を知り、明るく心が躍っていた。
「いや、勘弁してください。わたしは男性が嫌いですから、とくに中年の男性は・・・・・・」
「また先生、冗談でしょう? 本物の奥さんはきれいな方ですよ」
「わたしは学問一筋、男性も女性も嫌いなんです。・・・・・・面倒なことは嫌いですから、わたしのことは言わないでください」
「では先生のおっしゃるとおりにします。でも本当によろしいのですか?」
「はい、そのようにお願いします。・・・・・・ところで、石井先生はお若いから、将来がありますから、頑張ってください。こんどお会いすることがありましたら、食事ぐらいおごらせて下さい」
「ありがとうございます。わたしも勉強して、先生の意地悪な質問に答えられるように、頑張ります。これからも宜しくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ萎縮した脳ミソにむち打って頑張りますから。・・・・・・では、何かありましたら、また宜しくお願いします」
 真一郎は気分よく受話器を置いた。・・・・・・あの勝俣健介が回復した。そして自分を命の恩人だと思っている。うれしかった。ただうれしかっ た。・・・・・・生まれてから死ぬまでが人生であるが、人生はただそれだけであるが、うれしかった。勝俣健介の人生は終わりとならず、また新たな人生が始 まるのだ。あの勝俣健介が、・・・・・・彼とは話しはできなかったが、物体にすぎなかった勝俣健介が、無事に生還したのだった。
 勝俣健介、彼はどのような人物なのだろうか。グリーン車に乗っていたのだから経済的には裕福なのだろう。別れた女房と旅行に行き、ふたりの女性の前で生 死をさまよい、そしてこれからも、多分、同じような生活を送るのであろう。真一郎は勝俣健介の心情を知りたかった。しかし面会を断った以上、もう彼と会う ことはない。でもうれしかった。あの勝俣が救われ、社会復帰ができたと思うと、大声で叫びたいほどうれしかった。勝俣健介の生還、そしてあの女医さんの弾 むような明るい声。心が晴れ渡り、からだ全体が軽やかになった。

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