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2010.02.09 15:12 |  生活 / くらし  |  昭和 30年代 中  |  スーさん  | 推薦数 : 0

売春防止法

売春防止法(昭和33年)
 明治5年,明治政府は外国への体裁から娼妓解放令をおこなった.これにより女性の人身売買は建前上禁止されたことになった.しかし貧困から遊郭に集まっ てくる女性たちの生活は変わらなかった.親の借金を背負った娘たちは年季奉公を強いられ,身体を犠牲にして働いていた.人類史上最古の職業とも言われる売 春は,江戸時代から,明治,大正,昭和と年号が変わっても,日本の管理売春の形態は,遊郭から奥座敷経営になっただけで何ら変わらなかった.娼妓解放令が 出されたものの,公娼制度は戦前まで残されていた.
 昭和21年1月,GHQは日本政府にそれまでの公娼制度を廃止することを命令した.そして昭和22年1月15日に,「婦人に売淫をさせた者の処罰に関す る勅令」が発令され,公娼,私娼を問わず,婦人に売淫をさせることが禁じられた.このことで日本の長い遊郭の歴史は幕を閉じた.しかし間違いやすいのは, この法律は婦人が売春を行うことを禁止する法律ではなく,売春行為をさせることを禁じる法律であった.つまり管理売春を禁止する法律であった.
 GHQの要請によりこの勅令が発令されたが,戦後の街には相変わらず夜の女が溢れていた.公娼制度は廃止されたが,管理されていた売春が野放しになったため,逆に性風俗は乱れていった.
 そのため昭和22年11月14日,吉田内閣は性風俗の混乱を防ぐため,かつての遊郭地域を特殊飲食街に指定し,その区域に限り売春を黙認することにし た.つまり風紀上支障のない地域に限って,娼婦の意思による売春を認めることにしたのである.これが赤線と呼ばれた区域である.性風俗の悪化と良家の子女 を守るというのが,赤線が作られた理屈であった.「特殊飲食街の指定」という形で,実質的に公娼制度は残されたのである.
 赤線は昔の遊郭と同じである.この地域を警察が地図上に赤い線で囲んだことから赤線とよばれるようになった.赤線は東京では,吉原,州崎,新宿,立川, 小岩,向島など25カ所である.この地域はそれまでの遊郭の場所と同じで,経営者もほとんど同じであった.この赤線として公認された地域以外では売春は禁 止された.
 しかし赤線に指定されていない地域で,隠れて客をとる「もぐりの売春街」が現れたのである.その地区を青線地区と呼んだ.青線地区は表面上はキャバ レー,バー,飲食店などの店であるが,ホステスによる売春行為が行われていた.1階の飲食店で飲み食いをして,2階で客を取る形態が多かった.新宿のゴー ルデン街は昔の青線の名残である.このようにして戦後の性風俗を飾るものとして,黙認された売春地区ができたのである.
 昭和29年,労働省の調べによると全国の集娼地区,つまり赤線,青線,駐留軍基地などは1921カ所,売春業者37112軒,売春婦は129008人であった.さらにもぐりの街娼などを含めると,売春にかかわる人たちの総数は50万人とされていた.
 こうした売春制度への反対運動も熱心にすすめられていた.婦人団体による赤線や青線に対する反対運動がしだいに広がりをみせていった.昭和31年までに 女性議員らの努力によって売春を禁じる法案は5回国会に提出されたが,いずれも保守党議員の抵抗にあい,廃案となった.廃案の背景には売春業者からの多額 の運動資金が流れていたのだった.
 しかし,昭和30年5月,鹿児島市の旅館・松元荘で少女売春の強制とそれをめぐる汚職事件が売春防止法のきっかけをつくった.松元荘事件とは,15歳の 中学生をはじめとした高校生ら未成年9人を含む23人が,建設会社を経営する社長夫妻によって売春を強要されていた事件である.「玄人の女はもう飽きた, 高学生のような初々しい娘と遊びたい」という客の言葉から,女子高校生らを誘い売春をさせていたのである.高校生たちは「学費を稼がせてやる」と誘われ制 服姿のまま客席に出され,1500円で売春をしていた.そして客の中に会社社長や病院長,公務員,マスコミ関係者ら県内の名士が多数いたのだった.さらに 客として県議,町長,県庁の土木担当課長らがいたことも判明,台風による災害復旧工事など指名入札にからむ贈収賄事件発覚の糸口になった.また事件発覚後 16歳の女子高校生が自殺するという痛ましい展開になった.
 全国紙が「まつもと荘事件の真相を探る,知名人多数が関係」と大きく報道し,松元荘事件は全国的に知られるようになった。この「まつもと荘事件」によっ て,売春を非難する全国的世論の盛り上がりをみせた.まず鹿児島で売春禁止運動が始まり,婦人,学生が立ち上がり,鹿児島県売春禁止法制定促進委員会が結 成された.さらに国会の婦人議員も動き出した.そして市川房枝,神近市子,藤原道子らの婦人議員による超党派の運動が行われたのである.
 昭和30年5月13日,藤原道子議員が参院本会議で緊急質問,鳩山一郎首相から「売春禁止法は必要」という発言を得ることができた.しかし6月10日, 衆院法務委員会に「売春等処罰法案」が提出されるが,19票対11票で否決された.しかしその後,大逆転が起きる.神近市子議員が法務委員会で,「法案成 立を阻止した赤線温存派議員たちは,売春業者から金を受け取っており,法案反対はそのような意図から行われたのであって納得できない.政治的陰謀によって つぶされたと私どもは感じる」と発言したのだった.この発言は新聞で報道され,決定的打撃を与えることになった.そしていわゆる「売春汚職」が摘発される ことになる.
 全国の赤線業者の団体である全国性病予防自治会(全性連)が,売春防止法の国会通過阻止のため20数人の国会議員にカネをばらまいていたことが判明した のである.全性連は全国の赤線業者が全国5万5000人の売春婦から1人200円の割合でカネを巻き上げ,国会議員に金を配っていたのだった.このため鈴 木明理事ら赤線業者4人が逮捕,さらに国会議員3人(真鍋儀十、椎名隆、首藤新八)が贈収賄で逮捕された.また元警視総監も取り調べを受けた.そしてこの 「最も汚らわしい汚職」に対する世間の反発は大きく広がり,売春防止法の実施が確実となった.
 昭和31年5月21日,売春防止法が成立した.売春防止法は6回目の国会提出でやっと成立したのである.「売春追放こそが女性解放の第一歩」,明治時代 に始まった廃娼運動から80年目にしてようやく日の目を見ることになった.そして2年後の昭和33年4月1日から施行されることが決まった.昭和33年3 月31日の午前0時,全国の赤線の灯が消えた.東京・新宿では街中に「蛍の光」が流れ,時代が変わったことをつげた.
 売春防止法で重要なことは,「客をとった女性,客となった男性は罪に問われない」ことである.売春防止法は管理売春,つまり売春業者を罰する法律で,売 春行為そのものを処罰する法律ではないのである.売春防止法の条文には,「なにびとも売春を行い,又はその相手となってはならない」と規定しているが,そ れは法の理念であり,売春行為や売春婦は処罰の対象とならなかった.売春防止法の目的はあくまでも売春行為を助長する斡旋を禁じることで,売春業者による 人身売買などの管理売春を取り締まることが目的であった.つまりまだ貧しかった時代に少女たちが一家の犠牲となり現金と引き換えに人身売買されていた悲劇 を防止することが目的であった.そのため売春行為自体にたいする罰則規定は存在しない.売春防止法は悪質な管理売春の撲滅であり,そのためこの法律名は売 春防止法であり,売春取締法ではない.
 売春の斡旋とは,客引きや勧誘,場所や資金の提供を行うことで,罰則として売春業者に最高懲役10年,または罰金30万円に処するという厳しい内容であった.罰金30万円は当時の大学初任給の23倍の値段であった.
 売春婦に対しては刑罰を与える代わりに補導指導が行われた.このように売春防止法の対象は管理売春であり,個人売春や単純売春は処罰の対象にならなかっ た.売春防止法の考え方は売春婦の周囲の環境を清める法律であった.売春婦とそれを買った男性も処罰の対象とするべきとの考えも強かったが,結局は処罰よ りも売春婦たちの保護に重点がおかれたのである。
 そのため売春防止法は成立したものの,ひも付きの売春婦や散娼が増える結果となった.手頃なアパートに売春婦を住まわせ,稼いだ金をピンハネする新手の 売春が生まれ,警察はこれを「白線」とよんだ.警察はこの「白線」を摘発しようとしたが,売春防止法が管理売春だけを取り締まることから,「白線」は野放 し状態となった.このように売春防止法は抜け穴だらけの「天下のザル法」と批判された.
 売春防止法により失業する赤線業者や売春婦たちの保護を目的に,新たに保護更生規定が追加された。しかし全国で12万人いたとされる女性たちは,その後 どのようになったのであろうか.旧赤線区域(集娼地域)における売春施設は消滅したが,形を変えた売春,性サービスは以前にまして盛んに行われた.売春防 止法が施行されて1年後には6割の女性が舞い戻り,多くが街娼となっていることを警視庁が公表している.売春防止法は成立当初からザル法と批判されていた が,売春問題に大きな杭を打ち込んだ意義は大きいと考えられる.
 売春防止法施行による性病の変化についての調査がなされている.それによると売春防止法施行後には,売春婦の性病罹患率は2倍に増え,検挙された売春婦の55%が性病におかされていた.
 売春防止法が実施され全国の赤線の灯は次々に消えていった.夜の街から女性が消えたが,それは数ヶ月の現象であった.売春防止法が施行後3ヶ月目には都 内に37軒のトルコ風呂が開店することになった.新しい売春の登場であった.トルコ風呂は売春防止法の対象とはならず,公衆浴場法で規定されることより売 春の抜け穴となった.
 このように表面上消滅した売春は地下に潜行,形を変えて存続していった.昨今ではいわゆる「援助交際」にみられるような少女売春や売春クラブ,ソープラ ンドなど性産業は絶えることなく新しい性風俗を作りあげている.売春行為が人間の尊厳を害し,風俗を乱すとして売春防止法が設定されたが,現実にはその目 的には達していない.その当時の売春の動機は生活苦によるものであったが,最近では好奇心や小遣い稼ぎなどが動機となっている.
 「不特定多数の男性を相手とした,金銭を介した性行為が犯罪であり,愛人との性行為,婚約者との性行為,夫婦の性行為は罪でない」このようなかつての性 の概念が薄れているのではないだろうか.金銭による商取引が中心である現代社会において,ボランテアを除き,人間のあらゆる行為は金銭と関与している.売 春を犯罪と呼ぶべきかどうか,少なくても売春をしている女性は売春を犯罪とは感じていないであろう.そのため売春を犯罪とよぶよりも,むしろ道徳,倫理, 宗教の問題なのではないだろうか.
 売春防止法は管理売春を罰するだけのザル法であるが,子どもへの性的搾取や虐待を防止するため,児童買春禁止法が平成11年11月1日に制定された.こ の児童買春禁止法は買う側の処罰を盛り込んだ法律で,対象となるのは18歳未満の児童である.子供の年齢が18歳未満であることを知らなくても,知らない ことを理由に処罰を免れることはできない.児童買春をした者は3年以下の懲役または100万円以下の罰金に処せられる.強制猥褻罪とはちがい被害者である 子供の告訴を必要としない.また海外での行為も処罰の対象となる.また児童買春を斡旋した者や勧誘した者は、3年以下の懲役または300万円以下の罰金と なる.またこれを生業としている者は5年以下の懲役または500万円以下の罰金であった.
 現在,ソープランド,愛人バンク,テレクラ,デリバリーヘルス,海外での売春,このように法の網の目をくぐって性産業は多様化している.また売春経験者 のほとんどは自分から進んで行っているという総理府のレポートがある.しかしいっぽうでは,日本へ出稼ぎでくる女性売春婦は,騙されて日本で売春を強要さ れているケースが多い.管理売春は地下に潜伏したまま行われているのが現状である.なお売春という言葉は最近,買春という言葉が使われるようになった.つ まり売春を行う女性側よりも,それを買う男性側に問題があるという考え方である.特に海外における,「買春ツアー」,「買春観光」が問題になっている.買 春という言葉は意外に古い言葉であり,昭和49年,朝日新聞記者・松井やよりが盛んに使った言葉が元になっている.

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