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2010.02.09 15:14 |  その他(医療関連)  |  昭和 30年代 中  |  スーさん  | 推薦数 : 1

博士号謝礼事件

博士号謝礼事件(昭和33年)
 博士号は学問上の最高の位である.この博士号(学位)は医学部だけでなく,文学部,工学部など大学の各学部でも一定の研究をおこない,研究論文が評価さ れれば授与されることになっている.大学には多くの学部があり,大学全体から見れば医学部はそのごく一部にすぎない.しかし他の学部に比べ博士号を取得し ようとする者は医学部が圧倒的に多い.医学博士の数はそれ以外の学部の博士の合計数よりも数倍多いのである.
 このように医学部で博士号がもてはやされるのは,博士号を持つことによって一人前の医師と見なされる風潮があるからである.博士号があれば開業したとき に箔がつき,博士号がなければ病院の勤務医は出世が遅くなり,部長などの管理職になれないなどの制約があった.そのため医学部を卒業すると医局に入り,博 士号を目指して研究するのが当たり前とされていた.大学で研究することは,学問を究めることではなく,むしろ紙切れ1枚にすぎない博士号を取得することが 目的であった.そのため博士号を取得すると,教授を目指して大学に残る者はごく少数であり,それまでの研究を止めて開業や勤務医となる者が多かった.
 博士号には大学院に進学して博士号を取る過程博士と,論文を書いて博士号を取る論文博士の2つがある.しかし論文博士,過程博士のどちらであっても,担 当教授が研究や論文の指導を行い,担当教授が自分の弟子に博士号を与えることになっていた.そのため学位の授与には,学問を離れた金銭問題がつきまとうこ とになる.博士号を目指す者にとっては,教授に便宜を図ってもらい,早く学位を取りたいと思うのは当然のことである.また逆に,教授の機嫌を損なえば難癖 をつけられ学位取得は困難となる.教授は絶対であり,学問上の対立,あるいは教授の気まぐれな意地悪などは珍しいことではない.
 そもそも研究を指導する教授と,学位を与える教授が同じであることが問題である.そのため金銭の授受について多くの疑惑が生じることになる.学問の世界といえども,カネに関しては医学部は世俗と同様,あるいは世俗以下なのである.
 昭和33年,医学博士の学位論文審査で三重県立医学部の教授6人が警察の取り調べを受けた.論文提出者から相当額の謝礼金を受け取ったことが警察に内部 告発されたことがきっかけであった.三重県立医学部・今村豊医学部長を始めとして,解剖学,産婦人科,口腔外科,公衆衛生,病理の各教授が被疑者として次 々に警察に出頭を命じられた.この金銭はワイロなのか,あるいは単なる謝礼なのか,医師と警察で見解が大きく違っていた.
 この事件は,取り調べを受けた医学部教授ばかりでなく,医学界の事情を知る多くの医師を驚かした.それはどの医学部でも,学位審査には多少の謝礼は当た り前とされていたからである.学位を貰った際の謝礼金はお中元,お歳暮と同じように社会的常識と思われていたからである.謝礼金の相場は決まっており,も し学位をもらいながらそれ相応の謝礼をしなければ,それこそ非常識な医師とされていた.警察は学位の謝礼をワイロと考え取り締まったが,もしこれを犯罪と するならば,日本の博士号の肩書きを持つほとんどの医師が贈賄で,大部分の教授が収賄で捕まっても不思議ではなかった.
 事実,取り締まりを受けた今村豊医学部長は,「ぼくは昭和3年に母校の京大で学位をとったが,その時,教授に当時の金で100円のお礼をした.それと同 じことをぼくの弟子がしただけではないか」と公言した.さらに「伝統にしたがってやったことが,どうして法に触れるのかわからん」,「窃盗は悪いが,人間 の90%が窃盗だったら罪にならない」,「調べるならば学内の全教授,いや全国の教授を調べてくれ」などと発言した.この今村豊医学部長の発言は罪悪感も なければ反省もなかった.しかしこの今村豊医学部長の発言は,日本の医学部の実態を語っているといえる.
 三重県立医学部の博士号謝礼事件の根底には学内の派閥問題が絡んでいた.三重県立医学部の教授は,昭和19年の設立当時からほとんどが京大出身者で占め られていた.そして今村豊医学部長を中心とした京大今村学閥と,反今村学閥の権力闘争が水面下で激しく行われていた.衛生学教授,細菌学教授の後任問題で 三重県大出身者と今井派が対立,この内部抗争がこの事件へと飛び火したのである.学内では三重県大出身者が力をまし,三重学閥による民族独立運動のひとつ として今村派が刺されたと噂された.
 三重大の博士号謝礼事件は40年以上も昔の話である.では博士号に対しての謝礼は,現在はどうなっているのだろうか.このような悪習は改善されたと考え るのが一般的であろう.しかし実際にはこの悪習は,お中元,お歳暮の習慣と同じように日本ではまだ生きている.医学部教授の収入は,学位の謝礼金と結婚式 の礼金が今でも大きなウェイトを占めている.
このことを示す事件が平成13年2月に発覚している.奈良県立医科大第1内科教授・土肥和紘(58)が医局の医師派遣で便宜を図った見返りとして,医療法 人理事長・平井純容疑者(52)から現金574万円を受け取った疑いで大阪地検特捜部に逮捕された.この事件の捜査の過程で,土肥和紘教授は医局員から学 位論文の謝礼として1人あたり現金50万円を受け取っていたことが判明したのである。教授に就任してから8年間で,20人以上の医局員から1000万円以 上の謝礼を集めたとされている。このように現代版博士号謝礼事件が明るみとなった.
 学位論文の審査は通常3人の教授によって行われる.申請者の教授が「主査」で,別の教授2人が「副査」を務める。このように教授3人が論文の内容を審査 するが,審査によって落ちることはまずありえない.主査が認めた研究を,副査が文句をいえないからである.学位審査はこのように形式であり,担当教授が学 位の申請を許可した時点で学位は得られたことなる.
 奈良県立医科大第1内科の医局員の話では,博士号を取得すると土肥教授に50万円、副査の2人に各10万円を渡していたとされていた。教授への現金提供 は慣例として医局の先輩が指導し,ほとんどの医局員が謝礼を出していた。服の生地や商品券とともに渡すのが礼儀であった。副査を務めた教授が受け取りを拒 否する場合もあるが,それはまれとされていた.もちろん奈良県立医科大ばかりではなく他の大学,他の医学部でも同様におこなわれていると考えるべきであろ う.なお平成14年4月30日,大阪地裁は医師派遣を巡る汚職事件で収賄罪に問われた土肥和紘教授に対し傳田喜久裁判長は,懲役3年,執行猶予5年,追徴 金2,2315万円の判決を下した.
 博士号取得に関わる謝礼は医学部の歴史とともにあり,現在の医学部においても謝礼は常識と考えられる.今回の事件で法律的に罰せられたことから日本の悪 習と非難されているが,もう何10年と続いているのだから,日本の習慣ととらえるほうがむしろ妥当といえるであろう.社会常識の範囲を超えているのが医学 部なのである.神聖な学問の世界にはふさわしくない行為であっても,医学部そのものが神聖な学問の世界とはかぎらず,また世の中もきれい事ばかりではな い.もちろん逮捕されたのは国公立の教授であり,私立の教授であれば公務員ではないので罪に問われず,また罪にとわれた私立医学部の教授の例はない.

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2010.02.09 15:12 |  生活 / くらし  |  昭和 30年代 中  |  スーさん  | 推薦数 : 0

売春防止法

売春防止法(昭和33年)
 明治5年,明治政府は外国への体裁から娼妓解放令をおこなった.これにより女性の人身売買は建前上禁止されたことになった.しかし貧困から遊郭に集まっ てくる女性たちの生活は変わらなかった.親の借金を背負った娘たちは年季奉公を強いられ,身体を犠牲にして働いていた.人類史上最古の職業とも言われる売 春は,江戸時代から,明治,大正,昭和と年号が変わっても,日本の管理売春の形態は,遊郭から奥座敷経営になっただけで何ら変わらなかった.娼妓解放令が 出されたものの,公娼制度は戦前まで残されていた.
 昭和21年1月,GHQは日本政府にそれまでの公娼制度を廃止することを命令した.そして昭和22年1月15日に,「婦人に売淫をさせた者の処罰に関す る勅令」が発令され,公娼,私娼を問わず,婦人に売淫をさせることが禁じられた.このことで日本の長い遊郭の歴史は幕を閉じた.しかし間違いやすいのは, この法律は婦人が売春を行うことを禁止する法律ではなく,売春行為をさせることを禁じる法律であった.つまり管理売春を禁止する法律であった.
 GHQの要請によりこの勅令が発令されたが,戦後の街には相変わらず夜の女が溢れていた.公娼制度は廃止されたが,管理されていた売春が野放しになったため,逆に性風俗は乱れていった.
 そのため昭和22年11月14日,吉田内閣は性風俗の混乱を防ぐため,かつての遊郭地域を特殊飲食街に指定し,その区域に限り売春を黙認することにし た.つまり風紀上支障のない地域に限って,娼婦の意思による売春を認めることにしたのである.これが赤線と呼ばれた区域である.性風俗の悪化と良家の子女 を守るというのが,赤線が作られた理屈であった.「特殊飲食街の指定」という形で,実質的に公娼制度は残されたのである.
 赤線は昔の遊郭と同じである.この地域を警察が地図上に赤い線で囲んだことから赤線とよばれるようになった.赤線は東京では,吉原,州崎,新宿,立川, 小岩,向島など25カ所である.この地域はそれまでの遊郭の場所と同じで,経営者もほとんど同じであった.この赤線として公認された地域以外では売春は禁 止された.
 しかし赤線に指定されていない地域で,隠れて客をとる「もぐりの売春街」が現れたのである.その地区を青線地区と呼んだ.青線地区は表面上はキャバ レー,バー,飲食店などの店であるが,ホステスによる売春行為が行われていた.1階の飲食店で飲み食いをして,2階で客を取る形態が多かった.新宿のゴー ルデン街は昔の青線の名残である.このようにして戦後の性風俗を飾るものとして,黙認された売春地区ができたのである.
 昭和29年,労働省の調べによると全国の集娼地区,つまり赤線,青線,駐留軍基地などは1921カ所,売春業者37112軒,売春婦は129008人であった.さらにもぐりの街娼などを含めると,売春にかかわる人たちの総数は50万人とされていた.
 こうした売春制度への反対運動も熱心にすすめられていた.婦人団体による赤線や青線に対する反対運動がしだいに広がりをみせていった.昭和31年までに 女性議員らの努力によって売春を禁じる法案は5回国会に提出されたが,いずれも保守党議員の抵抗にあい,廃案となった.廃案の背景には売春業者からの多額 の運動資金が流れていたのだった.
 しかし,昭和30年5月,鹿児島市の旅館・松元荘で少女売春の強制とそれをめぐる汚職事件が売春防止法のきっかけをつくった.松元荘事件とは,15歳の 中学生をはじめとした高校生ら未成年9人を含む23人が,建設会社を経営する社長夫妻によって売春を強要されていた事件である.「玄人の女はもう飽きた, 高学生のような初々しい娘と遊びたい」という客の言葉から,女子高校生らを誘い売春をさせていたのである.高校生たちは「学費を稼がせてやる」と誘われ制 服姿のまま客席に出され,1500円で売春をしていた.そして客の中に会社社長や病院長,公務員,マスコミ関係者ら県内の名士が多数いたのだった.さらに 客として県議,町長,県庁の土木担当課長らがいたことも判明,台風による災害復旧工事など指名入札にからむ贈収賄事件発覚の糸口になった.また事件発覚後 16歳の女子高校生が自殺するという痛ましい展開になった.
 全国紙が「まつもと荘事件の真相を探る,知名人多数が関係」と大きく報道し,松元荘事件は全国的に知られるようになった。この「まつもと荘事件」によっ て,売春を非難する全国的世論の盛り上がりをみせた.まず鹿児島で売春禁止運動が始まり,婦人,学生が立ち上がり,鹿児島県売春禁止法制定促進委員会が結 成された.さらに国会の婦人議員も動き出した.そして市川房枝,神近市子,藤原道子らの婦人議員による超党派の運動が行われたのである.
 昭和30年5月13日,藤原道子議員が参院本会議で緊急質問,鳩山一郎首相から「売春禁止法は必要」という発言を得ることができた.しかし6月10日, 衆院法務委員会に「売春等処罰法案」が提出されるが,19票対11票で否決された.しかしその後,大逆転が起きる.神近市子議員が法務委員会で,「法案成 立を阻止した赤線温存派議員たちは,売春業者から金を受け取っており,法案反対はそのような意図から行われたのであって納得できない.政治的陰謀によって つぶされたと私どもは感じる」と発言したのだった.この発言は新聞で報道され,決定的打撃を与えることになった.そしていわゆる「売春汚職」が摘発される ことになる.
 全国の赤線業者の団体である全国性病予防自治会(全性連)が,売春防止法の国会通過阻止のため20数人の国会議員にカネをばらまいていたことが判明した のである.全性連は全国の赤線業者が全国5万5000人の売春婦から1人200円の割合でカネを巻き上げ,国会議員に金を配っていたのだった.このため鈴 木明理事ら赤線業者4人が逮捕,さらに国会議員3人(真鍋儀十、椎名隆、首藤新八)が贈収賄で逮捕された.また元警視総監も取り調べを受けた.そしてこの 「最も汚らわしい汚職」に対する世間の反発は大きく広がり,売春防止法の実施が確実となった.
 昭和31年5月21日,売春防止法が成立した.売春防止法は6回目の国会提出でやっと成立したのである.「売春追放こそが女性解放の第一歩」,明治時代 に始まった廃娼運動から80年目にしてようやく日の目を見ることになった.そして2年後の昭和33年4月1日から施行されることが決まった.昭和33年3 月31日の午前0時,全国の赤線の灯が消えた.東京・新宿では街中に「蛍の光」が流れ,時代が変わったことをつげた.
 売春防止法で重要なことは,「客をとった女性,客となった男性は罪に問われない」ことである.売春防止法は管理売春,つまり売春業者を罰する法律で,売 春行為そのものを処罰する法律ではないのである.売春防止法の条文には,「なにびとも売春を行い,又はその相手となってはならない」と規定しているが,そ れは法の理念であり,売春行為や売春婦は処罰の対象とならなかった.売春防止法の目的はあくまでも売春行為を助長する斡旋を禁じることで,売春業者による 人身売買などの管理売春を取り締まることが目的であった.つまりまだ貧しかった時代に少女たちが一家の犠牲となり現金と引き換えに人身売買されていた悲劇 を防止することが目的であった.そのため売春行為自体にたいする罰則規定は存在しない.売春防止法は悪質な管理売春の撲滅であり,そのためこの法律名は売 春防止法であり,売春取締法ではない.
 売春の斡旋とは,客引きや勧誘,場所や資金の提供を行うことで,罰則として売春業者に最高懲役10年,または罰金30万円に処するという厳しい内容であった.罰金30万円は当時の大学初任給の23倍の値段であった.
 売春婦に対しては刑罰を与える代わりに補導指導が行われた.このように売春防止法の対象は管理売春であり,個人売春や単純売春は処罰の対象にならなかっ た.売春防止法の考え方は売春婦の周囲の環境を清める法律であった.売春婦とそれを買った男性も処罰の対象とするべきとの考えも強かったが,結局は処罰よ りも売春婦たちの保護に重点がおかれたのである。
 そのため売春防止法は成立したものの,ひも付きの売春婦や散娼が増える結果となった.手頃なアパートに売春婦を住まわせ,稼いだ金をピンハネする新手の 売春が生まれ,警察はこれを「白線」とよんだ.警察はこの「白線」を摘発しようとしたが,売春防止法が管理売春だけを取り締まることから,「白線」は野放 し状態となった.このように売春防止法は抜け穴だらけの「天下のザル法」と批判された.
 売春防止法により失業する赤線業者や売春婦たちの保護を目的に,新たに保護更生規定が追加された。しかし全国で12万人いたとされる女性たちは,その後 どのようになったのであろうか.旧赤線区域(集娼地域)における売春施設は消滅したが,形を変えた売春,性サービスは以前にまして盛んに行われた.売春防 止法が施行されて1年後には6割の女性が舞い戻り,多くが街娼となっていることを警視庁が公表している.売春防止法は成立当初からザル法と批判されていた が,売春問題に大きな杭を打ち込んだ意義は大きいと考えられる.
 売春防止法施行による性病の変化についての調査がなされている.それによると売春防止法施行後には,売春婦の性病罹患率は2倍に増え,検挙された売春婦の55%が性病におかされていた.
 売春防止法が実施され全国の赤線の灯は次々に消えていった.夜の街から女性が消えたが,それは数ヶ月の現象であった.売春防止法が施行後3ヶ月目には都 内に37軒のトルコ風呂が開店することになった.新しい売春の登場であった.トルコ風呂は売春防止法の対象とはならず,公衆浴場法で規定されることより売 春の抜け穴となった.
 このように表面上消滅した売春は地下に潜行,形を変えて存続していった.昨今ではいわゆる「援助交際」にみられるような少女売春や売春クラブ,ソープラ ンドなど性産業は絶えることなく新しい性風俗を作りあげている.売春行為が人間の尊厳を害し,風俗を乱すとして売春防止法が設定されたが,現実にはその目 的には達していない.その当時の売春の動機は生活苦によるものであったが,最近では好奇心や小遣い稼ぎなどが動機となっている.
 「不特定多数の男性を相手とした,金銭を介した性行為が犯罪であり,愛人との性行為,婚約者との性行為,夫婦の性行為は罪でない」このようなかつての性 の概念が薄れているのではないだろうか.金銭による商取引が中心である現代社会において,ボランテアを除き,人間のあらゆる行為は金銭と関与している.売 春を犯罪と呼ぶべきかどうか,少なくても売春をしている女性は売春を犯罪とは感じていないであろう.そのため売春を犯罪とよぶよりも,むしろ道徳,倫理, 宗教の問題なのではないだろうか.
 売春防止法は管理売春を罰するだけのザル法であるが,子どもへの性的搾取や虐待を防止するため,児童買春禁止法が平成11年11月1日に制定された.こ の児童買春禁止法は買う側の処罰を盛り込んだ法律で,対象となるのは18歳未満の児童である.子供の年齢が18歳未満であることを知らなくても,知らない ことを理由に処罰を免れることはできない.児童買春をした者は3年以下の懲役または100万円以下の罰金に処せられる.強制猥褻罪とはちがい被害者である 子供の告訴を必要としない.また海外での行為も処罰の対象となる.また児童買春を斡旋した者や勧誘した者は、3年以下の懲役または300万円以下の罰金と なる.またこれを生業としている者は5年以下の懲役または500万円以下の罰金であった.
 現在,ソープランド,愛人バンク,テレクラ,デリバリーヘルス,海外での売春,このように法の網の目をくぐって性産業は多様化している.また売春経験者 のほとんどは自分から進んで行っているという総理府のレポートがある.しかしいっぽうでは,日本へ出稼ぎでくる女性売春婦は,騙されて日本で売春を強要さ れているケースが多い.管理売春は地下に潜伏したまま行われているのが現状である.なお売春という言葉は最近,買春という言葉が使われるようになった.つ まり売春を行う女性側よりも,それを買う男性側に問題があるという考え方である.特に海外における,「買春ツアー」,「買春観光」が問題になっている.買 春という言葉は意外に古い言葉であり,昭和49年,朝日新聞記者・松井やよりが盛んに使った言葉が元になっている.

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2010.02.09 15:10 |  生活 / くらし  |  昭和 30年代 中  |  スーさん  | 推薦数 : 0

インスタントラーメン

インスタントラーメン(昭和33年)
 昭和33年は長嶋茂雄がプロ野球選手として読売ジャイアンツからデビューした年である.ちょうどその年の8月25日,世界初の即席ラーメン「チキンラー メン」が日清食品から発売された.お湯を注ぐだけで気楽に空腹を満たしてくれる即席ラーメンは爆発的に売れ,戦後の日本人の食生活を確実に変えた.「お湯 をかけて2分間でできる魔法のラーメン」,これがチンラーメンのキャッチフレーズであった.チキンラーメンは即席ラーメンと呼ばれたが,後にインスタント ラーメンとよばれ,庶民の生活に定着した.即席ラーメンは日本の食文化を変えたといっても言い過ぎではない.
 このチキンラーメンを開発したのは,大阪府池田市に住む現在の日清食品の会長・安藤百福(ももふく)だった.安藤百福はそれまで多くの事業を手がけ成功 していたが,不幸なことに2度の獄中生活を送っている.1回目は軍の支給物質を横流したという嫌疑で,2回目は税金の滞納疑惑であった.この2つの事件は いずれも冤罪であったが,競売された財産は戻らず安藤百福は無一文の状態になっていた.その後,安藤百福は信用組合の理事長を務めるが,その信用組合は倒 産してしまう.安藤百福はこの倒産によって再び全財産を失い,丸裸になってしまった.このような波瀾万丈の人生のなかで,安藤百福が考えたのは,どのよう な不幸な環境にあっても食文化は残るという確信であった.安藤百福は終戦直後の焼土の街で,着の身,着のままの人たちが,ラーメンの屋台に長い列を作って いた光景が頭から離れなかった.日本人が麺好きの民族であることを発見していた.
 無一文となった安藤百福は,借金をして池田市の自宅裏庭に粗末な研究小屋を建てた.そして長期間保存ができ,気楽に食べられる即席ラーメンの開発に取り 組んだのである.それまでの安藤百福の人生はラーメンとは無縁だった.しかし日本人がラーメン好きであることから,安藤百福はお湯をかけただけで食べられ るラーメンを開発すれば必ず売れると確信していた.それまでのラーメンは生麺をゆでて作るしか方法はなく,食事は調理場で火やナベ,カマを使って作るのが 常識だった.その時代にお湯をかけるだけで,ただ待つだけで食べられる手軽なラーメンを安藤百福はつくろうとしていた.古道具屋から製麺機を買い上げ,即 席ラーメンの実験を繰り返した.しかし即席麺の実験は失敗の連続であった.まず問題になったのは麺をいかに乾燥させるかである.
 そしてたどりついた乾燥方法は,スープの味をしみこませた麺を油で揚げて乾燥させることだった.この発想は天才的であった.天ぷらのように麺を油で揚げ ると,麺の水分がぬけ麺に無数の穴ができる.そしてお湯を入ると,その穴からお湯が麺全体にゆきわたり,柔らかい麺ができることを発見したのだった.この 麺を油で揚げるという製法が大きな前進をもたらした.チキンラーメンの麺をよく見ると,麺の1本1本は扁平な形をしている.この扁平な形は湯の吸収を良く するためであった.
 さらにおいしいこと,保存できること,調理が簡単なこと,価格が適正なこと,安全なこと,量産できること,これらを目標に安藤百福は開発を進めていっ た.麺1本の長さは50センチ,1袋に120本入れることになった.また麺を揚げる油は,コレステロールが少ない植物性のパーム油を使用し,健康志向の雰 囲気をつくった.
 チキンラーメンは,味のついた麺に熱湯を注ぎ2分間待つだけである.麺はやわらかくなり,麺にしみこんでいた味がスープとなってお湯に戻るという簡単な ものだった.このお湯を注ぐだけの手軽さが若い人たちに受け入れられた.またチキンラーメンという名前が覚えやすく,栄養満点のイメージがあった.チキン ラーメン1袋の値段は35円だった.その当時のうどん1玉の値段が6円だったことから,1食35円というチキンラーメンの販売価格は決して安い値段ではな かった.店で中華そばを食べるのと変わらない値段だった.問屋はその値段の高さに顔をしかめ販売を躊躇したが,チキンラーメンは販売と同時に爆発的に売 れ,品不足で悩むほどであった.チキンラーメンの袋は黄色い線が入り,袋の中央の卵型の透明な窓から中のラーメンが見えるデザインであった.
チキンラーメンは,当時急速に普及したテレビコマーシャルの効果により,売り上げに拍車がかかった.「お湯をかけて2分間待つだけ」のキャッチフレーズが 人気を呼んだのである.その後,1袋35円の値段は30円に値下げされ,さらに新しく台頭したスーパーマーケットが大衆消費者をつくり,チキンラーメンは 驚異的な売り上げを示した.
 当時はラーメンという呼び名は一般的ではなかった.中華そば,あるいは支那そばと呼ばれていた.しかしチキンラーメンの登場がきっかけとなり,ラーメンという言葉が日本に定着した.チキンラーメンはインスタント食品の先駆けとなり,新しい大衆消費文化を築き上げた.
 チキンラーメンは昭和34年に年間1万食をこえ,昭和35年には年間120万食という爆発的な売り上げをみせた.即席チキンラーメンが発売された翌年に は,他社もこの即席ラーメンブームに乗り遅れまいと,次々にラーメン工場をつくり,昭和36年には200社のメーカーが乱立した.
 いっぽう消費者の間から,即席ラーメンの味や品質に対する要望が生まれてきた.主婦のあいだから,「肉や野菜を入れて食べたい」,「栄養のバランスを考 えて調理したい」という声が上がってきた.このことが即席ラーメンの新しい流れを作りだすことになる.この市場調査の声に答えるように,昭和37年6月, 後発メーカーである明星ラーメンが「支那筍入り明星ラーメン」を発売した.これまでの即席ラーメンは「お湯をかけるだけの味付け麺」であったが,明星ラー メンは「ナベで煮て,後で味を加える」というスープ別添えのインスタントラーメンを開発したのである.
次いで東洋水産が「マルちゃんハイラーメン」を発売,昭和37年だけで日清食品「日清焼きそば」,エースコック「即席ワンタンメン」,東洋水産「マルちゃ んたぬきそば」,このように次々にスープ別添えの新製品が登場した.このラーメンは麺をナベで煮るという手間がかかったが,野菜や卵などの具を自由に加え ることができた.スープ別添えタイプは,具を入れることによって麺やスープに味わいを加えることができた.そして発売と同時に爆発的な売れ行きをみせた. 具を入れることが可能となり風味がましたのである.
 スープ別添えタイプは都市部の主婦たちに好感を持たれ,インスタントラーメンは味付け麺からスープ別添えが主流となった.インスタントラーメンの技術が 他の麺類に応用され,うどん,やきそば,スパゲッティなどのインスタント麺が次々と発売された.このようにインスタントラーメンは,昭和37年には日本で 年間10億食という大台にのった.さらに昭和38年には20億食、昭和40年には25億食,昭和45年には36億食にたっした。
 これまでに多くのインスタントラーメンが発売されてきたが,そのベストセラーは「明星チャルメラ(明星食品)」,「ワンタンメン(エース食品)」,「出 前一丁(日清食品)」,「マルちゃんのタヌキそば(東洋食品)」,「サッポロ一番(サンヨー食品)」,「長崎タンメン(サンヨー食品)」などである.明星 チャルメラはホタテ味をベースに木の実のスパイスが添付され,麺に使われた小麦粉も上質のものであった。サッポロ一番はガーリックのきいた味で乾燥ねぎが 入っていた.出前一丁は胡麻ラー油が付いたものであった.各社の工夫が消費者の購買意欲をさそい,インスタントラーメンは第2期の黄金時代をむかえた.イ ンスタントラーメンはテレビのコマーシャルで何度も放映され,各社は競い合いながら売り上げを伸ばしていった.
 昭和46年9月,日清食品の「カップヌードル」が発売となった.開発したのは日清食品の安藤百福で,安藤百福は日本最初の即席ラーメンだけでなく,日本 最初の「カップヌードル」をも開発したのだった。カップヌードルは発泡スチロール容器に入った味付け麺で,お湯を注ぐだけの商品だった.そしてインスタン トラーメンの時代から,カップヌードルの時代へと大きく変化していった.
 「おいしさに国境はない」,このことを信じていた安藤百福会長は,チキンラーメンの売り込みのために欧米へ視察旅行にいった.ロサンゼルスのスーパーで 何人かのバイヤーに試食を頼んだか,アメリカには麺を入れるどんぶりがなかった.すると彼らは紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ,紙コップに熱湯を入 れ,フォークで食べ始めたのである.そして食べ終わったコップをそのままゴミ箱に捨てたのだった.安藤百福は「おいしさに国境はないが,文化圏の違う国で もインスタントラーメンが食べられるようにする」と決意した.そして安藤百福が注目したのは自販機の紙コップとフォークであった.日本では見られないこの 使い捨ての光景が「カップヌードル」の原点になった.アメリカの捨てる文化を取り入れたのである.
 まずカップの材料は,身体に害を与えない発泡スチロールが採用された.発泡スチロールのお湯は冷めにくく,手に持っても熱くないのが特徴であった.発泡 スチロールの容器を採用することによって,お湯を入れてそのまま食べるカップヌードルの開発が大きく前進した.カップヌードルの発売は,その構想から5年 後のことであった.「いつでも食べたいところで食べられる」,新しいラーメンの誕生となった。カップヌードルはナベや食器洗いは必要なく,さらにファショ ン性があった.カップヌードルの登場は、インスタントラーメン市場にインパクトをあたえ,市場は再び活気づき,生産量が急増した.
 カップヌードルが最初に注目されたのは,昭和47年2月の連合赤軍による「浅間山荘事件」であった.開発されたばかりのカップヌードルはまだ店頭には並 んでいなかった.日清食品は販売ルートを検討中であった.そしてまず最初に納入されていたのが警視庁の機動隊であった.浅間山荘事件で,寒空の下で機動隊 員が湯気の上がるカップヌードルをすする姿が何度もテレビで放映された.そしてその姿が,日本中の茶の間にカップヌードルの存在を強烈に印象づけることに なった.インスタントラーメンが1個30円の時代に,カップヌードルの値段は100円と高かったが,お湯さえあればいつでも食べられるカップヌードルは飛 ぶように売れた.
 高度経済成長のもと,カップヌードルは寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たした.さらに世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった. カップ麺の総生産量は昭和47年は1億食,昭和48年は4億食,昭和49年は7億食,昭和50年は11億食と驚異的な伸びを示し,平成元年には袋麺の抜 き,カップ麺24億食,袋麺22億食となった
 世界中で食べられている即席麺は,現在1年間で約500億食になっている。日清食品の工場はアメリカ、中国、インドなど8か国に25か所あり、それぞれの国に合わせた味の即席麺を作っている。値段が安く,手軽に作れて,おいしいことが人気の秘密であった。
 平成7年1月17日,阪神大震災がおきた.安藤百福はすぐに援助隊を結成し,給湯器付きのライトバン3台と即席麺1万5千食を震災地に送りこんだ.そし て即席麺は寒さと空腹に苦しむ被災者の胃袋だけでなく心までも温めた.さらに震災で肉親を失った学生に安藤百福は奨学金を提供した.
 現在,大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」が建てられ,年間10万人が来館している.その1階展示ホールには安藤百福が「チキンラーメ ン」の開発に没頭した研究小屋がそのまま再現されている.インスタントラーメンの発明者,日清食品の安藤百福は勲二等旭日重光章を受賞している.安藤百福 は「人間にとって一番大切なことは創造力であり,発明,発見が歴史を動かす」という言葉を残している.
 

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2010.02.09 15:08 |  その他(一般)  |  昭和 30年代 前  |  スーさん  | 推薦数 : 0

美空ひばり塩酸事件

美空ひばり塩酸事件(昭和32年)
 昭和32年1月13日午後9時40分頃,正月公演中の東京浅草の国際劇場でこの事件がおきた.美空ひばり(19)が舞台そでで「花吹雪おしどり絵巻」に 出るために出番を待っていると,突然,客席からポニーテールの女性ファンが舞台にかけ上がり,ひばりの顔をめがけて塩酸の入ったビンを投げつけたのだっ た.近くにいた人がすぐに防火用水の水を美空ひばりにあびせ,順天堂医院にかつぎこんだ.美空ひばりは顔の右半分,ドレスの上から胸,背中に塩酸をかけら れ全治3週間の火傷を負った.付添人も全治1週間の火傷を受けたほどであったが,美空ひばりは,水を掛けるという周囲のとっさの判断と,厚化粧のため顔面 の火傷は軽症ですんだ.
 近くにいたカメラマンが塩酸をかけた女性をその場で取り押さえ,女性は浅草署に連行された.犯人の女性は口もきけないほど興奮していたが,山形県米沢市 の出身で美空ひばりと同じ19歳であることがわかった.少女の家は貧しく,中学をを卒業すると地元の繊維工場で女子工員をしていた.しかし華やかな都会に あこがれ上京し,板橋区の会社重役の女中として働いていた.事件の2ヶ月前に奉公先を飛び出し,都内を点々としていた.
 犯人は美空ひばりの大ファンで,映画は何度も観ており,劇場にも何度も通うほどであった.そしてひばりに何度も面会を申し込んだが相手にされず,募った 思いが恨みに変わったのである.華やかな美空ひばりに対し,自分とあまりにも違う境遇に嫉妬心が重なったのであった.バックに塩酸2合の入った薬瓶をしの ばせ,そして「ひばりちゃんに夢中になっている。あの美しい顔,にくらしいほど醜い顔にしてみたい」と書かれたメモがバックに入っていた.被害者となった 美空ひばりは,記者会見で,この犯人の女性をかばう発言をしている.
 この年は芸能界において同じような事件が頻発した.昭和32年2月27日,東京都世田谷区の京マチ子宅に「13万5千円を持ってこい。警察に知らせると 硫酸をぶっかけ,ダイナマイトで自動車ごと吹っ飛ばす」という脅迫状が届いた.京マチ子に似た女優が現金を持って指定場所で待っていると,法政大学1年生 (19)と店員(19)が現れその場で逮捕された.
 昭和32年3月1日,神奈川県横須賀市の無職少年(16)が東京・品川駅で無賃乗車で捕まった.所持品を調べるとナイフを持っており,少年は島倉千代子 を殺すつもりだったと自供した.少年は島倉千代子に何度も面会を求めたが断られ,このことから殺害を計画して上京したのだった.昭和29年にデビューした 島倉千代子は「この世の花」の歌で人気を得ていた.
 芸能人はそれまでは庶民とは遠い存在であった.スターは映画館で観るものであり庶民にとって別世界の人だった.それがテレビの普及によって芸能人が身近 になったことがこのような事件を生んだ.芸能人が一般人から障害を受けた事件は,戦後では山口組組員による鶴田浩二殴打事件(昭和26年1月13日),こ まどり姉妹刺傷事件(昭和41年5月5日)がある.
 美空ひばり(本名加藤和枝)はいうまでもなく戦後最大のスーパースターである.幼時から歌が大好きで,並はずれた歌唱力から天才少女歌手といわれた. 「NHK素人のど自慢大会に出場,「悲しき竹笛」を歌うが鐘が鳴らず落選となる.歌がうますぎて子供らしくないというのが落選の理由だった.昭和21年9 月,地元の横浜市磯子区の映画館「アテネ劇場」を借切って3日間の興行をおこなう.美空ひばり9歳の初舞台である.そしてこれが評判となり,横浜国際劇場 のデビューとなった.わずか10歳の少女は、岡晴夫の「港シャンソン」,並木路子の「リンゴの唄」などを大人顔負けの歌唱力で歌い,2000人の観衆を驚 かした.13歳のときに出演した初演映画「悲しい口笛」は主題歌とともに爆発的なヒットとなった.
 戦後の混乱と暗い世相の中で大衆は娯楽を求めていた.国民は失意のなかで美空ひばりの歌に元気づけられ,勇気をえた.また横浜市磯子区の魚屋の娘からス ターになった美空ひばりは,自分たちの身近な庶民の代表といえた.そして打ちひしがれた庶民に夢と希望を与えてくれたのである.出演した映画「悲しき口 笛」,「東京キッド」,「リンゴ園の少女」,「あの丘越えて」は主題歌としても大ヒットし,次々とヒット曲を生んでいった.さらに江利チエミ、雪村いづみ と共に三人娘と呼ばれ活躍した.美空ひばりは大スターとなり,映画,舞台に活躍,歌謡界の女王として君臨することになった.比類ない歌唱力で,戦後の歌謡 界に大きな足跡を残した.美空ひばりのヒット曲は多数あるが,代表的な曲として「柔(昭和40年)」,「悲しい酒(昭和41年)」,「川の流れのように (平成元年)」などがある.
 美空ひばりの人生は栄光に満ちていた.しかしその私生活は苦悩の連続だったといえる.小林あきらとの離婚,身内の不祥事と死別,そして美空ひばりを最初 に襲ったのがこの塩酸事件であった.そしてこの事件は美空ひばりに大きな転機をもたらした.この事件をきっかけに,美空ひばりと山口組・田岡一雄組長との 結びつきが強くなったのである.田岡一雄組長は地方公演での地元の組とのトラブル防止のため,あるいは護衛役としての役割をはたすことになった.
 昭和62年4月,美空ひばりは全国ツアーをスタートするが,両側大腿骨骨頭壊死と肝硬変が悪化したため,済生会福岡総合病院に入院した.マスコミは再起 不能と報じたが,翌昭和63年4月11日,東京ドームのこけら落としで「不死鳥コンサート」を成功させ,奇跡のカムバックをはたした.5万人の観客が見守 るなか「不死鳥・美空ひばり」は歌い続けた.しかし平成元年3月頃から徐々に呼吸困難が強くなり歌えなくなった.病名は間質性肺炎であった.そして平成元 年6月24日,順天堂大大学病院で永遠の歌姫・美空ひばりは52歳の若さで帰らぬ人となった.
 戦後の何もなかった時代,日本人の心を歌い続けた美空ひばりはその名前のとおり,青空を高く飛び,心の太陽として多くの人々と共に歩んできた.多くのの 国民は美空ひばりの死去に涙を流した.歌謡界の女王といわれた美空ひばりは,昭和という時代を歌い続け,自分の人生だけでなく昭和という時代の幕を引い た.20本以上の追悼番組が放映され,日本政府はその死を悼み,女性として初めての国民栄誉賞を追贈した.

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日本医師会会長に武見太郎を選出(昭和32年)
 昭和32年4月14日,日本医師会会長に武見太郎が選出された.武見太郎は昭和25年から田宮猛雄医師会長の下で副会長の役職についていたが,役員選挙 で第6代日本医師会長に選任された.「喧嘩太郎」との異名をもつ武見太郎は,以後13期,25年間にわたり日本医師会会長として厚生省を含めた日本の医療 全体に大きな影響を及ぼすことになる。日本の医療,日本医師会は,良くも悪くもこの強い個性の武見太郎によって築き上げられたといえる.日本のあらゆる組 織において25年間という長期間にわたりトップの座に居続けた人物は,武見太郎,池田大作,笹川良一くらいである.もちろん選挙という洗礼を受けながら トップの座にいたのは武見太郎ただひとりといえる.「喧嘩太郎」の異名は,日本医師会長として常に厚生省に難題を吹きかけ,ケンカを売ったからである.こ のあだ名に対して,武見太郎は日本医師会の主張は決して難題ではなく,日本医師会が正しい針路を示しているのに厚生官僚が無能だからといった.「喧嘩太 郎」の異名のとおり,武見太郎の言動には常にすごみがあった.それは官僚に対してばかりでなく,マスコミに対しても同様であった.武見太郎は自分の医療観 を持っており,他人の力を借りず,自力で医療問題を解決しようとした.医療に対し信念を持つ者による正面突破戦術であった.
 明治37年3月7日,武見太郎は京都で生まれている.生後まもなく東京に移り,開成中学から慶応普通部へ,そして慶応の医学部に進学する.昭和5年に慶 応大学医学部を卒業すると内科を専攻した.武見太郎は学問が好きであったが,古い封建的な医局制度に反発し,西野忠次郎・主任教授と対立した.医学部長が 仲裁に入ったが武見太郎の意志は固かった.そのため,昭和12年,「学問上の見解を異にする」と辞表を書き医局を飛び出した.武見太郎は慶応医学部の八回 生だったが、それをもじって 厄介生と言った教授がいた.
 このように武見太郎の反骨精神は日本医師会長になる前からその素質があった.そのため当時としては博士号を持たない珍しい医師であった.武見太郎は博士 号取得をあきらめたが,学問に対する探求心は強く,慶応を飛び出すと仁科芳雄が所長を務める理化学研究所に入所している.仁科芳雄は世界的な原子物理学者 であった.武見太郎は封建的な性格と誤解されやすいが,むしろ学問的であり,封建制に対立する性格を持っていた.理化学研究所では湯川秀樹,朝永振一郎な ど一流の学者が最先端の研究を行っており,武見太郎は科学者として一流の雰囲気を味わうことになる.そして武見太郎はサイクロトロンなどの原子物理学の医 学的応用について基礎研究をおこなった.
 その後,昭和14年4月,銀座・教文館ビルの3階に武見診療所を開設し,開業医としての生活を送りながら理化学研究所で研究を続けた.理化学研究所での 研究は,敗戦によってGHQが原子物理学の研究を禁止するまで続けられた.開業医としての武見太郎は一貫して自由診療を貫き,診療収入は患者の自由意思に 任せていた.待合室には「謝礼はご随意,お志しでけっこうです」,「現役の大将、大臣と老人、急患の方はすぐに診察します」と書かれた張り紙が掲げられて いた。日本のほとんどの医師は,国が決めた診療報酬で診察料を取っていたが,日本医師会長である武見太郎は最後まで自由診療をつらぬいた.
 武見太郎の特徴は,彼の人望により幅広い文化人や政治家との交流を持っていたことである.慶応大学時代,岩波書店の創始者・岩波茂雄の病気を治してか ら,岩波ルートとして文化人との交流があった.幸田露伴の最後を看取ったのも武見太郎であった.また政治家との交流は,大久保利通の息子・大久保利賢夫人 を診察したことから,当時の内務大臣牧野伸顕の主治医となり,彼の引き合いで多くの政治家と交流を深めた.武見診療所には近衛文麿首相も診察を受けにきて いた.このように人脈を広げることができたのは,もちろん有能な医師としてだけでなく,武見太郎特有の人間的魅力があったからである.
 武見太郎が37歳の時,牧野伸顕との交流から伸顕の孫娘・秋月英子と結婚することになった.そしてこの秋月英子が吉田茂夫人の姪にあたることから,武見 太郎は吉田茂の親族となり,吉田茂との関係を深めることになる.吉田茂と武見太郎は互いに気が合うらしく,吉田茂が戦後総理大臣になると,武見太郎は吉田 茂の密使となって組閣の舞台裏で活躍した.
 昭和25年に東大教授・柿沼昊作の推薦により,武見太郎と榊原亨が日本医師会の副会長に推挙された.その時の日本医師会長は田宮猛雄で,田宮猛雄は東大 医学部長を退職したばかりの有名な学者だった.榊原亨は日本で最初に心臓の手術をした医師である.そのため会長の田宮猛雄は日本医師会長として象徴的な役 をこなし,政治,行政などの実務交渉は武見太郎が中心になった.
 武見太郎はまず日本の医療の実情を知らないGHQとしばしば対立した.サムス準将は「日本は戦勝国の医療政策を受け入れるべき」と日本医師会に脅しをか けたが,武見太郎は,「日本が負けたのは軍人が負けたからで,医者が負けたわけではない」と言い,これに激しく抵抗を示した.そのためGHQは意に添わな い日本医師会執行部を変えるように厚生大臣に要求,武見を初めとした執行部は総辞職することになった.
 昭和32年4月,武見太郎は52歳で日本医師会会長に選出されると,喧嘩太郎の本領を十分に発揮することになる.会長になった武見太郎の医療に対する考 えは,「自由社会に生きる医師集団が官僚に統制されていけない」ということであったが,国民皆保険制度は避けられない流れとして受け止めていた.そのため 彼の手腕は,医師として古き良き時代の自由診療を理想としながらも,現実的には国家による統制医療のなかでいかに医師としての地位を高めるかであった.そ して武見太郎がはたした役割は,一貫して開業医の利権を守るための診療報酬の引き上げだった.喧嘩太郎のあだ名のとおり,攻撃的な態度で厚生行政に日本医 師会の意見を反映させた。強烈な個性を持った武見太郎の異名は喧嘩太郎ばかりでない.ワンマン,厚相殺し,日本医師会のドン,このようにさまざまであっ た.
 武見太郎は吉田茂などの政治家との交流が深くまた人脈が広いことから,日本医師会長に選出された後も,厚生省や厚生大臣を交渉相手とせず,その頭越しに 自民党のトップと交渉し政治力を発揮した,厚生大臣を「医療の何たるかを知らない輩」と決めつけ,厚生官僚などは眼中になかった.武見太郎は政治家以上の 政治力を持ち,日本医師会の主張を貫いた.当時の自民党,厚生省は明確な医療政策を持っていなかった.そのため武見太郎が自分の考えで日本の医療をリード できたのである.武見太郎が日本医師会会長として登場した昭和32年は、まさにそのような時代だった.武見太郎のポリシーは常に反官僚であった.官僚は秀 才集団である.この秀才集団に対し,武見太郎は具体的医療政策を挙げて戦った.
 自民党の渡辺厚生大臣は,就任の際に「よろしくご教示願います」と武見太郎にあいさつに行った.しかし武見太郎は「大学教授はやったが、幼稚園の先生は やったことがない。お断りします」という逸話が残されている.このように厚生大臣でさえ相手にしないほどの政治力を持っていた.
 武見太郎は25年の間,保険医総辞退,一斉休診,飛行機からのビラ撒き,このように様々な戦術をとり日本医師会の主張を政府に認めさせた.健康保険診療 における制限医療の撤廃、医療報酬の値上げなどを勝ち取り,医療保健行政における日本医師会主導の確立に努めた.厚生省は日本の医療を開業医中心ではな く,病院を中心にしようと考えていた.武見太郎はこのような考えを持つ厚生省と渡り合い,開業医の地位と利益を守った.また医師そのものの地位を高め,医 師会の政治力を強いものとした.当時の医師の政治力は強く,選挙では医師会の存在を無視することはできなかった.往診カバンには200票が入っていると言 われたほど当時の医師には政治力があった.
 日本医師会の基礎づくりから、日本の医療政策の根幹部分まで,武見太郎がつくったと言っても過言ではない.武見太郎は日本の医療について高い理想を持っ ていた.医療はどうあるべきか,将来の医療はどうあるべきか,このビジョンを持っていた.そして医師性善説,医師聖職説,医師学究説が彼の根本的姿勢で あった.学問や研究に生きるのが医師であると考えていた.
 しかし理想はそうであっても,日本医師会という巨大な組織をまとめるには,自分の本意とは違う行動も必要だった.金儲けに走る医師もいれば,向上心の欠 落した医師もたくさんいた.武見太郎は,「日本医師会で自分を理解しているのは3分の1,ノンポリの先生が3分の1,あとの3分の1はどうにもならない欲 張り村の村長さん」と称したほどである.欲張り村の村長さんが含まれる医師の集団をまとめるためには,自分の理想ばかりを求めることはできない.不良な医 師でも選挙権を持っているので,あからさまに欲張り村の村長さんを非難することはできない.武見太郎がもっとも苦労したのはこの三者をまとめることだっ た.結果的に武見太郎の闘争は開業医の賃上げの闘争であり,晩年には武見太郎の独善性が批判されることになる.
 昭和50年,武見太郎はアジアで初の世界医師会会長となり東京総会を主宰した.昭和55年4月,日本医師会の会長選挙がおこなわれ,武見太郎133票, 花岡堅而82票であった.花岡堅而82票はこれまでの選挙において最も多い批判票であった.そしてその直後の昭和55年5月,武見太郎は腰痛を訴え,青山 の前田外科で胃ガンのため開腹手術を受けることになった.本人には出血性ポリープ(良性潰瘍)と伝えられた。その後,築地のガンセンターで再手術を受けた ときにはガンは総胆管に転移していた.病魔に襲われた武見太郎は,昭和57年に引退を決意する.武見太郎の引退を受け,昭和57年4月1日,日本医師会の 選挙がおこなわれた.反武見派の長野県医師会会長・花岡堅而が武見派の宮城県医師会長・亀掛川守を121対103票で破り,日本医師会における武見体制は 終わりをつげた.
 日本医師会にとって不幸なことは,武見太郎の政治力で成り立っていた日本の医療が,あたかも日本医師会の政治力によるものと誤解していたことである.武見太郎の後にも先にも,彼以上の人物は存在せず,日本医師会の政治力は次第に低下していった.
 武見太郎が日本医師会会長として25年間の長期政権を可能にしたのは,武見太郎の巨大な政治力ばかりではなく,武見太郎の個人的魅力,医学に対して明確な哲学を持っていたからと考えられる.
 武見太郎は4回にわたる手術を行い,昭和58年12月18日、 容態の悪化により慶応病院に入院.2日後の12月20日,午前零時50分に死去した。解剖の結果,ガンは肝臓 から背骨まで転移していた。享年79.武見太郎は勲一等旭日大綬章を得ている.また武見太郎の次男である東海大助教授の武見敬三は自由民主党から参議院議 員になっている.武見太郎の死によって,日本の医療は日本医師会主導からしだいに厚生省主導に移行していった. 

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