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2010.02.05 21:35 |  医療事故  |  昭和 30年代 前  |  スーさん  | 推薦数 : 0

森永ヒ素ミルク事件

森永ヒ素ミルク事件(昭和30年)

 昭和306月から8月にかけて,岡山県を中心とした西日本一帯で,発熱,下痢,腹部膨満,皮疹,貧血などの症状を示す乳児の奇病が相次いだ.赤ん坊は夜となく昼となく泣き続け,しだいに皮膚が黒ずんでいった.肝臓が腫大し,お腹がパンパンに腫れ上がり衰弱をきたしていった.このような症状を示す生後2ヶ月から2歳の乳児が続々と病院を受診したのだった.

 診察に当たった医師たちは,この奇妙な病気の原因が分からず,胃腸障害,夏ばて,貧血などの曖昧な診断を下し保健所に届けなかった.

 日赤岡山病院の小児科医師・矢吹暁民は,これまでに経験したことのない奇怪な症状を示す乳児が急に増えたことに驚き,その原因究明にいち早く奔走することになる.日赤岡山病院には同じような症状の子供が30人も入院していた.患者の母親から病歴を聞くと,この奇病を呈した乳幼児は母乳ではなく人工栄養で育てられていることが分かった.しかも特定の銘柄「森永乳業のMF印ドライミルク」を飲んでいた乳児ばかりだった.矢吹医師は岡山市内の開業医に協力を求め,乳児のミルクの実態調査を行った.その結果,日赤岡山病院だけでなく,異常を示した乳児全員が森永粉ミルクを飲んでいることが分かった.日赤ではこの奇病を森永の頭文字をとってM貧血と呼んだ.

 森永粉ミルクが奇病の原因と確信した矢吹医師は,813日に森永商事・岡山出張所に連絡をとり,被害防止のため森永粉ミルクの発売中止を求めた.しかし森永商事は販売を中止せず出荷を続けたのである.矢吹医師は恩師である岡山大学医学部小児科・浜本英次教授にこれまでの調査結果を説明し,原因解明の協力を求めた.浜本英次教授は矢吹医師の報告を聞くまでは,この奇病の原因を細菌感染症によるものと考えていた.しかし矢吹医師の説明を受け,ミルク中毒,しかも乳児の症状から「ヒ素中毒」であろうと推測した.

 821日夜,岡山大学医学部に入院していた乳児が死亡,法医学教室で乳児の病理解剖が行われた.そしてその結果,乳児の体内から灰白色のヒ素の結晶が検出されたのである.2日後の823日,2例目の乳児の解剖が行われ,遺体の肝臓からもヒ素を検出,さらに乳児が飲んでいた粉ミルクからも多量のヒ素を検出した.

 この事実をふまえ,824日,浜本英次教授は「この奇病の原因は,森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによるヒ素中毒である」と発表した。そして翌日の新聞,ラジオにより全国にこの事件の詳細が大々的に報道されることになった.乳児を持つ親たちは,顔をこわばらせて医療機関に殺到し,日本中がこの事件で大騒動となった.

 全国の母親を恐怖におとしいれた森永ヒ素ミルク事件は,奇病発生から原因解明までの3ヶ月の間に,犠牲者は1225県に広がり,患者総数は13400人,133人が死亡するという大惨事となった.森永ヒ素ミルク事件は世界でも類をみない大規模な乳児の集団中毒事件となった.

 昭和30年当時は戦後の食糧難が一段落し,将来に明るい希望が見えてきた時期であった.電子釜が発売され,テレビ,洗濯機とともに「家庭電化時代」を迎えようとしていた.神武景気がはじまり,石原慎太郎の「太陽の季節」が話題を呼んでいたころである.しかし終戦後の食糧難の影響を受けた母親の体格はまだ低下しており,母乳不足を訴えがちであった.さらに母乳ではなく人工ミルクで乳児を育てることが,生活の豊かさや近代化をイメージさせ,人工ミルクで育てることにある種のステータスを思わせる雰囲気があった.森永乳業は「粉ミルクを飲ませれば,丈夫で元気な赤ちゃんが育つ,このミルクを飲みましょう」とラジオや新聞をとおして粉ミルクを盛んに宣伝していた.また当時の保健所も小児科の医師たちも,森永のドライミルクをすすめていた.

 昭和25年4月,戦時中に規制されていた「牛乳や乳製品の配給,および価格に対する統制」が撤廃され,乳業業界は自由経済へと移行していった.そして牛乳の加工ないし処理部門である乳業が次第に大量生産されるようになった.森永乳業は5年間に9も工場を開設し,牛乳の集荷量は約3.1倍に増えていた.この森永乳業の猛烈な拡大路線が,砒素ミルク中毒という悲惨な事件を招くことになった.

 この牛乳の集荷量の増大は育児用粉ミルクの急増によるところが大きい。「母乳で育てると乳房の形が悪くなる」,「母乳で育てた子は背が伸びない」,「母乳よりも牛乳のほうが栄養価が高い」,このように間違った流言飛語が流され,多くが育児用粉ミルクに走ったのである.そのため粉ミルクの消費量が急速に伸びた時期であった.

 全国の母親を恐怖におとしいれた森永ヒ素ミルク事件はこのような社会背景の中で起きた事件である.乳児の主食ともいうべきミルクが引き起こした大規模食品公害事件である.より健康的に,より丈夫にと願って与えた粉ミルクが,大切な乳幼児の身体をむしばんでいた.母親が強く悔やみ悲しんだのは,われとわが手で毒入りミルクを愛児に飲ませたことだった.

 粉ミルクにヒ素が混入したのは,森永乳業・徳島工場が製造過程で使用した乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)が原因であった.粉ミルクの製造は,牛乳の劣化を防ぐために,食品添加用の第二燐酸ソーダを0,01%添加することになっていた.この食品添加用の第二燐酸ソーダを使うべきところを,間違って工業用の粗悪品を使用したことがヒ素混入の原因であった.工業用・第二燐酸ソーダには不純物として10%のヒ素化合物が含まれていたのである.昭和304月から824日まで,森永徳島工場で製造された約84万缶の「森永MF印ドライミルク」にヒ素化合物が混入されていたのである.

 ヒ素中毒を引き起こした工業用・第二燐酸ソーダは,日本軽金属・清水工場がボーキサイトからアルミナを製造するときに出た産業廃棄物だった.この産業廃棄用の第二燐酸ソーダは,陶器の色づけの目的で使用されるはずであった.しかし数社の業者間で転売が繰り返えされ,徳島市内の協和産業から森永乳業・徳島工場に納入されたのである.森永乳業・徳島工場は第二燐酸ソーダをいつも協和産業から納入しており,新たに納入していた食品添加用の第二燐酸ソーダが工業廃棄物に変わったことに気づかなかった.森永乳業・徳島工場は故意に廃棄物を用いたわけではない.しかし食品を扱う企業としては,あまりに安全対策がずさんだった.森永粉ミルク事件は,品質検査などのわずかな手間を惜しんだための人災といえた.

 粉ミルクの製造には,ミルクを溶けやすくするため乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)を加えて製造することになっていた.しかし元来,原料に新鮮な牛乳を用いていれば,乳質安定剤は必要なかったのである.新鮮な牛乳を放置すると次第に乳酸菌が増え酸性になり,牛乳が酸性化すると牛乳は固まりやすくなる.そのため製造に支障が生じるので乳質安定剤を加えていたのだった.つまり森永は新鮮度の低下した牛乳を原料として粉ミルクを作っていたのだった.森永徳島工場が乳質安定剤を使用するようになったのは,昭和28年以降のことであり,それ以前は使用していなかった.またその当時,森永乳業は4つの粉ミルク工場を持っていたが,第二燐酸ソーダを使っていたのは徳島工場だけであった.

 830日,森永徳島工場は営業停止3ヶ月の処分を受けることになった.この犠牲者の多さに対し,あまりに軽い行政処分に被害者の批判と怒りが集中した.この事件を引き起こした森永乳業・徳島工場のずさんな安全対策,それを監督すべき厚生省に批判が集中した.森永乳業・徳島工場が営業停止3ヶ月との軽い処分になったのは,工場側の過失が軽度と判断されたこと,さらに工場の停止により牛乳を納入している酪農業者の影響を受け止めた政治的な配慮であった.

 森永乳業・徳島工場はこのヒ素中毒事件を工場の過失とは考えていなかった.そのため被害児に対する謝罪や補償の意思を示さなかった.これに対し.被害児の親たちは森永乳業の責任と補償を求め団結することになる.親たちの団結は,この事件の惨状を訴え続け,この未曾有の不祥事件を風化させないようにした.

 日赤岡山病院の被害児の親たちが中心になり被害者同盟が結成された.93日には,日赤岡山病院,岡大付属病院,倉敷中央病院の被害児の家族が中心となり「岡山県総決起集会」が開催された.岡山県全域から被害者が集まり,岡山県森永ミルク被害者同盟への加入は700人を越えた.被害者同盟は森永乳業に対し速やかに事件への対応をもとめた.そして会社側に協議を申し入れたが,森永乳業は被害者同盟を被害者の代表とは認めず,回答を示さなかった.被害者同盟は死者250万円,重症者100万円の要求書を手渡すが森永乳業はこれを拒否した.このため各県の被害者が結束を強め,9月18日に「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が結成されることになる.

 会社側は被害の深刻さ,さらに巨額の補償金を恐れ,厚生省に問題の解決を依頼した.依頼を受けた厚生省は,森永に有利な第三者委員会として「西沢委員会」と「五人委員会」の2つの委員会を作り解決を計ろうとした.

 106日,厚生省は,ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成を日本医師会に依頼.日本医師会は小児保健学会の会頭である大阪大学・西沢義人教授に任すことにした.西沢義人はこの依頼を受け,岡山大学・浜本英次教授,徳島大学・北村義男教授,兵庫医科大学・平田美稔教授,京都府立医科大学・中村恒夫教授,奈良医科大学・吉田邦夫教授らと第三者機関である「西沢委員会」を作り,ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針の作成に当たることになった.この指針は,ヒ素ミルク被害児を特定するためのものであった.しかし西沢委員会が作成した診断基準は,色素沈着,肝臓肥大,貧血などのヒ素中毒の典型的症状を必須項目としたため,非典型例の多数の被害児を切り捨てることになった.またヒ素中毒の急性症状を重視し,慢性中毒の多様な症状を考慮しなかった.西沢委員会の診断基準により,ヒ素ミルク被害児と認定されない被害者が多数出ることになった.

 さらに西沢委員会は,ヒ素ミルク中毒患者はほとんどが治癒しており,治療中の被害児もいずれ完治すると発表した.このためヒ素ミルク中毒患者の非典型例が除外されたばかりでなく,慢性あるいは遅発性の神経障害児の被害が無視されることになった.

 補償交渉も難航した.それは被害の大きさから補償総額が膨大となることが予想されたからである.1215日,厚生省から依頼された第三者機関である補償交渉斡旋委員会(五人委員会)が発足し,厚生省は被害者の補償をこの弁護士やマスコミ関係者からなる五人委員会の裁定に従うことを被害者同盟に要請した.しかし五人委員会が示した補償額は「死亡者25万円,患者1万円の補償金」という非常に低額の補償金を提示しただけであった.この金額は被害者が要求していた十分の一の金額である.

 五人委員会の運営資金は森永乳業側からでており,森永乳業は五人委員会を隠れ蓑としていた.森永はこの補償額の線をゆずらず,被害者同盟全国協議会は,今後精密検査を行うことを条件にこの補償を受け入れることになった.しかしこの補償金は認定患者に限られ,西沢委員会が作成した診断基準から外れた被害者は何らの補償金を得ることはできなかった.さらに西沢委員会は後遺症を心配する必要がないと宣言し,後遺症に対する補償は決められていなかった.西沢委員会,補償交渉斡旋委員会(五人委員会)は中立を装っていたが,ともに森永乳業の立場を擁護していたのである.森永は死亡者25万円,患者1万円の補償金を現金書留で送り,官製はがきに領収書を印刷し同封した.そし,てこれで一切終わりと宣言した.

 森永乳業に対する怒りから,森永製品の不買運動が各地ではじまることになる.しかし昭和381025日,徳島地裁は「森永ミルク事件における会社側の責任はない」とする無罪の判決が下ると,世論もしだいに沈黙することになった.被害者の声は闇の中に閉じこめられ,この事件はいったん決着したかのようにみえた。

●14年目の訪問

 この事件から14年が過ぎ,森永ミルク中毒事件が世間から忘れられていたとき,この事件は急展開を迎えることになる.それまで後遺症は残さないとした「五人委員会」の報告が大きな間違いであったことが明らかになったからである.ヒ素ミルク中毒で命を取り留めた被害児の中に,脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ患者が多数いることが確認されたのであった.世間から忘れ去られていた孤立無援の被害者を救ったのは大阪府・堺養護学校の一人の教員だった.

 昭和37年,教員のクラスに脳性麻痺の男子が入学してきた.母親はかつての森永ミルク事件で脳性麻痺になったことを教員に話した.このことがきっかけとなり,森永ミルク被害児の追跡調査がはじまった.一人の教員が始めた追跡調査の実態がわかるにつて,それを支援するグループが立ち上がることになる.そして大阪大学公衆衛生学・丸山博教授が中心となり,養護教論,保健婦,学生(阪大医学部)からなる22人の調査グループが結成されることになった.調査員は大阪地区の被害児55人の家を一人ひとり訪問し,聞き取り調査をおこなった.そして67%の被害児に発育の遅れや脳波異常などの健康異常を認め,後遺症に苦しめられている実体を明らかにした.被害者の家族たちは「この世に神様がいるとしたら,それはあなたたちです」と感謝の気持ちを表した.わが手で毒入りミルクを飲ませたことの悲しさ,この母親たちに十字架を背負わせたままだった.乳が出ない母親だったのが間違いだった.嫌がって飲もうとしなかったのに何故飲ませ続けたのか.手足の動かない身体の子供,皿に注がれたお茶を舐めるように飲む子供,母親たちはヒ素入りミルクを販売した森永乳業でなく,ミルクを飲ませた自分を責めつづけ,子供の世話をしていたのである.

 昭和47年,第27回日本公衆衛生学会で大阪大学公衆衛生学・丸山博教授は「14年目の訪問」と名づけられた報告の中で,この調査結果を発表した.そして中枢神経系の障害を残した子供たちが多数いることが明らかになった.

 この学会の席上には,西沢義人も出席しており,森永ミルクヒ素中毒事件では後遺症は生じていないと断言,中枢神経系の障害はヒ素ミルク中毒とは関係がないこと,さらに調査チームに医師が参加していないと反論した.因果関係を否定し,あるいは単純な事実誤認をことさらに取り上げ,報告の信頼性に難癖をつけた.もちろんこの西沢義人の発言は間違いであった.間違った認識のまま14年間もヒ素中毒の権威者のトップに座り,西沢義人は被害者を無視する態度を続けてきたのだった.

 丸山博教授の報告は全国に大きな衝撃をあたえた.そして厚生省もその対策に乗り出すことになる.多くの公衆衛生学者,多くの小児科医が集まり,被害児の後遺症についての共同研究が始まることになった.広島大学,岡山大学でも同様な報告がなされ,被害児の後遺症が明らかになった.それまで被害者の苦しみを無視してきた医療機関や行政も,患者とともに14年間のブランクを埋める努力を始めることになった.

 丸山教授の報告を受けて昭和441130日,全国の親たちは「森永ミルク中毒のこどもを守る会(渡辺祝一理事長)」を発足させた.「守る会」は賠償金の要求ではなく、子供たちの健康回復と社会的自立を求め、そのための医学的究明と恒久的対策を要求し,森永乳業や国と交渉を始めた。多くの専門家や世論の大きな支持を受け,国(厚生省)と森永乳業を相手に民事訴訟を提訴するなどの運動を進めた.弁護団が結成されたが,弁護団の団長を務めたのが、後に住宅金融再建管理機構の社長となった中坊公平弁護士であった.

 守る会は独自の「恒久対策案」を作成してその実現を迫った14年間のブランクを埋めるため多くの支援グループが誕生し,森永製品の不買運動が広がり,森永乳業もヒ素ミルク中毒の責任を認めるようになった.同年114日,森永乳業は被害者に補償金15億円の拠出金を提示し,患者への恒久的救済を発表した.しかし「森永ミルク中毒のこどもを守る会」はこれを不十分として受け取りを拒否することになった.

 事件から18年目,昭和481128日,差し戻された裁判が徳島地裁で判決が下された.徳島地裁は森永の刑事責任を認め,徳島工場元工場長は無罪となったが,元製造課長に禁固3年の実刑判決を下したのである。「同工場で化学的検査などのわずかの手数を惜しんだための人災」と判決は述べた.第二燐酸ソーダの納入業者である協和産業が、間違って産業廃棄物を納入したことを盾に、森永側は自分たちに過失はないと主張した。長い間の取引先を信用していた自分たちには、注意義務はないと主張したのである.

 しかし同じ日本軽金属から出た廃棄物が,やはり間違って国鉄仙台鉄道管理局に納入されていたことが分かった。国鉄はボイラー用の洗剤として第二燐酸ソーダを使用する予定であったが,事前に品質検査をしてヒ素の混入を発見して返品していた.まして口に入るものを作っている食品会社が,注意しなくていいなどの理屈はとおるはずはなかった.

 この判決を受け,昭和481223日,「森永ミルク中毒のこどもを守る会」と森永・厚生省の間で,被害児の恒久救済実施の合意が成立することになる.恒久救済とは一定額の補償金ではなく、厚生省と森永乳業の両者から,被害者が存在する限り救済を受けられることだった。森永乳業は被害児の健康管理,治療,介護などのために30億円を拠出することになった.

 昭和49512日,森永乳業が被害児の恒久救済を表明したことから,「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は損害賠償請求の訴訟を終結することを決定.この結果,森永ヒ素ミルク中毒事件は19年ぶりに解決し,森永製品の不買運動はとりやめになった.12月には被害児の健康管理や生活保障を行う財団法人「ひかり協会」が設立された.

 昭和59年,当時の大野社長が亡くなり,社長の遺族が香典の全額を被害者の救済資金として寄付した.そして「守る会」からの提案で,ひかり協会主催の「大野社長に感謝する会」が開かれた。加害者と被害者の関係を超えた信頼関係が形成されたのである.

 森永ヒ素ミルク事件は,世界最大級の食品公害事件であった.最も安全を考えなければいけないミルクにヒ素が混入した悲劇的な事件で,日本が高度成長に入ろうとする時期,工業立国日本の歪みが生んだ事件であった.さらに企業の論理に立った森永乳業だけでなく,それを助けた行政,医学界を含め大きな教訓を残すことになった.当時の産業優先政策が引き起こした事件といえる.

 被害者数は,平成4年の段階で13420人であった.森永素ミルク被害者の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いこと、皮膚変化としては,ヒ素中毒特有の点状白斑とひ素角化症が2から7%に存在すること、さらに様々な身体的不定愁訴をもつ被害者が多いことであった.

 ヒ素が食品に混入したことによるヒ素中毒は,これまで多数の犠牲者を引き起こしている.1900年イギリスではビール製造過程でヒ素が混入し死者70人,中毒患者6000人の犠牲者をだしている.最近では和歌山県毒カレー保険金殺人事件(平成10年)が記憶に新しい.

 ヒ素は毒物としての古くから知られている.歴史上,ヒ素中毒を有名にしたのは,1821年ナポレオンがヒ素により毒殺されたことである.196110月の科学雑誌「ネーチャー」でナポレオンの遺髪から平常の量の13倍のヒ素が検出されたことが発表された.セント・ヘレナ島へ流されたナポレオンは,少しずつヒ素を飲まされて死亡したのである.

 

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