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昭和34年10月以降,工場幹部は水俣病の原因を廃液と知りながら,うやむやにする工作に出た.まず患者や漁民に対しわずかばかりの見舞金,補償金の支払いを約束する.そしてその条件として「将来水俣病が工場排水によるものと判明しても,新たな補償金の要求は一切しない」という項目をいれた.さらにこの補償金は会社側の責任を示したものではなく,あくまでも「隣人愛による行為」と説明したのである.
しかしこのようなうやむやな説明と,わずかばかりの補償金に漁民たちは納得しなかった.昭和34年11月2日,不知火海沿岸36の漁業協同組合の漁民1500人が,漁船に幟を立て水俣に集結,地元漁民300人と合流した.漁民たちは水俣工場の排水中止を叫び,水俣市内をデモ行進,水俣駅前広場で決起集会を開いた.漁民たちは決議文をチッソ水俣工場に渡そうと工場へ向かった.しかしチッソ水俣工場は話し合いに応ぜず,漁民が求める操業中止,補償金の要求を拒否した.この工場側の態度に漁民たちの怒りが爆発し,数百人がチッソ水俣工場に乱入し,事務所を手当たり次第に破壊していった.チッソ水俣工場は警察隊を要請し,警察隊と漁民たちが衝突,警察官80人が負傷し,漁民35人が逮捕され全員が有罪となった.
水俣病はこれまで九州地方のローカルニュースとして,全国レベルで報道されることはほとんどなかった.しかしこの漁民の乱入は全国ニュースとなり,国民が水俣病の存在を知るきっかけとなった.しかしこの乱入事件のニュースは暴力反対の世相を引き起こし,そのため漁民は孤立してしまった.また水俣市長,農協,労働組合は工場排水の停止は,水俣市の死活問題につながるとして熊本県知事に排水停止反対の声明を出した.そのため水俣病患者,周辺の漁民たちは孤立してしまった.昭和34年12月17日,チッソは自分たちの非を認めないまま,熊本県漁連と補償調停案に調印した.
チッソ水俣工場は,最初は水俣病の原因究明に協力的であった.しかし水俣病の原因がチッソ水俣工場の廃液の可能性が高くなるにつれ,熊本大学医学部との対立を深めていった.チッソ水俣工場は,水俣病の原因を工場排液とする説を絶対に認めなかった.またメチル水銀を水俣病の原因とする説も認めなかった.工場の技術者幹部は工場では無機水銀を使用しているが有機水銀は使用していないと説明,無機水銀がメチル水銀を生み出すはずはないと主張した.また工場の生産量が増加しているのに患者が減少していると反論した.しかし患者が減ったのは住民が水俣湾の魚を食べなくなったからで,魚の安全を思わせる発表により水俣病患者が再び増加することになった.沿岸の人たちにとって,沿岸でとれる魚介類は主食に近いものだったからである.
熊本大学の有機水銀説を否定するかのように,昭和35年4月12日,東工大教授・清浦雷作が「水俣病の原因は腐った魚介類の毒(アミン説)」によると新聞紙上で大きく発表した.清浦雷作は水俣湾の魚介類を分析した結果,魚肉が分解したときに出る4種類のアミンを検出,これを猫に注射すると水俣病と同様の症状が出ることから,魚介類のアミンが何らかの反応によって有毒化したことが水俣病の原因と発表した.翌36年には東邦大学・戸木田菊次教授がこのアミン説を支持する論文を書いた.このように水俣病の原因について,熊本大学の有機水銀説と清浦雷作のアミン説の2つが対立したが,当時のことである,田舎の熊本大学よりも東工大教授・清浦雷作の方が多くの支持者を得ていた.
さらに日本化学工業協会・大島竹治理事,横浜国大・北村教授は水俣湾に流れ込んだ農薬が原因であるという農薬汚染説を主張した.また戦時中水俣にあった日本海軍施設の爆薬が海中に投棄され,その中の爆薬が溶けだしたとする「爆薬投棄説」まで持ち出された.これらチッソ工場の立場を守ろうとする諸説に対し,メチル水銀説の熊本大教授らはただちに反論したが,メチル水銀の出所を明らかにすることはできなかった.チッソ水俣工場が廃液の検査を拒否したため,原因の決め手に欠いていたのである.チッソ水俣工場は無機水銀を使用していたが,有機水銀は使用していないと無関係を強調した.
しかし,昭和38年2月16日,水俣病の原因究明は急展開することになる.熊本大水俣病研究班がチッソ水俣工場から偶然採取した泥土から有機水銀を抽出したのである.このことから熊本大学・入鹿山且郎教授は水俣病の原因はチッソ水俣工場の排水であると発表した.水俣病の原因がチッソ水俣工場によるメチル水銀中毒であると証明したのである。
昭和40年になって,通産省はチッソ水俣工場の廃液をリサイクルして外に出さない閉鎖循環方式による処置を命じた.しかし水俣湾の魚介類の水銀値は減少したものの完全なものではなかった.そのため生産停止が命じられ,魚介類の水銀値は完全に低下することになる.
水俣病はチッソ水俣工場が製造していたアセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生し,そのことによる有機水銀中毒が原因と判明した.アセトアルデヒドはプラスチックや合成ゴムの製造過程における触媒として利用されていた.
水俣病は他の公害病とは異なっていた.海水によってきわめて薄い濃度に希釈されたメチル水銀が、水中の生物間の食物連鎖を経由して,魚貝類に高度のチル水銀として濃縮されたのである.この数万倍にも濃縮された魚貝類を摂取した人々のなかからメチル水銀中毒症の犠牲者が出たのである。
チッソ水俣工場の技術者は,水俣病の発生から一貫して有機水銀発生の可能性を化学的にあり得ないと否定していた.そのため水俣病が問題になってからもアセトアルデヒドの生産量を倍増させていたのである.しかしアセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生することは,昭和5年,スイスのザンガーが論文ですでに指摘していたことである.また昭和15年にはハンター・ラッセルが有機水銀による中毒症状として水俣病と同様の症状を発表していた.
水俣病は多くの犠牲者を出したが,より悲劇的なのは汚染された魚を食べた母親だけでなく,妊娠した母親の腹で育った胎児の脳にも障害を及ぼしたことである.メチル水銀が胎盤を通して胎児に蓄積し,生まれた子供に脳性小児麻痺の症状を引き起こしたのである.妊娠中や出産時に異常がなく,出生後に精神や運動機能の発達が遅延することから気づくのが遅れてしまっていた.この胎児性水俣病は,しばらくの間,水俣病とは関係のない脳性小児麻痺として扱われていた.水俣病の原則は汚染された魚を食べることである.胎児性水俣病の子供は魚を食べていないことから他の原因による脳性小児麻痺と区別できなかったのである.水俣病の患者の子供に脳性小児麻痺が多発していたが,胎児性水俣病の証明は難しかった.猫を用いた動物実験をおこなっても,気まぐれな猫はなかなか交尾をせず,胎児性水俣病は証明できなかった.結局,脳性小児麻痺の子供が死んで,その脳の病理所見から胎児性水俣病が証明された.これまで40例以上の胎児性水俣病の子供たちが確認されており,多くの人たちの涙をさそった.
水俣病が問題化した昭和30年代は,日本の経済が復興し,高度成長時代の牽引役として工場側を擁護する雰囲気があった.また政府も工業立国を目指す政策から工場側に有利な立場を取っていた.明治41年,チッソ水俣工場が操業を開始して以来、チッソは日本の化学工業をリードし、水俣市の政財にも大きな影響を及ぼしていた。経済成長を最優先した時代に,工場排水が原因として強く疑われたが、国や市は工場の操業停止を求めることはなかった。これらが水俣病の解明を遅らせ,被害を大きくしたのである.水俣病は被害の大きさと悲惨さから公害の原点といわれている.
水俣病の患者はチッソ水俣工場を相手に裁判に踏み切った.チッソ水俣工場は「メチル水銀による水俣病の発生は予想できなかった」,「アセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生しすることを知らなかった」,「熊本大学医学部の水俣病研究班は3年かかって原因を明らかにしたが,医学専門家でない技術者に原因がわかるはずはない」,などの弁明をした.
昭和48年3月20日,水俣病の裁判で熊本地裁は患者側の主張を全面的に認め,被告のチッソに賠償金の支払いを命じた。水俣病の患者や家族たち138人がチッソ株式会社を相手に総額約15億8000万円の損害賠償を求めた裁判で,熊本地裁は「被告チッソは工場廃液を放流する際に安全を確認せず,その後の対策や措置も極めて適切を欠いた」として患者側主張を全面的に認める判決を言い渡した.そしてチッソに対して死者と重傷患者1人当たり最高1800万円,生存者には1600から1800万円の総額約9億3000万円の支払いを命じた。
水俣病は患者に対する認定をめぐり,行政側の対応の悪さが指摘された.そのため第2次,第3次訴訟が提訴され,昭和54年3月に熊本で14人が第2次水俣病訴訟を提起し12人が勝訴,昭和60年8月の控訴審判決でも4人が勝訴した。さらに熊本では,国と熊本県およびチッソを相手に第3次訴訟が提起され,関西在住の被害者および東京在住の被害者もそれぞれ大阪地裁,京都地裁,東京地裁に訴訟を提起した.熊本の第三次訴訟では,昭和62年3月30日,チッソに加え,初めて国と熊本県の責任が認められた.
いっぽう水俣病患者同盟は民事訴訟とは別に,当時の新日窒社長・吉岡喜一とチッソ水俣工場長・西田栄一を「未必の故意」による殺人,傷害罪で告訴した.地裁と高裁で有罪の判決が下り,昭和63年3月,最高裁は1,2審判決を支持し有罪が確定した。裁判では勝ったものの,「銭は1銭もいらない,そのかわり会社のえらか衆の上から順々に水銀母乳を飲んでもらいたい」という末期に近い患者の言葉を,石牟礼道子は「苦海浄土」のなかで紹介している.
行政の責任を問う水俣病の訴訟は,平成6年7月の大阪地裁判決までに6件の判決が下され,3件が国,熊本県に行政責任があるとして和解勧告が出された.国は和解を拒否してきたが,平成7年になって未認定患者の救済を中心とした与党合意が自社さ連立政権でまとまり,水俣病被害者・弁護団全国連絡会は訴訟の取下げを条件に政府案受け入れを決定。平成8年5月,正式に和解が成立した.
平成7年7月,村山富市首相が水俣病患者に謝罪し,これをきっかけに患者団体との話し合いがもたれ熊本水俣病訴訟が和解した.水俣病の発生から決着までに40年の歳月が流れていた.最終的な患者数は,平成5年末までに2946人が水俣病と認定され1394人が死亡した.
水俣病患者の補償金はチッソの支払い能力を越えるものであった.そしてチッソそのものが経営が行きづまり危機に陥った.もしチッソが倒産すれば,水俣病患者の救済補償は行きづまることになる.このため熊本県は県債を発行してチッソに融資することになった。県債の総額は平成9年に3218億円に達し,この県債をチッソは熊本県に返済する義務があった.平成12年度から年間70億円を熊本県に返さなくてはいけない.平成10年のチッソの赤字は47億円で,累積赤字は 2,029億円に達している.液晶材料や石油化学製品の輸出は好調であったが,水俣病患者の補償が経営赤字の最大原因となった.
チッソがアセトアルデヒドの生産を開始したのは昭和7年からである.そして生産を中止した昭和43年まで水俣湾には約 100トンの水銀が排出されたと推定されている.水俣湾汚染海域は485億円をかけ埋立が進められ,平成2年には埋立地が公園に生まれ変わった。
また水俣湾には「汚染魚の湾外への拡散を防ぐ」という名目で網が設置されていたが,平成9年8月,23年ぶりに仕切り網が撤去された.湾内の魚介類の水銀値が国の規制値を3年連続で下回り,熊本県・福島知事が安全宣言をだしたのである.
環境庁の試算では,被害を出さないように対策を施した場合,その費用は被害額の 100分の1に過ぎなかったとしている。
メチル水銀による中毒は新潟県阿賀野川流域においても発生しており,これを第二水俣病と呼んでいる.また水俣病は日本だけでなく,昭和50年,カナダのオンタリオ州で原住民であるインディアンにも水俣病患者が発見された.原因は川の上流にある化学工場とパルプ工場の水銀廃液であった。平成4年1月,ブラジルのアマゾン川流域で有機水銀中毒の患者の存在が確認されている。
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水俣病・有機水銀中毒(昭和28年)
熊本県・水俣市は熊本市から90キロ,鹿児島県との県境に近い人口約5万人の小都市である.不知火海(しらぬいかい)に面したこの水俣市が,公害病の中で最も大規模で,最も悲惨な患者を生んだ水俣病の舞台となった.
昭和31年5月1日,水俣市の新日本窒素(現,チッソ)水俣工場付属病院の細川一院長が,「水俣市の漁村一帯に,これまでに見たことのない中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に報告した.細川院長が保健所に報告した奇病というのは,歩行障害,言語障害,狂躁状態などの原因不明の中枢神経障害をきたす小児患者で,チッソ水俣工場付属病院に入院してきた5歳の姉,引き続き入院した2歳の妹,この姉妹が報告のきっかけとなった.この姉妹は水俣市内月浦に住む田中義光さんの子供で,姉妹の症状は進行性で日本脳炎に似ていた.しかし日本脳炎の特徴である発熱,頭痛,嘔吐はみられず,これまでに経験したことのない悲惨な症状を示していた.さらに医師たちを驚かしたのは,同じ症状の患者が近所にもいるという家族の話だった.そのため内月浦地区周辺を調査することになり,その結果,田中姉妹と同じように四肢の筋肉を硬直させ,狂声を発する患者8人が見出され入院することになった.
昭和31年5月16日,熊本日日新聞は「水俣に子供の奇病,ネコにも発生」との見出しで水俣病を報じた.この水俣の奇病は人間に限らず,他の動物にもみられていた.海岸周辺の住民の話から,10年以上も前から水俣湾の魚介類が大量に死んでいることが観察されていた.また数年前から「猫が痙攣を起こし,よろけながら歩き,狂ったように急に走り壁にぶつかり,あるいは海に落ち死んでしまう」,このような不気味な現象が地元では知られていた.さらに不気味なことに,ふらふらと飛んでいたカラスが急に落下するのを目撃した住民も多数いた.
水俣病の公式届出の約3年前である,昭和29年7月31日の熊本日日新聞は,「猫がてんかんで全滅」の見出しをつけて記事を掲載していた.漁村では網がネズミにかじられないように猫を飼う家庭が多かった.その猫が全滅したため.ネズミが増え網がかじられる被害が多発していると報じたのである.その当時は猫の病気はあまり問題にされず,住民たちはこれを「猫踊り病」,「猫の自殺」と呼んでいた.さらに飼い猫が「猫踊り病」で死んだ家では,その後,同様の症状の患者が発症していることが分かった.
5月28日,水俣市役所,市立病院,市医師会,保健所,チッソ水俣工場付属病院の5者が集まり,「水俣奇病対策委員会」が組織され,対策に乗り出すことになった.周辺地区の調査がおこなわれ,この奇病は3年前からすでに広がっており,この奇病にとりつかれた患者は30人で,すでに11人が死亡していることがわかった.
急性発症の激症型はほとんどが死亡し,慢性型は重症例が多かった.そしてこの悲惨な症状を引き起こす奇病は致死率37%に達することが判明した.原因はまったく分からず,治療法もないまま患者は廃人となり狂気のまま死を待つだけであった.患者の家はすべて漁業を営んでおり,水俣湾の入り江の漁村に患者の住まいが集中していた.特に月の浦,湯堂地区に患者が多く,しかも同じ家族に数名の患者がいるのが特徴であった.
水俣病は狭い地域に集団で発生していることから,また患者の家の猫も「猫踊り病」で死んでいたことから,奇病の原因として最初に注目されたのが新種の伝染病であった.そのため白衣を着た保健所職員が患者の家を真っ白になるまで消毒し,患者は疑似日本脳炎として隔離された.この伝染病という噂により,患者たちはさまざまな差別を受けることになる.患者の家の前を通る人たちは,手で口をふさぎながら,足早にすぎていった.患者が街を歩けば,住民は汚いものを見るように,遠くから患者を見つめるのだった.患者がバスに乗ると,乗客は席を立ち離れようとした.このように患者や家族は病苦だけでなく,周囲からの差別を受け,孤独の中で苦しめられていった.村八分と同じ扱いを受けたのである.
昭和31年6月,水俣工場付属病院の細川一院長は熊本大学医学部付属病院院長・勝木司馬之助を訪ね,12人の患者を熊本大学へ学用患者として入院できるように依頼した.そしてこの日から熊本大学医学部は水俣病解明に乗り出すことになった.
昭和31年8月,熊本県の依頼により熊本大学医学部に「水俣奇病研究班(班長,尾崎正道医学部長)」が設置された.そして臨床,病理,疫学など多角的な方向からの研究がなされた.その結果,最初は子供の病気と考えられていたが,奇病は子供だけでなく成人にも多数発症していることが分かった.さらに患者は熊本県南部の水俣市一帯に限定していること,水俣湾の魚介類を多く食べている者に発症していること,そしてこの奇病にとりつかれた患者は64人で,21人がすでに死亡していることが判明した.
この奇病は細川一院長の公式届け出(昭和31年5月)以前から多発していたことが分かった.昭和28年12月15日,5歳の少女がチッソ工場付属病院で原因不明の脳障害と診断されて入院していたが,後になってこの患者が水俣病認定第1号の正式患者となった.
水俣病は想像を絶する悲惨な症状を示した.初期症状は視野が狭くなり,舌の運動障害による言語障害,手足のしびれ,運動障害などを示し.これらの症状が進行すると四肢の運動障害が強くなり,手足の硬直から起立が困難となる.発病患者は面会に来る家族や知人の識別ができなくなり後ずさりした.さらにけいれん,精神障害をきたし,廃人同様の状態にから死にいたった.
昭和31年11月4日,熊大水俣奇病研究班は,水俣病の原因として「ある種の重金属による中毒.人体への侵入は魚介類による疑いが濃い」と発表した.しかし重金属が何であるのか不明であった。第1内科は手足の震えや運動障害からマンガン中毒を,精神神経科は多発性の神経症状からタリウム中毒を,公衆衛生教室は視力障害からセレン中毒を疑ったが,いずれも決め手がなかった.
昭和32年3月,水俣保健所所長・伊藤蓮雄は「猫踊り病」が水俣病と似ていることに注目し,水俣湾の魚を猫に与える実験を行った.そして実験開始10日目,猫に水俣病同様の「猫踊り病」を発症させることに成功した.そして水俣病は何かに汚染された魚を食べたことによって起きた中毒と考えた.
もし魚介類が原因であれば食中毒となる.熊本県は魚中毒の報告を受け,食品衛生法の適応を考え厚生省に見解を求めた.厚生省は食品衛生調査会のなかに「水俣食中毒特別部会」を設けて検討することになった.
熊本県水産課は,因果関係は明確ではないが,工場排水による魚介類の汚染が原因と考え,食品衛生法に基づき工場排水の停止と漁獲禁止の処置をとろうとした.しかしチッソ会社と日本化学工業協会は政府に圧力をかけ,厚生省は熊本県の処置を認めなかった.また漁業の補償問題を懸念した行政は,すべての魚介類が有毒化している証拠がないとして,漁獲禁止の措置をとらずに放置した.水俣の漁民は病気を恐れ,また水俣湾の魚は売れずに水揚げは激減した.昭和31年に45万トンであった水俣湾の魚介類の水揚げは,昭和32年には1万トンまでに激減した.漁民は生活の補償を受けられず,どん底の生活に追い込まれた.しかし一方では,この水揚げの激減により,昭和32年には新たな患者の発症はみられなくなった.
熊大水俣奇病研究班の第2回研究報告会では,「水俣湾の漁獲を禁止する必要がある」と結論を出した.そしてその汚染源として水俣湾に排水を流しているチッソ水俣工場を強く疑っていた.チッソ水俣工場以外に海を汚染するような工場はなかったので,チッソ水俣工場を疑うのは当然であった.しかし確証がないまま名指しすることは出来なかった.
水俣市はチッソあっての水俣市であった.水俣市はチッソ工場を中心に商店街が連なり「チッソ城下町」とよばれていた.市民の多くがチッソ工場で働き,チッソは水俣市のドル箱と言われていた.地元の人たちはチッソが奇病の原因と疑ってはいたが,チッソで成り立っている水俣市では,チッソ水俣工場の存在は余りに大きく,市当局や市議会は常にチッソに対し逃げ腰だった.
チッソは工場内の立ち入り調査を執拗に拒否し,そのため工場内の調査は不可能な状態であった.工場排液が怪しいとの確信があったが,水俣市の財政の半分以上を占めているチッソ水俣工場に立ち入る勇気を誰も持たなかった.「チッソ城下町」と呼ばれていた水俣市で会社の責任を追求することは出来なかった.そのため原因究明は大きく遅れをとった.
貧しい漁民たちは生活苦に耐えかね,漁業を再開するようになる.そのため時間が経つとともに犠牲者が再び増えていった.昭和34年までに患者数は79人,そのうち32人が死亡するという事態に至った.患者の数が増え,死亡者も続出しているのに原因は明確には至らなかった.少なくても汚染された魚が原因で,かつて噂されていた伝染病でないことは明らかであった.しかし伝染病は否定されたが,患者たちはかつての癩病や結核などの伝染病患者が受けたのと同じような差別と偏見を受けていた.周囲の目を気にしながら,発病を隠しながら死んでいった.
昭和33年9月,それまで水俣湾へ直接流していた排水経路を,チッソ水俣工場は突然反対側の水俣川河口へと変更した.それまで狭い水俣湾に停留していた廃液が不知火海へ直接流されることになった.なぜ排水経路を変更したのか,このことについて会社側の説明はなかった.チッソ水俣工場は工場排液を水俣病の原因と認めていなかったが,狭く限局した水俣湾に廃液を流すよりは,広い不知火海へ廃液を流すほうが希釈され被害が少なくなると予測したのであろう.
しかしこの排水路の変更により決定的なことがおきた.水俣湾周辺に留まっていた水俣病患者が,汚染海域が拡大したため不知火海全域で発症することになったのである.それまで患者の発症が見られなかった不知火海沿岸各地,さらには離島にも患者が続出する事態になった.このため不知火海沿岸はパニックに陥ることになる.この工場排水の変更が,被害をさらに拡大させ,工場排水が水俣病の原因である可能性を高めていった.
昭和34年7月22日,熊本大学医学部の水俣病研究班が「チッソ水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀が魚貝の体内に入り,これを多食した者が発病する」という有機水銀中毒説を発表した.これは水俣病がイギリスの有機水銀中毒(ハンター・ラッセル症候群:Hunter‐Russell syndrome)の症状と非常に似ていることからの推測であった.熊本大学医学部は水俣病の有機水銀中毒説を発表,病理学的所見を武内忠男教授が,臨床的立場で徳臣晴比古助教授が,公衆衛生の立場から喜田村教授が有機水銀中毒説を説明した.熊本大学医学部が水俣病研究班を発足させてから3年,やっと水俣病の本体が見えてきたのだった.
チッソ水俣工場が排水経路の変更をおこない,不知火海沿岸全体に被害が広がると,沿岸の住民たちは水俣病への不安,さらには魚が売れない生活苦からチッソ水俣工場と直接交渉に入ろうとした.チッソ水俣工場が水俣病の原因とする確証はなかったが,誰もが原因であると確信を持っていた.昭和34年7月31日,水俣市の鮮魚小売商組合は,水俣湾およびその近海でとれた魚を買わないことを決議した.そのため水俣湾周辺の漁民たちは,仕事を奪われ死活問題となった.
昭和34年10月,チッソ水俣工場付属病院の細川一院長は工場の排水を餌に混ぜ猫の飲ませる実験をおこない,猫に水俣病と同じ症状が出ることを確認した.さらに解剖の結果,人間の水俣病と同じ所見であることが突き止められた.この「ネコ400号の実験」によって水俣病の原因は工場の排水であることが確実となった.しかし工場長はこの結果を握りつぶし,公表を禁止し,実験の中止を求めた.このようにチッソ水俣工場は,昭和34年10月の時点で水俣病の原因が自社の排液であることを知っていた.しかしこの重大な事実に対し箝口令が敷かれていた.
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新潟大ツツガ虫病人体実験事件(昭和31年)
昭和31年9月2日,新潟大医学部内科・桂重鴻教授がツツガ虫病菌を精神病患者に注射し,人体実験を行っていたことを読売新聞が5段ヌキ見出しで大きく報道した.桂重鴻教授はかねてからツツガ虫病の研究をおこなっていたが,昭和27年から30年にかけ,内科医局員を総動員して,私立新潟精神病院に入院している149人の患者にツツガ虫病の病原菌の注射をおこなっていたことが暴露された.この人体実験において患者8人が死亡,1人が自殺していたことが判明した.さらに8人の患者から注射部位の皮膚を切り取り,研究に用いていた.
この事件が発覚したのは,新潟精神病院の賃金値上げに端を発した,新潟精神病院のストがきっかけであった.病院ストを扇動した労働組合の3人の看護人が病院ストの責任を問われ,病院を解雇されることになった.そのため看護人は地位保全の仮処分を新潟地裁に申請し,不当解雇に関する諮問が地方労働委員会でひらかれることになった.
この席上,病院側は懲戒免職にした看護人は患者の人権を無視して病院ストをおこない,そのため患者が亡くなったことを懲戒免職の理由としてのべた.解雇された看護人は病院側のこの発言に反発,「新潟精神病院では,精神病の治療と称してツツガ虫の病原菌を患者に注射していた」と暴露したのだった.新潟精神病院は450人の患者を収容している新潟県最大の精神病院であったが,職員数は128人で,法令で定められた基準人員に達していなかった.このような人手不足の中で看護人を悩ましたのは,精神科とは関係のない新潟大学から来る内科の医師たちの治療であった.内科医が治療をすると,患者は高熱を出し,苦しみ始めるのだった.高熱で苦しむ患者に対して,看護人が指示を仰でも内科医たちは無視するだけであった.そのため看護人は苦しむ患者を慰めるしかなかった.
この人体実験を知った弁護士が中心になり,調査が行われることになった.昭和32年3月2日,日本弁護士連合会はその調査結果を法務,文部,厚生省へ提出し,基本的人権をおかした人体実験として警告した.
新潟精神病院は,新潟大学の桂内科の依頼でツツガ虫の病因菌を患者に注射したことを認めたが,それはあくまでも治療のひとつであったと弁明した.しかし149人の患者のカルテには治療行為についての記載がなかった.桂重鴻教授は「ツツガ虫の病因菌の注射は精神病患者に対する発熱療法のためで,今さら人体実験などする必要はない」とコメントをのべた.また厚生省は「梅毒性の精神病患者にツツガ虫をうえ,その高熱によって梅毒菌を殺すという高熱療法をおこなった可能性」を述べた.しかし皮膚を切り取られた患者は,高熱療法を必要とする梅毒患者ではなく精神分裂病の患者であったことが後に判明した.厚生省や桂重鴻教授の説明は,多くを納得させる内容ではなかった.桂重鴻教授はそれ以上のコメントを述べず,権威的な態度で事態を押し切ろうとした.
風土病として怖れられたツツガムシ病菌を,患者の承諾もなく注射し,しかもカルテに記載がなかったことから,ツツガ虫の人体実験であったと考えられる.またこの研究は米軍の援助金による実験であったとされている.
この人体実験を読売新聞は追求した.そして11月29日,読売新聞に追及された桂重鴻教授は次のような見解を述べた.読売新聞に掲載された桂重鴻教授の見解によると,「注射の目的はツツガ虫の研究のため」であったこと.さらに皮膚を切りとったのは患者の血液をとって検査をするのと同じ行為であること,医療にはある程度の犠牲が必要であること,犠牲がなければ医学は進歩しないことなどを述べた.桂重鴻教授は人体実験を認めたが,当時のことである,何の処罰も与えられなかった.
ツツガ虫病はかつて日本に広く分布していた風土病である.そのため,「つつがなし」という言葉が無病息災をたとえる言葉として使われていた.607年,聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋に送る際,「日いずる処の天子,書を日の没する処の天子に致す,恙(つつが)なきや・・・」と言う国書を送っている.このことから分かるように,ツツガ虫病は日本だけでなく中国においても古くから重篤な疾患とされていた.
ツツガ虫病は日本では,秋田,山形,新潟などの河川流域でよく見られた疾患で,かつては致死率50%という恐ろしい疾患であった.戦後,抗生剤の使用,河川の整備,農薬の使用などにより患者は減少し,昭和40年代には全国で患者は年間10人以下となった.しかし昭和50年代から増え始め,現在でも年間1000人近い患者が発生している.
ツツガ虫は体長0.3ミリ前後の微小なダニ類に属し,肉眼でどうにか見える程度の大きさである.このツツガ虫に刺されると,ツツガ虫に寄生している病原体リッケッチアがヒトに浸入し,ツツガ虫病を引き起こすのである.
ツツガ虫病はツツガ虫に刺された後,約10日前後の潜伏期を経て,全身倦怠感,食欲不振,頭痛, 39から40℃の発熱などの症状がみられる.また皮膚にツツガ虫の刺口を認め,所属リンパ節の腫脹がみられる.重篤化した場合には,悪寒戦慄をともなった高熱の後に意識障害を引き起こして死に至ることになる.その診断にはツツガ虫に特徴的な刺し口を探すことで,刺し口は無痛性で発赤,水疱を形成し,黒色のかさぶたへと変化してゆく.
ツツガ虫病は致死率の高い疾患であるが,抗生剤の登場により予後は良好となっている.しかし現在でも有効な治療を受けた者でも死亡率は1%,無治療の場合の死亡率は20から30%とされている.診断が遅れると生命に関わる恐ろしい病気である.また抗生剤はβ-ラクタム剤が無効であることが大きな特徴で,安易にβ-ラクタム剤を続けると予後不良となる.このことからβ-ラクタム剤を使用しても高熱が持続し,皮疹があれば,それだけで本症を疑う必要がある.テトラサイクリン系薬剤が第1選択薬となる(ミノマイシン 100mg×2/日 14日間).投与開始1両日中に解熱し,臨床症状も劇的に好転する.テトラサイクリンを投与し3日目になっても解熱しない場合にはツツガ虫病は逆に否定的となる.
現在では,ツツガ虫病はまれではあるが,山菜,タケノコ採り,釣り,花火大会などに行く場合は注意が必要である.その予防はなるべく素肌をさらさないように長袖のシャツを着て,帽子,首にはタオル,靴下など着用することである.川に行ったり,山歩きをした後は,風呂に入ってツツガ虫をよく洗い落とすことである.現在のところワクチンはない.
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ペニシリン・ショック(昭和31年)
昭和31年5月15日の夜,東大法学部部長・尾高朝尾教授(57)が,虫歯の治療のためペニシリンの注射を受けショック死する事件が起きた.尾高朝尾(おだかともお)教授は自宅近くの鹿野歯科医院で抜歯の治療を受け,化膿止めとしてペニシリン1 cc,20万単位の注射を受けた.尾高教授は注射を受けた直後,注射から5分も経たないうちに急に胸苦しさを訴え,顔面蒼白となり,全身痙攣をおこし意識を失った.教授の血圧は低下し,ショック状態におちいった.鹿野医師はすぐにアレルギー症状と考え,人工呼吸や酸素吸入などの応急処置を行いながら,救急車をよび都立駒込病院に搬送した.駒込病院では横田内科医長が中心になり治療に当たったが,注射から2時間後に死亡した.あっという間の出来事であった.
尾高朝尾教授は,昭和19年から東大法学部の教授で,日本学術会議の副会長を務め,法曹界の重鎮として知られていた.尾高教授は法哲学の第一人者として有名で,この著名人の死亡事件を新聞は大々的に取り上げた.毎日新聞は「ペニシリン乱用に警鐘,ショック死100件に迫る,尾高朝尾博士急死す」と見出しをつけ,翌日の朝刊トップ記事として報道した.また毎日新聞は「歯痛など何もなかったし,ペニシリンを打つ必要はなかったと思う」という弟の東大教授・尾高邦雄のコメントをのせた.尾高朝尾の弟は,尾高邦雄の他に尾高尚忠(日響常任指揮者)がいて,尾高三兄弟として有名であった.この著名人の死により,ペニシリンのショック死が社会に与えた影響は大きかった.
尾高教授が死亡したのは,ペニシリンの重篤な副作用であるアナフィラキシー・ショックによるものであった.アナフィラキシー・ショックとは薬剤の薬剤アレルギー反応によるもので,死に至る重篤な副作用である,さらにこの事故から20日後の6月6日,北海道空知群砂川町にある町立社会病院の内科医長・小笠原康雄がペニシリンの皮内テストを自分の左腕におこない,わずか0.05 ccの注射によって50分後にショック死する事故が起きている.この事故を朝日新聞は「ペニシリン・死の実験台」と見出しをつけて大きく報道した.この年,ペニシリンの注射によるショック死が相次ぎ,全国で40人以上が犠牲になった.
日本で最初のペニシリン・ショックによる死亡は,昭和25年5月に野球の練習中の怪我でペニシリンの投与を受けた東京大学の学生とされている.そしてペニシリンの生産量に比例するかのように,昭和25年頃からペニシリンによるショック死が相次ぎ,医学界で問題になりはじめていた.昭和28年には日本抗生物質学術協議会が設立され,ペニシリン・ショックを初めとした抗生物質の副作用についての研究が始まっていた.
昭和30年までにペニシリン・ショックによる死亡例は全国で100人を越えていた.しかしペニシリン・ショックは散発的であり,「ペニシリン禍」の認識はまだ一般的ではなかった.ほとんどの国民はその恐ろしい副作用を知らなかった.100人を越える犠牲者は異常体質が原因とされ,運が悪かっただけと問題にされなかったのである.さらに予期せぬ反応であるから,医師には責任がないとされていた.しかし尾高朝尾教授という著名人の死亡によってペニシリン禍が社会問題となった.マスコミが「ペニシリン乱用によるペニシリン禍」と報道し,行政は初めて対策に乗り出すことになった.
戦後に登場したペニシリンは感染症に驚異的な効果を示した.そのためペニシリンは「奇跡のクスリ」,「魔法の弾丸」,「霊薬」などと呼ばれていた.ペニシリンの登場により感染症の恐怖は少なくなり,肺炎,丹毒,敗血症などの死亡率は,わずか1年で半分以下に激減した.この奇跡的な治療効果によって,ペニシリンは国内生産を急速に延ばし,昭和23年ごろからペニシリンは国内に普及していった.
感染症への劇的効果によりペニシリンを生産する製薬会社は急増し,生産量をのばし,ペニシリンは街中に氾濫するまでになった.昭和30年,ペニシリンの製造会社は51社におよび,5年間で生産量は8倍に増え,3000円だった値段が125円に下落した.新聞や週刊誌でもペニシリンがさかんに宣伝され,薬局の店頭で誰でも買うことができた.また錠剤,注射だけでなく,結膜炎になればペニシリン入り目薬,ケガにはペニシリン入り軟膏,さらには歯磨き粉にまでペニシリンが配合され,街の薬局で販売されていた.昭和30年度だけで53兆単位のペニシリンが市場に出まわっていた.
ペニシリンは万能薬とされ,現在に当てはめればビタミン剤の感覚で売られていた.ペニシリンは野放しのまま市販されていた.ペニシリン・ショックが続発するようになったのは,このペニシリンの乱用が背景にあった.ペニシリン・ショックはアメリカではすでに問題視されており,「ペニシリン,殺人剤となる」という表現が使われていた.
ペニシリンはその劇的な効果とは裏腹に,激烈な副作用を隠し持っていたのである.尾高朝尾教授の死をきっかけに,ペニシリン至上主義の人々はその副作用の恐ろしさを知るようになった.
この一連の報道により,ペニシリンの出荷量は激減し,1か月に800万本製造されていたペニシリンが,事件の1ヶ月後の6月には出荷量が5月の半分になり,7月には出荷量はゼロになった.製薬会社は大打撃を受けることになったが,尾高朝尾教授の死が社会に与えた影響がいかに大きかったかが分かる.
厚生省はこの事態に対し,「ペニシリンを使用する患者に対しては,患者のペニシリンに対するアレルギー,さらにアレルギー疾患の既往の有無について問診をおこなうこと.患者には事前に皮内テストを実施すること」.このような注意事項が医務・薬務局長名で各医療機関に通達された.また薬局の店頭で売られていたペニシリンは,医師の指示がなければ買えない指示薬品に指定され,野放し販売が規制されることになった.薬剤には有効性と安全性のバランスが必要であるが,この薬剤の常識が当時はまだ一般に認識されていなかった.
ペニシリンアレルギーの頻度は3から7%とされている.また薬剤師のペニシリンアレルギーの頻度は16%,ペニシリン工場で働く労働者は18%とされている.この数値が示すように,ペニシリンに接触する機会が多い人ほどアレルギー体質が増えることが分かっている.ペニシリンによるアレルギーは,軽度のものは蕁麻疹程度であるが,重篤な場合には死に至る.ペニシリン・ショックの頻度は0.015から0.004%で,ペニシリン注射数万回に1回程度の頻度とされている.当時のデータでは,ペニシリン・ショックに陥るとその1割が死亡するとされている.ペニシリン・ショックは比較的少ない副作用であるが,ペニシリンの量産体制が広がるなかで生命に直結するペニシリン・ショックが多発することになった.
昭和30年代に多発したペニシリン・ショックの原因は,ペニシリンに含まれる不純物にあったと推測されている.当時のペニシリンの純度は75%程度で多くの不純物を含んでいた。これに対して,現在のペニシリンGカリウムの純度は99%以上となっている.
ペニシリン・ショックのメカニズムはペニシリン特有のものではなく,他の薬剤によるショックと同じである.アナフィラキシー・ショックは,アレルギー反応の即時型,I型アレルギーと呼ばれることがあるが,この3つの単語は同じ意味の言葉である.次にそのメカニズムを説明する.
薬剤(ペニシリン)が体内に入ると,薬剤(ペニシリン)は血液のタンパクと結合し,人体にとって異種のタンパクとなる.生体側はこの異種タンパクを非自己タンパクと認識し,抗体産生細胞が増殖し異種タンパクに対し抗体をつくる.これを感作という.次に薬剤(ペニシリン)が体内に入ると,血液のタンパクと結合した異種タンパクが肥満細胞を刺激してヒスタミン,ヘパリン,セロトニン,アセチルコリンなどの生理活性の強い物質を遊離する.これが心臓,血管,肺に作用し,ショックを起こすのである.
この生命を脅かすアレルギー反応は,本来は自己を守るため免疫反応が過敏に反応した場合に起こるのである.1回目に異物が体内に入ってきた時には,身体はまだそれに対する準備が整わず,初めて抗体を作って防衛体勢を整える.そのため最初の異物進入時には激しい反応は起こらない.しかし2度目以降に同じ異物が侵入してくると,前回から準備されていた免疫機能がすぐに動員されるため,激しい反応が生じることになる.
ペニシリンによるショックは他の薬剤と同様,注射の場合,投与後15分以内に起きるのがほとんどである.また内服では30分以内がほとんどである.症状は四肢のしびれ感,冷汗,皮膚蒼白,呼吸困難で,この自覚症状に引き続き,急性循環不全による血圧の低下,気道狭窄による呼吸困難が出現する.発症すれば経過は急速に進展する.そのため秒単位の救急処置が重要となる.生命予後は救急処置の対応によって大きく左右され, 死に直結するのは主に喉頭浮腫と気管支痙攣による呼吸困難である。そのため喉頭浮腫を軽減し、気管支痙攣を抑えることが第1の治療となる。アナフィラキシー・ショックの第1選択剤はエピネフリンである。ステロイドは効果が出るまで2から3 時間かかるので,必要ではあるが初期の症状には効果がない.治療はエピネフリンをまず投与し、アミノフィリン、ステロイドの順に投与することである。
ペニシリン・ショックが問題になり,問診の強化,予備テストの実施,さらには安全な抗生剤の開発が求められるようになった.さらに経口ペニシリンが登場することになる.しかし昭和31年10月2日,それまでショックがないとされていた経口ペニシリンによるショック死が関東逓信病院でおきている.現在では安全な抗生剤の開発により,抗生剤のショックによって死亡する例は非常に少なくなっている.
アナフィラキシー・ショックの予防のために皮内テストが行われているが.皮内テストは皮膚に局在するIgE抗体を検出する試験なのでIgE抗体が関与しない場合には意味がない。また皮内テストによってすべてが予測できるものではない.ペニシリン・ショックを起こした患者に,その6カ月後にペニシリンGの皮内テストを実施したところ陽性率は85%であり,さらに2年後に皮内反応を実施したところ陽性率は20%に減少していたという報告がある.つまり皮内テストはアレルギー素因のあるものすべてに反応しないという欠点がある.また皮内テストによって必ずしもアナフィラキシーを予知できるものではない.皮内テストのみでアナフィラキシーを起こす例,皮内テスト陰性でアナフィラキシー・ショックを起こす例もある.このことからアメリカでは抗生剤の皮内反応試験は一般的に実施されていない.このように皮内反応はあくまで目安であり,テスト陰性であっても,事前の問診はもちろんのこと,ショックが起きた際の緊急処置を適切に行えるように備えておく必要がある.さらに重要なことであるが,一度使用した抗生剤などの薬剤を数ヶ月後に使用する場合,以前使用したから安全と考えることが多い.しかしむしろ前回使用したことにより感作が成立した危険な状態と考えることもできる.
現在,抗生剤の改良によりその副作用が激減したことから,薬剤へのアレルギーを調べる皮内反応が省かれることが多い.しかし「医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構」にクスリの副作用として申請された人数,医薬品副作用モニターによると,現在でもペニシリンを含めた抗生剤によるショック死は数例ではあるが依然として起きている.このため抗生剤によるショック死の頻度は激減しているが,問題となるのはショックが起きた場合の救急処置の対応である.この対応によって病院側の責任が問われることが多い.
ペニシリンは特効薬としての有効性から繁用され,ペニシリンは日本人にクスリ神話を作った.そして同時にクスリの恐怖神話を作った.尾高朝尾教授のペニシリン・ショックは,ペニシリン至上主義に赤信号を示し,何でもペニシリンという時代は終わったのである.
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船橋ヘルスセンター(昭和30年)
昭和30年2月,東京近郊の千葉県船橋市の埋め立て地に船橋ヘルスセンターが誕生した.この船橋ヘルスセンター誕生のきっかけは,船橋市が手がけていた埋め立て地に36℃の温泉と天然ガスが噴きだしたことによる.そして偶然にも埋め立て地は資金不足から中断してしまい,そのため船橋市長を中心に温泉を利用したレジャー構想が浮上したのである.かつては1漁村にすぎなかった船橋市の海沿いに,巨大な温泉娯楽施設ができたのである.
広大な埋め立て地に建てられた船橋ヘルスセンターは,直径30メートルの大ローマ風呂,ジャングル風呂,牛乳風呂,酸素風呂など50近い大小の浴場があり,風呂から上がると10以上の大広間が果てしなく続いてあった.500畳敷きの大広間では中央に円形のステージがあり,芸人による歌謡ショー,演歌,漫才,落語などが演じられた.美空ひばり,三波春夫,村田英雄などの有名な歌手がステージで歌を披露し,舞台が空いているときは入館者によるのど自慢大会,隠し芸大会がおこなわれた.
子供たちにとっては,巨大なプールが人気であった.現在のウオーター・スライダーの先駆けである100 メートルの大滝すべりは超人気であった.さらに遊園地,ボウリング場,アイススケート,ローラースケート,ダンスホール,遊覧飛行場,ホテル,結婚式場が備わっていて,遊びには事欠かなかった.船橋ヘルスセンターは当時としては国内最大のレジャー施設であった.遊んだ後は風呂に入り,宴会場で持参の弁当などを食べ,一日中ごろごろと過ごす家族連れが多かった.これだけの施設で,入浴料は120円と安かった.ちなみに当時のコーヒー1杯が50円であったので,120円で1日中楽しめる船橋ヘルスセンターは大人気となった.風呂に入って,飲んで,食べて,歌って,演芸を見て,ゲームをして500円もあれは1日中遊ぶことができた.いかに安い値段であったかがわかる.大広間では持参の弁当を広げた家族連れ,ビールやお酒で盛り上がる団体客で賑わっていた.その当時の総武線沿線では,嫁と姑のけんかが少なくなったと言われたほどであった.
船橋ヘルスセンターが誕生してから数年後に旅行ブームが始まった.旅行ブームが起きたものの,日本はまだ貧しかったので,当時の旅行は団体旅行が主であり家族旅行は少なかった.しかも安くて便利な場所に人々が集中した.船橋は東京,千葉から電車ですぐの場所にあり,熱海や箱根よりも近くて安いことから客が集まった.そして巨大な娯楽施設は観光ブームに乗り,農村や中小企業の慰安旅行などの団体バスが全国から連日のように集まってきた.駐車場には長距離バスが列をなし,農協,婦人会,町内会の団体が娯楽を求め船橋に集まってきた.開業当初は,それまで温泉旅行に出掛けることの少なかった主婦や老人が大半であった.そしてしだいに子供の入館が増え,若者や家族つれが増えることになった.誕生から8年目には,船橋ヘルスセンターは33万平米(東京ドーム11個分)の広さに拡大され,開演5年目の入場者数は年間300万人,年間売り上げ10億円であった.そして10年目には入場者数は年間450万人,年間売り上げは30億円に達した.正月には成田山詣での帰りに立ち寄る団体客が1日6万人もあったほどである.
さらに船橋ヘルスセンターには自動車レースのサーキットまでつくられていた.当時の日本は鈴鹿サーキットのみで,東名高速道路も未完成だった.サーキットがオープンしたのはマイカーブームの直前で開催されたレースは35戦ほどであった.サーキットは2年間だけの開催であったが,その跡地には巨大な屋内スキー場「ザウス」が建てられた.船橋ヘルスセンターは白亜の温泉デパートとして一世を風靡していた.現在の東京ディズニーランドと同じような人気で全国から客が集まってきた.
多くの人たちにとって印象深かったのは,テレビによる船橋ヘルスセンターのコマーシャルである,「船橋ヘルスセンター 船橋ヘルスセンター,長生きしたけりゃ,ちょっとおいで,チョチョンのパ,チョチョンのパ」,三木鶏郎が作曲し,楠トシエが唄ったこのコマーシャルソングが全国で流され盛んに宣伝された.また船橋ヘルスセンターでは,当時の人気番組・ドリフの「8時だよ!全員集合!」の公開放送がしばしば行われた.会場では観客はドリフに合わせ,オーッスと言ったり,ババンバ バン バン バンをみんなで合唱した.
厚生省は保健所を意味するヘルスセンターの言葉の使用を禁止する通達をだすが,この役所の通達に従う業者はいなかった.船橋ヘルスセンターの成功をきっかけに全国でヘルスセンターが開設されることになった.ヘルスセンターの看板を掲げた業者は全国で100カ所を越えたとされている.そのため厚生省はヘルスセンターについて「一般公衆浴場とは異なる,保養または休養施設を有する施設」とするという通達を出すことになった.公衆浴場は都道府県ごとに料金が定められていたので,公衆浴場とヘルスセンターを区別するためにこのような通達を出すことになった.
安さが魅力だった船橋ヘルスセンターは,昭和40年頃にピークを迎え,高度成長の進行とともに客足が国内から国外へと遠のいていった.最盛期には年間450万人に達していた入場者数も時代の流れとともにしだいに減っていった.また温泉の汲み上げによる地盤沈下問題が取り上げられ,温泉の汲み上げの規制によって客足が遠のいていった.そして昭和52年5月,船橋ヘルスセンターは22年にわたる歴史を閉じた.昭和58年,浦安に東京ディズニーランドが誕生するが,東京ディズニーランドは船橋ヘルスセンターの成功を参考に建てられたとされている.現在,船橋ヘルスセンターの跡地は巨大ショッピングセンター「ららぽーと」となっている.
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人工腎臓と腎移植(昭和30年)
腎臓の働きは体内で作られた老廃物を尿として身体の外に排泄することである.この腎臓が障害を受けると,体内の老廃物を排泄することができず,体内に老廃物が蓄積することになる.そのため腎臓に障害のある患者は,腎不全から尿毒症となり死に至ることになる.この尿毒症に対して,人工腎臓をもちいた実験が日本で初めて行われた.
昭和30年,第14回日本医学会総会で,群馬大学医学部第二外科の渋沢喜守雄教授と丹後淳平医博が犬の腎臓を摘出し,人工腎臓,腹膜透析をもちいた実験的成績を発表した.人工腎臓とは血液を濾過し,血液中の老廃物を腎臓に代わって取り除く治療法で,現在でいう血液透析のことである.
世界で人工腎臓が初めて実験的に応用されたのは,大正13年のことであった.しかしこれらは実験的段階であり,人間の腎不全の治療に結びつくには,昭和20年,オランダのウイレム・コルフ教授が完成させた人工腎臓まで待たなくてはならない.当時の人工腎臓はセロファンのチューブを回転ドラムにまきつけ,それを透析液の中に浸したものである。患者の血液がチューブを通る間に,老廃物がチューブから透析液に浸みだし,きれいになった血液が,チューブの末端から静脈に戻る仕組みであった.
人工腎臓が大きく進歩したのは,この装置が改良された朝鮮戦争のときである.負傷したアメリカ兵のクラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)に合併した一過性の急性腎不全に対し,救命のために人工腎臓が用いられた.人工腎臓は急性腎不全に対する一時的救命処置であった.
その後,人工腎臓の研究は次第に進み,昭和42年に人工腎臓は医療保険の適応になった.しかし患者の負担は月30万円と高額だったため普及はしなかった.昭和45年の時点で,人工腎臓は日本には666台しかなかった.人工腎臓はまだ一般的治療とはいえず,「金の切れ目が,命の切れ目」,「先の患者が死ぬのを待って,治療を受ける」という状態であった.昭和48年に人工腎臓の医療費が全額公費負担となり,これによって透析患者数は飛躍的に増加することになる.
昭和47年6月,川澄化学工業が人工腎臓の国産化に成功.本体と血液回路はプラスチック製で,透析膜はセルロース系のセロファンを使用し,価格は1万5千円であった.昭和51年にはセロファンから安全性を高めたホロファイバー(中空糸)が用いられ主流となった.またこの頃から透析患者の長期生存例が多くなってきた.
血液透析を必要とする患者は年々増え続け,現在,血液透析患者数は日本では約23万人に達している.さらに透析患者数は年間約1万人ずつ増え続け,年間増加率は5%となっている.このように血液透析患者が増加したのは,糖尿病の合併症である糖尿病性腎症が増加したからである.血糖コントロールが悪いと糖尿病の発病から10年で腎症が発症するとされている.現在,血液透析を受けている患者の半数以上は糖尿病の合併症による腎不全患者である.全国平均透析患者の10年生存率は42.3%で,人工透析は血液透析が95%を占め,残り5%の患者は腹膜透析を行っている.腹膜透析は患者自身の腹膜を利用して,腹腔に一定時間透析液を入れ過剰な水分や老廃物を透析液に移動させ,その透析液を体外に排出させる方法である.なお日本の透析患者は,世界の全透析患者の約3分の1を占めている.
このように血液透析,腹膜透析療法が行われてきたが,それらは腎不全患者に対する対症療法であり,腎不全の根本療法ではない.腎不全に対する根本療法は腎移植であるが,残念ながら腎移植は平成元年の838人をピークに年々減少傾向にある.
腎不全を腎移植で治療するという考えは古くからあった.しかし移植には拒否反応という大きな壁がはだかっていた.ヒトにおける腎移植の成功第1例は,1954年12月23日,アメリカのピ−タ−・ベント・ブリガム病院(ボストン)で,マ−レ−らによって行われた.その際の腎提供者と腎受腎者は一卵性双生児であり,免疫的拒否反応が起こらなかったのである.この成功から,一卵性双生児間の腎移植が欧米で次々と行われた.自己あるいは一卵性双生児の臓器に対してのみ移植が成功する,このことは遺伝子が同一であれば拒絶反応は起こらないとを示していた.
その後の腎移植の歴史は,免疫抑制剤の開発とともに歩んだ.1958年に全身放射線照射が応用され,1959年にアメリカでメルカプトプリンの薬剤が開発された.1962年にはアザチオプリンがイギリスのマーレイらによって臨床に応用された.こアザチオプリンとステロイドの使用が腎移植の標準的免疫抑制療法となった.マーレイはこの功績により1963年にノーベル賞を受賞している.
昭和33年,J・ドーセ(仏),B・ベナセラフ(米),G・スネル(米)は血液中の白血球の表面に存在する抗原が拒絶反応と強く関係のあることを発見し,主要組織適合抗原群(HLA)と命名した。昭和39年,テラサキ(米),アンブルジェ(仏)らは腎移植にこのHLA適合性を取り入れると移植成績が良くなることを確認し,それ以来HLA適合性検査は腎移植にとって重要な検査となった.この主要組織適合性抗原の遺伝子群はヒトでは第6染色体に、マウスでは第17染色体上に存在することが判明した.J・ドーセら3人は「生体の免疫反応における遺伝学的研究」が高く評価され,昭和55年にノーベル生理学・医学賞を受賞している.
昭和50年,スイスのサンド社は真菌から免疫抑制剤サイクロスポリンを開発し,腎移植だけでなく心臓、肝臓の移植においても応用され,臓器移植は飛躍的に進歩した.
日本最初の腎移植は,昭和31年,新潟大の楠隆光教授らによって行われた.急性腎不全の患者の大腿部に突発性腎出血で摘出した患者の腎臓を移植したのである.救命のための一時的な移植であった.昭和39年,東大の木本誠二教授が慢性腎不全患者に対する夫婦間の生体腎移植を行った.この移植は永久生着をめざしたもので,日本で初めての本格的な腎臓移植であった.
免疫抑制剤の改善,組織適合性検査の進歩により,腎移植の成功率は高まっている.しかし腎臓移植は年間500人程度と低迷している.これは腎臓の提供者が極端に少ないせいである.腎臓移植を希望しながら腎移植を受けられる患者さんは宝くじに当たるような確率である.腎臓移植は提供者の死後の移植が可能であり,脳死,心臓死の問題には関係がない.それでも腎臓の提供者は少ない.また腎臓は2つあるので,生体移植も可能であるが,生体移植もあまり行われていない.
これは善意ある日本人が少ないのではなく,腎臓を提供しようとする善意ある者の善意を評価しないからであろう.金銭であれ,名誉であれ,善意を評価せずに,ボランティア精神に頼るのでは腎臓移植は停滞するだけである.また医師のほうも,移植のために努力をして,患者のために手術をしても,何ら評価はなく感謝も少ない.手術で問題が起きると責任だけを追及されるのであれば,腎移植への医師の熱意もそがれてしまうのも当然のことである.なお昭和53年から腎移植は保険の適応となっている.
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森永ヒ素ミルク事件(昭和30年)
昭和30年6月から8月にかけて,岡山県を中心とした西日本一帯で,発熱,下痢,腹部膨満,皮疹,貧血などの症状を示す乳児の奇病が相次いだ.赤ん坊は夜となく昼となく泣き続け,しだいに皮膚が黒ずんでいった.肝臓が腫大し,お腹がパンパンに腫れ上がり衰弱をきたしていった.このような症状を示す生後2ヶ月から2歳の乳児が続々と病院を受診したのだった.
診察に当たった医師たちは,この奇妙な病気の原因が分からず,胃腸障害,夏ばて,貧血などの曖昧な診断を下し保健所に届けなかった.
日赤岡山病院の小児科医師・矢吹暁民は,これまでに経験したことのない奇怪な症状を示す乳児が急に増えたことに驚き,その原因究明にいち早く奔走することになる.日赤岡山病院には同じような症状の子供が30人も入院していた.患者の母親から病歴を聞くと,この奇病を呈した乳幼児は母乳ではなく人工栄養で育てられていることが分かった.しかも特定の銘柄「森永乳業のMF印ドライミルク」を飲んでいた乳児ばかりだった.矢吹医師は岡山市内の開業医に協力を求め,乳児のミルクの実態調査を行った.その結果,日赤岡山病院だけでなく,異常を示した乳児全員が森永粉ミルクを飲んでいることが分かった.日赤ではこの奇病を森永の頭文字をとってM貧血と呼んだ.
森永粉ミルクが奇病の原因と確信した矢吹医師は,8月13日に森永商事・岡山出張所に連絡をとり,被害防止のため森永粉ミルクの発売中止を求めた.しかし森永商事は販売を中止せず出荷を続けたのである.矢吹医師は恩師である岡山大学医学部小児科・浜本英次教授にこれまでの調査結果を説明し,原因解明の協力を求めた.浜本英次教授は矢吹医師の報告を聞くまでは,この奇病の原因を細菌感染症によるものと考えていた.しかし矢吹医師の説明を受け,ミルク中毒,しかも乳児の症状から「ヒ素中毒」であろうと推測した.
8月21日夜,岡山大学医学部に入院していた乳児が死亡,法医学教室で乳児の病理解剖が行われた.そしてその結果,乳児の体内から灰白色のヒ素の結晶が検出されたのである.2日後の8月23日,2例目の乳児の解剖が行われ,遺体の肝臓からもヒ素を検出,さらに乳児が飲んでいた粉ミルクからも多量のヒ素を検出した.
この事実をふまえ,8月24日,浜本英次教授は「この奇病の原因は,森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによるヒ素中毒である」と発表した。そして翌日の新聞,ラジオにより全国にこの事件の詳細が大々的に報道されることになった.乳児を持つ親たちは,顔をこわばらせて医療機関に殺到し,日本中がこの事件で大騒動となった.
全国の母親を恐怖におとしいれた森永ヒ素ミルク事件は,奇病発生から原因解明までの3ヶ月の間に,犠牲者は1都2府25県に広がり,患者総数は1万3400人,133人が死亡するという大惨事となった.森永ヒ素ミルク事件は世界でも類をみない大規模な乳児の集団中毒事件となった.
昭和30年当時は戦後の食糧難が一段落し,将来に明るい希望が見えてきた時期であった.電子釜が発売され,テレビ,洗濯機とともに「家庭電化時代」を迎えようとしていた.神武景気がはじまり,石原慎太郎の「太陽の季節」が話題を呼んでいたころである.しかし終戦後の食糧難の影響を受けた母親の体格はまだ低下しており,母乳不足を訴えがちであった.さらに母乳ではなく人工ミルクで乳児を育てることが,生活の豊かさや近代化をイメージさせ,人工ミルクで育てることにある種のステータスを思わせる雰囲気があった.森永乳業は「粉ミルクを飲ませれば,丈夫で元気な赤ちゃんが育つ,このミルクを飲みましょう」とラジオや新聞をとおして粉ミルクを盛んに宣伝していた.また当時の保健所も小児科の医師たちも,森永のドライミルクをすすめていた.
昭和25年4月,戦時中に規制されていた「牛乳や乳製品の配給,および価格に対する統制」が撤廃され,乳業業界は自由経済へと移行していった.そして牛乳の加工ないし処理部門である乳業が次第に大量生産されるようになった.森永乳業は5年間に9も工場を開設し,牛乳の集荷量は約3.1倍に増えていた.この森永乳業の猛烈な拡大路線が,砒素ミルク中毒という悲惨な事件を招くことになった.
この牛乳の集荷量の増大は育児用粉ミルクの急増によるところが大きい。「母乳で育てると乳房の形が悪くなる」,「母乳で育てた子は背が伸びない」,「母乳よりも牛乳のほうが栄養価が高い」,このように間違った流言飛語が流され,多くが育児用粉ミルクに走ったのである.そのため粉ミルクの消費量が急速に伸びた時期であった.
全国の母親を恐怖におとしいれた森永ヒ素ミルク事件はこのような社会背景の中で起きた事件である.乳児の主食ともいうべきミルクが引き起こした大規模食品公害事件である.より健康的に,より丈夫にと願って与えた粉ミルクが,大切な乳幼児の身体をむしばんでいた.母親が強く悔やみ悲しんだのは,われとわが手で毒入りミルクを愛児に飲ませたことだった.
粉ミルクにヒ素が混入したのは,森永乳業・徳島工場が製造過程で使用した乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)が原因であった.粉ミルクの製造は,牛乳の劣化を防ぐために,食品添加用の第二燐酸ソーダを0,01%添加することになっていた.この食品添加用の第二燐酸ソーダを使うべきところを,間違って工業用の粗悪品を使用したことがヒ素混入の原因であった.工業用・第二燐酸ソーダには不純物として10%のヒ素化合物が含まれていたのである.昭和30年4月から8月24日まで,森永徳島工場で製造された約84万缶の「森永MF印ドライミルク」にヒ素化合物が混入されていたのである.
ヒ素中毒を引き起こした工業用・第二燐酸ソーダは,日本軽金属・清水工場がボーキサイトからアルミナを製造するときに出た産業廃棄物だった.この産業廃棄用の第二燐酸ソーダは,陶器の色づけの目的で使用されるはずであった.しかし数社の業者間で転売が繰り返えされ,徳島市内の協和産業から森永乳業・徳島工場に納入されたのである.森永乳業・徳島工場は第二燐酸ソーダをいつも協和産業から納入しており,新たに納入していた食品添加用の第二燐酸ソーダが工業廃棄物に変わったことに気づかなかった.森永乳業・徳島工場は故意に廃棄物を用いたわけではない.しかし食品を扱う企業としては,あまりに安全対策がずさんだった.森永粉ミルク事件は,品質検査などのわずかな手間を惜しんだための人災といえた.
粉ミルクの製造には,ミルクを溶けやすくするため乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)を加えて製造することになっていた.しかし元来,原料に新鮮な牛乳を用いていれば,乳質安定剤は必要なかったのである.新鮮な牛乳を放置すると次第に乳酸菌が増え酸性になり,牛乳が酸性化すると牛乳は固まりやすくなる.そのため製造に支障が生じるので乳質安定剤を加えていたのだった.つまり森永は新鮮度の低下した牛乳を原料として粉ミルクを作っていたのだった.森永徳島工場が乳質安定剤を使用するようになったのは,昭和28年以降のことであり,それ以前は使用していなかった.またその当時,森永乳業は4つの粉ミルク工場を持っていたが,第二燐酸ソーダを使っていたのは徳島工場だけであった.
8月30日,森永徳島工場は営業停止3ヶ月の処分を受けることになった.この犠牲者の多さに対し,あまりに軽い行政処分に被害者の批判と怒りが集中した.この事件を引き起こした森永乳業・徳島工場のずさんな安全対策,それを監督すべき厚生省に批判が集中した.森永乳業・徳島工場が営業停止3ヶ月との軽い処分になったのは,工場側の過失が軽度と判断されたこと,さらに工場の停止により牛乳を納入している酪農業者の影響を受け止めた政治的な配慮であった.
森永乳業・徳島工場はこのヒ素中毒事件を工場の過失とは考えていなかった.そのため被害児に対する謝罪や補償の意思を示さなかった.これに対し.被害児の親たちは森永乳業の責任と補償を求め団結することになる.親たちの団結は,この事件の惨状を訴え続け,この未曾有の不祥事件を風化させないようにした.
日赤岡山病院の被害児の親たちが中心になり被害者同盟が結成された.9月3日には,日赤岡山病院,岡大付属病院,倉敷中央病院の被害児の家族が中心となり「岡山県総決起集会」が開催された.岡山県全域から被害者が集まり,岡山県森永ミルク被害者同盟への加入は700人を越えた.被害者同盟は森永乳業に対し速やかに事件への対応をもとめた.そして会社側に協議を申し入れたが,森永乳業は被害者同盟を被害者の代表とは認めず,回答を示さなかった.被害者同盟は死者250万円,重症者100万円の要求書を手渡すが森永乳業はこれを拒否した.このため各県の被害者が結束を強め,9月18日に「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が結成されることになる.
会社側は被害の深刻さ,さらに巨額の補償金を恐れ,厚生省に問題の解決を依頼した.依頼を受けた厚生省は,森永に有利な第三者委員会として「西沢委員会」と「五人委員会」の2つの委員会を作り解決を計ろうとした.
10月6日,厚生省は,ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成を日本医師会に依頼.日本医師会は小児保健学会の会頭である大阪大学・西沢義人教授に任すことにした.西沢義人はこの依頼を受け,岡山大学・浜本英次教授,徳島大学・北村義男教授,兵庫医科大学・平田美稔教授,京都府立医科大学・中村恒夫教授,奈良医科大学・吉田邦夫教授らと第三者機関である「西沢委員会」を作り,ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針の作成に当たることになった.この指針は,ヒ素ミルク被害児を特定するためのものであった.しかし西沢委員会が作成した診断基準は,色素沈着,肝臓肥大,貧血などのヒ素中毒の典型的症状を必須項目としたため,非典型例の多数の被害児を切り捨てることになった.またヒ素中毒の急性症状を重視し,慢性中毒の多様な症状を考慮しなかった.西沢委員会の診断基準により,ヒ素ミルク被害児と認定されない被害者が多数出ることになった.
さらに西沢委員会は,ヒ素ミルク中毒患者はほとんどが治癒しており,治療中の被害児もいずれ完治すると発表した.このためヒ素ミルク中毒患者の非典型例が除外されたばかりでなく,慢性あるいは遅発性の神経障害児の被害が無視されることになった.
補償交渉も難航した.それは被害の大きさから補償総額が膨大となることが予想されたからである.12月15日,厚生省から依頼された第三者機関である補償交渉斡旋委員会(五人委員会)が発足し,厚生省は被害者の補償をこの弁護士やマスコミ関係者からなる五人委員会の裁定に従うことを被害者同盟に要請した.しかし五人委員会が示した補償額は「死亡者25万円,患者1万円の補償金」という非常に低額の補償金を提示しただけであった.この金額は被害者が要求していた十分の一の金額である.
五人委員会の運営資金は森永乳業側からでており,森永乳業は五人委員会を隠れ蓑としていた.森永はこの補償額の線をゆずらず,被害者同盟全国協議会は,今後精密検査を行うことを条件にこの補償を受け入れることになった.しかしこの補償金は認定患者に限られ,西沢委員会が作成した診断基準から外れた被害者は何らの補償金を得ることはできなかった.さらに西沢委員会は後遺症を心配する必要がないと宣言し,後遺症に対する補償は決められていなかった.西沢委員会,補償交渉斡旋委員会(五人委員会)は中立を装っていたが,ともに森永乳業の立場を擁護していたのである.森永は死亡者25万円,患者1万円の補償金を現金書留で送り,官製はがきに領収書を印刷し同封した.そし,てこれで一切終わりと宣言した.
森永乳業に対する怒りから,森永製品の不買運動が各地ではじまることになる.しかし昭和38年10月25日,徳島地裁は「森永ミルク事件における会社側の責任はない」とする無罪の判決が下ると,世論もしだいに沈黙することになった.被害者の声は闇の中に閉じこめられ,この事件はいったん決着したかのようにみえた。
●14年目の訪問
この事件から14年が過ぎ,森永ミルク中毒事件が世間から忘れられていたとき,この事件は急展開を迎えることになる.それまで後遺症は残さないとした「五人委員会」の報告が大きな間違いであったことが明らかになったからである.ヒ素ミルク中毒で命を取り留めた被害児の中に,脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ患者が多数いることが確認されたのであった.世間から忘れ去られていた孤立無援の被害者を救ったのは大阪府・堺養護学校の一人の教員だった.
昭和37年,教員のクラスに脳性麻痺の男子が入学してきた.母親はかつての森永ミルク事件で脳性麻痺になったことを教員に話した.このことがきっかけとなり,森永ミルク被害児の追跡調査がはじまった.一人の教員が始めた追跡調査の実態がわかるにつて,それを支援するグループが立ち上がることになる.そして大阪大学公衆衛生学・丸山博教授が中心となり,養護教論,保健婦,学生(阪大医学部)からなる22人の調査グループが結成されることになった.調査員は大阪地区の被害児55人の家を一人ひとり訪問し,聞き取り調査をおこなった.そして67%の被害児に発育の遅れや脳波異常などの健康異常を認め,後遺症に苦しめられている実体を明らかにした.被害者の家族たちは「この世に神様がいるとしたら,それはあなたたちです」と感謝の気持ちを表した.わが手で毒入りミルクを飲ませたことの悲しさ,この母親たちに十字架を背負わせたままだった.乳が出ない母親だったのが間違いだった.嫌がって飲もうとしなかったのに何故飲ませ続けたのか.手足の動かない身体の子供,皿に注がれたお茶を舐めるように飲む子供,母親たちはヒ素入りミルクを販売した森永乳業でなく,ミルクを飲ませた自分を責めつづけ,子供の世話をしていたのである.
昭和47年,第27回日本公衆衛生学会で大阪大学公衆衛生学・丸山博教授は「14年目の訪問」と名づけられた報告の中で,この調査結果を発表した.そして中枢神経系の障害を残した子供たちが多数いることが明らかになった.
この学会の席上には,西沢義人も出席しており,森永ミルクヒ素中毒事件では後遺症は生じていないと断言,中枢神経系の障害はヒ素ミルク中毒とは関係がないこと,さらに調査チームに医師が参加していないと反論した.因果関係を否定し,あるいは単純な事実誤認をことさらに取り上げ,報告の信頼性に難癖をつけた.もちろんこの西沢義人の発言は間違いであった.間違った認識のまま14年間もヒ素中毒の権威者のトップに座り,西沢義人は被害者を無視する態度を続けてきたのだった.
丸山博教授の報告は全国に大きな衝撃をあたえた.そして厚生省もその対策に乗り出すことになる.多くの公衆衛生学者,多くの小児科医が集まり,被害児の後遺症についての共同研究が始まることになった.広島大学,岡山大学でも同様な報告がなされ,被害児の後遺症が明らかになった.それまで被害者の苦しみを無視してきた医療機関や行政も,患者とともに14年間のブランクを埋める努力を始めることになった.
丸山教授の報告を受けて昭和44年11月30日,全国の親たちは「森永ミルク中毒のこどもを守る会(渡辺祝一理事長)」を発足させた.「守る会」は賠償金の要求ではなく、子供たちの健康回復と社会的自立を求め、そのための医学的究明と恒久的対策を要求し,森永乳業や国と交渉を始めた。多くの専門家や世論の大きな支持を受け,国(厚生省)と森永乳業を相手に民事訴訟を提訴するなどの運動を進めた.弁護団が結成されたが,弁護団の団長を務めたのが、後に住宅金融再建管理機構の社長となった中坊公平弁護士であった.
守る会は独自の「恒久対策案」を作成してその実現を迫った.14年間のブランクを埋めるため多くの支援グループが誕生し,森永製品の不買運動が広がり,森永乳業もヒ素ミルク中毒の責任を認めるようになった.同年11月4日,森永乳業は被害者に補償金15億円の拠出金を提示し,患者への恒久的救済を発表した.しかし「森永ミルク中毒のこどもを守る会」はこれを不十分として受け取りを拒否することになった.
事件から18年目,昭和48年11月28日,差し戻された裁判が徳島地裁で判決が下された.徳島地裁は森永の刑事責任を認め,徳島工場元工場長は無罪となったが,元製造課長に禁固3年の実刑判決を下したのである。「同工場で化学的検査などのわずかの手数を惜しんだための人災」と判決は述べた.第二燐酸ソーダの納入業者である協和産業が、間違って産業廃棄物を納入したことを盾に、森永側は自分たちに過失はないと主張した。長い間の取引先を信用していた自分たちには、注意義務はないと主張したのである.
しかし同じ日本軽金属から出た廃棄物が,やはり間違って国鉄仙台鉄道管理局に納入されていたことが分かった。国鉄はボイラー用の洗剤として第二燐酸ソーダを使用する予定であったが,事前に品質検査をしてヒ素の混入を発見して返品していた.まして口に入るものを作っている食品会社が,注意しなくていいなどの理屈はとおるはずはなかった.
この判決を受け,昭和48年12月23日,「森永ミルク中毒のこどもを守る会」と森永・厚生省の間で,被害児の恒久救済実施の合意が成立することになる.恒久救済とは一定額の補償金ではなく、厚生省と森永乳業の両者から,被害者が存在する限り救済を受けられることだった。森永乳業は被害児の健康管理,治療,介護などのために30億円を拠出することになった.
昭和49年5月12日,森永乳業が被害児の恒久救済を表明したことから,「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は損害賠償請求の訴訟を終結することを決定.この結果,森永ヒ素ミルク中毒事件は19年ぶりに解決し,森永製品の不買運動はとりやめになった.12月には被害児の健康管理や生活保障を行う財団法人「ひかり協会」が設立された.
昭和59年,当時の大野社長が亡くなり,社長の遺族が香典の全額を被害者の救済資金として寄付した.そして「守る会」からの提案で,ひかり協会主催の「大野社長に感謝する会」が開かれた。加害者と被害者の関係を超えた信頼関係が形成されたのである.
森永ヒ素ミルク事件は,世界最大級の食品公害事件であった.最も安全を考えなければいけないミルクにヒ素が混入した悲劇的な事件で,日本が高度成長に入ろうとする時期,工業立国日本の歪みが生んだ事件であった.さらに企業の論理に立った森永乳業だけでなく,それを助けた行政,医学界を含め大きな教訓を残すことになった.当時の産業優先政策が引き起こした事件といえる.
被害者数は,平成4年の段階で13420人であった.森永ヒ素ミルク被害者の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いこと、皮膚変化としては,ヒ素中毒特有の点状白斑とひ素角化症が2から7%に存在すること、さらに様々な身体的不定愁訴をもつ被害者が多いことであった.
ヒ素が食品に混入したことによるヒ素中毒は,これまで多数の犠牲者を引き起こしている.1900年イギリスではビール製造過程でヒ素が混入し死者70人,中毒患者6000人の犠牲者をだしている.最近では和歌山県毒カレー保険金殺人事件(平成10年)が記憶に新しい.
ヒ素は毒物としての古くから知られている.歴史上,ヒ素中毒を有名にしたのは,1821年ナポレオンがヒ素により毒殺されたことである.1961年10月の科学雑誌「ネーチャー」でナポレオンの遺髪から平常の量の13倍のヒ素が検出されたことが発表された.セント・ヘレナ島へ流されたナポレオンは,少しずつヒ素を飲まされて死亡したのである.
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ノイローゼ(昭和30年)
昭和30年,日本の鉱工業生産は戦前の昭和10年の水準をこえ,経済の高度成長が始まろうとしていた.また敗戦後,分裂と野合を繰り返してきた日本の政界は,昭和30年に自由党と日本民主党が合併して自由民主党となり,社会党も左派と右派が合併して日本社会党となり,いわゆる55年体制が発足した年であった.
敗戦から10年が経ち,人々の生活は安定し世の中が変わったという実感があった.「もはや戦後ではない」という経済白書に載った言葉が流行語となり,テレビ,電気洗濯機,電気冷蔵庫が「三種の神器」とよばれ,日本の家庭に電化製品が目立ち始めたころである.しかしこの物質的な生活の向上と反比例するかのように,昭和30年ころからノイローゼという言葉が流行した.
ノイローゼとは一般的にいえば「気から起きる身体の病」である.医学的には心理的な要因によって引き起こされる心身の異常で,脳の器質的な変化をともなわない精神障害のことである.しかしノイローゼという言葉は,考えすぎ,悩みすぎ,という病気ではなく正常な状態を含んだ言葉として一般に使われた.
このノイローゼという言葉が流行したのは,7月24日,週刊朝日が「ノイローゼと現代人」との表題で,ノイローゼは現代人のアクセサリーと書いたことがきっかけとなった.著名人の自殺が相次ぎ,ノイローゼという言葉が流行語となり,またノイローゼに関した本が多数出版された.物質的悩みから精神的悩みに人々の関心が移行し,精神的悩みが一種のファッションになったのである.塩野義製薬が精神安定剤「ウインタミン」を発売したが,その広告に,「現代人の流行病ノイローゼ」というキャッチフレーズを用いてノイローゼの流行に便乗した.
敗戦からの数年間は食糧難の時代であった.人々は今日を生きることに必死であり,ノイローゼをきたすほどの精神的ゆとりがなかった.戦後10年を経て人々の生活が安定してゆき,また時代は急速に変化していった.人々は田舎から都会に移動し,企業は機械化による合理化を進め,人間関係も難しくなった.家庭の不和や失恋,仕事の失敗や職場の人間関係などがノイローゼのきっかけになり,身体の不調,精神不安を引き起こしたのである.また敗戦により人生観,価値観が大きく変わったことも隠れた要因になった.
生活が豊かになり,自分が病気かもしれないという健康不安が生じ,健康不安が身体の変調をきたすという悪循環をもたらした.このような時代背景が心の病気を増加させたのである.ノイローゼを引き起こすストレスの原因は貧困による生活苦ではなく,逆に生活の安定が心の不安定をもたらしたのである.
日本では昭和28年頃から自殺による死亡が増え,昭和33年6月1日の新聞には,日本の自殺率が世界第1位になったという不名誉な記録が掲載された.日本人の年間自殺率は10万人当たり24.2人で,2位はオーストリア,3位はフィンランド,4位スイスの順であった.
戦時中はあの悲惨な空襲を受け,戦後には食糧難で日本人のストレスは高まっていた.しかしノイローゼをきたす人や自殺をする人はほとんどいなかった.それは一億玉砕,挙国一致などの標語が国民の一体感を高め,さらに戦後の貧しい時代には人々の連帯感が精神の安定につながっていたからである.ノイローゼが問題になったのは,その連帯観が崩壊し,孤独に耐えられない人たちが増加したからである.戦前の想いを捨てきれない人たち,高度成長が生んだ職場や社会などの変化に適応できない人たち,さらに苦悩そのものが知的で純粋なものとする文学的,哲学的雰囲気があった.また自殺やノイローゼの氾濫によって,新興宗教が次々に生まれたこともこの時代の特徴であった.
昭和32年1月10日,第一製薬は国産第1号の精神安定剤「アトラキシン」を発売したが,その宣伝文句は「文化人病,都会人病の新しい薬」であった.この年,不安神経症,不眠症,過度の緊張,筋肉疲労をとる精神安定剤(トランキライザー)が10社以上の製薬会社から次々と販売され,「トランキライザーの時代」と呼ばれるようになった.そしてトランキライザーの乱用も増えることになった.
またノイローゼに近い言葉として不定愁訴という言葉がある.不定愁訴は原因が見あたらないのに,多彩な症状を訴えることである.文字通り「なげきを訴えるところ定かならず」の意味である.この不定愁訴という言葉は,昭和39年に第一製薬が発売したトランコパールの新聞広告に用いられて流行語となった.また昭和39年4月から有馬頼義の小説「不定愁訴」が日本経済新聞で連載され話題をよんだ.不定愁訴は頭痛,肩こりから生理不順,不眠や痛み,このように日常で経験するあらゆる訴えが含まれていた.医学では説明できず,病気のようで病気でない不定愁訴は,患者がどれほど辛くても医師からは相手にされず,このことが患者をさらに悩ますことになった.
なお日本の自殺率は現在でも世界最高である.日本の自殺者は平成10年から4年連続で年間3万人をこえ,自殺率は欧米の約2倍である.日本の自殺者数は交通事故死の3倍,日本人の死因の第6位,30人にひとりの死亡原因になっている.このように日本は経済大国と同時に自殺大国になっている.この自殺は個人的問題とされ医学的,社会的問題として取り上げられることは少ない.しかし自殺にはうつ病が関与するとされており,医学的に大きな課題を含んでいる.またひとりの自殺者の陰には30人の自殺未遂者がいるとされ,自殺は大きな社会問題といえる.
特に,自殺者が増えているのは働き盛りの男性である.日本の中年男性になぜ自殺が多いのか.失業率と自殺率の変化がほぼ平行していることから,マスコミは自殺の増加を不況の影響としている.しかし本当の原因は何であろうか.日本人は物質的に豊かになっても精神的に弱いのか,経済的貧困に耐える忍耐力が低下しているのか,頼るべき宗教を持たないせいなのか.いずれにせよ,この閉塞した社会の行き詰まりのなかで,先行きの分からない不安,多様化する価値の変化についていけない人間的弱さが自殺率増加の原因といえるであろう.
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アインシュタイン(昭和30年)
昭和30年4月18日,アメリカのブリンストン病院で理論物理学者アインシュタインが胆嚢炎のため76歳で死去した.アインシュタインは,時間,宇宙という大きな謎を解き明かし,それまでの物理学を根底から崩す発見を人類にもたらした.この 20世紀を代表する天才,アインシュタインの名前は誰でも知っているが,「単純なものこそ美しい」という彼の宇宙と時空の理論を知れば,彼がいかに天才であったかが分かるはずである.
1879年,アインシュタインは南ドイツの小都市ウルムでユダヤ人の子供として生まれた.アインシュタインは3歳になっても言葉をしゃべれず,両親は智恵遅れの子供と思い失望していた.この子供がまさか後に天才と呼ばれるとは想像もしていなかった.アインシュタインの少年時代は学校がきらいで,クラスでは孤立していた.学校にはあまり行かず,独学で好きな自然科学の本を読んでいた.学校の成績は悪くはなかったが,頭の悪い子供と誤解されていた.
ある日,父親がコンパスをアインシュタインに見せた.アインシュタインはコンパスの針が常に一定の方角を指すのを見て,物事の背後には目に見えない隠された何かがあると直感した.針が一定の方向を向くのは地球の磁場によるものであるが,小学生のときから自然現象に対する洞察が鋭かったのである.また6才頃から13才頃までバイオリンの指導を受け,彼の生涯においてバイオリンは心を和ませる大好きな楽器となった.
アインシュタインは数学,物理学,哲学が好きであった.訪ねてくる叔父や知り合いの医学生に科学や物理学の指導を受け,彼らと議論を交わすことを楽しみにしていた.11歳で中等教育学校に入学するが,当時は軍国主義教育である.権威主義,団体行動,このような寄宿舎生活を嫌い,知り合いの医師に頼んで,「学校生活に耐えられない精神状態である」と診断書を書いてもらい,勝手に家族のもとへ帰った.
16歳の時,アインシュタインはチューリッヒのスイス連邦工科大学を受験するが,結果は不合格であった.数学の成績は優秀であったが,現代語,動物,植物が合格点に達していなかった.しかし翌年には合格し,スイス連邦工科大学で数学と物理学を学ぶことになった.当時の物理学はニュートン力学が中心であったが,アインシュタインは古典的ニュートン力学に批判的であった物理学者エルンスト・マッハの影響を受け,最先端の学問である電磁気学にのめりこんでいった.
大学でのアインシュタインの成績は優秀ではなかった.そのため博士号はもらえず大学を去ることになる.卒業後の2年間は無職の状態に近く,高校教師,家庭教師などをして生活を支えていた.そして友人の紹介でスイス連邦特許局に就職することになる.特許局は申請された特許内容を審査する仕事であるが,その仕事は彼の科学的興味を満足させるものであった.また決められた仕事が終われば,あとは自由に研究ができた.仕事のかたわら自由な発想で独自の物理学の世界を作り上げていった.
アインシュタインは実験室を持たない公務員にすぎなかった.しかし彼には実験室は必要なかったのである.彼の頭の中が実験室であり,頭で考えたことをノートに書きながら思考を繰り返すことが研究のすべてだったのである.物理学者は実験の結果から法則を見つけていたが,アインシュタインは思考実験を繰り返しながら物理学の理論を見つける,このような理論物理学の先駆者であった.宇宙という壮大な世界をどのような理論で説明するか,それが彼の理論的思考のすべてだった.
1905年,アインシュタインが26歳のときである.彼はそれまで「波」と考えられていた光が「粒子」であるという画期的な論文を発表した.さらに数ヶ月,特殊相対性理論を発表した.この年はアインシュタインにとって奇跡の年と呼ばれている.
アインシュタインは「光とは何が」を常に考えていた.それまでの物理学者は光の速度の変化を測定しようとしたが実験は全て失敗に終わっていた.地球は公転しているのだから,公転している方向に進む光の速度と逆の方向に進む光の速度は違うはずである.だがどの実験でも光の速度は同じだった.なぜ光の速度が一定なのか,当時の物理学の大きな謎であった.この疑問に対し,アインシュタインは「光の速度は絶対であり,他の何かが変化している」と考えたのである.そして「光の速度は一定であり,時間の流れが変化する」という画期的理論にたどりついたのである.この時間が変化するという考えは,それまでの物理学の根本をくつがえす理論であった.宇宙の誕生から今日まで,時間は正確に刻まれ,時間は絶対不変と誰もが信じていた.その時間が伸びたり縮んだりするという発想はなかった.しかし特殊相対性理論によると,速く動けば速く動くほど時間の流れは遅くなるのである.もし光に乗って動くことができれば,時間は停止するはずであった.
たとえば時速100キロで走っている自動車を,時速96キロで走っている自動車の運転手からみれば,時速4キロで人間が歩いているスピードに見えるはずである.しかし光の速度は静止している人が測定しても,猛スピードで走っているロケットの中で測定しても同じである.この矛盾は静止している人の時間と,猛スピードで走っているロケットの中の時間の長さが違っていることを意味していた.この理論はそれまでの常識をくつがえす驚くべき発見であった.この特殊相対性は難解であり,理解できる物理学者は世界で数人もいないだろうといわれたほどであった.だが彼の理論は,後の実験で確かめられることになる.地球の極点と赤道では地球の自転によって速度に差がある.地球の極点と赤道に置かれた時計を比較した実験で,赤道に置かれた時計の時間が遅くなったのである.
この論文によってアインシュタインは新進気鋭の物理学者として世界の注目を集めることになった.特許局につとめ,研究室を持たない26才の若者が,宇宙に関する認識を完全に変えたのである.アインシュタインはこの特殊相対性理論によって速度と時間の関係を証明した.1916年,次にアインシュタインは「一般相対性理論」を完成させ重力の問題を解決した.この一般相対性理論によると,重力は空間のくぼみであり,重力は光を含めたあらゆるものを引き寄せるという理論であった.それまで光は直進すると考えられてきたが,一般相対性理論では光も重力によって曲がるという考えであった.光が曲がるということは,直進するよりも長い距離を移動することになる.光のスピードは一定であるから,重力が大きければ大きいほど時間の流れが遅くなることになる.この「光は重力によって曲げられる」という彼の予言は,1919年の皆既日食の観測により見事に証明された.英国の観測隊が,太陽の裏側に位置していて,本来ならば見えるはずのない星を皆既日食の際に観測したのである.これは星の光が太陽の重力によって曲げられたことを証明する観測であった.そして彼の理論からブラック・フォールの存在が予言され,後にその存在が証明されることになった.ブラック・フォールとは強力な重力によって,光さえも外に出ることができず,時間が止まるというものであった.
またアインシュタインは化学反応によって物質の重さが減少すると,減少した分だけ運動エネルギーが増加するという理論を打ち立てた.この論文は特殊相対性理論を発表した4ヶ月後に出された.質量とエネルギーの関係を示したE=mc2という有名な公式の登場である.Eはエネルギー,mは質量,cは光の速さを示している.この公式はあらゆる物体にはエネルギーが含まれ,エネルギーは「質量×光の速度の二乗」に値するという公式である.つまり1gの物質であっても,そこには莫大なエネルギーが秘められていることを示していた.物質の原子構造には莫大なエネルギーが閉じこめられており,この公式は核分裂によって計り知れないエネルギーが外に出ることを数値で示していた.このアインシュタインの核分裂の公式がなかったならば,原子力の実用化,原子爆弾の開発は大幅に遅れたとされている.
アインシュタインは理論物理学者と呼ばれている.理論物理学とは頭の中で実験をくり返し,普遍的な理論を組み立てる学問である.それまでの物理学は実験や観測データから定理をみちびくものであったが,理論物理学は理論があって,その理論を実験で証明するのであった.宇宙のしくみや物質のふるまいをうまく説明できる仮説を作り,普遍的な理論を組み立て,それを証明するのである。アインシュタインは「自然界において絶対なのは光の速度であり,相対的なのは時間と空間である」という概念を誕生させた. 300年にわたって信じられてきたニュートン物理学を変え,それまでの宇宙観を変え,新しい物理学の時代を切り開いた.
アインシュタインは宇宙や自然界には偶然はありえず,すべては何らかの法則で成り立っていると考えていた.「神がサイコロを振ることはあり得ない」と考えていた.1917年にアインシュタインは一般相対性理論をもとに「宇宙モデル」を発表する.宇宙における時間,空間,エネルギーを方程式で示したのである.この方程式によると宇宙はいつか縮んでしまうことになった.このアインシュタインの宇宙理論以降,様々な理論物理学が宇宙の存在を数値で示そうとしているがまだ研究段階にある.
アインシュタインは日本にも来ている.1922年の10月8日,マルセーユから日本郵船の北野丸に乗り,北野丸が上海に向かっている11月10日,スエーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会はアインシュタインに対してノーベル物理学賞を与えと発表した.11月17日神戸に入港, 12月29日まで日本に滞在し,日本各地で熱狂的歓迎を受けた.アインシュタインの各地の講演会は数千人が集まり,話を理解できなくても,聴衆は催眠術にかかったように身動きもせず静聴した.
アインシュタインは世界的に有名であったが,ドイツではあまり人気がなかった.ドイツは「第1次世界大戦で負けたのは,ユダヤ人が協力しなかったから」とすると反ユダヤ主義がしだいに広まっていた.アインシュタインはユダヤ人であり,ユダヤ人として行動していた.そして1933年10月,アインシュタインはナチスの迫害から逃れるため,ドイツを去りアメリカに渡った.そしてプリンストン高級研究所員となった.
アインシュタインは「暴力は何の解決をも生み出さない」という平和主義であった.しかしナチスドイツを倒すには暴力しかないとしだいに考えるようになった.多くのユダヤ人が殺害されてゆくことに怒りを覚えたのである.1939年に原子爆弾開発をうながす手紙をルーズベルト大統領に提出し,マンハッタン計画が開始されることになった.
しかし第二次世界大戦が終わると原爆の悲劇を知り,後に平和運動,世界連邦運動に尽力をつくすことになった.1948年にプリンストン高級研究所を訪れた湯川秀樹博士に対し,原爆が日本に投下されたことを謝罪したほどである.アメリカにおけるアインシュタインの活躍は,研究よりも政治的色彩が濃くなり,核兵器根絶を訴え続けた.そして自分の理論が原爆の開発につながったことに大きな懸念を抱いていた.
アインシュタインは天才である.実験をせずに自分の頭のなかで理論を構築していった.そして天才であるが故に,彼の業績は華々しいものであった.しかしそれ以上にアインシュタインはユーモアあふれた表情や言動,親しみやすい風貌から人々の心を魅了したといえる.アインシュタインは相対性理論について,「男の子が,きれいな女の子と1時間並んで坐っていたとすれば,その1時間は1分のように感じるでしょう。しかしもし熱いストーブのそばに1分間坐っていたら,その1分間は1時間のように感じるでしょう。これが相対性理論です」とユーモアで答えたとされている.
1955年4月18日午前1時15分,アルバート・アインシュタインは息をひきとった.享年76.葬儀はわずか12人が参列しただけの簡素なものだった。アインシュタインの遺志に従って,灰となった遺体は近くのデラウェア川に流された。アインシュタインの墓はない.しかし彼の名前は永遠に残るであろう.
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