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放射線医学の研究

  肥沼信次は日本医科大学を昭和9年に卒業すると、東京帝大医学部放射線医学教室に入局し放射線医学を専攻した。当時、放射線医学は医学の中では新しい分野 で、日本医科大学にはまだ放射線医学教室はつくられていなかった。東京帝大医学部放射線医学教室も彼が入局する2年前にできたばかりで、放射線医学の初代 教授はドイツ留学から帰国したばかりの中泉正徳であった。放射線医学教室ではレントゲン写真による診断を行いながら、未知の分野である放射線の研究を行っ ていた。放射線の人体に及ぼす影響、放射線の抗ガン作用など、多くの未解決の問題があった。

  放射線医学の研究には数学的思考が必要で、肥沼にとっては得意な数学や物理学を生かせる分野だった。彼は中泉教授の指導を受け実力をつけていった。放射線 研究に関する医局での議論は常に真剣だった。特に中泉教授と肥沼の議論は他の医局員が理解できないほど難解で専門的な激論となった。時として怒鳴り合うよ うに周囲から見えたほどである。しかしそれは師弟の関係を超えた学問上の真剣な議論のぶつかり合いであった。

  東京帝大医学部放射線医学教室での3年間の研究生活で、肥沼は教授との共著で3編の論文を書いている。ひとつは酵母にレントゲン照射を行い、成長の段階に おいて細胞障害に違いが出てくることを示した研究である。分芽期、増殖期に照射すると照射量によって成長障害が強くでるという研究であった。この論文は 「細胞の発育と放射線照射の時間的因子に就いて」の題名で日本レントゲン学会誌(十三巻三号一八二頁)に掲載されている。さらに翌年には、「分割照射にお ける分割間隔とL線の生物的作用」が同学会誌に掲載され、昭和12年1月には「長時間連続照射中における脾臓の組織学的変化」を(十四巻五号四七一頁)に 発表している。

  肥沼は放射線の生体に及ぼす基礎研究を行っていたが、日本での研究に飽きたらずドイツ留学を決意していた。しかしその決意が父親の梅三郎の知るところとな り、父親が中泉教授の研究室に怒鳴り込んできた。自分の息子が日本を離れることが許せなかったからである。父親は信次を肥沼医院の跡継ぎと考えていたので 留学を許すことができなかった。しかしドイツ留学は信次の意志によるもので、父親が反対しても留学を辞めさせることは不可能だった。中泉教授はベルリン大 学に推薦状を書いたが、留学を命令したわけではなかった。信次は交換留学生に応募して合格していたのである。

あこがれのドイツへ

  昭 和12年の春、29才の肥沼は国費留学生としてドイツに留学することになった。小雨まじりの肌寒い朝、横浜港から船でドイツに向かうことになる。母親ハツ (61)、弟の栄治(24)、研究室の仲間たちが見送りに来た。信次は長年の念願が叶えられ晴れやかな笑顔を見せていた。彼の笑顔を前に、これが最後の別 れになるとは誰も思っていなかった。欧州定期航路は、横浜、名古屋、大阪、門司に寄港してからマルセイユ(フランス)に着くまで41日間の航路であった。 肥沼はこの航路の途中、門司で停泊している間に、転地療養している同僚の野口隆を別府まで見舞いに行っている。別府は門司から汽車で日帰り可能な距離とは いえ、このことは彼の情の深さを示している。

  昭和12年6月、肥沼はマルセイユを経由してベルリンに到着。ベルリン大学(現フンボルト大学)の放射線研究所で研究することになった。担当教授は中泉正 徳教授の恩師であったヴァルター・フリードリ教授であった。当初、肥沼は客員研究員であったが、すぐに正式な研究員として給料をもらえる立場になった。

  肥沼は放射線研究に没頭し、実験を繰り返しながら多くの論文を書いた。ベルリン大学近くのフリードリッヒに住んでいたが、大学にいても、アパートに戻って も研究のことが頭から離れなかった。その間、世界的に権威のある学術書に数編の論文を書いている。それらは放射線学、物理学、医学に関する論文であった が、放射線による細胞の突然変異から発癌のメカニズムを推測するという価値の高い研究であった。

 昭和16年、彼はフンボルト財団の奨学生となった。フンボルト財団の奨学生になることは優秀な研究者であることを証明するもので、研究者として大きな名誉であった。

  さらに留学6年目にベルリン大学医学部に教授申請の論文を提出した。提出した論文は「レントゲンと紫外線照射がタンパク質および胸腺核酸水溶液に与える作 用のメカニズム」という題名であった。この論文は、東大時代から考えていた研究テーマを集約したものである。この教授申請の論文を審査したのはフリードリ 教授とATP(アデノシン3リン酸)の発見者であるカール・ローマン教授であった。教授申請の論文は高い評価を得てドイツ学術 教育省は教授申請を受理した。このことは彼が放射線分野においてきわめて優秀であることを示している。ベルリン大学で教授資格を受理されたのは東洋人とし て肥沼信次がはじめてのことであった。この教授資格はドイツ国内だけでなく、欧州の大学でも通用するものであった。

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