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< 肥沼信次(リーツェンの桜) 8 | メイン | 頑張れ鳩山総理 >

語り継がれた勇気

  肥沼信次の墓は高さ1メートルの大理石でできていている。それは墓というより記念碑のように立派なものだった。墓石にはギリシア神話に登場する医術の神ア スクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることを示していた。そして「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれている。遠い 異国の地で、うっそうとした樹木の立ち並ぶ墓地で、肥沼の墓は市民たちによって大切に守られてきた。

  肥沼信次が自分たちの祖父母を救ったことは、家族が子供に話し、学校では歴史の授業で教えられた。リーツェンの子供たちも大人も肥沼を尊敬していた。同じ 人間として助けられた恩を忘れず、彼の苦労に酬いようとする情があった。アルメデヴィッツ村を初めとした近隣の村々の人たちも自分たちの村を救ってくれた 肥沼のことを決して忘れなかった。村の家々では肥沼について代々語り継がれ、小学校、中学校でも先生が彼の業績を話してくれた。

  平成元年にベルリンの壁が崩壊して、東ドイツのホーネッカー大統領は失脚し、東ドイツは西ドイツと統一された。東ドイツのそれまでの秩序や体制も崩壊し、 40数年間にわたり封印されてきた肥沼信次に対する感謝の気持ちが公にできるようになった。東ドイツの支配が終わり、彼の名前が知られるようになった。

  地元の郷土史家シュモーク博士が肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公にした。その業績はドイツの新聞でも報道さ れ、それをきっかけにドイツでは肥沼の身寄り調査が始まった。彼が日本人医師であることを住民たちは知っていた。しかし彼の経歴を誰も知らなかった。どう してリーツェンに来たのかも知らなかった。リーツェン市長は肥沼信次の人生と業績を記録に残したかったが、彼がどこの誰なのか分からなかった。

身元探し

  ドイツ・アカデミー会員の長老であるピアマン博士も肥沼信次に強い関心を示していた。ピアマン博士はフンボルト研究所所長であった。博士はドイツ大学の客 員教授であった桃山学院大学・村田教授に肥沼信次の調査を依頼した。村田教授は肥沼の遺族、家族を捜すために日本大使館、住民票、文部省などに問い合わせ たが分からなかった。

村 田教授は何度か朝日新聞の尋ね人の欄に肥沼信次の名前をのせた。やがて平成元年12月14日の朝日新聞の記事によって肥沼信次の弟である肥沼栄治が東京で 見つかった。栄治は読売新聞を取っていたため朝日新聞の記事には気づかなかったが、義理の兄弟の息子が記事を読み連絡してくれた。弟の栄治は兄の死を日本 赤十字社から知らされていたが、どこでどのように亡くなったのか詳しい内容を知らなかった。

肥 沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からリーツェン市長へと伝えられた。リーツェン の人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知ったのだった。ここで最も驚いたのはフンボルト研究所所長のピ アマン博士であった。肥沼が自分の管轄しているフンボルト奨学金を貰っていた優秀な放射線医学者であったことを知ったからである。

  平成5年、リーツェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られた。肥沼が働いていた伝染病医療センターは市役所になっており、記念プレートには 「肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った」と刻まれている。平成6年、リーツェン市議会は肥沼信次の功績をた たえ名誉市民とすることを決定した。リーツェンの名誉市民は過去に旧ソ連の司令官が指名されただけで、肥沼信次は2番目であった。このことからリーツェン 市民がいかに彼を尊敬していたかが分かる。肥沼信次は名誉市民となり、彼の墓は永遠に市が責任をもって管理することになった。

 平成6年、弟の肥沼栄治がリーツェンを訪れた。そしてリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受け、兄の墓に花を捧げた。それは横浜の桟橋で別れて以来57年目のことであった。

 リーツェンの桜

  弟の栄治は当時の兄を知る人々の話から「桜を見たい」という兄の最期の言葉を知った。そして寄付金でリーツェンに100本の桜の苗木を送った。肥沼信次の 墓にも桜が植えられ、「桜を見たい」という兄の夢が48年ぶりに叶えられた。またリーツェン市内各所に桜の木が植えられ、街中で桜が見られるようになっ た。リーツェンでは毎年春には桜が咲き、人々は肥沼信次を偲びながら感謝の気持ちを新たにしている。

 平成12年7月1日、リーツェン市役所の広場に肥沼信次の記念碑が建てられ除幕式が行われた。式には多くの人々が参列し、ドイツの新聞はこの除幕式を大きく報道した。また郷土博物館には肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられている。

  日本人医師・肥沼信次は自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救った。彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしかった。 医師として患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。リーツェンの人々の心の中に、肥沼信次の名は永遠 に生き続けることであろう。

 

 

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