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ブルーボーイ事件(昭和40年)
東京地裁(熊谷弘裁判長)は優生保護法違反で東京都中央区の青木病院院長・青木正雄(41)に懲役2年,執行猶予3年,罰金40万円の有罪判決を下した.産婦人科医である青木正雄医師は3人の男性(ゲイボーイ)から女性になりたいと頼まれ1人6万円で性転換手術を行ったことが罪に問われたのである.わが国において,睾丸摘出,陰茎切除,造膣などの性転換手術が優生保護法違反として罰則を受けたのは,後にも先にもこの事件だけである.
この性転換事件は「ブルーボーイ事件」として,事件発生の昭和40年から判決が下る昭和44年にまで世間の注目を集めた.この事件のきっかけは,昭和40年に赤坂警察署が検挙した売春婦を調べたところ,毛深く声の太い売春婦が含まれており,問いつめたところ男性であることがわかったことである.そしてその男性は青木正雄から性転換手術を受けたことを自白したのであった.ブルーボーイというのはパリのカルーゼル・ショー劇が来日した際に作られた言葉で,カルーゼル・ショーで男性から女性へ性転換したダンサーをブルーボーイと呼んでいたことが語源となっている.
ブルーボーイ事件には被害者は誰もいない.また青木正雄医師が医師法に違反したわけでもない.また医療ミスを犯したわけでもなかった.罪に問われたのは青木正雄医師がおこなった性転換手術が優生保護法(現在の母体保護法)に違反しているかどうかということであった.優生保護法の第28条「故なく,生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」という条文への違法を問われたのである.しかしこの優生保護法違反は青木医師を有罪とするための名目上の理由であり,青木医師が性転換手術を闇で行っていたことが有罪となった本当の理由であった.つまり性転換手術そのものが優生保護法に違反しているのではない.
弁護側は「性的倒錯者の性格を変える方法はなく,むしろ性転換をして精神的な苦しみを解消させる手術の方が正統な医療行為である」と主張した.これに対し検事側は「完全な女性に成るわけではないのだから,異常な欲望を満足させるだけで,取り返しのつかない手術は正当とはいえない」と反論した.
東京地裁の熊谷弘裁判長は,性転換手術の法的問題は日本では未開発の分野だが,正当行為と認められるためには少なくても3つの条件が必要とした.(1)精神的,心理的観察を行い一時的な気分で排除すること.(2)家族,生活環境を調査し人間形成の過程を調べ手術がやもえないかどうかを調べること.(3)精神科医を含んだ複数の医師団の決定によること.
このように裁判所が性転換手術の合法性を示したのは初めてのことであった.つまり性転換を希望する患者は,適切な精神科コンサルトなどの手順を踏めば性転換手術は可能と判断したのである.
青木医師が罪を受けたのは,カルテもつくらずに闇で手術をしていたからであった.また青木正雄は友人に頼まれ麻薬・医療用麻薬オピアト注射液10本を合計6000円で譲り,この麻薬取締法違反がからんでいたため重い判決となったのである.この判決は性転換手術をおこなうためのガイドラインを提示したが,性転換手術に対しこの事件は必要以上に医療機関を萎縮させてしまった.そして医療機関ばかりでなく患者も性転換手術そのものが違法であるような誤解をもってしまった.裁判所はもし性転換手術を行うなら,こうあるべきでという現在でも通用する的確な指針を示したが,何故か「性転換手術は違法」という誤解が広まってしまった.
このブルーボーイ事件を境に,日本では性転換手術はタブー視され行う医師はいなくなった。性転換手術を違法行為と誤解したためであった.そのため性転換手術を希望する者はモロッコなどの海外で受けるようになった.ゲイボーイとして有名となったカルーセル麻紀も日本では手術ができず昭和47年にモロッコで手術をしている.
このようにこの事件から30数年間,自分の性に強い違和感を持ち別性になりたいと悩む性同一性障害患者の性転換手術はタブー視されていた.
平成10年になって,埼玉医大が性同一性障害女性の性転換手術をおこなった.これをきっかけに性転換手術は行われるようになった.性転換手術というが,当然ながら性を転換することは現在の医学では不可能である.内性器を摘出,外性器を構築して性器の形状を異性のものに変えるだけのことである.表面上の性転換であり,どんなことがあっても女性は死ぬまで女性である.学校で習ったように生物学的には染色体によって性は決定されるのである.また性転換手術を受けても戸籍の性を変更することはできなかったが,性同一性障害者性別特例法が平成16年7月から施行され,家裁の審判で戸籍上の性別を変更できるようになった.タレントのカルーセル麻紀さん(61)も家庭裁判所へ戸籍の変更を申し立て,同年10月,戸籍性別変更認められ晴れて「女」になり,カルーセル麻紀さんは「平原徹男」から「平原麻紀」となった.
昭和44年のブルーボーイ事件までは性転換手術は意外に多く行われていた.ブルーボーイ事件摘発の背景には,警察が性転換によって女性になった男性街娼の対策に手を焼いていたことが挙げられる.彼らは戸籍上男性であるため売春防止法で取り締まることができなかった.そこで優生保護法を持ち出し「性的に不能にする手術はおこなってはならない」という規定を無理矢理当てはめ,あたかも性転換手術そのものが違法行為であるようなイメージを植え付けたのである.
安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)
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千葉大採血死亡事件(昭和44年)
昭和44年4月27日,千葉大医学部付属病院へ献血に訪れた千葉県八街町に住む酒類販売業者・杉井陽太郎(32歳)さんが,採血ミスのため心肺停止の状態になった.杉井陽太郎さんは全くの健康人で,入院中の知人に輸血をするために病院を訪れたのである.しかし杉井陽太郎さんの若い生命は看護婦の不手際によって奪われることになった.
杉井陽太郎さんの採血に当たったのは,千葉大第二内科の無給医局員・笹貫宏医師と多田なお看護婦の(23)二人だった.この事件はいたって単純なミスが原因で発生した.笹貫宏医師は杉井陽太郎さんの左腕静脈にいつものように注射針を刺した.注射針には採血用のチューブがついており,多田なお看護婦は採血をするためチューブを電気吸引器にセットした.献血では採血量が多いため吸引器を用いて血液を引くことが必要だった.そしていつものように杉井陽太郎さんから採血がおこなわれるはずであった.しかし多田なお看護婦は採血のための吸入口ではなく,反対側の噴射用の口にチューブをつないでしまったのである.
使用された電気吸入器は,採血や痰を引くための吸入(減圧)口と,薬品を噴射するための噴出(加圧)口があり,一台で減圧と加圧の両方の機能が備わっていた.たとえていうならば,電気掃除機の構造と似ていた.吸入口に採血用チューブをつなぐべきところを排出口にチューブをつないでしまったのだった.
器械のスイッチを押すと同時に約200ccの空気が静脈に逆流していった.この事態に慌てた看護婦は,腕に巻いていたゴムの駆血帯をほどいてしまい,杉井陽太郎の体内に空気が一気に注入されてしまった.空気は肺から脳に達し,杉井陽太郎さんは瞬時に意識を失いけいれんをおこし心肺停止の状態に陥った.そばにいた笹貫宏医師は直ちに針を抜き心臓マッサージをおこなった.必死の心肺蘇生により杉井さんの心臓はふたたび鼓動を取り戻したが,意識は戻らなかった.脳波は停止したまま,血圧,脈拍,体温は正常人とほぼ同じの状態,いわゆる植物人間となった.多田なお看護婦は寝ずの看病をおこない,また病院側の懸命な努力にも関わらず事故から41日後の6月7日,杉井陽太郎さんは死亡した.
笹貫宏医局員と多田看護婦は業務上過失致死で起訴されることになった.この事件は看護婦の単純なミスが引き起こした医療事故として終わるはずであった.しかし裁判の過程で,多田看護婦はこの採血死亡事件の裏に隠れた,当時の医療が抱えている歪んだ現状を次々に暴露していったのである.
多田看護婦は杉井陽太郎さんを死亡させたことを自分の非として認めていた.しかし同時に,大学の医療そのものを非難する内容を暴露したのである.無用の心臓カテーテル検査で心臓破裂を起こし死亡させた事例などを上げ,医師は研究のために患者の治療は二の次になり,患者が犠牲となった事件が過去に何度も起きていると裁判で証言したのだった.多田看護婦は大学病院のでたらめな医療が同時に裁かれなければ,自分の罪を償うことはできないと主張したのである.
多田看護婦の訴えは,まず①危険な医療機器を納入していた大学病院の責任であった.医療器械は厚生省の許可が必要なのに,問題の吸引機は厚生省の許可は受けておらず,市内の器械屋が試験的に置いていったものであった.また自分だけでなくこの吸入器によって他の看護婦も同様の事故を起こしそうになったことがあっと述べた.②大学病院では他にも多くの医療ミスがあり,大学側がそれらを隠していた事実があること.③多田看護婦は,事故当時ほとんど休みがなく働きずくめの状態であった.過酷な勤務を強いられ,病院の看護婦がミスをしても不思議でないような労働環境にあったと主張した.④また身分の保障のない無給医局員の問題などを述べた.
多田看護婦は自分の非を認めながら,自分の過失ばかりでなく病院の体質が生んだ事故,過労が引き起こした事故と主張したのだった.多田看護婦は大学病院の体質を変えることが罪滅ぼしと考えたのである.この多田看護婦を擁護しようとするグループが立ち上がった.そして日本の医療,大学病院の医療が抱える問題が指摘され注目を集めることになった.しかし多田看護婦を擁護したのは反戦看護グループであり.多田看護婦の主張は責任を転嫁するものとの批判があった.過失裁判を政治裁判にすり替えようとする法廷戦術ととらえられた.
この医療事件は大学病院の医療を暴露したことによって世間の注目を集めることになった.千葉大採血死亡事件で死亡した杉井陽太郎さんの遺族は国に1億6000万円の損害賠償の民事訴訟を起こし,千葉地裁佐倉支部は被告の国に1億2000万円を払うように判決を下した.しかし国が控訴し,昭和47年3月31日,東京高裁で3584万円の賠償が決定した.事実関係は何も変わらないのに1審と2審で命の値段が3倍も違っていた.多田看護婦は業務上過失致死に問われ,禁固10ヶ月,執行猶予2年の判決が下った.
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チクロ騒動(昭和44年)
昭和32年から食品添加物として使用されてきたチクロ(サイクラミン酸)は,砂糖に似た合成甘味料でその甘さは砂糖の約30倍とされていた.チクロはサッカリンやズルチンとともに貴重な甘味源として使用されてきた.しかしアメリカでこのチクロに発ガン性があることが問題になり,アメリカではチクロの使用が禁止されたことが報道された.
昭和44年10月29日,厚生省はこのアメリカの動きを受け,日本でもチクロの使用を禁止することを決定した.厚生省はチクロの使用禁止だけでなく,チクロが入った製品をすべて回収することを決定した.そしてその回収期間を清涼飲料水は昭和45年1月末まで,その他の食品は昭和45年2月末まで,医薬品は昭和45年6月末までに行うことを各食品業界に通達した.この厚生省の措置により,市場からの半年以内にチクロの回収を義務づけられ食品業界は大混乱となった.回収までの期間があまりに短かかったからである.
国がそれまで食品添加物として認めていたチクロを,国が急に禁止したことにより倒産する会社まで出現した.なにしろ缶詰業界は1年分がすでに流通していた.また漬け物は市場に出る前に2年間寝かせておく必要があった.厚生省の回収命令により食品業界が受けた被害は1000億から2000億円とされた.
チクロはシクロヘキシルスルファミン酸ナトリウムの略名で,1939年アメリカのイリノイ大学のスベーダによって発見された化合物で,1944年から甘味料として用いられてきた.甘味度は砂糖の約70倍で砂糖に近い味で穏やかであるため一時各国で使用されてきた.また水に溶けやすく熱に安定していたことから,使いやすい合成甘味料として広く使用されていた.砂糖の値段か高かったことから,また人工甘味料のなかでもチクロの方が砂糖よりうま味があり,そのためチクロは多くの食品に含まれていた.当時,チクロの入っていない食品を探す方が難しいとさえいわれていた.
懐かしい話であるが,当時の日本で流行した商品に「粉末ジュース」がある.それまでジュースと言えば進駐軍が持ち込んだバヤリースオレンジを意味していたが,バヤリースオレンジは1本が35円で,とても庶民の手に届く飲み物ではなかった。そこへ1袋5円の粉末ジュースが登場したのである.粉末ジュースは粉末を水に入れかき混ぜるだけで美味しいジュースが飲める製品であった.多くの庶民が粉末ジュースに飛びつき,爆発的ブームを生んだ.その代表的製品は渡辺製菓がつくった粉末ジュースで,渡辺のジュースの素(もと)の宣伝で売れ上げを延ばしていた.ジュースの素は水に溶けやすく,しかも値段の安いチクロを使用していたことから粉末ジュースは渡辺製菓だけで1日1億杯分が生産されていた.「10杯飲んでも50円,1袋たったの5円」とキャッチコピーが当たったのである.ジュースの素をなめると舌がオレンジ色になるので,冷凍庫で凍らせてシャーベット作ったことを懐かしい思い出される人が多いと思う。
しかしチクロの使用禁止によって粉末ジュース業界は壊滅的な打撃を受けることになる。渡辺製菓の経営は急激に悪化し,鐘紡に吸収合併されることになった.このようにチクロの使用禁止は社会的な影響を引き起こした.
チクロは膀胱癌を引き起こすとされたが,動物実験によるガン誘発性はその後の追試で否定されている.このようにチクロの発ガン性の真実は明らかではないが,このチクロ騒動以降,チクロは合成甘味料として日本では使用禁止となった.
チクロに引き続き,次に同じ合成甘味料であるサッカリンが問題になった.サッカリンの発ガン性がいわれたのはある研究が発端であった。オスのラットに大量のサッカリンを与えると膀胱ガンが生じやすいことが確認されたのである。しかし使用されたサッカリンを人間に換算すると,ダイエットコ−ラなどの人工甘味料飲料を毎日800本,生涯にわたって飲み続けるほどの量だった.しかしFDA(米食品医薬品局)はこの動物実験の結果を受けサッカリンを禁止したのだった,
サッカリンは 蔗糖の500倍の甘味をもち、体内に蓄積せずにそのまま尿中に排泄された.このことからダイエットとして重宝されていたのである.また微生物の成育を阻害しないことから,漬け物類の甘味料として広く使用されていた。 日本ではサッカリンを使用禁止にするかどうかが議論されたが結論はでなかった.そのため発ガン性は不明のまま,サッカリンの最大使用量が定められることになった.サッカリンは現在ではチューインガムのみに限定使用されている.
このようにチクロは日本では使用が禁止され,サッカリンは使用が制限されることになった.日本では1度禁止が決定すると変わることはほとんどない.しかし欧米ではいったん禁止されたチクロの発ガン性が認められないとする実験をうけ解禁になっている.またサッカリンについても同様に解禁されている.安全性を考慮すれば少しでも発ガン性の疑いのあるものは禁止するのが当然であるが,糖尿病や心臓疾患に悩む欧米は人工甘味料の害よりも糖分の少ない方が健康に良いと判断したのである.現在,欧米ではサッカリンは発ガン物質リストからはずされている.
しかし日本ではまだチクロは発ガン性があるとして使用禁止されたままである.中国や台湾ではチクロは認められており,そのため台湾や中毒からの食品にチクロが含まれていることから,業者が食品衛生法違反などの容疑で摘発される事件が起きている.
チクロ,サッカリン騒動に続き,厚生省はAF-2騒動に巻き込まれることになる.AF-2は日本だけが使用されている食品添加物で,ソーセージ,かまぼこ,豆腐,麺類などの防腐剤として昭和40年から使用されていた.AF2は殺菌作用が強い添加物で,九州大学で開発され上野製薬が製造,販売していた.このAF-2を使用している製造業者に皮膚炎,甲状腺異常者,喘息,精神障害などが多発しているとして有害説が唱えられていたのである.このAF-2の危険性を訴えた郡司篤孝は上野製薬から東京地検に告訴されたが,裁判では郡司篤孝は無罪となった.さらにAFー2の安全性を検査した国立大学医学部教授のデータが上野製薬の研究所でおこなったデータであること,AF-2を許可する食品衛生調査会委員の委員が上野製薬の監査役を兼任していることが判明.さらに東京医科歯科大学の実験でAF-2に強い変異原性があることが指摘され,また日本環境変異学会でもその毒性が問題になった.厚生省はこのような指摘にも関わらずAF-2の安全性をうたうパンフレットを食品業者に配り国民の不安を取り除こうとした.
しかし昭和49年に国立衛生研究所がAF-2の発ガン性を示す動物実験結果を公表したためAF-2は使用禁止となった。欧米では発ガン性の疑いからAFー2は使用されていない.日本人だけが発ガン性物質を9年間食べ続けたことになる.昭和49年8月22日,ソーセージ,かまぼこ,豆腐,麺類などの防腐剤として使われていたAF-2の全面使用禁止が決定した.
チクロ,サッカリン,AF-2などの食品添加物は,それ自身は食品として通常食べることはない.食品の製造過程や貯蔵のために添加されているもので,食品衛生法では食品添加物を「食品の製造過程で,あるいは加工,保存の目的で使用するもの」と定められている.食品添加物を含めた飲食物はすべてが食品衛生法によって使用が制限されている.
食品衛生法は昭和23年に初めて設定された法律で,食品に使用しても良い化学合成品60種類が法律で定められている.欧米では使用禁止の添加物を法律で定めているが,日本は使用可能な添加物を設定しており,その意味では日本の食品添加物に対する考えがもっとも進んでいる.その後,食品添加物の数が増え,現在では化学合成添加物が350種類,天然添加物1051種類が食品添加物として認められている.明記された添加物以外を使用することは法律で禁止されている.
食品添加物は人間が直接食べる為に作られた化学物質といえる.生産された食品添加物のすべてが国民の体内に入いると考えて間違いではない。そのため添加物は量が少なければ大丈夫という考えは成り立たない.体内に入る添加物の量を国内生産量から計算すると,日本人は1日平均10g,種類にして約60種類,1年では約4kgの添加物を食べていることになる.このように大量の添加物であるから,当然,安全性が問題になる.
たとえわずかな量であっても,安全性に問題があってはいけない.そのため食品添加物はその発癌性,催奇形性,アレルギー性などが検査され,厚生大臣が使用を許可することになっている.急性毒性試験,慢性毒性試験,発ガン試験,催奇形性試験,変異原性試験が行われ,食品衛生調査会によって安全性が評価されることになっている.
しかしこれらの試験は1種類の添加物だけについて行われる.しかし毎日60種類の加物を食べているのだから,それらの相互影響も考慮しなければいけない.多数の化学物質が,あるいは化学物質と食品が体内で一緒になった場合,どのような影響が出るのかを正確に調べることは不可能である。疑わしい化学物質は体内に入れないことが相乗毒性を防ぐもっとも良い方法である.また農薬,大気汚染,水質汚染物質などとの関係も考慮しなければいけない.
私たちの食べ物は、米、小麦、肉、魚などさまざまな材料を使って作られている。これらの材料はそれだけでも私たちの空腹を満たし栄養のある食料となる。ところが食品に味を付けるための食塩やコショウのような香辛料、醤油などの調味料などは、食品を作る上で重要ではあるが,それだけでは食品となり私たちの空腹を満たすことはでない。いわゆる食品添加物も同様に,食品を作ったり貯蔵するためには必要なのである。
日本では化学的に合成されたものは、食品添加物として使用することを原則的に禁止している.そして化学的合成品の中で安全性や有用性が検討され、厚生省が食品に使用してもよいと指定したものが合成添加物(一般に食品添加物)となる.これに対して天然物から取り出したものが天然添加物で,その中には発酵法などで作られたものも含まれている.
食品衛生法は食品添加物だけでなく多くの食品関係の元締めのような法律である.加工された食品の内容表示,飲食店の営業許可,食品加工業の営業許可および停止、食品添加物の国家検定、食品に使用する器具・包装の規制、中毒に関する届出・調査・報告、幼児の使用するおもちゃの規制、保健所での監視業務、ならびに検査のための食品衛生監視員による食品の強制収去など多岐にわたり食品衛生法で規定されている.
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アポロ11号病(昭和45年)
昭和44年7月20日,アポロ11号から発進した月着陸船イーグルが月面に着陸した.そして人類が初めて月面の「静の海」に降り立ったのである.アームストロング船長は月面の「静の海」に左足を踏み出し,「1人の人間にとっては小さな1歩だが,人類にとっては偉大な飛躍である」と有名な言葉を残し多くの人々を感動させた.その19分後にオルドリン飛行士も月面に降り立ち,月面に観測装置を設置し,写真撮影を行い,採取した21.7 kgの月の石を持ち帰った.合計2時間20分の月面活動であった.
月面着陸の様子はテレビで実況中継され,6億人の人々がテレビを見つめこの快挙に歓声をあげた.この月面着陸は日本時間では月曜日の21日午前11時56分であったがテレビの視聴率は62%を記録した.人類が月面に立ち,世界中の多くの人々がこの快挙に歓声をあげた.そして無事帰還したことはワクワクするような新たな技術革新の時代の始まりを予感させた.
アポロ11号が月面着陸に成功したちょうど同じ頃,西アフリカのガーナで急性出血性結膜炎が突如として大流行した.この伝染病はガーナの首都アクラに近いヌングアから流行しアクラ市内に広がっていった.アクラ大学医学部付属コレブー病院眼科に第1号患者が現れたのは昭和44年6月25日だった.それまで眼科を受診する外来患者数は20人程度であったが,8月になると急増し8月18日には770人,25日には1115人となった.そして年末までに患者数は2万人に達したのである.このはやり目の流行は異様なことであった.そしてこの新しい伝染病はインフルエンザに匹敵するスピードで世界各地に広がっていった.ガーナのアクラ大学付属コレブー病院はかつて野口英夫が黄熱病の研究を行っていた場所である.この地に現れた新型の「はやり目」は何万人という単位で流行し,2年間で世界を蔓延した.昭和45年には,日本にも上陸し各地で集団発生した。
ちょうどアポロ11号の月面着陸という世紀の大ニュースがあったので,急性出血性結膜炎は月からもち帰った病原体が原因でないかと噂された.また現地の人は月の神が人類の暴挙に怒り地球に新しい病原体を送り込んだと信じこんだ.そして急性出血性結膜炎はいつしかアポロ11病という別名がつけられた.この噂は無理からぬ話ではなかった.月には生物がいるかもしれないと議論されていた時期である.実際,アポロの宇宙飛行士が月から帰ってきたとき、飛行士は1週間近く隔離された.月や宇宙から有害な未知のバクテリアやウイルスを持ち込む可能性があったからである.月から持ち帰ったものすべてと宇宙飛行士を隔離し徹底的に詳しく調査されたが,もちろん月の石などからも有害物質,生物は発見されなかった.
急性出血性結膜炎の原因はエンテロウイルス70型とコクサッキーA24の変異株の2つのウイルスによって引き起こされる感染症である.同じ病原性を持ったウイルスが時期を同じくして人類の前に出現した理由は今もって謎である.エンテロウイルス70型は,昭和46年に国立予防衛生研究所ウイルス中央検査部長・甲野禮作と山崎修道先生が北海道で分離した株から世界で初めて分離したウイルスであった.大部分のエンテロウイルスは,最初は消化管に感染するのが通常であるが,この2つのウイルスの感染部位はもっぱら結膜であった.このウイルスは他のウイルスと違い33度という温度の低い場所で繁殖した.このことが消化管には感染せず温度の低い結膜に感染しやすいことを意味していた.
急性出血性結膜炎の潜伏期は1日から2日で,初発症状は突然目にごみが入った時のような激しく痛みで,めやにが出て涙が出てまぶたがはれた.そして結膜の出血のため白目が真っ赤になるのが特徴であった.白目が真っ赤になるので患者や家族は驚くが,ほとんどは特別な治療を必要とせず1から2週間で自然に治癒する.非常にまれであるが結膜炎が治る頃に手足にポリオ様の運動麻痺をおこすことがある.
感染するのは小学校高学年の児童から成人で,乳幼児では軽症の場合が多い.ウイルス性疾患であるので,流行時には眼科の医院,学校の集団検診などで感染する危険性が高い.感染力が強いため眼科医は患者の目を触らずに結膜の出血の具合で診断した.感染予防のためにはタオルや洗面器などを別にする,同じ目薬を使わないことである.手指をつねに清潔にしておくのが予防の第一である.
このように世界中に流行した急性出血性結膜炎であるが,ウイルスの性質が変わったせいなのか,最近ではまれな疾患となっている.なぜ突然地球に現れ,突然去っていったのか謎である.
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うそつき食品(昭和42年)
現在では原料や材料を偽って食品を売ることは固く禁じられている.しかし昭和41年ごろは「うそつき食品」が堂々と店頭に並んでいた.豚肉と称してウサギの肉が売られ,鯨肉なのに牛肉のラベルを張った缶詰,さらには馬肉入りのコンビーフなどが堂々と高い値段で売られていた.また人工甘味料の入ったジュースを天然ジュースと偽り,乳分が少ないのにコーヒー牛乳と表示し,サッカリンで味付けしているのに全糖と表示した缶詰などが販売されていた.その当時販売されていた100種類のジュースを検査した結果,表示通り100%天然ジュースだったのはたった3種類だったと記録されている.
その他,クリの入っていないクリようかん,バターの入っていないバタービスケット,わさびの入っていない粉わさび,このように数え切れないほどのまがい物が作られていた.さらに花かつおと称してイワシやサバを用いたり,片栗粉の原料にトウモロコシの粉を用いたり,天然醸造酢と称して化学薬品を薄めた食品などが店頭に並んでいた.また植物油や大豆タンパクをまぜたチーズまでも売られていた.さらにカジキマグロを買って食べた者が下痢をおこし,調べてみたら油の質の悪いバラムツだったという悪質なものもあった.
うそつき食品に対する消費者の怒りや苦情が相次ぎ,消費者を惑わすうそつき食品はマスコミに大きく取り上げられることになった.うそつき食品は社会問題となり,当時の佐藤首相はうそつき食品を取り締まるために経済企画庁を中心に対策を講じさせた.多くのまがい物が出回ったため,商品の品質についての消費者の目が厳しくなった.さらに食肉の変色防止のため、挽き肉などにニコチン酸を不正に添加し新鮮肉と見せかける事件が発覚し,消費者からの批判が集中した。
このようにうそつき食品が横行するなか,ポッカレモン事件が起きた.
昭和30年代は生活が豊かになり,欧米の生活を思わせるレモンがブームになった.しかしレモンの値段は輸入が制限されていたため庶民の手に届かないほど高価であった.大卒初任給が1万円以下の時代にレモン1個の値段が200円で,カクテルにレモンを入れて飲むことが高級な生活を想像させた.このような時代にビン詰めのポッカレモンが発売され,爆発的に売れた.「ポッカといえばレモン」というほどで,どの家庭にもポッカレモンが置いてあった.ポッカレモンはこのように身近な存在であったが,このポッカレモンが取り締まりを受けたのである.
昭和42年5月11日,不当表示を出していたとしてポッカレモンに排除命令がだされた.ポッカレモンは合成ジュースを天然ジュースと偽って販売していたのである.この事件は公正取引委員会が無果汁飲料の表示基準を決めるきっかけをつくった. ポッカレモンはこの事件で売り上げを急減させたが,昭和46年に100%レモン果汁による「ポッカ100レモン」を発売し復活をとげた.なおレモンに関し公正取引委員会が摘発したのはポッカレモンだけでなく,消費者への影響の大きい森永製菓,東食,明治屋,ヤンズ通商,サントリーの6社だった.
うそつき食費品と似たものにコピー食品がある.コピー食品とは本物に似せて作られた模造食品を意味する言葉である.コピー食品の元祖は江戸時代からある「がんもどき」である.「がんもどき」は漢字で「雁擬き」と書くように,がん(雁)の肉に似た味として作られた油揚げが「がんもどき」である.コピー食品はこのように古くから日本にあり,それらは寺院での精進料理の中に見出すことができる.昭和40年ころから工場で作られたコピー食品が次々と出回るようになった.また最初はコピー食品であっても.バターに対するマーガリンのように代用食品として一定の地位を築きあげるものもあった.
コピー食品で注意が必要なのは本物と偽物の区別がつかないことで,その代表例を次に示す.
天然のイクラはサケ・マスの卵であるが,コピー食品のイクラは天然色素で着色したサラダ油と海藻エキスから出来ている.このサラダオイルを乳酸カルシウム液に落とすと,化学反応によりイクラそっくりの形になる.これに食品添加物で味をつけたのがイクラのコピー食品である.コピー食品は本物に比べ皮がやや堅いという特徴があるが外観から見分けることは難しい.見分けるためにはお湯を注いでみればよい.本物のイクラはたんぱく質が多いため白濁するが,コピー食品はサラダオイルが主成分のため白濁はしない.本物のイクラは高コレステロール食品であるがコピー食品はヘルシーな健康食品といえる.かつてはイクラのコピー食品が店頭に数多く出回っていたが,最近は本物のイクラの値段が安くなったためイクラのコピー食品は姿を消している.イクラのコピー食品は芸術品,あるいはハイテク工業製品といえる.
次に世界三大珍味のひとつであるキャビアを挙げることができる.本物のキャビアはチョウザメの卵であるが,キャビアのコピー食品はランプフィッシュの卵を着色剤で黒く着色したもので,世界的な規模で流通している.缶の裏には「キャビア(ランプフィッシュ卵)」と書かれている.本物のキャビアは高価な食品であるが,安い値段のキャビアはほとんどがこのコピー食品である.ちなみに本物のキャビアは「純正キャビア」と書かれている.ニセモノは黒く着色されているので,パンなどに塗るとうっすらと黒い色がパンにつくことで判別することができる.
チューブ入りわさびの原材料名をみると「西洋わさび」と書かれているが,西洋わさびとは「わさび大根」のことである.もちろん西洋人はわさびを食さないから,西洋ではわさびを栽培していない.西洋わさびはホース・ラディッシュという大根のことで,この大根に合成からし粉,でんぷん,着色料,ガムが混ぜられ作られている.本わさび使用などと書かれているが,これは本物のわさびを数%混ぜたもので,本わさびだけを使用されているわけではない.
シメジの名前で「ヒラタケ」という全くの別種のキノコが売られている.また「フナシメジ」が「本しめじ」の名前で売られている.本しめじはシメジではないのでややこしい.
その他,スケソウダラを加工したイカ,シシャモを加工したカズノコ,蟹の足に似せたかまぼこ,牛の横隔膜を固めて加工したステーキなどがある.
コピー食品を日本人が見分けられることがどうかであるが,困難とする実験が示されている.コピー食品が作られた背景には,本物は量が少なく値段が高いからである.そのため値段によって,コピー食品を本物を区別するのが最も確かな方法である.日本人の味覚がいかに危ういものであるかが分かる.
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医師国家試験ボイコット(昭和42年)
昭和42年3月12日,青年医師連合(36大学,2400人が参加)はインターン制度の完全廃止,医局の改善を要求して第42回医師国家試験をボイコットした.ボイコットした受験者は全体の87%に達し,医師国家試験を受験したのは全体のわずか13%,404人であった.各地の試験場では学生やインターン生によるピケやデモがおこなわれ8人が逮捕された.
全国46の医科系大学のうち全員が受験の方針をとったのは,千葉大学,東京女子医大,昭和医大の3校だけで,千葉大学はいったん試験場に入りながら56人が一斉に会場から退場した.青年医師連合が試験会場前に集結し,受験を阻止する行動をとったため,試験会場には機動隊が動員され,装甲車が並ぶものものしい雰囲気につつまれた.国家試験・東京会場では学生400人が試験会場周辺でデモ行進をおこない機動隊と衝突,医学連委員長・木下信一郎ら7人が公安条例違反で逮捕された.大阪会場でも学生ら400人が会場の入り口にバリケードをつくり府警機動隊と衝突した.さらに札幌会場では50人がピケをはり機動隊と衝突,1人が公務執行妨害で逮捕された.
このように全国の医学部の卒業生が医師国家試験をボイコットしたのはインターン制度の改善が目的であった.インターン制度は昭和20年の敗戦によってGHQの指令により導入された研修医制度であった.戦後,日本の社会は進駐軍のもとであらゆる方面で民主化がおこなわれ,医学教育においても進駐軍の指導によりインターン制度が導入されたのである.インターン制度とは医学部を卒業した者は1年間病院で働き,その後に医師国家試験を受けるという制度である.戦勝国であるアメリカの医療制度を一部分取り入れた研修医制度であった.
この研修医制度の名前はアメリカと同じインターン制度であるが,その内容はすべての面でアメリカのインターン制度とは異なっていた.教育のカリキュラムは無いに等しく,また研修を裏付ける予算もなかった.
インターンの1年間は身分の保証はなく,医学士ではあるが医師でも学生でもないという中間的存在であった.また医師としての給与は支払われず経済的保証がなかった.いわゆるタダ働きの状態で,研修という名による強制医療労働であった.1年間各科を回りながら臨床を学び,その研修を参考にして自分にあった科を選択できるという利点はあったが,インターン生として配属された教育指定病院では,教育体制や指導者が整っていないところが大部分で,職員のいやがる便や尿の検査ばかりを押しつけられていた.
不安定な身分や処遇に対するインターン生の不満は大きく,昭和41年ごろからインターン制度に反対する医学生の運動が全国的に拡がっていった.インターン制度を変えるためには,インターンが終了しても医師国家試験を受けない.この実力行使は非常に明確な戦術であり,また大部分の受験者が医師国家試験をボイコットしたことは成功といえる.
当時は医師不足が深刻な社会問題になっていた.医師国家試験のボイコットは医師不足をさらに深刻化させるとして厚生省をあわてさせた.厚生省はなんとか国家試験を受けるように方策をねるが通用せず,うろたえるばかりであった.
無給で医師を使えるインターン制度は政府にとって都合の良いものであった.しかしインターン制度はあまりに医師の使命感に頼りすぎた現実離れした制度だった.アメリカのインターン制度は,給料も支給され教育体制もきちんと整っていたので,横須賀などの米軍病院でインターンを希望する者が多かった.なおインターンとは内にいる者,つまり住み込み医制度を意味する言葉である.
インターン制度に代わる臨床研修医制度をどのようにするかについて混乱の時期が続いたが,このインターン制度の混乱が昭和42年の東大医学部における卒業試験ボイコットを引き起こし,さらに東大紛争の導火線となり,結局,昭和43年に廃止されることになる.以後,2年間の卒後臨床研修が努力規定として医師法に明記され,新たな臨床研修医制度ができることになった.この新たな臨床研修医制度は大学卒業と同時に国家試験を受け,医師免許を得たのちに指定研修病院で2年間研修する制度である.しかしこの研修医制度は2年間研修することが望ましいという規定になっており強制的な制度ではなかった.そしてこの制度も平成16年から卒後臨床研修が義務化され,新しい研修制度に移行している.
インターン制度の発症の地であるアメリカでは,医学校を卒業した学生は国家試験を受け,その後に1年から2年の研修を終え,次に専門的な研修を行うレジデント(病棟医)コースを数年送ることになっている.そして専門医試験を受けて専門医になるのが一般的である。日本の研修医制度は形の上ではアメリカの研修医制度と似ているが,給料面,教育面においてははるかにおとっていた.
フランスではインターンはアンテルヌと呼ばれている.平成12年4月にこのアンテルヌ(研修医)による一斉ストがフランスで行われた.週60時間以上という過酷な労働条件,さらに約12万円の安月給の改善を求めてストを行ったのである.このストは労働条件の改善と月給の上乗せをフランス政府が約束したことで解決した.医療制度を安くしようとする政府の考えと,それに反発する研修医の闘争は日本だけの古い話ではないのである.
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高カロリー輸液(昭和42年)
医療において輸液という手段がなかったら,経口摂取のできない患者は脱水から腎不全を引き起こし,死を待つだけとなる.この輸液が最初に行われたのは,1832年,アイルランドの医師ラッタが瀕死のコレラ患者15人に生理食塩水を静脈に注射して5人の命を助けたことであった.しかしこの方法は学会で疑問視されたため普及せず,それから80年後に英国の病理学者ロジャースがインドのカルカッタでコレラ患者に輸液療法を行い,患者の死亡率を下げることに成功し,やっと輸液は一般的治療法となった.
点滴は下痢による脱水の治療に著効を示した.特に小児の下痢には効果が大きかった.20世紀になると電解質に関する代謝学が進歩し,細胞内液,細胞外液という電解質の概念が確立し,輸液は普及するようになった.
輸液の種類は輸液に含まれる電解質により細胞内の脱水を補充するもの,出血などによる血管内の脱水を補充するもの,さらには特殊な薬剤を注入するものなどと用途は広がっていった.
点滴による輸液は一般的治療となったが,電解質と水分の補給が主であり栄養状態を改善させるまでには至らなかった.点滴は肉眼で見ることのできる四肢の皮下静脈に刺すことになるが,この抹消血管の点滴では水分と電解質の補給のみであった.点滴のカロリー(糖分)を高くすると,末梢血管は炎症をおこして壊死をきたすのであった.そのため栄養分の少ない低カロリーの輸液しか注入できなかった.
人間が生きてゆくには栄養が必要であり,通常の場合,毎日2000カロリーが必要とされている.しかし,末梢静脈から5%のブドウ糖を含んだ点滴を1500リットル注入しても300カロリーにしかならない.注入できる点滴量には限界があるため,栄養補給の問題は解決できなかった.重症患者にとって低栄養状態が続けば創傷の治癒は遅く,また感染を受けやすく,最終的には栄養不良から衰弱死をきたすことになる.末梢静脈からの輸液では栄養補給という壁を乗る超えることができなかった.
この栄養の問題を解決したのが高カロリー輸液である.昭和42年,アメリカのダドリック博士が中心となり,身体の深部にある太い静脈に直接チューブを入れ点滴をするという画期的な方法が考案されたのである.ダドリック博士は高濃度のブドウ糖とアミノ酸の混合液を子犬の太い血管に入れ,点滴だけで子犬の成長を可能にしたのである.
人間では心臓の近くにある鎖骨下静脈,あるいは足の付け根の太い静脈などに直接カテーテルを挿入をする方法によってこの栄養の問題を解決したのである.太い静脈は,血管が丈夫なこと,血液の流量が速いことから,高濃度ブドウ糖液を滴下しても静脈は損傷をきたさないのであった.つまり経口摂取が不可能であっても,食事と同じカロリーを得ることができた.理論的には,食事ができなくても衰弱せずに点滴だけで生きてゆけるようになった.
この中心静脈点滴法は,チューブの先端が心臓の近くに位置するため,心臓の内圧を測定できるという利点があった.重症患者の治療にあたる場合,その患者が脱水状態なのか,あるいは水分が心臓に負担をかけている心不全状態なのかで,輸液量はまったく逆となる.この判断に迷う場合,中心静脈の圧を測定すればどちらの病態であるのかが分かるという大きな利点があった.
病院に行くと胸や首から点滴をしている患者さんを多くみることができる.これらが高カロリーの点滴である.消化管の手術で食事の取れない患者,重症で食事の取れない患者,彼らはこの高カロリーの点滴の恩恵を受けている.まさに高カロリー点滴は医療そのものを大きく変えたといえる.
日本で高カロリーの点滴が一般的に普及したのは,昭和55年頃からで,この点滴法は医師であれば基本的手技として誰もが習得している.このように高カロリーの点滴の利点は非常に大きいが,その手技には常に危険性も伴っている.
まず肉眼では見えない皮膚の深部の太い血管に解剖学的知識のみで注射針を挿入する.そのため失敗することが多い.末梢の血管であればたとえ点滴に失敗しても合併症は少ないが,高カロリーの点滴は太い血管に刺すので,平行して走る動脈を刺したり,肺を傷つけたりする場合がある.このような合併症は生命に結びつくことがあるので,患者から点滴の承諾書を得てから行う傾向にある.動脈や静脈の走行は個人差があるので,たとえ熟練した医師でも100%成功するわけではない.高カロリーの点滴が普及すれにつれ,さらなる問題が生じている.点滴部は長期間固定されるため,その部位からの感染が問題になっている.
かつての点滴にはビタミン剤が混注されていた.しかしこれがビタミン剤の乱用と非難され,平成4年の診療報酬改定で,食事ができる患者さんの点滴ではビタミン剤の混注が禁じられた.そのため食事の取れない高カロリー輸液を受けている患者の場合もビタミン混注は病院の儲けにならないと誤解され,全国の病院からビタミンが一斉に引き上げられた.その結果,高カロリー輸液を受けている患者さんにビタミンB1が不足しウェルニッケ脳症をおこす例が出るようになった.
ビタミンB1が欠乏して末梢神経が冒されれば脚気であるが,点滴では中枢神経が冒されウェルニッケ脳症を引き起こした.一般的に3週間ビタミンB1をとらないと,体内のビタミンB1が欠乏してウェルニッケ脳症となる可能性が高くなるとされている.脳の脚気と呼ばれるウェルニッケ脳症の死亡率は1から2割であり,助かっても,意識障害,健忘,歩行障害,人格障害を残す.特に問題となるのは前向健忘症で,前向健忘症とは病気になる前の記憶は残るものの,発症後の記憶が定着しないという障害である.つまり朝に食事を取ったのかどうか,風呂に入ったのかどうか,ついさっきの記憶が抜けてしまうのであった.
このことは平成7年4月に警告が出されたが,その後も続出し,京大病院(平成7年),東大医科研病院(平成8年)でもウェルニッケ脳症が訴訟問題となっている.高カロリーの点滴は食事の取れない患者に行われるため,特に老人の場合はウェルニッケ脳症と診断されず,老人ボケ,老衰などと診断され死亡した患者が多いものと予想される.このように一流病院でも死亡例が報告されていることから,高カロリー輸液施行中には必ずビタミンB1を投与することが必要である.
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さつま揚げによるサルモネラ食中毒(昭和43年)
昭和43年6月5日の夕方に会食した13人が食中毒様症状を起こしているという通報が宮城県若柳保健所(現在,栗原保健所)に入った.さらに6月8日には岩手県北上保健所から食中毒患者30人が発生したとの連絡があった.
この食中毒事件は宮城県の2市10町1村で231人が発症し,岩手県では2市6町3村で377人が発症,4人の死亡者を出すという大規模な食中毒事件となった.中毒者608人の半数以上は女性であったが,これは岩手県内の女子寮の給食で59人が発生したこと,さらに田植慰労会などの会食に女性が多かったためである.
発症までの潜伏期間は18から24時間で,症状としては水溶性の下痢症状が95%,発熱と腹痛が90%に認められ,その他に嘔気、頭痛などの症状を示した。会食者の発病率は宮城県で55%,岩手県では92%であった。岩手県で発症率が高かったのは,原因となったさつま揚げの製造から摂食までの時間が長かったために,菌の増殖が大きかったと考えられた。
宮城県内の患者から採取した59人の便中45人より サルモネラ・エンテリティディスが検出された。さらに食べ残しや小売店より回収した「さつま揚げ」からも同じサルモネラが検出された.
6月8日,対策本部が設置され関係機関への連絡や報道機関へ公表がなされた。原因食品とされたのは塩釜市の製造業者した「さつま揚げ」で,行政指導により製造中止,残品回収の通知が出された.
原因となったさつま揚げを検査したところ,さつま揚げの表面よりも中心部でサルモネラ菌が多く検出された.このことは油揚の前段階で菌に汚染され,油で揚げても中心部にサルモネラ菌が生残ることを示していた.工場内の容器からもサルモネ菌が検出され,工場内で捕獲したネズミからもサルモネラ菌が分離された.
当時はネズミによるサルモネラによる食中毒が流行していた.製品工場がネズミ防御を怠ったため,大規模な食中毒の発生となったのである.製造課程でサルモネラが混入し,加熱によっても殺菌できず,生き残ったサルモネラが増殖し,広範囲に食中毒が発生したのだった.この食中毒事件はネズミ駆除の重要性,製造過程における加熱条件の不備,流通における保存温度などが問題となった.今回の食中毒事件は食品流通の拡大により複数の県にわたって広範囲に発生したことが特徴であった.この食中毒事件以降,魚肉ねり製品工場の行政指導が強化され大規模な食中毒は発生していない。
日本における最大のサルモネラ食中毒事件は,昭和11年におきた静岡県浜松市の浜松第1中学校の大福餅食中毒事件である.運動会で出された大福餅のあんこがサルモネラ菌に汚染され,それを食べた生徒,職員,家族が犠牲となり,患者数2201人,死亡者44人という大規模な食中毒事件となった.原因となったのは9000個の大福餅のあんこだった.運動会にだされた9000個の大福餅用のあんこは運動会の4日前から製造されており,保管場所がないため床に置かれていた.このあんこがネズミの尿により汚染されサルモネラ菌が増殖したものと考えられた.
これらの例が示すように,かつてのサルモネラ菌による食中毒はネズミの尿が原因であった.しかし昭和40年後半からサルモネラ菌による食中毒の原因は,サルモネラ菌に汚染された鶏卵による中毒が多くなってきた.
サルモネラ菌はヒトや動物の腸管内に生息し、食物や水を介して、またヒトからヒトに感染する。サルモネラ菌は,かつては腸チフスの原因菌として有名だったが,平成元年ころからサルモネラ・エンテリティディスによる食中毒が急増している.サルモネラには約2000種の仲間があり,サルモネラ・エンテリティディスはその一種で,サルモネラによる食中毒の90%以上を示している.平成4年には腸炎ビブリオと黄色ブドウ球菌を抜いてサルモネラ食中毒が発生件数および患者数ともに1位になった。サルモネラ食中毒は全食中毒件数の33.5%を占め、患者数では食中毒の患者数の42.2%を占めている.
サルモネラ食中毒は学校,旅館,飲食店などで集団発生する場合と,家庭などで散発的に発生する場合がある。サルモネラ菌が食中毒をおこす菌数は,個人差が大きいが1グラム中10,000個とされている.特にチーズやチョコレートなどによる事例では発症菌数が少ないことも認められている.このことは食品中の脂質が胃酸から菌を保護する作用を示している.
昭和62年頃から世界各国で鶏卵によるサルモネラ食中毒が多発し,特にアメリカでは平成6年に汚染されたアイスクリームで22万人の集団食中毒が起きている.日本では平成元年にサルモネラ食中毒が多発し,例年の2倍近くにまで増加した。原因食品の多くはタマコとタマゴ料理で,原因食品としては,洋菓子,卵入り丼,焼き物,揚げ物,アイスクリーム,マヨネーズの順であった.
鶏卵がサルモネラ菌に汚染されるのは,産卵時にすでに汚染されている場合と,ニワトリの糞便に付着したサルモネラ菌が卵殻を通過して卵内に侵入する場合がある.サルモネラ菌に感染しているタマゴは1万個につき2から3個で,サルモネラ菌に感染しているニワトリが生むタマゴの約2%から菌が検出される.
サルモネラ菌に感染しているタマゴには平均で2個のサルモレラ菌が存在する.このように最初は数個のサルモネラ菌であるが,保存状態によってサルモネラ菌は20分で倍の増殖を示すことから食中毒を起こす.つまり常温で保存することは危険性が高いことを示している.サルモネラ食中毒の予防は,サルモネラ菌は乾燥と低温に弱いことから,卵は冷蔵庫に保存し1週間以内に使い切ること.購入時にはきれいなタマゴを選び,ヒビ割れのない,新鮮なものを選ぶことである.卵を割って平らな皿の上に置いた時、古い卵ほど黄身は平らになり白身は薄くなることを知っていると便利である.またサルモネラは十分に加熱すれば死滅するので,ゆで卵なら沸騰後7分以上おくとよい.また酸にも弱いのでマヨネーズを作る時は酢を多くすることである.さらに他の食品に菌が移るのを防ぐため,肉や卵に触れた手やまな板などを必ず洗うことである.
サルモネラに限らず下痢などを引き起こす食中毒で怖いのは脱水症状である.輸液などの治療を適切に行えば生命にかかわることはほとんどない.
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カネミ油症事件(昭和43年)
カネミ油症事件はPCB(ポリ塩化ビフェニール)による日本最大の食品中毒事件である.昭和43年の3月から10月にかけて,北九州市のカネミ倉庫が製造したカネミ・ライスオイルの製造過程で加熱用のパイプからPCBが混入,このPCBの混入によって大規模な中毒事件が引き起こされた.
カネミ・ライスオイルとはカネミ倉庫が製造した米ぬか油の商品名で,天ぷらやトンカツなどの揚げ物などに用いられていた.またライスオイルはコレステロールを減少させる効果があり,口当たりが軽く風味が良いと宣伝されたため,身体によいだろうとライスオイルを直接飲む者がいた.カネミ・ライスオイルは台所で静かなブームをつくっていた.
このPCBに汚染されたライスオイルが,目をそむけたくなるような皮膚病変を引き起こした.黒い吹き出物,かゆみ,全身倦怠感,腰痛などの難治性の症状を示し,さらには多数の死者をだす結果になった.被害者は1都2府8県で1万4320人,死亡者50人に達する大惨事となった.
このカネミ油症事件に言及する前に,この事件の直前に起きた「ダーク油事件」について解説が必要である.もしダーク油事件の原因をきちんと究明していれば,カネミ油症事件の悲劇は防止できたからである.ダーク油事件とはニワトリに発生したカネミ油症事件であった.
ダーク油事件は,昭和43年2月ごろから西日本一帯で発生した.ブロイラーで飼育されていたニワトリが肺水腫などの呼吸困難で次々に死んでいった事件で,罹病したニワトリは70万羽,死んだニワトリの数は少なくても20万羽以上とされている.このニワトリの大量の死について,当初は新種の伝染病が疑われていた.しかし死亡したニワトリの解剖から家畜保健衛生所はその死因を中毒死と報告したのである.そしてニワトリの餌である配合飼料が中毒の原因と推測した.
ニワトリに与えられていた配合飼料は2種類で,2種類とも北九州市のカネミ倉庫が製造したダーク油を使用したものであった.この疑惑から,残されていた配合飼料とダーク油をニワトリに与える実験をおこなわれ,その結果,大量に死亡したニワトリとまったく同じ症状を示しニワトリが死亡したのである.この実験によりニワトリの大量死亡事件はダーク油が原因であることが明確となった.
ダーク油とは米ぬか油を精製する過程で生じる脂肪酸が混じった不純物で,色が黒いことからダーク油と名づけられていた.この「ダーク油事件」によってカネミ倉庫の本社工場は農林省の立ち入り調査を受けることになった.農林省は提出されたカネミ倉庫のダーク油を分析したが,ニワトリを大量に死亡させた原因を突き止めることができなかった.そのため,カネミ倉庫は自社製品が原因と明確に認めずに,製造の過程で何らかの理由でダーク油が変質したことが原因であろうということで落着することになった.農林省は被害を受けたのがニワトリであって,人間とは無関係の事件ととしてそれ以上の調査をしなかった.
カネミ倉庫はダーク油だけでなく,同じ製造過程で食用のカネミ・ライスオイルも作っていた.ダーク油事件が米ぬか油の変質が原因だったとしても,同じ製造過程で作られているカネミ・ライスオイルの品質を調べるのが当然のことであろう.しかしその点検を見過ごしてしまったことが悲劇を作ってしまった.農林省はカネミ倉庫に対し品質の管理を十分におこなうことを命じただけであった.
このダーク油事件の原因解明がおこなわれていた同じ時期に,福岡や長崎を中心とした北九州で顔や臀部分などに黒いニキビのような吹き出物(後に塩素座瘡と診断)を示す患者が病院を受診するようになった.それは目をそむけたくなるような症状で,まるで四谷怪談のお岩さんのようであった.患者は皮膚症状だけでなく,身体のしびれや倦怠感を強く訴えたが,皮膚症状が目立ったため皮膚科を受診する患者がほとんどであった.しかしこの奇病に対する病院の反応は鈍かった.病院側はこの奇妙な病気の原因が分からないまま,またこの奇病が家族内発症を特徴としているにもかかわらず集団中毒事件とは考えなかったのである.九州大学病院皮膚科には4家族が受診していたが,半年近くも漫然と診察するばかりであった.
この患者たちに共通していたのはカネミ倉庫が製造販売している米ぬか油を使用していたことである.そのことを最初に気づいたのは病院での患者どうしの会話からであった.福岡県大牟田市に住む九州電力社員の患者(42)が家庭で使用していたカネミ・ライスオイルを九大付属病院に持ち込み,ライスオイルの毒物分析を依頼した.しかしライスオイルの分析はなされずに時間だけが経過していった.九大付属病院をはじめとした多くの医療機関は漫然と患者を診察するばかりで対策を立てようとしなかった.
ニワトリの「ダーク油事件」は,昭和43年4月にダーク油の出荷が停止されたことから発症はくい止められた.しかし人間が被害者となったカネミ・ライスオイル中毒は原因不明のまま半年も販売され被害者はひろがっていった.
九州電力社員の患者は九州大学の対応にしびれをきらし,昭和43年10月4日,奇病が集団発生していることを保健所に訴えた.そしてライスオイルの分析を保健所に依頼した.九州電力社員の訴えから1週間後にこの奇病が世間の注目を浴びるようになった.それは朝日新聞の記事がきっかけであった.
昭和43年10月10日の夕刊の記事で,福岡市に住む朝日新聞の記者がこの奇病を報道したのである.この報道のきっかけを作ったのは保健所でも大学でもなかった.記者の妻の友人がこの奇病に罹患して苦しんでいることを知ったからである.そして取材によって同じような患者が九州大学病院皮膚科に大勢受診していることを知ったのだった.この朝日新聞の報道によって被害者たちは自分だけが被害を受けたのではなく,他に多くの被害者がいることを知った.そして翌日の朝刊では,この事件に先だって発生したダーク油事件との関連性について報道した.この朝日新聞の記事がきっかけとなり,連日のように新聞やテレビでこの奇病が報道されるようになった.
新聞で奇病が報道された翌日の10月10日,福岡県衛生部の職員4人が九州大学医学部皮膚科を訪れ,患者の状況について聞き取り調査を開始した.そしてカネミ・ライスオイルの使用を中止すると症状が消退することを知った.もし九州大学医学部皮膚科がこの事実を保健所に報告し,広く注意を喚起していればこの事件の被害者は最小限に止まっていたはずである.このため九州大学は世間から非難を受けることになった.九州大学医学部皮膚科は学会発表のためにデータ収集と原因分析を優先させ,ライスオイルが原因と知りながら公表しなかったとされている.
福岡県衛生部は聞き取り調査を行い,カネミ倉庫に対し原因がはっきりするまで自主的に販売を中止するように勧告した.しかしカネミ倉庫は県衛生部の勧告にも関わらず,自社の製品が奇病の原因ではないと主張し,問題の油は偽物であり販売を停止する予定はないと発表した.カネミ倉庫は県衛生部の勧告を受け入れようとしなかったため,福岡県は食品衛生法にもとづき10月10日から1ヶ月の営業停止を通告した.カネミ倉庫は従業員約400人,西日本最大の食用油のメーカーであった.
事件が表面化した段階で,九州大学医学部皮膚科はそのずさんな対応について患者やマスコミから多くの非難を受けた.しかし集団発生が明確になると,九州大学は大学を挙げて原因究明に取り組むことになる.事件が表面化した4日後の昭和43年10月14日には,九州大学病は勝木司馬之助・九州大学病院長を班長とする「油症研究班」が結成された.この油症研究班には九州大学だけでなく久留米大学からも臨床,化学分析,疫学の専門家が集まり原因解明に全力をあげることになった.原因物質としては「皮膚と末梢神経系をおかす毒物」が推定され,有機塩素,リン,ヒ素などがリストにのぼった.当初は米ぬかの原料に農薬が混入したのではないかと予測されていた.
カネミ倉庫は今回の事件に関し自社製品の関与を認めず,非協力的な姿勢をつらぬいた.カネミ倉庫の加藤三之輔社長は「わが社の社員,家族,2000人の中から病人は出ていない,問題の油は偽物ではないか」とのコメントを出し,販売を止めるつもりのないことを強調した.
久留米大公衆衛生学教授は問題の米ぬか油から大量のヒ素が検出されたと発表した.大量のヒ素事件となれば,山口県下で起きたヒ素入りしょうゆ事件,森永粉ミルク事件の記憶がまだ人々の記憶に残されていた.しかし九大の油症研究班の分析ではヒ素が見つからず,このヒ素原因説はしだいに後退していった.
また疫学調査では患者に性差はなく,どの年齢層にも患者が分布しており、顕著な家族性をもっており,何らかの要因がその家族に作用したと考えられた。福岡県内の患者すべてがライスオイルを摂取しており,しかも昭和43年2月5日と 6日に出荷されたライスオイルに限定していた.この両日に出荷されたライスオイルを摂取して発症した者は81%で,違う日に出荷されたライスオイルを使用した者には患者の発生はなかった.
10月22日,高知県衛生研究所がカネミ倉庫の米ぬか油をガスクロマトグラフィーで分析し,米ぬか油から有機塩素物質を検出したと発表した.この有機塩素物質の報告は重要視されたが,どのような種類の有機塩素物質であるかは不明であった.そして10月29日になってカネミ倉庫製油工場の立ち入り検査が行われ,油症研究班はその時に持ち帰ったサンプルから塩化ビフェニール(PCB)を検出したのである.
カネミ倉庫製油工場では鐘淵化学工業のPCB(カネクロール)を脱臭目的で使用していたのだった.そして11月4日,勝木司馬之助・油症研究班班長はカネミ油症の原因は米ぬか油に含まれていたPCBであると正式に発表した. 当初はその主成分であるPCBが油症原因物質であると考えられていた。
PCBがなぜ米ぬか油に混入したのかが問題になった.PCBは米ぬか油の脱臭のために熱媒体として使用されていたが,PCBはパイプを挟んで米ぬか油に接しているだけであった.PCBはパイプの中を通るだけで,タンクの米ぬか油とは本来混入するはずはなかった.そのため九州大学調査団によって工場の立ち入り検査がおこなわれた.そしてPCBを通していたパイプに圧をかけ調べた結果,ステンレスのパイプに小さな穴(ピンホール)が3カ所あいていることが判明したのである.つまりこのピンホールからPCBが米ぬか油に混入したことが判明したのだった.
PCBがステンレス製のパイプのなかで塩化水素を発生,これが水と反応してパイプに穴が開いたと推測された.しかしこのピンホールが原因だったとして,なぜ2月上旬に製造されたものに限ってPCBが混入したのかが分からなかった.この疑問についてはパイプの錆や焦げついたライスオイルが穴をふさいだのだろうと説明された.
しかしこのピンホールからの流出説が間違いであったことが,事故から10年以上経った裁判の過程において明らかになった. PCBはピンホールから漏れたのではなく,タンク内にあるパイプ接合部から漏れていたのだった.このパイプ接合部がタンク内にあったことが設計上の大きなミスであった.パイプ接合部がタンクの外にあればPCBが米ぬか油と混入することはなかった.しかも工場側はパイプの接合部からPCBが漏れたのに気づいていたのだった.それは一定の量のPCBが閉鎖されたパイプの中で循環しているはずなのに,PCBの量が極端に減少したことを工場側が気づき,パイプ接合部のボルトを締めなおしていたのだった.
PCBがどのような被害をもたらすかは,先に発生したニワトリの「ダーク油事件」で容易に想像できた.しかしカネミ倉庫製油はPCBに汚染されたライスオイルをそのまま出荷していたのだった.このことから2月上旬に製造されたライスオイルのPCB濃度が高く,それを摂取した人たちに被害がでたのである.カネミ倉庫側はこの人為的なミスを隠していたのだった.
先に発生したニワトリの「ダーク油事件」,それに多くの犠牲者を出した今回の「カネミ油症事件」,この二つは同じ工場の製造過程で米ぬか油にPCBが混入しでおきた中毒事件だった.ダーク油事件が起きたとき,農林省の関心はニワトリに止まり,人間にまで関心が及ばなかったことが残念というしかない.
またPCBに汚染されたニワトリがその後どのように処分されたのか明らかにされていない.もちろん生き残ったニワトリの卵はそのまま人間の体内に移行したものと思われる.体内に一度はいったPCBは排泄されにくく,排泄の可能性としては出産によってPCBが妊婦の体外から新生児に移行することぐらいであった.
カネミ油症事件の真相がはっきりした頃,カネミ油症を飲んだ母親から皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたことが報道された.このことに人々は大きなショックを受けた.PCBは油に溶けやすい特質があり,体内に入ると脂肪組織に蓄積される.とくに胎盤に蓄積されやすく,そのため新生児に移行しやすかったのである.そして皮肉なことに,出産のたびに母親の症状は軽くなった.油症事件の年に被害者から生まれた13人の子どものうち2人は死産,10人は全身が黒色で,その他の異常所見も多かった。 黒い赤ん坊は成長とともに肌の色が白くなっていったが,これは成長により体内のPCBが希釈されたせいで,身体のPCBが減少したからではなかった.長崎県の五島列島にある玉之浦は人口4400人の集落であるが,そのうちの113世帯,309人がカネミ油症患者となった.そして玉之浦113世帯で21人の黒い赤ちゃんが誕生した.この玉之浦に犠牲者が多くでたのは,この地区の店でカネミオイルを盛んに宣伝し,安い値段でセールをしていたからである.
カネミ油症患者の症状は醜く黒ずんだ皮膚症状が主であった.PCBは身体に蓄積され慢性の症状が主で急性の症状に乏しかった.当時はPCBがどれほど危険なものであるかの認識はなかった.しかしPCBは身体全体をむしばみ死亡例が続出することになる.
PCBの汚染によって症状を出した患者は1万4千人に達していた.しかしカネミ油症の認定患者は症状が著明であった1857人だけとされ大半は50歳未満の患者だった.そして事件から5年以内に27人が死亡したが,認定されても犠牲者には救済の手は差し伸べられなかった.そのため患者自らが法廷闘争に立ち上がることになった.
この中毒事件をおこしたPCBは最近では地球汚染物質としてよく知られている.しかし当時はそれほど危険な物質との認識は少なかった.PCBは電気の絶縁性が高く不燃性で安定性にすぐれているためトランスやコンデンサの絶縁体・熱媒体・塗料・印刷用インキ・複写紙・可塑剤などに広く利用されていた。
カネミ油症事件を引き起こしたPCBは鐘淵化学工業が製造したものである.カネミ油症の被害者はカネミ倉庫ばかりでなく鐘淵化学工業を相手として裁判を行うことになった.鐘淵化学工業が訴えられたのはPCBの毒性や金属腐食性を知りながら食品工業に売り込んだ責任を問われたからである.
PCBのメーカーであった鐘淵化学は,「自動車や青酸ガスなども危険だが,使用者はそれを周知の上で使っている.使用者が責任を負うべき」として,食用油を製造したカネミ倉庫に責任を転嫁する主張を展開した。当初,鐘淵化学はPCBの使用上の注意事項として簡単な説明を記載しただけであったが,もし「毒性が強いため,加熱用パイプのピンホールのような小さな傷にも注意して使うように」とカネミ倉庫側に警告しておれば,恐らく食用油製造にPCBは使わなかったとカネミ倉庫側は裁判で証言している。通産省はPCBの使用を全面的に禁止することを関係業界に通達した。鐘淵化学工業はPCBの生産を全面中止し,PCBの国内生産は完全に中止となった.
昭和53年の1審裁判では原告の主張がほぼ認められ,カネミ・鐘化両社に60億円の損害賠償の支払を命じる判決がくだされた。しかし昭和61年,福岡高裁は国の責任と鐘淵化学の製造物責任を否定し,カネミ倉庫だけに18億3000万円の支払を命じる判決をだした.そして事件発生から20年後の昭和61年3月20日,最高裁で和解が成立し,被告側のカネミ倉庫と鐘淵化学は総額107億円の損害賠償の支払いすることで合意したのであった.
鍾淵化学の和解条件は事故の免責と引き換えに,被害者に見舞金を支払うという内容であった.鍾淵化学工業に製造物責任はないが1人あたり鍾淵化学が300万円,計21億円の見舞金と弁護士費用などを支払うという内容で和解したのであった.健康を奪われた患者たちの見舞金は,1人あたりわずか300万円にすぎなかったのである.業務上過失傷害罪で起訴されていたカネミ倉庫の社長は無罪,工場長は禁固1年6ヵ月の判決が下った.
福岡高裁は「食品の安全性に疑問が生じた場合,行政庁は規制する権限を予防的に行使すべき法律上の義務を負う,また農林省担当官がその措置をとっていれば油症拡大は防止できた」として1審判決を覆して初めて国側の責任を認める判決を下し,総額47億円の賠償総額と30%の国側負担を示した.
PCBと接触した場合,多くは時間と共に症状が改善してゆくのが通常である.しかしカネミ油症患者の症状は変化がないばかりでなく,死亡者が続出した.なぜ症状が改善しないのか,そのことが判明したのは事件から20年後のことであった.
それは発病の原因物質はPCBだけではなく,さらにポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)含まれていることが昭和50年に,さらにとコプラナーPCBも含まれていることが昭和61年になってあきらかになったのである.これらの物質はダイオキシンの一種で,これらの相乗的な作用によって重篤な症状を示したことが明らかとなった.特にPCDFはライスオイル中に2〜7ppm含まれており,早期に死亡した患者臓器からも検出された.PCDFの毒性はPCBよりはるかに強いので,現在では油症発症の主要な役割を演じたとされている.この発見がなされたのは化学分析の進歩によるが,しかしそれが判明したときには油症事件はすでに過去の事件となっていた。
ダイオキシン被害の特徴はその発生の遅延性である。事件直後には被害が少なかったと見られていた成人男性も,事件から長期間が経過するとともにダイオキシンの発ガン性によりガンで死亡する例がふえたのだった.
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和田寿郎教授心臓移植事件(昭和43年)
昭和43年8月8日,札幌医大付属病院で日本初の心臓移植手術が行われたことを各新聞の夕刊は大々的に報道した.手術を行ったのは和田寿郎胸部外科教授(46)を中心とした20人の医師団であった.日本中の視線が北海道・札幌医大に集まり,新聞,テレビ,ラジオ,日本の全メディアは総力をあげて心臓移植の取材をおこなった.そして日本初の心臓移植を札幌医大の快挙と賞賛し,新たな医学の進歩の到来に日本中が沸き上がった.多くの人々は移植を受けた宮崎信夫青年の回復を願い,連日報道される青年の容体に声援を送った.
しかし手術を受けた宮崎信夫青年が手術から83日目に亡くなると,その日を境に和田寿郎教授に対する国民的称賛がしだいに冷めてゆき,賞賛の嵐は静まり,疑惑,さらには非難へと変わっていった.
心臓移植を受けたのは,昭和43年4月から心不全で札幌医大付属病院に入院していた石狩支庁恵庭町の青年・宮崎信夫君(18)だった.和田教授の説明によると,宮崎信夫君の病名は僧帽弁閉鎖不全症,三尖弁閉鎖不全症,大動脈弁狭窄症の三つが重なった重症の心臓弁膜症で,そのため心臓が異常に肥大していた.宮崎信夫君は小学5年生の時,リウマチ熱を患い,心臓弁膜症のため小学生の時から学校では体操もできず,最近の5年間はほぼ寝たきりの状態であった.宮崎信夫君が生き残る道は心臓移植しかないと和田教授は判断し,そしてそのように本人と家族に説得したとされている.
いっぽう心臓を提供したのは札幌に住む駒沢大学4年生・山口義政君(21)であった.山口義政君は移植前日の8月7日正午すぎ,小樽市の蘭島海水浴場でおぼれ,海底に沈んでいる状態で発見された.引き上げられた山口義政君は救急車のなかで奇跡的に息を吹き返し,意識は不明のままであったが小樽市内にある野口病院に収容された.治療に当たった上野冬生医師は自発呼吸と瞳孔反射があることを認めた.山口君は蘇生し上野冬生医師は命に別状はないと判断し帰宅した.再度容体が悪化したことから,野口暁院長は高圧酸素による高度医療ができる札幌医大へすぐに転院させた.
8月7日午後8時,山口君は救急車で札幌医大に運び込まれた.しかし午後10時10分,山口君の瞳孔が散大し,脳波が停止したため脳死と認定された.医師団は山口君の両親に心臓の提供を申しでて承諾を得た.そして8月8日午前2時5分,和田寿郎教授の執刀で心臓移植手術が開始された.宮崎信夫君の肥大した心臓を取り出すのに13分,山口君の新しい心臓を宮崎信夫君に移植するのに45分かかり,手術は午前5時に終了した.
南アフリカ共和国のC・バーナード博士が世界で初めて心臓移植の手術を行ってから9ヵ月目の快挙であった.C・バーナード博士の世界初例の患者は18日目に死亡したが,以後生存例がふえ,和田教授による心臓移植は世界で30番目であった。
8月8日午後2時20分,札幌医大付属病院で緊急記者会見が行われ,日本初の心臓移植が行われたことが発表された.テレビ,新聞のほとんどがこの心臓移植一色となり報道は過熱していった.心臓移植に関してはまだ社会的な合意はなされておらず,脳死の取り扱いについてもまだ曖昧な時代であった.しかし和田教授は「二人の死より一人の生を」,「移植の是非よりも目前の患者を救うこと」を主張した.マスコミは当時46歳の和田教授を医学界の風雲児ともてはやし,新聞は「日本医学の黎明を告げた一瞬」,「涙ぐむ両親、提供者にただ感謝」などの見出しで報道した.
手術を受けた宮崎信夫君の容体に多くの国民が声援を送った.拒絶反応を乗り越えて早く回復してほしいと多くの人々が祈った.宮崎信夫君は順調に快復してゆき,病院の屋上を車いすで散歩する様子や笑顔で手を振る姿が日本中に放映された.ところが手術時の大量輸血の影響による体力の消耗をきたしていた.そして宮崎君の症状は日を追うごとに悪化し,手術から83日目の10月29日に宮崎信夫君は死亡した.
和田教授は宮崎信夫君の死因について気管支炎によって痰がのどに詰まり,急性呼吸不全を起こしたためと説明した.そして心臓移植にともなう拒否反応の関与を否定した.和田教授の説明は,心臓移植そのものは成功したが偶発した事故により運悪く死亡したことを暗に述べていた.
宮崎信夫君が死亡すると,日本初の心臓移植は急速にほころびを見せていった.近代医学の進歩を絶賛していた国民的な雰囲気が徐々に疑惑へと変わっていった.宮崎信夫君が死亡するまでは誰もが想像しなかった多くの疑惑が次第に浮かび上がってきたのである.
その疑惑は2つであった.宮崎信夫君は本当に心臓移植が必要なほど重症だったのかという疑惑と,心臓を提供した山口義政君は生きていたのではないかという疑惑だった.事態は礼賛から糾弾へと徐々に展開していった.心臓移植は人体実験だったのではないかという疑惑が噴出してきた.もし山口さんが生きている段階で心臓を取られ、移植手術が必要ない宮崎さんに移植したとすれば、これほど恐ろしい医療事件は他にないであろう.
まず疑問を持ったのは宮崎信夫君の主治医であった札幌医大内科教授・宮原光夫である.宮原光夫教授は心臓移植がおこなわれたとき,移植を受けたのが自分の患者とは知らなかった.宮崎信夫君は僧帽弁だけが悪く人工弁置換の手術のために内科から胸部外科に転科させただけで,トイレにも歩いて行けたし,心臓移植を受けるほどの重症ではなかった.少なくても術前診療では心臓移植が必要であったとは考えられなかった.和田教授は他の弁も移植が必要なほど障害を受けていたとコメントしていたが,その真意が分からなかった.宮原光夫教授は内科専門誌(内科,昭和44年5月号)に宮崎信夫君の病状を記載し,和田教授の診断を正面から否定した.
また宮崎信夫君の遺体を解剖した札幌医大病理学教授・藤本輝夫も心臓に関して宮原光夫教授と同様の見解を発表した.その内容は「剖検所見からみた心臓移植」の題名で論文(医学雑誌・最新医学3月号)として詳細に書かれている.解剖の結果,腹部は緑膿菌感染による膿瘍がたまっていて,それが免疫抑制剤の副作用によるものと思われたこと.宮崎君の心臓は1080gと通常人の4倍に膨れあがり,心膜に癒着が認められ,これを移植の拒絶反応の所見とした.藤本輝夫教授は免役学的な基礎研究もしていないのに,いきなり宮崎君に心臓移植を実施したことは結果的に人体実験だったと和田教授を批判した。
札幌医大内部から和田教授を非難する声が挙がった.札幌医大学長はこのため「心臓移植の検討会を持ちたい」と定例教授会で提案した。移植手術に関する臨床データは学内ですら公表されていなかったのである。これを検討しようという学長の提案であったが,反対意見が続出した。今やれば内容がマスコミに漏れ十大ニュースに入るはずの心臓移植が名声を失ってしまうこと.さらに大学に汚点を残すなどの意見が大勢を占めた。居並ぶ教授陣のほとんどが和田移植への疑惑を持ちながら,大学の大勢は疑惑隠しに傾いていった.
宮崎信夫君は本当に移植手術が必要だったのか,この疑惑が渦巻く中,宮崎信夫君の切除された元の心臓が行方不明になる事件が起きた.病理学教授・藤本輝夫は次のように説明している.宮崎信夫君の元の心臓が行方不明となり,捜したがどこにあるか分からなかった。心臓の所在は和田教授しか知らないと噂されていた。翌年2月になって宮崎信夫君の心臓が見つかったが,心臓の三つの弁が根元からくりぬかれていた。ばらばらになった弁と心臓の復元を試みたが明らかに大動脈弁だけは宮崎君の心臓と合わなかった.他人の大動脈弁とすり替えられた可能性が高かった.
宮崎の心臓は致命的な弁膜症を抱えていたのだろうか。この弁のすり替え事件は,後に札幌地検の依頼で東大医学部病理学・太田郁夫教授が鑑定している.その結果,宮崎君の血液型はAB型であるが大動脈弁だけはA型であった.しかし鑑定書は断定を避ける曖昧な表現に終始していた.あまりに恐ろしい結果に逃げてしまったのである.
いっぽう海水浴中に溺れ心臓を提供した山口義政君は本当に死んでいたのだろうか.山口義政君は小樽の野口病院から札幌医大付属病院に転院したが,野口病院の上野冬生医師の証言によると山口義政君が入院したときには自発呼吸があり,対光反射,心音もはっきりしていたと述べている.山口義政君が札幌医大付属病院に転院したのは担当医が帰宅したあと,午後7時に野口病院の院長の単独判断で札幌医大への搬送がなされた.野口院長は以前から和田教授と親しく,かつて結核病院で和田教授と一緒に結核の手術を100例以上おこなっていた.その関係で院長と和田教授は以前から心臓提供者を頼まれていたとされている.
札幌医大付属病院における山口義政君の容体について証言は大きく別れている.和田教授は限りなく脳死に近い状態だったとしている.しかし救急隊員,山口義政君の父親,また手術に駆けつけた麻酔科医は,体動や自発呼吸がありバイタルは落ち着いていたことを証言している.はたして山口君を生かす努力がなされたのだろうか.蘇生は麻酔科の担当であるが,駆けつけた麻酔科医・内藤裕史(後の筑波大学教授)は追い返され,脳死の判定は移植グループの医師だけによって行われた.しかし脳死を示す山口義政君の脳波の記録は残されていない.脳死判定はブラウン管に映った波形をみて判断したと説明したが,それでは第三者を納得させることはできない.さらに心電図の記録も重要なところが抜けていた.胸部外科教室員だけで行われたこの移植手術は密室の医療行為との疑惑を持たざろうえない.
また両親から心臓移植の同意を得る前の段階で,正確には山口義政君が札幌医大付属病院に搬送される前の時点で,宮崎君用の輸血が大量に注文されていたことが日赤の記録から分かっている.さらに山口君の両親が移植に同意したのは,山口義政君の胸部が切開された後であることが明らかになった.
そして宮崎さんの死後から1ヵ月後の12月3日、大阪の東洋哲学医学漢方研究会(代表,増田公孝)の6人が大阪地裁に和田教授を「未必の故意による殺人罪」と「業務上過失致死」で告発した.刑事告発は大阪地裁から札幌地裁へ申送りされ,札幌地裁が調査をすることになった.この告発によって今度は心臓移植の疑惑についての報道が過熱していった.
札幌地方検察庁は刑法上の殺人罪は構成しないとしながら,業務上過失致死が当てはまるかどうかの検討に入った.札幌地方検察庁は和田教授から事情を聴取,捜査に乗り出すことになった.さらに参考人として154人が聴取され,山口君の心臓やカルテなど物的証拠は553点に達した。担当したのは札幌地検刑事部長秋山真三だった。捜査は長期化し,当初2カ月とみていた事情聴取に7カ月を費やした.誤算だったのは検事が証拠隠滅の可能性はないと考え強制捜査を行わなかったことだった.
札幌地検が捜査上最大のネックとなったのは,山口君の遺体が解剖されないまま札幌中央署の刑事が検視しただけで火葬されていたことだった.解剖されていれば心臓を摘出した時に生きていたかどうか客観的なデータが得られたはずであった.また宮崎君の心臓の4つの弁は心臓からえぐり取られており,すり替えられていた可能性が高かった.そして心臓移植疑惑の重要なポイントは,脳波と心電図の記録,さらには誰が宮崎君の心臓を隠し,弁をくり抜き取りかえたかであった.この点について,和田教授は手術スタッフの門脇医師がおこなった証言している.門脇医師は責任を負わされることになるが,門脇医師は移植手術から5ヵ月後に胃ガンのため死去していたのである.死人に口なしであった.
昭和45年1月,札幌地検は医学鑑定に踏み切り,東京女子医大・榊原仟教授,東大医学部・太田邦夫教授,京大医学部・時実利彦教授という心臓の権威者に鑑定を依頼した.しかしいずれの鑑定書も決定的な結論には至らなかった.医学界特有のかばいあいがおこなわれたとされている.真実が明らかになれば,今後日本では心臓移植が出来なくなる.このことを権威者は心配したのだろうが,結果的に日本の移植は長い間にわたり道を閉ざされることになった.そして密室医療の恐怖が国民の医療不信を増すこととなった.
昭和45年7月27日,「和田心臓移植を告発する会」が発足した.13人のメンバーには2人の元厚生大臣(坊秀男,吉井喜実),3人の評論家(石垣純二,松田道夫,川上武),若月俊一(佐久病院長),中川米造(阪大助教授)などそうそうたる名前が含まれていた.この会は,「患者の基本的人権尊重に欠け,医師倫理にも反する」とし,法務委員会,医道審議会,人権擁護委員会に和田教授の事件を調査するように働きかけた.しかし昭和45年9月,札幌地方検察庁は札幌高検、最高検と協議し,「和田教授を殺人と断定する決め手が無い」ことを理由に証拠不十分で不起訴処分とした.この間,死の判定について議論がおきたが,検察側は通説である,心臓停止,呼吸停止,瞳孔散大の3徴候説を採用した.
不起訴処分から1年後の昭和46年10月,日弁連などの働きかけにより札幌検察審査会は地検に対して再捜査を要求した.札幌地検は再捜査をおこなうが,翌年の8月,新しい証拠が出てこないとして再び嫌疑不十分として不起訴を決定した.嫌疑不十分というのは,犯罪を認める証拠がないということでシロではなく灰色という意味である.いずれにしても和田寿郎教授に対する刑事責任追及は事実上決着したことになった。
和田寿郎教授は昭和25年に米国ミネソタ大学に留学,心臓弁膜症の手術など2300例を行っていた.心臓外科の進歩に伴い,心臓の部分的な修復を目ざす手術に限界を感じていた.重症な心臓疾患に対しては心臓移植の考え方が生まれてきた.
心臓移植から20年後の昭和63年に,和田教授はこの事件について次のようなコメントを述べている.「第三者の告発を受けたが,宮崎君や提供者の家族から何の批判を受けなかったこと,さらに手術スタッフの中で誰も傷つく者が出なかったことは幸せであった」.
和田寿郎教授心臓移植事件は日本の医学界を萎縮させただけに終わった.日本医師会長・武見太郎は,臓器移植は医療としては邪道とする意見を述べ,臓器移植だけが医学の進歩の中で取り残されてしまった.心臓移植は拒絶反応を抑える画期的薬物が開発され,世界レベルでは年間3000例以上がなされ,心臓移植はごく普通の手術になっている.医療現場の密室性,医療専門家同士のかばい合い,医師に対する警察や検察官の低姿勢がこの事件の問題であった.
日本では和田教授の事件から30年後,平成9年10月に臓器移植法が施行され脳死による臓器移植にやっと道が開かれた.和田寿郎教授は心臓移植のパイオニアを自負していたのだろうが,結果的に心臓移植に30年以上の空洞を作ってしまった.和田寿郎教授の疑惑により,これに続く病院・医師はいなく「移植手術」に関しては世界の医療レベルに40年遅れをとったとされている.この事件の代償はあまりに大きいものであった.
安全保障としての医療と介護 (朝日新聞社)
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