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2010.01.31 08:07 |  昭和 20年代 2  |  スーさん  | 推薦数 : 0

第五福竜丸事件

第五福竜丸事件(昭和29年)

 静岡県焼津港を母港とするマグロ延縄漁船・第五福竜丸(156トン)が,マーシャル諸島のビキニ環礁北西168キロの海上でアメリカの水爆実験に遭遇し,筒井久吉船長以下23人の船員が放射能を含む「死の灰」を浴びた.

 それは昭和2931日,午前412分のことであった.夜明け前の南太平洋の星空の下で延縄作業をしていた第五福竜丸の船員たちは不思議な光景を目にした.突然,南西の水平線から巨大な閃光が上空に向かって一斉に昇ったのである.そして火の玉のように暗闇の海を真昼のように明るく照らし出したのであった.「太陽が西から上がった」第五福竜丸の船員はあっけにとられていた.

 そしてその閃光から67分が経ち,ドーンという爆発音が周囲に轟きわたり,爆風によって船体は激しく揺れた.やがて空全体が暗黒のキノコ雲のかさに暗く覆われ,閃光から約3時間後には放射能を含んだ白い灰が第五福竜丸の甲板一面に降りそそいだ.

 「死の灰」は,水爆実験により破壊されたビキニ環礁の珊瑚が上空に舞い上がったもので,粉々になった珊瑚には大量の放射性物質が含まれていた.第五福竜丸はビキニ環礁から168キロも遠く離れていたが,甲板には足跡がはっきり残るほど死の灰が降り積もった.船員たちはこれが水爆による「死の灰」とは知らなかった.頭上から灰を浴び,船員の中には降り積もった灰をなめてみる者もいた.そしてこの得体の知れない白い灰に不安を抱いた.この海域から逃げ出そうと,海中に投げ入れてあった延縄を早く引き上げようとしたが,数キロにもおよぶ延縄を船員たちが引き上げ終えたのは午前10時半すぎであった.

 引き上げ作業のあいだ,船員たちはこの奇妙な現象が原爆実験によるものではないかと疑い始めていた.以前からアメリカが設定した立入禁止区域で原爆実験が行われているとの噂があったからである.第五福竜丸はその危険区域のはるか遠くで操業していたが,核実験の可能性は否定できなかった.通信長の久保山愛吉はこの奇怪な事件を沼津母港にはいっさい報告せず,また帰港の無電も打たずにいた.もし無線がアメリカに傍受されたら,米軍によって第五福竜丸が沈められることを危惧したのである.放射線の恐ろしさよりもアメリカの軍事秘密を知ってしまったという恐怖が大きかった.第五福竜丸はひたすら焼津を目指し,全速力で帰路を急いだ.

 被爆から時間が経つにつれ,船員の中には頭痛,嘔吐,めまい,食欲不振を訴える者が出始めた.そして翌日には激しい下痢と倦怠感が全員を襲った.3日目になると灰に触れた皮膚が日焼けしたように赤くただれ,10日ぐらい経ってから水泡を形成した.そして頭髪に触れると頭髪がごっそり抜けるようになった.これらは急性放射線障害の症状であった.

 第五福竜丸はもちろんアメリカが設定していた立入禁止区域のはるか遠くで操業していた.しかし水爆の威力がアメリカ軍の予想をはるかに上回っていたのである.ビキニ環礁の地上46メートルで炸裂したアメリカの水素爆弾「ブラボー」は,広島型原爆の750から1150倍という威力を持っていた.

 第五福竜丸は被爆から2週間後の314日早朝,焼津に帰港した.彼らを出迎えにきた家族たちが見たのは,異様に日に焼けした船員たちの顔であった.船員たちは黒く汚れた顔を隠すようにマグロの水揚げをすませると,焼津協立病院(現焼津市立総合病院)で診察を受けることになった.その日はちょうど日曜であったが,診察にあたった大井俊亮外科部長は,船員たちの鼻や耳,手などの露出部の水泡を見て,また脱毛,結膜炎などの症状から原爆症を疑った.もちろん大井外科部長にとって原爆症は専門外なので,体調の悪い2人を翌日東大病院へ移すことにした.さらに保健所に連絡し,放射線測定器で第五福竜丸を調べてほしいと願い出た.

 大井外科部長の要請により,静岡県から依頼された塩川孝信・静岡大学教授は調査のために焼津に向かうことになった.ガイガー・カウンター(放射線測定器)を手にした塩川教授は福竜丸に近づくにつれカウンターの音が次第にカン高く鳴りだし,その音に塩川教授は緊張の度を増していった.福竜丸船内に入るとカウンターの針は毎時110ミリレントゲンの数値を示していた.放射線の人体への許容量は24時間で2ミリレントゲンである.船内の放射能は殺人的な数値を示していた。そして船員全員をガイガー・カウンターで計測したところカウンターは激しく反応し,船員たちは「急性放射能症」と診断された。

 第五福竜丸が焼津に帰航した翌日の315日,読売新聞・静岡支局の安部光恭(みつやす)記者は殺人事件の取材で島田警察署に詰めていた.安部記者は下宿からの電話で,第五福竜丸の事件を知った.「第五福竜丸がピカドンにやられたらしい.みんなヤケドをおっている」この下宿からの知らせに安部光恭は驚き,他の記者たちに気づかれないように警察署を飛び出し,急きょ船員の自宅へと向かった.しかし船員の家族はスパイと誤解されることを恐れ,安部記者の取材に非協力的であった.安部記者は被爆の事実を確かめるため乗務員を診察した焼津協立病院を取材し,被爆の事実を確信した.そして翌316日,読売新聞全国版・社会面のトップ記事として第五福竜丸事件が報道されることになった.

「邦人漁夫,ビキニ原爆実験に遭遇,23人が原子病,1名は東大で重症と診断」,この読売新聞の記事は国民の目を奪い,この大スクープは日本中に衝撃を与えた.書かれた記事の中にある水爆の文字に日本中がパニック状態におちいった.そして国内はもちろんのこと,第五福竜丸事件は国際問題へと発展していった.

 翌17日には,第五福竜丸の被爆がアメリカの水爆実験による可能性が高いことが報じられた.アメリカは戦後,ビキニ環礁で原爆実験を繰り返していたが,今回の実験は原爆ではなくその数百倍の威力をもつ水爆実験であったことが明らかになった.日本にとって広島・長崎の被爆から9年の後に,再び核兵器による被爆をうけたのである.ビキニ環礁の水爆実験は科学者の予想をはるかに超えた爆発力を示したのである.放射雲は32キロの高さまで噴き上げ,粉々となった珊瑚礁は空気の希薄な成層圏まで広がり,立ち入り禁止区域のはるか外にまで死の灰を降らせたのである.

 この被爆事件に対するアメリカの対応は威圧的であった.アメリカは「第五福竜丸がスパイ行為を働いていた」と主張し,また「日本側の被害は誇張によるもの」と非難を繰り返した.さらに第五福竜丸がアメリカの設定した危険水域で操業していたと主張し,被爆の責任を転嫁しようとした.核軍備拡張を目指すアメリカにとって自国の間違いを認めるわけにはいかなかった.アイゼンハワー大統領は「侵犯されれば,即時大規模な報復措置をとる」と力でねじ伏せる威圧的な会見を行い,326日には再度の水爆実験を行い,日本政府の補償請求を相手にしなかった.

 中泉正徳・東大医学部教授は第五福竜丸の乗員の治療方針を立てるため,核分裂の種類と半減期を公表するように米軍関係者にせまった.しかし米軍は公表するといったんは約束したが,結局その約束は守られなかった.元気だった乗員はしだいに肝障害を起こし,328日,第五福竜丸の重症者7人が東大病院へ,残り16人が東京第1病院に入院することになった.

 東大病院医師・三好和夫が乗員23人の治療方針を決めることになり,被爆による骨髄抑制に対しては抗生剤と輸血で対応することになった.船員のほとんどが白血球の低下と骨髄障害を起こしていた.アメリカの医療調査団が被爆者治療のため来日したが,日本医療団はアメリカの協力を拒否することにした.アメリカの医療調査団は,患者のデータに興味を示すだけで治療には非協力的であったからである.また放射能医学については日本の方がアメリカよりも上であるとの自信があった.さらに日本医療団がアメリカの協力を拒否したのは,患者をスパイ扱いにしたアメリカに対する日本側の悪感情が最も大きな理由であった.外務省はアメリカの医療調査団に協力するように要請したが,日本の医師団はかたくなに拒否したのだった.

 昭和29923日,午後656分,それまで重症だった無線長・久保山愛吉さんが肝不全から意識混濁となり,東京第1病院の1部屋で亡くなった.40歳の若さであった.久保山愛吉さんは「おれのような苦しみは,おれひとりでたくさんだ」の言葉を残し他界したのである.ビキニ海域で灰をあびて半年,その灰が「死の灰」となったのである.世界最初の原爆の洗礼を受けた日本が,また水爆によって世界で初めての犠牲者をだした.そして世界的な注目を集めながら遺体の解剖が行われた.7時間におよぶ解剖の結果,皮下には無数の火傷跡が認められ,黄疸症状を裏付けるように肝臓から放射能が検出された.病名は栗山副院長により「放射能症」と発表された.

 国民的な悲しみと抗議の中で,久保山さんの死は遺族のみならず全国民に大きな衝撃と怒りをもたらした.久保山さんの死について湯川秀樹博士は「この一人の犠牲が,原爆・水爆を製造しつつある大きな国々の人々に,人間らしい気持ちを蘇らせるだろう」と語った.それまで静観していた米大使館も「遺族に深い同情をよせている」との声明を出し,久保山愛吉さんの未亡人に香典として百万円を送った.

 昭和30520日,第五福竜丸船員22人が12ヶ月ぶりに退院,帰郷することになった.このような恐ろしい事態になるとは船員の誰もが想像しなかったことであった.

 死の灰の影響は第五福竜丸の乗務員のみならず,全国の漁業関係者にも大きな打撃を与えた.第五福竜丸が積んでいたマグロはすでに東京・築地に出荷されていたが,焼津港からの連絡でマグロは隔離された.東京都衛生局の職員がマグロにガイガー・カウンターを近づけると激しい反応を示した.マグロから強い放射能が検出されたのである.これら原爆マグロはすべて市場の隅に深さ3メートルの穴をほり,地中深く埋められることになった.

 この死の灰による水爆の被害は,第五福竜丸ばかりではなかった.三崎港のマグロ船第13栄光丸,石巻港第五明神丸も同様に被爆していることがわかり,放射線汚染を受けた大量のマグロは赤ペンキを塗り房総半島沖に破棄された。

 その後の調査により,原爆マグロを持ち込んだ漁船は855隻に達し,破棄されたマグロは500トンにおよんだ.そのため全国各地でマグロの値段が暴落し,マグロの値段は半値以下になった.それでもマグロは売れ残り,さらに魚全体の売り上げも極度に低下し,漁業関係者は大きな打撃を受けることになった.マグロ漁業協同組合はマグロを国会議員に試食させ,マグロの安全性を宣伝したが,効果はまるでなかった.国民が受けた放射能への不安は大きく,魚を食べて具合が悪くなったと病院を受診する者が相次いだ.

 第五福竜丸の被爆をきっかけに,雨,水道水,農作物などの放射能含有が調べられ,それらが放射能に汚染されていることが報道された.米ソによる核爆発実験によって大気汚染,海洋汚染は地球全体に広がっていったのである.伊豆大島の天然飲料水から95カントの放射能が検出,静岡の緑茶から10グラムあたり75カントが検出,東京都のキュウリから,10グラムあたり84カントが検出され,農作物の放射能汚染が問題となった.厚生省は「野菜はよく洗って食べるように」と指示を出したほどである.

 このため国民の「死の灰」への恐怖はますます大きくなり,国民は目に見えぬ放射能に怯えながら,それでいてなすすべがなかった.雨には放射能が含まれ,外出はひかえられ,放射能不安が日本を覆っていた.子供たちの間では,放射能の雨に当たるとハゲルと噂されたが,放射能不安はハゲルどころではなかった.深刻な衝撃を全国民に与えた. 

 ビキニの水爆実験に引き続いて, 昭和301月にはソ連の水爆実験も始まり,放射能に汚染された放射能雪が裏日本一帯にふり注いだ.雪片は水滴より大きいため放射能が付着しやすく放射能雨に比べ汚染度が数倍高かった.

 久保山愛吉さんの死,被爆マグロ,放射能雨,放射能雪などにより国民の核実験への恐怖は増大していった.このような時代の流れの中で,全国的な核実験禁止運動が高まることになる。さまざまな団体が超党派的に結集し,全国規模で原水爆禁止運動が始まった.この原水爆禁止運動で注目されたのが原水爆禁止の署名運動である.

●原水爆禁止運動

  米国がビキニ環礁で行った水爆実験で第福竜丸乗組員を被爆させたことは、原爆の唯一 の被爆国である日本国民にショックをあたえた。国民はまぐろ・飲料水・野 菜等の放射能汚染におびえ、雨季に入ると放射能雨は学齢児童をもつ母親を不安におとしいれた。これを機に原水爆禁止要求ははげしく盛り上り全国民運動となった.特に婦人の活動は目ざましかった。すでに4月には東京梅ガ丘主婦会の署名運動や埼玉婦人大会の禁止決議がなされた.杉並区の主婦らは読書サークル「杉の子会」など40 余団体による区婦人団体協議会を結成,公民館長・安井郁を中心に59日杉並協議会を結成,原水爆禁止署名運動をおこなった.主婦たちが呼びかけた「杉並アピール」が全国規模に広がり,原水爆禁止の署名運動が日本全国でおこなわれた.

 「杉並アピール」は,①原水爆禁止のために全国民が署名しましょう.②世界各国の政府と国民に訴えましょう.③人類の生命と幸福を守りましょう.この3つのスローガンを揚げ,「このような全日本国民の署名運動で原水爆禁止を真剣に訴えるとき,私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし,人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます」とのアピールの言葉で結ばれていた.

 この杉並アピールは人々の心を深く捉え,署名数は50日間で27万人に達した.そして署名数は12月には2000万人,最終的には3300万人に及んだ.署名運動は日本から世界へと広がり,世界各国での禁止署名も1億6千万人を超えたことが報告された。世界的に水爆反対の声が高まり,赤十字社連盟理事会、ユネスコ執行委員会など数々の団体が核実験反対の決議を行った。世界の世論も原水爆禁止へと向かい,原爆が投下されてから10年目の昭和308月に平和記念式典とともに第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されることになった.「原爆を許すまじ」の歌が作られ広まった.

 原水禁世界大会は,それ以降,被爆地の広島・長崎と東京で毎年開催されたが,第9回大会からは運営の基本方針をめぐり社会党・総評系と共産党が対立したため大会は分裂した。社会党・総評系が昭和40年に結成した「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)と共産党系の「原水爆禁止日本協議会」(日本原水協),これに民社党・同盟系がつくった「核兵器禁止平和国民会議」(核禁会議)が加わり、原水禁運動はこの3団体によって統一と分離を繰り返しながら進められた。このように原水爆禁止運動は次第に政治の垢に染まってゆくことになる.

その後の第五福竜丸

 被爆から2年後の昭和31年,「第五福竜丸」は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として生まれ変わることになった.そして昭和40年までの10年間,学生の練習船として大海を走った。しかし第五福竜丸は老朽化により故障が頻繁になり,利用できる部品は全て抜き取られ,ディーゼルエンジンは木造貨物船「第三千代川丸」に搭載された.そして「第五福竜丸」は東京・夢の島に廃船として遺棄され,ゴミにまみれながら朽ち果てるところであった.

  しかし捨てられていた第五福竜丸を救ったのは,1人の青年が朝日新聞「声」欄へ投書したことがきっかけとなった.「沈めてよいか、第五福竜丸」「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」,この言葉が新聞の投書欄に載ると大きな反響を呼び保存運動が始まることになる.

 いっぽう第五福竜丸のエンジンを積んだ「第三千代川丸」は,昭和43721日に横浜港から神戸へ潤滑油のドラム717本を満載して 向かう途中、濃霧のため三重県御浜町沖で坐礁沈没してしまった.第五福竜丸と離ればなれになってしまったエンジンを引き上げたいという市民の熱意がもりあがり,御浜町沖に沈んだままになっていたエンジンも引上げられ、第五福竜丸はエンジンと再会することになった。昭和51年、市民の粘り強い保存運動によってビキニ水爆実験被害の「証人」として、第五福竜丸は夢の島の展示館で余生を過ごすことになった。

 第五福竜丸は現在,東京・夢の島公園「都立・第五福竜丸展示館」に展示され,ビキニ環礁の悲劇を無言のまま語り続けている.

 

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