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< 永井隆(浦上の聖人) 8 | メイン | 医療崩壊への推移 1 >

永井を讃えて

 昭和24年5月29日、ローマ法王の特使派遣で、聖フランシスコ・ザベリオが来日し、400年祭を祝う会が浦上天主堂で行われた。3万人という多くの信者が参列した。ザベリオは永井隆が臥している如己堂を訪れる予定であった。しかし永井隆はそれを固辞し、担架に乗り、他の負傷者といっしょに浦上天主堂に出向いた。

 昭和24年10月21日、バイオリニストのモギレフスキーが長崎市を訪ね、お見舞いとして演奏をしたいと申し出た。永井は県立盲学校の学生を如己堂に集めモギレフスキーの来訪を待った。モギレクスキーは静けさの中でシューベルトの「アベマリア」を演奏した。演奏が終わっても長い沈黙が続いた。永井もモギレクスキーも学生たちも目をうるませたままであった。

 多くの国民が永井隆の本を読んでいた。朝日新聞の統計によると、昭和24年に3万部以上売れた本は18点で、「この子を残して」が22万部で第1位、「長崎の鐘」が10万部で第2位、「ロザリオの鎖」が6万5000部で第7位、「生命の河」が3万6000部で第12位であった。

 永井隆は昭和24年12月長崎名誉市民第一号に選ばれた。そして昭和25年6月、国会はこの生きる聖人を湯川秀樹博士とともに表彰した。永井隆の行為は、湯川秀樹博士の業績と同じレベルと評価されたのである。

 国務大臣本多市朗代議士が如己堂を訪ね、表彰状と金杯を永井隆に手渡した。本多市朗代議士は内閣総理大臣・吉田茂に代わって表彰状を持ってきたことを告げ、次のように表彰状の文面を読み上げた。

「常に危険を冒して放射線医学の研究に心血を注ぎ、ついに放射線職業病のひとつである慢性骨髄性白血病に冒されてしまったが、なお不屈の精神力を振るい起こして職務に精励し、学界に貢献したことはまことに他の模範とすべきところである。あなたは原子爆弾のために負傷し、病床につく身となった後は著述に力をつくし、「長崎の鐘」「この子を残して」など、幾多の著書を出して、社会教育上寄与するところ少なくなく、その功績顕著である。よってこれを表彰する。昭和25年6月1日 内閣総理大臣吉田茂」

 永井隆は表彰状を受け取った。国家表彰とは国民から表彰されたことを意味していた。永井隆は起きてお礼を述べようとしたが、もはや起きることができなかった。永井は国家表彰を受けたが、自分が湯川秀樹博士と同じレベルで表彰されることに疑問を持っていた。医学者としての業績は少なく、被爆者の救済を行ったのは自分ひとりではなかった。自分の本がベストセラーになったが、それが社会的な貢献として国家表彰に値するのだろうか、という疑問であった。

最期の執筆

 如己堂に横たわる永井の腹は慢性骨髄性白血病のため妊婦のように大きくなっていた。寝返りもできない状態であった。しかし昼間は多くの人たちと会い、夜は熱と痛みに耐えながら書き続けた。全身の骨は痛み、脾臓が大きくなり他の臓器を圧迫した。食事は摂れなくなり、息苦しさも増していった。弱ってゆく肉体に残された最後の力をふりしぼり書き続けた。執筆に疲れると顔を外に向け庭に咲く花を見て楽しんだ。

 昭和26年3月になると、症状はしだいに悪化していった。発熱が続き腹水が急速に増え、全身の浮腫が目立つようになった。永井隆は自分の死期が近づいてきていることを自覚した。だが目が見えるうちに、手の動くうちに書けるだけのことを書こうとした。そして以前から構想を練っていた「乙女峠」を書き始めた。

 津和野にある乙女峠は、浦上のキリスト教徒が投獄され迫害を受けた牢屋のあったところである。明治2年に津和野に流刑となった甚三郎を中心とした、乙女峠で苦しんだ信者たちの信仰心を永井隆はどうしても描きたかった。一行書いては休み、一行書いては息を整え、4月22日に「乙女峠」を書き上げた。永井隆は4年間で13冊の著作を書き残した。しかし「乙女峠」を書き上げた直後の4月25日、肩胛骨に内出血をおこし、執筆することができなくなった。口腔内に出血が始まり、4月30日には右大腿部に大量の内出血をおこした。大腿部の内出血は慢性骨髄性白血病による病的骨折によるものであった。主治医である朝長教授が入院を決定した。

 5月1日9時、永井隆は戸板で作られた担架に乗せられ、如己堂から長崎大学医学部付属病院に運ばれた。信者たちが担ぐ担架のうしろには自然に30人ほどの市民がつきそい、沿道の人たちも永井に頭を下げた。入院した直後には、看護婦と冗談を言えるほどの状態であった。しかしすぐに痙攣をおこし危篤状態となった。そして昭和26年5月1日9時50分、永井隆は手にロザリオと十字架を持ち、二人の子供たちが看取る中、長崎大学附属病院でこの世を去った。病気に冒されてから死に至るまで、一度も痛いとか苦しいという言葉を口にしなかった。享年43、静かな最期だった。

浦上の聖人

 永井隆は生前から自分の病気を若い学生に勉強してもらいたかった。そのため死後の病理解剖を希望していた。病理解剖室は大学教授や医師たちで入りきれない状態であった。解剖室の外では多くの看護婦が遺族とともに解剖の終わるのを待っていた。

 永井隆の解剖が終了し、松岡教授は脾臓が常人の35倍。肝臓が5倍の大きさで、死因は慢性骨髄性白血病による心臓衰弱と発表した。遺体は入棺され、白い十字架が描かれた黒い布に覆われ如己堂に戻ってきた。如己堂の周辺には多くの花輪が並べられ、多くの人たちが提灯を持って集まっていた。

 5月14日、浦上天主堂で長崎市公葬が行われた。永井隆博士との別れを惜しむ2万人の長崎市民が浦上天主堂に集まった。浦上教会の聖歌隊が冥福を祈り聖歌を歌った。田川務・長崎市長が祭文を読み、吉田首相、林参議院議長など各界の代表者300通の弔文が奉納された。山田耕筰が作曲し、サトウハチローが永井隆のために作詞した曲「辞世の歌」を純心女子学園の学生たちが合唱した。そして正午にアンゼラスの鐘が鳴り、この長崎の鐘の音に合わせるかのように、長崎市のすべての寺院の鐘、工場や汽船のサイレンが鳴らされ、長崎市民は1分間の黙祷をささげた。

 大十字架を先頭に浦上教会のブラスバンドが永井隆の遺骨を先導した。浦上天主堂から国際墓地までの長い道のほとんどが別れを惜しむ市民たちで埋めつくされた。パウロ永井隆は、マリナ永井緑の霊とともに国際墓地で永遠の眠りについた。

 パウロ永井隆の墓標には「われは主のつかいめなり、おおせのごとくわれになれかし」「われは無益のしもべなり、なしたることをなしたるのみ」と刻まれている。長崎の人々は永井隆の死を悲しみ、今でも永井隆を「浦上の聖人」と呼んでいる。

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