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2010.01.21 20:10 |  永井隆 (浦上の聖人 )    |  スーさん  | 推薦数 : 1

永井隆(浦上の聖人)6

カトリック入信と結婚
 永井は従軍中に、緑から送られた慰問袋に入っていた「公教要理」を何度も読むようになった。むさぼるように読み返し、その内容に驚き感銘を受けた。「公教要理」とはカトリックの教義を分かりやすく解説した本である。永井は幼児期から軍国教育を受け、また医学も唯物的、科学的なものと考えていた。キリスト教についての憧憬はあったが、キリスト教を積極的に知りたいという気持ちはなかった。
 それまでの永井は、医師として科学のみを信じてきた。しかし戦場には科学では説明できない人間の悲しみや苦しみが溢れていた。悲鳴とともに兵士は傷つき、目の前で人が死んでいった。多くの悲劇を見せられ、彼は人間そのものの真理が医学や科学だけでは説明できないことを悟った。医学や科学では傷ついた人たちの心を癒すことはできない。むしろ、それまで信じてきた科学が兵器となって戦争という悲劇を生み、人々を苦しめていると感じるようになった。
「公教要理」には人間の生きるための意味、また人間の悲しみや苦しみが明確に解説されていた。人間は何のためにこの世に生きてきたのか、死とは何か、霊魂とは何か、罪とはなにか、このような重要な問題に「公教要理」は明快に答えていた。永井は自分が信じていた唯物的思考は間違いであり、聖書の教えが正しいと信じるようになった。それまで求めてきた真理がキリスト教にあると思えてきた。そして医療の本質は人間の魂を救うことであり、魂こそが人間の永遠の価値であると信じるようになった。
 戦地から帰国して数日後、永井は勇気を出して浦上天主堂の神父を訪ねた。そして世俗の罪に汚れてしまった過去を神父に懺悔した。「公教要理」を読むまでは宗教を知らず、罪をわきまえず、芸者をあげて遊んでいた身勝手な自分を神父に告白した。そして「私はカトリックに改宗して、キリストの愛の手に救われたいと思っています。しかし私は大きな罪を数え切れないほど犯しています。このような罪多き者でも信者になれますか」と彼は神父にきいた。
 神父は笑顔を見せ、「傷ついた身体を治すのが医師の務めであり、病んだ心を癒すのがキリスト教です」と述べ、温かい手で永井の手を握りしめた。キリスト教の教義を学び、数ヵ月後に洗礼を受けることができた。永井は「悪魔の仕業とその栄華を棄て、カトリックの教義を信じ、かつ守ること」を誓った。敬虔なカトリック信者となり、パウロという洗礼名が与えられた。キリスト教に入信して、永井は医師の仕事は病人とともに苦しみ、そして楽しむことであると悟った。そして生まれ変わったように無料診察、無料奉仕活動を行った。
 カトリック信者となって2ヵ月後の昭和9年、永井隆は森山緑と結婚。新婚生活はかつて下宿していた新婦の自宅で始まった。緑の父親・貞吉は出兵中に他界しており、森山家に再び活気が戻ってきた。永井は物理的療法科に復帰し医局長に任命され、放射線医学の研究に努めることができた。学生への講義、患者の診察、多忙な日々であったが充実していた。そしてキリスト教の集会には必ず出席した。長男誠一(まこと)が生まれ。幸せな日々が3年続いた。
余命3年の宣告
 昭和12年7月、永井に軍医中尉として2度目の徴集令状がきた。家庭のすべてを緑にまかせ、広島第五陸軍師団衛生隊として中国への2度目の従軍となった。中国では激しい戦闘が続いた。しかし永井隆の行動は前回の従軍のときとは違っていた。前回の従軍では日本の負傷兵だけを治療していたが、キリスト教徒となった永井は敵味方に関係なく負傷兵の治療にあたるようになった。永井の前には日中両軍の負傷兵が並び、さらに現地住民の病気の治療まで献身的に行った。永井隆にとって傷病者には敵も味方もなかった。また病気に悩む者に国籍など関係なかった。ロザリオを手にしながら、2年6ヵ月にわたり目の前で苦しむ人間を分け隔てなく助けることが彼の信念となっていた。また戦地住民の貧困状態を見て、長崎のキリスト教徒に救援物質を要請した。そして戦地住民に古着や食料品を与え、子供たちに日本の童話を語り、戦禍に痛めつけられた人々の心を癒した。それは赤十字精神に徹した人間愛の表れであった。永井を見て現地の人々は生き神様と感謝した。
 永井は中国の従軍を終え、昭和15年2月に帰国した。長崎に帰ると長崎医科大学の物理的療法科の助教授となった。当時の日本は栄養状態が悪く、衛生環境も悪かった。そのため結核が国民病と言われるほど急増していた。結核の診断にはレントゲン写真が必要だった。永井は1日100人以上のレントゲン写真を撮って診断を行っていた。しかし戦時下で物資は不足し、レントゲンフィルムも貴重品となり配給されなくなった。そのためエックス線で透視された画像を直接のぞいて診断を下していた。このレントゲンの透視は放射線を直接浴びることから非常に危険なことであった。しかし永井は患者を断らず、部下に任せることもせず、透視によるレントゲン診断を続けた。また時間を見つけると、貧しい患者のために無料診療も行っていた。
 キュリー夫人をはじめとして、これまで放射線を志した多くの先輩たちは許容量を超える放射線を浴び、放射能障害で死んでいった。キュリー夫人は悪性貧血、英国の放射線学者ジョン・エドワードは両手に癌ができて両腕切断、永井の上司である末次助教授も京都大学に教授として栄転してから放射能障害による再生不良性貧血で亡くなっている。永井はこのような放射能障害を熟知していた。しかし目の前の多くの患者を前にして逃げることはできなかった。フィルムがないのだから、たとえ放射能障害で倒れてもしかたがないと考えていた。
 永井はしだいに放射能障害による体調不良を訴えるようになった。そして自分のレントゲン写真を撮ってみると、脾臓と肝臓が異様に腫れているのが分かった。脾臓と肝臓の腫れは慢性骨髄性白血病を意味していた。永井は内科を受診し、白血球増多の所見から慢性骨髄性白血病の診断を受けた。そして内科部長からあと3年の命と宣告を受けた。慢性骨髄性白血病は放射能障害のひとつで、それまで多くの放射線医師の生命を奪っていた。永井は自分が慢性骨髄性白血病であることを知ったとき、ある種の宿命と受け止めた。原爆が落とされる2ヵ月前のことだった。
 永井隆は自分が慢性骨髄性白血病に冒され、そして3年の余命であることを妻の緑に打ち明けた。妻は子供を抱きしめながらじっと聞いていた。しばらくは何も言えず、身動きもできなかった。そして黙ったまま緑は十字架を仰いで祈りはじめた。祈り終わった緑は、「生きるも死ぬも神さまのご光栄のために」と穏やかな笑みを浮かべながら夫に言った。そしてふたたび十字架を仰ぎ、夫の病気が進行しないことを神に祈り続けた。
 永井の上司である末次助教授は京都大学の教授に栄転が決まっていた。そのため永井は長崎医科大学の物理的療法科を任される立場になった。末次助教授は永井隆に長期休養を説得したが、永井は長崎医科大学の物理的療法科で診察と研究を続けることを希望した。休みながら死を待つよりも、死ぬまで全力を振り絞りたいと考えていた。残り少ない命を放射線研究に捧げることを決意し、ますます研究に打ち込んでいった。
病床の執筆活動
 戦争は終わったが、永井隆は教授として診療、講義と多忙な日々を送ることになった。長崎医科大学は全壊のままだったので、長崎の新興善小学校や木村、諫早の元海軍病院で学生たちに臨床講義を行った。電車で移動するだけでも大変な苦痛であった。しかし残された時間を放射線医学のため、また原爆病の病状を後輩たちに残さなければいけないという使命感を持っていた。
 原爆による放射能障害は永井の慢性骨髄性白血病を悪化させ、脾臓は腫大し妊婦のような腹を手で支えながら授業を行った。学生への講義、患者の診療などの無理がたたって身体は衰弱しきっていた。症状はしだいに悪化し、臥床する時間が長くなった。そして昭和21年7月、浦上駅で倒れ、以後自宅で病床につくことが多くなった。昭和21年11月、長崎医学会で「原子病と原子医学」との演題名で講演を行ったが、それ以降は歩くこともできないほど病状は悪化していった。昭和22年7月、我が身を実験台に原子病の研究に励んでいる永井隆のことを進駐軍が報道、これを全国の新聞が取り上げた。
 長時間座ることもできず、本格的な闘病生活が始まった。2人の子供をかかえての生活は苦しかった。トイレに行くときも、息子の肩につかまって行くのが精一杯であった。身体は動けなかったが、幸い両手も脳も機能している。この2つがあれば原稿を書くことができる。永井隆は自分のなすべき事を考え、仰向けの姿勢で鉛筆をとり執筆活動に入った。  
 まず欧米でベストセラーになった「世界と肉体とスミス神父」の日本語訳を始めた。そして昭和22年12月に主婦の友社から出版することができた。この翻訳本が永井隆にとって初めての本となった。そして印税4万円の大部分を浦上天主堂、病院、学校に寄付、手元には2000円を残すだけであった。浦上天主堂は寄付によってオルガンを買うことができた。
 永井隆の執筆活動はさらに続けられた。この長崎の悲劇を後人に伝えることを自分に与えられた使命と考えていた。原爆の恐ろしさを多くの人たちに知ってもらい、長崎を地球最後の被爆地にすることが原爆で生き残った者の義務と思った。そして二度と戦争を起こさないように、長崎から平和を訴えようと文章を書き始めた。
 その決意は固かった。身体にむち打ちながら原稿を書き始めた。臥床の姿勢で、右手に鉛筆を握り、左手には原稿用紙をのせた板を握り文章を書いていった。長崎の悲劇を二度と繰り返してはいけない、そして平和を長崎から世界に発信しなければいけない。彼の鉛筆にはこの思いが込められていた。科学者としての不屈の研究心、さらにカトリック教徒としての信仰心が永井隆を支えていた。死を前にした過酷な闘病生活の中で、永井のもう一つの戦いが始まっていた。死を前にして彼は憑かれたように次々と書き続けていった。
如己堂での生活
 昭和23年春、カトリック信者たちは永井のためにかつての自宅跡に小さな家を建ててくれた。そしてそこを永井博士の住まいとして提供してくれた。それはわずか二畳一間の家であった。永井隆は贈られた家を如己堂(にょこどう)と名づけ、そこで闘病生活を送ることになった。如己堂とは「おのれのごとく隣人を愛せよ」というキリストの言葉「如己愛人」からとったものである。自分のことのように他人も愛しなさいと教えたかったのである。永井隆はカトリック信者たちに感謝した。
 二畳一間の如己堂から瓦礫のままの浦上天主堂を望むことができた。永井隆は浦上天主堂を望み、アンゼラスの鐘を聞きながら筆を運んでいった。誠一と芽乃の2人の子供と二畳一間の如己堂に住み、時間を惜しんでは執筆に励んだ。一畳は自分が横たわり、残りの一畳で誠一と芽乃が生活をしていた。そして闘病生活の中でひたむきに書き続けた。
 昭和23年、「ロザリオの鎖」が発行されると、永井は印税40万円を浦上天主堂に寄付、天井のなかった天主堂に屋根がかけられた。さらに「九州タイムズ」文化賞を受賞。永井はその賞金で浦上の地を「花咲く丘」にしようと、サクラの苗木1千本を山里小学校、純心女子学園、浦上天主堂、病院、道路などに植えさせ、残りのすべてを教会に寄付した。この千本桜は春になると浦上の丘を美しく彩った。地元の人たちは「永井千本桜」と呼んで喜んだ。
 永井は腹水のため寝がえりも出来ない状態となったが、「長崎の鐘」「亡びぬものを」「この子を残して」「生命の河」「花咲く丘」を矢継ぎ早に書き上げていく。永井が書いた本はいずれも清らかな文章で、原爆と敗戦に打ちひしがれていた当時の人々の心を奮い立たせた。如己堂から発表される作品や言葉は、敗戦で落ち込んだ日本人の心をとらえ、永井隆の名前は日本中に知れ渡った。印税のほとんどは長崎市に寄付され、長崎の復興に使われた。

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