スーさん
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2012/05 >>
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着コメント

新着トラックバック

< 永井隆(浦上の聖人)2 | メイン | 永井隆(浦上の聖人)4 >
終戦
 原爆の投下から6日目の8月15日、重大放送があると知らされ西浦上国民学校へ向かった。そして玉音放送を聴き戦争が終わったことを知った。救護隊員た ちは手をとり合い涙を流した。その涙は、日本が戦争に負けた悔しさよりも、この悲惨な戦争が終わってくれたことへの涙だった。誰も口には出さなかったが、 この放送が一週間早ければ、長崎の悲劇はなかったことを悔しい思いで実感していた。
 長かった戦争は終わった。しかし目の前には大勢の患者が溢れている。患者がいる以上、医療救護隊の仕事に終わりはなかった。戦争に負けても、自分たちが 守るのは目の前の患者の生命だった。患者がいる限り救護活動に終わりはなかった。このような考えは永井だけではなかった。救護班の医師、看護婦は皆同じ気 持ちで患者の治療に当たっていた。
 永井はみんなが寝静まってから、原爆による被害状況、人体の変化、治療方法をランプの下で夜遅くまで克明に記録していった。記録を残すことは原爆に直撃された放射線医師として当然の任務だと思っていた。
医療人としての原点
 しばらくして救護班の隊員たちの身体に変調が起き始めた。それは原爆による放射能障害であった。怪我をしなかった隊員の身体も、放射能がむしばんでい た。救護隊員たちは放射能障害によって次々と体調不良を訴え始めた。頭髪は束となって抜け、全身倦怠が彼らを襲ってきた。微熱、嘔吐、下痢が続き、救護隊 員たちは過労に加え放射線障害によって消耗していった。永井も同様の症状をきたしていた。肉体はしだいに衰え、歩くことすら困難になった。それでも永井 は、朝早くから夜遅くまで、杖をつきながら往診して、動けない患者の傷の消毒などの治療を行った。ある日、往診からの帰り道、永井は坂道を登ることができ なくなり、看護婦に背中を押されながら、ふらふらの状態で帰ってきた。そして病床につき、昏睡状態に陥ってしまった。
 永井の症状は一進一退を繰り返し、再び側頭動脈から血がにじみ出てきた。永井はいよいよ最後の時が来たと思った。病床には息子の誠一、娘の茅乃、神父、 救援隊の仲間が集まった。永井は彼らに「正しい信仰を持ってください」と最後の言葉を振り絞った。しかし救護隊は諦めなかった。永井を助けるため必死に なった。連日連夜、不眠不休の看護に当たった。息子の誠一は父親を助けたい一心で、片道20分以上もかけて何度も鉱水を汲みにいった。
 1週間後、周囲の気持ちと、キリスト教徒たちの祈りが通じたのか、頭部からの出血は止まり、生死をさまよっていた永井の症状は次第に回復へと向かった。 永井隆はなんとか生命を取りとめることができた。しかし救護班員にも体調不良を訴える者が続出したため、長崎医大第11医療隊救護所は無念にも解散するこ とになった。
 12人の救護隊員は自分たちも原爆の被爆者でありながら、被爆で傷ついた被害者に8月12日から10月8日まで救護活動を行ったのである。過労、栄養不 良のなかで、永井隆をはじめとした救護隊員は、医師として、看護婦として、医療にたずさわる者として、それを当然の行為と受け止めていた。彼らの頭には自 己犠牲という言葉はなかった。患者を前にして患者を助ける。この医療人としての原点が当然のように身体と心に刻まれていた。三ツ山での58日間の救護活動 は、充分な医療品もない中で、全治した者79人、軽快10人、死亡29人、転出7人と記録されている。
原爆の惨禍
 原爆によって家屋の多くは粉砕され、焼失し、長崎市は甚大な被害を受けた。当時の長崎市の人口は21万人とされていたが、原爆による死亡者は7万 3884人、負傷者は7万4909人である。市民の3分の1以上が死亡し、3分の1以上が負傷していた。成人男性の多くは戦地にいたので、犠牲者の65% が老人、子供、女性だった。爆心から1キロ以内にいた人の多くは即死だった。この犠牲者の数は原爆直後の人数で、その後に死亡した者は含まれていない。ま た放射能障害、火傷によるケロイド、さらに奇形児が生まれるなど、原爆による被害は計り知れないものであった。
 長崎市のなかでもキリスト教徒が多く住んでいる浦上地区の被害がもっとも大きく、浦上地区の半径4キロ四方が焼野原となり、長崎市内の3割が全焼した。 犠牲者の多くは、爆心地では体内の水分が瞬時に蒸発して即死状態、爆心地から1キロ以内では爆風、熱線による死亡が多かった。爆心地から2キロ以内で遮蔽 物がない場合では、胃腸障害を引き起こし2週間以内に多くが死亡した。
 永井隆の息子・誠一が通っていた山里国民学校は爆心から600メートルのところにあった。校舎は全焼し、28人の教職員が亡くなり、1300人の子供た ちも一瞬のうちに犠牲となった。爆心地に近かったので、誠一のように疎開していた生徒だけが生き残った。誠一の同級生で生き残ったのはわずか4人であっ た。
  また爆心から500メートルの城山国民学校は鉄筋コンクリート3階建てであったが、爆風は校舎を西に傾け、外壁も崩れ落ちた。城山国民学校では30人の教 職員が亡くなり、学徒動員で働いていた女子学生ら110人が一瞬のうちに亡くなった。当日、学童は登校していなかったが、城山児童1500人ののうち 1400人が家で犠牲になった。12月の授業再開時に出席したのは14人と記録されている。
 長崎には三菱造船所をはじめとして多くの軍需工場があり7500人の従業員や学徒動員の学生が働いていた。三菱造船所は世界最大級の戦艦武蔵をつくった 造船所であり、長崎港は兵員と軍需物質を送り出す重要な軍事拠点となっていた。そのため戦争時の長崎の防空体制は強化されていた。また長崎は坂の多い街で ある。その地形を利用して多くの横穴式の防空壕が掘られていた。そして医療体制は長崎医科大学を中心に整っていた。しかし原爆はこの防衛体制をはるかに上 回る被害をもたらした。そして医療の中心となるべき長崎医科大学の全壊は救護体制を根底から覆すものであった。長崎市内には146人の開業医がいたが、そ の半数は戦地に徴集され、残された70人のうち犠牲者20人、負傷者20人というように、救護活動ができる開業医は30人に満たなかった。長崎医科大学付 属病院には入院患者150人、外来患者150人がいたが、このうちの約200人が死亡した。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

トラックバック

この記事のトラックバック URL

http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100121/3/trackback

コメント

コメントはまだありません。

コメントを書く

ニックネーム*
メールアドレス*
URL
内容*
※「利用規約」をお読みのうえ、適切な投稿をお願いします。