スーさん
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2012/05 >>
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着コメント

新着トラックバック

< 血痕鑑定事件 | メイン | 永井隆(浦上の聖人)1 >
2010.01.20 04:21 |  昭和 20年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

帝銀事件

帝銀事件(昭和23年) 

 昭和23126日の午後3時半すぎのことであった.東京都豊島区長崎町にある帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店が閉店した直後に,厚生省技官兼都防疫課員と名乗る45歳ぐらいの中年男が通用門から入ってきた。グレーのコートを着た中年男性は東京都の「防疫消毒班,消毒班長」の腕章をつけ,名刺を行員に差し出し支店長に面会を求めた.当日は支店長が腹痛で早退していたため,吉田武次郎支店長代理(44)が男を事務室に招き対応することになった.

 目鼻立ちの整ったやせ型の中年男性が差し出した名刺には「厚生省厚生部員 医学博士某」と記載されていた.そして吉田支店長代理に行員全員を集めるようにと威圧的な口調で言いだした.そして全員を集めると,男性は「実は長崎2丁目の共同井戸で4人の集団赤痢が発生し,その井戸水を使った1人がこの銀行に来て預金したことが分かった.これからGHQが消毒にくるが,GHQのホーネット中尉の指示により赤痢の予防薬を飲んでもらうことになった」と落ち着いた口調で言った.

 長崎2丁 目の赤痢発生の話はもちろんウソである.またその当時,赤痢の予防薬など存在していなかった.しかし戦後間もない日本人は,上からの命令には従順であり, 威圧的な言葉,名刺の肩書き,それらしい腕章をつけた中年男性に行員たちは不信感を抱かなかった.さらにGHQの命令は有無を言わせぬ絶対的なものだっ た.また当時の日本は赤痢をはじめとした伝染病が猛威を振るっており,銀行員は中年男性を東京都の防疫員あるいは消毒員と思いこんでいたのである.

 男性は16人の行員とその家族を前にすると,予防薬を飲むため,自分の分も含め17人分の湯飲み茶碗を用意させた.その中には用務員の8歳の子供も含まれていた.そして男性はカバンから医者が持っているような金属製のケースを取り出すと,手慣れた手つきで金属製のケースから赤痢の予防剤を取りだした.ビンに入った薬剤は2種類で,第1の薬は無色透明の予防薬本体,第2の薬は濁った液体で,第1の薬の中和剤と説明された.「この予防薬はGHQのくすりなので,非常に効果があるが,飲む時に歯にふれると歯のホーロー質をいためることになる.そのため舌を出してくすりを丸めるように飲んでほしい」と言い,さらに「第1の予防薬本体を飲んだ後,1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と説明を加えた.そしてピペットで予防薬を茶碗に入れると,男性はみずからその予防薬を飲んで見せた.この男性の実演に,行員とその家族16人は何の疑いをもたなかった.

 行員たちは男性に言われたようにいっせいに第1薬の予防薬を飲みほした.第1薬 を飲み終えると,ウイスキーを飲んだ時のような,胸が焼けつくような強い刺激を覚えた.そして1分後,第2の中和薬が分配されると行員たちは急いでそれを 飲んだ.その直後である.行員たちは嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていった.床をかきむしりながら,まさに疑獄絵のような状態で死んでいった.

 5人の男性行員と5人の女子行員がその場で死亡.若い女子行員1人が,なんとかはうように外に出て通行人に助けを求めた.交番の巡査がかけつけたときには銀行の中は地獄のような有様であった.そして苦しんでいる6人が救急車で下落合の聖母病院に搬送された.病院に運ばれた6人のうち2人が死亡,4 人だけが命をとりとめた。

 このように帝銀事件は12人が毒殺されるという日本最大の毒物犯罪事件となった.生き残った4人の行員の証言によると,犯人は年齢45歳ぐらい,目鼻立ちの整った物腰の柔らかな好男子であった。毒薬については遅効性のものが考えられたが,後に青酸カリであることが判明した。犯人は差し出した名刺を回収しており,茶碗の指紋も消されており何の証拠も残していなかった.

 犯人は混乱に乗じて店内にあった現金163410円と額面1745円の小切手を強奪して逃走した。その年の大卒の初任給が約5000円であったから,奪われた現金はそれほどの大金ではない.行員の机の上には48万 円が手づかずのまま残されていた.用意周到に準備された殺人の割には金については犯人の執着心が薄い印象がもたれた.事件翌日になり,犯人は大胆にも盗ん だ小切手を安田銀行板橋支店で換金していたことが判明した.換金に訪れた男性は小切手に不慣れだったようで,小切手の裏に住所を書かずに行員から注意を受 けた.そのため男性は偽りの住所をその場で書いて換金したのだった。小切手の裏書に犯人のニセの名前と住所(後藤豊治,板橋33661)と犯人の直筆を残していた.

 警察の聞き込み調査によって,帝銀事件が発生する1週間前に,帝銀事件に類似した未遂事件が他の銀行で2件 発生していることがわかった。それは安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で,その手口は帝国銀行とまったく同じであった.男性は行員に赤痢が付近に発生し たことを告げ,行員を集め予防薬を飲ませている.しかしその時に用いられた予防薬には毒物は入っておらず,帝銀事件の予行練習のためにおこなった犯罪と考 えられた.犯人は厚生省技官松井蔚(しげる)という名刺を銀行に残していた。松井氏は宮城県仙台市に実在の人物であった.そのため松井氏と名刺を交換した 人物が捜査の対象になった.松井博士に確認すると100枚作った名刺の1枚であることを証言。名刺は博士の手元に6枚,他から62枚が回収された.

 警察は大規模な捜査網をしいた.延べ25000人が捜査にあたり5000人あまりの容疑者が調べられた。この事件の特徴は16人の行員を前にして冷静に毒物を飲ませていること,さらに飲めば即死に近い青酸カリを用いながら,数分後に死亡させるという特殊な使い方をしていることであった.このような犯罪は薬物のプロにしかできないと思われた.

 捜査本部は,犯人は毒薬に相当詳しい知識を持つ者と考えていた.そのため中国で細菌兵器や毒物の研究を行っていた関東軍731部隊(旧日本軍細菌部隊)の関係者に的が絞られ捜査が行われた.731部 隊とは石井軍医中将が指揮をとっていたことから石井部隊とも呼ばれていたが,その存在を知る者はごくわずかだった.石井部隊は中国人を使って青酸毒物の人 体実験を秘密裏におこなっており,敗戦後,隊員たちはこの事実を墓場まで持って行くように命令されていた.そして捕虜になったら自殺するようにと青酸カリ を渡されていた。また犯人が持っていた薬剤のケースやピペットは軍医が野戦携帯用に使うもので,一般人は入所しにくいものであった.そのため731部隊の捜査を進められ,元中佐である医師Sが全国に指名手配された.

 犠牲者の胃や血液から高濃度の青酸化合物が検出されたことから,犯行に青酸カリが用いられたことは間違いなかった.しかし不思議なことに,被害者が飲んだ茶碗からは青酸化合物が検出されなかったのである.青酸カリは10数 秒で死亡するほどの猛毒である.第1の予防薬が青酸化合物だとすれば1分間我慢できるはずはない.もし第2の中和薬が青酸化合物だとするとなぜ茶碗から青 酸化合物が検出されなかったかが謎であった.青酸カリよりも遅効性の青酸ニトリルを用いたことが推測されたが,それでは胃や血液中に残された高濃度の青酸 化合物の説明がつかなかった。

  用いられた毒薬が青酸化合物として謎を残したのは,この事件の初期捜査の間違いに起因していた.近くの交番の警察官が帝国銀行に駆けつけたとき,この事件 を集団食中毒とみなしていた.そのため警官は湯呑み茶碗に残っていた毒物を醤油の空き瓶に入れて保存したのだった.醤油の中にはカリウムやナトリウムが含 まれているため,この毒物が青酸系であるとはわかったものの青酸カリウムなのか青酸ナトリウムなのかの区別がつかなかった。この初動捜査のミスにより,毒 物をはっきり特定できないままになった.いずれにしてもこの事件は相当毒物に詳しい者の犯行であることだけは間違いなかった.

  これまでに起きた青酸カリを用いた毒殺事件は,すべてが飲んだ直後に死亡している。帝銀の犯人は何らかの方法を用いて1分間は誰も倒れないようにした.こ こに犯人の毒物に対する知識の深さがあった。また青酸カリにしては被害者たちの中に青酸中毒特有のアーモンド臭がなかったこと.被害者たちが青酸中毒では あまりみられない嘔吐とい症状を示していること.これらが青酸化合物としては妙であった。死亡の状況と解剖の結果,この矛盾点を説明することが困難であっ た.青酸化合物は第1薬にも第2薬にも含まれず,第1薬と第2薬 が胃の中で反応して青酸化合物が作られるという説がある.さらに犯行に使われたのは青酸化合物でなかったという説,青酸化合物の古くなったものが使われた という説などがある.毒物の鑑定を行ったのが,多くの冤罪事件を作った古畑種基教授がトップである東大法医学教室であったことから,鑑定そのものに疑問を 持つ者もいた.

 また犯人はみずからその予防薬を飲んで見せたのである.そして犯人が生き延びたのは,薬品に油を入れ,犯人は油の部分だけを飲み下したのではないかと推定されている.

 ところが事件発生から7ヶ月後の821日になって,捜査は予想もしなかった展開を迎えることになった.犯人として毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通(さだみち,56)が小樽市の親戚の家で逮捕されたのである。小樽市にいた平沢貞通は刑事の質問に,126日の行動を「終日,三越の画展にいた」と7か月前の行動を準備していたかのように即座に答えたのだった.あとの調査でそのアリバイは嘘であることが分かった.

 明治25年に東京に生まれた平沢貞通は,10代後半頃から横山大観に師事し,22歳でニ科展に入選,25歳 のときに上京して東京美術学院の講師になっていた。ペンテラというのは西洋画の一種で,油絵と水彩画の中間の画法であった.犯人が残した名刺に書かれた松 井蔚は,几帳面な性格で名刺を渡した相手をすべてメモしていた.平沢貞通と名刺を交換したのは青函連絡船の中であった.平沢貞通は松井蔚の名刺を三河島駅 で財布ごとスラレ紛失したと説明した。

 帝銀事件の生き残りと模擬犯人を混じえた11人による面通しが行われた.面通しの結果は平沢貞通が犯人と言った者はひとりもなく,似ていると言った者が5人,違うと言った者が6人であった。平沢貞通が不利だったのは,事件発生直後に平沢の銀行預金に入金されていた出所不明の12万円の存在であった.当時の平沢貞通は友人に借金をして断られるほど金に困っていた.平沢は事件2日後に妻に6万円渡しており,銀行預金に入金されていた12万円を加えると,ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当した.平沢貞通はこの金の出所をはっきり言えず,また犯行当日のアリバイもはっきりしなかった。さらにこれまで銀行を舞台に過去に4件の詐欺事件を起こしていたことも印象を悪くした.

 平沢貞通を無罪と推定する者は次のような見方をしている.平沢貞通は狂犬病の予防注射の後遺症でコルサコフ病という病気にかかっていた.コルサコフ病という精神病は平気でウソをつき,自分でさえもそのウソが嘘か本当かの区別がつかないのが特徴であった.平沢の4件の詐欺事件は病気のせいで,平沢の自白も誘導されたものと推定した.また出所不明の18 万円もの大金存在については,生活費を稼ぐために春画を描いて売った金としている.日本画の大家として春画で生活費を稼いでいたと白状できなかったとして いる.この春画説は松本清張が唱えたものであるが,死刑がせまっている者にとって,春画のプライドより殺人犯の汚名の方が重いととらえるのが常識であろ う.18万円の存在が春画を売ったものかどうかは判明しないが,平成1269日号の週刊「フライデー」に平沢が描いた春画が発見されたと書かれている.また小切手に残された筆跡鑑定では平沢貞道は犯人とは別人物という結果が出ている.

 平沢貞道は留置所で身の潔白を証明するため,隠し持ったガラスペンを左手の静脈に突き刺し自殺をはかった.看守に発見され一命をとりとめたが,その後,壁に頭をぶつけ,痔のクスリを大量に飲み,自殺を繰り返したがいずれも未遂に終わっている.

 平沢貞道は警察,検察の激しい取り調べを受け犯行を自白した.しかし起訴された後は一貫して無罪を主張した.平沢にとって不運だったのは,この帝銀事件の裁判が旧刑事訴訟法による最後の事件で,逮捕された時点では自白は重要な証拠となっていたことである.旧刑事訴訟法は昭和24年に改正されたが,それまでは「自白は証拠の女王」とされ,警察による取り調べでは拷問に近い自白の強要が行なわれていた. 平沢貞通は1審の第1回公判から捜査段階の自白をひるがえし帝銀事件について無実を訴えた.しかし地裁、高裁、最高裁の3審ともに有罪とされ,昭和30年5月7日の最高裁で死刑判決が下ってしまった。平沢貞通は死刑が確定したが,それでも無実を訴え続けた。

 平沢貞通の冤罪を信じる人々は意外に多く,「平沢貞通を救う会」が発足し,17度の再審請求をおこなったが退けられた.また5度の恩赦願が出されたが,それも受け入れられなかった.作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った.昭和36年熊井啓監督により「帝銀事件・死刑囚」が映画化され,この映画によってこの事件は注目度をさらに高めた.

 平沢貞通は死刑になったが,歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかった,そのため約32年間にわたり死刑は執行されなかった.32年間死刑が執行されなかったのはもちろん世界最長記録である。30数人におよぶ歴代の法務大臣が死刑執行を見送ったのはそれなりの理由があったからとされている。20人以上の死刑執行にサインを押した法務大臣が平沢の書類になると「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名である。法務省は最後まで死刑執行にこだわったが,歴代の法務大臣は平沢を犯人と断定できなかったのだろう。死刑確定から30年が経ち釈放の気運が高まったが,法務省はガンとして釈放を認めなかった。昭和62510日,39年間を獄中ですごした平沢は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。

 帝銀事件の真犯人は,事件発生当時から元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者ではないかと推測されていた.GHQ(連合軍総司令部)は731部隊に対し極東国際軍事裁判での戦犯免責を条件に731部隊の生体実験データを入手していた。GHQ731部隊の研究資料を押収した事実が暴露されないように警視庁が圧力をかけとされている。そして平沢貞通の自白によって捜査はすべて打ち切られた.また同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞がGHQから圧力を受け,追及を断念したことが後で明らかにされた。

 この事件の捜査主任をしていた元警視庁捜査2課の成智英雄が平沢の無実を証言した.成智英雄は公務員の服務規程により捜査中の秘密を漏らすことはできなかったが,平沢の無実を証言したのである.証言内容は当時731部隊では青酸カリを用いた生体実験が行われており,隊員たちは致死量すれすれの青酸カリを投与した場合に,中毒症状が現れるまで1分を要することを知っていたこと.また用いられていたピペットが軍の特殊部隊でのみ使用されたものであることを証言した.731部隊のS中佐を最有力容疑者として全国手配していたが,平沢の逮捕によって捜査が打ち切られていた.医師であるS中佐は昭和29年に死亡していることが分かった.S中佐犯人説が公表されたのはS中佐が死亡して10年後のことであった.成智英雄は「救う全」に入会し,帝銀事件の犯人は平沢貞通ではないと主張しつづけた。

 昭和20815日から昭和27年4月28日まで,日本の国家権力はGHQというアメリカの支配下にあった.GHQの下に日本政府があり,警察や検察も同じであった。GHQが日本を支配していた時代背景を考えなければいけない.軍関係者に向けられていた捜査はGHQの壁にぶつかって頓挫してしまった。もしアメリカが731部隊を利用して細菌研究をしているということがばれたら大問題になっていただろう。そのため平沢は国際的な犯罪を隠すためにスケープ ゴートにされたと考えられる.帝銀事件はGHQ支配下の時代に起こった謎と疑惑に包まれた奇怪な事件といえる.

  青酸カリ(シアン化カリウム)は白色の粉末で,きわめて有毒が強いため毒物及び劇物取締法に指定されている。青酸カリは毒物の王者と呼ばれているが,それ は毒物事件の中で青酸カリを用いた犯罪が最も多いからである.青酸カリが比較的入手しやすいためであった.メッキ工場などでは30kgの缶に入れられた青酸カリが無造作に置かれていた.青酸カリは年間3万トンぐらい生産されており,メッキ工場の従業員であれば簡単に持ち出すことができた.また頼まれてゆずることもできた.このように入手が簡単であったため,多くの事故や事件を引き起こした.

 青酸カリ自体は強いアルカリ性で,飲んで胃に達すると胃酸と反応しシアン化水素(青酸ガス)を発生する.そのため青酸カリを飲んで死んだ人はアーモンド臭がする。ガスが発生し呼吸困難、呼吸停止、意識喪失などをおこし数分以内に死亡する。 成人の場合,0.150.2gが致死量になる。小さじ1杯の砂糖が3gであるから,その20分の1の少ない量が致死量となる.

 

固定リンク | コメント (0)

コメント

コメントはまだありません。

コメントを書く

ニックネーム*
メールアドレス*
URL
内容*
※「利用規約」をお読みのうえ、適切な投稿をお願いします。