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帝銀事件(昭和23年)
昭和23年1月26日の午後3時半すぎのことであった.東京都豊島区長崎町にある帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店が閉店した直後に,厚生省技官兼都防疫課員と名乗る45歳ぐらいの中年男が通用門から入ってきた。グレーのコートを着た中年男性は東京都の「防疫消毒班,消毒班長」の腕章をつけ,名刺を行員に差し出し支店長に面会を求めた.当日は支店長が腹痛で早退していたため,吉田武次郎支店長代理(44)が男を事務室に招き対応することになった.
目鼻立ちの整ったやせ型の中年男性が差し出した名刺には「厚生省厚生部員 医学博士某」と記載されていた.そして吉田支店長代理に行員全員を集めるようにと威圧的な口調で言いだした.そして全員を集めると,男性は「実は長崎2丁目の共同井戸で4人の集団赤痢が発生し,その井戸水を使った1人がこの銀行に来て預金したことが分かった.これからGHQが消毒にくるが,GHQのホーネット中尉の指示により赤痢の予防薬を飲んでもらうことになった」と落ち着いた口調で言った.
長崎2丁 目の赤痢発生の話はもちろんウソである.またその当時,赤痢の予防薬など存在していなかった.しかし戦後間もない日本人は,上からの命令には従順であり, 威圧的な言葉,名刺の肩書き,それらしい腕章をつけた中年男性に行員たちは不信感を抱かなかった.さらにGHQの命令は有無を言わせぬ絶対的なものだっ た.また当時の日本は赤痢をはじめとした伝染病が猛威を振るっており,銀行員は中年男性を東京都の防疫員あるいは消毒員と思いこんでいたのである.
男性は16人の行員とその家族を前にすると,予防薬を飲むため,自分の分も含め17人分の湯飲み茶碗を用意させた.その中には用務員の8歳の子供も含まれていた.そして男性はカバンから医者が持っているような金属製のケースを取り出すと,手慣れた手つきで金属製のケースから赤痢の予防剤を取りだした.ビンに入った薬剤は2種類で,第1の薬は無色透明の予防薬本体,第2の薬は濁った液体で,第1の薬の中和剤と説明された.「この予防薬はGHQのくすりなので,非常に効果があるが,飲む時に歯にふれると歯のホーロー質をいためることになる.そのため舌を出してくすりを丸めるように飲んでほしい」と言い,さらに「第1の予防薬本体を飲んだ後,1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と説明を加えた.そしてピペットで予防薬を茶碗に入れると,男性はみずからその予防薬を飲んで見せた.この男性の実演に,行員とその家族16人は何の疑いをもたなかった.
行員たちは男性に言われたようにいっせいに第1薬の予防薬を飲みほした.第1薬 を飲み終えると,ウイスキーを飲んだ時のような,胸が焼けつくような強い刺激を覚えた.そして1分後,第2の中和薬が分配されると行員たちは急いでそれを 飲んだ.その直後である.行員たちは嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていった.床をかきむしりながら,まさに疑獄絵のような状態で死んでいった.
5人の男性行員と5人の女子行員がその場で死亡.若い女子行員1人が,なんとかはうように外に出て通行人に助けを求めた.交番の巡査がかけつけたときには銀行の中は地獄のような有様であった.そして苦しんでいる6人が救急車で下落合の聖母病院に搬送された.病院に運ばれた6人のうち2人が死亡,4 人だけが命をとりとめた。
このように帝銀事件は12人が毒殺されるという日本最大の毒物犯罪事件となった.生き残った4人の行員の証言によると,犯人は年齢45歳ぐらい,目鼻立ちの整った物腰の柔らかな好男子であった。毒薬については遅効性のものが考えられたが,後に青酸カリであることが判明した。犯人は差し出した名刺を回収しており,茶碗の指紋も消されており何の証拠も残していなかった.
犯人は混乱に乗じて店内にあった現金16万3410円と額面1万745円の小切手を強奪して逃走した。その年の大卒の初任給が約5000円であったから,奪われた現金はそれほどの大金ではない.行員の机の上には48万 円が手づかずのまま残されていた.用意周到に準備された殺人の割には金については犯人の執着心が薄い印象がもたれた.事件翌日になり,犯人は大胆にも盗ん だ小切手を安田銀行板橋支店で換金していたことが判明した.換金に訪れた男性は小切手に不慣れだったようで,小切手の裏に住所を書かずに行員から注意を受 けた.そのため男性は偽りの住所をその場で書いて換金したのだった。小切手の裏書に犯人のニセの名前と住所(後藤豊治,板橋3の3661)と犯人の直筆を残していた.
警察の聞き込み調査によって,帝銀事件が発生する1週間前に,帝銀事件に類似した未遂事件が他の銀行で2件 発生していることがわかった。それは安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で,その手口は帝国銀行とまったく同じであった.男性は行員に赤痢が付近に発生し たことを告げ,行員を集め予防薬を飲ませている.しかしその時に用いられた予防薬には毒物は入っておらず,帝銀事件の予行練習のためにおこなった犯罪と考 えられた.犯人は厚生省技官松井蔚(しげる)という名刺を銀行に残していた。松井氏は宮城県仙台市に実在の人物であった.そのため松井氏と名刺を交換した 人物が捜査の対象になった.松井博士に確認すると100枚作った名刺の1枚であることを証言。名刺は博士の手元に6枚,他から62枚が回収された.
警察は大規模な捜査網をしいた.延べ2万5000人が捜査にあたり5000人あまりの容疑者が調べられた。この事件の特徴は16人の行員を前にして冷静に毒物を飲ませていること,さらに飲めば即死に近い青酸カリを用いながら,数分後に死亡させるという特殊な使い方をしていることであった.このような犯罪は薬物のプロにしかできないと思われた.
捜査本部は,犯人は毒薬に相当詳しい知識を持つ者と考えていた.そのため中国で細菌兵器や毒物の研究を行っていた関東軍731部隊(旧日本軍細菌部隊)の関係者に的が絞られ捜査が行われた.731部 隊とは石井軍医中将が指揮をとっていたことから石井部隊とも呼ばれていたが,その存在を知る者はごくわずかだった.石井部隊は中国人を使って青酸毒物の人 体実験を秘密裏におこなっており,敗戦後,隊員たちはこの事実を墓場まで持って行くように命令されていた.そして捕虜になったら自殺するようにと青酸カリ を渡されていた。また犯人が持っていた薬剤のケースやピペットは軍医が野戦携帯用に使うもので,一般人は入所しにくいものであった.そのため731部隊の捜査を進められ,元中佐である医師Sが全国に指名手配された.
犠牲者の胃や血液から高濃度の青酸化合物が検出されたことから,犯行に青酸カリが用いられたことは間違いなかった.しかし不思議なことに,被害者が飲んだ茶碗からは青酸化合物が検出されなかったのである.青酸カリは10数 秒で死亡するほどの猛毒である.第1の予防薬が青酸化合物だとすれば1分間我慢できるはずはない.もし第2の中和薬が青酸化合物だとするとなぜ茶碗から青 酸化合物が検出されなかったかが謎であった.青酸カリよりも遅効性の青酸ニトリルを用いたことが推測されたが,それでは胃や血液中に残された高濃度の青酸 化合物の説明がつかなかった。
用いられた毒薬が青酸化合物として謎を残したのは,この事件の初期捜査の間違いに起因していた.近くの交番の警察官が帝国銀行に駆けつけたとき,この事件 を集団食中毒とみなしていた.そのため警官は湯呑み茶碗に残っていた毒物を醤油の空き瓶に入れて保存したのだった.醤油の中にはカリウムやナトリウムが含 まれているため,この毒物が青酸系であるとはわかったものの青酸カリウムなのか青酸ナトリウムなのかの区別がつかなかった。この初動捜査のミスにより,毒 物をはっきり特定できないままになった.いずれにしてもこの事件は相当毒物に詳しい者の犯行であることだけは間違いなかった.
これまでに起きた青酸カリを用いた毒殺事件は,すべてが飲んだ直後に死亡している。帝銀の犯人は何らかの方法を用いて1分間は誰も倒れないようにした.こ こに犯人の毒物に対する知識の深さがあった。また青酸カリにしては被害者たちの中に青酸中毒特有のアーモンド臭がなかったこと.被害者たちが青酸中毒では あまりみられない嘔吐とい症状を示していること.これらが青酸化合物としては妙であった。死亡の状況と解剖の結果,この矛盾点を説明することが困難であっ た.青酸化合物は第1薬にも第2薬にも含まれず,第1薬と第2薬 が胃の中で反応して青酸化合物が作られるという説がある.さらに犯行に使われたのは青酸化合物でなかったという説,青酸化合物の古くなったものが使われた という説などがある.毒物の鑑定を行ったのが,多くの冤罪事件を作った古畑種基教授がトップである東大法医学教室であったことから,鑑定そのものに疑問を 持つ者もいた.
また犯人はみずからその予防薬を飲んで見せたのである.そして犯人が生き延びたのは,薬品に油を入れ,犯人は油の部分だけを飲み下したのではないかと推定されている.
ところが事件発生から7ヶ月後の8月21日になって,捜査は予想もしなかった展開を迎えることになった.犯人として毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通(さだみち,56)が小樽市の親戚の家で逮捕されたのである。小樽市にいた平沢貞通は刑事の質問に,1月26日の行動を「終日,三越の画展にいた」と7か月前の行動を準備していたかのように即座に答えたのだった.あとの調査でそのアリバイは嘘であることが分かった.
明治25年に東京に生まれた平沢貞通は,10代後半頃から横山大観に師事し,22歳でニ科展に入選,25歳 のときに上京して東京美術学院の講師になっていた。ペンテラというのは西洋画の一種で,油絵と水彩画の中間の画法であった.犯人が残した名刺に書かれた松 井蔚は,几帳面な性格で名刺を渡した相手をすべてメモしていた.平沢貞通と名刺を交換したのは青函連絡船の中であった.平沢貞通は松井蔚の名刺を三河島駅 で財布ごとスラレ紛失したと説明した。
帝銀事件の生き残りと模擬犯人を混じえた11人による面通しが行われた.面通しの結果は平沢貞通が犯人と言った者はひとりもなく,似ていると言った者が5人,違うと言った者が6人であった。平沢貞通が不利だったのは,事件発生直後に平沢の銀行預金に入金されていた出所不明の12万円の存在であった.当時の平沢貞通は友人に借金をして断られるほど金に困っていた.平沢は事件2日後に妻に6万円渡しており,銀行預金に入金されていた12万円を加えると,ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当した.平沢貞通はこの金の出所をはっきり言えず,また犯行当日のアリバイもはっきりしなかった。さらにこれまで銀行を舞台に過去に4件の詐欺事件を起こしていたことも印象を悪くした.
平沢貞通を無罪と推定する者は次のような見方をしている.平沢貞通は狂犬病の予防注射の後遺症でコルサコフ病という病気にかかっていた.コルサコフ病という精神病は平気でウソをつき,自分でさえもそのウソが嘘か本当かの区別がつかないのが特徴であった.平沢の4件の詐欺事件は病気のせいで,平沢の自白も誘導されたものと推定した.また出所不明の18 万円もの大金存在については,生活費を稼ぐために春画を描いて売った金としている.日本画の大家として春画で生活費を稼いでいたと白状できなかったとして いる.この春画説は松本清張が唱えたものであるが,死刑がせまっている者にとって,春画のプライドより殺人犯の汚名の方が重いととらえるのが常識であろ う.18万円の存在が春画を売ったものかどうかは判明しないが,平成12年6月9日号の週刊「フライデー」に平沢が描いた春画が発見されたと書かれている.また小切手に残された筆跡鑑定では平沢貞道は犯人とは別人物という結果が出ている.
平沢貞道は留置所で身の潔白を証明するため,隠し持ったガラスペンを左手の静脈に突き刺し自殺をはかった.看守に発見され一命をとりとめたが,その後,壁に頭をぶつけ,痔のクスリを大量に飲み,自殺を繰り返したがいずれも未遂に終わっている.
平沢貞道は警察,検察の激しい取り調べを受け犯行を自白した.しかし起訴された後は一貫して無罪を主張した.平沢にとって不運だったのは,この帝銀事件の裁判が旧刑事訴訟法による最後の事件で,逮捕された時点では自白は重要な証拠となっていたことである.旧刑事訴訟法は昭和24年に改正されたが,それまでは「自白は証拠の女王」とされ,警察による取り調べでは拷問に近い自白の強要が行なわれていた. 平沢貞通は1審の第1回公判から捜査段階の自白をひるがえし帝銀事件について無実を訴えた.しかし地裁、高裁、最高裁の3審ともに有罪とされ,昭和30年5月7日の最高裁で死刑判決が下ってしまった。平沢貞通は死刑が確定したが,それでも無実を訴え続けた。
平沢貞通の冤罪を信じる人々は意外に多く,「平沢貞通を救う会」が発足し,17度の再審請求をおこなったが退けられた.また5度の恩赦願が出されたが,それも受け入れられなかった.作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った.昭和36年熊井啓監督により「帝銀事件・死刑囚」が映画化され,この映画によってこの事件は注目度をさらに高めた.
平沢貞通は死刑になったが,歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかった,そのため約32年間にわたり死刑は執行されなかった.32年間死刑が執行されなかったのはもちろん世界最長記録である。30数人におよぶ歴代の法務大臣が死刑執行を見送ったのはそれなりの理由があったからとされている。20人以上の死刑執行にサインを押した法務大臣が平沢の書類になると「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名である。法務省は最後まで死刑執行にこだわったが,歴代の法務大臣は平沢を犯人と断定できなかったのだろう。死刑確定から30年が経ち釈放の気運が高まったが,法務省はガンとして釈放を認めなかった。昭和62年5月10日,39年間を獄中ですごした平沢は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。
帝銀事件の真犯人は,事件発生当時から元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者ではないかと推測されていた.GHQ(連合軍総司令部)は731部隊に対し極東国際軍事裁判での戦犯免責を条件に731部隊の生体実験データを入手していた。GHQは731部隊の研究資料を押収した事実が暴露されないように警視庁が圧力をかけとされている。そして平沢貞通の自白によって捜査はすべて打ち切られた.また同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞がGHQから圧力を受け,追及を断念したことが後で明らかにされた。
この事件の捜査主任をしていた元警視庁捜査2課の成智英雄が平沢の無実を証言した.成智英雄は公務員の服務規程により捜査中の秘密を漏らすことはできなかったが,平沢の無実を証言したのである.証言内容は当時731部隊では青酸カリを用いた生体実験が行われており,隊員たちは致死量すれすれの青酸カリを投与した場合に,中毒症状が現れるまで1分を要することを知っていたこと.また用いられていたピペットが軍の特殊部隊でのみ使用されたものであることを証言した.731部隊のS中佐を最有力容疑者として全国手配していたが,平沢の逮捕によって捜査が打ち切られていた.医師であるS中佐は昭和29年に死亡していることが分かった.S中佐犯人説が公表されたのはS中佐が死亡して10年後のことであった.成智英雄は「救う全」に入会し,帝銀事件の犯人は平沢貞通ではないと主張しつづけた。
昭和20年8月15日から昭和27年4月28日まで,日本の国家権力はGHQというアメリカの支配下にあった.GHQの下に日本政府があり,警察や検察も同じであった。GHQが日本を支配していた時代背景を考えなければいけない.軍関係者に向けられていた捜査はGHQの壁にぶつかって頓挫してしまった。もしアメリカが731部隊を利用して細菌研究をしているということがばれたら大問題になっていただろう。そのため平沢は国際的な犯罪を隠すためにスケープ ゴートにされたと考えられる.帝銀事件はGHQ支配下の時代に起こった謎と疑惑に包まれた奇怪な事件といえる.
青酸カリ(シアン化カリウム)は白色の粉末で,きわめて有毒が強いため毒物及び劇物取締法に指定されている。青酸カリは毒物の王者と呼ばれているが,それ は毒物事件の中で青酸カリを用いた犯罪が最も多いからである.青酸カリが比較的入手しやすいためであった.メッキ工場などでは30kgの缶に入れられた青酸カリが無造作に置かれていた.青酸カリは年間3万トンぐらい生産されており,メッキ工場の従業員であれば簡単に持ち出すことができた.また頼まれてゆずることもできた.このように入手が簡単であったため,多くの事故や事件を引き起こした.
青酸カリ自体は強いアルカリ性で,飲んで胃に達すると胃酸と反応しシアン化水素(青酸ガス)を発生する.そのため青酸カリを飲んで死んだ人はアーモンド臭がする。ガスが発生し呼吸困難、呼吸停止、意識喪失などをおこし数分以内に死亡する。 成人の場合,0.15〜0.2gが致死量になる。小さじ1杯の砂糖が3gであるから,その20分の1の少ない量が致死量となる.
血痕鑑定事件(昭和25年)
事件あるところに法医学がある.これまで法医学者により数え切れないほどの鑑定書が作成され法廷で証言がなされた.もし法医学者の鑑定が間違いだったなら ば,被告人にとってはこれほど恐ろしい証人はいない.しかもその法医学者が権威ある者であれば,それだけ被告人にとって不利に働くことになる.東大法医学 教授・古畑種基教授は戦後日本の法医学の権威であり,法医学の中興の祖と呼ばれるほどの人物であった.しかし弘前大教授夫人事件,財田川事件,松山事件で は古畑教授の鑑定が冤罪という悲劇をつくったのであった.
弘前大教授夫人殺害事件
昭和24年8月6日の深夜,弘前大学医学部・松永藤雄教授の夫人すずさん(30) が,縁側から忍び込んだ何者かによってノドを刺され死亡した. 夫の松永藤雄教授が主張中の出来事だったことから,かねてから噂のあった医大生が容疑者として逮捕された.そしてこの事件は医大生の痴情や怨恨による犯罪 として容易に解決するようかに思えた.しかしこの逮捕された医大生にはアリバイがあり,警察は世間に汚点をさらす結果となった.
あせりを覚えた弘前署は事件発生から2週間ほどして,近くに住む那須隆さんを別件で逮捕した.那須隆さんは殺害を否認したが,長い拘留のすえ殺人容疑で起訴されることになった.第一審の青森地裁では証拠不十分で無罪となったが,二審の仙台高裁では有罪となり那須隆さんは懲役15年 の判決が言い渡された.二審で逆転有罪となったのは,那須隆さんが着ていた開襟シャツ(海軍シャツ)に付着していた血痕が被害者のものと鑑定されたためで あった.那須さんの自宅から押収された開襟シャツに付着した血液が,事件現場に残された被害者の血痕と同一人物のものと鑑定されたからである.血痕の鑑定 は東大医学部法医学教授・古畑種基によってなされ,古畑教授は98.5%の確率で被害者と同一人物の血液であるという鑑定書を 提出したのである.シャツに付着した血痕を被害者と同じ血液型と言わず,同一人物の血液と鑑定したことが有罪の決定的な決め手となった.また白ズック靴の 瘢痕も被害者の血液であると判定した。この古畑鑑定により,那須隆さんは冤罪を訴えながら殺人の罪で懲役刑に伏することになる.古畑種基はこの事件の鑑定 結果を雑誌や単行本で発表し,血液型鑑定の有用性を強調した.
昭和38年,11年間の服役を終え仮出所した那須隆さんは,周囲の差別に耐えながら真犯人探しを続けることになる.そして8年 後,殺人の時効が成立した後に事件当時容疑者の一人だった滝谷福松が,自分が真犯人であると名乗り出たのである.滝谷福松は那須隆さんの幼友達で容疑者の 一人だったが,ウソのアリバイを証言してくれた者がいて罪を免れていた.滝谷福松が真犯人と名乗り出たのは.三島由紀夫の割腹自殺にショックを受け,男ら しい死を考えたからであった.事件の再審判決公判が,昭和52年仙台高裁で開かれ,那須隆さんは27年ぶりに無罪となった.「開襟シャツに付いていた血痕は捏造によるもの」とされた.真犯人が名乗り出たのだから,那須隆さんは完全な冤罪の犠牲者であった.
この事件において古畑教授は数学者とともに作った「98.5%の確率で被害者と同一人物の血液」と鑑定したことに問題があった.この確率論では100%正しくなければゼロではないかという批判があり,冤罪が確定した後も司法関係者のもの笑いとなり,法医学の信用を失墜させた.
財田川事件
昭和25年2月28日午後2時すぎ,香川県三豊郡財田川村(現,財田町)でヤミ米ブローカーの香川重雄(63)さんが殺される強盗殺人事件がおきた.刺身包丁のようなものでめった突きに刺されたらしく,現場一面は血の海であった.警察は闇米の関係者などを100人以上を重点的に調べたが,警察の捜査によっても犯人は捕まらないままであった.あせりを覚えた警察は,事件から1ヶ月後に別の強盗事件の犯人として谷口繁義(19)さんともう1人を逮捕することになる.そしてアリバイのない谷口繁義さんは4ヶ月にわたる過酷な取り調べにより香川さん殺しを自白,強盗殺人罪で起訴されることになった.谷口繁義さんは公判開始から,自白は拷問による虚偽であると無罪を訴えたが,自白が有力な証拠となり死刑の判決を受けた.
古畑教授は財田川事件で血痕鑑定を行い,谷口繁義さんのズボンに付いていた血液が被害者の血液型と一致したと鑑定した.しかし後に,この古畑鑑定そのもの に疑惑が出てきたのである.つまり血痕そのものが当初の捜査では記載されておらず,血痕があったにしても微量な血液から血液型の判定は不可能ではないかと いう疑惑であった.古畑鑑定そのものが鑑定されることになり,北里大学法医学教授・船尾忠孝は古畑鑑定を否定する鑑定書を提出した.
また逮捕されたときに書いたとされる谷口繁義さんの漢字混じりの手記が証拠とされていたが,小学校しか出ていない谷口繁義さんは漢字が書けないことが判明 し,手帳が捏造された疑惑も明らかとなった.また自白の内容と実際の殺人現場には,いくつかの食い違いがあり自白の真実性に疑問がもたれた.このため谷口 繁義さんは逮捕から34年目,死刑確定から22年目に無罪となった.
松山事件
昭和30年10月18日未明,宮城県志田郡松山町の小原忠兵衛(54)さん宅で火災が発生し,全焼した焼け跡から一家4人の焼死体が発見された.司法解剖の結果,4人の遺体には刀器による傷が認められ,事件は殺人放火事件へと発展していった.
宮城県警と古川警察署の捜査本部は怨恨,痴情,無理心中.強盗の線から捜査を進めるが,捜査は難航し11月には捜査本部を解散した。ところが同年12月2日、牛豚内蔵卸業・斉藤幸夫さん(24) が別件で逮捕されることになる.有罪の決め手になったのは,斉藤幸夫さんの枕カバーや寝具に付着していた多数の血痕であった.この血液型が被害者の血液型 と一致したのだった.検察側は斉藤幸夫さんの頭髪についた被害者の返り血が寝具に付着したと主張した.斉藤幸夫さんは殺人放火をいったんは自白するが,起 訴前に自白を否認した.そして斉藤幸夫さんは無罪を主張するが一審,二審ともに有罪となり,無期懲役が確定した.斉藤幸夫さんは獄中より無罪を訴え続け, やっと再審請求が認められ,昭和59年に無罪の判決がなされた.投獄され29年間,釈放された斉藤幸夫さんは雨に濡れながら母親と抱き合った。
無罪となったのは,寝具についていた血痕が捏造された可能性があったからである.斉藤幸夫さんが逮捕され押収された時に撮影された斉藤幸夫さんの枕カバーには血痕らしい箇所は1カ所のみであったが,公判時に提出された枕カバーには無数の血痕が付着していた.押収後に血痕が捏造された可能性が出てきたのである.さらに留置場内で前科5犯の男から「やってなくても警察で認め裁判で本当のことを言えばいい」とだまされウソの自白をしたが,この男は警察のスパイだったことが判明した.
この3つの冤罪事件については東大医学部・古畑種基教授の血液鑑定が直接関与している.言い換えれば,古畑教授の鑑定により冤罪が引き起こされたと言える.
また国鉄総裁が常磐線線路上でバラバラの死体となって発見された「下山事件」の鑑定においては,古畑教授は死後轢断の他殺説をとったが,慶応医学部・中館久平教授は生体轢断の自殺説を主張し,その科学的論争が法医学の非科学性を暴露することになった.
山下事件とは昭和24年7月5日,下山定則・初代国鉄総裁(49)が登庁途中に立ち寄った日本橋三越本店から消息を断ち,翌6日午前零時25分ごろ足立区五反野の常磐線の線路上で貨物列車にひかれバラバラの礫死体で発見された事件である。当時はGHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ氏が提案したドッジ・ラインの強行によって,国鉄当局は3万700人 の首切りを前日に発表したばかりだった。その直後の事件であった.下山総裁の死が,他殺か自殺かが注目の的になった。検察側と警視庁捜査2課(知能犯を扱 う)は他殺説,捜査1課(強盗、殺人を扱う)は自殺説をとり,また新聞も他殺(朝日)、自殺(毎日)と分かれ注目を集めた.自殺ならばその動機は何なの か,他殺ならば犯人は誰なのか.他殺か自殺かは大きな政治的問題を含んでいた.警察は当初は他殺説の立場をとり,そのため犯人の濡れ衣をかけられた共産党 や労働組合は大きな打撃を受けた.その後自殺説に傾いていったが,結局は未解決のままとなった.
下山総裁が死体で発見された9日後には,無人電車が暴走する三鷹事件,さらに1ヵ月後には旅客列車が脱線転覆する松川事件と「怪事件」が相次いだ.この3 つの事件が当時の労働運動に与えた影響は大きかった。当時の吉田内閣の増田官房長官は「三鷹事件,松川事件は共産党の陰謀である」と談話を発表した.この 事件により国鉄労働組合の大量解雇に反対する運動は,その力を大いにそがれることになった.
古畑教授は日本法医学会の第一人者であり,特に血液型の研究では世界的な権威者として知られていた.ヒトの赤血球の表面に存在する血液型はランドシュタイナーにより発見されたが,3つの対立遺伝子による遺伝形式を確立したのは古畑教授の業績である.またQ式血液型などの新血液形質を発見したほか、指紋学や親子鑑別などの分野においても広範囲にわたる業績を残している。そのため昭和19年に帝国学士院恩賜賞を受賞し、昭和22年日本学士院会員、昭和31年文化勲章を受賞している。
このようにあまりに偉くなりすぎたため,古畑教授の血液鑑定に異を唱える者はいなかった.法医学の関係者の多くが古畑教授の教え子であり,たとえ妥当性を 欠いた鑑定であっても逆らうことはできなかった.多くの法医学者や司法関係者は文化勲章を授与された古畑教授の権威の前に沈黙したのである.古畑教授が法 医学という学問にどれだけ純粋だったのかは分からない.しかし法医学を純粋な学問としてではなく,社会秩序を守るという公安的な役割で捉えていたのではな いだろうか.このことが血液鑑定に影響を及ぼしたと考えられる.日本の司法において,血液鑑定に疑義をもたれ再審請求がなされたのは古畑教授が関与した3つの事件のみである.偉すぎる権威者が最もいい加減な鑑定をしたことになる.
これらの事件が冤罪事件として確定されたのは,古畑教授が昭和50年 に死去してからのことである.犯人とされた人たちにとって,古畑教授の文化勲章授与はどのように映ったことであろうか.法医学の汚点,医学界の権威主義を 示す例として医学史に残すべき事件である.医学が学問の純粋性から逸脱し権威主義を作ったことが冤罪事件を引き起こした大きな要因となった.これらの冤罪 事件により古畑神話は崩壊し,岩波書店は古畑教授の著書「法医学の話」を絶版にした.
ヒロポン中毒(昭和24年)
今日では想像できないことであるが,敗戦後の数年間,覚醒剤であるヒロポンは街の薬局で自由に買うことができた.今日ではヒロポンの名前を知る人は少ない であろうが,ヒロポンは覚醒剤の代名詞として日本中で合法的に乱用されていた.厚生省がヒロポンの有害性を認め劇薬に指定したのは,昭和24年になってからのことである.
覚醒剤はアンフェタミンとメタアンフェタミンの2種類に分類される.そして両者とも喘息や風邪薬に含まれるエフェドリンに類似した構造をもち,さらに両者 はエフェドリンの合成過程で生成することができる.日本近代薬学の開祖である長井長義(ながよし)が,喘息に効果のある漢方薬・麻黄(マオウ)からエフェ ドリンを世界で初めて抽出したのは明治11年のことであった.このように覚醒剤のもとになるエフェドリンは,世界に先駆け日本で研究がなされていたのである.しかし長井長義の長年の研究においても,長井自身はアンフェタミンやメタアンフェタミンの覚醒作用には気づいていない.覚醒作用については,昭和10年になってアメリカで初めて認識されるようになった.
昭和10年, 喘息のクスリとしてメタアンフェタミンがアメリカで発売された.この喘息のクスリが覚醒剤としての覚醒作用を知るきっかけになった.メタアンフェタミンが 「ベンセドリン」の商品名で発売されると,ベンセドリンに中枢神経の興奮作用があることが口コミで広まり,「スーパーマンのクスリ」としてアメリカの学生 や長距離トッラクの運転手の間で流行した.また女性の間でもやせグスリとして密かにベンセドリンが使用されることになった.
メタアンフェタミンより覚醒作用の強いアンフェタミンは,主にドイツで研究がなされていた.ロンドン空襲に出撃するドイツ軍パイロットの眠気覚ましとし て,アンフェタミンは積極的に用いられた.アンフェタミンの覚醒効果はドイツ軍と友好関係にあった日本にもすぐに伝えられ,アンフェタミンは昭和16年に長井長義が創立した大日本製薬から「ヒロポン」の商品名で発売されることになる.アンフェタミンは長井長義が世界で初めて合成したことから,覚醒剤が日本で独自に開発されたと誤解されているが,ヒロポンはドイツの製造方法をまねて販売されたのである.
ヒロポンの名前は「疲労をポンととる」というイメージとともに国内で広まっていった.しかしその当時は,覚醒剤としての副作用や覚醒剤中毒に関する認識は まったくなかった.ヒロポンは主に軍部を中心とした軍用薬品として用いられ,内服剤ばかりでなく即効性のある注射用ヒロポンも開発され使用された.特に特 攻隊の飛行士の間では,眠気や恐怖心を取るクスリとして盛んに用いられた.また徹夜作業を続ける軍需産業の工員のあいだでも士気を鼓舞する目的で半強制的 に服用されていた.ヒロポンは「突撃錠」「はっきり薬」と呼ばれ広く使用されていた.
このように軍部を中心に使用されていたヒロポンが,敗戦と同時に大量に民間に流れこむことになる.また在庫を抱えた製薬会社が,街の薬局で大々的な宣伝と ともに販売することになった.ヒロポンの爆発的な流行は,敗戦によって退廃に堕ちいった人々の気持ちを捕らえた.さらに虚無と刹那主義に溢れる世相を反映 するものとなった.神国日本を信じていた人たちがすべての価値を崩壊させ,虚脱の中でヒロポンに救いを求めたのである.まさにヒロポンは戦後の落とし子と いえた.
ヒロポンは大日本製薬が製造していたが,市場に出回っていたのはほとんどが密造によるものだった.ヒロポンの値段は1本12円と酒よりも安い値段だった.そのため何の恐れももたない人たちの乱用をまねくことになった.またヒロポンを密造する者にとっても,原価が販売価格の10分の1であったことから,何度検挙されてもボロ儲けが忘れられず,密造を止めることはできなかった.当時の映画館の入場料が100円だったことから,ヒロポンの値段がいかに安かったがわかる.昭和28年,大日本製薬は14万アンプルを販売していたが,大阪府警に押収されたアンプルは2170万本であったことから,いかに膨大な量の覚醒剤がヤミルートで出まわっていたかがわかる.この反社会的ヒロポンの製造に抗議した大日本製薬の労働者に対し,会社は「生産阻害者」として首切りでこたえた.昭和28年の全医薬品生産高は約740億円であったが,覚醒剤の売り上げは年間220億円に達していたとされている.
ヒロポンは中枢神経の興奮作用が強く,ヒロポンを打つと頭がさえ疲労をとれ,多幸感と活動性を得ることができた.自信と性欲の増進をもたらし,長時間にわ たる性交を可能にした.一度ヒロポンの快楽を味わうと多くがその虜になった.しかしクスリが切れればその反動として虚脱感が全身をおそった.不眠,興奮, 不整脈などの副作用が常用者を苦しめた.さらに幻覚,妄想,混迷,人格障害などといった精神分裂病に似た症状を引き起こした.これがいわゆるヒロポン中毒 である.そしてクスリが切れると,さらにヒロポンを求めようとする飢餓感におそわれた.中毒者たちは一日何本も注射を射たなければ我慢ができなくなり,ヒ ロポンを手に入れるため犯罪に走る者が続出した.中毒による幻覚,妄想による殺人,暴行,自殺などの反社会的犯罪が引き起こされた.
ヒロポンは夜遅くまで働く人たち,特に流行作家や芸能人の間で乱用が広まった.坂口安吾,織田作之助,田中英夫など当時の無頼派と呼ばれた作家たちが,ヒ ロポンを打ちながら原稿を書き,中毒におちいっていった.高見順の「高見順日記」にはヒロポンについての記載が詳しく書かれている.さらに芸能界では文壇 界以上にヒロポンは広まり,楽屋ではヒロポンを腕に注射する光景が日常的となっていた.徹夜で勉強する学生,内職の主婦たちの間にもヒロポンは浸透し,昭 和24年ごろからは,世相の変化に希望を失った青少年の間でもヒロポンは広がりをみせた.そしてヒロポンの被害は黙視できないほどの猛威となり,「亡国の魔手」とまで表現されるに至った.当時の浮浪者や愚連隊の6割がヒロポンを常用していたとされている.また銭湯の客の1割に注射痕があったとされている.ヒロポンはこのように多くの青少年の心身を蝕んでいた.使用3ヵ月から1年半でヒロポン依存症が形成された.
文頭に述べたように,昭和24年 までは誰もが薬局でヒロポンを買うことができた.また新聞にもヒロポンの広告が堂々と掲載されていた時期があった.このようにヒロポンは,かぜ薬と同じ感 覚で一般人が容易に買えるクスリであった.薬局で販売されていたという事実は,政府がヒロポンを公認していたと言い換えることができる.
ヒロポンの害がしだいに社会問題となり,そのため昭和24年3月にヒロポンは劇薬に指定されることになる.しかしその制限は緩やかで14歳以上であれば住所,氏名を明記すればヒロポンを薬局で買うことができた.昭和26年に覚醒剤取締法が公布され,製造や使用に制限が設けられたが沈静化には至っていない.最盛期の昭和29年には全国で約5万6千人が覚醒剤取締法違反で摘発されている.昭和29年,全国で常用者が285万人(うち28%が中毒者)となり,多くの人たちがヒロポンを使用していた.
ヒロポン中毒は多くの凶悪犯罪を引き起こした.昭和29年4月,東京文京区の小学生が学校のトイレで暴行殺害され,また大阪ではヒロポン中毒者に3人の幼児が運河に突き落とされ死亡する事件が起きている.精神病院ではヒロポン中毒者が多すぎて収容しきれないほどであった.ヒロポン中毒者により定員超過となった東京都立松沢病院では,入院患者どうしの殺人事件が起きている.政府はこれら凶悪犯罪にショックを受け,昭和30年に覚醒剤の取締を強化することになった.それまでの取り締まりは中毒者を保護することが中心であったが,製造した者や販売した者を検挙し摘発するように方針を変えたのである.その結果,ようやくヒロポンは沈静化することになった.
このように昭和29年をピークとする「ヒロポン蔓延期」が覚醒剤の第一次乱用期であった.以後,取り締まりの強化や経済の復興によりヒロポンは下火になるが,20年後に新たな覚醒剤乱用の流行をむかえることになる.昭和59年頃から,暴力団が資金源確保のため密造密売を行い覚醒剤の第二次乱用期をむかえることになる.そして,第3次乱用期は中国・福建省などから覚醒剤が大量に流入し,外国人が街頭販売をおこなった平成10年頃である.第3次 乱用期の特徴は,末端価格の低下によって乱用者の層が高校生にも広がり,一種のファッション感覚で流行したことである.また覚醒剤ではないが,覚醒剤に構 造が似ているエフェドリンを大量に常用し幻聴や幻覚にひたることも流行した,市販のかぜ薬にエフェドリンが含まれており,そのためかぜ薬を大量に内服する 依存症が青少年の間で問題になった.
覚醒剤が恐ろしいのは,覚醒剤中毒による死亡,あるいは幻覚による殺人である.昭和56年6月には東京深川の路上で覚醒剤常連者が乳児2人,主婦2人をナイフで刺す事件が起きている.この深川通り魔殺人事件は,逮捕された犯人がテレビ中継されたことから世間の注目を集めた.また平成5年には新幹線の乗客が覚醒剤常習者からナイフで刺され死亡している.
さらに問題となるのは,覚醒剤を止めても神経障害などの後遺症が長期間にわたり持続し廃人に近い状態になることであった.覚醒剤を中止して,治療で治った ように見えてもアルコールや精神安定剤の投与をきっかけに,あるいは再び少量の覚醒剤を使用した場合に,激しい幻聴・幻覚を引き起こすフラッシュバック現 象(flashback phenomenon;再燃現象)が治療上の問題になっている.フラッシュバック現象は精神分裂病の症状に似ており,覚醒剤をやめて5年,10年経っても後遺症として残り,しかも日常生活のなかでいつ襲ってくるか分からないという恐ろしさがあった.
現在,覚醒剤使用者の特徴は年齢が低下していることである,覚醒剤に手を出す青少年が増えてきている.その動機の多くは興味本位からであり,みんながやっ ているからという理由で罪悪感にとぼしい.また女子学生も肥満解消を理由に安易に使用する傾向がある.若者の間では,「スピード」とか「S」 といった軽い呼び名で覚醒剤は広く深く浸透している.しかし当然のことであるが,覚醒剤は将来性のある青少年の身も心をもボロボロにするのである.覚醒剤 は若気の至りとして簡単に片づけられない問題を含んでいる.覚醒剤の使用を後悔しても,その後遺症から一生逃れられずに苦しみ続ける患者が多い.また覚醒 剤の服用をやめても,半数近くがまた覚醒剤を使用するようになった.
麻薬よりも覚醒剤が大きな問題となっているのはわが国の特徴である.「覚醒剤やめますか,それとも人間やめますか」まさに,その言葉とおりである.
クレイマーと医療費未払い
平成18年の調査では、東京都の約210の病院で、1年間の患者による院内暴力は2674件、1病院当たり13.3件起きています。さらに苦情を言って治療費を払わないのは1年間に727件でした。このような理不尽なクレームは、医療側に長期にわたる精神的苦痛を強いらせます。すぐに怒鳴ってくる患者はごく一部ですが、それが100人中1人でも、医師や看護士は精神的トラウマとなってやる気を失うのです。
「医療費が高い」、「院長を出せ」、「こんなに待たせて駐車料を出せ」と言う者もいれば、「間違っていたら責任を取れ」、「病気が治らないのに、なぜ金を払うのだ」などのクレームがあります。病院で患者さんが転んでけがをすれば「賠償金を出せ、入院費は払わん」と血相を変え、胸ぐらをつかみ、怒鳴ってくる家族もいます
彼らは確信犯と、妙な正義感と、無教養が大部分です。確信犯は金の要求はせず、「誠意を見せろ」と言います。つまり金の要求は犯罪になることを知っているのです。妙な正義感をもつ者は「医師や看護師の態度が悪い、食事がまずい」など、医療職員の多忙を知らず、食事の料金を知らず、「悪い職員や病院を懲らしめよう」と思っています。また「医師の態度が悪い、いやらしい顔で診察をした。苦しんでいるのに看護師は楽しそうに仕事をしている」と言われても、それは相手の主観ですから困ってしまいます。ただひたすら謝るだけです。無教養の患者は診察が遅いと廊下で暴れ、看護師を呼びつけて怒鳴りつけます。病院は社会の縮図ですから、様々な患者さんがいますが、このような傾向が最近みられます。
また治療費を払わない患者が増えています。日本病院協会の調査では未納金総額は年間約220億円、全国の国立病院では年間146億円になっています。最近では岩手県立宮古病院の未納金総額が2億円を超えたことが話題になりました。治療費を払う能力があるのに払わない確信犯がいるのです。医療機関は患者の診療を拒否することはできませんが、医療費を払わない患者には罰則はありません。もちろん生活苦から医療費を払えない患者には同情し、相談に乗ります。しかし払う能力があるのに払わない確信犯には有効な手段がないのです。未収金の回収コストには手間が掛かり、病院経営をさらに悪化させます。これこそ詐欺罪に相当するモラルの低下です。
数年前から、救急での妊婦のたらい回し事件が社会的問題になっていますが、この事件の背景には妊婦が定期検診を受けず、出産間際になって救急車を呼ぶケースが多数含まれています。病院は飛び込みの妊婦を受け入れると、検診なしの出産ですから危険性を予測できず、神経をすり減らしての出産となります。そして出産すると、妊婦はお礼も言わず、出産費用も払わずに消えてしまうのです。平成19年だけで977の産科病院の出産未収金は12億4500万円、全国の母子医療センターだけでも出産未納金者は年間300人以上もいるのです。
出産すれば出産費用とほぼ同額の出産一時金をもらえますが、それを他のものに流用するのです。第2子を産んでも堂々と出産費を払わない常連女性もいます。未払いでも罰則がないことがうわさになると、同じような妊婦が増えることになります。
救急医療でも未納金が多くあります。救急患者は保険証をもたず、現金もないことが多いからです。医療費の踏み倒しは、かつてはありえないことでした。そのため法的整備はなされておらず、病院の泣き寝入りになっています。「衣食足りて礼節を知る」これは中国の管仲の言葉ですが、今の日本人を見たら、「衣食足りても、礼節を忘れ、ずるさのみを知る」と言い換えることでしょう。かつての日本人のほうが貧しくても、生きほうが美しかったと思います。
しかし諦めてはいけません。平成17年4月25日、あの107人の犠牲者を出したJR福知山線脱線事故を思い出してください。事故発生直後、日本スピンドル製造の社員20人がすぐに現場に駆けつけ救出作業を始めました。齊藤十内社長はすぐに操業停止を命令、全社員270人を救助に走らせました。社員たちは救急箱やカッターなどの道具をもち、励ましながら負傷者を次々に助けました。救急車が来る前に、警察が来る前に、社員たちは自分たちのマイカーやトラックで病院に負傷者を搬送し130人以上を救助しました。いっぽうマスコミは取材ヘリを現場に飛ばし、救助者の声や生体反応を轟音でかき消し、救助活動を妨げたのです。日本スピンドル製造に日本人の清い心が残っていたように、日本はごく一部の悪貨が大多数の良貨を駆逐しているだけで、日本人の心はまだ清く再生できるはずです。隣人や弱者へのおもいやり、社会的正義感、健診と勇気、勤勉な性格と品格、敬意と感謝、このような日本人の美徳はまだ心の中に残されているのです。
医療事故
平成11年1月 11日、横浜市立大学医学部付属病院で起きた「患者とり違え事件」をきっかけに、国民の医療に対する関心が高まり、医療安全が叫ばれるとともに、医療に対する不信感が高まりました。「患者とり違い事件」は徹夜で働いていた1人の看護師が2人の患者が乗った2台のベッドを手術室へ運んだことが原因でした。この事故で看護師は罰を受けましたが、この事故は看護師が悪いのではなく、看護師の人員不足が生んだ悲劇なのです。もちろん横浜市大病院は看護師の定数を満たしていました。つまりこの事故は国が決めた看護師定数の設定が引き起こしたといえます。ちなみにアメリカでは患者を搬送するのは看護師ではなく、救命救急の資格をもった搬送専門家が行っています。
病院では鎖骨の近くから点滴を入れている患者が多くいます。これは鎖骨下静脈に太いチューブを挿入して、高カロリーの点滴を行うもので、この点滴法によって患者の予後は劇的に改善しました。病室には気管内挿管で呼吸管理となっている患者が多くいますが、気管内挿管で救命しえた患者は数え切れないほどです。このように高カロリーの点滴や気管内挿管の恩恵は絶大ですが、常に危険が伴い10回に1回は失敗するのが医学的常識です。しかし医師がこの失敗で起訴される最近目立つようになりました。鎖骨下静脈への点滴、気管内挿管、これは救命のため、必要だから行うのです。これを失敗した医師を罰するのはあまりに酷すぎます。
そもそも医療にたずさわる者に、絶対とは言えませんが、悪い人はいません。毎日困っている患者を見ていれば優しい心になるものです。通常の医療行為を行えば、事故は一定の確率で発生します。採血でさえ10回に1回は失敗するように、医療事故をゼロに近づけたくても、ゼロにはならないのです。当たり前の医療行為でも常にリスクが伴うのに、善意を悪意にとらえられれば士気が著しく低下します。医師たちの多くは、地雷原を歩んでいる気持ちで毎日診察しているのです。
マスコミは事故があるたびに、医療側を激しく非難します。マスコミは被害者を武器に、正義の味方となり、医師の弁解も「被害者の心情を知れ」の言葉で黙らせ、反論さえ許しません。医療事故にともなうマスコミ報道、患者の権利意識の高まり、医学の進歩による医療行為の増加、医師の多忙による患者との対話不足、このことから医療訴訟は10年前の1.5倍になっています。そして医療事故が裁判で争われても、医療行為が高度化しているため、それが医師の過失によるものなのか、病気のせいなのか、因果関係が分かりにくく、また医療事故は密室で起きることから、医師が正当性を訴えても、常に疑惑の目で見られてしまいます。
人間の身体は複雑です。特に病気で入院した患者さんの身体は弱っており、偶然の死亡もあり得ます。病院で患者が転んで骨折をすれば、あるいは食事を喉に詰まらせれば、家庭でも同じことがおきるのに、家族は「病院の責任」を追及してきます。また家で心肺停止となった患者が病院に運ばれるのは日常的なことですが、入院患者が病院で心肺停止となった場合、家族は病院の医療ミスをしたと思うのです。たとえ司法解剖を行っても、司法解剖で死因が確実となるのは半数以下にすぎません。このように死亡原因が分からないことが多いので、家族が真相を知りたいと訴えても、それは推測の枠内であって、真相は主治医でさえも分からないのです。主治医が経過を説明しても、死亡原因の可能性は説明できても、真相までは分かりません。明らかな医療ミスは分かりますが、真相の曖昧なものを裁判で白黒をつけることは無理なのです。真実を知りたいという家族の希望は理解できますが、医療側は真実を隠しているのではなく、医療側も原因が分からないことが多いのです。
たとえば海難事故は、その原因が専門家でなければ判断がつきにくいので、海難審判所が審判を下します。航空機事故では事故調査委員会が調査を行います。医療事故も海難事故や航空機事故と同様に、医学の専門家がその過失の有無を調べるべきです。もちろん医師だけでなく、法律家、第三者が協議する中立的組織で審査することです。
ドイツでは医療事故を疑った場合、患者や家族は第三者の鑑定委員会に訴え、約9割が鑑定委員会の裁定に従います。そして裁定に納得しないときは医師職業裁判所に訴えますが、医師職業裁判所の判決の9割が鑑定委員会と同じ判決になります。ドイツの制度で興味深いのは、医師の倫理規定が厳しく糾弾され、医師への罰金が高額で、悪質な場合は医師免許が取り消されます。患者側は勝訴しても、医療過誤が認められ、さらに医師が罰せられたことから、慰謝料を要求しないのが大部分です。スウェーデンには「信頼促進委員会」が設置され、信頼促進委員会は医師と患者との信頼を促進する立場に立ち、事実の解明と責任を判定し、医療側に過失があれば懲戒を勧告します。
アメリカでは不審死は解剖によって死因が調べられ、解剖結果は閲覧が可能で民事訴訟に使われます。医師に過失があれば、医師は免許を失い民事裁判になります。平成12年の統計では、アメリカの約70万人の医師のうち、免許取り消し1642人、免許停止745人で、医師免許取り消しは日本の500倍になります。このようにアメリカの行政処分は厳しく、行政処分が日本の刑事処分に近い懲罰的な意味をもっています。
日本では医療事故をあつかう公的機関がありません。そのため医療事故が起きると、警察による犯人探しとなり、原因解明や再発防止は二の次になります。その結果、医療事故は教訓にならず、さらなる事故を生むことになります。医療事故に対応できる法の整備、公的な第三者機関の設置が求められます。第三者機関は通常の発想では厚労省に置くことになりますが、外国では医療行政の監督官庁とは独立しています。第三者機関を厚労省に置けば中立性と公正性に疑問が生じ、天下り先、特に社会保険庁の職員の天下り先になります。
医療行為は悪意のない行為です。その行為を司法ではなく、医学的常識、人間としての常識をもつ者にゆだねるべきです。そして中立的な組織の決定に不満がある場合にのみ裁判に訴えればよいのです。
医療事故は裁判で勝っても負けても遺恨は消えません。そのため医療側の過失とは関係なしに、患者や家族を救済する無過失補償制度を導入すべきです。たとえば出産で脳性麻痺となった場合、これまでは裁判で医師の過失が争われましたが、平成21年1月1日から、通常の出産で脳性麻痺となった場合は、産科医療補償責任保険から約3000万円が支払われることになりました。この制度では一時金として600万円、20歳になるまで毎月10万円、計3000万円が支払われます。この制度の問題点は、運営が営利目的の民間保険会社であることです。全国の分娩件数は年間約100万件で、出産時の脳性麻痺は年間500から800件とされています。掛け金は1件につき3万円ですから、300億円の保険料が民間保険会社に入り、支出は年間500件で150億円、年間800件で240億円となります。しかもこの数値は脳性麻痺の乳児が20歳になるまで全員が生存した場合の金額です。つまり巨大な余剰金をどうするかの議論は曖昧のまま、民間保険会社の利益になる可能性があるのです。また救済制度といいながら、脳性麻痺になりやすい未熟児、軽症の脳性麻痺、出生時の感染症、先天性脳性麻痺を対象から排除していることに疑問があります。
産科医療補償制度は警察への通知義務はなく、保険料3万円は医療保険の出産一時金に上乗せするので、妊婦にとって実質的な負担増はありません。この産科医療補償制度は公的なものですから、財務内容を公開させ、余剰金を還元させるべきです。そして無過失補償制度を医療事故全体に広めてほしいのです。
医療事故には人的ミスもありますが、システムによるミスもあります。たとえば薬剤は数万種類と膨大なため、似た名前の薬剤が多数あります。アマリール(糖尿病薬)とアルマール(降圧薬)、テオドール(気管支拡張剤)とテグレトール(抗てんかん剤)、セレネース(抗精神病薬)とセレナール(抗不安薬)、アルサルミン(胃薬)とアルケラン(抗がん剤)、フェルムカプセル(増血剤)とフルカムカプセル(消炎鎮痛剤)など、他にも間違いやすい薬剤がたくさんあり、これらの誤投与による死亡例も報告されています。厚労省は医師や薬剤師が互いに薬剤名を確認することを求めていますが、このような薬剤名を許可したことが悪いのです。現在、病院での処方はコンピュータで入力され、薬剤の最初の数文字を打ち込めば、薬剤の候補が画面に出る仕組みになっています。そのため画面のクリック1つで薬剤を間違えるのです。入力間違いを防止するには、病名と薬剤が一致しない場合、ストップする仕組みをつくることですが、これほど簡単な仕組みがなされていません。何のためのコンピュータの導入なのか不思議でなりません。
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