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2010.01.19 06:29 |  昭和 20年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 1

日本医師会の発足

日本医師会の発足(昭和23年)
 慶応3年(1867)10月の大政奉還とともに明治政府が誕生.明治7年以降,明治政府はそれまでの漢方医学から西洋医学へと変換する方針を決めた.明 治政府が西洋医学を導入してから,医学会社などの医師の親睦団体はあったものの,日本医師会と呼べるほどの大規模な組織は作られていない。
 しかし西洋医学が本格的に導入され,明治23年4月には第1回日本医学会が開催されるころになると,医師の数も増加し自分たちの資質の向上や医業権益確 保のため医師会設立の気運が高まってきた。医師会発足は明治26年に全国の薬剤師が医薬分業の実施を求め日本薬剤師会をつくったことが大きな起爆剤となっ た.同年,全国の医師有志が集まり大日本医会が小さいながら創設されることになった。
 日本医師会の歴史の中で興味深いのは,日本医師会の設立は医薬分業を主張する日本薬剤師会に対抗することが目的だったことである.そして設立後の日本医 師会の活動も,常に医薬分業を阻止する活動であった.このように医薬分業は医師会設立のための起爆剤であり,医師会の団結を維持するための刺激剤になって いた.
 明治39年に日本薬剤師会が医薬分業を定める法案を再度政府に提出,それに対抗するため県単位の医師会が相次いで誕生した.そして明治43年に関東,東北,関西,九州などのブロック別の医師大会が開かれるようになった。
 年号が大正に変わり,日本薬剤師会が再び医薬分業を政府に要求したことから,日本医師会設立の機運が高まり,大正3年に日本連合医師会が設立された.し かし参加した都道府県は少なく本格的な活動には至っていない。このような流れの中で薬律改正案が再三議会に提出され,この動きに医師たちの危機感が再び高 まり,大正5年11月10日,ついに大日本医師会が誕生した。
 大日本医師会に参加した医師は総数4万3000人である。大日本医師会の設立の理念は日本の医療を良くするための情報交換と医師の社会的地位の確保で あった.そして大日本医師会の会長には,破傷風とジフテリアの血清療法を発見した伝染病研究所所長・北里柴三郎が選任された。北里柴三郎は慶應義塾大学医 学部の初代部長であり医学界の重鎮であったため,その名声によって全国的規模の大日本医師会が結成されることになった.
 大日本医師会の開会の挨拶に立った北里柴三郎は,「3万有余のわが会員は,国民に直接接する開業医のみでございます」と述べている.この言葉から分かる ように,大日本医師会は開業医の組織として設立された。会員の大部分が開業医で占められ,大日本医師会は反帝国大学,反官僚的な要素に満ちていた.北里柴 三郎の在野精神が多くの医師の賛同を得たといえる.
 大日本医師会は薬剤師会の政治力に対抗するため,衆議院に議員を送ることを決議,そして総選挙で14人の医師出身議員を当選させる実力を示した.当初は 自発的入会であったが,大正8年の医師法改正により郡市区医師会,道府県医師会が強制的に設立され,医師会の加入が任意から強制となり,公立病院の勤務医 も加入が義務づけられた。また医師会の公法人化がはかられ,大正12年11月に大日本医師会は全国組織として日本医師会と名称を変え任意法人の認可を受け ることになった.その定款第3条に「本会は医道の昂揚、医学、医術の発展普及および公衆衛生の向上を図り、社会福祉を増進することを目的とする」と記載さ れている。このように日本医師会は医道の昂揚という精神面と、医学、医術という学問・技術の面を基本とした学術団体であることを表明した.北里柴三郎は昭 和6年6月13日に脳溢血で死去(享年78)するまで医師会長を務め,死去後は北里の弟子である北島多一が昭和18年1月まで2代目の会長を務めた.
 このように日本医師会は発展していったが,満州事変から太平洋戦争へと続く戦時体制のなかで日本医師会は国家総動員体制に組み込まれることになる。昭和 17年2月,東条内閣のもとで戦争遂行のための国民医療法が設定され,日本医師会は国策に協力することが義務づけられた.日本医師会は国家統制の下に置か れ,医師会の役員はすべて国が任命する官選となり翼賛体制に完全に組み込まれ管制医師会となった.昭和18年2月,小泉親彦厚相は三代目医師会長に稲田龍 吉,副会長に中山寿彦を任命した.また医師会と平行した組織として日本医療団が設立された.日本医療団は国家総動員体制における病院や診療所の運営,医療 関係者の指導錬成にあたることを務めとし,医療団総裁には医師会会長・稲田龍吉が兼任することになった。医師会は戦争遂行のための国家組織のひとつとして 終戦を迎えることになる。
 第二次世界大戦が終了し,連合国総司令部(GHQ)は日本のあらゆる分野の民主化を指示することになる.アメリカ自由主義の理念を基本に民主主義的改革 が提案され,日本医師会も国家統制の医療を改めるように命じられた。昭和20年11月,GHQは医師会の役員を選挙で選ぶように指示,昭和21年2月の役 員選挙で中山寿彦が会長に選ばれることになった。さらに昭和21年9月30日,GHQは日本医師会を強制加入から任意加入とすることを指示。昭和22年8 月13日には日本医師会設立委員会が発足した.委員長には榊原亨,副委員長には黒沢潤三が選ばれた.しかしGHQは管制医師会に関係した者の排除を通告 し,そのため設立委員会のメンバーは医師会執行部に入れないことになった。
 昭和22年10月31日「医師会,歯科医師会及び日本医療団の解散等に関する法律」が公布され,11月1日に新生「日本医師会」が認可設立され新たな出 発となった.新生「日本医師会」の会長には東大教授・高橋明が選任された.新生医師会は新憲法の精神にのっとり,会員はそれまでの強制加入から任意加入と なり,日本医師会は自主的運営を行う法人となった.医師たちの自由意志で参加する任意の団体となったのである.都道府県医師会、郡市区医師会への加入が日 本医師会加入の前提となった。
 日本医師会の目的は,医道の昂揚,医学の発展,医療の普及と公衆衛生の向上,医師の補習教育,会員間の相互扶助を図ることとされている.しかし実際に は,開業医の利益擁護が活動の中心になっており,特に昭和32年から25年続いた武見太郎体制下の日本医師会は強力な圧力団体として政治力を発揮した.こ の武見太郎の政治力は日本医師会の政治力ではなく,武見太郎の個人的政治力であった.武見太郎は吉田茂総理の甥に当たり,厚生省ではなく政治家を相手に医 療制度を変えていった.それまでの医師会長は役員が変わるたびに厚生省に挨拶に出かけたが,武見太郎は厚生省に挨拶に行かず,厚生省が武見太郎に挨拶にく るようになった.
 日本医師会は同会員により日本医師政治連盟が組織され,豊富な資金力でロビー活動を行った。支持政党である自民党に多額な献金をおこない,関連官庁へも 絶大な力をふるった.とくに社会保険診療報酬をめぐっては厚生省や健康保険組合連合会と常に対立し,強力な圧力団体となって開業医の利益を守った.医師を 代表する他の有力団体がないので,日本医師会の賛成がなければ日常の医療行為,医療政策が遂行できないという強みがあった.また日本医師会は少なくとも開 業医をはほぼ完全に組織化しているおり,いざという時にはスト(保険診療の拒否)を行うこともできるという大きな脅威力を持ち,また日本医師会は各種委員 から推薦委員を総引き上げさせるという手段によって,日本の医療と保険行政に大きな影響力を持っていた.
 しかしこのような日本医師会の強みは昭和50年頃までであって,武見太郎の引退後はその政治力は急速に低下してゆき,現在ではかつての政治力はみられな い.日本医師会は厚生省関係の審議会や協議会に多くの代表を送り込んでいるが,医療保健行政への影響力はかつてほどではない.そして逆に日本医師会との長 い対立抗争の結果,厚生省の団結が強くなり医療行政の主導権は厚生省に代わってきている.厚生省は官僚の考える医療を国民に平等に安く提供しようとするの に対し,日本医師会は各医師がもつ技術を自由に,しかも国民に平等に実践しようとする考えをもち,この2つの考えの違いが常に対立点となっている.それは 医療費を下げようとする厚生省,医療費を上げようとする日本医師会の対立であり,その医療費を誰がどのように負担するかが常に議論されている.
 武見太郎(12期24年)のあと日本医師会長は花岡堅而(1期2年),羽田春兔(4期8年),村瀬敏郎(2期4年),坪井栄孝となっている.
 日本医師会はこの組織のほかに,政治団体として「日本医師会政治連盟」がある.日本医師会と日本医師会政治連盟は組織は違っているが,医師会の会員は同 時に日本医師会政治連盟に加入しており,政治団体として政治家に寄付をおこなっている.政治家への寄付金は約15億円に達している.
 また一般にはあまり知られていないが,日本医師会は日本医学会を傘下に持ち,日本医師会の主催で4年ごとに日本医学会を開催している.日本医師会に加入 していない大学病院の医師や勤務医は日本医師会と各学会は無関係と思いがちであるが,医学関係の各学会は日本医師会の下部組織になっており,学問の上でも 日本医師会は日本の医学会を牛耳っている.このため各学会が政府に直接働きかけることはできず,国への要望は常に日本医師会を介することになる.このよう にして,日本医師会は医学研究の総括もおこない,対外的にも対内的にも,構造的に強固な組織を作り上げている.
 日本医師会は医師が集まったエリートの集団であるという特徴がある。しかし同じエリート集団としての「弁護士会」はもっと厳しい集団で,日弁連は会員で ないと弁護士活動ができない.また日弁連の会員を除名された場合,その弁護士は追放されたようなもので失業状態になる.日本医師会の会員は医師会を除名さ れても,医道審議会で処罰されない限り医業を行うことができる。そのため職業集団としてのインパクトは日弁連の方が日本医師会より強いといえる.このこと もあり,日本医師会に所属しないで開業医となるケースが最近増えている.
 日本医師会は47都道府県医師会の会員により構成され,それぞれが独立した法人組織になっている.日本医師会は各都道府県単位に会員500人に1人の代 議員を出すというシステムになっていており,現在の会員数は開業医8万2千人,勤務医7万4千人の計15万6千人である.勤務医の比率は以前に比べ高く なっているが,勤務医は準会員でありまだ開業医が主体の組織といえる.

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