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2010.01.18 21:04 |  車 / バイク/ 船  |  スーさん  | 推薦数 : 0

トヨタ批判 2

 平成2073日、経団連は、「消費税の社会保障への目的税化」を唱えました。しかし経団運が消費税増額を主張したのは企業の社会保険料の負担を減らしたいからで、むしろ経団連は消費税について口を出すなと言いたい。本来ならば、格差社会をつくった大企業優先政策を国民生活重視に転換すべきですが、あえて企業税ではなく消費税の増税を提言するのは、日本の国力を考慮してのことです。経団連は「企業税を下げなければ、企業は海外に出て行く」と脅していますが、社会のために貢献する気持ちのない、愛国心のない企業は「どうぞ海外に行ってください」と言いたい。

 そもそも大企業は世界を相手に商売をしているので、消費税はそれほどの打撃はないのです。たとえばトヨタ自動車が鉄板、タイヤ、ライトなどの部品を買う場合には消費税を払います。しかし自動車を輸出する時には、部品などに払った消費税が還元されるのです。これは「輸出戻し税」とよばれ、トヨタ1社で年間2869億円、輸出企業全体で約2兆円が懐に入っています。もし消費税が10%になればトヨタ自動車1社で5738億円、輸出企業全体で約4兆円になります。このように大企業は消費税が上がっても痛くもかゆくもない。むしろ消費税万歳、消費税イコール輸出補助金になります。

 日本の企業は世界で最も安い企業負担という恩恵を受けているのですから、「輸出戻し税」の還付税を減らすか、社員の最低賃金のアップを義務づけることです。最低賃金をたとえ時給1200円にしても、法定労働時間が月160時間なので、年収は230万円にすぎないのです。また億単位でもらっている会社役員の給料を下げるため、役員給与は企業内最低賃金者の10倍以内に制限するという考えもあります。

 いっぽう消費税は医療にとっては死活問題です。病院や診療所は薬剤や医療機器を買う場合は消費税を払いますが、その消費税を患者からとれないので損税になっています。平成9年に消費税は5%になりましたが、病院と診療所に還元されない損税は年間4600億円になります。平成10年の日本病院協会の調査では1病院当たり年間平均6036万円、1診療所では数十万円以上の損失で、消費税が10%になれば1兆円以上の損失になり、そうなれば日本の病院、診療所は全滅になります。

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2010.01.18 16:57 |  車 / バイク/ 船  |  スーさん  | 推薦数 : 0

トヨタ批判 1

 平成20年11月12日、日本経済団体連合会の初代会長でトヨタ自動車の相談役である奥田碩氏は、厚労省の医療政策に批判的なテレビ番組に対し、「スポ ンサーを降りて、マスコミに報復してやろうか」と発言しました。それは企業に有利な医療政策に対するマスコミへの恫喝であると同時に、厚労省が経済界に有 利な政策をしていることの証拠といえます。かつて奥田碩氏は「リストラするなら経営者は腹を切れ」と発言していたのに、トヨタ自動車は非正規社員を首にす る、下請け会社をいじめ抜く、マスコミへの言論の弾圧。これだけのことをやるならば、マスコミはトヨタ自動車の広告を全部やめればよいのです。トヨタ自動 車でなくても日本には優秀な自動車会社はいくらでもあります。企業は人間を幸せにするために存在するのであって、人間への幸せへのご褒美が利益なのです。 利益のために人間を道具のように使い捨てる企業を許すことはできません。
 世界不況を迎え、真っ先に非正規社員の大幅削減をしたのはトヨタ自動車でした。トヨタ自動車がある愛知県豊田市では路上生活者があふれ、寒さに震える解 雇者で溢れました。トヨタはトヨタ・ホームという会社をもっていますが、新たにトヨタホームレス会社をつくったのです。トヨタ自動車の従業員数は、平成 13年から現在まで6.6万人とほとんど変わっていません。しかし非正規社員は、平成16年は全従業員の10%でしたが、2年後の平成18年には26%に なっています。もちろんこの正規、非正規の格差はトヨタだけではありません。平成6年には日本の全雇用者の85%が正規雇用でしたが、平成19年には 66.5%になり、特に若年層の半数が非正規雇用となりました。
 大企業の役員の年収は数億円なのに、社員の幸福を考えない、国民の健康を考えない儲け主義では「資本主義栄えて、民滅びる」です。また「資本主義栄え て、医療滅びる」であってもいけません。経済界のお偉方は「経世済民」、つまり国を治めて民を救うという経済の語源を忘れ、民に気づかれないように自分が 太ることばかり考えているのです。
 本来ならば、日本に高度経済成長をもたらした高齢者に感謝の気持ちをもたなければいけないのに、あまりに営利主義に走りすぎています。「いつかはクラウ ン」を夢見た高齢者を大切にすることです。日本一の大衆車カローラに乗っていた世代が、かつての経済大国から、今では自殺大国をつくっているのです。

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2010.01.18 14:43 |  医療制度 / 行政  |  スーさん  | 推薦数 : 0

善人集団としての日本医師会

 昨年の衆院選で民主党は医療介護を大切にすると連呼し、大勝利をおさめた。自民党政権による医療費抑制政策からの転換と思い込み、国民は歓声を上げた。

  自民党支持だった日本医師会は頭を悩ませたることになった。長崎2区の諫早医師会は自民党久間章生氏を推薦せず、民主党候補・福田衣里子氏の支持を図っ た。さらに静岡7区などの医師会が民主党を応援したのだった。特に茨城県医師会の原中勝征会長は民主党支持に自信を深めていた。

 民主党政権は中医協で日本医師会の委 員(3人)を再任せず、民主党候補を支援した茨城県医師会の鈴木邦彦理事、日医執行部に批判だった京都府医師会の安達秀樹・副会長。山形大の嘉山孝正医 学部長が選ばれた。

  しかし新中医協が決めた診療報酬の改定率はわずか0.19%増で、さらに開業医の再診料引き下げがほぼ決定している。0.19%といえば定期預金の利子 程度の上げ幅である。茨城県医師会の原中勝征会長は4月1日の日本医師会会長選の出馬を宣言しているが、民主党との太いパイプを自慢しながら、この程度の 上げ幅で医師会会員の賛同を得られるのだろうか。

 日本医師会、いつも政治家に騙され、厚労省に操られている善人集団の凋落が加速しそうである。

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2010.01.18 09:02 |  昭和 20年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 0

DDT散布とシラミ

DDT散布とシラミ(昭和21年)
 終戦直後,日本の衛生状態は極度に悪化していた.伝染病が蔓延しても不思議でない最悪の環境状態にあった.空襲によって下水道施設は破壊され,医薬品は 不足していた.国民の栄養状態は極度に低下し,体力の低下が感染症を発症しやすい状況にしていた.人々は思うように風呂に入れず,取り替える衣服もなかっ た.衣服や頭髪にはシラミが寄生し,シラミによる産卵や吸血による著しい掻痒が人々を悩ましていた.
 現在ではヒトに寄生するシラミを見ることはない.しかし当時はノミと同じように人々の日常生活の中でそれらを普通に見ることができた.シラミは人に寄生 し,皮膚を刺し吸血によって生活をするため不快な掻痒をもたらした.しかしそれ以上に人々を恐れさせたのは,シラミが発疹チフスなどの伝染病を媒介したか らである.
 昭和20年からの1年間だけで,発疹チフスによる死亡者は日本全体で4万人に達するほどの猛威をふるっていた.これまで発疹チフスは戦争や飢饉などの不 潔な状態が続いた時に流行することから,欧米では「戦争チフス」の別名でもよばれていた。発疹チフスはリケッチアによる病気で,シラミがリケッチアを媒介 した.感染者の血液を吸ったシラミの消化管でリケッチアが増殖し,このシラミが他の宿主に飛びつきシラミのフン中のリケッチアがかき傷から皮膚に侵入しヒ トからヒトへと次々に感染した。発疹チフスの症状は40℃をこえる高熱と全身の皮疹で,腸チフスに似ているがワイル・フェリックス反応とよばれる血清反応 が陽性になるため鑑別が可能であった。治療はクロラムフェニコールなどの抗生物質であるが,その当時はまだ治療薬は開発されていなかった.治療よりも予防 の時代であった.
 昭和20年8月30日,米軍は横須賀に上陸する直前に,飛行機からDDTの空中散布をおこなった.米軍は感染症対策には神経質と言えるほど気を使った. それはもちろん日本国民のためではなく,上陸した際に米国の将兵や家族から発疹チフスなどの伝染病を守るためであった.米軍は立川に駐留するに際にも立川 基地上空からDDTを散布している.
 DDTの空中散布はすでに沖縄上陸時に試され,その抜群の効果が知られていた.沖縄ではDDTの空中散布により蚊帳を吊らずに寝れるようになったと報告 されている.米軍は亜熱帯地方においてはマラリアの予防,日本においてはシラミが媒介する伝染病の予防のためDDTの大量散布をおこなった.米軍は日本が ポツダム宣言を受諾する前から占領政策を計画しており,日本で発疹チフスが流行していることから,発疹チフス予防のため大量のDDTを用意していたのであ る.もちろんDDTはシラミの他にノミ,ハエ,カなどの害虫にも殺虫効果があった.
 昭和21年3月7日,DDTの効果を知るGHQは,日本人全員にDDTを散布する計画を発表した.以後,全国の学校,職場,街頭,駅,港などで強制的に DDTが散布されることになった.DDTの散布はノミ・シラミの駆逐のためであるが,頭から白い粉を浴びせられることに敗戦の屈辱を感じた者が多くいた. うどん粉をかけられたように頭髪が粉で真っ白になった.さらに袖口や襟の奧まで噴霧機を差し込まれ全身にDDTが強制的に噴霧された.DDTのシラミに対 する殺虫効果は絶大であり,DDT散布によりシラミは急速に姿を消すことになった.
 発疹チフスや天然痘などはDDT散布により劇的に激減した.昭和21年には東京だけで9864人の発疹チフス患者がいたが,昭和22年には217人に激 減している.このDDT散布は昭和30年頃まで全国各地で日常的に続けられ,日本では昭和32年以降発疹チフスの発生はみられていない.DDT散布は 「DDT改革」と呼ばれるほど日本の公衆衛生に飛躍的な進歩をもたらした.そして頭から白い粉をかけられることを「DDT洗礼」と表現したほどである.
 GHQが行った公衆衛生の政策はDDT散布の他に,結核に対するBCGの強制接種,寄生虫予防のため人糞から化学肥料への切り替え,保健所の設置など多 岐にわたった.そしてこれらが日本の環境衛生の改善に絶大な貢献をもたらしたのである.DDTは殺虫剤として人体に散布されただけではなく,稲作などの農 作物にも大量に用いられ生産性を向上させた.昭和31年8月にはフィラリア症が続出した八丈島にもDDTが散布されている.
 DDTはジクロロジフェニルクロロエタンの略名で,殺虫剤として先駆的な薬剤であった.その歴史は古く,明治7年にドイツの学生が卒業実験でDDTを合 成させたのが最初である.昭和14年,ガイキー社(現ノバルティス)の研究員であったミュラー(スイス人)によりDDTの殺虫効果が発見され,一躍注目を 集めることになった.以後DDTは殺虫剤として世界中で大量に使われるようになり,第二次世界大戦中はアメリカやドイツが軍用防疫薬剤として多用した.特 に熱帯ではマラリア退治に威力を発揮し,戦後はシラミやハエなどの衛生環境の整備のために使用された.これだけDDTは農作物の害虫に対して広く用いら れ,DDTにより農作物の生産性が向上し,農村の衛生環境の改善に貢献したのである.DDTの殺虫効果を発見したミュラーは昭和23年ノーベル生理学医学 賞を受賞している.
 DDTは人間が殺虫剤として大量に実用化した最初の薬剤であった.そしてその後の農薬はすべてDDTからスタートしたといえる.スイスにあるガイギー社 は英米と日独の両方にDDTを売り込んだが,DDTの重要性に気がついたのは英米側だけであった.戦場でDDTを用いた英米軍にくらべ,日本軍は多くのマ ラリア感染者を出した.DDTは「奇跡の化学物質」と呼ばれていた.
 DDTの殺虫効果は神経繊維に作用する神経毒によるもので,昆虫などの冷血動物に強い毒性を示すが哺乳類などの温血動物に対しての毒性が弱いのが特徴で ある。さらにDDTは殺虫性が強いだけでなく殺虫スペクトルの幅も広く,虫の種類にかかわらず効果的であった.またDDTは簡単に合成でき,値段が安かっ た.そのため大量使用が可能であった.このことから農薬殺虫剤として長期にわたり大量に使用されてきた. 
 しかしDDTは残留毒性が高く,しかも食物連鎖によって人間の体内に蓄積されることが指摘され,さらに発癌性も言われだしたことから,昭和44年12月,日本BHC工業会(三菱化成など6社)はDDTの製造を自粛的に中止した.
 DDTの中止はその危険性を指摘したレイチェル・カーソンが書いた「沈黙の春」(1962)の出版による影響が大きい.「沈黙の春」は農薬の空中散布や 殺虫剤の危険性を初めて告発した本で,アメリカで1日に4万部が売れるほどのベストセラーとなった.多くの人たちがDDTを用いれば害虫との戦いに勝てる と思っているとき,DDTは鳥や益虫を殺し,さらに人間の命まで脅かす恐ろしい毒物であるとカーソンは警告したのである。ケネディ大統領が彼女の本を話題 にしてから,世間も彼女の考えを支持することになる.DDTの殺虫性は抜群であったが,殺虫スペクトルの幅が広かったため一般の昆虫にも効果がおよび, 「トンボも飛ばない、セミも鳴かない」このような自然界に変化をもたらしたのである.昆虫がいなくなれば鳥や魚などにも影響がおよび,「自然生態系のバラ ンスが崩れてしまう」というドミノ倒しの連鎖が始まったのであった.
 さらにDDTは化学的に安定な化合物で自然界では分解されないため,食物連鎖によって人間の体内に蓄積し,思わぬ害を招く可能性が指摘された。DDTは 水には溶けないが油によく溶ける.そのためプランクトン,原生動物,魚,人間,というような食物連鎖によって人間の体内の脂肪に蓄積された.そして母乳に 多く含まれることも問題になった.日本でも「沈黙の春」は大いに話題になり、農薬の安全性に関する議論が沸騰した。
 しかし意外なことに,日本人は浴びるようにDDTを使用したにもかかわらず,DDTによる死亡例はこれまで報告されていない.DDTの危険性が指摘され てから開発された多くの殺虫剤はDDTよりも理論上毒性が低いにも関わらず,毎年数百人の中毒死亡者を出してきたことを考えると皮肉なことである.
 このように西欧のほとんどの国ではDDTをはじめとした有機塩素系の農薬は禁止されている。しかし発展途上国ではマラリア防除の目的もあり現在でも多量 に使用されている。ここで問題になるのはDDTの半減期は100年とされ,この分解されにくいDDTの汚染が引き起こす害についてである。発展途上国で使 用されたDDTが世界の海を汚染し,生物濃縮、食物連鎖により全世界の人々に害を及ぼす危険性が考えられた。これらの汚染が慢性的に人体に影響を及ぼして いることは否定できない.DDTによる死亡例はこれまで報告されていないが,目には見えない環境ホルモンとして子供や子孫に影響を与えている可能性は否定 できない。南極圏のペンギンの脂肪からもDDTの蓄積が確認され,この事実は生物濃縮、食物連鎖の恐ろしさを示していた.
 発疹チフスはDDTにより昭和32年以降日本では発生していない.このように発疹チフスを媒介するコロモジラミはDDTにより全滅したが,昭和50年頃 より全国的にアタマシラミが流行している.コロモジラミは衣服の縫い目に寄生するが,アタマシラミは頭髪に寄生する.衛生状態が格段に改善しているのにア タマシラミが流行しているのは,海外との交流が増え感染の機会が増えたこと,シラミに対する知識不足により早期駆除が遅れていることが原因と考えられる. 保育園やプールの更衣室から子供が感染する場合が多い.平成9年の国立感染症研究所の報告では患者数は8600人とされている.アタマシラミの感染は報告 の義務がないことから,実際の患者はこの報告数よりはるかに多いと考えられる.シラミ駆除剤は住友製薬からフェノトリンを成分とするパウダータイプとシャ ンプータイプのスミスリン(商品名)が発売されている.スミスリンの年間出荷量が33万個であることから,シラミ感染者は予想以上に多いことが推測されて いる.アタマジラミの治療はスミスリンを使用すれば比較的容易であるが,枕カバーやタオルなどの頭に触れる物の洗濯やアイロンをかけることも重要である. 幸いなことに頭髪に寄生するアタマジラミは伝染病の媒介性はない.
 シラミ感染のもうひとつとして毛ジラミがある,毛ジラミは陰部に生息し陰部の接触によって伝染する.伝染病には関与しないが性感染症として流行してい る.毛ジラミはコンドームでは予防できない性感染症である.このように毛ジラミは性行為で感染するが,人間の体から離れても2日間は生きてゆけるので,公 衆浴場や家族間で感染する例も報告されている.アポクリン汗腺を好むことより陰毛や腋窩に寄生する.治療は剃毛が有効であるが,それよりはスミスリンの使 用が有効である.

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2010.01.18 08:59 |  映画 / 音楽 / 読書  |  スーさん  | 推薦数 : 0

日本脳炎の流行

日本脳炎の流行(昭和23年)
 数ある疾患のなかで,病名に日本の国名が付いているのは日本脳炎と日本住血吸虫だけである.このように日本脳炎は日本を代表する疾患であるが,日本だけ に限った疾患ではない.日本脳炎は東南アジアにひろく存在しているが,日本脳炎と命名されたのは日本で最初にウイルスが同定されたからである.日本脳炎は それまでに知られていた他の脳炎とは別種の脳炎と認められたからである.
 日本脳炎の記録は江戸時代までさかのぼることができる.しかし日本脳炎が流行するようになったのは農家でブタを飼うようになってからである.大正時代 13年に日本脳炎が大流行を起こし,その流行がきっかけになり日本脳炎の本格的研究がなされるようになった.昭和9年,林道倫(ミチトモ)が日本脳炎患者 の脳をすりつぶしサルに接種させ日本脳炎をサルに感染させることに成功した.昭和11年には,谷口・笠原らがマウスを用い日本脳炎ウイルスの分離に成功. そして昭和13年,東京帝国大学伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の三田村篤志郎によって日本脳炎が蚊によって媒介されることが証明された。日 本脳炎を引き起こすウイルスはアルボウイルスB群に属するRNAウイルスで,セントルイス脳炎,ベネズエラ脳炎,西ナイル脳炎を引き起こすウイルスと類似 の構造ウイルスであることが分かっている。
 現在,日本脳炎はごくまれな疾患となっているが,かつては「はやり病」として西日本を中心に猛威を振るっていた.発症は蚊(コガタアカイエカ)の発生す る夏の7から9月の間に限られ,日本脳炎の名称がつくまでは,夏季脳炎,流行性脳炎B型などとよばれていた。日本脳炎の他に日本には眠り病との異名をもつ 「エコノモ型脳炎」が流行していたが,現在ではエコノモ型脳炎を見ることはない.エコノモ型脳炎は過去の疾患となっている.このように日本脳炎に似た類縁 疾患があったため,統計上の記録として日本脳炎患者数が記載されるようになったのは昭和21年からである.
 この日本脳炎が,昭和23年8月に大流行した.日本脳炎は重篤な急性脳炎であること,後遺症の頻度が高く,また致命率の高いことから問題になった.
 日本脳炎の患者数は,昭和23年の1年間だけで 4757人,死者は2620人に達し,致死率50%以上であり日本脳炎は多くの犠牲者を出した.流行は北海道を除く西日本が中心で,その中でも熊本県が最 も多くの犠牲者を出した.東京だけでも患者数926人,死亡者数124人(死亡率13.4%)に達し,都会においても日本脳炎は猛威をふるっていた.厚生 省は流行のきざしがみえた昭和21年に日本脳炎を法定伝染病に指定したが,日本脳炎は昭和23年をピークに流行を続け,昭和28年までの累計死亡者数は 9335人に達していた.
 毎年のように,7月になると九州地方から日本脳炎の流行が始まった.そして日本を北上するように,北限である岩手県まで流行した.青森県や北海道での発症は報告されていない.
 日本脳炎は感染しても多くは不顕性感染で,感染した者のなかで実際に症状を出すのは1000人に1人程度とされている.このように発症する人はごくわず かで,大多数は無症状のまま抗体を作るだけであった。症状は夏風邪程度の軽いものから,死に至る劇症型まで幅広い症状を示した.
 日本脳炎の潜伏期間は1から2週間で,初発症状のうち最も多いのが発熱と頭痛である.そして前触れもなく突然の高熱で重症化するのが特徴である.さらに 興奮、意識混濁、顔面や手足のけいれんなどの精神神経症状が出ると重症と考えられた。そしていったん重症化した患者は,意識障害や精神症状が顕著となり死 に至ることになる.発病後4から7日が病気の峠であり,この時期を過ぎると熱もしだいに下がり回復に向かう.
 患者の予後は発病者の約30%が死亡,約30%に重い後遺症がみられ,完全に治癒するのは40%とされている.この治療成績はICUなどの高度医療がな かった時代の統計であるが,医療や医学の進歩した現在でも死亡率はそれほどの改善をみせていない.このように日本脳炎は致命率の高い疾患である.41℃以 上の高熱をきたした場合,60歳以上の高齢者が発症した場合に死亡率が高いとされている.
 日本脳炎は症状が現れた時点で,すでにウイルスが脳内に達し脳細胞を破壊しているため,将来ウイルスに効果的な薬剤が開発されたとしても破壊された脳細 胞の修復は困難と予想されている.日本脳炎の後遺症として健忘や性格の変調,手足の強直性麻痺,性格異常,痴呆などの精神障害を残すことが多い.ワクチン が唯一の予防薬で,予防以外に特効薬がないことから我が国では最も危険な感染症のひとつとされている.
 このように昭和20年代の日本では,日本脳炎は猛威をふるっていた.しかし農薬散布によるコガタアカイエカの駆除,養豚場の郊外への移転,さらにはワク チンの普及などが効果をみせ,患者数は昭和28年から徐々に低下するようになった.そして昭和41年の流行を最後に,患者は急速に減少し,昭和52年には 患者数は全国で4人にまで減少した.昭和58年以降はわずかではあるが患者は増加している.現在では平均すると,全国で年間20から60人が日本脳炎を発 症している.発生している患者は少数ではあるが,そのほとんどはワクチン接種を受けていない幼児と高齢者である。
 日本脳炎には有効な薬剤がないことから,予防接種,コガタアカイエカの駆除などの予防が重要となる.現行の日本脳炎ワクチンは,初回免疫をつくるために 7〜14日間隔で2回皮下注射を行い,ついで流行前に1回皮下注射を追加する.免疫効果は2〜3年間続くので,以後の追加免疫は2〜3年間隔でよいとされ ている.このようにして基礎免疫を完成させれば感染は心配ない。この予防接種は昭和51年から臨時接種の対象となり,流行地域の小児や学童を中心に実施さ れている。
 コガタアカイエカが日本脳炎ウイルスの運び屋となるが,その伝搬にはブタの介在が重要である.つまりコガタアカイエカによって日本脳炎ウイルスがブタに 持ち込まれ,ブタの体内で何百万倍に増幅したウイルスが蚊によってブタからヒトに伝染される.このようにブタがウイルスの増幅動物となる.1匹のブタが感 染すると1万匹のコガタアカイエカが感染するとされている.ウイルス血症をきたしたブタが,再度蚊によって刺され,ウイルスをもつ蚊が人を刺さすことによ り日本脳炎が感染する.ブタは数ヵ月で母体からの移行抗体が消失するので夏の流行期前にはほとんどのブタがウイルスに感染可能な状態となる.
 ヒトでは血液中のウイルス量は極めて少ないため,ヒトからヒトへの感染はみられない.自然界では人間が終末の宿主となるので,患者の血液を吸った蚊に刺 されても感染はおきない.日本脳炎は蚊の発生する7から9月に限られ,ほかの季節には認められない.また流行の地域も限定されている。
 日本脳炎が流行する前には,必ずブタの間で日本脳炎が流行することになる.ブタの感染が人間への感染よりも先行するため,ブタの血液中の抗体価を調べれ ば日本脳炎ウイルスの流行を知ることができる.このように日本脳炎の予測が可能なのである.現在では,都道府県ごとに畜場から生後5から8か月のブタの血 液が集められ,日本脳炎に対する感染の有無が調べられている.このようにしてブタの日本脳炎の流行を観測する体制が整っている.
 ブタの血液を調べ,抗体保有率が50%以上になるとブタに日本脳炎の流行が始まったと考えられ,2から3週後にはヒトに日本脳炎が発生する可能性がある と予測される.この予測が公表されると,保健所を中心に水たまりや溝などの清掃をおこない,蚊の駆除などの予防対策が行われる.また臨時予防接種の実施が 検討されることになる。この日本脳炎の流行予測は昭和40年から行われており,ブタの間では毎年多くの地域で流行がみられている.そして伝染状況が南から 北へと日本を北上して行くのがわかる.
 日本脳炎は小児に多い疾患とされてきた.しかし最近では患者のほとんどが老人である.今後,日本脳炎が日本で増加する可能性は少ないと考えられ,平成7 年に伝染病予防法が廃止され感染症新法に変わったが,日本脳炎はそれまでの法定伝染病から届け出疾患4類に格下げされている.しかし日本脳炎の患者数は減 少しても,自然界に存在する日本脳炎ウイルスの量が減少しているわけではない.今後,農薬に抵抗性のあるコガタアカイエカの増加,ウイルスの変化によるワ クチンの有効性の低下,平成7年からワクチンが強制から任意に変わったことから再び日本脳炎が増加する可能性がある.毎夏日本脳炎ウイルスを持った蚊はか なりの数が発生しており,国内において感染の機会はないわけではない。日本脳炎を発症する患者のほとんどはワクチンを打っていない者である.
 生物学的興味としては,日本脳炎ウイルスを媒介するコガタアカイエカは冬を越せないとされている.そのためどのようにして日本脳炎ウイルスが冬を越すの かが生物学的に大きな疑問とされている.蚊によって日本脳炎が媒介されることを発見した三田村篤志郎も,この問題に取り組むが現在に至るまで長いあいだ謎 のままである.
 このように日本脳炎は日本や韓国ではワクチンによりほとんどみられない疾患になったが,ベトナム,タイなどの東南アジア,さらにはインド,ネパール,ス リランカなど南アジアの諸国では現在でもしばしば日本脳炎が流行し問題になっている.経済活動により水稲の水田栽培(蚊の発生場所)とブタの飼育(増幅動 物)が盛んになったことが,新たな日本脳炎の流行と考えられている.中国では年間1万人をこえる発症がみられ,コガタアカイエカ以外の他数種類の蚊が媒介 することが知られている。
 日本脳炎は人間に症状を引き起こすだけでなく家畜伝染病でもある.つまりウマ,ウシ,ブタ,ヤギなど大形の哺乳類にも脳炎をおこす.発病率はヒトとウマがもっとも高く,ブタは死産や流産の原因となる.そのためアジアにおいては農業経営の視点から問題になっている.
 日本脳炎は日本では過去の疾患になったことは確かである.そのため,もし脳炎症状を示す患者を診た場合は,日本脳炎である可能性はきわめて低い.日本脳 炎の抗体検査は中小の病院でも測定可能で簡単に調べられる.もし脳炎患者を診た場合,それが7から9月の夏期においての発症であれば日本脳炎を疑うべきで あるが,夏期以外の時期に検査の依頼が出されることが多い.そのような場合,医師の常識が疑われることになる.もし感染を思わせるような症状と精神神経症 状を合併している患者を診たら,日本脳炎よりもヘルペス脳炎やインフルエンザ脳症を考えるのが日本では一般的である.

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2010.01.18 08:56 |  昭和 20年代 1  |  スーさん  | 推薦数 : 1

奇跡のクスリ,ペニシリン

奇跡のクスリ,ペニシリン(昭和22年)
 ペニシリンの発見は感染症に対する人々の脅威を激減させた.ペニシリンが発見されるまでは,肺炎,中耳炎,破傷風などの感染症に対する治療法はなく,感 染を受けた多くの人たちの生命が奪われていった.このペニシリンを発見し,人類に大きな貢献をもたらしたのがイギリスの細菌学者アレキサンダー・フレミン グ(1881—1955)である.昭和3年,フレミングは世界で初めての抗生物質であるペニシリンを発見した.この20世紀最大の発見は「偶然とともにフ レミングの鋭い観察力」が導きだしたものである.
 第一次世界大戦時,セント・メアリー病院に勤めていたフレミングはフランス戦線に派遣され,次々に運ばれる戦傷者の傷の洗浄を繰り返す毎日であった.そ して大戦が終わり,セント・メアリー病院にもどってきたフレミングは細菌と防御機構の研究を始めることになる.そしてフレミングはペニシリンを発見する前 に,唾液中の殺菌物質リゾチームを大正10年に発見している.このリゾチームの発見は,フレミングの鼻水が培養プレート上の細菌に変化をもたらしたことが きっかけであった.後の研究で,リゾチームは鼻汁だけでなく唾液,涙,痰,粘液などに含まれる殺菌物質であることがわかった.リゾチームの殺菌作用は弱 く,病原性のある菌には効果は弱かったが,当時としては医学上の大きな発見であった.リゾチームは現在でも風邪薬の成分として含まれている.
 昭和3年,ブドウ球菌の培養実験を行っていた当時47歳のフレミングは,ガラス皿の中に混入した青カビが周囲のブドウ球菌を溶かしているのに目を奪われ た.フレミングがもし普通の研究者であったならば,単に実験の失敗で終わっていたであろう.しかし,彼の鋭い観察力はこの奇妙な現象を「細菌を殺す何らか の代謝産物を青カビが出している」と考えたのだった.その青カビを培養して調べた結果,青カビの培養汁が多くの細菌への発育阻止作用,溶菌作用をもってい ることがわかった.カビの濾液は1000倍に希釈しても殺菌効果を持っていたのである.このように微生物間に他の菌を排除しようとする拮抗作用があること はペニシリンの発見以前から知られていたが,細菌に毒性のあるものは人体にも毒性があるだろうという先入観に捕らわれていた.フレミングは青カビの培養を 繰り返し,人間の白血球に無害であることを証明し,フレミングはこの青カビ(ペニシリウム)が産生する抗菌物質をペニシリンと命名した.昭和4年,「ペニ シリウム培養液の抗菌作用,とくにインフルエンザ菌への応用について」という論文を書いた.
 フレミングの鋭い観察力がペニシリンの発見を生むことになった.しかし熟練した化学者の協力を得ることができずペニシリンを精製することができなかっ た.ペニシリンは化学的に不安定で精製するのが困難だったのである.臨床的な動物実験には至らず,研究は約10年もの間放置されることになった.彼の研究 は英国実験病理学雑誌に掲載されたままとなった.
 昭和15年になって,イギリスオックスフォード大学の病理学者フローリーと生化学者チェーンがこのペニシリンの作用に着目した.彼らはともにフレミング が発見したリゾチームの研究を行っていたが,フレミングの論文を読みペニシリンの実用化へと方向を変えたのである.2人はペニシリンの酸性溶液が低温エー テルで抽出できること,さらにそれを濃縮乾燥させても安定していることを見いだした.このようにしてペニシリンを分離精製し,化学的に安定な粉末状にする ことに成功した.さらに連鎖球菌,ブドウ球菌,ガス壊疽菌などをマウスに感染させペニシリンを投与すると,死ぬべきマウスが死なないで生存することがわ かった.このように感染症に効果があることが証明された.この成果は「化学療法剤としてのペニシリン」の論文名で雑誌「ランセット」1940年8月24日 号に掲載された。彼らは分離精製の技術に引き続き,クスリとして大量に生産する方法も開発した.
 1941年2月,抗生物質ペニシリンが人類に初めて使用された.オックスフォードのラドクリフ病院で黄色ブドウ球菌に感染した瀕死の重症患者にペニシリ ンが投与されたのである.そしてその劇的な効果が確かめられ,さらに感染症患者への臨床実験が重ねられた.ペニシリンは細菌感染症の中で猛威をふるってい た肺炎,淋菌,敗血症など多くの化膿菌感染症に劇的な効果を示すことが実証された.このフローリー,チェーンによる臨床への応用が「ペニシリンの再発見」 とよばれ,フレミング同様の高い評価がなされている.
 抗生物質はそれまでのクスリとは違い,自然界に存在する微生物どうしの拮抗作用を利用したものである.人間には害を及ぼさず,病原菌にのみに選択的に毒 性を示す物質である.このようにペニシリンは自然界に存在している物質であることから,ペニシリンの成功をきっかけに世界中の科学者たちは,無数に近いカ ビの中から人体に投与可能な抗生剤を手当たり次第に探し求めることになった.彼らが最初に取り組んだのは,科学者としての研究ではなく,まずカビの収集で あった.ペニシリンの成功により,抗生物質の黄金時代が始まることになる。なおフレミングが発見したペニシリンを産生する青カビは非常に珍しいカビであっ た.この珍しい青カビが偶然にもフレミングが実験していたブドウ球菌のガラス皿の上に迷い込んできたのだった.
 イギリスはペニシリンの生産を目指していたが,イギリスはドイツの空襲にさらされていた.フローリーはペニシリンの生産のためアメリカに渡り,農務省の 協力を得てその生産を始めることになった.ビンによる培養がタンク培養に変わり,大量生産が可能になった.このペニシリンが世界で使用されるようになった のは,アメリカで大量生産が可能になった太平洋戦争末期の昭和18年のころである.ペニシリンは感染症に罹患した多くの連合軍兵士に投与され,若い兵士た ちの命を救った.戦病者の95%がペニシリンによって命を救われたとされている.
 昭和18年の暮れ,ドイツの医学雑誌によってペニシリンの劇的効果が日本にも伝わってきた.日本はまだ研究の段階には入っていなかったが,しかし昭和 19年1月27日,「肺炎にかかったチャーチルの命をペニシリンが2日で治した」というブレノスアイレスの外電がきっかけになりペニシリンが注目されるこ とになった.朝日新聞がこの記事を伝えると,これに刺激を受けた軍部はその日のうちにペニシリンの研究命令を下すことになる.そして陸軍軍医学校の稲垣少 佐が中心になって研究が進められることになった.このようにペニシリンはチャーチルの命を救ったことが大きな宣伝になり世界中に報道されたが,チャーチル に用いられた薬剤は実はサルフア剤であったとされている。いずれにしてもこの報道が日本の軍部を動かすことになった.
 昭和19年2月1日,医学,薬学,農学など多数の科学者が動員され,陸軍医学校に第1回ペニシリン委員会(碧素研究会)が発足した.陸軍省医務局は15万円(現在の金額では30億円)の予算をくみ,国家プロジェクトとしてペニシリンの研究が開始された.
 そして日本全国から,食品・土壌・植物などに生えている2000株以上のカビが集められ,その中から殺菌力のある3種類のカビを見つけることに成功し た.そして患者への臨床試験もおこなわれ,抗生剤としての殺菌効果が確かめられた.日本ではペニシリンの研究開始からわずか9ヶ月で自前の国産ペニシリン を完成させたのである.ペニシリンの和名は碧素(ヘキソ)であった.
 国産ペニシリンは森永の三島工場,萬有製薬の岡崎工場で生産が開始された.そして一部は軍に納入されたが,敗戦間際の混乱のため一般に普及するには至らなかった.このように「夢のくすり」,「魔法の弾丸」と呼ばれたペニシリンは日本においても作られていた.
 太平洋戦争が終わり,GHQとともにアメリカからペニシリンが輸入され,その劇的効果によって数多くの日本人が救われることになる.しかしアメリカから のペニシリンだけでは国内の需要を満たすことはできず,国産ペニシリンの生産が国家的急務となった.厚生省は昭和21年1月にペニシリン生産対策協議会を 開催し,7月にはメーカー39社が集まり日本ペニシリン協会が設立された.テキサス大学教授フォスターが招かれ,彼の指導により各製薬会社はタンク培養に よるペニシリンの大量生産を開始した.昭和22年2月,国産ペニシリンは病院への配布されることになった.そして翌年の昭和23年にはペニシリンは日本各 地に行き渡るようになった.ペニシリンにより抗生物質時代の幕開けとなった.ペニシリンは最初単一なものと考えられていたが,天然ペニシリンにはP, G, X, Kの4種類あることが認められた.そして初めて医薬品として実用化されたのはペニシリンGであった.
 ペニシリンは配給統制品から解除され,それまで高価だったペニシリンは2年間で2割まで値段が低下し,魔法の弾丸は庶民の手に届くまでになった.その結 果,昭和22年に国民死亡率第2位で10万人以上が死亡していた肺炎は,翌年には第6位とわずか1年で死者を半減したのだった.
 日本において,このように短期間にペニシリンが普及したのは,ペニシリンを「人類共通の財産」として欧米が特許の対象にしなかったためである.さらにペ ニシリンを生産する製薬会社に政府は融資などの優遇措置を与え,またカビによって一儲けを狙う人たちが多かったこともその要因のひとつである.そのため医 薬品メーカだけでなく,製菓業,乳業,酒造業,ビール業,化学工業までが製造に乗り出した.ペニシリンの産生は感染症の治療ばかりでなく,戦後の産業復興 の牽引役を果たした.廃墟の中にあった日本経済をペニシリンが牽引したのだった.またアメリカ軍が性病から兵士を守るためペニシリンの製造を奨励したこと もありこの傾向に拍車がかかった.
 終戦から5年後の昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると,アメリカ軍は日本のペニシリンを大量に買い取ることになった.そのため抗生剤の生産高は飛躍的にの びることになった.昭和30年には51の製薬会社がペニシリンを生産するまでになった.そして日本はアメリカ,イギリスに次ぐ世界第3位のペニシリン生産 国になった.朝鮮戦争以降,日本はペニシリンの輸出国,抗生物質大国,医薬品大国の道を歩むことになる.
 ペニシリンを発見したフレミングは,フローリー,チェインとともに,昭和20年にノーベル生理学医学賞を受賞した。昭和30年5月11日,フレミングは ロンドンの自宅で心臓発作のため他界した。彼が発見したペニシリンの原料となった青カビは現在ロンドンにある大英博物館に展示されている.

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