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石打の刑
聖書は世界最大のベストセラーである.なぜ聖書が世界最大のベストセラーなのか,それは聖書を読めば自ずとわかるはずである.聖書にはキリスト教徒でなくても興味深い話が数多く書かれているのである.今回は,ヨハネによる福音書8章に書かれている「石打の刑」の話を紹介しよう.
旧約聖書のモーセ律法によると,人妻の不倫は相手男性とともに死刑が決まりであった.婚約中の女性も同様で,群衆から石を投げられ殺されることになっていた.これが石打の刑である.
物語は姦通の現場で捕らえられた女性が説教中のキリストの前に連れてこられたことから始まる.ユダヤの役人がキリストに次のように尋ねたのだった.「あなたならば,この姦淫した女性をどうしますか」.これは意地の悪い質問だった.もしキリストが女性を許すと答えれば,キリストは旧約聖書の戒律を破ることになる.逆に死刑を認めれば,それはキリストが教える隣人愛に反するだけでなく,当地を支配していたローマの法秩序を無視することになった。いずれを選んでもキリストには不利である.これはキリストを陥れるための巧妙な罠であった.
石を手にした群衆が女性を殺そうとキリストの周囲を取り囲んでいた.返答に窮したキリストは,長い沈黙の末に次のように言った.「石を投げる資格のある者だけが石を投げなさい」.このキリストの言葉を聞いて,1人また1人と石を置き,群衆はその場から立ち去っていった.
日本人の不倫については,残念ながら正確な統計はない.しかし厚生省人口動態統計によると年間77万人が結婚して,25万人が離婚するとしている.そして司法統計年報は離婚の3割が異性問題が原因と指摘している.既婚者でさえこの数値である.まして婚約者の数値は推して知るべしである.マスコミは著名人の不倫を犯罪のよう報道するが,それ以前のこととして,私たちの多くは石打の刑を受けるべき罪人なのである.
駅前には自転車が放置されている.街のいたるところにはゴミが捨てられている.相手を思いやる気持ちは希薄になり,街行く人たちの人相も悪くなった.犯罪統計によると,裁判で有罪判決をうけた者は年間100万人に達したそうである.
最近の事件を振り返ると,国会議員の公設秘書問題,政治資金の不正,企業ぐるみの嘘つき商品,このようにその犯罪性よりも人間性が,あるいは組織としての倫理性が問われる事件が相次いでいる.そしてモラルが問われているのに,事件が発覚すると嘘をつき罪を逃れようとする.また運良く逮捕を免れた同類者たちは,自分たちの腐敗を隠すかのように潔癖そうな顔をしている.
さらにこれらの事件が非倫理的に感じられるのは,事件が密告という手段によって発覚していることである.マスコミは内部告発という言葉を使うが,これらは告発ではなく密告である.密告は他人を陥れる快楽と私的な恨みの解消が目的であるから,それは公的な正義に見せかけた私的リンチである.自分の地位を捨てる覚悟で悪を告発した潔癖例などはまれのまたまれである.
犯人が登場すると,周囲は待ってましたとばかりバッシングする.しかし時として泥棒が人に説教するような,売春婦が人に教育を語るような違和感を覚えることがある.また精神的な障害を受けたと怒鳴る被害者が,それ以上の苦痛を加害者に与えていることもまれではない.
マスコミは犯人を追及するが,しかし追及する者が必ずしも倫理性が高いわけではない.石を投げる資格をもたないだけでなく,リンチを期待する群衆を扇動しているようにみえることがある.
このような現象は,私民に堕落した市民が自分に欠如している潔癖性と倫理性を他人に求め批判しているのである.罪人に罪以上の罰を求め,欲求不満の解消を計っているのである.このような市民に他人を批判する資格などあるはずはない.
厚生労働省は全国82の特定機能病院の医療事故発生状況をまとめた.そしてこの2年間に計1万5003件の事故が発生し,死亡や重体などの重篤な状態が367件に達したと公表した.日本を代表する特定機能病院で1病院あたり年間100件の医療事故である.もはや医療事故は特定の人間レベルの問題ではない.道路のあるところに交通事故が起きるように,医療行為のあるところに医療事故が起きるという冷静な認識が必要である.医療現場のバッシングで物事を解決せるのではなく,事故を防止するための医療システムを冷静に考えるべきである.
私たちの多くは罪人である.それゆえに相手の罪を許す心の優しさと物事を見きわめる冷静な判断が大切である.
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メチルアルコール中毒(昭和21年)
戦時中,あるいは戦後の数年間は,嗜好品であるアルコールの配給はほとんどなかった。日本酒の原料である米が何よりも貴重品だったので,醸造にまわす米が 絶対的に不足していたのである.またたとえ酒の配給があっても,アルコール濃度は極端に低く,金魚を入れても泳げるほど薄かった.そのため配給酒のことを 「金魚酒」と揶揄して呼んでいた.
飲酒が可能なアルコールはエチルアルコールであるが,エチルアルコールの代わりに値段の安い工業用メチルアルコールが闇市に出まわっていた.そして多くの酒飲みがメチルアルコール中毒の犠牲になった。
戦時中の事件としては,昭和18年4月,川崎市で工業用メチルアルコールに香料を入れて作られたウイスキーが出まわり死者6人が出ている.昭和20年7月1日には横須賀市浦郷町の住民たちが輸送中のブタノールアルコールを盗んで飲み17人が死亡,8人が重体となる事件がおきている.
終戦後の数年間は,メチルアルコール中毒が多発した時期であった.昭和20年11月には東京都八王子市でヤミ市のアルコールを飲んだ4人が死亡,売人が検挙されている.占領軍の米軍将兵からも犠牲者がでたため,GHQはメチルアルコールによる害が広がることを恐れ,米軍将兵にメチルアルコールを販売した者は死刑にすると発表した.
メチルアルコール中毒による死亡者は,昭和20年には403人,昭和21年には1841人とその犠牲者は多数に至っていた.また一命を取りとめても失明をきたした者が多数みられた.失明に関する統計は明らかではないが,その犠牲者は相当数にのぼったと想像される.このようにメチルアルコールは量が多ければ死に至るが,少量でも失明するのが特徴である.メチルアルコール中毒による失明者を多数診察したことが当時の眼科医の記録として残されている.また当時の眼科医でメチルアルコールによる失明者を診たことのない医師はいないとまで言われていた。眼が散る意味から「眼散るアルコール」という言葉が流行した.
メチルアルコール中毒が日本で蔓延したのは,飲食店がメチルアルコールと知りながら酒を客に飲ませたからである.そのため多くの売人や飲食店主が逮捕され た.盛り場にはメチルアルコール鑑定所が設置されたほどである.東京都内ではメチルアルコールを大量に含んだウイスキーが「ダイヤモンド」の名前で売られ ていた.
メチルアルコールの他にも,ベンゾールやナフタリンなどの変成アルコールを用いた酒が売られていた.アルコール不足の時代に,酒は危険と分かっていても, 飲む者があとをたたなかった.そのためメチルアルコールは「命散酒」とも呼ばれていた.歌手の鬼俊英や女優の山田五十鈴の夫である映画俳優の月田一郎もメ チルアルコールで命を落としている.
絶対的なアルコール不足がメチルアルコールによる犠牲者を多くだした原因である.いっぽう,身体に害をもたらさない薬品用エチルアルコールは堂々と飲み屋 でだされ,当時の人々は日常的に薬品用エチルアルコールを飲んでいた.薬品用エチルアルコールにカルメラなどの添加物で味をつけた酒,あるいは水で薄めた だけの酒が闇市に広く出まわっていた.この薬用エチルアルコールは米から醸造した酒に比べアルコール度数が高いため,飲むと一気に酔いが回ってしまった. そのため別名「バクダン」と呼ばれていた.また大衆酒場では,酒をつくったあとのカス(粕取)をさらに発酵させ,それを蒸留した「カストリ」や,密造され た「どぶろく」が庶民のアルコールとなっていた.
戦後の混乱期からしだいに世の中が落ち着きを取り戻すと,それまでのカストリやどぶろくに代わり焼酎の全盛期を迎えることになる.そして日本の酒飲みが清酒を飲めるようになったのは,昭和25年以降のことである.いっぽうメチルアルコール中毒は昭和23年がピークで,生活が戦前の状態に復興する昭和27年頃まで,日本各地でメチルアルコールによる中毒は散発的に発生していた.
メチルアルコールはエチルアルコールと同様に酩酊をもたらすが,酒の味や酩酊状態からメチルとエチルを区別することはできない.飲んだ後に副作用がでて初 めて分かることになる.犠牲者の多くは,飲酒して半日ぐらい経った後に,頭痛,嘔吐などの症状が出現し,眼がかすみ激しい腹痛に襲われ,「ヤミ酒にやられ た」と自覚し,死んでいった.
視力障害や死亡の原因となったのは,メチルアルコールの直接の毒性ではない.メチルアルコールが体内で分解され,その生成物であるホルムアルデヒドやギ酸 の毒性が原因とされている.これらが体内の血液を酸性に傾け代謝性アシドーシスを引き起こすことが死亡原因とされている.また眼のかすみ,物が二重に見え る,失明などの視力障害はギ酸による視神経障害とされ,他覚的には両側性視神経萎縮,視野狭窄などの所見がみられる.この視力障害は治療によって回復しな いのが特徴で失明にまで進行するのだった。
メチルアルコール中毒は現在ではほとんど見ることはできない.しかし特異的な事件はまれに散発する.昭和57年4月15日,アルコールが禁止されている精神病院で入院患者2人が燃料用アルコールを用いて宴会をおこない死亡している.
時代が豊かになっても,旧ソ連の貧しい人々の間でメチルアルコール中毒が多発した.飲酒追放運動によりワッカが入手できない労働者が,昭和62年の1年間で1万人以上が死亡したと報道されている.アルコール規制の強いスウェーデンでは,非飲用アルコール(エチルアルコール)にも飲酒ができないようにメチルアルコールが混入されている.しかしそれが逆効果となり,メチルアルコール中毒者が激増することになった。さらに寒冷地用のウインドウウォシャー液にはメチルアルコールが含まれているため,ウインドウウォシャー液を誤飲した子供の事故が報告されている.
メチルアルコール中毒の治療は,メチルアルコールの分解を抑制させるためにエチルアルコールを飲ませることである.エチルアルコールを摂取させ,メチルアルコールと競合させることによってメチルアルコールの分解を防ぐことが治療とされている.しかしその治療効果は事例が少ないため明らかではない.
アルコールを飲む者も,アルコールを売って儲ける者も,すべてが敗戦後の貧しい生活の犠牲者であった.当時の貧しい生活,荒廃した社会状況,そのような環境の中で庶民のアルコールへの渇望がいかに強かったかが想像される.
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国営売春施設(昭和20年)
敗戦からわずか3日後の昭和20年8月18日,日本政府は占領軍を受け入れるに際し,「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決定した.国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった.そして米軍の日本上陸の前日である8月27日には,東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場するという対応の早さであった。この占領軍用性的慰安施設についての政府決定は,内務省警保局長の橋本政美により全国の各警察署に秘密裏に無電で指令がだされた.その内容は「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記載が残されている.
国営売春施設の設立は警視総監・坂信弥が中心になり,都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業の協力をえて進められた.そしてこれを認めたのは後の総理大臣であり,当時の大蔵省主税局長であった池田勇人であった.池田勇人は1億円の政府出資金を用意し「特殊慰安婦協会,RAA:Recreation and Amusement Association」を設立された.1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いものとの認識があった.このように理由はどうであれ,戦後国立の売春施設をつくったのは日本国政府だったのである.
政府の肝煎りで作られた国営売春施設の慰安婦募集が始まった.8月31日の朝日新聞には慰安婦募集の広告が登場することになる.そしてその日以後,各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった.
「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む.事務員募集.年齢18歳以上25歳 まで.宿舎,被服,食糧など完全支給」このような宣伝文句であった.また街頭でもチラシがまかれ慰安婦募集がなされた.その募集内容は若い女性に国土防衛 を意識させる真面目な文章であった.慰安婦はいずれ押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされたのである.敗戦により占領軍兵が日本 の婦女子を強姦するという流言飛語が飛びかい,慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された.このように国営売春施設は政策としてきわめて真面目なものであった.
特殊慰安婦協会には,モンペ姿からセーラー服の少女まで,東京だけで1000人の募集に4000人もの女性が応募してきた.そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった.そして1360人 の女性が慰安婦として働くことになった.彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが,応募者の半数近くは処女だったとされている.焼け野原の東京 で餓死しないため,生きるためには恥も外聞もなかった.「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」,この条件に彼女たちは誘われたのである.応募し た女性のほとんどが素足のままだったとされ,それは生きるための手段であった.
内務省はこの国営売春施設の設置を決定すると同時に,進駐軍を迎えるための国民の心得について注意事項を通達し,その内容は新聞にも掲載された.「日本女 性の心構えとして,日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない,ふしだらな服装は禁物である」,「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろん のこと,昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」と記載されている.政府は国営売春施設を作る一方で,一般女性にはこのような警告を発してい た.国営売春施設,国民の心構えはいずれも日本の婦女子を守ることが目的であったが,それがどれだけ効果があったかは明確ではない.それは進駐軍の報道規 制によって進駐軍の犯罪が報道されなかったからである.アメリカ兵の婦女暴行などの犯罪は報道されなかったので,その実体を知ることはできない.しかしア メリカ兵による婦女暴行の噂は少なかったことから,結果的には国営売春施設はアメリカ兵に好意的に迎え入れられ,また日本の女性を守ることになったと考え られる.
日本政府が「性の防波堤,純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げるという合理的な考え,また衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち,敗戦という当時の日本の状況を考慮すれば,国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない.
しかし3日 前まで連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽っていた政府が,また民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた政府が,アメリカ兵に対し国営売春施設を設け るという,この手のひらを返したような無節操な政策が抵抗なく進められたことに疑問を持つ者が多いと思われる.それは民族としての潔癖性をこれほど簡単に 変えたことに対する疑問であった.この敗戦前後の日本人の豹変ぶりは何だったのだろうか.一億玉砕を唱えながら,ゲリラ戦で戦う者はなく.天皇陛下万歳が マッカーサー万歳となり,貞操観念の強いはずだった日本女性が米兵の腕にぶら下がる.このような変化が何の抵抗もなく行われたことをどのように分析すれば よいのだろうか.
これを日本民族が持つ変化に対する合理的な適応性というのだろうか.この日本人の変わり身の早さをうまく説明はできないが,本土決戦を唱えていた国民が,これほど変化し順応していることが,説明しがたい日本民族の不思議さを感じさせる.
このことを日本人が適応性に優れた国民だったと考えれば納得することができる.日本人が信念を堅持しながらも,古い信念をすぐに捨て得る民族であることは 確かであろう.また国民にとって鬼畜米英は戦争遂行のためのスローガンにすぎず,欧米の文化や外国人の容貌に対する日本女性の潜在的なあこがれが心の中に 潜在していたとも考えられる.しかしながら,沖縄におけるひめゆり部隊の最後,満州における民間人の自決,サイパンにおける女性の自決,このような数週前 に起きた女性の悲劇と対比させると,慰安婦に応募した彼女らの心情をどのように分析すればよいのか躊躇を覚える.敗戦というショックがあったにせよ,国営 売春施設が何の抵抗もなく当たり前のように設立された事実を直視しなければいけない.
日本人の性に対する貞操観念について説明を加えなければならない.日本女性の貞操観念は,江戸・明治時代の儒教的考えから堅固なものと想像されやすいが, 日本女性は性に対し本来は大らかな民族だったのである.戦国時代の日本女性についてヨーロッパの宣教師は,日本女性の貞操観念があまりに欠如していること に驚いたことを本国への手紙に書いている.
国営売春施設は,日本政府の予想とおりアメリカ兵が列をつくるほどの大繁盛となった.最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上,全国では7万人の慰安婦が働いていた.しかし女性は消耗品とみなされ,90%の女性が次々に性病におかされていった.このように施設内に性病が蔓延したことが,アメリカ兵の衛生を管理するGHQにとって大きな問題となった.国営売春施設の一角には必ずかまぼこ型の消毒所が設けられ,事前の予防と事後の消毒が奨励された.さらに隠匿されていたコンドームが性病予防のため108万個放出され,大量のペニシリンが日本に提供された.売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制的検診が義務づけられたが,性病予防の効果は低かった.
米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到した.さらに売春行為そのものを反民主主義,反人道主義的行為とするアメリカの世論がひろがり,わずか半年後の昭和21年3月27日,GHQは「公娼廃止に関する覚え学」を出し,すべての国営売春施設を廃止することになった.
敗戦から1ヶ月後の昭和20年9月15日,ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され,この本は3ヵ月で400万部を売る大ベストセラーとなった.彼女たちはこの本を頼りにアメリカ兵と親交をはかったのである.それまで敵性語とされていた英語が急にもてはやされた.
国営売春施設の廃止により,建前上日本の社会から売春は消失した.しかし占領軍に対する売春は消失するどころか,潜伏したかたちで勢いを増すことになる. 国家管理の売春が自由意志の売春に変わっただけであった.街頭に放り出された慰安婦たちは,手に職もなく,もぐりの売春婦となった.制度が変わっても売春 自体が消失したわけではなく,国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち街娼の全盛期がやってきた.雇い主から自由になった娼婦が街に溢れる ことになった.
日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは,「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」などと,軽蔑と羨望の混じった俗称でよばれるように なった.彼女らは有楽町を筆頭に,上野,池袋を主な仕事場としていた.そして彼女たちの相手は,占領軍から日本人へとしだいに移行してゆくことになる.
国営売春施設の中止により性風俗の悪化を恐れた政府は,昭和21年11月4日, 「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した.特殊飲食店などの地域を限定してもうけ,社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策をとった のである.特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し,売春をある集団地区で認めるようになった.娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え,娼婦は女給 と形式上名前が変えられ,売春が行われるようになった.この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった.「赤 線」は公認の売春地区であった.昭和20年9月の時点で,東京では吉原,州崎,新宿,立川,小岩,向島など16カ所が赤線の指定を受け,全国では662カ所が指定され,娼婦は4万9000人いたとされていた.この公認の「赤線」に対して,非公式に売春行為をおこなう場所がいわゆる「青線」と呼ばれた.
昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている.それによると全国の売春地区は1921カ所,売春婦の数は約50万人に達していた.それだけ急速に売春婦の数が増えたことが分かる.そして,ひとりの売春婦が一晩にとる客数は平均2から4人とされている.この売春白書は組織売春に限られた統計あり,フリーの売春を含めれば,売春婦の数は相当数に達したものと想像される.女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが,組織売春で働く彼女たちは,収入の7割が搾取され,手元には3割しか残らなかったとされている.
生きるために身を売る女性の悲しみ,このような終戦直後の風俗を象徴するかのように,菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした.スカーフ姿でタバコを ふかしながらガード下に立つ女性たち.「星の流れに身を占って.・・・・こんな女に誰がした」という歌詞は,当時の彼女たちの退廃的雰囲気を的確に表現し ている.
この赤線による売春は売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた.
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幼い子供が被害に遭う悲しい事件が起きると、全校集会で校長は、「ヒトの命は地球より重い」と言い、生徒たちは澄んだ瞳でその話に聞きいっている。これがいつもの報道パターンである。
ヒトの命は地球より重い。この校長の言葉に誰も異論はないはずである。しかし澄んだ瞳の生徒たちは本当にこの言葉の意味を理解しているのだろうか。ヒトの命は地球より重い、と感じているのは自分の命についてであり、澄んだ瞳の奥には、他人の命などどうでもよいという悪魔がひそんでいるのではないだろうか。
学校の裏サイトを見れば、子供たちの本音が想像できる。死ね、うざい、きもいなどの野獣語の羅列、このようないじめや中傷が学校裏サイトには氾濫している。友人の不幸に対してでさえこうならば、赤の他人の命などカゲロウ以下、単なるモノと思っているのだろう。
また犯罪が起きると、犯人の学生時代の文集が発表される。そして、その多くは立派な文章である。模範的な文章を書いた子供が、その後の環境が性格を変え罪を犯したと暗示したいのだろうが、それは多分、間違いであろう。子供は子供なりに、周囲にほめられるような、よい子を装うテクニックを知っているからである。
小学生でさえも、建て前という偽装天使、本音という悪魔を使い分けている。相手を思いやる気持ちが建て前で、相手の不幸を喜ぶのが本音ならば、世の中は真っ暗闇である。そして小学生でさえこうならば、親たちも大差はないだろう。国会答弁、ニュースキャスターのコメント、そして見識者が綺麗事を言っても何も改善しないのは、その場限りの建前論ばかりで、問題の本質を綺麗な言葉で上手く誤魔化しているからであろう。人間が持つ本性のいやらしさ、それらを承知の上で泥をかぶった勇気ある議論をしなければ問題は解決しない。
人間の心の裏を直視すべきである。そして子供に教えるべきことは、相手を思いやる気持ちただ1つだけでよい。相手を思いやる気持ちを言葉で教えても、真面目な顔の表情とそれを無情に否定する心が同在していれば、まったく教育の意味はない。むしろ狡猾なずるさを増長させ、ずるい生き方のテクニックを教えているようなものである。
小学生の裏サイトは暗い将来を暗示しているが、では日本人の裏サイトはどうだろうか。
政府の答弁、マスコミの論調、見識者の発言、そのほとんどは批判を避けた保身的な建て前論ばかりである。しかし建て前論だけでは現状は変わらない。耳ざわりのよい建て前と醜い本音の世界を承知の上で議論しなければ、あるいは批判を恐れずに正論を述べなければ、世の中は良くならない。
後期高齢者医療制度が連日のようにマスコミで騒がれ、「老人を見殺しにするのか」「姥捨て山法案」などと怒鳴り合っているが、この後期高齢者医療制度は2年前の小泉内閣で閣議決定され、国会で可決された法案である。私たちの代表である国会議員が可決した法案を、実施直後になって騒ぎ出すのは、とても民主主義国家とは思えない。もし本当に反対ならは実施前に騒ぐべきである。
なぜこのような混乱が生じたのか。国会議員が民意を代表していない、政府の説明が足りない、民主主義が機能していない。いや、違うだろう。「老人の命を大切にせよ」という天使的建て前に対し、「老人や弱者に自分たちの金を使いたくない」という国民の悪魔的な本音があるからであろう。
日本には約1000兆円の借金がある。国民の間には格差が広がり貧困化が進んでいる。しかし本年5月に財務省は日本の対外純資産を発表している。対外純資産とは政府、企業、個人が外国に保有している資産(株や不動産など)から、外国人が持つ日本の資産(株や不動産など)を差し引いたものである。その報告書では、日本は15年連続で「世界第1位の債権国(金持ち)」になっている。日本の差し引き純資産は180兆円である。つまり政府は貧乏のふりをして、医療費を払えないと偽装しているのである。これでは医療機関に医療費を払わず、毎日遊び回っている未払い不届き患者と大差ない。
日本の医療において最も重要なことは医療財源の確保である。しかし日本政府は貧乏を装い社会保障の伸びを毎年2200億円抑制している。まったくひどい話しである。これでは世の中に歪みが出るのも当然である。
企業も貧乏を偽装している。企業が払っている保険料は世界最低であるが、経済界は従業員の保険料を払いたくないため、医療に無駄が多いとウソを述べ、医療費削減を叫んでいる。大企業の役員は綺麗事を並べ、年収は数億円単位なのに、社員や国民の幸福と健康を考えていない。
企業には社会的責任があるはずである。企業は自社の利益追及以上に、社会への貢献という義務がある。経済界のお偉方は、民を救うという経済本来の意味を忘れ、民に悟られないように、民を食い物にして自分が太ることばかりを考えている。まさにメタボ資本主義である。そして民は滅び、次ぎにメタボ企業も滅びるであろう。
国民医療費の財源確保のターゲットは企業負担以外にない。少なくても、日本の企業は世界標準の企業負担を払うべきである。このことを誰も言わないのは、裏指標(本当の指標)を知らないからである。世界各国の国民負担率の全体比較を知っていても、その何割を企業が負担しているか知らない。そのため医療財源の正しい解決策(企業負担割合)を決められないでいる。
この世の中において、医師や医師会は馬や鹿以上に正直者である。医師は社会的評価が高いと思い込んでいるが、社会的評価が高ければ、なぜそれに見合う尊敬と感謝がないのか。患者からはクレームばかりで収入は急下降線をたどっている。日本医師会が国民の健康を考えても、国民は医師の利益誘導と邪推し、医師が患者のために勉強しても国民からの何の還元もない。
ところで学会は学問の場である。しかし最近ではランチョーセミナーと称し、よれよれの背広を着た医師たちが、高価な背広をきた営業マンからありがたそうに弁当を受け取っている。しかし学会会場の裏では、企業幹部は豪華な食事をとりながら、販売戦略、利益戦略を練っているのである。
世の中を知るには指標は大切である。しかし表面的な指標は単なる分析のお遊びにすぎない。世の中の裏に隠された馬鹿さ加減こそが立派な指標である。それを知らずに偉そうに善人ぶっても、国民の汚れた心には響かない。裏も表も知った上で、初めて黒く汚れた心を治療できるのである。
そのためには裏指標を熟知し、戦略、戦術を立てなければいけない。あの混合診療反対の1700万票の署名運動は何だったのか。もっと有効な活用法があったはずである。日本医師会は聖人サロンから抜けだし、行政からの奴隷解放を展開すべきである。国民のことを考えるならば、それが国民を幸せにするための最良の方法であろう。
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正月の番組で、竹中平蔵と亀井静香の討論がありましたが、まるでキリスト教徒とイスラム教徒の議論のようで、どちらが正しいのか、間違っているのか、まるで分からず、観客である視聴者は、罵倒に近い議論の面白さだけを味わったことと思います。
竹中平蔵氏の主張は、小泉政権での企業の利益は高く、株価は高く、経済は良かったと言うもので、いっぽうの亀井静香の主張は中小企業の利益は低く、小泉政権によって経済は悪くなったというものでした。
ではこの相反するふたりの主張のどちらが間違っているのでしょうか。その答えは「どちらも正しい」ということです。つまり「小泉政権では大企業の利益は高かったが、中小企業の利益は低く、株価は高かく株主は優先されたが、従業員の給料は悪かった。経済は良かったが、微々たる上昇であり、世界を標準にすれば日本の経済は悪かった」と言うのが正解です。
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廃国置県
政府の医療改革,医療改正は国庫からの医療費を削減することが目的なので,患者負担は増額され,医療報酬は減額され,日本の医療は悪くなるだけである.
欧米並に日本の公共事業を半分に減らせば,日本の医療費は全額無料になるのに,政府はそれをいわない.もしそれが国民的議論となれば大変なことになるからである.日本は低負担で高福祉というが,国家予算の配分を欧米と比較すれば,日本は低負担で低福祉の国である.政府は国民の健康や生命よりも道路建設,銀行救済,海外援助などを優先させている.
国民は自分たちが選んだ政治家が,国民の生命と健康を軽視しているとは考えていない.また医療制度に対する国民的意識が低いため,医療のあり方を求める機運さえ起きようとしない.そして政府の医療改革,医療改正という言葉に騙され,政府は何の苦労もなく国民医療費を削減できたのである.
医療における最大の問題は国民医療費の総額である.そしてそれを患者,保険組合,国庫がどのように負担するかである.しかしいずれにしても,それらは国民の金であり,それを政府に委託しているにすぎない.政府は国民から委託された予算の配分を国民に説明し同意してもらう義務を怠っている.
日本の国民医療費(30兆円)が建設投資額(85兆円)の半分以下,公的年金(40兆円)より低額,パチンコ産業(30兆円)と同じ程度でよいのだろうか.より価値のあるものにより多くの予算を使うべきである.
本来ならば,各政党は具体的な数値を示し医療政策を提示すべきである.しかし各政党は医療や福祉を抽象的な言葉で飾るだけで,具体的な「医療や福祉のあり方」を数値で示していない.低負担で低福祉なのか,低負担で高福祉なのか,高負担で高福祉なのかを各政党はあやふやにしている.そのため国民は医療や福祉のあり方を選択できないでいる.
日本の医療を政府に期待できないとしたら,どうすればよいのだろうか.もっと身近な方法で日本の医療を改善させる方法がある.それは医療を国から都道府県単位に変えることである.
たとえば北海道では,道庁の考えで道路を造ることも,医療を充実させることも自由にできる制度にする.そうなれば医療の問題は身近になり,選挙で具体的な政策の選択を問うことができる.道路を優先するのか,医療を優先するのか,知事選の論点が明確となり,道民の意思によって医療の選択が可能となる.
都道府県が医療費の負担率,診療報酬,医療体制を独自に設定できる制度にする.市場原理や混合診療の導入も,また不正医師の罰則などもすべて都道府県が独自に決められるようにする.そうなれば各都道府県に医療の違いが生じ,その違いを参考に次の選挙で医療の論点が明確となり,県民の意思で医療のあり方が選択可能となる.選挙の結果,住民の希望する医療が実現するならば,医療は身近な問題になり,医療に対する意識も高まるはずである.
各都道府県が医療のあり方,医療の内容を競い合えば,医療は良い方向に向かうはずである.都道府県医師会も住民の求める医療の達成に全力をあげて協力するはずである.世界各国にはそれぞれ独自の医療制度がある.それらの利点を取り入れることは国レベルでは不可能だが,都道府県レベルでは可能である.保身だけの厚労省に日本の医療制度を改善させる力はない.頭の固い厚労省や日本医師会に頼らず,各都道府県の工夫によって医療改革の方法が何通りもでてくるはずである.
この改革案は達成困難な極論ではない.カナダやスウェーデンでは各都道府県が医療を整備し,医療のあり方が常に住民選挙の争点になっている.
医療のすべてを各都道府県単位にすることは,政治家の勇気のなさ,官僚の独占体質から困難かもしれない.もし都道府県単位が無理ならば,道州制の導入でもよい.国鉄がJRになって良くなったように,医療も良くなるはずである.
医療制度を国から都道府県,あるいは道州制に変えることは国民の理解があれば簡単である.制度疲労をきたした現在の医療制度から新しい制度に移ることに何ら法的問題はない.医療を良くするには,都道府県が競い合いながら新しい医療制度をつくることである.
医療は政府からの押しつけであってはいけない.自分たちの生命と健康の価値を自分たちが考え,自分たちで医療のあり方を判断すべきである.
政府の医療改革はすなわち医療改悪である.「医療改革を医療の改善,医療の質の向上とイコール」にしたいのならば,政府の医療費抑制政策を改めさせるか,この廃国置県の医療制度しか思い浮かばない.
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終戦と自決(昭和20年)
昭和20年8月15日の終戦とともに,500人 以上の軍人が自らの命を絶った.阿南惟幾陸軍大臣から無名の二等兵にいたるまで,自決した軍人の階級は様々であった.軍の上層部の自決は天皇の軍隊を敗北 に導いた責任を感じてのことであり,さらに多くの部下を死なせた責任,そして降伏という屈辱に駆られてのことであった.敗戦によってこのように多數の殉国 の士を出した例は,有史以来記録されたことはない.
終戦のあの暑い日からすでに58年が経っている.今日では,国に殉じた尊い人たちについて語られることは少なくなった.日本は終戦により新しく生まれ変わったが,日本の平和を念願しながら,敗戦という国の運命とともに自らの命を絶った人たちがいた.戦争責任は別問題として,日本を思い死んでいった多くの英霊たちがいたことを忘れてはならない。至高至純の精神を永遠に伝えるべき残された私たちは,多くの英霊たちをあまりに粗末に扱っているのではないだろうか.現状を詫びたい気持ちになる。
8月15日,玉音放送が始まる日の早朝,5時30分,最後まで本土決戦を主張していた阿南惟幾陸相(享年58)は 「一死以て大罪を謝し奉る.神州不滅を確信しつつ,大君の深き恵に浴みし身は,言い遺すべき片言もなし」の遺書を残し,三宅坂の陸相官邸で割腹をとげた. 阿南惟幾陸相は陸軍将校の間で進められていた敗戦阻止のクーデター計画を前日に阻止し,昼に予定されていた玉音放送を聞かずに自決したのである.阿南惟幾 陸相は陛下の玉音放送を拝聴するに忍びないと自決したのだった.帝国陸軍の最後の大臣となった阿南惟幾陸相はポツダム宣言が発せられて以降,徹底抗戦,本 土決戦を主張していたが,日本の敗戦に強い自責の念をもっていた.陸軍大臣に就任して4ヵ月であったが,敗戦という難局に際して,阿南惟幾陸相の自決は陸軍の強硬派を沈静化させた.
玉音放送と同時に,日本の軍部は米軍に対する攻撃中止命令を出した.しかし8月15日午後5時,宇垣纒中将ら17名は大分の海軍飛行場から11機の爆撃機「彗星」に分乗し,沖縄の米艦隊にむけ特攻攻撃を決行した.宇垣纒中将(享年58)は「部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻」との打電をうち太平洋に散華した.
8月16日,海軍特攻隊の生みの親である大西滝治郎・海軍中将(享年50)は「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し,官邸で自決している.
終戦時の陸海軍の自決者については「終戦時自決烈士芳名録」という書籍に記録が残されている.将官以上の自決者37名の内訳をみると,陸軍が31名,海軍が4名となっている.海軍にくらべ陸軍将官に自決者が多いのは,本土決戦,一億総玉砕を陸軍が号令し,それを真剣に考えていた証拠といえる.「終戦時自決烈士芳名録」には526人の名前が書かれているが,名を残さず自決した軍人はそれ以上の桁数に達していたと思われる.
軍人のみならず,右翼を初めとした民間団体でも集団自決が相次いだ.8月22日には日本の降伏に不満を持つ尊攘同志会員12名が愛宕山で割腹自決している.翌23日には,同じ右翼団体である明朗会(日比和一会長)13名が宮城広場に集合し青酸カリをあおり自決。翌24日には大東塾生14名 が降伏に反対して代々木練兵場で一斉に切腹している。彼らの自決は軍指導部が導いた敗戦に対する抗議,天皇の臣としての責任,神国の復活を唱えてのみそぎ の意味が含まれていた.彼らの壮絶な死は,神国日本の崩壊に虚無を感じ,虚脱感の中で日本の国に殉じたものと思われる.
人知れず自決した者は数多くいるが,その中に橋田邦彦がいる.橋田邦彦は近衛,東条内閣の文部大臣であり,昭和20年9月14日,戦争犯罪人に指名され出頭を求められ荻窪の自宅で自決している.橋田邦彦は東京帝国大医学部を卒業,医学部生理学教室からドイツへ留学,帰国後に東京帝大医学部教授となり,第一高等学校校長をへて文部大臣になった.戦時中に流行した「科学する心」という言葉は彼の造語である.橋 田邦彦の遺書には「今回戦争責任者として指名されしこと光栄の到なり,さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは,臣子の分として堪得 ざる所なり.皇国国体の本義に則り茲に自決す」と書かれている.彼は自分の生き方に道筋をたて,自らを処する方法として自決を選んだのである.
敗戦を信じず,一億総玉砕を信じていた時代である.辱めを受けるよりは,潔い死を選ぶのが当然とする人たちが多かった.自らの命を国にささげた4000人以上の特攻隊員,降伏を潔しとせず玉砕攻撃で死んでいった軍人,聖戦の勝利を疑わなかった人たち,彼らの愛国心あるいは武士道の精神にもとづく死が自決である.
その潔癖性,決然性において自決と自殺とは大きな違いがある.昔から日本人が桜を好むのは,それはその散り際が潔いからだとされている。武士道でいう死を美徳ととらえる考え方が当時の日本人の根底にあった.自決と自殺とは,ともに自らの生命を絶つ行為であるが,動機の純粋性において両者は明らかに異なる行為である.
自決に至ったのは軍人や右翼ばかりでない.むしろ沖縄や満州では非戦闘員すなわち民間人の自決の方が圧倒的に多かった.さらに民 間人の自決は軍人たちの自決とはその意味合いが異なっていた.逃げ場を失った民間人は捕虜になるしかない.しかし捕虜になれば生きて恥をかくことになる. このような絶望感が自決の動機であった.鬼畜の如き敵兵が男性を殺し,女性を辱しめるという絶望感が自決の根底にあった.自決という言葉を「みずから決断した責任ある自殺」と定義するならば,民間人の自決は軍国主義に強要された自決であり,その意味では最も悲惨な戦争犠牲者といえる.
昭和19年7月8日, 真珠湾奇襲を成功させた南雲忠一中将はサイパンの洞窟で自決,日本兵は「バンザイ」突撃で玉砕した.米軍は投降勧告をおこなったが,残された民間人にさら なる悲劇がもたらされた.老人,婦人,子供たちは島の北端までたどりつき,逃げ場を失った彼らは投身,手榴弾,毒薬で死んでいった.マッピ岬の断崖から海 へ飛び込む婦人が多数いたのだった.
日本の敗戦を目前にした昭和20年4月1日,沖縄の中部にある読谷村(よみたんそん)の海から米軍が初めて日本に上陸した.村民140人は村から500メートルはなれたチビチリガマに隠れ,140人のうち83人が集団自決をするに至っている.犠牲者の6割が18歳未満の子供であった.さらに沖縄では多くの集団自決が数多く相次いだ.また沖縄師範学校,県立第1女子高校などの女子生徒と教師で結成された「ひめゆり部隊」は看護要員として動員され443人が戦争に直接参加し249人が戦死した。そのなかの数10人は,敗戦が近づくと青酸カリを配られ自決を言い渡された.そして逃げ場を失った女学徒たちは,青酸カリを飲み,あるいは崖から身をなげ命を絶った.
8月9日,満州では,ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し,突然宣戦布告をしてきた.そして逃げ遅れた1万人以上の民間人が,生きて捕虜の辱めを受けまいと各地で自決するに至っている.満州の開拓団では,成人男性のほとんどが動員によって招集され,開拓団に残された者は病弱者,女性,子供ばかりであった.
8月15日に日本は無条件降伏を表明したが,ソ連軍は無抵抗な民間人を殺戮していった.ソ 連軍の攻撃に蹂躙され,原住民の攻撃を受け,日本へ帰る道を絶たれた女性たちは自決の道を選んだ.ソ連軍の圧倒的な戦力により,軍人には民間人を助ける余 裕さえ残されていなかった.自決の方法は縊死,溺死のほか,塩酸モルヒネ,亜砒酸,青酸カリなどの薬物による中毒死が多かった.8月12日,421人の哈達河開拓団が集団自決,8月17日には272人の来民開拓団が集団自決,このように開拓団の集団自決が相次いだ.石川県鳥越村の出身者を中心に組織された白山郷開拓団が,8月27日に「集団焼身自決」という悲惨な末路をたどり100人以上が亡くなっている.満州長安の病院では,最後まで現地に残った22人の看護婦がソ連軍の辱めを受け,あるいは受けまいとして集団自決している.「満州開拓史」によると全滅あるいは自決した者1万1500人。帰国までの病没と行方不明者を合わせると、開拓団の人々の死亡は7万8500人で,全開拓団の3人に1人が死んでいる。また国から捨て去られた満州開拓団の悲劇は残留孤児,残留婦人の問題を残すことになった.
サハリンでも病院に残った看護婦23人が集団自決をはかり6人が死亡.同じサハリンの真岡郵便局で電話交換業務を行っていた若き電話交換手9人が集団自決をはかり死亡している.戦火に包まれたサハリンで最後まで仕事を全うし,ソ連軍が迫ってきたことを知ると、まだ通じる電話で「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し青酸カリで集団自決したのだった。サハリンを望む北海道・稚内公園の丘の一角には,彼女たちの死を悼んで「9人の乙女の碑」が建っている.
このように民間人の絶望による自決が相次ぐなかで,昭和12年以降3度の総理大臣を勤めた近衛文麻呂は,公家にありがちな優柔不断の態度であった.そして戦犯容疑で出頭を命じられた近衛文麻呂公爵は,出頭当日の12月16日の朝,杉並・荻窪の自宅で青酸カリを飲み自殺をとげた.近衛文麻呂は日本最後の華族であり,罪人になり縄をかけられる屈辱を受けたくなかったのである.
いっぽう東条英機元首相はGHQに逮捕される直前の,9月11日午後3時半すぎに自宅でピストル自殺を図った.しかし自殺は失敗に終わり,米軍の手で病院に運ばれ一命をとりとめた.東条英機は極東軍事裁判で昭和23年 に巣鴨刑務所で絞首刑となるが,この自殺の失敗を国民は単なる醜態と受け止めた.東条英機は軍人や民間人に「捕虜となるなら,潔く自決せよ」と命じなが ら,逮捕の日まで未練げに生きていたこと.外人のようにピストルを用い,取り乱して自殺に失敗したことに対する国民の反応は冷ややかであった.彼は戦勝国 に裁かれることを拒み,自殺したのであるが,それは自決とはいえない.恥の上塗りであった.
敗戦と終戦,退却と転進,占領軍と進駐軍,このように言葉の言い換えがあるが,自決は自決であり,自殺とは明らかに違う行為である.
敗 戦により日本は新しい国に生まれ変わった.しかしその陰には平和国家の実現を念願しながら,国の運命とともに自らの命を絶った人たちがいたことを忘れては ならない.このような至高至純の精神を持った日本人の殉国の事実を歴史に留めるべきであるが,忘却の彼方に埋めてしまっているのが現実である.
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国営売春施設(昭和20年)
敗戦からわずか3日後の昭和20年8月18日,日本政府は占領軍を受け入れるに際し,「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決定した.国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった.そして米軍の日本上陸の前日である8月27日には,東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場するという対応の早さであった。この占領軍用性的慰安施設についての政府決定は,内務省警保局長の橋本政美により全国の各警察署に秘密裏に無電で指令がだされた.その内容は「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記載が残されている.
国営売春施設の設立は警視総監・坂信弥が中心になり,都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業の協力をえて進められた.そしてこれを認めたのは後の総理大臣であり,当時の大蔵省主税局長であった池田勇人であった.池田勇人は1億円の政府出資金を用意し「特殊慰安婦協会,RAA:Recreation and Amusement Association」を設立された.1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いものとの認識があった.このように理由はどうであれ,戦後国立の売春施設をつくったのは日本国政府だったのである.
政府の肝煎りで作られた国営売春施設の慰安婦募集が始まった.8月31日の朝日新聞には慰安婦募集の広告が登場することになる.そしてその日以後,各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった.
「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む.事務員募集.年齢18歳以上25歳まで.宿舎,被服,食糧など完全支給」このような宣伝文句であった.また街頭でもチラシがまかれ慰安婦募集がなされた.その募集内容は若い女性に国土防衛を意識させる真面目な文章であった.慰安婦はいずれ押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされたのである.敗戦により占領軍兵が日本の婦女子を強姦するという流言飛語が飛びかい,慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された.このように国営売春施設は政策としてきわめて真面目なものであった.
特殊慰安婦協会には,モンペ姿からセーラー服の少女まで,東京だけで1000人の募集に4000人もの女性が応募してきた.そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった.そして1360人の女性が慰安婦として働くことになった.彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが,応募者の半数近くは処女だったとされている.焼け野原の東京で餓死しないため,生きるためには恥も外聞もなかった.「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」,この条件に彼女たちは誘われたのである.応募した女性のほとんどが素足のままだったとされ,それは生きるための手段であった.
内務省はこの国営売春施設の設置を決定すると同時に,進駐軍を迎えるための国民の心得について注意事項を通達し,その内容は新聞にも掲載された.「日本女 性の心構えとして,日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない,ふしだらな服装は禁物である」,「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろん のこと,昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」と記載されている.政府は国営売春施設を作る一方で,一般女性にはこのような警告を発してい た.国営売春施設,国民の心構えはいずれも日本の婦女子を守ることが目的であったが,それがどれだけ効果があったかは明確ではない.それは進駐軍の報道規 制によって進駐軍の犯罪が報道されなかったからである.アメリカ兵の婦女暴行などの犯罪は報道されなかったので,その実体を知ることはできない.しかしア メリカ兵による婦女暴行の噂は少なかったことから,結果的には国営売春施設はアメリカ兵に好意的に迎え入れられ,また日本の女性を守ることになったと考え られる.
日本政府が「性の防波堤,純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げるという合理的な考え,また衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち,敗戦という当時の日本の状況を考慮すれば,国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない.
しかし3日 前まで連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽っていた政府が,また民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた政府が,アメリカ兵に対し国営売春施設を設け るという,この手のひらを返したような無節操な政策が抵抗なく進められたことに疑問を持つ者が多いと思われる.それは民族としての潔癖性をこれほど簡単に 変えたことに対する疑問であった.この敗戦前後の日本人の豹変ぶりは何だったのだろうか.一億玉砕を唱えながら,ゲリラ戦で戦う者はなく.天皇陛下万歳が マッカーサー万歳となり,貞操観念の強いはずだった日本女性が米兵の腕にぶら下がる.このような変化が何の抵抗もなく行われたことをどのように分析すれば よいのだろうか.
これを日本民族が持つ変化に対する合理的な適応性というのだろうか.この日本人の変わり身の早さをうまく説明はできないが,本土決戦を唱えていた国民が,これほど変化し順応していることが,説明しがたい日本民族の不思議さを感じさせる.
このことを日本人が適応性に優れた国民だったと考えれば納得することができる.日本人が信念を堅持しながらも,古い信念をすぐに捨て得る民族であることは 確かであろう.また国民にとって鬼畜米英は戦争遂行のためのスローガンにすぎず,欧米の文化や外国人の容貌に対する日本女性の潜在的なあこがれが心の中に 潜在していたとも考えられる.しかしながら,沖縄におけるひめゆり部隊の最後,満州における民間人の自決,サイパンにおける女性の自決,このような数週前 に起きた女性の悲劇と対比させると,慰安婦に応募した彼女らの心情をどのように分析すればよいのか躊躇を覚える.敗戦というショックがあったにせよ,国営 売春施設が何の抵抗もなく当たり前のように設立された事実を直視しなければいけない.
日本人の性に対する貞操観念について説明を加えなければならない.日本女性の貞操観念は,江戸・明治時代の儒教的考えから堅固なものと想像されやすいが, 日本女性は性に対し本来は大らかな民族だったのである.戦国時代の日本女性についてヨーロッパの宣教師は,日本女性の貞操観念があまりに欠如していること に驚いたことを本国への手紙に書いている.
国営売春施設は,日本政府の予想とおりアメリカ兵が列をつくるほどの大繁盛となった.最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上,全国では7万人の慰安婦が働いていた.しかし女性は消耗品とみなされ,90%の女性が次々に性病におかされていった.このように施設内に性病が蔓延したことが,アメリカ兵の衛生を管理するGHQにとって大きな問題となった.国営売春施設の一角には必ずかまぼこ型の消毒所が設けられ,事前の予防と事後の消毒が奨励された.さらに隠匿されていたコンドームが性病予防のため108万個放出され,大量のペニシリンが日本に提供された.売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制的検診が義務づけられたが,性病予防の効果は低かった.
米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到した.さらに売春行為そのものを反民主主義,反人道主義的行為とするアメリカの世論がひろがり,わずか半年後の昭和21年3月27日,GHQは「公娼廃止に関する覚え学」を出し,すべての国営売春施設を廃止することになった.
敗戦から1ヶ月後の昭和20年9月15日,ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され,この本は3ヵ月で400万部を売る大ベストセラーとなった.彼女たちはこの本を頼りにアメリカ兵と親交をはかったのである.それまで敵性語とされていた英語が急にもてはやされた.
国営売春施設の廃止により,建前上日本の社会から売春は消失した.しかし占領軍に対する売春は消失するどころか,潜伏したかたちで勢いを増すことになる. 国家管理の売春が自由意志の売春に変わっただけであった.街頭に放り出された慰安婦たちは,手に職もなく,もぐりの売春婦となった.制度が変わっても売春 自体が消失したわけではなく,国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち街娼の全盛期がやってきた.雇い主から自由になった娼婦が街に溢れる ことになった.
日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは,「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」などと,軽蔑と羨望の混じった俗称でよばれるように なった.彼女らは有楽町を筆頭に,上野,池袋を主な仕事場としていた.そして彼女たちの相手は,占領軍から日本人へとしだいに移行してゆくことになる.
国営売春施設の中止により性風俗の悪化を恐れた政府は,昭和21年11月4日, 「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した.特殊飲食店などの地域を限定してもうけ,社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策をとった のである.特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し,売春をある集団地区で認めるようになった.娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え,娼婦は女給 と形式上名前が変えられ,売春が行われるようになった.この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった.「赤 線」は公認の売春地区であった.昭和20年9月の時点で,東京では吉原,州崎,新宿,立川,小岩,向島など16カ所が赤線の指定を受け,全国では662カ所が指定され,娼婦は4万9000人いたとされていた.この公認の「赤線」に対して,非公式に売春行為をおこなう場所がいわゆる「青線」と呼ばれた.
昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている.それによると全国の売春地区は1921カ所,売春婦の数は約50万人に達していた.それだけ急速に売春婦の数が増えたことが分かる.そして,ひとりの売春婦が一晩にとる客数は平均2から4人とされている.この売春白書は組織売春に限られた統計あり,フリーの売春を含めれば,売春婦の数は相当数に達したものと想像される.女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが,組織売春で働く彼女たちは,収入の7割が搾取され,手元には3割しか残らなかったとされている.
生きるために身を売る女性の悲しみ,このような終戦直後の風俗を象徴するかのように,菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした.スカーフ姿でタバコを ふかしながらガード下に立つ女性たち.「星の流れに身を占って.・・・・こんな女に誰がした」という歌詞は,当時の彼女たちの退廃的雰囲気を的確に表現し ている.
この赤線による売春は売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた.
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九大医学部アメリカ兵生体解剖事件(昭和20年)
日本が敗戦を迎える数ヶ月前のことである.昭和20年5月17日から6月2日にかけてこの事件が起きた.アメリカ軍B29爆撃機の飛行士捕虜8人が九州帝国大学医学部・解剖学教室で生きたまま解剖されたのである.これが世に言う「九大生体解剖事件」である.
戦争が激化し,日本全体がアメリカ軍のB29爆撃機による空襲を受けていた.この事件で犠牲となった8人のB29爆撃機の飛行士は,昭和20年5月5日に大分県・竹田市上空に飛来,日本海軍の戦闘機・紫電改の体当たりを受け撃墜された搭乗員たちであった.搭乗員8人はパラシュートで無事に着地したが,捕らえられて捕虜となった.そして翌5月6日,汽車で竹田市から福岡市の西部軍司令部に送られてきた.まだ童顔の若い兵士たちはしばらくの間捕虜収容所にいたが,昭和20年5月17日から6月2日にかけ,九大医学部解剖学教室に連行され生きたまま4回の解剖が行われ次々に死んでいった.医学上の実験材料として生体解剖がおこなわれたのである.この事件は中国大陸における731部隊(石井部隊)とともに日本医学史上最大の汚点である.
敗戦によりこの事件の発覚を恐れた軍司令部と九大関係者は8人の捕虜の死を広島の原爆によって死亡したように隠蔽工作をおこなった.しかしGHQに届いた一通の英文の匿名投書によって,昭和21年7月13日,突然GHQが九州大学に車で乗りつけ岩山教授を戦犯容疑で逮捕した。九大関係の逮捕者は5名で,この生体解剖事件が暴かれることになる.姑息な隠蔽工作は通用しなかったのである.
昭和21年5月から極東国際軍事裁判が開廷され,この事件は昭和23年3月から5ヶ月にわたり横浜地裁で審議されることになった.そして「生体解剖事件」に関わった軍司令部16人,九大医学部関係者14人が軍事裁判にかけられることになった.起訴状による罪状は,生体解剖をして死亡させたこと,死体を冒涜し丁寧に埋葬しなかったこと,虚偽の報告と情報妨害であった.
昭和23年8月27日,横浜軍事裁判所第1号法廷において判決が下された.ジョイス裁判長は軍司令官・横山勇中将(59),軍参謀・佐藤吉真大佐(49),鳥巣太郎教授(39),平尾健一(39),森良雄講師の計5人に絞首刑を言い渡し,4人を終身刑とし,14人が3年から25年の重労働,6人を無罪とした.このように厳しい判決が下された.
この「生体解剖事件」は,九州帝国大学医学部・第1外科の岩山福次郎教授が中心となっておこなわれた.同第1外科出身の笹川拓・軍医見習士官が生体解剖を発案し,これを西部軍司令部が許可したとされている.しかしこの事件の真相は,笹川拓・軍医見習士官が昭和20年6月の空襲で死亡し,首謀格の岩山福次郎教授が逮捕翌日に土手町刑務所で自殺したことから詳細は定かではない.岩山福次郎教授が残した遺書には「いっさいは軍の命令,責任は余にあり.鳥巣,森,森本,仙波,筒井,余の命令にて動く,願わくば速やかに釈放されたし,12時,平光君すまぬ」と書かれてあった.生体解剖が軍部からの命令であったのか,軍部からの依頼であったのか,あるいは岩山福次郎教授の意志がどの程度あったのかは定かではない.しかし,どのような動機であれ,当然ながら生体解剖は人道上決して許されるべきものではない.
この事件が起きた終戦前4ヶ月の戦局は米軍が沖縄を占領し,福岡はB29の 空襲により連日甚大な被害を受けていた.食料が乏しくなっており,また大本営からは「捕虜は適当に処理せよ」との指令がきていた.この適当に処分せよの言 葉がこの生体解剖の引き金になった.米軍捕虜の対処に困っていた西部軍は,九州大学出身の軍医見習い笹川拓が立案した生体解剖に同意したのだった.破滅寸 前の日本,焦土化した福岡,このような末期的な戦局の中で,米軍爆撃機の飛行士を戦争捕虜としてではなく,無差別爆撃を行った戦争犯罪者として扱ったこと が問題をつくってしまった.解剖学教授・平光吾一はこの事件を振り返り,「日本国土を無差別爆撃し無辜の市民を殺害した上,捕獲された敵国軍人が国土防衛 に任ずる軍隊から殺されるのは当然と思った」と昭和52年発行の文藝春秋12月号でその当時の社会背景を述べている.
しかしたとえ生体解剖事件が軍部の命令であったとしても,戦争犯罪というよりも猟奇的な事件と感じるのは,「生きたまま解剖する」という非人道的犯罪が, 人間の生命を守るべき医学部構内で行われたことである.それは法律以前の問題,人間としての罪,道徳,倫理の問題であった.また裁判で処罰された者が29人,生体解剖に動員された医師の延べ数が40人, この関与人数の多さから想像できるように,この異様な犯罪が医学部の中で組織的に行われたことに戦慄を覚える.このような犯罪が医師というエリート集団に よってなぜ組織的に行われたのかを考える必要がある.事件に関わった人たちを非人道的と非難し糾弾するだけではこの事件の本質には届かない.
当時の戦時体制下では,大学は軍部に協力することが国家総動員法で義務づけられていた.そして軍部に協力しない教官は罰せられる状況にあった.九大は西部 軍部司令部の指揮下にあった.九大の総長は海軍大将・百武源吾であり,医学部教授は陸軍の嘱託という立場にあった.もちろん研究のテーマは軍用医学に関す ることになっていた.大学職員は軍隊と同様に3階級が定められ,各階級に応じて挙手礼が行われていた.
大学医学部は教授を頂点とする封建的社会であるが,戦時下の上下関係は軍隊と同じように厳しいものであった.この事件を理解するためには,このような戦時 下の社会構造を理解しておく必要がある.軍司令部や教授の命令は絶対であり,彼らに逆らえない状況の中で否応なく組み込まれた事件と理解したい.医学のた め,日本のため,様々な理由を自分に言い聞かせて解剖に応じたのであろう.戦争という異常な渦の中で,この犯罪はおこなわれたのである.
岩山教授は生体解剖についての記録を残していない.そのため解剖の目的,解剖の内容は,関係者の口供書から推測するだけである.岩山教授の目的は何だった のだろうか.生体実験によって医学の可能性を探りたい気持ちが強かったのだろうか.戦争中の医学研究の対象は軍用医学であり,戦争に役立つ研究を行うのが 医学部の目的であった.そのため戦争に傷ついた日本の国民,民間人を救うという大義名分が彼の動機であったと想像することができる.
日本は連日空襲を受け,外傷治療に必要な輸血が極端に不足していた.そして輸血に代わる代用血液がその当時の軍用医学の重要な課題になっていた.岩山教授 の専門は血液に代わる代用血液であり,彼の関心も当然そこにあったと思われる.そして捕虜に行った生体実験も,血液の代用として海水を体内に注入する実験 が主であった.人間の血液の代わりに食塩水が注入可能かどうか,肺はどの程度切除可能かどうか,てんかん療法としての脳切開法の効果,このような実験が若 いアメリカ兵捕虜を相手に解剖学教室でおこなわれた.そしてその有効性が調べられた.計4回 解剖がおこなわれ,1回目は全肺摘出,海水の代用血液,2回目は心臓摘出,肝左葉切除,3回目はてんかんに対する脳手術,4回目は代用血液,縦隔手術,肝 臓摘出であった。米兵の生体解剖は麻酔下で行われたが,解剖は病院の手術室ではなく解剖学教室の解剖台で行われた.米兵は手術中,もしくは手術直後に死亡 した。
この岩山教授が行った実験が,軍用医学としてどの程度意義があったかは分からない.しかし捕虜を実験動物と同様な扱いで死亡させたことは確かである.岩山教授は731部隊が中国でおこなった人体実験の資料を入手しており,731部隊と同じ考えが教授の根底にあったと思われる.当時,医学部第1外科の助教授だった鳥巣太郎は,第1回 目の生体解剖の後,岩山教授に解剖の中止を進言している.しかし自分の進退をかけた鳥巣助教授の進言は受け入れられず,鳥巣助教授は教授に逆らい3例目以 降の解剖には参加していない.しかし皮肉なことに,岩山教授の自殺により,裁判では鳥巣太郎がこの事件の責任者として絞首刑の判決を受けることになった.
戦争という状況の中で,この事件は多くの医師たちの関与のもとで行われた.生きたまま解剖台に乗せられたアメリカ兵を前に,医師たちは何を思い,何を考え メスを手にしたのだろうか.生々しく脈打つ心臓を見つめながら,血液を抜き,食塩水を注入し,肺を切除し,医師たちはどのような思いで生体解剖をおこなっ たのだろうか.
生体解剖事件に加え,進駐軍は解剖された捕虜の肝臓を宴会で試食した疑惑についても,激しい取り調べをおこなった.元偕行社病院長ら5人の関係者が米軍検察官の取り調べを受けることになった.そして拷問にちかい取り調べを受け自白の口供書にサインするが,人肉試食疑惑は証拠不十分により5人 は無実となった.この人肉試食疑惑は功を急いだ米軍調査官のでっちあげとされている.いずれにせよ生体解剖事件は日本の医学史上最大の猟奇事件といえる. 医師の良心さえも軍国主義体制の渦の中に飲み込まれてしまったのである.軍部,医学部教授という権威主義のなかで,医師としての最大の恥部を晒してしまっ た.
生体解剖事件の判決から2年がたった昭和25年10月,朝鮮戦争が勃発するとマッカーサーは政治的配慮からこの事件の関係者全員を減刑とした.その結果,絞首刑は減刑され,死刑囚はいなくなった.さらに講和恩赦がおこなわれ,なし崩し的に釈放がおこなわれた.鳥巣太郎も絞首刑を免れ,昭和29年1月に出所している.鳥巣太郎は平成2年に85歳で他界するが,人間としての罪を負い,自責の念から逃れることはなかったとされている。
この事件は岩山教授を中心とした非人道的犯罪と安易に解釈することができる.しかし,大学という組織が関与したこの犯罪は,むしろ「人間は状況によってど のような行為をも行い得る存在」であることを直視すべきであろう.普段は上品なことを口に出していても,その時代の状況,組織集団の雰囲気に容易に流され てしまうのが人間なのかもしれない.現在,現役で働いている医師たちはこの事件を知らないでいる.この事件について当時の関係者を責める気持ちにはなれな い.むしろこの事件が,生命を扱う多くの医師たちの記憶から薄れ,この事件が残した教訓が忘れ去られてしまうことを恐れる.
なお生体解剖事件と同様に日本の医学が残した汚点のひとつである旧関東軍731部隊は戦後しばらくはその存在が表に出ないでいた.石井四郎軍医を中心とした731部隊は人体実験で3000人の生命を奪ったとされている.アメリカはこの大規模な人体実験をおこなった旧関東軍731部隊の実験データと引き換えに関与した軍医たちの戦犯を不問としたが,731部隊の犯罪はより責められるべきものである.
生体解剖事件については,遠藤周作が小説「海と毒薬」として昭和32年に「文学界」に発表され,翌年4月に文芸春秋新社より刊行された。ちなみに「海と毒薬」というタイトルは遠藤周作が見舞客を装って九大病院の屋上にのぼり,そこから海を眺めていて思いついたとされている.「海と毒薬」は熊井啓監督により映画化され,昭和62年ベルリン映画祭銀熊賞審査員特別賞を受賞している.この事件の詳細については上坂冬子の著書「生体解剖」(中央公論社,昭和54年)が最も詳しくまた信頼性が高い.上坂冬子はアメリカ国立公文館からこの事件の公判記録を入手して本を書いている.
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