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「近くに起こしの節はお寄り下さい」、知人からの引っ越しの葉書である。彼の新居は通勤の途中にあるが、まだ寄らずにいる。この言葉を真に受けたら相手が困惑するからである。このように日本語は難しい。それは相手の気持ちを推測しなければいけないからで、もし文面どおりに立ち寄れば常識なしとされるであろう。

 「つまらない物ですが」、この言葉を添えた贈り物は、へりくだりの気持ちが含まれている。「善処します」は何もしないことを意味する行政用語である。「結構です」は、話の前後を推測しなければ正反対の意味に解釈可能である。このように日本語が難しいのは、言葉の裏に隠れた相手の真意を読まなければいけないからで、言葉と意味とがストレートである小学生や外国人には理解できない日本の文化である。

 曖昧な日本語、和を尊ぶ日本、あうんの呼吸の日本の社会は、契約で成り立つ欧米社会とは根本的に違っている。欧米人が日本人の言葉尻を捕らえ嘘つきと非難しても、日本人には嘘をついている意識はない。外国人が日本の文化を理解していないだけである。

 日本語の特長は相手を気づかう気持ちが言葉の根底にあることで、これが日本人の美的な心情を表している。日本人の奥深い心づかいなのである。しかし最近、欧米流のストレートな言い方が大手を振るうようになってきた。相手の気持ちを考えない自分勝手な言い方である。

 医療現場において問題になるのは「癌の告知」である。欧米人がストレートに癌を告知するのは、欧米が契約で成り立つ社会だからで、生命に関しては神との契約、医療に対しては医師との契約が基本にあるからである。一方、日本において癌の告知が難しいのは、日本の医師が患者を気づかう優しい心を持つからで、世間が邪推するような医師の傲慢さによるものではない。最近では、患者の心情を理解せずに、癌の告知をつっけんどんに言う医師が多いが、癌の告知を無神経にやられたら、不幸な患者を増やすことになる。

 癌の告知には医師と患者との心のコミニュケーションが必要で、コミニュケーションの中で、医師は患者にどのように告知するかを判断するのである。初対面の医師に癌ですと言われたら、患者の心はどれほど傷つくか分からない。医師は正直でなければいけないが、正直以上に大切なのは相手を気づかう心である。何でも欧米の真似ではいけない。

 聖徳太子が仏教を日本に取り入れて以来、日本の文化は外国の良い点のみを選択し、日本古来からの文化に融合させる方法をとってきた。日本独自の文化を守りながら外国文化を吸収してきたのである。この外国の利点を利用してきた日本人の体質が、時として大きな失敗を生むことがある。それは欧米の欠点を利点と思い導入した場合である。

 医療においては調剤薬局がこれに相当する。調剤薬局の是非善悪など、議論の価値など何もない。それは院内薬局が良いに決まっているからである。院外薬局を良しとするのは、「欧米先進国のほとんどが院外薬局だから日本もそうあるべき」との欧米コンプレックスを利用した理屈である。しかし、これまで何十人もの外国人に聞いてみたが、外国人の全員が全員とも、病院でクスリをもらえる日本の医療システムを絶賛していたのである。

 このように日本の優れた医療システムである院内薬局を病院が放棄したのは大きな失策であった。院外薬局は患者にとって不便なだけで、しかも国民医療費を1割押し上げる医薬分業に利点などあるはずがない。クスリの二重チェックなどは、顔見知りの院内薬剤師の方が良いに決まっている。

 病院が院内薬局を手放したのは、薬価差益が消失し院内薬局が不採算部門になったからである。また薬価差益で病院が儲けるのはけしからんとする誹謗に嫌気がさしたからである。院外薬局が流行っているのは、院外薬局が様々な金銭的恩恵を受け儲かる仕組みになっているからで、クスリを数える院外薬局の技術料が医師の診察料よりも高く設定されているからである。

 金銭をぶら下げられた政策誘導による院外薬局をいくら宣伝しても、根底にあるのは金儲けの卑しい屁理屈だから患者にとっての利点など何もない。患者のことを何も考えない損得勘定が院外処方の動機なのに、それをもっともらしく患者の利便性でものを言うから、言えば言うほど針を千本飲ましたくなる。

 厚生官僚の気まぐれな妄想に乗り、欧米先進国という言葉に惑わされ、日本の医療文化を捨てた罪は大きい。院外処方はすでに日本の6割を占め、もう後戻りはできない。院外薬局は患者のことなど何も考えなかった負の遺産である。

 敬語が廃れ、女性が男言葉で喋り、礼儀を知らず、打算的な婚活が闊歩する日本。詐欺師同然の政治家、意味不明の文章を書く官僚、門前薬局の看板が目立つ街の風景。日本の文化は「恥の文化」とされ、正義、道徳が重用視されてきたが、悲しいかな、日本は恥知らずの文化に成り下がっている。 

 

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2012.02.13 07:52 |  診療  |  仕事 / 職場  |  その他(医療関連)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 4

対応困難症候群

 医師は悩みの多い職業である。眉間にシワを寄せた苦悩のポーズが似合う職業である。

 とは言うものの、医師が悩んでいるのは世間が想像するような病気についてではない。診断だけならば、医師国家試験の問題を解くようなもの、診断が決まれば治療はシュミレーションゲームである。医師は診断や治療に迷うことがあっても、悩みという言葉には相当しない。

 医師が悩むのは、病気ではなく患者背景についてである。そしてその多くは患者への対応に関したことである。特に対応困難な患者が問題になる。医師のエネルギーの半分以上が、このような患者のために消費され、医師のストレスの9割以上の原因となっている。

 困った患者は限りなく多い。そして辛いこともたくさんある。そのひとつは暴力団であろう。日本には暴力団員は8万人、家族、友人を含めれば50万の数になるであろう。そうすると日本人200人に1人の割合となるから、ベット数200の病院には暴力団関係者が常にひとりは入院している計算になる。

 彼らは、暴力が職業だから存在そのものが恐怖である。また難癖の名人だから、理屈を言われたら対応は困難になる。ほめ殺しにあった総理大臣、総会屋の脅しに屈した大企業をみれば、世間知らずの医師が彼らに勝てるはずはない。確信犯に常識など通用しないのである。情けないことであるが、医療行為は善意で成り立っていること強調し、恩義を暗示させながら、嵐の過ぎ去るのを待つしかない。彼らの目的は金銭オンリーであるが、病院を強請っても商売にならないことを知っているので解決は意外に早い。

 その他にも恐怖を伴う対応困難な患者がいる。すぐ怒鳴る患者、突然キレル患者、チンピラ患者、刺青患者、酩酊患者、覚醒剤使用の患者、精神科を受診しない精神病患者などである。世の中に彼らが存在する限り、患者として病院を受診する。

 医師法はすべての患者は弱い立場の善人と想定しているので、このような想定外の患者に対しても診療拒否はできない。彼らが暴力を振るうことはまれであるが、とにかくアドレナリンが枯渇するぐらい疲れるのである。医師は狼の中に放り出された小羊となる。

 不定愁訴の患者、好訴妄想患者、術後の不調を訴える患者、人生相談を持ち込む患者、病気でもないのに症状を訴える患者。これらも外来の限られた時間においての対応は難しい。

 何とかしろと言われても、何とかなるものではない。冷たく突き放すことも出来ず、クスリで様子をみましょうとなるが、病気でない症状にクスリが効くはずはない。治せない医師が悪いような雰囲気になり、逃げ出したくなる。精神科や心療内科へ紹介状を書いても多くは時間稼ぎにすぎない。患者が自覚症状に慣れてくれるか、症状が自然によくなるのを待つしかない。

 対応困難は患者だけではない、その家族も含まれる。これは東海大学附属病院で起きたカリウム静注事件が象徴的といえる。事件当時、このケースが安楽死に相当するかどうか、安楽死の方法としてのカリウム静注の是非についての話題ばかりが集中し、ほとんどの医師のコメントはカリウムを静注した医師への非難ばかりであった。しかし、1時間ごとに主治医を呼び出し、眼を吊り上げて怒鳴る家族の主治医になったことを想像すれば、主治医の行動も、我が身に置き換えが可能である。あの家族が普通の家族だったならば、あの事件は起きなかっただろう。また看護婦の正義感が平和にすんだ問題を表面化させたのである。「家族から楽にするように強要された医師が、家族から罪を押しつけられた悲劇」である。そして、誰もが不幸になった事件であった。

 裁判所は安楽死の定義を言うが、判例による言葉の定義など現実にそぐわない。法律で裁けないものを法律に持ち込んだことに無理がある。誰もカリウム静注医師をかばわないが、私的には悲運の医師の味方である。

 患者はカリウム静注によって死亡したのではなく、死ぬ瞬間に偶然カリウムを静注されたと思いたい。なぜ彼が有罪で、京都・京北病院ミオブロック安楽死事件が不起訴処分なのか。弁護士が無能だったからだろうか。

 医師と患者の関係を論じる場合、非難を受けるのは常に医師であって、患者ではない。しかし、患者にも問題がある。インフォームドコンセントも良いだろう、癌の告知も良いだろう、しかし医師が腰を低くして世間に伺いをたてている間、威丈高の患者が増えていることも事実である。権利とわがままを混在させた患者が着実に増えている。今は赤ひげ医師が怒鳴りちらすご時世ではない。怒鳴るのはいつも患者である、患者性善説を信じ、じっと耐えるだけである。

 医師にとって、患者を思う純粋な気持ちが何よりも大切である。そして医療の基本も慈愛である。修行が足りないと言われれば、そのとおりである。しかし、何とかならないものだろうか。精神安定剤を自分に処方するしか方法はないのだろうか。

 常識の無い連中、言葉の通じない患者、医学の範疇にない患者、彼らはまれであるが、どうすれば良いのか分からない。みんなが困っているのに、名案が浮かばない。これは医学だろうか、それとも社会学、心理学、宗教、政治の分野なのだろうか。病気のガイドラインを作ることも大切だが、それ以上に対応困難な患者や家族へのガイドラインを作ってほしい。

 きれい事ばかりが世の中ではない。誰も書かないから、敢えて書くことにした。汚れた事実も直視すべきである。

 

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2012.02.12 00:36 |  診療  |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 2

情報医原病と健康狂想曲

 日本には仏教、神道、キリスト教など様々な宗教があり、公称信者を合計すれば2億1500万人に達する。このように日本の宗教人口は日本の総人口を優に上回っている。一方、政治集会が開催されると、主催者が発表する参加人数と警察が発表する人数には大きな隔たりがみられる。
 前者は教義に反するウソは絶対にダメとしている宗教団体、後者は国民への背信行為であるウソは打倒すべきと訴えている政治団体である。

 このように正義を唱える人たちであっても、自分の都合の良い方向へ事実を曲げているのである。そしてその結果、誰も宗教や政治を信じなくなった。また観客がパラパラしかないスポーツ競技なのに、国民の多くが興奮して見てるような、テレビの中継のアナウンサーの興奮にもしらけてしまう。

 医学においても同様である。真面目な顔をしてウソを唱える者がいる。ウイルス学者はインフルエンザの大流行で数100万人が死亡すると警告している。脂肪学者はコレステロールの増加により心筋梗塞が急増していると主張する。

 しかし、彼らの話の一部分は正しくても、声を大にして言うほどの正論ではない。インフルエンザの死亡者数は点滴がなかった大昔のデータを現在に当てはめただけである。日本人のコレステロール値はすでに欧米並みとなったが、年齢を補正した死亡統計によると心筋梗塞は横ばいかやや上昇程度にすぎない。彼らの宣伝で急増したのは、週刊誌のインフルエンザの記事と高脂血症治療薬3000億円/年の売り上げだけである。

 医学にも流行りすたりがある。C型肝炎のインターフェロン療法、胃潰瘍のヘリコバクターピロリー、エイズ、狂牛病、慢性疲労症候群、薬剤耐性結核菌、いずれも欧米からの輸入品であるが、輸入品が姿を見せるたびに黒船騒動となる。そして騒動を煽っているのは常にその分野の専門家である。

 物の数にも値しない有意差などの統計値を振り回し、騒ぐだけ騒いでおいて、結果として国民に不安と誤解を撒き散らしている。

 病気を啓蒙すること、また自分の考えを述べることは正しい行為である。しかし1の価値のものを10と過大に表現するから混乱が生じる。我田引水の悲しさであるが、彼らはそれを知ってか知らずか粉飾するから、「自分の存在や利益のために病気を利用している」と陰口を言われるのである。

 そして、目立ちたい気持ちが度を越すと、狼少年のごとくになる。さらに、それは狼少年だけでなく、医師全体がそのような目で見られ信用を失うことになる。

 医師も科学者の端くれならば、1の価値の内容は1の範囲内で主張すべきである。もしマスコミが誇張して彎曲するならば、マスコミに喋らないことである。何も喋らない方が、むしろ国民のためになるであろう。

 秦の始皇帝が不死のクスリを求めたように、国民の誰もが健康を望み、健康のための情報に飢えている。街の図書館へ行けば多くの医学関係の本が棚に並び、テレビの健康相談では愚にもつかない健康話題で花盛りである。このように、病気に対する一般人の知的欲求は非常に強いが、医師が供給する医学情報と一般人が求める医療情報には常に大きな食い違いがあるので、いつも誤解を生むことになる。

 これが学問的な興味だけであれば問題はない。また日本人の平均寿命が延びたのは事実であっても、それが健康情報によるものではない。しかし、一般人は医学情報に過度の期待をもち、それを自分の健康に還元しようとするので混乱が生じることになる。

 健康にとって大切なことは昔から変わっていない。基本は食事制限、適度な運動、禁酒禁煙、摂生、まじめな医師の指導を守り、車に気をつけることである。それ以外は何を真面目にやったとしても、運命の支配から逃れることはできない。この分かりきったことを医師が強く言わないから、一般人は自分に都合の良い楽な健康法を探そうとする。 

 タバコを吸いながらビタミン剤をのんだり、お菓子を食べながらダイエットの本を読んだり、栄養ドリンクを飲みながら徹夜をしたり、酒を飲みながら肝臓の薬をのんだり、このようなちぐはぐな行動をとる。彼らは医学情報の内容と価値を判断できず、あれもダメ、これもダメ、あれはヨイ、これはヨイ、のヨヨイのヨイと健康食品に走り、禁煙も出来ないでいる。まるで健康狂想曲である。1人ひとりが秦の始皇帝のように健康と不死のクスリを求めようとしている。

 健康の指揮者となるべき医師は、本来からの健康法を憎まれるほど繰り返し言うべきである。しかし現実には、それを強く言っても患者に嫌われるだけで収入にならないので、アリバイづくりで「お酒は控えて下さい」などと弱々しく言うだけとなる。

 医師と患者の信頼関係が徐々に崩壊しつつあるが、まだまだ多くの国民は医師を信頼している。信頼があるから医療行為が成り立っている。しかし医師の仲間による羊頭狗肉が繰り返されれば医師への信頼が崩れてゆくことになる。そしてその時に本当の医療危機がやってくるであろう。

 この兆候は妙な形ですでに表れている。現在、病院の多くは赤字であるが、病院の経営が苦しいといくら訴えても国民が相手にしないのは、医師の言葉を半信半疑で聞く癖がついているからである。

 患者との信頼関係を保つためには、また医師の発言力を強めるためには、医師はウソをつかない正直な人種であることを国民の心に刷り込ませる必要がある。もちろん医師一人ひとりの誠実な努力によってである。

 まじめな医師が、素直な患者のために行う医療行為が平均寿命を高めたのに、無知なる者の弱みにつけ入る情報医原病が国民を蝕んでいる。私たちにとって痛手なのは、この情報医原病に荷担している医師が医師全体への信頼性を低下させることである。この情報医原病をつくらないことも、さらに、これを正すことも医師の仕事のひとつである。

 国民の健康は医師ひとり一人の努力、薬剤の進歩、医療の進歩によるものなのに、白衣を着た医師が、愚にもつかない健康法を述べるテレビ番組ほど、腹立つものはない。

 

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 職人という言葉は、気難しい頑固者、寡黙な正直者、実直で昔気質、このような形容詞を連想させる。また古き良き日本の父親を想像させる言葉でもある。

 この職人の職人たるゆえんは、仕事に対する絶対的な自信と誇りであり、そしてシロウトが仕事に口出しすることを極端に嫌う性格である。

 この職人が時代と共に少なくなり、最近では大工や左官の法被姿はまったく見なくなった。そして現在、数ある職業の中から職人らしい職業を探すとしたら、白衣を着た医師が最も職人に近い存在になるのではないだろうか。

 医師は医学部という職業訓練所で学び、卒業後は徒弟制度の下で修業を積み、教授を頂点としたカースト制度に身を置いていた。このように医師の世界は、長期間の勉強と丁稚奉公、まさに職人の世界といえる。

 医師を職人と考えると、さまざまな謎が解けてくる。まず医師が患者の話を聞こうとしない、患者が何かを言おうとすると怒りだす、このような非難すべき現象は、医師を職人と考えると当然となる。

 職人は独善的と非難されても、良心からの独善は許されると思い込んでいる。そしてナンダカンダの注文に頭がキレてしまうのは、この職人気質に起因するのであろう。

 職人には職人なりの理屈がある。職人の言葉を借りれば、「最近は、職人の腕を信じない連中ばかりで、説明したら同意が必要なんて、こんな野郎が相手じゃ、仕事なんかできはしねぇ、ベラボウメ」が本音となる。

 職人のおまかせコースを逆撫でするような素人の注文が職人の機嫌を損ねるのである。親方、棟梁とおだてることも、職人のやる気を出させる意味では必要である。

 次に、仕事はできても金の計算ができない。これもまた職人の特長である。もちろん商人以上にそろばん上手な医師もいるが、多くの勤務医は金銭は念頭にない。だから、お布施をもらっても身は潔白、後指は指されないと勝手に思っている。

 良い仕事を完成させ、品質を高めることを生き甲斐に、手術ひとつにしても、キズの縫い方にしても、義足を作るにしても、医師は自分の職人芸を密かな楽しみとしている。この職人の世界が、急速に変わってしまった。

 これまでは、最高の技術を用いて、患者に取って最高の幸せを与えられることを教えられてきた。そして医師はそれを忠実に守っていればよかった。雑念は無いにひとしかった。過剰診療と非難されても、何と言っても患者サービスのつもりであるから後ろめたさなどないにひとしかった。

 このように手抜きは絶対ダメとされてきた医療に、「予算がないから安物を作れ」と言われるようになった。最高の医療だけを考えていれば幸せだったのに、その医療に制限が生じたのである。

 これまで100本の釘でやってきた仕事を、「幕府に金がないから50本にしろ」との御奉行様の命令が下ったのである。「釘50本では安普請しか造れません、建ったにしても何時壊れて死人がでるとも限りません」と言ってはみたものの、唇淋しい秋の風、お上の命令には逆らえない。「文句があるなら自腹を切れ」と叱られることになる。

 患者を入院させたくても、儲からない高齢患者を入院させるとしかられてしまう。まだ入院が必要と思っても、「平均入院日数」から早く退院させろとしかられる。まさに、「経営健全化」のもと、医は忍術ではなく算術になっている。

 職人はヒトの命にかかわることだから、お上がそう言ったからといって、そのように出来るものではない。しかし「釘50本の仕事をこれまで100本も過剰に使って儲けてきた」、と世間様に言われた日には、馬鹿馬鹿しくてベラボウメとなってしまう。

 そもそも御奉行様と商人が決めた釘の値段が高いことが医療費高騰の原因なのである。それなのにお上の前でそれを言うのは御法度になっている。偉そうな高名な医師ほど、偉そうな御託を述べる医師ほど、お上のご機嫌取りばかりである。

 釘一本の値段の方が職人の腕よりも高いのだから、自負心で支えてきた職人のプライドも限界となる。職人はヤケクソの自暴自棄、技術を学ぶ意欲をなくし、腕を落とすことになる。

 医師は自己表現が下手である。自己表現が下手なので、周囲は医師の本心をわからずにいる。毎日一生懸命に働いていれば、自ずと周囲が評価してくれると医師は思っているが、それは幻想である。

 職人は寡黙ゆえに世間から非難を受け、不当な評価を受けることになる。職人は「世間から意見されるほど落ちぶれていない」、と粋がってみても、周囲が認めないことには仕方がない。ただ耐えるだけである。

 今日において職人の価値は廃れ、昔の職人は釘なしで五重塔を建てたが、今の大工にそれを求めても無理である。芸術より経済性を重んじた結果であるが、医師も同じである。昔の医師は顔色で患者の死期を言い当て家族を呼んだが、今は当日の検査でも死期を予測できず、家族が来るまで遺体に心マッサージとなる。

 医師は均一化し、何でもマニュアル、何でも診断基準となり、職人芸は過去のものになってしまった。そして医師は職人というよりは、部品を直す技術屋、倒産しないために、そろばんをはじく商人に姿を変えようとしている。

 医師の仕事を画一的なマニュアルで規定することは不可能である。患者の顔が違うように、患者の病気もそれぞれが違っているからである。

 しかし世の中は、医療もマクドナルドのマニュアルのごとく、と思い込んでいる。マクドナルドの売り子と職人を区別できない連中が、医療にもマクドナルド同様の接客を求めている。医療の内容より、見かけの快適さを求めている。

 どうも世の中は、職人にとって住み難くなってきたようだ。

 もう何も言うことはない。降る雪や昭和は遠くになりにけりである。

 

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 失敗は成功のもとであるが、この格言がいつも正しいとは限らない。特に公的システムにおいては、失敗が失敗のもとになることが多い。

 公的システムは正義のクレーマーに弱いのである。また正義のクレーマーを利用して、官僚は改革と称して天下り先を作るのである。

 不祥事が起きるたび、事前に対策のなかったことが追及される。規制緩和を訴える者までが「なぜ事前に規制をしていなかったのか」と目をつり上げて追及する。失敗から学ぶべきは再発を防ぐ心掛けであるが、心掛けでは形にならないので、手間隙かけて予防策を作ろうとする。その結果、失敗のたびに、役に立たない窮屈な、形式だけの対策が増える。

 株の取引に不正が生じると株取引監視委員会が発足する。給食で食中毒が発生すると生ものは禁止され、水害が起きればダムの建設が検討される。交通事故が起きると交差点に信号がつけられ、街中が信号だらけとなる。

 文句を言われる省庁は、職務怠慢との批判を避けるため、完璧な対策を作ろうとする。再発防止策の名目があれば公的規制、公的機関の設置に反対する者はいない。そのため省庁はクレームに便乗し規制の強化をはかることになる。省庁はクレームに頭を下げながら、省益拡大に内心ホクホクである。国民のための規制が省庁のための省益となり、政府と行政は肥大し、動脈硬化をきたす。

 文句を言うのは簡単である。しかし文句を言えば言うほど、その対策が日常の自由を制限し、自らの首を絞めることになる。

 人が電車に飛び込めば、鉄道会社は遺族に賠償金を請求する。しかし患者が病院の屋上から飛び降りれば、遺族は病院の管理責任を追及する。追求された病院は、再発予防のため屋上に鍵を掛け、そのため患者の憩いの場所がなくなってしまう。

 老人が家で転倒すれば、家族は病院へ連れてくる。しかし入院患者が転倒すれば、家族は病院の過失を追及する。その結果、老人は転倒防止のためベッドに縛られ、誤飲防止のため点滴管理となる。

 このような不自由は、世間が文句を言いすぎ、管理者の責任を追及するるからである。そして不可抗力を追及しすぎると、失敗は教訓とはならず、当事者の責任回避のための対策となる。表面的な対策はできても、多くの人たちは不自由を強いられることになる。

 クスリの説明書には「本剤に過敏症のある者には投与してはいけない」と書いてある。このように当たり前のことを記載するのは製薬会社の責任回避である。そのために説明書の分量が増え、森の中に重要な副作用のポイントが隠れてしまう。

 医療費抑制を唱える厚生省が、事あるごとに「心配な方は医療機関を受診してください」と言うのも保身的責任回避である。

 誤診の報道が重なると、医師は失敗を恐れ過剰診療となる。結核を恐れカゼの患者に胸部X線をとり、胃癌を恐れ腹痛患者全員に内視鏡を施行する。

 手抜き医療や過剰診療は非難すべきであるが、誤診の恐怖から検査漬けクスリ漬けとなる。やらないで批判されるより、やって収入を得る方がよいに決まっている。誤診を批判しすぎると防衛医療となり、国民医療費は高騰することになる。

 病院において院内感染が問題になると、院内感染対策委員会が作られ、次いで医療事故防止委員会、機種選定委員会など、責任を問われる管理者は責任を回避するためのマニュアルを作り管理を強化する。あるいは事前に対策を立てていたとするアリバイをつくる。しかし分厚いマニュアル本など誰も読まないから、心がけを変えずにマニュアルをつくっても、仏作って魂入れずとなる。

 医師の不祥事が起きるたび、その予防策がつくられる。治験の不正が発覚するとマスコミは医師へのバッシングを繰り返し、そのため治験の条件は建て前重視の現実離れとなる。医師は営利企業のボランティアではないので、無報酬の治験などやる気が起きるはずはない。不正を防止する正論はもっともであるが、これでは治験は成立しない。

 カルテ開示が流行したのは、薬害エイズの影響である。「事前にカルテ開示があったならば、あの悲劇は起こらなかった」とする正論に押されたのである。当然と言えば当然であるが、カルテ開示の煩雑さへの対策はない。

 正義のクレーマーは正論を言うから反論はできない。反論できない正論ほど厄介なものはない。世の中が正論で良くなるならば問題はない。しかし正論は往々にして世の中を混乱させ、それに便乗した官僚の天下り先を増やすだけである。

 

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2012.02.09 07:45 |  診療  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  随想  |  スーさん  | 推薦数 : 0

即物的医療からの解放

 白髪が増えても給料は増えず、皺が増えてもそれを知性と受け止める者はいない。目はかすみ、耳は遠く、この胸のときめきは不整脈。歯は抜け、四肢は痛み、気持ちはせくも足は前に出ず。気力は衰え、肉体はゆるみ、我が身体は統制を失う。

 還暦を迎え、平均寿命に達すれば、友人の半数が死に、半数が生きている状態になる。そして死が身近になるが、老人は孤独の中で死の現実を知らない。また死を予測しても終末医療の悲劇を想像していない。年とともに知恵がついても、想像力と気力が衰えるからである。

 子供は漫画の世界に浸り、青年は夢を失い、壮年は日々の生活に追われ、誰も老人の心情や肉体を想像しない。老化は老人になるまで実感できず、まして老化の先にある死については誰もが幻想の世界、他人事である。

 元気な時に健康に気をつけ、不老長寿を願うことは悪いことではない。しかし長寿を願うあまり、健康であることにとらわれ、老化と死の現実にフタをしているのが現代人である。

 人間の生理現象である老化と死は、逃れるすべもなくやってくる。それは春から夏、夏から秋、そして冬を迎える自然の原理と同じである。多くの人たちは老化による歩行困難を知りながら、老化による衰弱死を知らない。手足があるのに動かない、口があるのに食べられない、これを理解できても、心臓があるのに動かない、肺があるのに動かない、この衰弱死を知らないのである。

 そしてその時に必要なことは、生命保険や遺言状ではない。重要なことは、そして持つべきものは、自分の死に対する明確な意思表示である。

 生前に墓を買っても、文学や哲学、あるいはテレビから死を想像しても、それは虚構の枠を出ない。生保会社や葬儀屋が教えるのは死後の形式だけで、肝心な死にざまについて教える者はいない。これだけの情報化時代に、教える者がいないので老人はそこまで考えが及ばない。その結果、眠るがごとき大往生を願いながら、ポックリと死にたいと願いながら、多くは病院での壮絶な最後となる。

 人間にとって、死は悲劇との概念が強い。しかし本当に悲劇なのはその死に方である。人々は死を恐れるあまり死を直視せず、死の悲劇から逃れるために、さらなる悲劇をつくっている。

 かつての日本人の意識には「生きざま、死にざま」という言葉が常に存在していた。恥のない生活、穏やかな死を重要視してきた。死にざまは、人生のすべてを死に集約させた有終の美意識であった。それを医学の進歩が破壊したのである。脳死患者でさえ生かし続ける現代医学が生んだ悲劇である。

 もちろん、生命絶対論者の言葉を借りるまでもなく生命の尊さは十分に承知している。しかし生命を偏重するあまり、人間の尊厳が軽視されることになった。患者の心を見ず、心モニターばかりを見つめる即物的医学が魂の尊厳を奪っている。

 患者が医療に期待するのは、病気の治療と痛みの除去である。それ以外は何も望んでいない。しかし老人医療の現実は、声なき患者の意志は無視され、治らない生理現象を治そうとする医師の驕りと優しさ、家族の過度の期待と困惑が常に交錯している。

 その結果、善良な老人に鞭を打つような、枯れ木に水をやるような、家族のてまえ心マッサージをやるような、誰も望まない医療が行われることになった。魂の抜けた身体に呼吸器をつなぎ、何本もの点滴を入れ、どこに人間らしい生と死があるのだろうか。多くはそう思いながら呼吸器のスイッチを切れないでいる。

 脳死を死と認めない生命絶対論者、終末医療を病院の儲けとする邪念、患者の死を敗北とする医学、これらにより日本の医療は心モニターの波形を動かすことばかりに専念し、安らぎを与える医療は疎んじられてきた。

 日本の医療を欧米と比較すると、日本では人口当たりのモルヒネの使用量が欧米のわずか20分の1である。この数値は欧米人に比べ20倍もの苦痛を患者に与えている証拠といえる。苦痛を取り人間らしい死を迎えさせることが医師の使命のはずである。だがこの数値は天国に行く前に地獄の苦しみを与えている日本の医療を示している。老化や死を敵とせず、病気と捕らえず、共存すべき自然現象と考える視点が欠けている。

 大部分の人たちは自らの終末医療への意志を持たない。そのため残された家族が対応することになる。しかし家族は戸惑うばかりで、結局は医師まかせとなる。そして頼られた医師は一様に終末医療となる。

 最近、患者の医療における自己決定権が話題になっているが、本当に決めてほしいのは自らの終末医療のあり方である。元気なうちに死の現実を知り、死を受け入れる準備が必要である。また認知症になった場合の、胃ろう増設術への是非も自分で決めておくべきである。各自が死を見つめ直し、自分が望む終末期医療を、意識を失う前に、認知症になる前に明記しておくことである。

 美田を残すより、「人間としての生きざま、死にざま」を家族に残す方がより重要である。そのためにはドナーカードと同様に尊厳カードを作ることも1案である。あるいは保険証に本人の意思を明記できるようにすべきである。保険証は毎年書き換えられるので、本人の意思の変化にも対応できるはずである。本人の意思にそった医療を、医師の合意のもとで決定するのがよい。

 人知のおよばない死後を思うより、誰もが経験する臨死医療について考える時である。

 もちろん医師の責務は、患者本人の意志を最優先させることである。即物的医療から人間の精神を解放させることも、新たな医師の責務になるであろう。

 

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 昨年1月、各新聞に上記見出しが掲載され、「予防接種の注射器の使い回しによってB型肝炎ウイルスが感染した」として、国が裁判所の和解案を受け入れ、最大3兆2000億円が必要と書かれてあった。

 この記事を読んで、首を傾げた医師が多かったと思う。

 それは、予防接種によるB型肝炎を、どのように証明するかへの疑問であった。

 B型肝炎ウイルスは有史以前から存在しており、その感染は母児感染だけではない。

 にもかかわらず、昭和61年に母児感染ワクチン接種が始まったことから、それ以前の感染を全て予防接種によるものとしているからである。

 予防接種による感染と、自然感染、輸血、ヒロポン、刺青、他の射器の使い回しによる感染をどのように区別するのか。これらは医学的には不可能である。また昔のカルテなど存在しないから、被害は患者の自己申告だけになる。

 たとえ予防接種で感染したとしても、天然痘、ポリオなどの予防接種で救われた人は数えきれず、また当時における、注射器の使い回しの危険性の認識の程度についても考慮されていない。

 特に釈然としないのは、現在ではB型肝炎は性感染症であり、セックスによる感染をどのように否定するかである。性感染症よるB型肝炎は遺伝子のタイプが違うというが、それだけでは性感染症を否定はできない。性感染に、なぜ私たちの税金(和解金)を払わなければならないのか、感情的にも納得できないのである。

 C型肝炎訴訟では「フィブリノゲンを出産時に使用された母親ならびに子」と患者は限定されていたが、C型肝炎についても注射器の使い回しによる可能性があるだろうし、梅毒だって感染の可能性はゼロではない。

 弁護士の報酬は、和解金の15%、つまり4800億超が弁護士の収入になる。 B型肝炎訴訟は弁護士救済のための和解なのだろうか。せめて補償額は治療費だけにすべきである。日本は1000兆円の借金大国である。消費税を10%にしても、年金さえ満足に払えない。東日本震災の被害者を考える場合、3兆2000億円の和解金は納得しがたい。さらに、症状がない感染者にも50万円を支払うことも納得できない。

 もしB型肝炎の患者が、「どのような手続きをとれば、和解金をもらえるのか」と訊かれたら、どのように返答すればよいのだろうか。もちろんワクチンの接種による感染を起こした症例もあるだろうが、患者全てがそうとは思えない。和解金といえども私たちの税金である。どこか釈然としない。

 多分、「B型肝炎訴訟、和解金3兆2000億円」の記事は、日本のB型肝炎患者数に和解金をかけただけの単純計算と思われる。「人気取り優先の政治家の判断による和解」であって、優秀な厚労省役人は「ワクチン接種によるB型肝炎」の定義を厳しくして、和解できなくするであろう。多分、和解総額は1/10、1/100ぐらいになるであろう。

 かつての私たち医師仲間は、針刺し事故、手術時の感染などで、多くが肝炎に罹患していた。医師にとって肝炎は「患者を救うための、職業病」だった。もちろん針刺し事故によるB型肝炎は訴訟には含まれていない。

やはり釈然としない。


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 昭和29年4月15日、京大病院第一内科で2人の若い医師、三上治助手(29)と山本俊夫無給副手(28)がある人体実験を行った。それは輸血後肝炎の患者から採血した血液1ccを自分たちの腕に注射する実験であった。

 その当時は、血清肝炎の概念は確立しておらず「肝炎が血液から感染するとしても軽い黄疸程度」との軽い気持ちだった。ところが注射から42日目の5月26日、三上助手は悪寒、戦慄、倦怠を覚え、3日後には意識障害から昏睡状態となり、翌30日に死亡した。三上助手は病理解剖によって劇症肝炎と診断された。山本無給副手も肝炎を発症したが、軽い倦怠感だけであった。

 当時は、肝炎ウイルスの正体は全く不明で、A型肝炎、B型肝炎、C型肝炎の区別さえなかった。肝臓の病理所見からも区別はできず、肝炎の感染経路、潜伏期などから、肝炎には2種類あるらしいことが推測されていた。

 三上助手の研究テーマは肝炎ウイルスで、ウイルスを分離するためマウスに患者血清を注射する実験を繰り返していた。血清肝炎は現在ではB型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスなどが原因と分かっているが、肝炎ウイルスは人間とサル以外の動物には感染しないことが特徴であった。そのためマウスの実験では感染は成功しなかった。三上助手は患者の血液から肝炎がうつるかどうか疑問を持っていた。もし感染するとしたら、どのような症状がどのような経過で出現するかを自分の目で確かめたかった。

 この詳細については、山本無給副手が内科宝函(第四巻第五号)に論文として記録を残している。山本無給副手はその後、近畿大学医学部教授になっている。

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 現在、日本の輸血システムは、個人の善意による献血制度で支えられている。献血は輸血を必要とする患者のために報酬を期待せず、自分の自由な意思で血液を供給することである。しかし昭和42年までの輸血システムは現在の献血制度ではなく、「売血制度」であった。「売血制度」とは自分の血液をお金に換えることで、当時は生活のために血液を売る者が大勢いたのであった。

 昭和26年2月26日、日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」が大阪で営業を開始した。血液銀行とは健康な人から血液を集め、その血液を病院などの医療機関に卸す民間会社のことである。血液銀行の名前から公的機関との印象を受けるが、それは間違いで血液銀行は利益を目的とした民間会社である。

 日本ブラッドバンクは中国で人体実験を行った731部隊の幹部が創立した会社で、日本ブラッドバンクは後にミドリ十字と社名を変え、戦後最大の薬害事件である「薬害エイズ」を引き起こすことになる。日本ブラッドバンクと同じように、厚生省が認可した血液の売買業者は都内だけで70団体に達し、血液売買は立派な商売になっていた。医学の進歩に伴って手術件数が増え、手術の需要増が売血の供給増をつくった。

 昭和28年の学徒援護会よると、都内の学生22万人うち、供血業者に登録している学生は約2万人であった。つまり大学生の約1割が売血によって生活費を得ていたことになる。また登録学生のうちの1割が高校生だった。このように多くの学生が血液を売って生計を立てていたのである。

 採血量は1回200cc、3カ月以上の間隔を置くことが決められていた。しかしそうであっても1カ月に10回、15回と血液を売る者が多かった。もちろんそれを承知で採血を繰り返す業者がほとんどであった。血液の値段は200ccが1100円で、3割が業者にピンハネされ、7割が学生に渡されていた。失業者や学生たちにとって、売血が手っ取り早い収入になっていた。お金が必要な人たちにとって売血ほど安易な方法はなかった。大学病院前の血液銀行は登録者が多く、順番がまわらないほどの人気だった。新宿区淀橋の東京医大病院の血液銀行では1日20人の需要に100人が押しかけていた。輸血と売血は、需要と供給のバランスがあり、登録しても順番のこない地区もあった。

 昭和28年当時は、インフレと企業の人員整理が重なり、職を求める労働者が街にあふれていた。経済はどん底の状態で、学生のほとんどがアルバイトで学費や生活費を稼いでいた。東大生の8割が生活のためにアルバイトを希望し、希望した学生のうち職を得たのはその4割であった。アルバイトの内容もピーナツ売り、代筆屋、ホステス、サーカスの会場係などで、その中には病原菌の人体実験のために体を売る危険なものもあった。伝染病研究所が募集したアルバイトは3食付きで、赤痢菌を食べうまく発症すれば1000円の手当金が与えられるもので、この人間モルモットの日給は150円だった。

 不況と就職難が重なったこの時代に、アルバイトを見つけるのは困難であった。事務系アルバイトが日給80円であったが、自分の血液を売ればその10倍の収入になった。血液を取り過ぎて貧血で倒れる者、顔に頬紅を塗って貧血を誤魔化して採血を受る者もいた。このように学生たちは自分の血液を売って卒業証書を手にしていた。まさに苦学の時代であった。

 昭和28年12月11日、東京葛飾区の供血斡旋業・日本製薬工業で従業員のストが行われた。その際、日本製薬工業に血液を売って生活していた500人の学生たちが血液を買えと工場前に座り込む事件が起きている。このように売血は貧しい人たちの生活を支えていた。しかも血液を売る人たちは常連がほとんどで、そのため血液の濃度が薄く、さらに血清肝炎の発症率が高かった。

 売血制度は多くの怪事件を引き起こしている。昭和27年12月、仙台市北署は窃盗容疑で中高生9人を逮捕。貧血症状が強く顔色が悪いため中高生を追及すると、中高生たちは週に3回自分たちの血液を売り、交遊や飲食に当てていた。少年たちは窃盗罪で送検されたが、青少年の健康状態を無視したまま採血する業者の存在が明るみになった。売血が犯罪に結び付く事件も起きている。金を持たない学生が恐喝され、血液銀行に連れて行かれ、血液を採られる事件が福岡を始めとして各地で起きている。

 昭和39年3月24日、米国大使ライシャワーが精神障害の少年に右大腿を刺され、その際の輸血から血清肝炎になり、売血制度は一気に社会問題になった。いわゆる売血による「黄色い血(輸血後肝炎)問題」である。ライシャワー事件から2カ月後の5月18日に、輸血に用いられる血液の97%が売血によることが新聞社の調査で判明、売血制度そのものが問われることになった。

 昭和39年6月、読売新聞・本田記者が労務者になりすまし、どや街に侵入して売血の実態を「黄色い血の恐怖」という題名で新聞に連載した。その中で血液銀行が暴力団がらみであること、特定のアパートや置き屋に売血者を住ませている業者がいることを指摘した。

 「黄色い血」とは売血常習者が何度も血液を売るため、血球成分が少なく血漿部分が多くなり、血液が黄色く見えることから名づけられた。また「黄色い血」という言葉は輸血後肝炎による黄疸のイメージと結びつくことから多用された。

 大学生を中心とした売血追放運動が各地で起こり、昭和39年8月、政府はそれまでの「売血」から「献血」へと転換することを閣議決定。全国的な献血組織が整備され、赤十字血液センターが各地に開設され、移動採血車の普及などの推進がなされた。

 それまで採血車は全国に3台しかなかったが、一気に27台に増やし全国に配置された。日本赤十字社の各病院も全面協力し、昭和39年の献血者は約1万5000人であったが、翌40年には20万人を超えるまでになった。

 各都道府県に赤十字血液センターが設置され、昭和44年に献血率は80%となり、昭和48年にはすべてが献血となった。これでようやく先進国並みの状態となり、以後現在に至るまで、輸血のすべては日本赤十字社が扱うことになっている。

 輸血の歴史を簡単に説明すると、オーストリアの医師ランドシュタイナーが人間どうしの血液を混ぜ合わせると血球が凝集することを見出し、1900年(明治33)にこの現象は人間の血液型ABOによることを発見した。この血液型の発見が輸血の歴史の始まりである。1914年、血液は採血するとすぐに凝固するが、抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)を混入すると凝血しないことが分かり、血液保存が可能になった。

 日本で初めて輸血が行われたのは大正8年であった。昭和5年に、浜口雄幸首相が東京駅で暴漢にピストルで撃たれる事件が起き、この時、東大の塩田広重教授らが東京駅に駆けつけ、駅長室で輸血を行って浜口首相を助けたことが大きな話題となった。このころから医療の進歩に伴い輸血が一般的に行われるようになった。

 当時の輸血は病院で血液を採取し、そのまま輸血する方法がとられていた。患者の寝ているベッドの隣に血液の提供者を寝かせ、注射器で採血してすぐに輸血する方法である。このことから「まくら元輸血」といわれていた。いわゆる新鮮血輸血であった。

 輸血が行われて以来、わが国における輸血の歴史はまさに輸血後肝炎との戦いの歴史であった。昭和36年に献血制度が導入されるまでは、輸血を受けた者の半数以上が肝炎に感染したとされている。

 昭和44年に完全献血が実施されると、輸血後肝炎は16.2%に低下し、昭和61年には8.7%に低下した。平成元年にC型肝炎ウイルスの検査が行われるようになり、平成4年には輸血後肝炎は0.48%にまで低下した。それでもまだ輸血後肝炎が完全に撲滅できないのは、感染を受けてから抗体ができるまでのウインドウ期(感染しているが検査は陰性の時期)があるためである。現在では、ウイルスを核酸増幅させる検査によってさらに安全性が高められている。

 現在、献血対象者は年齢が16歳から64歳で、体重は男性が45キロ以上、女性は40キロ以上の者で、そのほか血圧、血液比重、既往症、服薬などの条件が設けられている。また献血者の安全と血液の品質が配慮され、献血者には血液型、肝機能、コレステロール、総タンパクなど7種類の生化学的検査の結果が知らされ、健康管理の役割を合わせ持つようになっている。

 輸血による感染防止対策として、従来からの梅毒検査、B型肝炎(HBs抗原)検査に加え、昭和61年からエイズ検査、成人T細胞白血病、平成元年からC型肝炎のスクリーニングが行われている。平成6年からは、輸血による重篤な合併症である移植片対宿主病(GVHD)を予防するため、輸血される血液には放射線照射が行われるようになった。また最近では、他人の血液を輸血せずに、自分の血液を輸血する自己血輸血という方法も行われるようになった。自己血輸血は手術が予定されている場合に、あらかじめ自分の血液を採血し、備蓄しておく方法である。

 昭和60年、献血者は年間約870万人に達し、献血率は7.3%で、スイス、フィンランドに次いで世界第3位になった。しかし血液のなかの血漿成分からつくる血漿分画製剤(アルブミン製剤、免疫グロブリン製剤、血液凝固因子製剤)の自給率は低く、WHO(世界保健機関)から「自国で必要とする血液は自国で確保すべし」と勧告を受けることになった。

 そのため昭和61年から献血量を1回200ccと400ccの2本立てにしたが、皮肉なことに61年以降、献血者は減り続け、平成12年の献血者は588万人となっている。献血については日本赤十字社の血液センターに電話をすれば詳しい説明を受けることができる。

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 昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。

 書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。

 このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。

 刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。

 駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。

 犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。

 少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。

 ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。

 輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。

 この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。

 ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。

 日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。

 ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。

 最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。

 精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。

 親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。

 ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。

 ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。

 当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。

 ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。

 ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。

 昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。

 ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。

 昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。

 ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。

 大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。

 日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。

 ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。

 その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった

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