
以前にも書きましたが、私の恩師は荻原俊男大阪大学医学部付属病院長(ちなみに、おぎはらと読みます。時々はぎわらという間違った読み方をされ、怒られていますので、念のため)です。昨日3月7日に最後の退官講義をされ、私も聴講に行きました。うるうるの状態で最終講義を聴きましたので、少し思い出話を書いていきたいと思います。
私は、1987年の卒業と同時に、当時の第四内科(現在の老年・高血圧内科。今までに何回も微妙に名称が変わっており、出生魚?のような科です)に入局しました。今のようなスーパーローテは、当然当時はなく、これからの一生を学生でよく知らないままに決めるというギャンブラーの跋扈した時代でした。
私は、殆ど授業には出たことがなく(教養の授業でくじけて以来、お友達は雀荘で待っているサークルにいましたので・・・。だから、教養がないんだ!という批判は、甘んじて受けます・・・)、当時の主任教授熊原先生の顔も良く知らないまま、入局を決めました(余談ですが、当時のテストには私は誰でしょう?という顔と名前を一致させる試験が時々あり、多くの追試者を生み出していた良き時代でした。熊原先生の試験も口頭試験でしたが、やや耳が遠く、具グループの誰かが答えれば、誰が答えているかが不明なので、試験に通るという都市伝説がささやかれ、腹話術の練習が流行っておりました)。
勿論、私も良く知るはずもなく、老年病医学(ちなみにこれが当時の正式名称で、第四内科はいわゆる通称でした)とは何だ?という感じでした。トイレの落書きには、第一から第四内科までの評判が書いてあり、何にも見ない(三内)、何にもしない(四内)(三内の先生、ごめんなさい。私の意見ではありません。当時の落書きですので!)、と書かれていました。
この言葉どおり、学生の間では女・老人の四内といわれており、楽をするなら四内といわれていました(今から思うと少子高齢化を見越した先進的な内科ですね?)。で、私は大変興味を持ち、当時の荻原助教授、檜垣助手(現愛媛大学教授)を尋ねたわけです。
で、次号に続きます。写真は、最終講義の荻原先生の模様です。
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