今日の医者ブログは皆これにつきる。福島県立大野病院の帝王切開での母体死亡の主治医の無罪判決。
これに関する自分の意見は「無罪として当然」である。ここで問題なのは「罪」なのかどうかである。「人一人亡くなっているんだぞ!」という遺族や一般人としての感情はごもっともだが、産科医がした事が「罪」に当たるかなのだ。
自分の考えている事件の要旨はこうである。産科医が帝王切開に望んだ。しかしその病院は産科医が少ない。帝王切開した母親が癒着胎盤という稀な病気であった。それが元で死亡となった。
論点となったのは産科医師が「過失(罪)」があったかどうかである。検察側は
「大量出血を考え輸血を準備すべき」
「手術が困難であればほかの産科医を呼ぶべき(呼ぶ人は存在しないんだが)」
「手技に問題があった(剥離の仕方が悪かった)」
などを論点とした。
まず結論から言うと、これは「医者の裁量(判断力)」が正しいかどうかを論じている。それは「輸血」をいつも準備すればいいだろうが、輸血を必要とする例は少な いわけだし、輸血といっても全例に準備できるわけがない。「ほかの産科医を呼ぶ」のは論外として、「癒着胎盤を考えて準備すべき」というのは絶対におかし いのである。
それは簡単に言えば医師が、来る患者来る患者にガンがあるかどうか精密に確認することと同じなのだ。風邪で来ている患者の何割にガンを見つける事ができるだろうか?いや、下手をするとガン以上に癒着胎盤は見つかる確率は低いかもしれない。
ガンが全身に転移して末期の状態の人が亡くなったとして、医者は責められるだろうか?死に向かっている(死ぬ事が運命付けられたとでも言おうか)患者を助ける事は、今の我々の技術では「無理」なのだ。
すなわち「不可能」を「可能」にできないのに「なぜ助けられない!?」と責められているのと同義なのだ。地震でつぶれた家屋の中の住人を今すぐ助け出せと言っているのと変わらない。
これは「罪」だろうか?自分が彼の立場であればそれをまず訴えるだろう。彼はそんな文句を言わず、4年にわたる公判・警察の取調べをぐっと耐えて きた。彼の忍耐力と無罪の獲得は、我々残された医師に勇気と逞しさを与えてくれた。「無罪」にはなったが、公判を通しての「苦痛」は決して「無」になるこ とはない。
固定リンク
|
コメント (1)
コメント
コメント一覧
当たり前の事なんですが、とりあえずは良かったですね。
コメントを書く