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「広島県医師協だより」という医師協同組合会員向けの月刊誌がある。50ページ足らずの小雑誌です。
最近その雑誌に広島市で皮膚科を開業されているN女医先生が「日本人のルーツ」というテーマで連載をされだした。
世に司馬史観など、歴史に対する独自の考察で名を知られている人はいるが、N先生もなかなかのものです。毎回感銘して読んでいます。
一部分紹介してみます。
白村江の戦い(663年)の謎に関する補足
60歳を越えた、しかも女帝である斉明天皇が百済救援を決めるのにはかなりの心労や苦悩があったと推測される。しかも、都(難波)から筑紫へ居を移してまでである。そして居を移してまもなくその意を成就しないまま661年7月に筑紫の地にて没している。661年1月、難波宮から海路瀬戸内海を西に向かった斉明天皇は途中伊予国の熟田津(いまの道後)に立ち寄ったといわれる。額田王の「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(万葉集巻第一)はそのときの模様を歌ったとされている。その後、斉明天皇の遺志は息子である中大兄皇子(天智天皇)に引き継がれたわけである。今の時代においてさえ、60歳といえば女性でも男性でもそろそろ老いを感じる年齢である。いかに時の長であるとはいえ、斉明天皇がはたしてこの時代に、今でいう帝国主義的韓半島の支配、あるいは制圧といった野望をもちあわせていたであろうか。
歴史というものは、天変地異のように何かが唐突に起こるわけではないので、なんらかの因果関係や、その流れの中にある蓋然性が重視されなければならない。7世紀初頭、まだ中央集権国家としてやっとその体を成しはじめた国家が、多数の兵を徴収して他国を制圧しようとできたであろうか。そう考えると韓国側の検証(百済救援を求められた斉明天皇、その夫である舒明天皇の祖父である敏達天皇が百済王だと伝える。百済救済のため派兵準備を進めたが、この時徴兵の二万七千人の大半の兵を送り出したのが吉備地方である。それほど百済からの渡来人が多かった。百済は兵として駆り出された多くの人々の祖国であり、天皇自身が百済王の子孫であったから、これほどまでに大掛かりな救済をも厭わなかったのだ。という説)のほうが、より強い説得力を持っているように私には思えるのである。
さて、どちらが正しいのか。事実はひとつである。
以上、文章が引き締まっており、彼女なりの歴史観により史実を分析し、なを且つ読者の知的興味をそそる。なかなかの人ですね。
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