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思うに私の年代は同和問題と共産主義の洗礼を程度の差はあれ受けている。
中学1年時、全生徒で「橋のない川」を映画館まで観に行った。今から思えば同和教育の始まりだったと思う。昭和40年代だ。昭和50年代、60年代は最盛期だった。学区・地域の同和学習集会が盛んに開かれた。特に広島県は盛んであった。小さな子どもに「かわいいね、何才ですか」と訊ねて、その子が親指を折って後の4本の指を立てて「よっつ」とか言ったら、子どもの母親が「ダメ」と叱って周囲を見渡してましたね。
平成11年に県立高校校長が首を吊って自殺した。この事件が契機となって流れが変わった。参院予算委員会に参考人招致された広島の校長協会会長が「部落開放同盟の教育介入が校長を死に追い詰めた」と述べ、地元出身の当時蔵相だった宮沢喜一氏も「多くの人がリンチにあい、職を失ってきた。今日までこの事態の解決に十分寄与できなかったことを恥ずかしく思う」と答弁した。それから厳しい同盟批判が相次いだ。
影の総理と言われ権謀術数を駆使した辣腕政治家、野中広務氏は昭和57年3月、京都市の京都会館で全国水平社創立60周年記念集会で来賓として壇上に立った。当時野中氏は京都府副知事であった。
「全水創立から60年ののち、部落開放のための集会を開かなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる一人として心からおわびします。私事ですが、私も部落に生まれた一人です。私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けておるかぎり、部落開放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのです。60年後に再びここで集会を開くことがないよう、京都府政は部落開放同盟と力を合わせて、部落開放の道を進むことを誓います」と挨拶している。
「やぶ医者のつぶやき」のドクターI先生が記事の中で、奈良市職員が病気を理由に5年間で8日しか出勤せず、その間の給与を満額近く受け取っていた。おまけに親族の経営する建設会社に公共工事を5000万円以上受注させていた。と書いておられる。
何故、奈良の件にしろ、大阪の芦原病院の件にしろ、今頃になって騒いでるが、もう少し早めに対処できなかったのかと、誰でも疑問に思う。しかし同和運動真っ只中では、怖くてだれも口に出して言えませんでしたね。こういう雰囲気が差別の再生産を生むのでしょうが・・・。
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