生立ち:ハギンスは1901年9月22日にカナダ、ノバ・スコシアのハリファックスに薬剤師の子として生れた。祖父は1850年頃にこの地に植民した英国の軍曹であった。母方のスペンサー家はアメリカ革命中にポストンを去りカナダに移住した王室派のアメリカ移民であった。少年時代の生活はそれ程貧乏ではなかったにしても、かなり厳しいものであった。父は12歳の時になくなり、少年時代の彼の医学との接触は、母の仕事であつたリウマチのためのハギンス膏づくりを手伝うことであった。その後、ノバ・スコシアのアカーデイア・カレッジに入り、勉学のかたわら近くの医師による人体解剖学のコースをとった。このような境偶が彼を医学への世界へ導いた。18歳のときに母とも死にわかれ、この年(1919年)に国境をこえてニューヨークのコロンビア大学のサマースクールに有機化学と物理化学のコースをとりに出かけた。この時期はハギンス博士の一生で最も悲惨な時期で、カナダの田舎出身の学生にとって都会の学生は知的にみえた。教師以外に彼に話しかけるものはいなかった。週末は博物館に通い、劇や音楽に没頭して過した。後の不快不屈の精神はこのような精神形成期の境遇に負うところが大きい。アカーディアに帰り、1920年、19歳でBAの学位をとった。当時のノバ・スコシアの人々にとって医療の中心であつたのでハーバード大学は彼にとって大きな目標となった。ハーバード大学に入って、ボストンがニューヨークよりも自分の性に合うことを知った。彼はクラス最年少で金がなかった。そこで早朝に起きて麻酔を手伝い僅かのドルを得、そのあとクラスに出席した。医学部在学中1日60セントですごし朝食はいつもドーナツ1つと1杯のオートミールで昼食は省略した。また、食費の足らない医学生に親切なレストランをみつけて食事を補った。ハーバード大学を出たあと、新しいミシガン大学病院のパンフレットにひかれ、ここでインターンを過すことになった。1925年、彼の到着の翌年に病院が開かれ、外科医のフレデリック・コラー教授のもとでインターン、レジデント、インストラクターと多忙な日々を過し、夫人のマーガレット・ウォルマンと遇うことになる。当時シカゴ大学は医学部を創設し、初代の教授達がヨーロッパの病院を見学する旅に出ていた。後に甲状腺とヨードで有名になつたカーティス博士がシカゴヘの帰途、ミシガン大学に立寄り手術を指導した。術後すぐ彼にシカゴ大学での職の有無について尋ねた。カーティス博士はシカゴ大学の外科学主任のフェミスター博士に相談することをすすめ、手紙のやりとりのすえフェミスター博士のもとで研究員の職をひきうけることになった。しかし、これで一般外科医としての道を歩むことにはならなかつた。シカゴ大学では一度決定した泌尿器科部門の教授が着任をやめたため、ハギンスは、ミシガン大学に10月まで止まり膀胱鏡を修得してくるように言われた。これが泌尿器分野で活躍することになつたきっかけである。1927年10月、7マイルもはなれた地から新病院として発足した当時のシカゴ大学病院に着任した。当時、私立大学の医師はパート雇用で金かせぎに目がむいて研究どころではなかった。新しい大学病院では専任制にした。 新病院は175床、30人の若い医師、4人の学生からなり、患者も少なく、読書、研究、チェスと何をする時間もありあまる程あった。夏の期間何とかひきとめた1人の入院患者が唯一の臨床材料であることもあつた。若い医師にとってこの時ほどきっかけの必要な時はなかった。この時唯一人の指導者はフェミスター博士であつた。彼にとって人生の目的はたえざる自己改良continuous self-improvementであつた。開院当日、医師達は9時に出勤したが、次の日からはおくれて来た。フェミスターは8時に出勤し、自室のドアを開放して自分の早朝出勤を他に示した。8時15分になると出て釆たばかりの人の所へあらわれ、朝からの成果について聞いてまわった。教室では退屈なカンファレンスがくりかえされた。
self-improvement まったく同感である。