カナダには、2005年6月の中頃から7月の終わりまで、7週間、一人で滞在しました。初めの3週間は、バンクーバーでホームステイをし、語学学校に通いました。後の4週間は、トロント大学の寮に入り、トロント大学で、英語研修の講義を受けました。
バンクーバーでは、語学学校がマンモスで、講義がもう一って、感じでした。バンクーバー滞在中、隣のビクトリアに2泊してきました。バンクーバーからビクトリアまで、バスで行く時は(途中、フェリーで)簡単に行けますし、予約なしで、その日に乗れます。帰りは、生まれて初めて、水上飛行機に乗って帰りました(40分ほどで、ビクトリアからバンクーバーに着きましたが、値段が高いのと、予約が必要です)。ビクトリアは、本当に、地上の楽園と思いました。医療も素晴らしいですし、人は親切で、街が花で一杯で、実に綺麗です。それに、1年中、蚊がいません。海流の関係でか、夏涼しくて、冬暖かいのです。冬寒いのは、わずか2週間だけだそうです。又、語学学校もありました。次回行く時は、ここで、英語の勉強をするつもりでいます。
トロント大学の寮は、最高でした。4人で、一つのブロックに住み、二人に一つの割合で、トイレ・バスがありました。講義も、それ以上に素晴らしく、誰にでも薦められる内容でした(大学の先生方は、生徒に如何に教えるべきか、常に、研究しているとのことでした)。お金が高いのが欠点らしいのですが、・・・。その間、トロント学校の先生の引率で、ナイアガラに行ったり、カヌーに乗ったり、イチローの試合を見たりもしました。歓迎会や送迎会があり、担任の先生の家にも行きました。午後に、ゴルフとかテニスもありましたが、私は、しませんでした。日本人の生徒も、2割もいなく、国際色豊かでした。
トロントにいる時に、インターネットで、航空券を取り、モントリオールとケベックにそれぞれ、2泊ずつ、してきました。ビクトリアの建物が英国風、バンクーバーの道は、坂道、トロントの道が東西南北そのまま走っているのに、モントリオールの道は斜め45度で、フランス風、そして、ケベックは、中世のイタリア風で、城砦に囲まれて、道が大聖堂を中心の放射状になっていて、正に、おとぎの国でした。
カナダは、特殊な所(危ない所は、説明書にもあるし、又、多くの人が知っている)以外は、とても安全です。道に迷っている時、何度も、カナダ人から、親切に教えてもらいました。人種差別も全くありません。
しかし、大きな問題がそこにあることに気が付きました。言語の戦いです。モントリオール(フランス語を話す人の数は、パリの次に多い)では、フランス圏の場所に泊まった為、英語が通じず、下手なフランス語で何とか、やりくりしましが(私の場合、ケベックの人から1年間、フランス語を既に教わっていたので、何とか・・・)。ケベック州では、看板に、初めに英語を書いて次にフランス語を書いてしまうと、罰金を払わなければいけないとのことです。
トロントもモントリオールも、夏は、大変暑かったです。モントリオールでは、暑い時は、40度以上、寒い時には、マイナス20度以下、しかし、そんな温度の差を、モントリオールの人は、水泳やスキーが出来るので、楽しんでいるとのことでした。
追加ですが、バンクーバーで、銀行口座を作ったのですが、日本円で50万円を超えると、金利が普通なのに、5%も付くとのことでした。又、カナダドルで貯金をしていると、日本でも、銀行を選べば、そのカードでお金を下ろして、日本円で使うことが簡単に出来るとのことでした。
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平成17年7月22日 (金)
午後12時50分までの授業を、12時10分まで受けて、直ぐ に、地下鉄でセラトンセンターまで行って(前の日に、実際にセラトンホテルまで 行って、場所を確認していた)、そこからエアポートエキスプレスのバスで、トロント空港まで行った。インターネットで予約していたので(早くから予約しておけば、 お金も少し安く、又、直通が買えてたが)、スムーズに事が運んで、全日空にマイル を入れてもらった。又、30日からの日本に帰る飛行機のリコンファームもしても らった。そこで昼食を摂り、16時過ぎの飛行機でモントリオール経由で、ケベック に行った。
トロントからモントリオールまでの飛行機の座席を、自分の前の 座席の人が間違えて、自分の所に座って楽しそうに話していたので、もう、それでい いですよと、言って、その人の座席に座った。これが幸いして、隣に座って来た人 が、モントリオールに住むモンペリエールのフランス人で、日本に旅行したことのあ る人だった。いろいろ話し掛けて来て、こちらも、いろいろ尋ねて、トロントからモ ントリオールに着くまで、フランス語を交えながら、ずっと話していた。フランス語 を勉強するのなら、モンペリエールがいい、ケベックは、少し本場のフランス語とは 違っているけど、モントリオールほどではないと教えてもらった。
モントリオールでは、雨が降って、雷が鳴っていて、その為か、 少し遅れて飛行機が着いた。ケベックで学会があるので来たと言う日本人とたまたま 空港のタクシー乗り場で一緒になり(ケベックでは、空港からのバスはない)、27ドルのはずが、乗る前に確認すると、2名で途中で降りる関係か、35ドル要求され た。タクシーの中で、その日本人と彼の泊まるホテルまで話をした。自分のホテル は、もっと先で、直ぐにタクシーの運転手が、場所が分かった。自分の予約していた ホテルは、2つ星で、まあまあだったが、場所は、最高で、一番中心的な道、サンル イ通り(Rue Sant-Louis)沿いにあり、旧市街のど真ん中にあった。この道を行く と、街のシンボルであるフェアモントルシャトーフロントナック(Faiamont Le Chateau Frontenac)にたどり着く。もう、暗くなっていて、写真を撮っても、よく 摂れなかったが、あちこち、22時ごろまで、見て回った。
ケベック、それは、一言で言えば、「おとぎの国」であった。メ ルヘンチックな建物が沢山あり、正に、イタリアのフィレンツェを小さくした様な 所。フィレンツェでは、建物が古かったが、ここでは、建物のの殆どが新しい。こん な所も世界には、あるのだなあと思った。
平成17年7月23日(土)
朝、7時前から、歩き始めた。7時半からの食事を摂った後、 ちょっとホテルに戻った後も、とにかく、足で、あちこちと歩き回った。ヴァンクー バーやヴィクトリアやトロントは、東西南北に道が走っていて、実に、分かり易い。 モントリオールは、45度に、道が走っている。ケベックは、新市街(アッパータウ ン)の道は、約30度、旧市街は、イタリアと同じで、協会や広場に向かって走って いた。が、旧市街は、城壁にずっと囲まれているので、道に迷っても、直ぐに、居場 所が分かる。旧市街の道は、殆ど歩いた。
午前中は、新市街を中心に回った。ケベック州議事堂を見、グラ ンダレ通りを通り、Marie-Guyartの31階の「キャピタル展望台」まで行って(エレ ベーターには、誰も係りの人はいない)、1時間半程、ケベック市内を展望した。帰 る時、エレベーターが開かないので、一瞬、ヒヤッとしたが、何と言うことはない、 自分で、ボタンを押して開けて、出ればいいのだ(ボタンを押さなければ、半永久的 に開かない)。それから、少し遠かったが、「ケベック美術館」を見た。幸いに、こ の時、ロダンの作品を見ることが出来た。グランダレ通りになるレストランで昼食を 摂り、戦場公園を通って、展望台に行った。雨が降っていて、そこで、雨宿りをし た。
雨が止んでから、木材の長い道「監督の散歩道」を通り、昨日行 かなかった「プチシャンプラン地区」を中心とするロウアータウンに行った。狭い道 が、実に複雑に面白く組み合わされていると思った。Rue du Petit-Champlain通り は、少しの距離だが、出店がずらっと並んでいて(翌日の午前中に、同じ所を見る と、完全に、出店が消えていたが)、パフォーマンスを披露する人もいた。それを見 ていると、タイのチャンマイのサンデーマーケットを思い出さないわけにはいかな かった。
実に、きれいな所。楽しい。ここは、正に、夢の世界だ。ヴィク トリアが、イタリア色が強いのに反して、ここは、フランス色が強い。英語も、観光 客が、フランス語が理解できないと分かると、英語で話してもらえるが、上手でな い。(地球の歩き方に詳しく書かれている場所は、滞在中の2泊3日間で、全て、行 くことが出来た)
平成17年7月24日(日)
朝、8時半過ぎには、もう、チャックアウトして、又、歩き始め た。旧市街にある「ノートルダム大聖堂」、「ホーリートリニティ協会」、ロウアー タウンにある「勝利のノートルダム協会」、又、旧市街に戻って、「ウルスリンヌ協 会(修道院)」とそこにある「ウルスリンヌ博物館」など、協会中心に回ったが、ま だ、見ていなかった博物館の「メゾンシュバリエ」、250年前の木造船ラバルクを 展示している「文明博物館」、旧港にある「オールドポートセンター」、「ロワイヤ ル広場センター」、「要塞博物館」を、時間の許す限り、ギリギリまで見て、タク シーに乗った。そのタクシーの運転手さんが、コンゴ出身の人で、スワヒリ語が母国 語と言うので、スワヒリ語で、少しスワヒリ語が話せます、と言って、1から20ま で言ったら、「俺は、こんな所で自分の国の言葉が聞けるなんて、信じられない、嬉しい」と、何度も言ってくれた。27ドルだったが、30ドル上げた。言葉の力は、 大きい。トロントからは、エアポートエキスプレスで、運転手さんから切符を買っ て、帰った。楽しかった。
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珍道中って感じだったかな。行きは、鉄道を利用した。初めてのことで、人に尋ねながら、不安一杯で。しかし、近頃は、このドキドキがむしろ 快感になっている感じだ。15時10分の列車に乗った。値段が、日本円で言えば、 片道、1万円余だ。高いと思った。13時半頃行って、その場で、買い、待った。
列車の中では、専属の男の車掌さん一人で、食べる物まで 売っている姿には、びっくりした。19時48分に着き、駅から地下鉄で、近くの所 まで行った。びっくりした。正に、フランスだ。フランス語があちこちあり、もう、 英語よりも、フランス語中心って感じ。フランス語で話す人が、圧倒的に多い。さす がに、ここは、世界で2番目にフランス語を話す人が多い所。
泊まる場所が分からなくて、ホテル街で聞くと、「そのホテ ルは、今、閉じてる。ちょっと前につぶれた」と英語で言う。冗談だったが、きつい 一言だった。通る紳士に聞いたら、英語は分からないから、フランス語で言ってくれ と言われた。で、とっさに、「ウエロテルヅブルトン」と言う、フランス語が自分の 口から出た(ブルトンホテルはどこですか?)。正に、知識は、身を助けると思っ た。分かりにく場所で、すぐ近くにあった。
それからが大変で、そこの主人が、英語が余り出来なくて、 フランス語で聞いてくる。一泊、100ドルと聞いていたのに、税金やいろいろで、 240ドルも取られた(消費税が14%)。先に払っておきたい、領収書を今書いて くれと言ったら、何故だ、その理由を言ってくれ、と言う。英語で言ったら、理解で きなくて、フランス語で言ってくれと言う。仕方なく、下手なフランス語でその理由 を言ったら、納得したのか、ちゃんと書いてくれて、おまえは、すばらしい男だと言ってもらえた。で、やはり、この暑いのに、心配していたいエアコンがない(しか し、この暑さは、例年並みで、2001年には、40度前後が続いたととのこと)。 もう、夜も、遅くて、近くで食べ、近くのコンビニで朝の食事を買って、寝た。が、 疲れていたのか、暑いのに、冷房無しのファンだけで、まあまあ、寝れた。
次の土曜日、朝、9時から、とにかく、テクテクと歩いた。 ちょうど、大きなイベントが2つあって、凄い人だった。出店も、ずっと出ている。 モントリオールの中心地は、モントリオール島にあって、その島に、180万人もい るとのこと。
まず、そこにある有名な大学の近くに行った。トロント大学 と違って、丘の上にあり、ホテルって感じの建物で、メルヘンチックだった。モント リオールの道は、東西南北でなく、斜めに走っているので、コンパスと地図を持って の今までの自分の仕方では、多少、困ることがあった。
方向音痴にとっては、結果的には、道6つをしっかり覚え、 更に、それに直角に走る道(この道の右側が、フランス語圏で、左が英語圏で、自分 のホテルは、フランス語圏にあったので、どうして自分のホテル周辺の人に、英語が 出来ない人が多いのかが理解できた)を覚えれば、それで、だいたい理解できること が分かった。自分の場合、フランス語だけで住所が書かれていても、読めるので、何 とか、助かった。
その7つの大きな道を、すべて、歩いて行った。途中、美術 館を見たりした。暑くて、脱水で、めまいがし、フラフラしていて、もう、倒れるか と思いながら、どんどん歩いて行き、一番有名な大聖堂の前に辿り着いた。で、そこ で、日本で言えば、150円のペットボトルの水を買った。2ドルもした。こんな高 い値段は、バンコクの空港以来だった。冷たくないが、いっきに、全部飲んでしまっ た。よく周りを見ると、その店の真ん前に、水道があり、そこで、子ども達がペット ボトルに、そこからの水道水を入れていた。
食事は、この日は、2回だけで、簡単な朝食と、17時過ぎ に、近くの日本レストランで、食べた。ベトナム料理店が多い。何故か分かった。ベ トナムは、フランスに占領されていたので、彼らは、フランス語が出来るのだ。食べ たその日本食のオーナーも、ベトナム人であった。
ベトナム語では、挨拶は、シンチャオに(オン、バー、アイン、チー、エム)のどれかを付ける。オーナーの奥さんだったので、シンチャオ・バー と言ったら、驚いていた。夕食後に、周りを散策した。ある通りでは、週末の関係 か、実に沢山の人が、楽しそうに話しながら、食事をしている。その前で、いろんな 芸があっている。又、公園も多くて、そこでは、寝ころがったり、本を見たりしてい る。正に、人生を楽しんでいるって感じだ。イベント会場では、凄い人だかりだっ た。
が、疲れていたので、21時頃には、もう、寝た。しかし、 暑く、又、何と、22時から花火が始まって、その音で、眠れなかった。ここの花火 は、30分足らずで(バンクーバーもそうだったが)、日本の様に、ゆっくりでな く、どんどん打ち上げる。もっと、ゆっくりと打ち上げればいいと思ったが、逆に、 これがまともなのかなあとも思った。
兎に角、モントリオールでは、いつも、イベントがっている 感じ。夏は、日本と同じ様に暑く、冬は、マイナス30度にもなるが、それに応じ て、水泳やスキーなどもあり、それなりに、そこに住む人は、楽しんでいるとのこ と。
日曜日には、8時過ぎに、暑いホテルを出た。雨が降ってい て、蒸し暑かった。が、少し、昨日よりは、涼しかった。近くの公園で、ゆっくりし た後に、雨が降っていたので、タクシーで、大聖堂まで行った。いくらかと聞いた ら、10ドルと言われて、メーターも使うことなく、それを払ったが、後で考える と、近くなので、そんなに要らないはず。ボラレタと思った。
大聖堂に行って、中に入り、ミサの始まるまで、写真を撮り、又、9時半から10時40分まで、ミサをずっと聞いた。女性の歌う声が素晴ら しかった。その近くで、食事をし、散策し、ある有名な邸宅をお金を出して見た後 に、ショップ店で、モントリオールの葉書などを買った。伸が演奏する時に、いいと 思った服があったので、少し高かったが、買った(月とオオカミとメルヘンチックな 女性の絵があり、インディアンの人の作品とのこと)。
地下鉄で、バスデーポまで行き、そこから、空港行きのエキス プレスのバスで、空港まで行った。切符は、インターネットで予約したいたので、飛 行場で、係りの人に、その紙を見せたら、打ち込んできれて、紙をくれた。その紙が 実にピラピラの紙で、これで乗れると思わず、どこかで又、ちゃんとした紙に替えな ければならないとと思っていたが、それで良かった。
曇り空の為、窓側だったが、よく景色が見えなかった。トロ ントの空港で、ダウンタウンまでの往復の切符を買った。が、始め買った時は、片道 だったので、気が付かなかったが、今回は、往復で買い、その紙が、又、モントリ オールの時の飛行機の紙と同じ質のピラピラで、これで、次回に、又、見せればいい と言われて、(こんなピラピラの紙など、日本では考えられないことなので)びっく りした。
この運転手は、運転中に、よく、ボトルやカンジュースみた いなものを、運転しながら、長い時間、飲んでいる。日本では、クレームが付く所だ ろう。バスを降りて、地下鉄に乗り、帰った。寝た時間は、夜の11時だった。疲れたが、又、来週、ケベックに行く。
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平成17年の4月18日~5月17日まで、イタリアの中部にあるフィレンツェに滞在しました。そこにある、語学学校で、イタリア語の勉強をし、暇を見て、観光をしました。フィレンツェだけでなく、フィエゾ一レやロ一マやシエナやピサにも行きました。イタリアには、一人だけで行き、イタリアでの初めの2週間は、昨年の9月からの今までの旅行の中で、一番楽しいはずが、一番、心苦しいものとなりました。
まず、着くと、語学学校の人が迎えに来てくれていて、ホッとしましたが、朝の食事がない。ホ一ムステイと言っても、滞在中、全く、家主さんからは、何も出ないし、一緒の食事も、全くなかった。てっきり、タイのチェンマイやインドネシアのバリの様に、24時間オ一プンのコンビにがあると、思っていたのが、大きな違いだった。おまけに、自分の場合、月曜の夕方過ぎに着いたものだから、月曜の午前中にあるべきオリエンテ一ションを受けてなかった。
同じ家でホ一ムステイをして、同じ学校に通うもう一人の日本人は、午前のクラスで、彼は、1年間、既に、イタリア滞在の経験があるので、今の自炊の生活を選んで、自分と同じ環境に置いている。家主の人は、一人暮らしの女性で、朝早くから、仕事で不在。日本語は、全く出来なく、ありがとうと言う言葉も、知らなかった。英語も、うまく通じない。
着いた翌日の朝、お腹がすき、食事が近くで出来る所を探すが、ない。又、フィレンツェは、ちょっと歩くと、迷路。そうでなくても、自分は、生まれつきの方向音痴。何度も迷い、心もズタズタ。イタリアでは、沈黙は、何も困っていないと同意語らしく、困った状態で、初めの2週間が過ぎた。
自分の場合、○○○会社の手違いで、レッスンを2週間でするはずが、1週間でしてしまい、仕方なく、後の1週間分は、又、追加料金を出してレッスンを受けた。「生活の手引きなる」小雑誌があったのに、それをもらったのは、何と、4週間目の初め。それにことごとく丁寧に書かれていて、初めにもらっていたらなあと悔やむことしきり。
当然、当初、異常なまでのストレスにさいなまれた為に、体調がおかしくなる。アレルギ一性鼻炎が起きたが、薬をもってきていない。日本より遅れて、この頃、イタリアでは、アレルギ一性鼻炎がひどくなるそうだが、幸いに、余りひどくならなかった。ヘルペスが口の周りに出来たが、1週間もしなくて、完治した。朝、いきなり異常に沢山食べたものだから、生まれて始めて、胃痙攣を経験して、この時ばかりは、死ぬ思いをした。イタリアの一般家庭には、日本の様な電子レンジはないことを、ここに来て、初めて知る。又、ホ一ムステイの場所が駅の近くで、部屋が道路に面している為に、深夜も騒音で、最後まで悩まされ続けた。おまけに、そのホ一ムステイ先も、日本に帰るのが火曜日の為、月曜からは、学校での語学研修が終わってると見なされて、日曜日に出ないといけなかった。
皮肉なことに、最後の二日は、駅近くにある安い2つ星のホテルを自分で探して、泊まったが、これが、実に静かで、スタッフも良くて、いいホテルだった。
多くの店の開店時間は、自分の生活リズムとは、全く違っていた。つまり、自分の場合は、朝の5時過ぎに起き、6時30分までに朝食を済まし、夕方の7時には、もう、寝ると言うパタ一ン。イタリアの多くの店は、14時から19時頃ぎまでは、休んでいる。仕方なく、本格的に、自炊を始めた。お米を食べるのに、日本のレトロト食品の感覚で、炊く時間を短くして食べたものだから、インプラントの部分が欠けてしまった。
この時ばかりは、ガックリきて、立ち直れない状態。フィレンツェに着いた時に迎えに来てくれた日本人の人から、救急の時には、電話する様に言われていたので、夕方電話するも、何度しても留守。翌朝も留守。不安一杯の状態で、朝早くから、学校に行くと、「イタリアは、まず、直ぐには、診てもらえないし、お金も、凄く取られるし、日本に帰っても、そのお金は、戻ってこない」と、言われた。この時、もう、日本に帰ろうと思った。
しかし、どうしたことか、その日の午後、歯科医から診てもらえるとの返事。午後の講義が終わって、予約の16時30分の時間に行く。実際に診てもらえたのは、18時前。こんなことは、イタリアでは、普通との事。しかし、本当に、驚いたことには、日本に帰ってちゃんと治療をすると言ったものだから、「今は、何もする必要はない。大丈夫」と言われて、、全く、お金は要らなかった。感激した。
イタリア語の個人レッスンは、どんどん進み、宿題も、どっさり。多い時には、プリント6枚も出たが、自分の場合、全て、ちゃんとしていった。初めの2週間は、全くどこにも行かずに、かって、韓国の釜山での20日の様に、猛勉強をした。
その甲斐あってか、3週間目からのグル一プでのレッスンのクラス分けでは、かなりレベルの高い人と受けることになった。
31歳の青年で、仕事は、コックさんで、既に、8カ月間、イタリアで生活して来ている人と友達になった。彼と、ロ一マとフィエゾ一レとシエナに一緒に行った。驚いたことに、彼は、一般の会話は、殆ど理解できている。1年近く住んでいる人の多くは、そんな感じで、言っていることは、殆ど、理解出来ているのだ。
自分の場合、新しい文章は、簡単であれば、何とか作れるのに、聴けない状態。しかし、レッスンが終わる頃、何とか、簡単なイタリア語であれば、聴ける様になった。クラスのある人から、それだけ出来れば、もう困ること、ないでしょうと言われて、本当に、嬉しかった。クラスに、フランス人がいたので、少しフランス語で言うと、凄く喜んでくれた。
シエナに行った時、ドイツ人がいたので、ドイツ語で言うと、「イタリア語と英語は、どちらが上手ですか」と尋ねられた。しかし、その質問が、イタリア語でされたのに、何語が、初め、理解出来なかった。
イタリア人は、遊ぶ為に、仕事をしている。ホ一ムステイの家主さんに、帰る時に、質問したら、「10月にまる1カ月休暇がある」と言われた。
フィレンツェに住んでいる日本人が言った、「日本人がイタリアで一番住むのに適している所は、フィレンツェ。一度長期に住んだ人は、又、ここに住みたくなって、必ず、戻っている。イタリアでそんな所は、このフィレンツェだけだよ」と。
イタリアで多くのことを学んだ。イタリア人の人生を楽しんでいる生き方。ミケランジエロのダビデ像、ローマのコロセウムなど。素晴らしい世界遺産の数々。
その中でも、予想しなかったことは、料理の楽しさ。同じホ一ムステイ先にいた日本人の学生と、一緒にロ一マなどに行ったコックの人から、料理の仕方を教わったこと。これは、意外だった。
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