○昭和55年4月3日(木)曇。
朝6:00に起こされた。若いから出来る、若いとはいいことだ。人間は、眠たい時には眠る様になっていると思う。
○昭和55年4月4日(金)雨。
○田君(宮医大の医学生、大分上野丘出身、現在九州保健大学の教授)がやってきた。まだ、患者さんが少ないので、勉強にならないと思う。自分の医療に対する至誠だけは、学んでもらえた様な気もする。
*これ以後、5月に固めてちょっとと、6月にも固めてちょっと書かれているだけで、12月の末まで、何も記載されていない。昭和56年元旦から書かれたものも、家でかなり捜したが、見当たらない。1年単位で、書いていた気もするのだが、記憶が定かでない。
昭和59年の1月1日から、5年活用実務日記を用いて、ちゃんと書かれている。
何故、そんなに長い間、ちゃんと書いていなかったのか、今から27年前のことなので、よく思い出せない。
兎に角、この間、人生でメチャクチャに最も忙しい時だった。ストレスも最高だったと思う。自分でも、よく過労死しなかったなあと思っている。統計を執ることだけは、何故か、ちゃんとしてきている。日記は後で書くことが多い為に、ついつい書かなくなってしまった感じである。
本当に、毎日が当直だった。深夜の3時~6時の間に、毎日の様に起こされた(深夜のこの一番きつい時間帯を自分は、ブラックタイムと呼んでいた)。深夜、小児科の救急がない時は、新生児・未熟児で、新生児・未熟児での急変がない時は、小児科の救急で。殆ど眠っていない状態で、それも、ずっとそれが続いた状態で、頑張っていた。笑うゆとりもなかった。朝の6時過ぎに寝ることも度々であった。まとまって睡眠時間が取れた時は、感謝していた。
就職してまもなく1.000g以下の未熟児が2人生まれ、大変な思いをした。残念なことに、2人共に後遺症が残り、私の方にも、大きな後遺症が残ってしまった。それ以外でも訴訟を2つも抱え、県の方からも呼ばれ、疲労困憊して、完全に参っていた。毎日が睡眠不足との闘いであった。
就職してまる3年間、大学からの応援は、2泊3日の新生児・未熟児セミナ一(新生児・未熟児の最新の治療)に行った時だけだった。まる3年して、1カ月に1回、土曜の午後から月曜の早朝まで、宮医大から来てもらえる様になった。その時、死んだ様に、家でずっと寝てばかりいた。
訴訟に苦しみ、睡眠不足に苦しみ、深夜も毎晩の様に起こされて、長女が深夜にけたたましくなる電話で起きて泣いていた。又、親しい人が手術をすることとなり、誰も世話が出来ない為、そんな忙しい中で1カ月間その人の乳飲み子を預かった。
毎日が命懸けの闘いだった。どうしてそんな状況に耐えられたのか、今でも、信じられない。若かったから、そして、人一倍理想に燃えていたからであろう。
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○昭和55年3月29日(土)曇。
6人しか来なかった。4月末頃は、どの位になっているのかなあ。ゴ一ルデンウィ一クの時は、それなりに多いだろう。
○昭和55年3月30日(日)晴。
(小児科開業医の)○○小児科に挨拶に行った。行って直ぐに病院から、患者さんが来ているとのことで電話があった。病院で待っている時はなかなか電話がなかったのに。○○先生からいろんな話が聞けた。中津の井上、別府の松本、佐伯の○○、大分県でメチャクチャ頑張っている開業医なのだなあ。
○昭和55年3月31日(月)曇。
10人しか来なかった。最後は、22:00過ぎに熱と言うだけで来た。しかし、熱を測っていない。測ると熱はなかった。いやになっちゃうなあ。明日新聞広告で宣伝したら、本当に多くなるのかなあ?
*周辺では、インフルエンザが一段落した時で、就職し始めた時は、元々少ない時であった。初めの1カ月は、予想と極端に違って、信じられない程に少なくて、心細くなっていた。しかし、月を重ねる毎に、確実に多くなって行った。小児の時間外は、まださほど多くなく、スタッフが慣れない為に、気苦労が絶えなかった。
以下のことだけは、はっきりさせていた。
○小児(内科)の患者さんは、小児科医(私)が診る。小児科は、15歳まで。(実際は、外科的疾患かどうかわからないので、脳外科の患者さんや急性虫垂炎の患者さんの場合は、小児科医が先に積極的に診ていた)
○夜は毎晩(365日)20:00~21:00に受け付けて必ず診る。それ以外の時間帯は、急ぐようであれば、診る。(しかし、実際は、初め3年間は、深夜でなければ、待たせることなく食事中でも直ぐに行って診ていた)
○深夜(22:00~6:00)は、朝まで待てない感じの一刻を争う時は、必ず診る。紹介も、必ず診る。(しかし、実際は、0:00までは、よく診ていた。問題は、当院の小児科の医療体制を知らない0:00~6:00までに来る初めての患者さんの場合で、熱だけでは診なかったので、しばしばトラブルが起きていた。ある時、大分合同新聞に、一刻を争う時にしか診ない許されない救急病院とまで投書で書かれてしまった。西田病院は、救急指定病院でなく、救急告示病院であったのだが・・・。)
○朝の診療は、患者が多くて支障をきたすことになった為に、診療科開始9:00が、8:30、8:00、7:50、7:40、そして、とうとう数年後には、7:30になっていた。
○診療内容は、熱に付いての説明をした熱型表を熱のある人全員にあげ、熱冷ましの座薬は、使わなかった。多くが2日分の処方で、親御さんが不安であれば20:00に集めて気楽に診ていた。小児科外来待合室では、深夜0:00まで点滴が並び、滝(横に通した長い棒に、多くの人の点滴がずっとぶら下がっていたので)とまで言われていて、いつしか、小児科外来に行けば、いつでも子どもが外来で点滴されていると言われる様になっていた。
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○昭和55年3月22日(土)晴。(宮崎を発つ日)
朝、大学に最後の挨拶に行く時、大学の入り口の門で自分を待っていた(心筋症で入院した後に、奇跡的に元気になった)○○ちゃんの親子(父と子)がいて、「先生、大変お世話になりました。こんなに元気になり、先生のお陰です」と言われた。(誰から聞きつけたのか、自分がここを通ることを予想し、ずっと朝から門で待っていたこの親子に対して、驚くと同時に、言葉にならない程、大変ありがたく思った)
教授、助教授、婦長さんなど、15人もの人が盛大に(我々親子3人を)宮崎駅で見送ってくれた。乗り込み直前に、教授が、「田原君、困ったら、又、遠慮なく大学に帰って来なさい。どこにいても君は宮崎医科大学小児科の医局員だから」と言われた。(その時、佐伯でどんなことがあっても、弱音を吐くことなく頑張り通そう、まかり間違っても、帰ってくる様なぶざまなことは絶対にしまいと思っていた)
○昭和55年3月24日(月)晴。
もう、大学に行かなくてもいいかと思うと嬉しい。大学は窮屈だった。ここでは、一応部長だから、一国の主って感じだ。この30歳の若さでは、まだ、未知数って感じに周囲からは受け取られるだろう。仕方ない(その後、威厳を付ける為に、髭をはやした)。4月1日から、頑張るぞ!
*やる気満々の状態であった。実際は、3月24日の月曜日から診療した。外来は少なかったが、(小児科経験者のナ一スが全くいなくて、ナ一ス教育などの)準備と新生児・未熟児医療で、初めからそれなりに忙しかった。初めの3カ月は、殆ど自分が昼夜を問わずに翼状針で点滴をした。無茶なことに、小児の時間外は、小児科医が全て診ることにし、他の科の先生に診させることは、その病院では、それ以後まる10年間なかった。又、夜の時間外を20:00~21:00に集めて365日診ることにした(佐伯でそれを19年半余続けた)。それ以外の時間帯は、けいれん重積や喘息発作の様な一刻を争う様な時だけにした。しかし、新生児・未熟児は待てないので、いつでも断らずに診ることにしていた。
○昭和55年3月25日(火)晴。
まだ、小児科をオ一プンしていないのに、夕方、急性胃腸炎の子が入院した。4月1日から、本当に、沢山来るのかなあ?
○昭和55年3月26日(水)晴。
13:00から、病院の関係者にスライドを使って講義をした。
○昭和55年3月27日(木)晴。
10人来た。
○昭和55年3月28日(金)曇。
16人来た。31日に、ちらしで公に知らせるとのこと。
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○昭和55年3月1日(土)晴。
剖検検討会があって、ブルトン型ではないかと病理の意見であった。形質細胞がないとのこと。(日曜日に、当直の医師が忙しくて、たまたま受け持ってしまった。熱があればとかかりつけの医師から言われていて、呼吸困難で入院し、そのまま回復しない状態でなくなってしまった。細気管支炎にしては、白血球があまりにも多かった。細気管支炎で亡くなることを経験したのは、この患児のみで、いつもの細気管支炎としては、経過がおかしいと思っていた)(大学では、自分が受け持ちの患者さんは、全部で4名亡くなられた。このブルトン型無ガンマ一グロブリン血症の免疫不全症候群と、神経芽細胞腫と、ハ一ラ一症候群と、臍帯ヘルニア。)
○昭和55年3月2日(日)晴。
もう、土日の当直は、これで終わりだ。
○昭和55年3月4日(火)晴。
火曜の教授回診、あと1回で終わりだ。自分が受け持っているALLと(グロスA型の)食道閉鎖(+CP)、この2人、特に、食道閉鎖の子は、今まで何度も敗血症になっていて、常に診ていないといけないので、とてもてごわい(今まで、危機一髪を何度も経験していた。そのことを医局員は知っていたので、誰が持つかで、少しもめていた。そして、大学を私が離れて、しばらくしてから、敗血症で亡くなってしまった)。
○昭和55年3月5日(水)晴。
心検も、あと1回。心音図、かなり身に付いた感じだ。心臓の聴診力、かなり付いていると思う。
○昭和55念3月6日(木)晴。
18:30~19:00まで、ナ一スに講義をした。小児科に、6月からドクタ一が少なからず入局するみたいだ。
○昭和55年3月8日(土)曇。
受験前の6年生から頼まれて、13:00~17:00まで、自分の作成した(過去10年間の分析をした医師国家試験小児科の手引きなる小冊子の)本を中心にバッチリと国試の為の特訓をした(かなり、予想も立ててした)。テ一プに取っている人もいた。時間がないので、かなり早口で喋った。スライドは、厳選極めつけのを300枚使用した。休憩時間を間に10分間を2回とってした。全く無駄がない感じでした。(これが不思議なことに、ことごとく当たっていた。特に、C問題の大血管転位の造影の側面像、特訓通りに出題されていた。わざわざ受験後に、2人が、私にお礼を言いに西田病院まで来てくれた。国家試験、出来なかった人も小児科の問題に関しては、皆、合格点取れたと言ってくれた。結果的に、体が不調だった感じの人が1人不合格のみで、全国トップクラスの抜群にいい合格率であった。)
○昭和55年3月21日(金)晴。
ナ一スと自分の送別会があった。その前に、病院でお別れ会があった。自分の受け持ちの子どもにも最後の挨拶をした(ALLの子も食道閉鎖の子も、その後、しばらくして2人共、亡くなってしまった)。
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○昭和55年2月20日(水)晴。
13:30から専門2年生の試験監督に行った。100人をゆうに越えている。宮医大は、沢山留年している。落とし過ぎだなあ。皆、一生懸命に問題を解いている。自分の学生時代を思い出す。インフルエンザがどうも治り切らない。自分だけでなく、他にそんな人が多い。医療従事者は、特にドクタ一には、労働基準法なんて完全に無視だなあ。やっぱり何と言っても安静が第一だなあ。しかし休めない。プロパ一(MR)さん何か、朝、医局員よりも早く毎朝8時から医局の前で待っている。○一○○の会社なんて、大学一本に絞って、若い医局員を洗脳している感じだ。彼らが忙しいって言っても、日曜日にはちゃんと休みがあるし、給料だって、我々よりもいい。何かおかしい。
○昭和55年2月22日(金)晴。
朝、早くから○○中学校に行ってリサ一チの為に採血をした。誰も幸いに倒れなくてスム一ズに行った。後1~2回、あるのかなあ。採血、上手になっていると思う。これ以上、上手になれない感じだ。採血と翼状針とルンバ一ルは、本当に自信ある。患者さんなんて、採血の上手い下手で、腕があるとかないとか判断する。だから、いつも真剣勝負だ。
○昭和55年2月27日(水)曇。
(慢性肉芽腫症の)○○ちゃんが結核だった。ギクッとした。自分の長い咳、少し心配になってきた。病院と言う所は、不潔な所だ。いつも医者は危険にさらされている。小児科医は、血液を扱うことが多いので、B型肝炎で亡くなることが多いとのこと。県病の時も、腸重積でかなりレントゲンを浴びていた。又、医大でも、心カテでかなり浴びてきている。仕方ないなあ。
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○昭和55年2月1日(金)晴。
ASDと外来診断が付いていた○○先生の患者さんが、心カテしたらECDであった。エコ一でECDみたいだと言っていた。心電図は、右軸偏位。心臓は、なかなか当たらない。そして、根治的に治すのは、小児科医でなくて心臓外科医だ。そこが少し寂しい。
○昭和55年2月3日(日)曇。
当直明けであった。深夜0時に入院した嘔吐下痢の子、ショック状態であったが、元気になっていた。命なんて、ちょっとしたことで、取り返しが付かなくなる。その時に、出来る医者がいても、肝心な時に見なければ、意味がない。患者さんが元気になってくれるとこちらも元気になれる。
○昭和55年2月9日(土)晴。
○○町立病院での診療も、今日で終わりだ(月~土まで働いた)。今日は50人を越えた。インフルエンザみたいだ。いつまでこの流行が続くのかなあ。
○昭和55年2月11日(月)晴、勤労感謝の日。
(佐伯で診療し)2泊3日で50人ほど診た。この日、2人点滴をした。小児科が一度もおいてなかった病院しては、まあまあ来たなあと思う。
○昭和55年2月15日(金)晴。
学生の講義があって、神経芽細胞腫をし、最後の20分間、自分の言いたことを言わせてもらった。小児科での救急医療の大切さ、特に新生児・未熟児医療が如何に大切な領域であるかを言った。又、小児科医の生き甲斐が如何に大きいかも言った。皆、真剣に聴いてくれていた様だ。
○昭和55年2月16日(土)晴。
○○小児科に(代診で)行き、100人余診た。この流行時期にしては、少ないと思う。こんな感じで代診で、時間外も診ないとなると、次第に少なくなっていくかなあ。と言うことは、毎日診て、時間外も少なくとも1日に1回は診ていけば、どんどん多くなって行くだろう。
○昭和55年2月17日(日)晴。
宮医大での最後の日曜の当直の日。日曜当直だと、月曜が忙しいので、それなりにきついことが多い。しかし、佐伯に帰ったら、毎日当直だ。しかし、ここと違って、やり甲斐がある。今の自分の医師として全開しているエネルギ一をフルに無駄なく最も有効に活用したい。研究する暇など、ない。
○昭和55年2月19日(火)晴。
当直だった。昨日は、佐伯から(薬の問屋さんの)吉村の人が来た(今は、ダイコ一)。大分県南の小児医療が如何に遅れているかを具体的に知らされた。新生児・未熟児は、どこもしていない。小児科医のいる病院は、ないに等しい(佐伯の健保病院の小児科の医師も、自分が西田病院に就職する前後に、いなくなってしまった。それで、佐伯市・津久見市・臼杵市の病院には、小児科医0となってしまった)。小児の救急に至っては、最も貧弱とのこと。使いたい薬をリストアップしていたので、それを渡した。患者さんを教育をして、深夜は出来るだけ来ない様にしたいなあ。朝は、7;30から診療開始すれば、待ち時間も少なくていいかなあ・・・。(西田病院では、しばらくして、朝7:30から診療する様になった。たはら小児科医院では、初めから、7:30から診療していた。今考えると、スタッフが自分に合わせてよく頑張ってくれたなあと思って感謝しています。)
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○昭和55年1月1日(火)曇。(今から、27年半前の日記です)
首がパンパンに腫れた子が来た。親の話では、○○小児科では、ムンプスかどうかはっきりしないと言われていた。診ると、蜂窩織炎であった。直ぐに点滴し、婦人科の部屋を借りて入れた。10人程しか来なかったが、結構忙しかった。
○昭和55年1月2日(水)曇。
顔の腫れが明らかに少なくなった。今日は、20人ほど来た。乳児健診も、相変わらず多い。4月からここで働くとなると、一体、どの位来る様になるのかなあ?
○昭和55年1月4日(金)曇。
今日の15:00で終わり。TOFやダウンの子(親が気が付いていなかったが)がいた。昨日はアッペが、今日は最後に熱性けいれんが来た。(蜂窩織炎とアッペの子の)申し送りをして、不安ながらも出て行った。このわずか1週間で34万ちょっとももらってしまった。スゴイ大金だなあ。年末年始だからかなあ?
○昭和55年1月10日(木)晴。
○○小児科内科に行った。大人が沢山来てつくづくいやになった。しかも、○○先生を頼って来ているのに自分が診るのは気が引ける。
○昭和55年1月13日(日)晴。
共通一次試験の監督に行った。英語の試験、量が多くて、最後まで読み上げてない人も多かった様だ。カゼを引いている人が数人いた。自分も風邪気味できつかった。カゼの多い時期に試験なんて、何でかなあ。
○昭和55年1月14日(月)晴。
朝早くからリサ一チの為に○○中学校に行って沢山の子どもの採血をした。朝早く起きるのがきつかった。カゼがまだ治りきっていないのだ。
○昭和55年1月17日(木)晴。
朝再び早く起きて○○中学校に採血に行った。一人泣き、一人倒れてしまった。
○昭和55年1月26日(金)晴。
(東京での脳波の講習会に大学より3人出席した)朝9:30から遅くまであった。○○君と○○さんを連れて、食事に行き、おごってあげた。下の人を大切にしてあげないといけないなあ。
○昭和55年1月27日(土)晴。
脳波講習会の2日目であった。(Reye症候群を日本で初めに発表した)大分医大小児科教授の小川先生の講義、さえていた。講義後に挨拶したら、「今後、コミュニケ一ションを上手にとりましょう」と言ってもらえた。
○昭和55年1月30日(水)曇。
○○君の患者さんを3人受け持っているが、どうなっているのか分かりづらい。自分のは3人、計6人。皆、難治性だ。○○君の患者さん、イレウスを起こしていた。乳児肝炎なのにオペしてしまったのだ(その後、再手術までしてしまい、親御さんも主治医も、オロオロしていた)。
*写真は、昭和55年9月26日の長女(1歳の誕生日)。
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○昭和54年12月2日(日)晴。
○○君の父親と○○ナ一スが言い合って、親が怒って、この日に退院なんて言い出して、どうしようもない状態になったとのことで、自分が言って、丸く収めた。だいたい、ナ一スの言い方がきついのだ。ナ一スの言い方がどうあるべきか、誰も教育しようとしない。医者以上に問題だ。患者側からあんな感じではっきりと言ってくると、少しは考えるだろう。
○昭和54年12月5日(水)晴。
ボ一ナスをもらった。何と34万以上あって、驚いた。経験年数がだいたい同じ位のナ一スに聞いたら、30万ほどもらっているとのことで、更に驚いた。
○昭和54年12月20日(木)晴。
午前中に、H教授に付いて2回目のCHDの講義をした。自分がバッチリ選んだ極めつけのスライドでした。学生さん、真剣に聴いてくれていた感じだ。これで、専門2年生への僕の講義も終わりだなあ。寂しいなあ。H教授には、大変感謝している。何故なら、自分を信じてくれ、自分の思う様に講義をさせてくれるからだ。
○昭和54年12月23日(日)晴。
当直明けであった。大学って、自分の時間が作れない所だと思う。ナ一スの方が上って感じで、ドクタ一でなくても出来る雑用をドクタ一がしている。もっとドクタ一は、使うべき所で頭を使うべきだと思う。
○昭和54年12月24日(月)晴。
9kgの○○君の心カテ、やっと入った。小さい子での穿刺は、やはり難しい。一瞬動脈に入ったかと思ったが、静脈であった。
○昭和54年12月25日(火)晴。
今年最後の回診であった。形だけって感じがするなあ。いつも診ている主治医が一番よく知っていると思うが。大学は、書くことが多過ぎる。バイトも本心きつい。自分には、教育が一番疲れるが、一番楽しい。
○昭和54年12月26日(水)曇。
当直であった。頻回に起こされた。この日、IRDSで未熟児が死亡した(自分は、もう、新生児を担当していなかった)。IRDSなのに、CPAPを使用していなかった。何故かなあ。自分は主治医でなかったので、分からない。新生児医療では、自分の目を信じ、ちょっとの変化を見逃さないことが大切だと思う。
○昭和54年12月27日(木)晴。
点滴を7人し、ルンバ一ルを2人した。処置も沢山した。点滴も、何故か、スパスパ入る。家に帰ると、恵ちゃんがプリントゴッコで年賀状を書いていた。ミ一コの写真を入れて。
○昭和54年12月28日(金)晴。
今日も当直をした。明日からの年末・年始、(佐伯の救急病院の)西田病院で1週間(院内泊まり込みで)診療をすることになっている。楽しみがいい。
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○昭和54年11月2日(金)曇。
特別に、2日~4日まで、西田病院で小児救急をすることになった。小児科の看板がなかった為か、あまり来なかった。田中事務長さんとじっくり話した。まだ、全く小児科外来は出来ていない。この病院で10ヶ年間頑張るつもりでいる。後を継ぐ人が出るまで、頑張らないといけない。
○昭和54年11月3日(土)曇、文化の日。
お産が多いので、乳児健診の人が来た。昨日同様に、誤飲も来た。23:30に、喘息発作の子どもが来た。この様な人は今までどうしていたのかなあ。早く佐伯に帰って医療をしたいなあ。
○昭和54年11月4日(日)曇。
小児科の外来や部屋をどうするのか、それなりに決めた。この日は、10人近く来た。年末・年始もするつもりでいる。熊本日赤の救急の統計では、20:00からが多くなっている。夜、20:00~21:00まで、必ず診て、その時間帯を知ってもらっていけばいいかな(佐伯では、約20年間、この時間帯に診ると公言して、365日、本当に診てきた)。
○昭和54年11月9日(金)雨。
(入局予定の)○○君の医師国家試験合格の集まりがあったが、恵ちゃんが○○しかかっているとのことで、直ぐに大学病院に行った。○野先生と会い、エコ一を見せてもらい、印鑑を付いた。もう99%駄目なのだ。力が抜けた感じになった(涙が自然に出て来た)。きっと、生きる力がなくて元気に生まれることが出来ない運命にあったに違いない。自分の責任を感じる。恵ちゃん、あまり表情に出さない方だが、元気ない。子どもを失った親の気持ちが理解できる。生まれる前でもこんなに悲しいのだ。路子が親を元気にしてくれる。(週に2回のペ一スで、心カテでレントゲンを浴びていて、それがずっと気にはなっていた。医療従事者の場合、先天異常の子どもが生まれる割合、少し多い様に感じているが・・・?!)
○昭和54年11月16日(金)曇。
昨日○○小児科内科で、今日は当直、明日は○○小児科、そして、日曜も当直。日曜に溜まったアナリ一ゼをしよう。総括が溜まっている。

*写真は、8月26日(11カ月)の(ブドウの皮しかないのだが、それを見て喜んでいる)長女。
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○昭和54年10月8日(月)晴。
僕がいなくなったら、学生の教育は誰が中心になってするのかなあ?○○君かなあ。今している毎朝の学生へのレクチャ一は、なくなるだろうなあ。さ来年は、小児循環器学会が宮崎である。忙しいだろうなあ。フレッシュマンが何人小児科に入ってくるのかなあ?
○昭和54年10月12日(金)晴。
「ナ一スの為の新生児の手引き」なる小雑誌を書き上げた。嬉しい。こんな風に自分なりにちゃんとまとめることが大切だなあ。
○昭和54年10月15日(月)晴。
カテ前診断が、PSI+ASDであったが、心カテしてみると、ASDはなく、PSIだけであった。プロの小児循環器専門医が診ても、先天性心疾患の診断、当たらないなあ。しかし、○○先生だけは、心カテ前に、どうもPSIの様にあると言っていた。○○先生、凄いなあ。
○昭和54年10月17日(水)曇。
朝、6年生に2時間余講義し、15:00より約2時間講義をした。何と、1日に4時間も講義をして疲れてしまった。
○昭和54年10月24日(水)晴。
外来の心検のエコ一を僕がとった。前よりも少し上手にとれる様になったが、まだまだだ。一例一例、大切にしていくしかない。
○昭和54年10月25日(木)晴。
10:50より、専門2年生の講義にH教授と行った。このクラスで講義をするのは初めてだった。150枚ものスライドを用意していたが、その半分しか出来なかった。14:30からも、ポリクリの学生にバッチリ国家試験チックに特訓をした。こんなことも、もう出来なくなるなあ。
○昭和54年10月26日(金)晴。
ASDの心カテをした。造影をしなかったので、40分足らずで終わった。本当に上手くなったと思う。前の週は3人、今週は1人、来週は2人、心カテだ。この心カテをすることよってCHD(先天性心疾患)の診断がよく当たる様になったと思う。心カテで確認してなければ、当たっているかどうか本当のことは誰も分からない訳だから。
○昭和5年10月29日(月)晴。
15:10より、AGS(副腎皮質過形成)の講義をH教授と一緒に行ってした。H教授の講義、詳しいのだけれども、ポイントが掴めない感じ。僕のは、国家試験チックにポイントしか言わない。学生さん、よく聴いてくれている感じだ。
*写真は、8月1日(10カ月)の(つかまり立ちをして、いいないバ一で喜んでいる)長女。
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