○昭和51年4月23日(金)
宮崎に帰った。自動車免許証の住所変更のことで警察所に行くと、写真が必要とのこと。市役所に行くと、婚姻届は証人2人が必要で、その印鑑も必要とのこと。だいたい、自分には、一般常識というものがない。電話がまだ付いていない。火災保険に入るべきか?
○昭和51年4月25日(日)曇。
部屋が95%近く片付いた。静かだなあ。電話も幸いにもう付いた。学生の時と違って、風呂も、ちゃんと付いている。今までと比べると、とても恵まれているって感じだ。全く違うことは、女性と一緒に生活をして行くということだ。もう、家まで見送らなくてもいい。本当に、自分は結婚したのかなあ。何か、信じられない感じだ。市役所に婚姻届を出せば、少しは、実感するのかなあ。安くて美味しいギョウザの店を見つけたぞ。
○昭和51年4月28日(水)雨。
(昨日、再び佐伯に帰った) 自分の里の河内(ごうちと読み、医師になったのは、今でも、自分だけ)で、高血圧・心臓病・カゼに付いて話すことにした。(あちこと講演して回っている)父から、「しても集まらんから、しない方がいい」と言われた。しかし、自分としては、多くても少なくても、数に関係なく、する気でいた。河内に着いた時、母が交通事故にあって、骨折し救急車で西田に運ばれたとの電話があった。
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○昭和51年4月17日(土)曇。
宮崎神宮に行って服を合わせ(結婚式の為の)、駅に行って出迎え、ニュ一高千穂(ここで田原家が全員集まって宿泊した)に行って、母の手作りの昼食を摂り、昼過ぎ(13:30)に早川先生(仲人)の所に行き、その後、(二学年下の)太田君(後輩、結婚式の時の司会者)を迎えに行った。明日は自分の結婚式というのにゼンゼンピ一ンとこない。今から、新たな気持ちで、自分を作って行かなくてはいけない。今までのは基礎だなあ。取り敢えず、実力のある医者になる為に、計画的に、急がず、休まず、一歩一歩確実に、マイペ一スで、余裕を持って、オ一ルラウンドに腕を磨いていくしかない。まとめること、そして、自分なりの体系を作ることだなあ。
○昭和51年4月18日(日)曇。
結婚式の日であったが、父の誕生日の日でもあった。素晴らしかったなあ。一人一人真心が感じられた。終わりの方で、自分の得意な手品をし、お礼を言った。しかし、これからが失敗続きだった。最後に皆に見送られてタクシ一で行くのだろうと思っていたのに、タクシ一が来ていなくて、トボトボ歩いて自分のアパ一トに行った。後で聞いたら、皆で見送ろうとしたのに、自分等二人の姿が既にどこにも見当たらないので、今の若い者はせっかちだなあと話して皆で笑ったとのこと。家に帰って、カギを持っていないことに初めて気が付いて、タクシ一で不動産屋に行ってもらい、その足で市役所に行ったら、日曜なので人の姿がなく、仕方なく婚姻届をしないで(その後、1カ月して、届けを出した)、電車も急行でなく、普通の電車に乗った。座る所がなくて、二人とも立ってしまった。高千穂に行くつもりが、家でちょっと前に飲んだトラベルミンの催眠作用がアルコ一ルによって増強されて、あまりにも眠たい為に、延岡で降りた。行き当たりばったりって感じで、きたないビジネスホテルに宿を取って、そのまま寝込んでしまった。起きると夜の10時を過ぎていて、その為にか、お湯が出なくて、風呂仁も入れなかった。この先、どんなハプニングが起きるのかと思うと、少し不安になってきた。
○昭和51年4月19日(月)晴。
臼杵に行って、初めて石仏を見た。すごくいいホテルに泊まった。・・・?!
○昭和51年4月20日(火)晴。
ストがあっていた。バスで鍾乳洞に行った。そして、佐伯に帰った。失敗談が父母へのおみやげになった。
○昭和51年4月21日(水)雨。
あちこち挨拶して回った。河内の○木家に行くと、いとこの二人がヨ一ロッパに1年ちょっと行って帰ってきたところで、英語ペラペラになっていた、二人が早口で英語でスラスラ言うのを聞いて、自分は一体大学で何をしてきたのかと思い、自己嫌悪に陥った。
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○昭和51年4月11日(日)曇。
よく眠り、さほど上がることなく二日目を無事終えた。何人もが、秋頑張るぞと言っていた(充分に国試の試験勉強をしてない人が多かったが、秋もあったので、落ちても気が楽だった。自分の場合、公衆衛生学が一番出来なかった。国民衛生の動向の本をちゃんとしてなくて受けてしまった。国試の夢は、見たことみないが、大学入試の夢は、以前よりも回数は明らかに少なくなってはいるが、今でも見る)。熊本駅で、大学入試のことが書かれている週刊誌を三冊買って読んだ。今は、自分が受けた時よりも医学部に入るのが難しくなっている様だ。自分の場合、数学がたまたま例年と違って難しくて(それで、他人と差をつけることが出来て)合格したに過ぎない。入学すれば、皆同じ。後は、自分の努力次第なのに。
修猷学館のこともバッチリ載っていた。その内容とは、修猷館の卒業生(修猷学館にいる修猷館卒の浪人生)までも、修猷館の現役の先生が親身になって面倒を見ているといった批判めいた内容である(当時、修猷館だけでなく、福岡県の有名な県立の進学高校の多くが、そんな感じでの予備校を持っていた。今は、ないのでは?)。しかし、私が知る限りでは、事実は全く反対で、父兄からもっと授業時間数を増やして補習ももっとして、ビシビシ鍛えて欲しいとの要望が強いのである。しかし、それを伝統的に頑固として受け入れない素晴らしい高校、それが修猷館なのである。その為か、修猷館卒の人は、実に豪快で、明るく、人なつっこく、それでいて、個性的な人が多い。
B問題 9時30分~11時40分(1~100)
1~20 小児科
21~40 精神科
41~80 外 科
81~100 整形外科
C問題 13時00分~16時00分(1~60)
1~25 内 科
26~40 外 科
41~50 産婦人科
51~60 小児科
○昭和51年4月12日(月)曇。
帰って答え合わせをした。B問題の73~100の28問中に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。Cの臨床問題では、1~40の内科・外科の問題に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。つまり、全部の内容を知っていないと、正解が選べないということになる(そんな選び方をさせている問題なんて、何か合格率を落とす為になっているとも思える?)。小児科の問題は、30問中、私は7つ間違えていた。(どんなに厳しく採点しても、65%以上、70%近く取っていた)
○昭和51年4月13日(火)雨。
学校に行って、矢野・佐野・本山・太田・植松君などに、国家試験の為の本や問題集をあげた。
○昭和51年4月14日(水)雨。
今日、○が東京に出発するとのことで、○岡○と一緒に見送りに行こうと思っていたら、○は飛行機で既に朝早く飛び立っていた。
○昭和51年4月15日(木)晴。
この日、鹿児島を巣立った。その前に、下の家主のおばさんと話した。僕の「為になるかも知れない本」を読んでくれていて、「苦労されてるんですねえ、受験の所を読んで涙が出ましたわあ」と言ってくれた。ス一パ一マ一ケットのコロッケ売り場のおばさん(よく、ここでコロッケを買っていた)とも少し話した。結婚をもうすぐすると言ったら、「いつ、どこで、どんな人と、どんな風にして・・・」と聞いてきて、ビックリしていた。
再び鹿児島に来るのはいつの日か。素晴らしき鹿児島での6カ年間の大学生活。全く悔いなく過ごせた、自信を持ってそう言える。鹿児島よ、そして、お世話になった多くの人、ありがとう、さようなら。(この日、宮崎へ移動する)
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○専門4年、(昭和51年)3月20日(土)晴。
結納があった。父・母・次兄が来て、長井宅であった。私の父は、上機嫌だった。その後、鶴丸という料亭に行った。恵(けい)ちゃんのお父さんもお母さんも泣き、自分の母も泣いていた。自分をここまで苦労して育ててくれた両親と向こうの両親に、著作「為になるかも知れない本」を差し上げた。
○専門4年、3月24日(水)曇。
鼻血が出た。規則正しい生活をすることが一番大切だ。夜10時に寝て、朝6時に起きることにした。○○○大学の模擬試験をもらった。私大って、受験勉強、バッチリとこんな感じでしてきているのだろうなあ。その点、特に自分の大学、伸び伸びしていて(し過ぎて)、自分にとっては、かえって良かったかな。国家試験なんて、合格しさえすればいいのだ。6割以上取っておけば、落ちることはないだろう。
○専門4年、3月28日(日)晴。
国家試験は、資格試験、自分との闘いだ(今考えれば、実際は、多少、気まぐれ厚生省との闘いでもあったが)。多分受かるとは思うが。俺って、苦しい時には、直ぐに書く癖がある。書いて安心するみたいだ。こんな時、否応なしにかっての大学受験の時が思い出される。詩人ヘルウッヒは言う、「不幸そのものには多くの益はないが、それには三人の健気な子どもを持つ、その名を、「力」「忍耐」「同情」と呼ぶ」と。
○昭和51年4月8日(水)晴。
午後2時12分の西鹿児島発の汽車で熊本に行った。○○○○○部員で同じ部屋をとった。○○がすごく本を持ってきていた。○○も、○○も、本で重たそうだった。自分は、まとめたファイル二冊だけを持って行った。○夏、○原と一緒の宿になった。
○昭和51年4月9日(金)晴。
夕べは、自分だけのんびりしたが(6割さえ取れれば、絶対に合格するんだと自分に言い聞かせながら)、残り5人が行く時も、必死になって勉強していた。熊本国立病院で受験票をもらった。受験場(熊大教養部)も見学して、一人熊大の周りをうろついて、それから水前寺公園に行き、宿まで歩いて帰り、ベンザリンを夕方7時30分に飲んで8時過ぎには、床についてグッスリと寝た。徹夜(同然)で勉強している同じ部屋の三人の声で、深夜に1回ほど目を覚ましたが。(今しても、せっかく記憶したのが壊れてしまって、かえって良くないと言うと、まだ、頭に何も入れていないので、入れる段階と言う。何せ、卒業試験は、論文式が大半で、それに反して、国家試験は、全て○×式。卒業試験から国試まで、ちょっとの期間しかなかったので、卒業試験で難儀していた人は、国家試験の勉強どころではなかった。)
○昭和51年4月10日(土)晴。
旅館にまで、変な情報が来て、「一番初めの解答は、eだ」と言ってくる。国試に関しては、東大が一番必死になって頑張っているとの情報があった。その東大からの情報にのっとって、午前中、勉強した。嘘の情報が試験前に氾濫し、それに振り回されている人もいた。午後の本番では、時間の使い方がまずく、最後に書き直したのもだいぶあった(問題用紙を持って帰れた)。どう実際に解答して出したのか、ちゃんと書いておくべきだった。○夏、○原と答え合わせをして、7割は取れていた様なので、一応、ホッとした。しかし、出来る問題も、かなり落としていた。
A問題 14時15分~16時25分(1~100)
1~30 産婦人科
31~80 内 科
81~100 公衆衛生
内科の第1問
31、成人のジギトキシンの維持量は、通常どれか。(解答はd)
a 100mg/日 b 10mg/日 c 1mg/日 d o.1mg/日 e 0.01mg/日
内科の一番最後の問題
80、次のうち誤っているのはどれか。(解答は、e)
(1)食道裂孔ヘルニアは旁裂孔型(paraesophageal type)よりも滑出型(sliding type)が多い。
(2)漠状胃の原因は鼓腸より胃体上部潰瘍の瘢痕によるものが多い。
(3)胃憩室の発生部位は噴門部よりも胃体部大弯側が多い。
a(1)のみ b(2)のみ c(1),(3)のみ d(2),(3)のみ、e上記a~d以外
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休憩室
その16、
私の失敗談・・・「目を開けて下さい」 患者さん「先生、目を開けています」 肥満のうら若き目の細い女性であった。悪いことしたなあ。
その17、
結核の人は、血痰が初症状であると予後がいい。いろいろその理由を調べた結果・・・血を見て患者さんはびっくりし、それ以来、極力安静に努めるからだそうな。
その18、
乳ガンの5年生存率が、欧米人に比べて日本人はいい。どうしてか、いろいろ研究した結果、・・・日本人は、オッパイが小さいので、早期発見がし易い為とのこと。
その19、
某教授曰く、「癌になった時、ちゃんと言ってあげた方がいい。どうしてかというと、その人が生きている内にしておかなければいけないことがあるから」と。その教授が癌になったので、弟子は先生の教えの通りに、忠実に、「先生ガンです!」と言ってしまった。先生、それから急に容体が悪くなって、死ぬ前に言ったそうな、「癌と言っては、いけない場合もあるよ」と。
その20、
ある(九大の名誉)教授が癌であることを弟子は最後まで言わなかった。で、教授が亡くなってわかった。先生、自分が癌であるのを知っていたが、弟子が心配するといけないので、知らない振りをしていたとのこと。
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休憩室
その11、
専門3年生のポリクリ(5人で1グル一プになって、全ての臨床の科を研修して行く)では、患者さんに接する。
○○君、「わからんなあ、何かなあ、こまったなあ」と小さな声で言いながら、首をひねりながらの問診。
○○君、「ええっと、これは、聞いたと、・・・最近のどがかわくことはありませんか?」「ない」「・・・ええっとこれも聞いたと、・・・最近やせてきたことはありませんか?」「ない」「・・・まだ質問で落としていることはないかなあ・・・、できものができやすいと思ったことはありませんか?・・・」一つ一つ念を押して首を一回一回そりかえしながらの問診である。
○○君、「実はですねえ、僕も今もそうですが、よく頭が痛くなることが多くて、・・・。家は、佐多岬、そうですか、あそこには、僕も行ったことがあるんですけど、いい所ですねえ・・・」と、患者さんと一体となっての問診である。
○○君、「油っこいものを食べるとお腹が痛くなる感じがしませんか?」「別に」「そうですか、そんなことないはずですが、よく考えて下さいよ・・・」と、確信を持っての問診である。
その12、ある薬剤部長の話。
いろんな人がいますねえ。座薬を飲み薬と間違って飲んでしまう人が時にいます。「よく振って飲ませて下さい」と言って水薬を渡すと、幼児をゆすって飲ませる母親がいる。信じられない感じですが。又、カプセルを開けて飲む人がいるので、「開けないで、飲んで下さい」と言うと、あの硬い入れ物ごと飲んで、「先生、うんこと一緒になって出て来ました」と言う。痛くはなかったですかねえ、あんな硬いのを。我々が想像できない様なことが起きるんですよ。
その13、ある歯科口腔外科医の話。
「3、3、3」と言う言葉がある。1日3回、食後3分以内に、少なくとも、3分間、歯を磨くことだが、これを看護学校の試験に出したら、面白いのがあった。・・・・・・・「週3回、3時間待って、3分診療」
その14、
専門1年(医学部3年)での解剖学の第一日目の骨学の講義の前に、借用書を書いた。骨の借用書を(骨学で自分が実習する骨の)。・・・助教授曰く、「もしもなくしたら、諸君のものをもらいます」と。
講義の時のジョ一クは、毎年、同じ所で同じ内容が繰り返されているとか?!又、学生の間でも、上の学年から下の学年へ、試験問題だけでなく、いろんな申し送りがあり、時に、スライドの内容までもが。
細菌学の講義で、上の学年の場合、最後のスライドが一枚足りなかった。で、教官へ、ある学生から、「先生、一枚、忘れていませんか?」との鋭い指摘があった。で、教官も要望に応じて、昨年度と違って、今回は(私達の学年の講義では)、しっかりと、最後にその一枚のスライドを入れていた。
そのスライド、その先生が外国で研究していた時に、手伝ってもらっていた女性の研究員のビキニ姿の写真で、それも、金髪でスラッとしたスタイルの超美人で、学生の眠気も完全に吹っ飛んでしまう様な貴重な一枚でした。
その15、
整形外科のポリクリの時、大学病院に来た患者さんが、骨のレントゲン写真を指して、・・・
「先生、ここの所がちょっとおかしいんじゃないんですか?」と言う。我々医者の卵一同、「患者さんも、あちこち医者をまわってると、実力がついてるなあ・・・」と。
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休憩室
その6、肺癌に付いての総合講義で、いかにタバコと肺ガンが緊密な関係にあるかを○○学の助教授が説明した。その直後の休憩時間に何とその助教授がタバコをスパスパと吸っているではないか!学生が、「先生、肺ガンに・・・」と言うと、助教授曰く、「もう、あきらめとる。もしも、肺ガンになったとしても、タバコの場合は、予後のいい扁平上皮癌が多くて、早期に発見してもらえば助かるんじゃ」と。この肺癌の5年生存率、内科の先生の話では、内科中心に治療したのが一番良くて、外科の先生の話では、外科的に、放射線科の先生の話では、放射線科的に治療したのが、治療成績が一番良いとの話であった。一体、どうなっているのだろうか?
その7、大学病院の泌尿器科で、インジゴカルミンを注射した後に、膀胱鏡で見ようとしている医師に、「先生、既往歴として、Lues(梅毒)とGono(淋病)があります。」と私が言うと、「エッ!」と大声で言って真っ青になり、急いで手を洗っている。外科の手洗いの実習の時以上に何回も。看護師さんも。最近、ペニシリン耐性の性病、多いもんね。
その8、医学部では、すごい統計にお目にかかる。2例中1例そうだったので、50%とか、3例中1例そうだったので、33.3%とか言う。では、1例そうであれば、100%で、そうでなければ0%ですか?
その9、学校に行く途中、見ると向こうから来るのは○君でないか。いつもはもっと遅いのに、今日はいやに早く学校に行ったなあ、休講かなと思って、「休講?」と聞くと、「馬鹿言え、ネコ捕りよ、朝からさがしよるけどどこにもおらんもんね。おったと思うたら首輪がついとるもんね」と言う。生理学の実験で、ネコを使って脳の働きを調べる頃になると南日本新聞のスミに、「ネコがいなくなりました。色は、・・・」と載る。宮崎まで行って、4匹も捕ってきた人がいた。1匹2.000円で第2生理学教室が買ってくれる。1匹で実験で失敗すると、あとは自分で捕りに行くしかない。エ一テルの麻酔のかけ過ぎで失敗してしまうのだが、30分間もネコに人工呼吸をして、助かった学生(!)もいた。
その10、細菌学実験の時、ひどい下痢をした人がいた。この時、実習で使っていた脹チフス菌や赤痢菌が原因だろうと思って、細菌学教室で調べたところ、実習に使った病原体ではなく、天文館(飲食街がたくさんある)辺りの病原体とのこと。
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休憩室
その1、大学の先生というのは、ホントにいろんな人がいる。特に医学部では、群を抜いている様に思える。スイッチの入っていないマイクを持ってベルが鳴るまで喋った教授もいた。この先生、とても熱心な先生で、熱中すると、自分の話すこと以外は、何も目に入らなくなる。又、別の先生で、社会の窓が開いたまま、気が付かないで講義が終わった先生もいた。それに付いて学生も何も言わないから、又、面白い。
その2、○○学の実験中、シャ一レ一の底が上になっているのに先生は酢酸をどんどん入れる。当然、机一面にこぼれて行く。とうとう私は先生の自尊心を傷つけることを言ってしまった。「先生、こぼれています!」と。その後、その先生の網膜の活動電位の有無を疑った。医学部転移前の実験室は暗く、おまけに先生は学生時代、猛勉強した為にど近眼。この2つのファクタ一がたまたま重なった結果でしょう。
その3、基礎医学のある教授曰く、「私が○○学に入ったのは、結核して体が丈夫でなかったので。ここなら休養できるだろうと思って入りました。入って、まず、○○学は、何をする所ですかと聞いてみた。何も知らないで入ったもんですから。ドクタ一(博士号)を取るのに、昔ノミの○ン○マを研究して取った人がいるというのを聞いて馬鹿な奴がいるなあと思っていたら、私がそれをすることになりまして。蚊の研究をしていた頃、毎日試験管の中のボウフラを見ていて、一句できました。・・・ボウフラや、大きくなるまで、浮き沈み・・・。この科、ある時、近々教授が外国に行く予定と言う噂が立った(それで、単位が簡単にもらえるのではないかと、学生達は、期待した)。で、出された問題は、何と、「自問自答せよ」であった。
その4、ある精神科の医師曰く、「初めの一年間、自分が正常かどうかということで非常に悩んだよ」と。
その5、ある外科医曰く、「内科はどうでもいいような事をあれやこれやと何時間もディスカッションしよる。我々に言わせるとどうでもいい。朝来て昨日の患者さんが生きとるか死んどるかを聞いて、生きとったとすると、そりゃあ良かったとホッとする」と。
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○専門4年、3月11日(木)曇。
加地先生(カゼ博士)のカゼの講義を聴いた。とても立派な先生だ。いつもニコニコされて、頭が実に低い。「為になるかも知れない本」を(二学年下の)太田君(外科医、現在、大学教授)が読んで、「田原さんに会いたかった」と言ってくれた。生物の岡本先生も、面白い本だと母に言ってくれたとのこと。嬉しい。(お世話になった人、20名余に、差し上げた。手書きしたのを、生協で、コピ一して)
○専門4年、3月18日(木)曇。
卒業式があった。学長が、「ゆとりが大切、自分を見失わないこと、広い視野に立つこと」などを力説していた。医学部の総代は、○岡(同じアパ一トに住んでいて、隣の部屋にいた)で、次が、2点差で、いつも親しくしていた○だったとのこと。
○岡○(現役、大分県立舞鶴高校出身)
彼は、スゴイ秀才であり、努力家でもあった。自分と同じ佐伯の出身で、中学の時は、断トツ県南で一番で、高校に行っても、英数国の三科目で、二番との差が30点近くあったとのこと。専門書は、全て英語でそれもぶ厚い本で(彼に言わせると、日本語の本は嘘を書いている気がして、読む気がしないとのこと)、明日試験と言う時でも、ぶ厚い英語の本を読んでいて、その本では、1ペ一ジ1ペ一ジが丹念に線が彼により最後まで引かれ、それがノ一トにきれいに英語で整理してまとめられていた。専門4年になって、自分の隣に引っ越して来た。私が朝3時過ぎに起きて勉強を始めようとする時、彼はそれまで勉強していることがよくあった。ポリクリでは、教授が考えられる疾患を言ってみたまえと言おうものなら、教授の知らない病名がいつも2~3あった。国試後、皆で答え合わせをしてた時、国試の問題で、適切な解答がない感じの問題があった。○岡に、皆は、聞いた、「○岡、どれにマルした?」で、彼は、言った、「選択枝に正解なかったので、その問題には、どれにもマルしなかった」と。これには、皆、脱帽。
(彼は、その後、就職先も、私の勤務していた救急病院に就職し、今は、そこの副院長をしている。今でも、彼は、その地方の病院に就職してから、そこで英語の論文を50以上書き、その9割が外国雑誌に採用され、又、洋書の心電図の教科書の引用に、彼の名前がしばしば見出される。私の父の主治医でもあったし、今は、私の母の主治医でもある。)
○○佐男(現役、鹿児島県立鶴丸高校出身)
彼ほどユニ一クな人間を今だかって私は知らない。高校の時は、「暗記の○」とまで言われていた程、その暗記力は有名で、英語の辞書の単語を全て覚えていたとのことで、私の家内も、高校の時に、そんな人が卒業生の中にいたことを知っていた。教養部の時には、親からの仕送りはなく、奨学金と家庭教師で生活し、反対に、お年玉を親にあげていた。生理学実習の時に、彼の脳波を調べた時に、きれいな徐波が出て、皆が納得。暗記のスゴサは、自他共に認めるところで、専門4年の初めに受けたECFMGの試験では、全国2番で、国試も9割以上取っていた(国試が終わって、自己採点の結果を、科別にハガキで私の所まで、わざわざ知らせてきた)。産婦人科の問題を上の学年と一緒にした時に、上の学年の1番よりも出来ていて、産婦人科の教授が絶賛した程。病気に付いて教官が質問すると、その病気の歴史(初めに報告したのは誰かとか)から話し出し、臨床講義の時、多くの人はビックリを通り過ぎて、「又、始まったか」とその超人的な暗記に、ため息をついていた。入学した時、「金儲けの為に医学部に入った」と言って皆から笑われたが、6カ年後、価値観は一変し、一時、医療制度を変えると言って、金とは無縁の厚生省の役人になったが、今は、産婦人科医となって、関東の方で活躍している。
(○は、よく、私に言っていた、「覚えることは、自分にとっては楽しい。俺は、暗記の○だから」と。又、恋愛感に付いては、「恋愛は恋愛で楽しんで、結婚は結婚で別の人とするなんか、俺には出来ない」と。家で覚える時の様子を、隣の部屋にいた同級生は、次の様に言っていた、「○は、深夜、覚える時、じっと動かない感じで、時々、ペ一ジをめくる音がするだけで、自分とは全く別の世界で全てを覚え切っている感じに思える」と。)
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○専門4年、1月31日(土)晴。
卒業試験と言っても、何か試験らしくないなあ。自分でも信じられないくらいに落ち着いている。余裕があるのかなあ。とても快調だ。
○専門4年、2月2日(月)晴。
頑張れ五つ子、無事に育ってくれると本当にいい。鹿児島市立病院のスタッフ、池ノ上先生(現在、宮崎医科大学産婦人科教授)も帰られて、素晴らしいスタッフだ。どんな所にいても、実力があることが一番大切だ。
○専門4年、2月18日(水)曇。
午前中は、南嶋先生のウイルス学各論の講義を聴いた。午後は、城山観光ホテルでの循環器の偉い先生方の講演を聴いた。最後は、外国の人で、英語で話された。
○専門4年、2月25日(水)晴。
前田先生の甲状腺の講義を聴いた。午後、(宮崎県から来た)福田先生のリケッチァと食中毒の講義を聴いた。大分県にも、野口病院の甲状腺、調先生の耳鼻科は、有名だ。
○専門4年、2月26日(木)曇。
加地博士のカゼの講義を聴いた。とても為になった。カゼって、医者も本当はどう治していいのか知らないのだなあ。こんなにありふれた病気なのに。医学って、あまりにも範囲が広くてちゃんと全てをやっていくのは、不可能だ。医者になったからには、一生勉強しないといけない。医者は、一生学徒だなあ。
○専門4年、2月28日(土)雨。
耳鼻科と泌尿器科の発表があって、万歳、卒業できた。長い試験だったなあ。(卒試は、自分の場合、追試は、一度も受けなかった。10名余が、一度で全てパスしていて、落ちた人は、追試で、その後も国試前で、大変だった様だ)
○専門4年、2月29日(日)曇。
国試に関係ない科目の追試を受けていると思って、「為になるかも知れない本」をフルスピ一ドで書いている(27日の泌尿器科の試験が終わってから、直ぐに書き始めた)。自分の歩んできた道は、まさに、個性アル生き方である。思い出すと、感慨無量となる。今が問題意識が一番高い。時は今、今でないといい文章が書けない気がするので、1週間前後で、一気に書くことにした。
○専門4年、3月7日(日)曇。
午後5時10分に、76ペ一ジからなる自分の著書「為になるかも知れない本」が出来た。最高に嬉しい。以下は、その中の終わりの一部分。
この本は、あくまでも、"為になるかも知れない本"であって、今からのあなたに少しでもプラスになることがあれば幸いだと思って書いたものです。何分、未熟も未熟もいいとこなので、今後、ご指導賜ることが出来れば幸いに存じます。
なお、校正に携わっていただいた長井恵子嬢には、心から深く感謝申し上げます。10年後、"絶対為になる本"が書けることを夢見て・・・。
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